2007/7/31

待ち人、来たらず  
つい先ほど、渡辺氏からコメントが寄せられた。忙しいなあ、もう〜ってな感じである。

おっしゃることはまったくそのとおりであって、何ら反論の余地はない。
ただし、少しばかり言い訳を書いておくと、ようするに創価学会員の中には本尊を道具扱いにする人がいる。あの戸田会長すら幸福製造機と言っている。もちろんこれは譬喩であるから、それを弁えていればいいのであるが、しかし、戸田会長ほどの人物がまったく根拠のないことを言うとは思えない。強いて御書の中からそれを選び出すとしたら、諫暁八幡抄の例の御文あたりが相当するだろうか・・・というような文脈で書いたつもりだったのである。
つまりは与の義であって、奪の義としてはおっしゃるとおりである。まさか大聖人のあらわされた御本尊に対し奉って、そんな恐れ多いことなど誰もできはしないだろう。


さて、今日のタイトルの意味であるが、昨日の沖浦氏のコメントに、お待ちしている、と書かれていたので、それを受けてのことである。

はっきり言って、待たれても困るのである。当ブログがなぜ独白をうたっているかといえば、そうしたやりとりが煩わしいからに他ならない。
掲示板などを見ていると、同じ主張の繰り返しで一向に議論が進展しないような場面をよく目にすることがある。わたくしはそれを時間のムダだと思う。もちろんそれが楽しくて生き甲斐にしている人がいれば、それはそれでけっこうである。だが、わたくしはそこまでヒマじゃない。
少しでもいいから前進したい。それがわたくしの常の心掛けである。

沖浦氏が当ブログにコメントを寄せられるようになったのは、七月一日が最初だったと思う。おそらくは今日もまたコメントを下さることだろう。皆勤賞である。
しかも投稿数が半端じゃない。わたくしは一日に一回しか投稿しない。どんなにヒマでもそれ以上は書かないことにしている。ところが沖浦氏は何回でも何十回でも投稿してくる。その情熱には脱帽する。
コメント欄では丁々発止のやりとりも見られたが、今では沖浦氏のパワーに押されて、誰も寄りつかなくなってしまったようである。

さて、いちおう以下は沖浦氏の過去のコメントを題材に書かせてもらうが、いつまでもそこに滞留しているつもりはないので、そこのところを了解願いたい。

 子供はね、親を超えてこそ一人前でしょう。
 もし、子供が親より身長で一ミリ小さいきまりなら、人類は今頃跡形もなく消滅していますよ。


これは逆もまた真であって、子供が親より一ミリずつ大きくなっていったら、そのうち人類は恐竜になってしまうだろう。
戦後の日本では体格が飛躍的に向上したという。しかし、このままずっと伸び続けていくことはないそうである。専門家ではないので詳しいことは知らないが、遺伝学的には親の形質を受け継ぐ以上、それほど極端にデカくなることはないらしい。ある程度のレベルで止まる。もし、そうでなければ、遺伝子に異変が生じていることになるそうである。
これはスポーツの世界でも同様であって、記録はいつか頭打ちになる。まさか百メートルを一秒で走れるようになるとは思えない。

減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつゞまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。

減劫御書の冒頭である。この概念がわたくしにはよくわからないのであるが、どうやら潮の満ち退きのごとく増減を繰り返しているらしい。ゆえにゼロになることはないのだろう。その幅を具体的な数値であらわすとどうなるものか、ご存知の方がいれば教えてほしいところである。
アバウトな言い方をすれば、これは一種のユラギのようなものであって、ある意味ではきわめて自然、これこそが自然界の実相なのであろう。

本と申すは仏性、末と申すは未顕の仏、九界の名なり。究竟等と申すは妙覚究竟の如来と、理即の凡夫なる我等と差別なきを究竟等とも、平等大慧の法華経とも申すなり。始めの三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が能生の子なり。

子なれども親にまさる事多し。重華はかたくなはしき父を敬ひて賢人の名を得たり。沛公は帝王と成りて後も其の父を拝す。其の敬はれたる父をば全く王といはず、敬ひし子をば王と仰ぐが如し。其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出だし給へり。凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず。委しき義を知らざる人、毘盧の頂上をふむなんど悪口す、大なる僻事なり。


一念三千法門である。大事なことがいっぱい詰まっているので、まるまる一段を掲載しようと思ったが、さすがに長過ぎるので上掲の二文にとどめた。

子なれども親にまさる事多し・・・

これだけ拝すると、沖浦氏の主張の根拠となりそうだが、ここでの子は仏のことなのである。そして親というのがわれわれなのである。ここが難しいところなのだ。

なお、わたくしは何も沖浦氏の主張を否定するために引用したわけではなく、御書の拝し方というのはなかなか難しいものだと言いたいのである。その気になれば正反対の意味の御指南だって、いくらでも見つけ出すことができる。ようはそれらをどのように整理するかなのだ。

2007/7/30

ダグロン  
まず、渡辺氏には懇切なるご教示をたまわった。

それから沖浦氏であるが、こちらは相変わらずといったところか・・・

どうしようもないくらいの駄愚論

沖浦氏の痛快さは、相手を選ばす、だれかれ構わず、歯に衣着せぬ物言いをするところである。

こちらとしても気分爽快だ。

しかし、おそらくは沖浦氏の主張こそがダグロンであり、根拠薄弱なヒトリヨガリの己義であろうと思う。なぜならば、ここのところのコメントを拝見していると、御書や経文などの引用がまったくなく、いったい何を根拠にそのように言うのか、それがまったく見えてこないからである。

拙ブログは文字どおり拙文であり、駄文である。それは否定しない。

だが、しかし、投稿数はすでに膨大であり、中にはそれなりに参考になる文章も含まれているのだ。

http://diary.jp.aol.com/ganko/416.html

リンク先の文章でわたくしは、煩瑣を避けるために御書の引用を省略した。けれども内容的には、御書の裏付けが取れている話ばかりである。

さて、沖浦氏の場合はどうか?

今後のコメントにおいては、必ず御書をお示しになられることを期待したい。


普通なら、今日あたりは選挙の話題を書くべきところであるが、わたくしは別にそれほど書きたいこともないのである。
昔であれば、負けというのはすなわち死を意味したのだ。
ところが今の時代は負けても命を取られるわけではないので、いくらでも挽回のチャンスがある。

これは法論も同じかもしれない。

2007/7/29

派生団体  
http://diary.jp.aol.com/ganko/451.html#comment

渡辺氏より、法体と修行の混乱、というご指摘をたまわった。しかしながら、愚鈍のわたくしには、よく理解できない。
別の話になるが、かつて浅井先生は御書講義において、法体の肝心は寿量品、修行の肝心は不軽品、と言っていたことがある。釈尊の出世の本懐は人の振る舞い・・・云々の講義だった。

沖浦氏より、お返事をたまわった。

http://diary.jp.aol.com/ganko/817.html#comment

まず、日達上人の追善供養に関しては、さすがは沖浦氏であると思う。なかなか並の創価学会員にはマネのできることではないだろう。ただし、あたかも戸田会長の墓参のついでみたいな感じがするので、これはケシカランことだと言いたい・・・・が、しかし、そこまで言ったらキリがないのでやめておこう。

ちなみに浅井先生によれば、御歴代上人へは追善供養ではなくて報恩謝徳が正しいのだそうである。ゆえに、大石寺蔵版の観念文にある三師供養はおかしいとして、顕正会版では御報恩と書いてある。
しかし、いわゆる如在の礼という意味では、まさしく大聖人以下歴代上人に御供養申し上げる精神をあらわしているわけだから、それほどおかしくはないだろう。
この辺のことは、法華講員のほうから何かしらのご教示があるかもしれないので、それを期待したいと思う。

 貴方は大聖人様の仏法に無知です。
 特に御本尊様の事にはさっぱり理解がありませんね。

 馬鹿馬鹿しいですね、何故オシマイなのですか?

 顕正会は日蓮正宗の下部組織なんですか?


沖浦氏のコメントから、一部を引用させていただいた。

わたくしが無知であって、とりわけ御本尊についてはまるで理解できていない、というのは確かにそうなのかもしれないが、しかし、はっきり言えることが一つだけある。すなわち、顕正会は日蓮正宗の下部組織である、ゆえにオシマイだということなのである。
いや、もちろん日蓮正宗側に言わせれば、顕正会はすでに破門になっているので宗門とは無関係である、ということになる。それはわたくしだって、承知しているつもりである。
ところがである。日蓮宗の関係者の中には、顕正会のみならず創価学会すらも同じ日蓮正宗系統として、ひと括りに見ている人もいるのである。
つまり、しょせんは派生団体であり、この歴史的事実は動かしようがない、ということなのだ。

ゆえに、これらの諸団体には必ず大石寺回帰願望がある、なければおかしい、とわたくしは思っている。おそらく沖浦氏はいつまで経っても納得しないだろうが、わたくしはわたくしでこの結論を変更するつもりはまったくないのである。

よって、この問題はいくら議論しても時間のムダであろう。

2007/7/28

話題が尽きない不思議なブログ  
沖浦氏は以下のコメント欄において、日達上人の御事をあれこれと書いているが、これらは根本的に間違っていると言わざるを得ないであろう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/815.html#comment
http://diary.jp.aol.com/ganko/451.html#comment

聞くところによると、沖浦氏は日達上人書写の御本尊を自宅に安置しているという。これこそ自家撞着の見本である。
しかし、このように書くと、おそらくは持論であるところの、アホウが書写しようと御本尊の力に変わりはない、などと返答してくることだろう。だから法華講員からツッコミが入るのだ。先般の法論で樋田氏が指摘していることはけっして間違っていない。御本尊ヒラヒラ事件などというのは、論点のスリカエであって、別次元の問題である。ゆえに沖浦氏の側に矛盾の存することは、一向に解消されていない。
わたくしの思うに、沖浦氏ほどの唯我独尊はおらない。だったら誰にも気兼ねせず、大石寺の歴代上人を讃嘆すべきである。創価学会員から睨まれちゃうからできないというのならば、まだ修行が足りないのであろう。
生意気を言うようであるが、わたくしは常々、歴代上人はいずれも御高徳にあらざるはなし、と申し上げてきた。別にマネをしてほしいわけではないが、少しは考えてみたらどうかと思う。

さて、他にもいろいろコメントが寄せられているが、その中でも渡辺氏のいう本末転倒がもっとも重要と思われるので、それについて書いておきたい。

本尊疑惑については、四月に書いている。

http://diary.jp.aol.com/ganko/702.html

逆に言うと、わたくしは当ブログにおいて、およそ二年間沈黙を守ってきたのだった。
御本尊に関することは最重要事項である。ゆえに安直なことは書けない。よほどの事情がない限り、わたくしはずっと避けて通るつもりだった。
ところが、もはや諸般の事情がそれを許さなかった。

そういうわけで、すでに解禁というか、当ブログではけっしてこの問題をタブー視しているわけではなく、新たな情報があればその都度書き留めて行きたいと思っている。しかし、現時点ではバスタータイムズがやった隠し撮り以来、それほど衝撃的な出来事がないので、話題にしていないだけのことである。

ああ、そうそう、ニシケン氏のことがあった。これは大事件である。しかし、現在進行形のことでもあるので、しばらく静観している意味もあった。実際は他にもいろいろな話題が重なって、とりわけ沖浦氏が当ブログに登場するようになってからは頭が混乱してしまって、それで忘れていたという面もある。

ともかく何が重要であるかは、わかっているつもりである。ゆえに沖浦・樋田法論にも関心を懐いたわけであって、ある意味では顕正会が今後この本尊問題にどのように取り組んでいくか、それと大いに関係してくる話題でもあったのだ。

まあ、しかし、ネタは大小さまざま、バラエティに富んでいたほうが面白いだろう。本当はもっと斬新なことをやりたいのだが、いかんせん才能がないものだから、結局は同じネタを使いまわしているのが実情なのである。

2007/7/27

眠れない夜  
深夜に如月氏からコメントがあった。その内容が気になって、眠れなくなってしまった。

その前に、わだっち氏と沖浦氏のコメントがあるけれども、これは何となく漫才の掛け合いみたいで面白い。
それから山門氏の見解では、今度の幹部大会の三万結集は苦しいとのことである。わたくしは、余裕はないだろうがさりとて苦しいほどのこともないだろう、と思っている。もし、苦しいというのが本当ならば、顕正会はいよいよ衰退期に入ったということになるだろう。しかし、この辺の解釈は微妙なところである。

さて、如月氏のコメントであるが・・・
最初は何を言っているのかわからなかったのだが、どうやら関西大会での芙蓉楽団の演目についてのようである。実はこれをわたくしは、つい先ほど初めて視聴した。つまり、如月氏のコメントを読むまでは、まったく知らなかったのだ。

なるほど、面白いところに気がつくものである。

ようするに、合唱団が歌っている英語の歌詞に、神を意味する言葉があるというのだ。いわゆるゴッドであるが、まさか顕正会がそんなバカなことをするわけがない、と直感的に思った。それで庶民の王者同様に、何度も巻き戻して聴いてみた。結論は、ちゃんと聴き取れないので断言できないが、どうやらゴッドの部分だけ別の言葉に入れ替えているように感じられるのである。もし、英語に堪能の方がおられれば、どのように言っているのか教えてほしいと思う。あるいは合唱団のメンバーならば、いちばんよくわかっていることだろう、そちらからの情報が寄せられればひじょうに助かる。

いずれにしても、これでは如月氏の質問に半分しか答えたことにならないが、沖浦流に言えば、それは本部にお聞き下さい、ということになる。とりあえずは、これでご勘弁願いたい。
しかし、ひじょうに面白いテーマなので、いずれはまとまったものを書いてみたいと思う。

ちなみに英語の歌のもう一つのほうは、サイモン&ガーファンクルの最大のヒット曲である。おそらく若い人はあまり知らないだろうが、この二人はいわゆるフォークデュオの先駆的存在であり、日本のミュージシャンも多かれ少なかれ彼らの影響を受けている。また本国アメリカでは、ビートルズを凌ぐほどの人気を誇ったそうである。

またしても知ったかぶりを書いてしまった。

ここ数日は、顕正新聞第1074号を取り上げているが、今日は寝不足なので、一つだけ書いて終わりにしたい。

・・・自身も先生の弟子としてあと十有余年、「懈怠の弟子、ゆるき弟子」には断じてならじとの決意を今一重固めたものであります。

あと十有余年・・・

またしても出現した。しかも同じ人物が書いているのである。すばらしいではないか。わたくしはこの人が好きだ。神々しいものを感じる。

しかし、編集長は当然これをチェックしているはずだし、渡辺氏によれば浅井先生も検閲(?)を怠らないという。この辺がよくわからんところだ。

2007/7/26

編集長更迭人事  
各方面からコメントが寄せられていて、収拾がつかなくなっている。まず、日々更に決意氏であるが、どうもこの人はあちこちでダジャレをかましまくっている様子である。まるでそれが己れの使命であるかのように・・・
出不精とデブ症・・・確かに関連がないわけではなく、わたくしも運動不足を自覚しているが、まあ、これはまた別の機会にでも書くことにしよう。

水無月氏の指摘はまさにそのとおりであるが、こればかりはどうにもならない。ヘタするとこのまま衰退していく可能性すらある。それが現在の顕正会なのだと思う。ゆえに男子三万はおろか、数年後には全体で三万を集めることすら困難な状況になるかもしれない。いや、これはもちろん、最悪の場合のことであるが・・・

渡辺氏はかつて本部職員だった。その意味からして、氏のコメントが正鵠を射たものであることを疑うものではないが、あるいは今と昔では違っている部分もあるかもしれないと思う。
ようするに、先生は人に任せられない性格であるから、顕正新聞にしても全部自分でチェックしないと気が済まない、しかし、昔はそうだったが今は違うかもしれない・・・と思うのである。なぜかというと、理由は簡単である。
面倒臭いから・・・である。わたくしの人生経験からすると、何事においても途中で面倒臭くなって怠けてしまうことがよくあるものだから、他の人だって同じじゃないか、浅井先生もずいぶん長いこと「先生」をやっているものだから、相当にくたびれてきているのではないか、それを耄碌といえばそうなのだろうが、ともかく今はあまり熱心に原稿のチェックをせずに、編集長に任せてしまっているのではないか・・・そういう可能性もあながちには否定できないと思うのである。
いずれにしても誤植などというものは、体制をちゃんと整えてあればそれなりに防げることだと思う。まさか誤植を指摘すると謹慎処分になってしまうとか、そんなバカな話はないだろう。もし誤りに気がついても指摘しない、指摘できない、こんな程度のことでも遠慮して言えない、それが実情であったならば、それこそ末期症状であろう。
一つ言えることは、編集長がひじょうに優秀で、他のスタッフが信頼し切っているケースである。この場合、チェックが甘くなる。まさか編集長が間違いを犯すわけがない・・・このように誰もが思い込んでしまっていると、逆に悪い結果を招くことがあるのだ。
むしろ編集長は頼りにならない、いつもどこかしら間違いがある、くらいに思われているほうがうまく行くこともある。それが世の中の面白いところでもあろう。

そもそもこのとき細井管長が池田の誑惑を摧き貫首の責務を全うしていれば、「国立戒壇」の放棄も、あの大謗法のニセ貫首・阿部日顕を象徴とする、今日の正系門家の濁乱も、起こり得なかったのであります。

法華講員からクレームが来るかもしれないが、ともかくこれは顕正新聞第1074号に載っている文章である。
もはや末期症状、毒食らわば皿までといった状況である。
もちろん、これを書いた人物のことだ。

やや煩瑣であるが、少し前の拙稿を紹介しておこう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/804.html

わたくしはこの中で、日達上人と日顕上人との扱いに差がある、と書いた。浅井先生は日達上人には甘く、日顕上人には辛いのである。当然ながら幹部連中は先生と同一歩調であるから、その後に行なわれた各部の班長会では、細井管長という表記がたくさん見られる。今のところ日達上人の呼び捨てはあまり定着していない、というよりは従来の細井管長という呼び方が許されているとするべきだろう。逆に日顕上人に対しては、もやは阿部管長という呼び方をしてはマズイような雰囲気になってしまっている。これは憎悪以外のナニモノでもない。

ところで、上掲の引用文をよく読んでみると、おかしなことに気づくはずである。

つまり、文脈上からして明らかに、日達上人のほうが罪が重い、という主張を展開しているのである。それにもかかわらず、日達上人は今もなお細井管長であり、かたや日顕上人は阿部日顕なのである。こんなオカシナこともないであろう。まさに憎悪である。

思えば、日興上人が「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」とご遺誡せられたのも、日目上人が垂井の雪中に身命を抛たれたのも、日寛上人が三大秘法を説き明かして下さったのも、先生が命かけて御遺命を守られたのも、すべては大聖人様の御本願たる国立戒壇建立のためであれば、(以下略)

ツッコミどころ満載・・・

一点だけ指摘しておこう。
日興上人・日目上人・日寛上人・浅井先生・・・これはマズイだろう。こんな並べ方をしてはいけない。

わたくしが編集長だったらボツにするところだ。

2007/7/25

レベル低下の事例  
種々のコメントをたまわっているが、今日のところは顕正新聞第1074号から話題を拾うので、ご挨拶は抜きとさせていただきたい。

部長・副部長合同会議

顕正新聞の第一面下段に、上掲のごとき大見出しが躍っている。おそらくこの名称での会議は初めてだろう。新聞には会議中の写真が掲載されていて、そこには出席者全員が写っている。これが現在の顕正会における最高幹部の面々である。

参加資格は班長以上であるが、たとえ組長であっても、班長と同じ信心、同じ決意に立っている人ならば、参加してよい。現在、顕正会の班長総数は一万二千人。私は信心つよき組長もこれに加わり、会場収容能力限界の三万人の記念幹部大会を開催したいと思っている。

これは合同会議における会長発言である。ようするに今度の記念幹部大会は原則班長以上であるが、組長であっても信心強きものは参加してよいとの方針である。
茶寮掲示板などの情報によれば、組織によってはそれでも結集がままならないので、実質的には無制限とし、いわゆる未入信結集すら行なわれるとも言われている。ところが山門氏のように、行きたいけどダメだという組織もある。この辺の実態はよくわからないが、今のところわたくしには声が掛かってこない。もっとも声を掛けてもムダであるが・・・

顕正会の実勢についてはこれまでにもいろいろと書いてきた。ある時は四万から六万くらいであろうと書いた。山門氏みたいな人がいることを考えれば、ほぼ妥当な数字と考えられるだろう。では、なぜに五万人の大総会をやらないのかと言えば、一つには班長総数とのバランスであろう。現在、一万二千人という、これが二万人を超えるくらいにならないと、ちょっと厳しいのだと思う。ただ単に人を集めても、それが烏合の衆であっては意味がないからである。人数が多くなればなるほど、統制が困難になってくる。その意味からしても、幹部大会が無難なのである。

さて、今回の顕正新聞には重大なミスプリントがある。立正安国論の奥書に、太歳甲子の御文字がある。それがなんと顕正新聞の表記では太歳申子になっているのだ。これは重大な誤植である。こんな調子では御書の刊行など永遠にできない。

そもそも干支がどうして使われていたかといえば、当時は武家側と公家側で二つの元号が存在し、また地震等の災厄が起きるとわずか二・三年で元号が変わるなどの事情から、元号では正確を期し難く、そこで六十年周期の干支を併用していたのであった。

これは冨士二百九十九号に載る文章であるが、なんと当時の男子部幹事が執筆したものなのである。もし、この人が今も在籍していて、しかも顕正新聞の編集に携わっていれば、絶対にこんなミスはしなかっただろう。
先の部長・副部長会議を思うべし。男子部幹事の立場ではここには出席できないのである。しかるに当時の幹事のほうがよほど勉強熱心であり、遥かにレベルが高かった。これを思えば、現今の顕正会の最高幹部がいかにだらしがないか、よくわかるというものだ。

甲子を「きのえね」ないし「こうし」と打ち込めば、絶対に申子などの誤変換はあり得ない。いったいどんな編集をしているのか、編集長に聞いてみたいものである。

2007/7/24

ニクタラシイ人物  
今朝方、沖浦氏から少し不公平であるとの苦情が寄せられたので、今日はバランスを取って沖浦父子を讃嘆する内容を書こうと思ったのだが、たった今、蟷螂の斧がどうたらこうたらいうコメントが入ってきたので、やめることにした。

沖浦氏は強い。憎たらしいほどの強さである。ゆえにわたくしごときが氏を持ち上げる必要はまったくなく、むしろ逆にもっと扱き下ろさないとバランスが取れないのではないかと思う。何しろ打たれ強いのである。おそらくはわたくしの書くことなど、何の痛痒も感じないことだろう。

わたくしは元来が法華講贔屓である。ゆえに不公平と言われれば、まさにそのとおりであろう。しかし、これでちょうどバランスが取れているに違いない。

焼肉のお誘いをたまわった。ひじょうに魅力的なお誘いである。
ある人物は、誘われたら断わらない、というのが座右の銘なのだそうである。わたくしはどちらかというと、誘われても行かないタイプであり、それが定着してきて近年は誰からも誘いが来なくなってしまったくらいなのである。この独白ブログというスタイルと、わたくしの実生活はけっこうリンクしているのだ。

沖浦氏にはぜひともお会いしてみたいけれども、現在のところは諸般の事情を鑑みて、遠慮させていただくことにする。

本件は、自分が焼肉にされたら困るから・・・くらいの冗談で締め括っておきたい。

今日は予定稿(?)がボツになってしまったので、これでオシマイにする。

2007/7/23

第三極からのメッセージ  
まず、れん氏には資料のご紹介をたまわったわけであるが、毎度のことながらズボラなわたくしがそれを読むことは、優曇華くらいの確率しかないと思う。何しろネット上に掲示されている資料すら、面倒臭そうなのは読まないのだから、いわんや・・・である。できれば、ご自分の言葉に変換して語って下さったほうがありがたいのであるが、それはムシのよ過ぎる話であろうか?

さて、沖浦・樋田法論のその後を見ていると、いよいよ泥仕合の様相を呈してきたように感じられる。で、再戦の話が持ち上がっているけれども、どうも樋田氏のほうが乗り気ではない、一説によると法論禁止命令が出ているとも言われている。
しかし、禁止命令が本当だとすると、その理由は何であろうか?
どうも創価学会員はその現象だけを見て、勝手に憶測を飛ばしているような感じがしないでもないのである。

いちおう昨夜、樋田氏のほうから前向きな反応が示されたので、創価学会員はそれを真摯に受け止めるべきであろう。

更に、”次回の法論”とかいうものの”条件”の交渉が済んでもいないのに、日程を決める必要など全くない。

ようするにこれは、条件が整えば法論するにやぶさかではない、という意味に他ならない。むしろ現時点では、沖浦氏のほうが勝手に話を進めてしまっているキライがあるわけで、相手の都合をよく確かめもせずに日取りまで決めてしまわんとする早まりようなのである。まずは条件をちゃんと決める必要があるわけで、樋田氏はパソコンとその他の資料の持ち込みを要求しているのだから、これを呑むのか否か、ここから煮詰めないといけないはずである。これまた沖浦氏は勝手に御書とメモ一枚に限定しようとしている。もちろん樋田氏がそれでよしとすれば、ほぼ条件は整ったことになるだろう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/659.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/669.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/670.html

おヒマな人は上記の三つをご覧になられるといいだろう。これは先般の法論が始まる以前の交渉段階について、書き留めたものである。わたくしは案外に口が固い(?)ので、これ以降は法論が実現するまで、まったく何も語っていない。それは文中に書いてあるとおりである。

で、何を言いたいかというと、前回の法論における条件交渉は明らかに沖浦氏がゴネている。御書の使用範囲をあそこまで絞っては、やりたくないと言っているのに等しいだろう。それでも樋田氏は、一旦はそれを呑んで、過酷な条件下での法論を覚悟したのである。その後、両者はわたくしのブログを読んだのかどうかそれは知らないが、御書の使用範囲としてはそこそこ妥当な線で合意に達することとなった。
これをもってこれを思うに、もし再戦を行なうのであれば、まずは条件をしっかりと煮詰めないといけない。ところが沖浦氏はある意味、予防線を張っているのではないか、とも見えるわけである。一見すると、やる気満々のように思われるけれども、実は先手を打って御書とメモ一枚でなきゃやらないと言っている・・・そういう見方もできると思う。

もちろん、それで樋田氏がやると言えば話は早いのであるが、わたくしはそれはないと思う。ともかく前回は御真蹟御書だけでやるという無理難題を一旦は受けたのである。なおかつ今回もまた、一方的に相手の条件を呑んでまでして、はたして法論をする価値があるのかどうか、そこを考えれば自ずと答えは出てくることだろう。

もし、法論禁止命令に確信があるならば、今こそ全国の創価学会員は蜂起すべきであろう。
パソコン? ええ、けっこうですよ、資料も好きなだけご用意なさい、やりましょう、樋田さん。
また、別して沖浦氏には注文しておきたい。むしろ次回も相手にはパソコンだの資料の山だのを用意させて、こちらは丸腰で望めばいいではないか? それで相手をコッパミジンにできれば、完全勝利と言えるだろう。情けないとは誰も言うまい。

なお、何もわたくしは両者をあおっているわけではなくて、あまりにも要領を得ないものだから、整理の意味で書かせていただいたまでである。

2007/7/22

御書談義  
今回の音楽談義はひじょうに得るものが大きかった。如月氏のコメントを読んで、音楽の奥深さを思い知った。自分も時間があれば、もっと勉強してみたいと思った。また、氏がどのような方面の仕事をされているのか、ひじょうに興味津々に思った。

沖浦氏はいつものごとく、最終的には日蓮正宗を扱き下ろす文章になっているところが相変わらずであり、そういう無理が祟ってのことだろうか、わけのわからない部分があちこちあった。

 アナログの仏法だから、柔軟なんですよ。
 だから大衆的、民主的なんですね。


一体全体、アナログが大衆的であり民主的というは、どのような理屈なのか、それが見えてこない。ゆえにそれ以降の文章は、わたくしにはよくわからない文章である。

だが、スゴイことを書いているのも事実である。

 無段階ですよ。
 音だけじゃないです、世の中全てアナログです。
 自然界も細かく細かく突き詰めると、アナログです。
 クオークすらアナログなんですね。
 依正不二 ですね。


クオークというのがわたくしにはわからないのであるが、しかし、この一段そのものはひじょうに鋭いと思う。おそらくは撰時抄の次の御文に相当するのではあるまいか?

已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ、十方界の仏法の露一●も漏らさず、妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ。・・・其の上、止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につゞめたり。

わたくしは三千に縮めるという御表現に注目すべきだと思っている。
われわれ初心者は十界論を習う。しかし、現実の世の中はもっと複雑である。おそらく十界は便宜的に十段階にしてあるだけであって、本質的には無段階なのであろう。一念三千にしても同様で、さらに細分化しようと思えばそれこそキリがなくなる。そうすると最終的には無段階にならざるを得ない。しかし、それでは捉えどころがなくなる、文字どおりの雲をつかむ話になってしまう。
ゆえに三千につづめたということなのだろう。

時に富士川氏からは質問が寄せられている。

わたくしは大聖人の御父君を漁師であると書いた。その根拠は何か・・・

・・・確かに指摘されてみると、あれ? という感じである。
われわれはどこかで誰かに教わったことを、根拠もなしにそのまま信じ込んでしまうという面がある。改めて考えてみると、大聖人の御父君のことはよくわからない。大聖人御自身がそれほど多くを語っていらっしゃらないからである。

然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり。

おそらく本尊問答抄の上掲御文に海人が子とあるので、それがそのまま漁師の子の意味かと思われるが、それにしても富士川氏がこれを見落としているとは考えにくいので、あるいは別の意味なのかもしれない。そうすると大聖人を漁師の子であるとする根拠は見当たらないことになるだろうか?

現代においては御書もまた、デジタル化されつつある。いわゆるテキストデータのことである。
沖浦氏に話を戻して、氏の強みはまさにアナログであるところの御書を心肝に染めている・・・それが自信につながっているわけであろう。これは大いに見習わないといけない点である。
今は検索すれば容易に御文を拾い出すことができる。しかし、これに頼り過ぎると、御書が心肝に染まらなくなる危険があるのだ。

ゆえにわたくしは、時間のある時はできる限り御書を拝読するように心掛けている。また、人が引用する御文などにも、けっこう注目している。

其の上雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ。

先日、渡辺氏が引用しているのを拝見するまで、わたくしは種々物御消息の当該御文をすっかり忘れていた。法義上の小難しい用語が使われていない、こうした御文こそ、もっとも感動的である。

さらにオマケを書いておこう。

癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。

これは報恩抄の最初のほうに見られる御文である。
過日の法論ではこれを樋田氏が平易な言葉で説明していた。沖浦氏のように御文をそらんずることができることも大事であるが、それを現代語で平たく話せる技術も重要である。

※撰時抄に文字化けする部分があったので、●にしてある。平成新編ではサンズイに帝と書いて、一●(いってい)と読ませている。全集では「しずく」とルビがあるので、一●(ひとしずく)と読むのだろう。


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