2007/7/11

大総会をしない理由  
引き続き大量のコメントが寄せられているけれども、こちらとしても仕事が溜まっているので、それを優先させていただきたいと思う。

今日は同じく顕正新聞第1072号からであるが、まず最初はやや顕正会の擁護的な内容になるだろう、だが後半は実態を暴露する内容である。

また先輩より本部会館の元旦勤行に誘われ、「大宮、遠いなあ」と思いましたが、車で連れて行ってくれ、本部会館の御本尊様に初めてお値いできたときは、その素晴らしさに感激でいっぱいとなりました。

昨日の九十歳女子部員の文章である。
この人は横浜に住んでいる。大宮が近いか遠いかは人それぞれ感じ方が違うだろうし、おそらくは普段の行動範囲も影響するだろう、もし海外旅行にでも行くような人であれば、大宮などは目と鼻の先に違いないのだ。しかし、九十歳の感覚としては、遠いと感じるのが順当なところかもしれない。
すでに昨日、カラオケや温泉に行くという話を書いた。カラオケなどは機材があれば家でも出来るし、横浜あたりではカラオケが楽しめる店がそこらじゅうにあることだろう。おそらく温泉というのも、今流行の日帰り温泉だろうと想像する。これまた横浜近郊に、いろいろあるに違いない。
そういうわけで、彼女が遠いと感じるのは何ら不自然ではなく、はたして今度の長野での記念幹部会に参加するかどうかは微妙なところである。ちなみに彼女は現在、女子部組長であり、折伏も二名決めているから実質的には班長格と言えるだろう、参加資格はじゅうぶんあるはずだ。

わたくしは過日、五万人の大総会をやらないのは、それだけの結集能力がないからである、という意味のことを書いた。

しかし、これはもしかしたら、じゃっかんの誤解があるかもしれない、と思うに至った。

どういうことかと言うと、大総会ともなれば全員参加が目標となる。すると九十歳であろうと、百歳であろうと、あるいはそれ以上であろうと、参加することになる。現在はすでに活動から遠ざかっているような高齢会員でも、もしかしたら普段の活動はとてもじゃないが出来ないけれども、せめて大総会には参加したい、せめてそれくらいのお役には立ちたい、という気持ちでいるかもしれないのである。腐っても妙信講員、いざ鎌倉の精神の人もいるに違いないのである。
ともかく全員参加ともなれば、結集に躍起になる活動会員がいったいどんな人間を連れてくるか、わかったものではない。万一のことを考えると、遠隔地から高齢者を多数参加させることは危険である。また、それとはまったく別の意味で、危険な人物を多数集結させてしまうことにもなりかねない。

浅井先生が大総会を口にしなくなったのは、こうしたさまざまのリスクを勘案してのことであろう。不測の事態だけは回避しなければならない。そしてこれは、男子精鋭の結集に力を注いでいることともツジツマが合っているので、当たらずとも遠からずだと思う。

さて、話は後半に入る。

地方大会などでは、その地域だけでは員数が揃わないので、他の地域からも多くの人間が駆り出されている、などとネット上で言われている。これはすでに多くの証言がネット上に出回っていて、ほぼ確実のことだと思われるが、いかんせんネット上の情報は信用に値しないと言って切り捨てるのが顕正会の常套手段なので、なかなか実態の解明が進まないという現実がある。

ところが今回の顕正新聞には、重要な証言が載っている。
なんと幹部会員自らが実態を克明に書いているのだ。

 去る五月十二日に開催された東北大会の感動と興奮はいまだ醒めやらず、その感激はビデオを通してさらに深まりました。
 当初は石川県から岩手の会場まで片道十二時間の道程に、常の地元での会合と同人数が参加するのは難しいと思っておりましたが、一人ひとりが「人生に一度の大会」と肚を決め、さまざまな障碍を乗り越えての真心の参加が叶いました。


石川県の位置を地図で確認されたい。この調子では、四国大会とか九州大会にも、駆り出されそうである。当然ながら本州であれば、どこであろうと行くことになるだろう。

2007/7/10

九十歳女子部員の体験発表  
タテ線とは人脈によるつながりで成り立ち、たとえば紹介者のAさんが「東京支部」に属していればAさんが折伏した新入信者は仮に北海道に住んでいても九州に住んでいても「東京支部」の所属になります。
草創期の創価学会がこのスタイルでした。


顕正会はずっとこのスタイルですね。

(中略)

つまり、全部、創価学会のマネです(笑)。

水無月氏にご解説をたまわった。全部がマネってことはないだろうが、確かにマネをしている部分が少なくないことは事実である。もちろん、バリバリの顕正会幹部であれば、根本的に違う、創価学会と一緒にされてたまるか、などと言いそうなところではあるが・・・

他にも重要なコメントがたくさん寄せられているが、話が散漫になるといけないので、失礼ながら割愛させていただく。

顕正新聞第1072号には、九十歳になる女子部員の体験発表が載っていて、その文中には先輩という言葉が何度か出てくる。例えば次のごとくだ。

子供のいない私にとって、二人の先輩が娘のようで、一緒にあちこち御奉公に行くのが楽しいです。

この女子部の先輩たちがいったい何歳くらいであるかは不明であるが、原理的には十五歳の可能性もある。十五歳の先輩が九十歳の後輩を引き連れて、折伏などをしている図を想像するのも悪くない。
ともかく、これもタテ線の一形態ということになるだろう。もし同一地域に同年輩の人たちが顕正会員として活躍していれば、そこに編入させるほうが無理がないはずである。しかし、まだそこまで組織が充実していないものだから、それができないのである。
こうした組織の実態を見るにつけ、まだまだ創価学会の実力には遥かに及ばないことがわかると思う。

孫が祖父・祖母などを折伏するケースもあるけれども、今回の場合は本人が家の前で掃き掃除をしていたところ、女子部員がやってきて諫暁書を手渡され、それをキッカケに入信するに至ったというものらしい。
特に女子・婦人の系統では諫暁書の手渡し配布が熱心に行なわれている。これの利点は、相手が素直に受け取った場合、後日感想を聞きに行くという形で折伏できることである。つまり、諫暁書を渡した時点でいきなり折伏するわけではないので、トラブルになりにくいのだ。これはまた、ゲームセンターで親しくなってゲームの攻略法などの話題で相手を欺くようなことはないので、ひじょうに理想的である。何しろ諫暁書を見せれば、それがいわば名刺代わりになるからである。しかも浅井先生に折伏していただく、という意味も兼ねているので、もっとも正攻法の折伏ということになるだろう。

またいつも会合に出たあとは、誰にでも感激を語りたくなり、止めることができません。

折伏に回わっていると生命力が増し、背筋も伸び、気がつくと走っていることもあるほどです。

今では顔のシワも減り、髪の毛も増え、「会うたびに若くなりますね」と声をかけられます。

以前、精神的高揚感について書いた。

http://diary.jp.aol.com/ganko/766.html

まさに、これである。まるでわたくしのブログを意識して、こういう記事を載せたのではないかと勘繰りたくなるほどであるが、ともかくこの人は今でもカラオケや温泉などに行くらしいので、ひじょうに元気なのだろう。そもそもこの体験発表にしても、女子部の集会で登壇したものなのだろうから、これまた元気な証拠である。

しかし、転んでケガをするといけないので、むやみに走らないように気をつけたい。

2007/7/9

顕正新聞ウォッチャーの仕事  
久しぶりに顕正新聞からネタを拾うことにする。当ブログの仕事の一つに、顕正新聞の内容にチェックを入れることがあげられる。いや、仕事といってもこれで収入を得られるわけではないのだが、今となってはきわめて重要な作業だと言えると思う。後から顕正新聞の山をひっくり返して必要な記事をさがしたりするのは面倒なことなので、毎号出来するたびに気のついたことをブログに書いておけば、それなりに有用なデータベースとなることだろう。

第1072号には興味深い記事がたくさんある。

まず第一面に日曜勤行の指導が出ている。ここに戒壇の大御本尊の願主についての記述がある。だが、恐れ多いことなので、内容には触れないことにする。

裏面には、めずらしい企画が出ていた。月刊総合誌の記事を、そっくりそのまま転載しているのである。しかも最近はうるさい人が多いからだろうか、わざわざ先方の了解を得て転載するむねの断りを入れてあるのだ。
しかし、この転載はどうもタイムリーではないような、ちょっと過剰反応過ぎる面を露呈しているような、そういう感じがしないでもないのである。どういう内容かというと、鹿児島県警による自白強要事件についてなのであるが、ようするに顕正会では昨年から今年にかけて三件・七人の逮捕者が出た、これらはすべて不当逮捕である、しかも取り調べでは執拗に自白の強要を行なった、ケシカランではないか・・・ということを言いたいがために、たまたま総合月刊誌に出ていた記事を利用しているわけである。
顕正会での逮捕者は埼玉県・神奈川県である。ゆえに鹿児島県は直接的には関係ない。むしろその意味では、埼玉・神奈川の両県警にこそ罰の現証があるべきだろう。それが鹿児島に飛び火してしまっているのだから、両火房も真っ青である。ゆえに、わたくしには何となく八つ当たりのようにも感じられるし、ピントがズレているようにも思うのである。
まあ、しかし、顕正会員はわたくしを含めて、月刊総合誌など滅多に読むことはないだろうから、こういう企画は視野を広げる意味で価値があるだろう。今後も編集部には、いろいろと斬新な企画を打ち出されるよう、期待したいと思う。

九十歳の女子部員と大学四年生の婦人部員

太字にしてあるが、これは引用でもなんでもない。通常、わたくしは引用文を太字にしている。これはもともと御書の引用において、拙文と御書との差別化を明確にする意味があった。申すまでもなく御書が上位概念であって、拙文などはゴミみたいなものである。御書と拙文を並列的に表記することはまことに恐れ多い。ゆえに現在の引用スタイルを採用しているのである。

いやいや、話がズレてしまった。上掲はわたくしが勝手に作った文章であるが、あまりにもコントラストが鮮明なので、思わず強調したくなってしまったのだ。

いまや顕正会の組織は男女の区別こそあるものの、男子部と壮年部、女子部と婦人部、それぞれの基準がはっきりしなくなっている。男子・壮年の場合は四十歳くらいがいちおう境目になっていると思われるが、それより若い壮年部員もいるし、逆に相当の高齢者にもかかわらず男子部員の場合もある。女子・婦人の場合はおおむね未婚・既婚がその目安になるはずであるが、現在は必ずしもその通りにはなっていない。その極端な例が上掲のごとくなのである。
くだんの大学四年生は記事を読む限り独身者である。年齢もまだ二十代前半のはずである。なのに婦人部員である。
九十歳の人はもちろん性別は女性なのだろうが、しかし、女子部員というのはどうなんだろうか・・・ともかく、この記事は面白いので、明日また書くことにしよう。

いずれしても、これはタテ線ゆえの現象であろう。

タテ線? おそらく若い顕正会員は、というよりも多くの顕正会員には馴染みのない言葉であろう。わたくしもよく知っているわけではないが、あるいは水無月氏あたりが解説して下さるかもしれないので、それを期待したい。

2007/7/8

開眼再考  
妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。

法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄・蹲鴟一駄送り給び候ひ畢んぬ。

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候ひ畢んぬ。

開眼については昨日で終わりのつもりだったが、そういうわけにも行かなくなってしまった。富士川一郎の仏教掲示板において、お暇庵氏が上掲三つの御書を根拠に、御本尊の開眼に関して書いておられるからである。
ようするに、ここでの供養はいわゆる開眼供養の意味に他ならない、というのが氏の主張の骨子である。
確かに言われてみれば、そのような気がしないでもない。
だが、しかし、わたくしとてこの御書を知らなかったわけではないし、これまでにも繰り返し拝読してきたのである。それにもかかわらず、これを開眼供養のことであるとは気がつかなかった。わたくしは単に、御本尊を頂戴したことへの返礼みたいな意味ではないか、と思っていた。そして今もなお、にわかには開眼供養のことであるとは信じがたい、というのが正直なところなのである。

いろいろ考えをめぐらせているけれども、さしあたってはこれ以上の言及を避けたいと思う。直接的には創価学会員こそが反論を述べるべきである。しばらくはヤジウマ根性で彼らの反応を待つことにしたい。

ところで、富士川氏の投稿からは、大いに学ぶべきものがあった。

日女御前御返事に「すりかたぎ」という言葉が出てくる。これには漢字ルビが振ってあって、摺形木と書かれている。氏はこの意味について説明しておられるわけであるが、それがひじょうに懇切であり、愚鈍のわたくしにもおおよそは理解できた。

摺形木というのは印刷の意味である。だが当該御文の意味するところはいわゆる御形木御本尊のことではない。では何を意味しているのか?
文意としては、久遠元初自受用報身如来の一身の相貌をあたかも印刷したかのようにそっくりそのままあらわしている、それが大聖人の御直筆御本尊である、という意味であろう。
わたくしはいくつかの御文を想起した。

三世の諸仏の説法の儀式皆同じきが故なり

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり

雖脱在現具騰本種

いわゆるキーワード検索ではなく、わたくしの脳内検索なので、三つの御文には何の脈絡もない。雰囲気で読み取っていただければ、ありがたいと思う。

ところで、日興上人の富士一跡門徒存知事には形木という言葉が出てくるが、ここでは形木本尊を禁止している意味だと解釈する人と、いや、不信の者に授与することを禁止しているのだ、という人とで意見がまっぷたつに分かれている。

唐突ながら、わたくしは思った・・・
上記、開眼のこと、あるいは摺形木のこと、これらを考え合わせると、もしかしたら日興上人はここにおいて開眼の意味を含意せられているかもしれない、ということである。
不信者に授与するのは論外であるが、形木そのものは法義上さしたる不都合はないはずである。おそらくは機械的に大量生産することが、往いては不信者への軽々しい授与に通ずる意味において問題視されることはあっても、そこに厳格な規定を設けるならば形木そのものが問題になることはないに違いない。ここに一つには制度上の問題として、法主の専権事項とするべきゆえんが垣間見えるし、さらには開眼の必要性が文の奥底に秘められているようにも思えてくるのである。

もちろんこれは論証などと言えるレベルのものではなく、ほとんど思い込みで書いてしまっていることは、自分でも承知しているつもりである。

2007/7/7

開眼論、総括  
相変わらずコメント欄が賑わっていて、新顔もいくつか見られるようであるが、いつものごとく挨拶は抜きにさせていただきたい。それが独白ブログのゆえんでもあるのだ。

このところの一連の話題はとりあえず、終わりにしようかと思っている。
もともとは、過日の法論を題材にあれこれ書いていたわけだが、しょせんは観客の一人に過ぎない、それがわたくしの立場である。そこに法論の当事者である沖浦氏がいらして、わざわざコメントされたということは、あるいは拙ブログも多少の影響力を持っているのかもしれない、だとしたら嬉しいことである、ブログを続けてきた甲斐があった、という気分にもなるところである。
しかし、わたくしは今もなお顕正会員の立場であり、必ずしも法華講側の代弁者ではない。たまたま意見が一致しているだけであって、何もハナっから法華講の肩を持っているわけではないのだ。ゆえに部分的には沖浦氏の意見にも頷くところがある。
しかし、現状ではすでに本来の議論から逸脱して、いったい何をやっているのか、わけがわからなくなっている。その意味では、どっちもどっちであって、お互いのレベルの程を露呈し合っているだけのように見える。こういうのを泥仕合というのだろうか?
わたくしが掲示板には書き込まず独白に徹しているのは、こうした煩わしさを回避する意味があった。ところがいつの間にか、その独白ブログのコメント欄が掲示板化してしまった。なんとも皮肉な話である。
ただし、わたくしはこれまでも、そしてこれからも、コメント欄には介入しないつもりである。ゆえに、それぞれがそれぞれの良識にしたがって、自由にされればよいと思う。さらに矛盾を承知で言えば、独白ブログにおける他者との唯一の接点、それがコメント欄・・・そうそう、トラックバックもあるけど、ほとんど機能していないので、コメント欄がほぼ唯一ということになるだろう。そういうことで種々のコメントから大いに学ばせてもらっているのも事実である。

開眼の要不要については、なかなか決定打が出てこない。
すでに最初の頃に書いたように、これは開眼を必要だと主張する側だけでなく、不要とする側にも同等程度の証明義務があると思う。何しろ創価学会は独立教団だというのだから、それならば自前の教義を用意しないといけない、日蓮正宗の教義に依存してはいけないのである。
その意味で開眼のことを考えると、大聖人の御書には御本尊の開眼ついて書かれていない、だから不要である、と言うのでは論拠として弱いだろう。逆にもっと積極的に、御書にはこれこれこのように説かれている、だから不要である、という論の立て方をしないといけないと思う。
いちおう法華講側は、御書を引用して開眼の必要を説明している。はたしてそれが正当かどうかは別の問題として、ともかく積極的な姿勢がうかがえることは間違いない。

これもすでに触れたことだが、余教も法華経も詮無し・・・これを日蓮正宗では種脱相対の重要な文証としているわけで、あえて表現すれば法華経不要論とも言えるかもしれない。また四信五品抄には、戒定の二法を制止するとの御指南があって、戒定慧の内では慧だけでよい、さらには慧の代わりに信があればそれでよい、とまで仰せられるのである。これまた三学不要論とも言い得るかもしれない。
つまり、開眼不要論を唱えるのであれば、これらと同等程度の御指南を見つける必要があるのではないか、単に御書にないというだけでは説得力に欠けるのではないか、と思うのである。

論点の整理もせずに、ああだこうだ言っても時間のムダであろう。

2007/7/6

御允可について  
日興上人の佐渡国法華講衆御返事に、

「この法門は師弟子をたたして仏になり候。師弟子たにも違い候へは同じ法華をたもちまいらせて候へとも無間地獄におち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が聖人の御時も候しあひた、本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子はそれをその弟子なりといはせんするためにて候。案の如く聖人の御後も末の弟子共か、これは聖人の直の御弟子と申す輩が多く候。これか大謗法にて候也」

とあります。

この日興上人の御指南は宗祖が自ら定められた本弟子六人以外は宗祖は“直弟子”としてお認めになられなかったこと、また、本弟子六人を飛び越えて宗祖の直弟子と自称することが謗法であること、またこれが重要なのですが、本弟子の末流の師弟以外の師弟が“同じ法華”を受持しても成仏不可であること示されています。
ですから、本弟子の末流との師弟相対の信心を否定した今流行の現在の創価の師弟・顕正会の師弟は、日興上人が示された無間地獄に堕ちる師弟の内に入りますから、幾ら数や勢力を誇るとも成仏は叶わないことになります。

「智者学匠の身となりても地獄に堕ちて何の詮か有るべきや」

との御書の一節を沈思すべきでしょう。



まことに勝手ながら、れん氏の文章に適宜改行等を加えて、再掲させていただいた。

日興上人の御手紙からは、佐渡の国において、さまざまの謀略が渦巻いていたことがうかがえると思う。遠隔地ゆえの、さまざまのタバカリがあったのだろう。その中でも、とりわけ大聖人の弟子を騙るものが多くいたことが、御文によくあらわれている。さしずめ、今日的に表現すれば、オレオレ詐欺といったところか?

オレは大聖人から直々に御指南を受けているのだ。だからオレの言うことが正しい。●●房なんてのは、オレから見ればハナタレ小僧みたいなものだ。だからヤツの言うことなんか聞いちゃイカン。オレの言うことを聞け・・・

もちろん、それが事実ならばそれに従うべきであろうが、本当かどうかは確かめようがない。遠隔地ゆえに、すぐに確認が取れるわけではないので、そうしたタバカリが通用してしまっていたのだろう。まったくケシカラン話である。

上掲、日興上人の御指南を拝すると、すでに大聖人の御在世においても同様の謀略があったことが記されている。さらに言うならば、大聖人が佐渡にいらした時点で、謀略があった。いわゆる虚御教書事件である。
この場合は大聖人の弟子を騙るわけではないが、しかし、大聖人が佐渡を離れられた直後くらいから、早くも弟子を騙るものがあらわれたと考えて間違いないだろう。何しろ虚御教書まで作るくらいである。その延長線上に、門下の壊滅を目論む離反工作があったとして、少しもおかしくはない。

こうして見ると、一谷入道女房御書の末文には、きわめて重要な意味が含まれていることがわかる。

又日蓮が弟子をなのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず。

ここでの判が具体的にはどのような意味に相当するか、それはわからない。しかし、日興上人が御手紙に、無間地獄に堕ちる、とまで仰せになるほどに、師弟子の関係は重要なのである。
また、これを本尊書写の問題に応用すれば、法義上における開眼の要不要はしばらくおくにしても、制度上において本尊書写を法主一人の権能とすることは、きわめて合理的な考え方ではないかと思う。

2007/7/5

独白ブログの崩壊  
昨日から今朝にかけて大量のコメントを頂戴した。

http://diary.jp.aol.com/ganko/793.html#comment

水無月氏のおっしゃるごとくコメント機能を停止してこそ真実の独白であることはよくわかる。けれども、わたくし自身は当面このままで行こうと思っている。

すでに沖浦氏が登場した時点で、こうなる可能性は予測できたことであるし、もし回避するつもりならば最初から氏の話題には触れなければよかっただけのことである。わたくしは元来、沖浦ファンであり、氏の活躍には常に注目している。ただし、正直に書くと、全部の文章を熟読しているわけではない。なぜなら、言っていることがいつも同じだから、読む必要がないのである。ようはワンパターンなのだ。
この辺が氏の強みでもあり、あるいはボケの初期症状なのかもしれないと思う。すでに還暦老人でもあれば、今後その症状がどのように進展するかも注目すべき点であり、楽しみでもある。
考えてみると、大抵の人はネット上において年齢不詳である。年齢ばかりでなく、あらゆる点で不詳なのである。ところが沖浦氏はほぼすべてが公開されているようなものなのだ。
ゆえに今後、七十になっても八十になっても、オキウラ節が健在であれば、それはそれで素晴らしいことであり、高齢社会における一つの成功例として大いに称賛されて然るべきと思う。

何しろ昨日だけでも膨大な投稿数である。それが当ブログのコメント欄にとどまらず、そこらじゅうの掲示板に出まくっているのである。しかもそれは今に始まったことではなく、もう何年も前から続いていることなのだ。むしろその意味では、たまたま当ブログにも顔を出すようになっただけの話であり、氏にとっては大した負担ではないのである。

こんな還暦老人もめずらしいが、この集中力こそがシニアアスリートとして名を馳せているゆえんでもあるのだろう。

ところで常与師倶生氏の見通しは、顕正会員のわたくしには違和感をおぼえた。

つい先ほど与太朗氏からコメントがあったが、どちらかといえばこちらのほうが本筋のような気がするのである。
かつては顕正寺があった。けれどもそれを消滅させてしまった。いわゆる塔婆不要論や戒名不要論が打ち出されたのは、まさにこの時期なのである。
いまや顕正会の本尊疑惑は深刻をきわめており、もしかしたら顕正会側で起死回生の手段を講ずるのではないか、との見方も出てきている。ようするに今のまま座して死を待つのではなく、思い切って独自の本尊印刷を表明してしまうという手である。沈黙しているよりは、このほうがスッキリするだろう。しかし、もしこれを実行すれば、もはや引き返すことはできない。ひじょうに怖いところである。
いずれにしても、独自に本尊を印刷するとなれば、そのための理論づけが必要になってくる。塔婆や戒名の先例をもってすれば、成り行きとしては開眼不要論を唱える可能性が甚大であろう。

生意気を言うようであるが、わたくしの独白はこうした顕正会の動きに歯止めをかける意味がある。しかし、ヘソマガリの浅井先生のことだから、これを読んでかえって暴走してしまう可能性もある。そうなったら、それまでのことだ。

なお、常与師倶生氏の見解はある意味、顕正会のあるべき姿・・・理想像を示していると言えるだろう。

他にもいろいろ書かないといけないのだろうが、頭の中がグチャグチャなので、今日は終わりにしたい。

2007/7/4

オキウラ節、炸裂  
御本尊は道具である・・・

これは沖浦氏特有の誇張表現とも言うべきもので、あまり深入りすると話がややこしくなるだけなので、わたくしは軽く受け流しておきたいと思う。

昨日は久間防衛相辞任の電撃的な報道があった。これは安倍政権にとって相当のダメージであり、今夏の参院選がどうなるか、もはや自民党の大苦戦は誰もが予想するところとなっている。
何しろ少し前には農水相の痛ましい出来事があったし、それ以前にも「女性は子供を産む機械」などと発言して大顰蹙を買った大臣もいた。

あれ? これは沖浦氏の話と似ているではないか?

わたくし個人としては、産む機械を、それほどの失言とは思っていない。実際、賛否両論というか、別に目くじらを立てるほどのことではないという意見も多くあるようだし、さすがに辞任までには至らなかったわけだから、それ相応にバランスが取れているのかもしれない。
ともかく現役の大臣ともなれば、うっかりしたことは言えない、失脚を目論んでいるものたちが目を光らせているので、その言動には注意を要することは当然のことである。

それに比すれば、今や世界のオキウラとは言うものの、現職の大臣ほどの注目度はないので、多少の失言は許される・・・というよりは、誰も気には留めていないのである。

しかし、久間氏の辞任はひじょうに痛い。わたくしの記憶が確かなら、すでに小泉政権時代には頭角をあらわしていたし、党の要職を歴任していたはずである。そして防衛庁が防衛省になってからの、初の防衛大臣なのである。
安倍政権も危ういところである。おそらく参院選で惨敗すれば、そこで安倍政権も終わりであろう。いかに衆院で多数を誇っても、それ自体は小泉時代の遺産であって、自分で築いたものではないからである。
まだ気が早いけれども、今後の公明党の態度もまた、ひじょうに注目されるところだろう。

御本尊は道具という話に戻って、確かに御書を拝していれば、それに近いニュアンスの御指南がまったくないわけではないことに気がつく。しかし、この辺は微妙なところなので、深入りしないほうがいいだろう。そこで少しばかり工夫をしてみたい。

仏壇・仏具という言葉がある。
もう話は見えただろう。この仏具というのは、ほぼ道具の意味に相当すると思われる。本尊を安置する。この本尊を荘厳するための三具足だとか五具足、さらにはその他もろもろを仏具というのである。
当然ながら本尊そのものは仏具ではない。

ところがである。
わたくしは実際に目撃したわけではないのだけれども、法華講諸氏の証言を信用するならば、どうやら身延山などでは曼荼羅本尊を土産物屋で販売しているらしいのである。また、一般の仏壇仏具店では仏像も売られているし、曼荼羅もある。
いわゆる正宗仏壇の店では仏像がないのは当然であるが、曼荼羅にしても売っているわけではないのだ。ようするに、ここに仏壇・仏具と、本尊そのものとの画然たる違いがある。

つまり、本尊とは道具である、と言ってしまうと、仏壇・仏具と区別がつかなくなってしまって、身延の土産物屋と変わりがなくなってしまうのである。法華講の諸氏が再三にわたって、身延の本尊を拝めるのか、と追求しているのも、こうした意味を含んでのことであろう。沖浦氏にそのつもりはなくとも、道具などと表現しようものなら、そのような論難を受けて当然である。言葉は伝達手段なのだから、わざわざ誤解を生じるような表現を使うことはないのである。

言ったところで素直に聴きはしないだろうが・・・

2007/7/3

世間一般における開眼の意味  
わだっち氏のコメントは専門的過ぎるので、わたくしの手には負えない。また、沖浦克治氏のは、面倒くさいのでパスさせてもらう。

そこで今日は耕治氏のコメントを題材に、ごく初歩的なことを書いておきたい。いや、初歩的というよりは、基本に立ち返ってと言うべきかもしれないが、ともかく耕治氏の次の文章には感じ入った。

開眼される当体はご本尊ではなく、実は我ら衆生の側です。

開眼の文証のひとつに「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」(法華経)


なかなかのセンスである。

だが、これは別にそれほどの新発見ないし新発明というわけではなく、ある意味では常識的なことなのである。おそらく法華講の諸氏にしても、これを全面的に否定するわけではないと思う。
ようするに、御本尊の開眼とわれわれ衆生の開眼とは別次元であり、両者は必ずしも背反するものではないのだ。ゆえに法華講の諸氏は、両方の開眼を肯定するはずである。
これを逆に言えば、耕治氏は一義に偏していることになる。

今回、おそらくは生まれて初めて、開眼を辞書で調べてみた。結局、われわれは開眼を専門用語だと錯覚してしまって、世間一般の認識についてはまったく眼中になくなってしまっている、そういうところがなきにしもあらずなのである。
克治氏が法論の中で引用していたごとく、智者とは世間の法より外に仏法を行ぜず、でなければならない。つねに一般常識というものをわきまえていないと、とんでもない失敗をすることになる。

前置きが長いけれども、もう少し書いておくと、世間の常識が本当に正しいかどうかといえば、それもまたアヤシイものなのである。国語辞典にしても、必ずしも正解が書かれているわけではない。
さしあたって、ネット辞書で調べてみた。いつもお世話になっている三省堂の大辞林には申し訳ないが、開眼に関してはあまり説明がうまくないように感じられた。
そこで手元にある辞書・・・わたくしは大体十年ごとに新しい辞書を買っていて、現在は大修館書店の明鏡を愛用している。これがけっこうスグレモノなのだ。

開眼

一、新たに作った仏像・仏画に目を入れ、仏の魂を迎え入れること。また、その儀式。

二、仏道の真理を悟ること。

三、技芸の真髄を悟り、極致をきわめること。


こういうわけであるから、耕治氏の言わんとしていることは二番目の説明に当てはまることになる。つまりは世間一般の常識なのである。

逆に一番目をどうするのかが問われてくると思う。

おそらく耕治氏にそのつもりは毛頭ないことだろうが、衆生の開眼のみを認めて御本尊の開眼を認めないということは、御本尊は道具に過ぎないという捉え方をしていることにもなりかねないと思う。

この論難を逃れるすべは、曼荼羅本尊は仏像・仏画ではない、ゆえにそもそも開眼とは無縁なのだ、と言うくらいしかないと思うが、当然ここでも世間一般の常識を考慮する必要があるだろう。つまり、開眼を必要としないということは、あるいは世間の人に曼荼羅本尊の価値を低く認識させることにもなりかねない、すなわち仏像・仏画よりも下位であるとの誤解を生じさせることにもなりかねないのである。

日蓮宗では寺ごとに本尊がまちまちだという。曼荼羅のところもあれば、釈迦像のところもある。あるいはその両方であるとか、その他いろいろな取り合わせがあるらしい。
で、聞くところによると、仏像安置のほうがウケがいいらしいのである。つまり、見栄えがする、いかにも荘厳である。逆に曼荼羅はウケが悪い、ようは見栄えがしない、質素過ぎるのだろう。ましてや開眼不要ともなれば、ますます軽く見られてしまいそうである。

もちろん世間受けの良し悪しは仏法の本質とは関係ないのだが・・・

いずれにしても開眼不要論を唱えることは、上記のごとく種々の要因が重なって、ますます御本尊の価値を下落させてしまう危険性があるのだ。

はたしてこのジレンマをどのように解消するか、それが問われているのだと思う。

2007/7/2

写実主義の限界  
わだっち氏に結論を書かれてしまったけれども、おそらく沖浦氏ならば、それは日蓮正宗の内部規定ですから、そちらはそちらでご自由にどうぞ、などと言うことであろう。

わたくしは昨日の筋でもう少し話を続けたいと思っている。

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり

御義口伝の有名な御文であるが、まさに曼荼羅御本尊とは大聖人が全身全霊を傾けてあらわされたものであるから、かく仰せられるのだろう。たましひを墨に染め流すということも、まったく同じ意味に他ならない。ゆえに無関係の人が見よう見まねで曼荼羅を書いたとしても、そこに大聖人のたましひは宿らない。写真に撮ろうがそれは同じことである。
しかし、わかり切ったことだが、大聖人のたましひが特殊な成分として墨汁の中に含有しているなどということではないし、もしかしたら大聖人の御汗やあるいは御手垢などが紙幅に付着しているかもしれないけれども、それが仏力・法力の源泉であるとか言うわけでもないのである。

つまり、それが心法という概念の難解さ、なのだ。

ところで法華経の経典そのものには開眼が必要なのかどうか、といえば、わたくしは不要ではないかと思っている。ゆえにこの場合は、巻物であっても、冊子であっても、あるいは印刷でも、それほど優劣はないに違いない。なぜかというと、おそらく法華経というのは物語りが書いてあって、読者がそれを理解すればいいのである。つまりは読み手の咀嚼力にウェイトがある。
ところが大聖人の御文字御本尊は、意味を理解するとかの次元ではないのだ。もし意味を理解するという次元で捉えるならば、それは像法時代の修行である。

一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。

これは持妙法華問答抄であるが、十章抄にも同趣旨の御文があって、智者の行解として一念三千の観法が出てくる。

わたくしの言わんとするところがわかるだろうか・・・つまり、もし自分が上根上機ないし智者であると確信するならば、大聖人の御本尊は写真であってもいいし、ワープロ打ちでもいいのである。もちろん開眼など必要ない。
その相貌というか座配を見て、自ら一念三千の悟りを得ればいいのである。さらにエスカレートすれば、御本尊は必要ないことになるだろう。

しかし、これは末法の修行ではない。

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。

ここでまた、わかり切ったことを書いておくが、五字の内に此の珠を云々とあるけれども、妙法五字の大曼荼羅に物質的な意味での珠がつつまれているわけではないのだ。意味合いとしては、日蓮がたましひ、と同様であって、これは心法の概念に属するものである。ゆえに、どれほど精巧に写し取ったとしても、心法を写し取ることはできないと考えるべきであろう。

ここに来て、ようやく写瓶ないし瀉瓶という概念が要求されてくるのだ。

結論はすでにわだっち氏が述べるところである。


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