2007/7/1

開眼の本質とは?  
種々のコメントを頂戴しました。ひじょうに取り散らかっている状況ですが、まずは業務連絡的にざっと行きましょう。

山門氏のコメントに遙拝勤行を云々するくだりがありました。これについては以前にも富士川氏より言及がありましたが、その時もコメントが殺到していてまともな応答ができませんでした。この遙拝勤行については、いずれ書くつもりでいますので、どうかしばらくの猶予を願いたいと思います。

わだっち氏にはメールでのやりとりをご希望のようですが、わたくしとしましては煩瑣ゆえにそれは避けたいと思っております。結局、メールですとその内容をどこまで開示してよいものか、それがひじょうに難しいわけでして、かえってブログでの執筆を阻害することにもなりかねないわけです。わたくしがこうして好き勝手を書いていられるのは、裏表がないからでして、ある意味ではいずれの読者とも公平な距離を保持しているということでもあります。

沖浦克治氏からご挨拶をたまわりました。
声量の問題については、わたくしのほうにじゃっかんの誤解がありました。というのは、最初に拝見した映像ではひじょうに聴き取りにくかったのですが、樋田氏のほうの映像ではそれほどでもなかったからです。おそらくは集音マイクの問題なのでしょうね。
それにしても御書を手元に置きながら開かずして、それでいて御金言を次から次へと繰り出す芸当(?)には、驚きました。さすがにニワカ勉強の人にはマネのできることではないですから、その点はひじょうにカッコヨカッタですね。

耕治氏からもコメントがありました。
開眼に二種あるとのご見解・・・これをようするに、儀式ばった意味での開眼は否定するが開眼の本質そのものは否定しない、というような意味だと受け取りました。もしそうであれば、わたくしとの距離はほとんどないに等しいと思います。

以下は独白でまいります。

仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり・・・

意は心法、声は色法

木絵二像開眼の事はけっこう難しい御書なので、わたくしは内容にはあまり立ち入りたくないのであるが、そういうわけにも行かないようである。
単純化すると、仏像には梵音声が欠けているから不完全である、ではどうしたら完全な仏にすることができるか、というのがテーマとしてあるのだろう。
少し余談になるが、日妙聖人御書に「女人の心をば水にゑがくに譬へたり。水面には文字とどまらざるゆへなり」とある。別に女人の心に限ったことではなく、これは心というものの捉えどころのなさを御表現あそばしているわけであろう。梵音声もまた、いや、梵音声といわず音声そのものが捉えどころのないものなので、それをどうやって表現するかということが仏像造立における重要なテーマなのである。
だったら現代ならば、テープレコーダを使えばこと足りるではないか、ということにもなりそうである。仏像にテープレコーダを仕込んでおいて梵音声を流せばいい。もっとも梵音声の音源をどうするかが問題であるが、とりあえずそれはクリアできたことにしよう。
だが、しかし、である。仏像が声を発している図を想像してみるがいい。これほどのコッケイもあるまい。
まさか大聖人が御考えになられていた仏像開眼がこんなものだとはとうてい思えないのであるが、いかがであろうか?

今一度、上掲の御文を拝するがいい。

大聖人の御開眼はそんなチャチなものではなく、もっと本質的なところにあることがよくわかるであろう。
申すまでもないが、大聖人は単純に梵音声が欠けていることだけを仰せになっているわけではなく、それとは別に心法という概念を御用意あそばしているのである。意は心法であり、声は色法であると。しょせん梵音声すらも色法の範疇に御入れになられている。これはとりもなおさず色相荘厳の仏像を退け、御文字御本尊こそが大聖人の御正意であられるということでもあるだろう。

では具体的に御文字御本尊の開眼とはどういうことか?

おそらくこの部分は沖浦氏も同意見であろう。

日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。

これが開眼の本質だと思う。

ただし、大聖人以外の書いたものは、大聖人が御染筆あそばしたわけではないので、たましいが込められているとは言えないのではないか、というのがわたくしの考えである。

おそらく沖浦氏とは、ここで意見が分かれるのだろう。


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