2007/7/5

独白ブログの崩壊  
昨日から今朝にかけて大量のコメントを頂戴した。

http://diary.jp.aol.com/ganko/793.html#comment

水無月氏のおっしゃるごとくコメント機能を停止してこそ真実の独白であることはよくわかる。けれども、わたくし自身は当面このままで行こうと思っている。

すでに沖浦氏が登場した時点で、こうなる可能性は予測できたことであるし、もし回避するつもりならば最初から氏の話題には触れなければよかっただけのことである。わたくしは元来、沖浦ファンであり、氏の活躍には常に注目している。ただし、正直に書くと、全部の文章を熟読しているわけではない。なぜなら、言っていることがいつも同じだから、読む必要がないのである。ようはワンパターンなのだ。
この辺が氏の強みでもあり、あるいはボケの初期症状なのかもしれないと思う。すでに還暦老人でもあれば、今後その症状がどのように進展するかも注目すべき点であり、楽しみでもある。
考えてみると、大抵の人はネット上において年齢不詳である。年齢ばかりでなく、あらゆる点で不詳なのである。ところが沖浦氏はほぼすべてが公開されているようなものなのだ。
ゆえに今後、七十になっても八十になっても、オキウラ節が健在であれば、それはそれで素晴らしいことであり、高齢社会における一つの成功例として大いに称賛されて然るべきと思う。

何しろ昨日だけでも膨大な投稿数である。それが当ブログのコメント欄にとどまらず、そこらじゅうの掲示板に出まくっているのである。しかもそれは今に始まったことではなく、もう何年も前から続いていることなのだ。むしろその意味では、たまたま当ブログにも顔を出すようになっただけの話であり、氏にとっては大した負担ではないのである。

こんな還暦老人もめずらしいが、この集中力こそがシニアアスリートとして名を馳せているゆえんでもあるのだろう。

ところで常与師倶生氏の見通しは、顕正会員のわたくしには違和感をおぼえた。

つい先ほど与太朗氏からコメントがあったが、どちらかといえばこちらのほうが本筋のような気がするのである。
かつては顕正寺があった。けれどもそれを消滅させてしまった。いわゆる塔婆不要論や戒名不要論が打ち出されたのは、まさにこの時期なのである。
いまや顕正会の本尊疑惑は深刻をきわめており、もしかしたら顕正会側で起死回生の手段を講ずるのではないか、との見方も出てきている。ようするに今のまま座して死を待つのではなく、思い切って独自の本尊印刷を表明してしまうという手である。沈黙しているよりは、このほうがスッキリするだろう。しかし、もしこれを実行すれば、もはや引き返すことはできない。ひじょうに怖いところである。
いずれにしても、独自に本尊を印刷するとなれば、そのための理論づけが必要になってくる。塔婆や戒名の先例をもってすれば、成り行きとしては開眼不要論を唱える可能性が甚大であろう。

生意気を言うようであるが、わたくしの独白はこうした顕正会の動きに歯止めをかける意味がある。しかし、ヘソマガリの浅井先生のことだから、これを読んでかえって暴走してしまう可能性もある。そうなったら、それまでのことだ。

なお、常与師倶生氏の見解はある意味、顕正会のあるべき姿・・・理想像を示していると言えるだろう。

他にもいろいろ書かないといけないのだろうが、頭の中がグチャグチャなので、今日は終わりにしたい。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ