2007/7/7

開眼論、総括  
相変わらずコメント欄が賑わっていて、新顔もいくつか見られるようであるが、いつものごとく挨拶は抜きにさせていただきたい。それが独白ブログのゆえんでもあるのだ。

このところの一連の話題はとりあえず、終わりにしようかと思っている。
もともとは、過日の法論を題材にあれこれ書いていたわけだが、しょせんは観客の一人に過ぎない、それがわたくしの立場である。そこに法論の当事者である沖浦氏がいらして、わざわざコメントされたということは、あるいは拙ブログも多少の影響力を持っているのかもしれない、だとしたら嬉しいことである、ブログを続けてきた甲斐があった、という気分にもなるところである。
しかし、わたくしは今もなお顕正会員の立場であり、必ずしも法華講側の代弁者ではない。たまたま意見が一致しているだけであって、何もハナっから法華講の肩を持っているわけではないのだ。ゆえに部分的には沖浦氏の意見にも頷くところがある。
しかし、現状ではすでに本来の議論から逸脱して、いったい何をやっているのか、わけがわからなくなっている。その意味では、どっちもどっちであって、お互いのレベルの程を露呈し合っているだけのように見える。こういうのを泥仕合というのだろうか?
わたくしが掲示板には書き込まず独白に徹しているのは、こうした煩わしさを回避する意味があった。ところがいつの間にか、その独白ブログのコメント欄が掲示板化してしまった。なんとも皮肉な話である。
ただし、わたくしはこれまでも、そしてこれからも、コメント欄には介入しないつもりである。ゆえに、それぞれがそれぞれの良識にしたがって、自由にされればよいと思う。さらに矛盾を承知で言えば、独白ブログにおける他者との唯一の接点、それがコメント欄・・・そうそう、トラックバックもあるけど、ほとんど機能していないので、コメント欄がほぼ唯一ということになるだろう。そういうことで種々のコメントから大いに学ばせてもらっているのも事実である。

開眼の要不要については、なかなか決定打が出てこない。
すでに最初の頃に書いたように、これは開眼を必要だと主張する側だけでなく、不要とする側にも同等程度の証明義務があると思う。何しろ創価学会は独立教団だというのだから、それならば自前の教義を用意しないといけない、日蓮正宗の教義に依存してはいけないのである。
その意味で開眼のことを考えると、大聖人の御書には御本尊の開眼ついて書かれていない、だから不要である、と言うのでは論拠として弱いだろう。逆にもっと積極的に、御書にはこれこれこのように説かれている、だから不要である、という論の立て方をしないといけないと思う。
いちおう法華講側は、御書を引用して開眼の必要を説明している。はたしてそれが正当かどうかは別の問題として、ともかく積極的な姿勢がうかがえることは間違いない。

これもすでに触れたことだが、余教も法華経も詮無し・・・これを日蓮正宗では種脱相対の重要な文証としているわけで、あえて表現すれば法華経不要論とも言えるかもしれない。また四信五品抄には、戒定の二法を制止するとの御指南があって、戒定慧の内では慧だけでよい、さらには慧の代わりに信があればそれでよい、とまで仰せられるのである。これまた三学不要論とも言い得るかもしれない。
つまり、開眼不要論を唱えるのであれば、これらと同等程度の御指南を見つける必要があるのではないか、単に御書にないというだけでは説得力に欠けるのではないか、と思うのである。

論点の整理もせずに、ああだこうだ言っても時間のムダであろう。


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