2007/7/8

開眼再考  
妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。

法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄・蹲鴟一駄送り給び候ひ畢んぬ。

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候ひ畢んぬ。

開眼については昨日で終わりのつもりだったが、そういうわけにも行かなくなってしまった。富士川一郎の仏教掲示板において、お暇庵氏が上掲三つの御書を根拠に、御本尊の開眼に関して書いておられるからである。
ようするに、ここでの供養はいわゆる開眼供養の意味に他ならない、というのが氏の主張の骨子である。
確かに言われてみれば、そのような気がしないでもない。
だが、しかし、わたくしとてこの御書を知らなかったわけではないし、これまでにも繰り返し拝読してきたのである。それにもかかわらず、これを開眼供養のことであるとは気がつかなかった。わたくしは単に、御本尊を頂戴したことへの返礼みたいな意味ではないか、と思っていた。そして今もなお、にわかには開眼供養のことであるとは信じがたい、というのが正直なところなのである。

いろいろ考えをめぐらせているけれども、さしあたってはこれ以上の言及を避けたいと思う。直接的には創価学会員こそが反論を述べるべきである。しばらくはヤジウマ根性で彼らの反応を待つことにしたい。

ところで、富士川氏の投稿からは、大いに学ぶべきものがあった。

日女御前御返事に「すりかたぎ」という言葉が出てくる。これには漢字ルビが振ってあって、摺形木と書かれている。氏はこの意味について説明しておられるわけであるが、それがひじょうに懇切であり、愚鈍のわたくしにもおおよそは理解できた。

摺形木というのは印刷の意味である。だが当該御文の意味するところはいわゆる御形木御本尊のことではない。では何を意味しているのか?
文意としては、久遠元初自受用報身如来の一身の相貌をあたかも印刷したかのようにそっくりそのままあらわしている、それが大聖人の御直筆御本尊である、という意味であろう。
わたくしはいくつかの御文を想起した。

三世の諸仏の説法の儀式皆同じきが故なり

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり

雖脱在現具騰本種

いわゆるキーワード検索ではなく、わたくしの脳内検索なので、三つの御文には何の脈絡もない。雰囲気で読み取っていただければ、ありがたいと思う。

ところで、日興上人の富士一跡門徒存知事には形木という言葉が出てくるが、ここでは形木本尊を禁止している意味だと解釈する人と、いや、不信の者に授与することを禁止しているのだ、という人とで意見がまっぷたつに分かれている。

唐突ながら、わたくしは思った・・・
上記、開眼のこと、あるいは摺形木のこと、これらを考え合わせると、もしかしたら日興上人はここにおいて開眼の意味を含意せられているかもしれない、ということである。
不信者に授与するのは論外であるが、形木そのものは法義上さしたる不都合はないはずである。おそらくは機械的に大量生産することが、往いては不信者への軽々しい授与に通ずる意味において問題視されることはあっても、そこに厳格な規定を設けるならば形木そのものが問題になることはないに違いない。ここに一つには制度上の問題として、法主の専権事項とするべきゆえんが垣間見えるし、さらには開眼の必要性が文の奥底に秘められているようにも思えてくるのである。

もちろんこれは論証などと言えるレベルのものではなく、ほとんど思い込みで書いてしまっていることは、自分でも承知しているつもりである。


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