2007/7/17

売れない回転寿司ほど惨めなものはない?  
沖浦氏のデタラメぶりは相変わらずであるが、さりとて一笑に付すわけにも行かないところがある。というのは、全体的な脈絡というか議論の進め方はデタラメであるけれども、部分的にはひじょうに鋭いことを書いておられるからである。

 六万坊の中心は、私ども衆生の命ですよ。
 この点ははっきりしています。
 どこか他所にある理想郷などを、大聖人様の法は志向を致しません。
 御書に明白です。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、』
 (一生成仏抄)

 要は、六万坊を己心に作ればいいだけのお話ですよ。
 簡単でしょう。


簡単でしょう? いやいや、そんな簡単なものではないのだ。
さりとて、上記の部分はひじょうに鋭く、これをただちに間違いだとは言えないので、こちらとしても困っているのである。かつてわたくしは、左京日教の類聚翰集私について、いろいろと書いたことがある。詳細は省くが、そこにはいわゆる己心戒壇に関することも書かれているのだ。
つまり、沖浦氏の言っていることは左京日教の説に近い。ただし、左京日教の場合は天生原という場所を特定した上で論じているので、そこが異なる点だかもしれない。
沖浦氏は一生成仏抄を引用しているので、これが上位概念となるべきは当然のことではある。ただし、大聖人におかれても御晩年に富士山に本門寺の戒壇を建立すべしとの御指南を遺されているので、これを両立すべきが筋なのである。

また、これとは別の件で、かつて法華講員と意見の対立を見たことがあった。
顕正会で出している本に、地獄は地の下にある、というような記述がある。これを法華講員は間違いだと言ってきた。わたくしはいちおう、これは御書に基づいて書かれているので間違いとは言えない、と返答した。しかし、相手はなかなか納得しなかった。そこでわたくしは霊山浄土のことを引き合いに出した。

わたくしがヘタな説明をするよりは、以下を読んでもらったほうがいいだろう。
実はひそかに更新を楽しみにしている「からぐらの風」に、ちょうどいい文章が載っていたのである。

 日蓮が佐渡期から煩瑣に使う「霊山浄土」の言葉は、やがて晩年身延期になって、「霊山往詣」の思想として信徒に語られるようになる。
(中略)
 この「日蓮の霊山往詣思想」は、まだまだ十分に研究され、門流によって消化されているとはいえない。日蓮が『立正安国論』などで法然の「浄土思想」を排撃したことと、どのような脈絡をもっているのか。どのような質的相異があるのか。この点に関して、念仏信徒から強い批判がなされているが、未だ日蓮の門下からは、十分な回答がなせているとはいえない。

沖浦氏は理想郷を間違いであるとし、御書に明白であるとまで書いている。しかし、魯ひと氏の上記論文を読むならば、そんな簡単な話ではないことがわかるはずである。

さて、次の文章であるが、沖浦氏は同じネタをそこらじゅうに貼り付けているので、すでにどこかで読んだことのある人も多いことだろう。

 おい寿司食おうか?
 駄目だよ御書にないんだから。


秋元御書には「すし」のことが出てくる。鮨の漢字ルビが振られていることからしても、また文脈上からしても、間違いなく寿司のことである。もちろん今日の寿司とまったく同じかどうかはわからないが・・・

竜象房が人を食らひしは万が一つ顕はれたるなり。彼に習ひて人の肉を或は猪鹿に交へ、或は魚鳥に切り雑へ、或はたゝき加へ、或はすしとして売る。食する者数を知らず。

この御文で注目すべき点は、大聖人が指摘あそばしているのは人肉を食らうという非倫理的行為であって、直接的には魚鳥の肉食を咎めているわけではないことである。

想像を膨らませれば、大聖人は海辺の御出身であり、しかも御父君は漁師であられたという、されば大聖人が御幼少の時分には鮨を召し上がられた可能性も、あながちには否定できないであろう。


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