2007/7/20

オリジナル・チューニングの名手  
れん氏と沖浦氏との間で少々のやりとりがあった。それを拝見していて思ったことがある。

専門性と大衆性の戦い・・・

土俵が違うものだから話にならない。どうやら、お二人ともトコトン話し合うつもりはないらしく、すでに対話は終了した模様である。それが賢明というものだ。

わたくしの思うに、専門家というのはもっと大衆性を身につけないといけない、誰も理解できないような話をしても意味はない、逆に言うと、専門家が大衆性を身につけたならば、鬼に金棒である。
しかし、お二人をこのように当てはめるのは間違っているかもしれない。実は沖浦氏もまた、きわめて専門性の高いことをノタマッテいるのである。過日、広布最前線という掲示板において、沖浦氏と渡辺氏の間で議論がなされていた。それが訳のわからないカタカナ語がたくさん飛び交っていて、いったい何を議論しているのかさっぱり理解できなかったくらいである。
どうやら音楽関係の専門用語らしかった。わたくしはその方面に疎いものだから、まったく理解できなかったし、それ以前に面倒臭くて読む気にもならなかった、というのが正直なところである。

今はどうだか知らないが、沖浦氏は神戸時代にその方面でずいぶんと活躍していたようである。渡辺氏もまた、彼のサイトのプロフィールなどを読むと、自らマルチプレイヤーと称するほどであるから相当のものである。

実は過日の法論でも、沖浦氏はビートルズがどうのこうのと、音楽談義に花を咲かせているのだ。

chapter 9 沖浦氏の間違った功徳観の展開

リンクは貼っていないが、上記の映像の冒頭において、音楽理論がどうのこうのと言っている。全体の文脈としては理解できないわけではないが、ビートルズがどうのこうのは音楽を知らない人には理解できない話である。

実は対論者の樋田氏もまた、ミュージシャンの顔を持っており、一部地域ではけっこう有名らしい。
ゆえに沖浦氏は対機説法的にそういう話題を振ったのかもしれないが、樋田氏はその内容そのものには応じなかった。おそらく法論の本筋とは関係ないことなので素通りしたのだろう。あるいは別の理由が考えられるかもしれない。
おそらく樋田氏は、いわゆるビートルズ世代ではない、それよりもあとの時代の人である。ゆえに沖浦氏の話を実感を持っては受け止められなかった。このオッサンは何を言っているのか・・・くらいに思っていたのではないか?
もしそうだとすると、実はあの会場にいたほとんどの人が同じように感じていたかもしれないのである。
ビートルズの名前は、それはもちろん誰だって知っている。けれどもそれをリアルタイムで経験した人は、もはやそれほど多くはないのだ。しかも音楽理論の話ともなれば、一部の人にしか理解できない話である。

樋田氏は上に掲げたごとく、沖浦氏の間違った功徳観の展開・・・とタイトルを打っているが、少しばかり冗談をかませば、沖浦氏の場違いな音楽談義、というのも悪くないと思う。

さて、奇しくも沖浦・樋田・渡辺の三氏には、弦楽器奏者という共通項があるわけだが、ここで本日のタイトルの意味をお考えいただきたい。
弦楽器というのはチューニングすなわち調律が大切だという。つまり、ネジを締め上げたり緩めたりすることで音程を調節する、これをチューニングというわけであるが、基本はいわゆるレギュラー・チューニングである。おそらくは世界標準と言い換えてもいいのではないかと思う。
それはそうだろう、各々が自分勝手なチューニングをしていたら、音楽など成り立つものではない。それこそ不協和音にしかならない。どれほどの名手であっても、チューニングの狂った楽器では、いい音楽を奏でられない。

ところがである。わざと標準とは異なるチューニングをする場合もあるのだという。
おそらくシロウトがそれをやれば、ただの雑音にしかならないのだろうが、それなりの経験を積んできた人がやれば、ひじょうに魅力的な音を創り出すことができるのだろう。

わたくしは、沖浦氏がまさにそれなのではないか、と思っている。
その教学的な主張にしても、必ずしも創価学会の公式見解と同じではない。それどころか、大幅に違っているような気がしないでもないのである。いわば創価学会標準ではなく、沖浦氏独自のチューニングになっている。早い話がクセモノなのだ。

今日の結論は、クセモノを相手にするのは苦労する、ということである。

何やら法論の第二弾が行なわれるや否やが取り沙汰されているようだが、法華講の諸氏は労多くして益少なしを覚悟しなければならない。何しろ相手は創価学会標準ではないのだから・・・


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