2007/7/22

御書談義  
今回の音楽談義はひじょうに得るものが大きかった。如月氏のコメントを読んで、音楽の奥深さを思い知った。自分も時間があれば、もっと勉強してみたいと思った。また、氏がどのような方面の仕事をされているのか、ひじょうに興味津々に思った。

沖浦氏はいつものごとく、最終的には日蓮正宗を扱き下ろす文章になっているところが相変わらずであり、そういう無理が祟ってのことだろうか、わけのわからない部分があちこちあった。

 アナログの仏法だから、柔軟なんですよ。
 だから大衆的、民主的なんですね。


一体全体、アナログが大衆的であり民主的というは、どのような理屈なのか、それが見えてこない。ゆえにそれ以降の文章は、わたくしにはよくわからない文章である。

だが、スゴイことを書いているのも事実である。

 無段階ですよ。
 音だけじゃないです、世の中全てアナログです。
 自然界も細かく細かく突き詰めると、アナログです。
 クオークすらアナログなんですね。
 依正不二 ですね。


クオークというのがわたくしにはわからないのであるが、しかし、この一段そのものはひじょうに鋭いと思う。おそらくは撰時抄の次の御文に相当するのではあるまいか?

已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ、十方界の仏法の露一●も漏らさず、妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ。・・・其の上、止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につゞめたり。

わたくしは三千に縮めるという御表現に注目すべきだと思っている。
われわれ初心者は十界論を習う。しかし、現実の世の中はもっと複雑である。おそらく十界は便宜的に十段階にしてあるだけであって、本質的には無段階なのであろう。一念三千にしても同様で、さらに細分化しようと思えばそれこそキリがなくなる。そうすると最終的には無段階にならざるを得ない。しかし、それでは捉えどころがなくなる、文字どおりの雲をつかむ話になってしまう。
ゆえに三千につづめたということなのだろう。

時に富士川氏からは質問が寄せられている。

わたくしは大聖人の御父君を漁師であると書いた。その根拠は何か・・・

・・・確かに指摘されてみると、あれ? という感じである。
われわれはどこかで誰かに教わったことを、根拠もなしにそのまま信じ込んでしまうという面がある。改めて考えてみると、大聖人の御父君のことはよくわからない。大聖人御自身がそれほど多くを語っていらっしゃらないからである。

然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり。

おそらく本尊問答抄の上掲御文に海人が子とあるので、それがそのまま漁師の子の意味かと思われるが、それにしても富士川氏がこれを見落としているとは考えにくいので、あるいは別の意味なのかもしれない。そうすると大聖人を漁師の子であるとする根拠は見当たらないことになるだろうか?

現代においては御書もまた、デジタル化されつつある。いわゆるテキストデータのことである。
沖浦氏に話を戻して、氏の強みはまさにアナログであるところの御書を心肝に染めている・・・それが自信につながっているわけであろう。これは大いに見習わないといけない点である。
今は検索すれば容易に御文を拾い出すことができる。しかし、これに頼り過ぎると、御書が心肝に染まらなくなる危険があるのだ。

ゆえにわたくしは、時間のある時はできる限り御書を拝読するように心掛けている。また、人が引用する御文などにも、けっこう注目している。

其の上雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ。

先日、渡辺氏が引用しているのを拝見するまで、わたくしは種々物御消息の当該御文をすっかり忘れていた。法義上の小難しい用語が使われていない、こうした御文こそ、もっとも感動的である。

さらにオマケを書いておこう。

癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。

これは報恩抄の最初のほうに見られる御文である。
過日の法論ではこれを樋田氏が平易な言葉で説明していた。沖浦氏のように御文をそらんずることができることも大事であるが、それを現代語で平たく話せる技術も重要である。

※撰時抄に文字化けする部分があったので、●にしてある。平成新編ではサンズイに帝と書いて、一●(いってい)と読ませている。全集では「しずく」とルビがあるので、一●(ひとしずく)と読むのだろう。


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