2007/10/19

真実と虚構の狭間にて  
種々のコメントを頂戴していて、なかには真摯に対応せねばならないような重要なコメントもあるが、いつものごとくの無愛想をお許し願いたい。

山門氏のおかげで宮崎会館と盛岡会館での会長講演を聴くことができた。

正直な感想を書くと、宮崎会館のはイマイチだったが、盛岡会館での講演にはものすごく感動した。わたくしはいまだに浅井先生の講演に感動をおぼえる。特に盛岡での講演は、先生の若い時分の思い出話みたいなものがふんだんに織り込まれていて、そこに郷愁のようなものを感じた。先生の話にはウソがあると言われているが、わたくしは今回の話にウソを感じなかった。百パーセント、真実だと思った。

おそらくはいずれ、古い時代のことに詳しい法華講員などから、いろいろとツッコミがあることだろう。それはそれとして、わたくしはそれでも今回の先生の話は真実であると思い続けることだろう。現時点では、それほど感動しているのである。

かくも頑迷なわたくしであるが、だからといって先生のすべてが正しいとは思っていない。いわゆる無謬論みたいなことはまったく考えていない。
つまり、今月に入ってずっと書き続けている本尊疑惑については、まったく別次元であり、今回の先生の話が百パーセント真実だとしても、それとこれとは別の話だということなのである。

いちばん最初の頃に、沖浦氏より、本尊疑惑とは何か? という質問があった。わたくしはいつもの悪いクセで、質問には答えなかった。誰かが代わりに答えるかと思ったが、誰も答えなかった。しかし、すでに相当期間を経て、おそらくは沖浦氏も事情が呑み込めたことだろう。
あるいは沖浦氏も、わかっていて質問したのかもしれない。ようするに氏の持論からすれば、たとえ顕正会で自主制作していようと一向に構わないではないか、ということなのだ。
しかし、創価学会とは事情が違うのである。ちょっとの話ではなく、だいぶん違うのである。

ふうか氏がどこかにコメントを残しておられた。いわく、顕正会員の御本尊に対する認識は、日蓮正宗の御本尊なのか、それとも顕正会の御本尊なのか、云々と。
おそらくは創価学会などのことも念頭にあってコメントされたのだろう、創価学会員は間違いなく創価学会の御本尊という認識にある。いや、もちろん、沖浦氏からは反論があるだろう・・・創価学会の御本尊というものはない、すべて大聖人の御本尊であると。話がややこしくなるのでこれには深入りしないが、ともかく創価学会員は創価学会で自主制作していることを承知して、それを拝んでいるわけである。
顕正会員の場合はどうかと言えば、もちろん、日蓮正宗の御本尊という認識のはずである。だが、しかし、いつの頃からか、本尊のことを詮索するのはタブーとなっていて、これがために新しい会員は詳しいことを教わる機会がなかったと思われるのだ。つまり、自主制作か否か、そんな議論すら組織の中では存在しないわけだから、うっかりすると新しい会員の中には、会館安置の御本尊は顕正会で作っている御本尊だと勝手に思い込んでしまう場合もあり得るわけである。さらに言えば、彼らはその事実にさしたる問題を感じない、それが大謗法であるとは思いもしない、ということなのである。
おそらく、ふうか氏の言わんとしていたことは、おおむねこのような感じではないかと想像する。

沖浦氏には、いったい何が大謗法なのか、それすら理解できないだろう。実はわたくしも説明困難である。ただし、さまざまの事象を勘案すると、おぼろげには理解ができるのではないかと思う。

まず、九月度総幹部会での講演において、あくまで自主制作を認めなかった。ひじょうに苦しい説明であることを承知しつつも、末寺住職の権限ないし古来からのシキタリということで話をまとめてしまった。つまり、浅井先生自身が自主制作ではマズイことを承知しているのである。
そして、それはなぜかと言えば、過去の発言との整合性の意味もある。ともかく従来、松本尊能化から託されたことを言い続けてきたのである。もし今頃になって自主制作を言い出したら、今までのウソを認めることになる。だからウソを言い続けるしかないのだ。
もう一つ、これはおそらく初めて指摘することになるだろう、実は顕正会が自主制作を開始したのは創価学会よりも早い時期だという可能性があるのだ。もしこれが事実だとすると、もはや顕正会は何一つ偉そうなことは言えなくなる。少なくとも宗門・法華講からはボロクソに言われることになるだろう。

まさに顕正会にとっては、もっとも痛いところなのである。


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