2007/12/21

年末雑感  
このところ耕治氏の情熱に感化されて、ずっと同一テーマを書き続けてきた。しかし、そろそろ話題を変えようと思う。昨夜のコメントを拝見して思ったことは、表現こそ違うものの、耕治氏とわたくしの考えにはそれほどの隔たりはない、ということである。細かいことを言えばキリがないので、いちおうはこれで終わりにしよう。

ところが今朝になって、今度は沖浦氏から難解なコメントが寄せられた。「即」の概念についてである。
氏に言わせれば、法華講員は即がわかっていないということらしい。実はわたくしも、よくわからないのである。しかも氏の説明を読むと、余計にわからなくなる。御書を引いておられるが、それが即とどのような関係にあるのか、まったく見えてこない。
そういうわけで、この件についてはしばらく保留にしたいと思う。何かのきっかけで理解が進むかもしれないし、永遠にわからないかもしれない。ともかくわたくしは、御書を拝しつつ思索していく中で、理解を深めていきたいと思っている。

水無月氏のコメントは、きわめて冷静であり、好感が持てる。

利用価値があるという表現は、一般的に人に対して使うのは失礼なのだと思う。しかし、わたくし自身はそんなことで気分を悪くすることはない。ある意味では、利用してもらうことを目的に、一般公開しているわけなのだ。何しろ自分自身がネット上から多大な情報を得ている。ようはネットの恩恵にあずかっているわけである。だったら自分も他者に対して情報を提供してもおかしくない。ケチケチしても始まらないのだ。もっとも、わたくしの場合は、大した情報を持っているわけではないのだが・・・

さて、顕正新聞第1087号の話題に移ろう。ここには十一月度総幹部会の記事が出ている。今回の会長講演も取り上げるべき点がいくつかある。とりわけ教学部の再構築というのは、けっこう驚きだった。

 教学部員となっている人たちは、卒業したんじゃない。これからいよいよ学ばなければいけないのです。
 来年の一月はまだ試験はやらないが、再来年の一月から、いよいよ教学部の再構築をしていきたいと思っております。


これは一念信解路線からの方向転換とも受け取ることができるわけで、イジワルな言い方をすれば、何を今さら・・・という気がしないでもないのである。

う〜ん、いったい何があったのだろう?

やはり何かしらの外的要因があったと考えるべきであるが、それが俄かには見えてこないのだ。こうした予想外の方針を打ち出してくるところが、ある意味では浅井先生らしさではあるけれども、しかし、それにしても唐突過ぎるので、きっと何か裏があるのだろう。

ご存知の人がいれば、情報をお願いしたいものである。

2007/12/20

師走雑感  
昨夜も耕治氏から懇切なる解説をたまわった。

 ある人は「衆生は如来ではない」といいました。では、大聖人様はなんと仰せでしょう。

//唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
 ここが結論です。「衆生は如来ではない」という考え方は、現在、創価学会以外のおそらくすべての教団が、立てている共通した認識であると思います。では、大聖人様はなんと仰せですか?
 「唯凡夫の当体本有の侭を」と仰せですね。私には、何度読み返してもこの段は、「凡夫の当体」が「此の品の極理」と仰せのようにしか読めません。


気がつけば師走も半ばを過ぎ、もう今年も残り十日あまりとなった。意識としてはまだ十二月に入ったばかりのような錯覚があって、顕正新聞の五日号の話題もまだ書いていないし、是正協議会の動きも書いていないし、やらなきゃいけないことがたくさん溜まってしまっているのである。時間がいくらあっても足りない。投稿回数を増やして帳尻を合わしたいところであるが、それもままならない。第一、普段からして雑な文章なのである。ましてや投稿頻度を上げれば、余計にヒドイ文章になることだろう。だから今のペースで書いて行くしかない。

グチを書いている場合ではなかった。上掲の、創価学会以外のすべての教団・・・ということには異論がある。ようするに裏を返せば、創価学会だけが唯一の正しい教団なのだと、そういう意味を言っているわけだろう。しかし、ここでの耕治氏の論は一義に偏している、とわたくしは思う。

衆生は如来ではない

この点については、すでに書いたつもりだったが、未だに理解が及ばないようなので、もう少し書かねばならないようだ。

http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html

ここに書いてあることを少し言い換えてみよう。

衆生は、理性所具の意味では如来であるが、実相証得の意味では如来ではない、ということになると思う。三大秘法抄の御文を挙げておこう。

底下の凡夫理性所具の一念三千

大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千


また、おそらく次の日妙聖人御書などは、耕治氏もひじょうに感ずるものがあると思う。

我等具縛の凡夫忽ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なり・・・教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず・・・民の現身に王となると凡夫の忽ちに仏となると同じ事なるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。

忽ちに仏となる・・・

ここでのポイントは、まだ仏ではないことである。忽ちというのだから、次の瞬間には仏になっているのかもしれないが、現時点ではまだなのである。

樋田氏が質問会の中で言っていたはずだ。最初から成仏してたら仏道修行なんて必要ないじゃないかと・・・

これに関しては別に異論はないであろう。

最初から仏であるというのは、それはそれで魅力的である。また、ある程度の修行を積んだ段階で、自分はすでに仏と同等であると錯覚する場合がある。だが、大聖人はこれを破折あそばしている。法華講員がしばしば引用しているので、今さら紹介するまでもないが、いちおう二つの御文を示しておこう。

禅宗は理性の仏を尊びて己仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり。

(禅宗は)是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷ふて、大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てゝ而二を知らず。謂己均仏の大慢を成せり。

蓮盛抄と聖愚問答抄である。いずれも禅宗を破折あそばす段であるから、直接的には創価学会とは関係ない。ただし、一歩間違えれば、同じ穴のムジナとなる危険性があるのだ。法華講の諸氏はそれを言っているのである。

2007/12/19

わかりにくさがウリ?  
昨日分のコメント欄にて、落とし前がどうのこうのと言っている人がいるが、困ったものである。見当違いも甚だしい。面倒臭いので一言、烏滸の事であると言っておこう。

耕治氏には、引き続き賢察をたまわっている。これはひじょうにありがたいことであるが、しかし、こちらが問題としている点には触れていないように思う。わたくしは一日に一回しか投稿しないので、それをじっくり読んでいけば何がどのように問題なのか、それが見えてくるはずだ。難解な用語を羅列して悦に入っている人とは違って、きわめて平易な文章を書いているつもりである。

なお、南無妙法蓮華経如来の件ついては、もし所望であれば詳述してもいいが、馬鹿らしいので筆を控えたのである。わたくしは数日前に、このところ御義口伝を拝読していると書いた。実際、具体的な御文をたくさん引用している。まさか肝心の如来寿量品を読み落とすわけがなかろう。いや、もちろん、そういう時もないわけではないが、ここまで書けば勘のいい人はわかるはずだ。

水無月氏には、そろそろ店じまいしたらどうか、と勧められた。氏はひじょうに温厚で、キツイ言葉を発することはない。少なくとも拙ブログのコメント欄では、常に節度ある振る舞いを見せておられる。
だが、どうも婉曲的ではあるが、拙ブログの存在を疎ましく思っているようにも感じられるのである。以前にもコメント欄が荒れたことがあった。もっとも、わたくしにはそれほど荒れたという印象はなく、今回にしても同様であるが、ともかく氏はその時にもブログの閉鎖を打診してきた。

なかには、あからさまに敵意を示し、拙ブログをつぶそうと目論んでいるような人もいる。ゆえに、こちらのミス(?)には容赦なくツッコミを入れてくるわけで、読者の中にはその様子を見て、心を痛めておられるような人もいるかもしれないと思う。
もし、そういう人がいるとしたら、ひじょうに申し訳ないことだが、わたくしとしては当面、このスタンスでやって行こうと思っているので、静かに見守っていただくしかないであろう。

しょせんは落ちぶれ顕正会員の愚痴なのである。しかし、気取って言えば、正当な言論活動なのである。
つまり、前者の意味で考えると、たかが落ちぶれ会員のブログに、それほどムキになることもなかろう、ということなのだ。
そして後者の意味では、善につけ悪につけ反響があることは言論人としての誉れである、ということになるだろう。ここに一つのヒントがある。

つまり、誰からも相手にされなくなったら、わたくしとしても執筆意欲を失って、自ずから閉鎖の道を選ぶだろう。

最後に、わだっち氏に意見を申し上げたい。沖浦氏を訴えるという話だが、それはおやめになったほうがいいと思う。おそらく今日あたり弁護士などに相談されるのかもしれないが、今ならまだ後戻りができるはずである。理由は詳述するまでもなかろう、そんな馬鹿げたことに時間を浪費するくらいなら、もっと他にやるべきことがあるはずである。

2007/12/18

わかりやすさがウリ?  
ひじょうに煩瑣な議論になってきた。おそらくは昨日の拙稿ならびにコメント欄を読んで、すんなりと理解できる人はいないことだろう。わたくしはこれがイヤだから、独白に撤しているのである。

そこで今日は、タイトルにあるごとく、誰もがわかるように話をまとめたいと思う。内容的には数日来のものと重複することをあらかじめお断りしておく。

三大秘法は本門の本尊・題目・戒壇である。わたくしはこれを、仏・法・僧ではないかと書いたのだ。つまり、本門の本尊というのは人本尊であって、法本尊を含まない。法本尊は本門の題目に含まれる。

ようはこれが正しいか間違っているか、それが問われているのである。で、わたくしとしては、今も捨て難い魅力を感じているけれども、正宗教学の立場から見れば邪義である、ということなのだ。

本尊問答抄のように、本尊を題目とする場合は、本有無作三身の内証の(法体としての)五字を指すと愚考します。

れん氏のコメントにあるごとく、法華経の題目を本尊とすべし、とする本尊問答抄の御指南は、仏様の内証に具備される法体を指すのであるから、いわゆる法本尊の意味である。ゆえに、本門の題目ではなく、あくまで本門の本尊なのである。

 六秘との整合性はどうなるのだ。

渡辺氏のコメントはひじょうにわかりやすい。呆れてものが言えない、と書いておられるように、詳しいことは何一つ書いていない。だが、わかる人が読めば、これほどわかりやすい話もないのである。
三大秘法を開けば八万法蔵になる・・・というのは間違いではないが、順序としてはその前に六大秘法がある。氏はこのことを言っているのである。人本尊・法本尊というのが、いわゆる六大秘法における本門の本尊の括り方である。本門の題目においては、信と行に開くのだと思う。ようは修行者側の信力・行力にスポットが当てられているわけであって、一方の仏力・法力はいずこにましますかと問えば、それは言わずもがなのことなのである。
ゆえに、六大秘法との整合性を勘案すれば、三秘=三宝は成り立たない。早い話が正宗教学の基本がわかっていない。だから呆れてものが言えないわけである。

しかし、冒頭に書いたごとく、わたくしは今でも魅力を感じているのである。

本尊・題目・戒壇=仏・法・僧

これがダメだとすると、次の括り方はどうだろうか?

本尊・題目・戒壇=仏法・僧・△△△

戒壇の部分をワザと穴埋め問題のようにしたわけだが、おおむね修正案の意図するところは了解できるかと思う。

今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。

わたくしは本尊抄のこの部分がひじょうに身に迫ってくる。いちおう穴埋め部分は、寂光土を想定しているが、別の言葉でもいい。ともかく仏法があって、修行者がいて、その場所・空間がある。

以上のごとく、単純には仏法僧を三大秘法に当てはめることはできない、というのが現時点でのわたくしの結論である。

2007/12/17

踊るアホウに見るアホウ?  
種々のコメントを頂戴しているが、毎度のことながら全員には対応できないことをご容赦願いたい。

(引用)三大秘法は本門の本尊・題目・戒壇である。わたくしはこれを、仏・法・僧ではないかと書いたのだ。つまり、本門の本尊というのは人本尊であって、法本尊を含まない。(引用終わり)

 そのことがわかったら創価学会に入信するしかありません。


さて、耕治氏に申し上げる。ずいぶん短絡的ではないか・・・

もし仮に、そのことがわかったとしても、その選択肢が創価学会への入信に限定される理由はどこにもないと思う。第一、わたくしは未だにわかっていないのである。渡辺氏のコメントを読むがいい。氏に言わせれば、わたくしは信濃町の痴呆以下なのだそうだ。これを素直に受け取れば、創価学会に入信することによって多少は進歩することになるだろう。しかし、それでも信濃町の痴呆なのである。ようするに渡辺氏は、わたくしのことは当然として、それと同時に創価学会をも馬鹿にしているわけなのだ。

また、れん氏のコメントも無視はできない。昨日の拙稿を読むがいい。わたくしは、かつて書いた三大秘法と三宝の関係を、れん氏によって木っ端微塵に破折されてしまったと思っているのである。おそらくは同時に、耕治氏も破折されてしまっていることになると思う。だが、耕治氏はこれに反論していない。

わたくしの思うに、耕治氏の所論は未だ完成されておらず、そちこちに欠陥がある。もしくは説明が足りていない。

南無妙法蓮華経如来・・・

これが典型的な例だと思う。そもそも、これはどこから引っ張ってきた言葉なのか、それが問題である。耕治氏は頻繁に使用しているけれども、御書には見当たらない言葉だと思う。
例えば、南無釈迦牟尼仏如来というのは、ヘンである。もっと単刀直入に行こう、南無阿弥陀仏如来と書けば、わたくしの言わんとしていることがわかるはずである。
逆に阿弥陀経如来とか、大日経如来はいかがであろう・・・

つまり、南無妙法蓮華経如来というのは、すでにして、これが人法一箇の意味に他ならないのである。

もう一つ、これも考えておく必要がある。三大秘法=三宝、すなわち本尊・題目・戒壇がそのまま仏・法・僧であるとするのは、じゃっかん問題がある。なぜならば、これは三大秘法抄に即しての説明であって、法華取要抄や報恩抄には即さないからである。ようは順番が違うのだ。
本尊・戒壇・題目、これが二抄の順番である。ゆえに、この場合は仏法僧ではなく、仏僧法になってしまうのだ。
これでいいのかどうか、考える必要があるだろう。

あるいは耕治氏ならば、是三無差別の意味からして、順番はどうでもいい、まったく問題なし、という考え方をするのかもしれない。もちろん一理はあると思う。
だが、わたくしはもっと多角的に考えるべきことだと思っている。順番が違うことは確かなのだ。何かしらの意味があるのかもしれないのだ。
その答えは永遠にわからないのかもしれないが、それでもなお、わたくしは考え続けることだろう。

ちなみに今日のタイトルは、我ながら意味不明である。

2007/12/16

観念の遊戯  
わだっち氏のコメントを拝見して驚いた。まさか涅槃経のことが出てくるとは思わなかったからである。

三大秘法は開くと八万法蔵になっちゃう・・・過日の質問会で耕治氏が言っていたことである。
まさに、この意味では、大聖人の御法門中に涅槃経が出てきてもおかしくない。いや、それどころか、あらゆる経教が出てきていいわけである。実際、大聖人が引用あそばしている経文は、とてつもなく膨大である。
とりわけ涅槃経は、法華経と関係の深い経文なので、法門の展開いかんによってはそれが前面に出てくる場合もあるわけである。代表的な例は、開目抄の後半部分であろう、いわゆる摂折論のくだりである。ここでは涅槃経にスポットが当たっている。

それから「含む」ということは、まさにそのとおりだと思う。おそらく仏法用語としては、「摂する」と表現するのだろう。正確な意味は把握していないが、おおむね含むと同義なのではないかと思う。八万法蔵は究極的には一大秘法に摂せられる・・・みたいな表現が使われているはずである。

報恩抄ならびに三大秘法抄の意を以て本門三法門を考えますと、本門本尊=能居の教主・本有無作三身(所化以て同体)、本門戒壇=所居の土・寂光本有の国土(こちらは正意の戒壇、事相の戒壇を傍意の戒壇とする)、本門題目=所化の衆生の側の信行具足の題目といったところでしょう。本尊問答抄のように、本尊を題目とする場合は、本有無作三身の内証の(法体としての)五字を指すと愚考します。よって無作三身の内証の五字(一大秘法)と、所化の衆生の側の修行する五字(三大秘法中の本門題目)とは概念としては一応立て分けるべき存じます。(後略)

数日前に、れん氏から上記のコメントを頂戴していた。

本尊問答抄のように、本尊を題目とする場合は、本有無作三身の内証の(法体としての)五字を指すと愚考します。

とりわけ、この部分には、しびれた。なるほど、そうだったのか、という感動があった。人によっては、当たり前じゃん、そんなことも知らなかったの・・・などと思うかもしれないが、わたくしは本年二月にまったく違った意見を書いているので、いわばそれをひっくり返されたようなアンバイなのである。

http://diary.jp.aol.com/ganko/651.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/652.html

ここには、れん氏のコメントもあって、それが現在とやや異なる点が興味深い。わたくしが言うのは失礼であるが、格段の成長を遂げておられるように感じられるのである。

さて、リンクを開くのが面倒臭い人もいるだろうから、わたくしがかつて書いたことを簡単にまとめておこう。
三大秘法は本門の本尊・題目・戒壇である。わたくしはこれを、仏・法・僧ではないかと書いたのだ。つまり、本門の本尊というのは人本尊であって、法本尊を含まない。法本尊は本門の題目に含まれる。そして、残りの戒壇については、戒壇がなぜに僧に当たるのかが問題であるが、それは省略させてもらう。興味のある人は、リンクを開いてみるといいだろう。
聞くところによると、日蓮宗系の学者にこの説を唱えている人がいるそうである。もっとも、それはわたくしには関係のないことであるが、ともかく三大秘法を仏法僧に当てはめる捉え方はなかなか魅力的であり、今もなお、わたくしは捨て難い気分なのである。

しかし、れん氏のコメントを拝見すると、やはり氏の説明のほうが正宗教学の見地からして本筋のように感じられるのだ。

それにしても、またしても傍意と正意がお出ましになった。わたくしは未だにこれがわからない。
ただし、ふと思ったことがある。もしもである、事相戒壇が傍意であるとするならば、同様に自行化他の題目もまた傍意であり、さらに無作三身の教主釈尊もまた傍意なのではあるまいか、と。
つまり、三大秘法抄は、傍意の本尊・題目・戒壇を説いていると・・・

この筋でいろいろ考えをめぐらせるのも面白い。だが、しょせんは観念の遊戯に過ぎないであろう。

2007/12/15

甚深甚深  
ご本尊様には「天照大神」もおられるので違うと思いますが・・・

ちょうど一週間前に、わだっち氏より頂戴したコメントの一部である。翌日、わたくしはいちおうの回答を示した。

何の話だか、さっぱりわからない人もいるだろうが、今日はそのまま話を進めることにする。

千葉会館の新館が完成した折、浅井先生は次の御書を引用していた。

総じて彼の国は天照太神のすみそめ給ひし国なりといへり。

仏法には偶然はない、すべて必然である、大聖人が安房の国に御誕生になられたことも必然である。安房の国は天照太神の住み初め給ひし国である。これもまた必然なのだと。
ようするに浅井先生は上掲の弥源太殿御返事を引いて、大聖人と天照太神の関係を云々しているわけであるが、わたくしはこの話を聞いた時にただちに疑問に思ったことがある。

久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神の、我が国に天下り始めし国は出雲なり。

産湯相承事である。天下り始めし国と住み初め給ひし国の違いがよくわからない。天下ることと、住み初めることとは別のことなのだろうか?
いずれにしても産湯相承事もまた、大聖人と天照太神のただならぬ関係が説かれる御書である。
さらには種々御振舞御書に、大聖人と天照太神との関係を示す御指南がある。

教主釈尊の御使ひなれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合はせて地に伏し給ふべき事なり。

これは強烈な御指南である。続いて、次の御文はいかがであろうか?

天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。

この日眼女釈迦仏供養事と種々御振舞御書をどのように拝すればいいのか、ひじょうに悩むところである。

といった具合に、天照太神の問題はけっこう難しくて、わたくしには未だに整理がつかないのである。これは八幡大菩薩においても同様である。そもそもが大菩薩というのだから、仏法上の因縁があるわけだろう。おそらく学問的には神仏習合だとか、そんなような言い方をするのだろうが、わたくしはあくまで大聖人の御指南を中心に考えているので、学問的な見地などはさして興味がないのである。

数日前に、最近は御義口伝を拝読している、というようなことを書いたと思う。で、上記のような問題意識を持って拝読していたら、思わぬ御指南を発見した。いや、発見というのは違う。前から知っていたからである。だが、問題意識というのは、つくづく大事だと思った。漠然と読んでいては、素通りしてしまって、いつまでも身につかないのである。

殊には此の八歳の竜女の成仏は帝王持経の先祖たり。人王の始めは神武天皇なり。神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり。此の葺不合尊は豊玉姫の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり。八歳の竜女の姉なり。然る間先祖は法華経の行者なり。甚深甚深云云。

八歳の竜女の姉というのが妙にリアルであり、凄い御指南だと思った。まさに甚深の御法門である。

2007/12/14

寿量品の本主は何人いるのか?  
//今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、

ここなんですね。南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主であると、ここなんです。


http://diary.jp.aol.com/ganko/954.html#comment

耕治氏のコメントである。いわく、ここなんですね、ここなんです、と。よほど強調したかったのだろう。確かにこれは強烈な御指南である。寿量品の本主・・・

もはや何の話か、わからなくなっている人もいるかもしれないので、少し経緯を説明しておく。
過日の質問会で耕治氏は、生死一大事血脈抄を引用した。その御文には久遠実成の釈尊とある。氏はこれを、大聖人のことだと主張した。その文証は御義口伝にあると。
その説明を、わざわざ拙ブログのコメント欄に、寄せてくれたのである。たくさん書いておられるが、その中でも上掲の部分すなわち「寿量品の本主」ということが、おそらくはもっとも有力な文証なのだろう。

わたくしはこれを、なるほど、と思った。だが、御義口伝はそれほど単純ではなく、一見すると矛盾しているように感じられる部分がそちこちにあって、それを考えているとキリがないくらいなのである。次の御文などはひじょうに悩ましい。

御義口伝に云はく、法華経の行者は真に釈迦法王の御子なり。然る間王位を継ぐべきなり。悉是吾子の子と是真仏子の子と能く能く心得合はすべきなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は釈迦法王の御子なり。

宝塔品二十箇の大事の、第十八 是真仏子の事、である。

寿量品の本主と釈迦法王とどっちが偉いのか・・・などというのは愚問であろうか?
あるいは王位を継ぐという意味が説かれているので、まずは寿量品の本主=釈迦法王とした上で、釈尊の跡継ぎとして大聖人が末法に来入して始めて本主となられた、と読むべきなのだろうか?
しかし、これだといわゆる久遠元初思想は、説明できないことになると思うが、違うだろうか?

そもそもわたくしは、御義口伝に頻出する「日蓮等の類」というのが、よくわからないのである。

先の寿量品の本主ということでも、本主がたくさんいることになってしまって、困りはしないかと思う。国主は一人である、という意味の御指南もあるくらいだから、大聖人御一人を本主とするならば理解できるけれども、御文のごとくならば南無妙法蓮華経を唱える者は全員が本主となってしまうわけである。
ある意味、民主主義などの現代思想とひじょうに近いものがあるので、ウケがいいとは思う。大聖人の御思想がいかにすぐれているかを、こうした点から取り上げる学者もいるようだし、おそらくは創価学会も同様の捉え方をしているわけだろう。

ここで法華講員ならば、ほぼ間違いなく総別の二義を使って説明することだろう。わたくしもそれがいちばん収まりのいい捉え方だと思う。日蓮等の類と言った場合、別しては大聖人御一人のことであり、総じては大聖人門下のこと、さらに拡大すればすべての人に当てはまるわけだろう。
それはもちろん承知していることなのだが、わたくしは御義口伝を拝読する度に、つまづくのである。早い話が未だにわからないことだらけなのだ。
しかし、いつまでも同じところにいても仕方がないので、今回のところはこれくらいで終わりにしたいと思う。

そうそう、耕治氏は引用しておらないようだが、同じく宝塔品の、第十三 若有能持 則持仏身の事、は注目である。

御義口伝に云はく、法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり。則の一字は生仏不二なり。上の能持の持は凡夫なり。持つ体は妙法の五字なり。仏身を持つと云ふは一々文々皆金色の仏体の故なり。さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云ふなり。理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり。即の字は「即の故に初後不二」の故なり云々。

生死一大事血脈抄との関連を思わせる御指南である。

2007/12/13

御義口伝を中心に  
今日はまず、訂正から申し上げなければならない。

わたくしは先日来、御本尊のことを依報・正報で捌くのはナンセンス、という意味を再三にわたって書いてきた。だが、これは不正確であり、誤解を招く可能性があることに、ようやく気がついた。
簡潔に書こう。本因・本果の法門という言葉がある。法門上、本因・本果はきわめて大事な要素であるが、実はもう一つ忘れてはいけない要素がある。それが本国土である。これを度外視してしまったら、仏法は成り立たないのだ。わかりやすく言えば、地に足が着いていないようなものなのである。
なるほど、耕治氏はこの点に着目していたのだ。氏の研鑽の深さを垣間見る思いである。

御本尊のことを正報・依報の捌きで説明すると1
たとえば御義口伝に

//第十六得見恒沙仏の事
法華経の法師品にですね、「恒沙の仏を見たてまつることを得る」という段があります。

//御義口伝に云く
この段の読み方を大聖人様は説かれていらっしゃいます。その内容は、ご本尊と私たちの関係の一側面が説かれているのです。
(後略)

http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html?b=10

わたくしは昨日、耕治氏の上掲コメントを、理解に及ばないと書いた。
しかし、ここに「一側面」とある。この意味では理解できるのである。あくまで一側面なのであって、これがすべてではないということであれば、さしたる問題はないであろう。
耕治氏は引用を省いているが、法師品の得見恒沙仏の事には、次の御文がある。

得見の見の字と見宝塔の見とは依正の二報なり。得見恒沙の見は正報なり。見宝塔の見は依報なり云云。

つまり、御本尊には依正の二報がそなわっている、二面性があるということなのだ。ゆえに、もしこれを無視して御本尊を依報の一面のみで捉えようとすれば、これこそ切り文の典型となるだろう。次の阿仏房御書は大いに参考になると思う。

阿仏房なさがら宝塔、宝塔さながら阿仏房

次は寿量品の、時我及衆僧 倶出霊鷲山の事、であるが、煩瑣を避けて一部を引用する。

御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。・・・霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。

ひじょうに面白いところである。わたくしには二様の拝し方が思い浮かぶ。
一つには、霊山=御本尊という読み方だ。しかし、この場合は少々無理がある。
自然な読み方は、御本尊のまします場所が霊山なのだという読みであろう。これは申すまでもなく、御本尊を正報の側に捉えているわけである。

その明確な文証は同じく寿量品の、建立御本尊の事、に出てくる。

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

御義口伝の難解さは、次のような御文があるからだろう。

今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の希有の地とは、末法弘経の明鏡たる本尊なり。

これは法師功徳品四箇の大事、第四 是人持此経 安住希有地の事、に出てくる御文である。
地というのは依報に相当するだろう。単純に読めば、地=本尊となる。だが、ここはいわゆる依義判文して、次のごとく拝してもいいだろう。先ほどの二様の拝し方に通ずるはずである。

希有の地とは、末法弘経の明鏡たる本尊の住処なり

いちおう補強の意味で、普賢品六箇の大事から、第六 此人不久 当詣道場の事、を引いておく。

御義口伝に云はく、此人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住処を云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり。此を道場と云ふなり。

今日はもっぱら御義口伝を引用させてもらったが、しょせんは俄か勉強なので、いろいろ間違いがあるかもしれない。

2007/12/12

依怙・依託  
リングが二つ並んでいて、別々のバトルが行なわれている。次元の異なるバトルである。それにもかかわらず、二つのリングを掛け持ちしているような、器用な人もいる。面白いものだ。

//御本尊のことを正報・依報の捌きで説明することがナンセンスというか、おそらくはこれまで誰も取り組んだことのない分野なのだと思う。//

天台も大聖人様も、といていらっしゃいます。すでに答えは大聖人の法門においては解決されている事項ではないのですか。

御義口伝をずーと通解していけば、解消すると思います


http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html?b=20

耕治氏のコメントである。誤解があるといけないので正確に言えば、最初の三行はわたくしの文章で、以下が耕治氏のコメントである。そしてこの後に、御義口伝を引いて説明しているコメントがあるけれども、どうもわたくしには理解が及ばない。

過日の質問会に話を戻させてもらおう。耕治氏は御本尊を依報であると説明していたのだ。これが納得できなくて、わたくしは強いて言えば正報ではないのか、と書いた。さらに、そもそもが依報・正報で論ずることがナンセンスなのではないか、とも書いたわけである。

ここで草木成仏口決にある依怙・依託に注目してみたい。

我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり、

次に観心本尊抄を拝する。

草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。

木画の像を本尊に恃む・・・この恃むを換言すれば、依怙・依託とも言い得るだろう。なるほど、この意味からすれば、本尊を依報とすることも強ち間違いではないことになる。
ただし、それは大聖人の御本意ではない。よく拝して行けば、意味の取り違えに気がつくであろう。その理由は諸法実相抄に明らかである。

問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、下地獄界より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。

耕治氏はコメントのどこかで、森羅万象ないし森羅三千という言葉を使っておられた。正宗にはいわゆる法界即日蓮という教義がある。まさに法界とは、森羅万象のことに他ならない。そして森羅万象とは、依報・正報をひっくるめて全部を意味するのである。このことを踏まえて上掲の諸法実相抄をよく拝するならば、御本尊を依報に固定するわけには行かないことがわかる。また、わたくしは条件付きで正報だと書いたわけだが、これも厳密には間違いということになる。

さて、話は振り出しに戻る。依怙・依託の意味は、われわれ衆生にとってはまさに恃みとするべき意味である。大地がなければ草木は存在し得ない。われわれも同様なのだ。

だが、大聖人の御立場での依怙・依託はじゃっかん意味が異なるのである。

要を取って言えば、大聖人は一念三千を識らざる末法のわれわれのために御本尊をあらわしてくださった、その御本尊をあらわす手段として非情たる草木を用いられた、具体的に言えば、紙と墨を用いて書きあらわしてくださった・・・

つまり、大聖人は御本尊を書きあらわすために、非情の草木に依怙・依託されたのである。ちなみに、有情への依怙・依託は、日興上人への御相伝がそれであろう。

これらのことを踏まえて木絵二像開眼の事を拝すると、開眼の必要性がよりいっそう鮮明になってくるのではないかと思う。


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