2007/12/11

是三無差別と謂己均仏の争い  
コメント欄においては、当ブログ始まって以来の、高度(?)な議論が行なわれている。しかも、わたくしならば一週間ないし十日は要するだろう内容を、わずか一日の間に論じているのである。これには恐れ入った。
だが、逆に言うと、拙速である。雑と言ってもいいだろう。もっとも、こういうことを書くと、どこがどう拙速なのか述べよ、などと言われかねない。
いちおう、あらかじめ答えておこう。わたくしは内容の正否を云々しているわけではないのだ。それ以前の問題である。ようするに、読者に不親切な文章だと言いたいのである。読んでいて疲れる。わけがわからない。
生意気を言うようであるが、わたくしの文章はそこそこ読める文章になっていると思う。大した内容ではないけど、意味の通る文章を書いているつもりである。その秘訣は、一日に一回しか投稿しないことと、一話完結であることだ。
コメント欄でのやりとりを見ると、一話完結ではない。そりゃそうだ、相手とのやりとりなんだから。それから一日一回ではない。もう、これはどうしようもない。膨大な量のコメントを読者が根気を入れて読むしかないのだが、たいていは途中で読む気が失せてしまうものだと思う。
つまり、読者にとっては、内容の正否を判断する以前に、その内容を把握する作業が必要なのである。だが、それがひじょうに面倒臭いのだ。読んでいて、すんなりと理解できる、自然に理解できる、そういう文章を心掛けたいものである。

この要「(一大秘法の)南無妙法蓮華経」を開くと、三大秘法の南無妙法蓮華経になります。

一大秘法(要)=南無妙法蓮華経(如来)
三大秘法(三如是)

報身=久遠元初の自受用報身如来(大聖人様)
法身=事の一念三千(ご本尊様)
応身=我等衆生(戒壇)→諸法


八日のコメント欄からであるが、これはもちろん、耕治氏の文章である。

一大秘法を開くと三大秘法になる。そりゃそうだ。

ただし、耕治氏の説明にはじゃっかんの補足が必要だと思う。一大秘法の南無妙法蓮華経というのは、本尊のことである。これをはっきりと書いておかないといけない。これがアイマイであるからこそ、過日の質問会で樋田氏は、三大秘法を強調したわけである。
もっとも上掲の図では、南無妙法蓮華経にカッコで如来を書き加えているので、いわゆる題目の意味ではなく、本尊の意味を持たせているのだろう。これはいいと思う。
だが、その次の三大秘法に三如是とあるのは、どういう意味だろうか? これがわからない。渡辺氏はこれを頭ごなしに否定するコメントを書いておられるが、わたくしも気分的には近いものがある。しかし、ワンクッション設けるのが礼儀というものだ。耕治氏のことだから、何かしら根拠があって書いたわけだろう。そこを説明願いたいものだ。
さらに、次の報身・法身・応身の捌きが難解である。これも根拠はどこにあるのか、教えてほしいものである。

そうそう、一大秘法の南無妙法蓮華経とは本尊のことである、と書いた。これの根拠は本尊問答抄が手っ取り早いだろう。だが、御書の解釈論は煩瑣なので、さらに端折ってしまえば、ようするにこれが正宗教学の重要なポイントなのである。他門ではこれを、本尊ではなく題目のことだと思っているらしく、では本尊とは何かといえば、釈迦像だったりするわけである。

今日はこんなところで・・・

2007/12/10

耕治氏のコメントを拝して  
耕治氏には、わたくしのような一視聴者に過ぎない者の要望をお聞き入れ下さり、たいへんありがたく存じます。今、繰り返し拝読しておりますが、何しろ元来が凡愚ゆえになかなか理解が及びません。また、失礼ながら、部分的には誤解があるのではないか、というふうにも思っております。今日はその辺のことを書かせていただきますが、以下はいつもどおりの独白調でまいりますので、ご無礼の辺はあらかじめご宥恕たまわりたく存ずる次第です。

http://diary.jp.aol.com/ganko/954.html#comment

ひじょうに濃密なコメントである。そもそも創価学会員は御義口伝が好きらしく、各種の掲示板を見ていても、しばしばその引用を目撃する。しかし、今回の耕治氏ほどに、集中的に取り上げられた例はあまりないのではないかと思う。これは凄いことだ。

しかしながら、次の箇所などは誤解に基づく記述ではないかと思うが、どうだろうか?

仏と衆生の差とは、

仏=自分が南無妙法蓮華経如来だと知っている
衆生=自分が南無妙法蓮華経如来であることを忘れている

の差でしかないと、大聖人様は仰せです。
(御義口伝全般、諸法実相抄、当体義抄など)

これがなかなかわかってもらえなのです。この話をすると皆さんは「いや、仏と衆生はそもそも当体そのものが違う」
「故に大聖人さまの内証を顕したご本尊と拝む私たちは無関係」「よって、本尊が正報、私たちが依報」と思うわけです。
「ご本尊を顕した大聖人様は依報に過ぎず、顕されたご本尊こそが正報」とは、思わないのにです。


前半部分の、仏と衆生の差はそのとおりであるが、後半部分は誤解であろう。

仏と衆生は当体が違う

これは微妙なところである。いわゆる理性所具の意味では同じであるが、実相証得という意味では違うことになる。
おそらくこの点では耕治氏も異論はないはずである。なぜならば、前掲の前半部分は表現こそ違うものの、同じ意味に通ずると思われるからである。別のところでは、「衆生と仏の差は、それを覚知してるかしてないかの差でしかない」とも書いておられるわけで、このこと自体は誰も否定していないと思う。
問題は、その覚知とはどういうことなのか、である。いちおう、わたくしも法門を学んで、その道理は理解したつもりである。だが、それを覚知と言えるのか、それが問題なのだ。ここで、三大秘法抄に出てくる実相証得という言葉を使用したのは、まさにこのためである。単に理屈を知っているだけでは意味をなさない、ということなのだ。

ここまで説明すれば、おそらくは法華講員も創価学会員もそれほど異論はないだろうと思う。このように意見のすり合わせは可能なのだが、どうやら話がかみ合ってしまうと困るらしい。そこが悲しいところだ。

御本尊と我々は無関係

これは誤解であろう。そんなこと誰も言ってませんから・・・というようなセリフが法華講の諸氏から発せられそうである。

善意に読めば、これは誤解というよりも、おそらくは耕治氏の誇張表現なのだろう。これまた創価学会員が好きな日女御前御返事であるとか法華初心成仏抄には、御本尊はわれわれの己心にあるのだ、という意味が説かれている。であれば、大いに関係ありということになるし、極論すれば御本尊=自分ともなることだろう。ややもすれば法華講員がツッコミを入れてくるところではある。
御本尊がそのまま自分だったら、御本尊なんて必要ないじゃないか、云々かんぬん。
これを耕治氏は、御本尊と自分は別々だと言っているように理解し、この別々を無関係と表現したのだろうと思われる。

この辺は言葉のアヤというか、瑣末な議論に陥っていると思う。いちばん簡単に説明すれば、御本尊を拝むという行為、すなわち南無する行為は関係を結ぶということなのだ。正境に縁すれば・・・との言葉もある。ゆえに法華講員の言わんとしていることは、積極的に関係を結んでいく必要があるという意味に受け取るべきであり、これがいわゆる信力・行力ということなのだろう。

御本尊が正報、我々が依報

これもまた、そんなこと言ってませんから・・・で、終わってしまうところだ。

十日ほど前の拙稿で書いたように、強いて言えば御本尊は正報だと思う。では、われわれは依報なのかというと、それは違うだろう。われわれも正報なのだ。これをズルイと思ってはいけない。ようするに、そもそもがこれを二者択一しなければならない理由は、どこにもないのである。

それ以前に、御本尊のことを正報・依報の捌きで説明することがナンセンスというか、おそらくはこれまで誰も取り組んだことのない分野なのだと思う。ゆえに、これをもっと精密に考究していけば、もしかしたら大発見があるかもしれない。

いや、それは無理かな・・・

2007/12/9

郷愁と感傷のブログ  
 仏界湧現の文証

 信心口唱によって仏界が湧現するということを、大聖人の御指南に拝してみよう。
 「但一向に南無妙法蓮華経と唱へさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)
 私たちの唱え奉る題目は、御本尊の名前である。名をを唱え奉ることにより、体である御本尊に通じ、我が生命に仏界が湧現するのである。
 また
 「口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕われ給う」(法華初心成仏抄)と。
 また
 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う。始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし」(松野殿女房御返事)
 ――南無妙法蓮華経と、御本尊を信じ唱えれば、凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。始めはそのことがよくわからないが、自覚できるにつれ、歓喜の心が湧いてくる――と。
 さらに日女御前御返事には
 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
 ――この御本尊を、自分を離れたよそにあると思ってはいけない。ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである――と。すなわち信心口唱により、御本尊が我が身に住する、我が身が御本尊と一体になると仰せられる。なんと有難いことではないか。即身成仏とはこれである。


まず、れん氏に申し上げたい。わたくしは普段、生意気なことばかり書いているが、実際には中身がともなっていないのである。ゆえに、根拠を尋ねられても答えられないことのほうが多く、いわゆる日蓮本仏論にしても曼荼羅正意論にしても、一度としてまともなことを書いたことがないである。ようは顕正会で教わったことを素直に信じてしまっている・・・というレベルなのである。そもそもが大した資料を持っているわけではないのだ。早い話が大して勉強していないのである。

さて、わだっち氏の疑問であるが、具体的にはどこがどう違うと思うのか、それがよくわからないので、以下は推測である。おそらくは、法華経=御本尊ではない、法華経には天照大神が説かれていないから・・・という意味ではないかと思う。
わたくしは法華経を通読したことがないので、その辺のところは何とも申し上げられない。また、上記のごとく、それほど勉強しているわけではないので、詳しいことはわからない。
ただし、一つ言えることは、十一月十八日の質問会で樋田氏が言っていたことからしても、共通認識は間違いないと思う。氏は、元意の辺において法華経=御本尊である、という意味を言っているのである。
また、創価学会側すなわち沖浦耕治氏は、御書中の釈尊を大聖人と解釈していたが、これに法華講員はツッコミを入れてきた。その意図するところは、その拝し方は日蓮正宗独自のものである、創価学会はそれを踏襲しているのだ、ということなのである。

そこで冒頭の文章が活きてくる。

これはかの有名な折伏理論書である。顕正会における教科書みたいなものであるが、おそらく大筋においては、正宗教学と一致していると思う。細かい点では文句があるかもしれないが、それはご容赦願いたい。

注目すべき点が、二つあると思う。

凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。

ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである


まず上段であるが、御書の本文は単に釈迦仏となっている。それにもかかわらず、カッコ書きで本因妙の釈迦仏とし、さらにはそれを大聖人のことだと書いているのである。

下段はちょっとわかりにくいかもしれないので、御書の本文をよく確認されたい。「只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」云々とあるのだ。これを浅井先生は、御本尊を信じ云々としている。つまり、法華経の部分を御本尊と読ませているわけである。

わたくしを含めて、顕正会員はさしたる資料を持っていない。ゆえに、浅井先生の記述をそのまま信じる以外にないわけであるが、この部分に限って言えば、結果オーライということになるだろう。
人によっては顕正会を、妙信講時代からすでにおかしかった、という見方をしているようである。だが、元来は純然たる正宗教学を真面目に学ぶ講中だったのだと思う。
わたくしはその余韻を味わうことのできた、ギリギリの世代かもしれない。

2007/12/8

質問会に勝敗をつけるとしたら・・・  
渡辺氏への返事を書いておこう。日蓮正宗要義、持ってないんだもん、以上。

沖浦氏が面白いことを書いている。質問会に勝敗をつけるとしたら、耕治氏の勝ちであると。これについては異論もあることだろうが、目くじらを立てるほどのことでもあるまい。
わたくしはさらにヒネリを利かせて、質問会の勝者は沖浦耕治ではなく、沖浦克治ではないか、ということを言っておきたいと思う。
なぜかならば、二回目の質問会で樋田氏側の作成した全体映像を視聴して感じたのである。画面の遠くのほうに克治氏の姿が垣間見える。どうやら撮影係りに徹しているらしく、ほとんど言葉を発しなかった。いつもなら、口出ししないと気がすまない、あのオシャベリジジイが、まったく口を挟まなかったのだ。これは驚天動地のことである。

わたくしの思うに、正邪を抜きにして考えたならば、どこの宗派でも共通の悩みを抱えているのではないか。それはいわゆる法統相続のことである。これは法華講はもとより、創価学会も正信会も、あるいは顕正会も同様である。
人数が多い意味では、この悩みは創価学会員がいちばん深刻なのだと思う。例えば、大幹部がいる。創価学会は層が厚いから、なかなかそこまで行くのはたいへんなことである。誰からも羨望の眼差しで見られるような、そんな大幹部がいるかもしれない。だが、その息子がどうしようもない、ドラ息子だったりすることもあるのだ。
こうして見ると、沖浦親子がいかに理想的な存在であるかが明瞭になってくる。父親は息子を信頼し切っている。だから口出しせずにカメラマンに徹していたのだ。そして息子も父親の期待を裏切らず、堂々たる振る舞いを示した。なかなかマネのできることではあるまい。

 貴方との法論、耕治の向学心に火をつけてくれました。
 ありがとうございます。


これは特設テーマ法論館から拾ってきたものである。ある意味、沖浦家における法統相続は、六月の法論で決定したと言えるだろう。ゆえに克治氏は法論の相手方に感謝の言葉を述べているのである。

さて、今回の質問会で耕治氏は、生死一大事血脈抄を引用していた。

然れば久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。

確か富士宮ボーイ掲示板だったと思うが、ずいぶん前にわたくしは以下のような投稿をしたことがある。

http://diary.jp.aol.com/ganko/108.html

ようするに日蓮正宗系統では、ここでの釈尊を大聖人とし、法華経を御本尊のことだと解釈することが、いわば共通認識なのだ。ゆえに本来ならば議論の余地はないのである。
ところが今回の質問会では、本尊抄の仏像をどうして文字曼荼羅と解釈するのか、という問題提起があって、これに関連して報恩抄の「本門の教主釈尊」云々のことも引き合いに出された。同様の意味で、生死一大事血脈抄の「久遠実成の釈尊」についても、なぜこれが大聖人なのか、という質問が出されたわけである。

耕治氏は、御義口伝を読めばわかる、という意味の回答をしていた。また、これを詳しく説明するのは時間が掛かるので、この点は双方の共通認識であるという前提で話をしたい、という意味のことも言っていた。

わたくしはこのところ御義口伝を拝読している。何回目の拝読だろうか・・・ともかく何度も読んでいるけど、未だにわからないことのほうが多い。で、たまたま耕治氏が御義口伝を云々していたので、そのことを念頭において拝読しているわけだが、それでも久遠実成の釈尊を大聖人のことだとする理由がなかなか見えてこない。

そこで思うのだが、耕治氏は質問会で時間が掛かるとして説明を省いた点を、掲示板などを活用して可能な限り説明するべきではないか、ということである。

これは先日も書いたことだが、法華講員はこれを御相伝がなければ正しく拝せない、という手抜き(?)の論法で片付けているのである。ゆえに、もし耕治氏が御相伝書を抜きにして、これを論証できれば、快挙であろう。
創価学会の教学は現在もなお、正宗教学に依存しているところが少なくない。だから法華講員に突っ込まれるのだ。
しかし、怖いところである。正宗教学を離れることは異流儀化に他ならないからである。もちろん顕正会も例外ではない。

2007/12/7

質問会と法門集大成  
先月の質問会については、まだ書いていないことがたくさんある。今日は樋田氏の説明で間違っている部分、もしくは説明の仕方がまずかったと思われる箇所を取り上げたい。

大聖人の伝持されたものは、大きくいえば南無妙法蓮華経、詳しくいえば三大秘法である。

だいたい、こんなふうに言っていた。この前後のやりとりをよく聞いていれば、樋田氏の言わんとしていることの大旨そのものは間違っていないわけだが、しかし、ここはちょっとまずかった。なぜならば、耕治氏はこれを、次のごとく受け取ったからである。

広略要の内では、南無妙法蓮華経が略で三大秘法が要である、というのが日蓮正宗の教義である。

そんなはずはない。だが、法華講の諸氏はこれを訂正しなかった。もちろん、先に記したように大旨は間違っていないので、じっくりと視聴していけば全体の脈絡として理解できるところではある。ただし、この部分だけを取り上げれば、樋田氏の説明が悪かったのだと思う。

大聖人の仏法は、大雑把にいえば南無妙法蓮華経であるが、より正確にいえば三大秘法の南無妙法蓮華経である。

いちおう、わたくしの修正案である。
ぶっつけ本番というか、ライブ映像の特質であろう、こういう些細な間違いはたくさんあるわけで、それをあげつらうのは簡単なことだ。では、自分がその立場になったらどうかと言えば、もっとヒドイことになっているだろう。それこそ支離滅裂なことをしゃべっている可能性が高い。
どちらかと言えば、樋田氏は間違いの少ないほうだろう。場数を踏んでいることもあるし、それ以前に御書がしっかりと心肝に染まっているので、大きな間違いはしないのである。

大聖人の御出現以前にも、南無妙法蓮華経は存在した。しかし、それは三大秘法の南無妙法蓮華経ではない。別の言い方をすれば、理行の題目ということになる。
樋田氏は話の続きの部分で、単に南無妙法蓮華経と言っただけでは身延も立正佼成会も同じになってしまう、と述べていた。まさにそのとおりである。ここで、いちおう前言は修正されたことになるが、この際だから、さらに細かいことを指摘しておきたいと思う。

いわゆる先判・後判のことを説明していた。しかし同時に、南無妙法蓮華経と三大秘法は対立概念ではない、という意味のことを述べていた。
一生成仏抄(生死一大事血脈抄の言い間違い?)と三大秘法抄を先判・後判で捌こうとしていたようだが、そもそも対立概念ではないのならば、その捌き方は不必要であろう。
ちなみに、それが必要な場合の好例は、報恩抄と本尊問答抄であろう。報恩抄では釈尊を本尊とし、本尊問答抄では題目を本尊としている。しかも対告衆が同じであるから、ひじょうに悩ましい。このもっともシンプルな解決法が先判・後判なのだ。

いずれにしても基本は、先判・後判ではなくて、どのように整合性を持たせるか、それが御書の拝し方としては望ましいことだと思う。

さて、話は脱線するが、勝ち戦の第100号を読んで驚いた。

日顕が駄本『法門集大成』を出版!

あれ? と思った。中身を読んでみると、まだ出版されたわけではないらしい。

 高野は日顕についても「御隠尊日顕上人猊下は八五歳の高齢をもって今甚深の御法門の御講本を集大成して出版されるための毎日を送っている。(後略)

わたくしは半年前に、御隠尊猊下に残された最後の仕事、というタイトルでまさに「集大成」のことを書いたのだった。これは法華講員にはずいぶんと不評だったが、それはわたくしごときが猊下のことを云々することを不快に思ったわけだろう。それは致し方のないことであるが、いずれにしてもわたくしの見通しは正しかったのだ。

樋田理論というわけではないが、ともかく日顕上人の御著作が出来すれば、それこそが上人における後判に相当するわけである。わたくしは戒壇論に注目したい。御高徳の日顕上人のことであるから、当然ながら末法万年を視野に入れての御述作であろう。読む前から駄本などと決めて掛かっている連中もいるが、それらは論外にしても、内外から大いに注目されることは間違いないことである。


十二月八日追記:一字欠損があったので、加筆した。いよいよ耄碌してきたものだ。

2007/12/6

分散話題  
 例えば今回法華講の方々はすべて身分証を提示し、誓約書にサインをなさいました。
 ご立派です。
 創価学会員で同じことが出来る人は何人いるでしょうか?
 樋田氏は敵地に乗り込んでこられました。
 まねできる創価学会員は見当たりません。


http://diary.jp.aol.com/ganko/936.html#comment

話がさかのぼるけれども、上掲は沖浦氏のコメントである。このように、相手のすぐれた点を認める度量を持つ意味で、氏もまた、たいへん立派な人物である。

法華講の面々が立派であることは承知している。それは上掲の事例が物語って余りあるところであるが、それだけではなかった。わたくしは、樋田氏のサイトを見て、さらにたまげた。

十一月二十四日の質問会の映像は当初、仮映像という名目で公開されていた。では、本映像とはどんなものかと思って、その出来を待っていた。
なんと本映像では、質問者の姿を公開しているのである。つまり、法華講側の人間はすべて公開されることを承知した上で、過日の質問会に望んでいたのである。
確か樋田氏は、掲示板でメンバーを募る時に、顔を知られるのが不都合の人にはマスキングの処理をするという意味のことを言っていたはずである。しかし、わたくしは思った。かえってそのような映像はウサン臭くなると・・・
ところがである。樋田氏のサイトに出された映像には、そのような細工はまったく行なわれておらず、法華講の面々はすべて堂々たる姿で映し出されていたのだった。

たまげたものである。

しかも皆さん、立派な姿というか、外見だけで判断するならば、男前ばかりを揃えたような感じである。いや、もちろん、中身もたいへんなものであるが・・・

冗談をかましておこう、かの面々の中では樋田氏がいちばんダサい・・・まあ、ラフなかっこうをしているわけなのだが、おそらくは知らない人が見たら、なんだこのオッサンは? というふうに感じるはずである。

多くのメールマガジンやブログが長続きしないのは、「反応を期待する」からだ。で、期待通りの反応がなかったり、意に反する声が増えてくると、キーボードを打つ力が萎(な)える。

話は変わるが、小野不一氏のメールマガジンが明日で千号を達成するらしい。なるほど、反応を期待しないからこそ、千号まで続いたわけであろう。ある意味では、わたくしの独白ブログに近いのかもしれないと思った。しかし、決定的に違うことがある。氏のサイトには一日あたり六千人の閲覧があるのだそうだ。これは桁違いである。まったく太刀打ちできるものではない。

だが、しかし、拙ブログも気がつけば、これで九百五十二回目である。千回は時間の問題であろう。あるいはその直前で事切れる(?)かもしれないが、ともかく千回までは頑張ろうと思う。その後のことは考えていない。

2007/12/5

話題分散  
昨日分のコメント欄はひじょうに有意義である。

ことに水無月氏の鋭い分析には感銘した。さすがは事情通である。そこらのシロウトには絶対に書けない文章である。

拙稿と基本線は同じだと思う。だが、決定的に違うのは、わたくしのは憶測に過ぎないけれども、氏のはまさに分析である。ちゃんと材料を揃えて論じているし、観察眼にすぐれているので、相当に説得力がある。まあ、ここでわたくしがヘタに説明するよりは、各自でご覧になられたほうがいいだろう。

山門入り口氏は、今後も有料スペースを借りてサイトを構築するつもりはない、ということらしい。
それはそれでけっこうだと思う。一昨々日に書いたことはあくまで一つの考え方であって、それがすべてではない。わたくしとて将来的には無料スペースを利用するかもしれないのだ。
ただちに実行するつもりはないのだが、一つの選択肢として想定していることがある。それを説明するのは面倒なので、具体例を出しておこう。
「創価学会からの脱会を考える会」がその好例である。同会は、いったいどうなっているのか不明であるが、リンクをたどると関連サイトがたくさんあることに驚かされる。一説には、れいな氏の一人相撲であると言われている。はたして、たった一人の手であれだけの広範なサイトを構築できるものかどうか疑問だが、仮に事実だとしたらスゴイことである。わたくしはそのバイタリティに敬意を表したいと思う。
ようするに、無料のスペースを有効に利用すれば、わたくしも同様のことが実現可能なのである。しかし、面倒臭くてやる気がしないし、この独白ブログで精一杯なのだから、おそらくは永遠にやらないだろう。

それから動画の紹介をたまわった。しかし、あれは何かの動画の一部であろう。すでに視聴したことのある内容だった。

そうそう、そういえば、フェイクがめずらしく顕正会の話題を書いている。文章自体は書き下ろしなのだろうが、内容そのものはすでに出尽くしているものばかりで、まったく新鮮味がなかった。
困ったものである。宗門の話題を書くにしても、まるで新鮮味がない。そろそろフェイクも廃刊にしたらどうだろう。
もっとも、こういうことを書くと、オマエもそろそろ引っ込んだらどうだ、みたいなコメントがありそうだが・・・

さて、最後に沖浦氏への返事を書かねばならない。

すでに山門氏が言っておられるように、無理だというのが結論である。
まず、わたくしに質問会のセッティングをせよとの話であるが、残念ながらそういう立場にはない、というのが現在のわたくしの偽らざる状況である。顕正会の組織から遠のいている立場で、顕正会員を集めて質問会を開催することなど、できようはずもないのである。
ましてや、わたくしはこの独白ブログという形でのネット活動を、秘匿したままなのである。誰も知らないのだ。つまり、質問会を開催することは、わたくしの正体を明らかにする行為に他ならないわけである。それは今のところ回避したいと思っているので、結論としては、沖浦氏の要望にはお応えできかねる、ということになる。

そもそも質問会というのは何が目的なのか、おそらく顕正会員には理解できないであろう。
顕正会の活動会員というのは、あくまで相手のことを折伏の対象者として見るわけである。先日はこれを、元顕正会員のブログで問題にしていた。対象者という言い方はおかしい、というのが結論である。それはともかく現実的には、顕正会員にとって非顕正会員は、すべてが折伏の対象者なのである。ゆえに、創価学会員の沖浦氏が質問会を開いて顕正会員からの質問を受ける、などと聞けば、なんだそりゃ? というのが平均的な顕正会員の反応だと思う。
まあ、こんなところである。

それでもなお、顕正会員とのセッション(?)をお望みならば、もっと他の企画を考案すべきであろう。

2007/12/4

信心に距離は関係あるのか?  
三条会館改修完了、12月9日より開館
   長岡事務所は11月25日で閉鎖

 新潟県の三条会館は平成16年7月の大洪水で一階部分が浸水して以来、同年に新潟会館が新設されたこともあって閉館となっていたが、このたび改修工事も完了し、12月9日(日)より再開されることになった。
 なお三条会館より約30キロメートルに位置する長岡事務所は耐震強度の不足が判明したので、11月25日をもって閉鎖された。


顕正新聞第1086号が届いた。上掲は一面の下段にある小さな記事の全文であるが、わたくしは気に入らなかった。どうも印象的には、計画的統廃合のように思えてならないのである。

まず、顕正新聞の前号には、いわゆるビデオ放映の会場一覧が最終面に載っていて、長岡事務所も十一月二十八日から十二月二日まで予定が組まれていたことがわかる。しかし、閉鎖になってしまったのだから、行なわれなかったのだろう。これがいかにも、わざとらしいのだ。
三条会館が再開されることになった。それはけっこうである。普通ならば、この開館と同時に事務所の閉鎖を行なえば、きわめて効率的である。しかし、人命に関わることであるから、そんな悠長なことは許されない・・・耐震強度不足が本当ならば、である。
何しろ先例があるのだ。青年会館の閉鎖である。あの時はいかにも不可解だった。それがあるので、素直には信じられないのである。

もちろん、ウソか本当かを証拠付けて論ずるだけの材料はない。ゆえに、以下はすべて憶測であることを付言しておきたい。

統廃合と書いた。
わかりやすく言えば、それほど伸びていないのではないか。もし長岡市でも弘通がめざましく伸びていれば、むしろ会館を建設してもいいはずなのである。しかし、そこまでの拡大はない。ようは三条市と長岡市を合わせて、ちょうどいい人数なのだろう。それを外部に悟られたくないという意味があるのではないかと思う。
いや、もちろん、内部向けの意味もあるだろう。長岡市で真面目に活動している会員にとっては、不満があるかもしれないからである。ゆえに、それなりの理由付けが必要だったということだ。

繰り返しになるが、上記はあくまで当てずっぽうである。しかし、冒頭の記事は、そのように勘繰りたくなるような、イヤラシイ文章なのである。執筆者はそこに気がつかないといけない。
つまり、三十キロメートルがいけないのである。
そんなことは関係ないのだ。書く必要はなかったし、むしろ書くべきではなかったのだ。これがあるからイヤラシイのだ。これでは長岡市の会員に、三条会館へ行けと言っているようなものなのである。この場合、そういう間接的な表現方法は好ましくないと思う。はっきりと、長岡事務所へ参詣していた会員は三条会館へ参詣されたい、と書けばよかった。
いや、別にわざわざ書くこともない。そんなことは会員が自主的に判断すればいいことなのだ。おそらくは今後、柏崎事務所に流れる人もいることだろう。長岡から見れば三条も柏崎も、距離的にはほぼ同じくらいである。

折伏理論書に、信心に距離は関係ない、と書かれている。しかし、物は言い様であるから、信心に距離は関係ないとは言えない、とも言い得るだろう。

2007/12/3

同苦と異苦の狭間にて  
わだっち氏のコメントを約言すれば、顕正会は馬鹿である、ということだろう。それはそうかもしれない。だが、今回の場合は、何も顕正会のシワザと決まったわけではないので、馬鹿と断定するわけには行かないだろうと思う。
別の言い方をしよう。顕正会は馬鹿である。それはそうなのだが、さすがにそこまで馬鹿ではないだろう、ということなのだ。逆に、わだっち氏こそ証拠を提示すべきである、と顕正会員が反論してくる場合もあり得るので、気をつけたほうがいいと思う。
ゆえにわたくしは、別の犯人の可能性もあるだろうと書いておいたのである。

さて、今日はめずらしく頭の中がカラッポなので、簡単に済ませてしまおう。

涅槃経に云はく、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く如来一人の苦なり」等云云。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。

先ほど、御書システムの今月のコラムを読ませてもらったところ、この御文がテーマとなっていた。これは申すまでもなく諫暁八幡抄のきわめて重要な御文である。

今月のコラムは秀逸である。執筆者は、異の苦と同一の苦の違いに着目し、そこに大聖人の御自覚を拝している。これは富士門流の正統教学に基づくものだろう。
わたくしは今まで、この違いについてはほとんど考えたことがなかった。そもそも涅槃経の「異の苦」がどういう意味なのかも、いまだによくわかっていないのだ。

考えてみれば、変な言葉である。そこで調べてみた。

異の苦:214件
同一の苦:5件
同一苦:51件
同苦:8510件
異苦:828件

今現在の検索データである。単純な比較は、同苦と異苦であろう。これがなんと、一桁も違っているのである。確かにそのとおりだと思う。同苦のほうが世間的にもウケがいいはずなのだ。異苦は考えてみれば意味不明のようなものであるし、世間的にも違和感があるに違いない。
つまり、現代感覚では受け入れ難い、それが涅槃経の「異の苦」なのである。
いちおう、コラムの執筆者の読み方はスッキリしていて、富士門流のわれわれにはスンナリと受け入れられるところである。だが、問題がないわけではない。なぜならば、御義口伝には大聖人の御言葉として、そのまま「異の苦」が使われているからである。

そういうわけで、これは今後の課題としたい。

2007/12/2

削除の理由は何だったのか?  
2007/11/30 21:58
投稿者:山門入り口
http://www.rak2.jp/hp/user/sanmon/

11月度、総幹部会動画UPしました。
動画を見ての感想BBSも開設しました。
http://www.rak2.jp/hp/user/sanmon/

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2007/12/1 11:55
投稿者:山門入り口

HP削除されました。(笑)
次は海外にでも設置しますか?^^
本部関係者にいっときますが、やる気をだせば、自前サーバーを立てることも可能ですよ。



山門入り口氏のコメントであるが、日時をよく確認されたい。上段は一昨日の夜十時ごろのコメント、そして下段は昨日の昼頃のものである。この迅速な削除は何を意味するのだろうか? きわめて不審である。

ホームページ作成知識がない方のための簡単!無料ホームページ自動作成。

山門氏の利用していたサーバーのうたい文句である。利用規約を読んでみようと思ったが、どういうわけかそれが見当たらない。いちおう利用規約のリンクはあるのだが、それをたどっても規約が出てこないのである。ただし、次のような文言がある。

注:ユーザーが削除した覚えがない場合。
長期間、更新、書込みの無いユーザーページは、ご利用されていないと判断した場合、管理者により削除しております。サーバースペースの有効利用のためご理解ください。尚、ページが削除されていました際は、再度新しくホームページを作成していただけます。また、規約違反や苦情などによりページが削除される場合もあります。善良なシステムの維持管理のため必要と判断される場合、規約に従いページが削除されます。


規約違反や苦情など・・・

なるほど、規約は見当たらないので、消去法で考えれば苦情があったことになるだろう。それで削除されたのだろうか?

ここで疑問に思うことは、削除の理由は開示されないのか、である。
具体的に誰々から苦情があったとは言えないにしても、苦情があったので削除しますという通知があってもよさそうなものである。あるいは内容的に問題があることが明白ならば、これこれの理由で削除しますという連絡があって然るべきであろう。
黙って削除されたのでは、たまったものではない。

さらに不審なのは、例の動画サイトのほうは今も残っていることだ。

以前、山門何某という名義でコツコツと、なんと百以上もの動画を掲載していた。それは残念ながら削除されてしまった。これは当ブログでも過去に書いたとおりである。
その後、今度は裏門何某の名義で掲載し始めた。現時点で早くも四十一件の動画が集められている。
ようするに、これが手付かずであることが不審なのだ。ホームページだの掲示板だのは立ち上げたばかりで、さしたる中身があったわけではない。わたくしの閲覧した時点では、山門氏の挨拶が投稿してあるだけで、他の投稿はまったくなかったと思う。いったい、これのどこが問題だと言うのか? 逆に動画のほうこそ問題ではないのかと思うのだが、違うのだろうか?

もしこれを、本部関係者がやっているとしたら、そのチグハグさが目立つばかりである。

ゆえに、あるいは顕正会のシワザではないかもしれない、という可能性も考えておく必要があるだろう。さりとて、他に犯人がいるようには思えないのだが、こればかりは何とも言えないところである。現段階では、一切の先入観を打ち払って、冷静に事態の推移を観察するしかないであろう。

わたくしの思うに、無料レンタルという点に甘さがある、もしくは甘えがあるという気がする。

うまい例を思い付かないが、観光地などにはレンタル自転車というのがある。これに無料と有料があったとしよう。どちらを選ぶかと問われれば、無料のほうに軍配があがるかもしれない。だが、おそらくは型の古い、オンボロの、しかも整備がされていないヒドイ乗り物・・・それが無料のレンタルではないかと思う。有料はそれなりに見栄えのいい、乗りやすい、整備のよくされたものであるはずだ。
早い話が、無料だから仕方がない、という思いが、貸し手にも借り手にもあるのだと思う。一方の有料は、そういうわけには行かないのである。

ちなみに、わたくしは有料プロバイダのものを使用している。すなわち、当ブログがそれである。ようはブログの、いや、ブログだけではないが、ともかく毎月ちゃんと使用料金を払っているわけである。換言すれば、権利を買っていることになるだろう。

ゆえに、もしもプロバイダ側が勝手に、何の理由も開示しないで当ブログを削除するような暴挙に出たならば、こちらとしてもそれ相応の抗議をせざるを得ないと思う。どっちがカネを払っていると思っているんだ・・・などとは言いたくないが、それが苦情の常套文句である。
仮にわたくしのほうに落ち度があって、苦情が通らないこともあるかもしれない。その場合は文句を言っても仕方がないが、けれども、こちらとしては気分的に納得できないだろう。悪いことをしているつもりは毛頭ないからである。
ゆえに、おそらくはその段階で、プロバイダとの契約を打ち切って、別のところを選ぶことになるだろう。当然の成り行きである。

そんなこんなで、向こうだって商売だから、わざわざ自ら顧客を失うようなマネはしないのだ。それで今のところは当ブログも安泰なのである。おそらくは自分の意志でやめる時までは続くことだろう。


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