2007/12/1

開眼と依正不二の関係性  
十界の外に仏無し。仏の外に十界無く依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。

三世諸仏総勘文教相廃立である。
平成新編御書検索で調べたところ、依正不二という単語そのものはこの一箇所しか見当たらないようである。
余談になるが、いや、余談ではなくてきわめて重要なのだが、櫻川忠氏の本門戒壇の本義には、この御文について云々している箇所がある。いや、箇所というよりは、この御文がその項目の表題になっているほどである。氏は本門戒壇との関係性において、この御文に着目している。そこが画期的であり、一読をお薦めしたいものである。

さて、一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ、これは凄まじい御指南である。浅井先生がよく言っていたのは、宇宙即我が身、ということだが、おそらくは同様の意味なのだろう。われわれ凡夫もいわゆる義理の上では仏である。つまり、理論上はいちおう御文に当てはまるわけだが、現実はそういうわけには行かない。個々のレベルによって、その影響力は変わってくる。依正不二と言ったところで、環境を思いのままにコントロールできる人はいないのだ。

依正不二を考える上で必須の御書があると思う。瑞相御書がそれであろう。

夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる。

昨日、御本尊を依報というのは間違い、と書いた。それは御文のごとく、そもそもが異なる概念だからである。もし、強いてどちらかに当てはめる場合、わたくしは正報だと思う。しかし、御文では正報を衆生としているので、疑問に思うかもしれない。その答えは同じく瑞相御書の後半にある。

人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。今日本国、上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起これるところなり。

つまり、根本的な意味では、大聖人御一人の絶大威力が、すべてに影響を与えているのである。

弘安二年の曾谷殿御返事にも、類文と思われる箇所がある。

又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり。飢渇は大貪よりをこり、やくびゃうはぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境としてをこる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのり、せめ、うしなうなり。是即ち小の三災の序なり。

南無妙法蓮華経を境として起こる云々・・・

人法体一の上からは、すなわち大聖人を境として三災七難が起こると拝して差し支えないだろう、瑞相御書の「日蓮によりて起これる」云々と同じ意味になる。

かくも大聖人の御力は絶大なのである。ゆえに御本尊に功徳があるのだ。

依正不二の原理は、文字どおり原理ゆえに万民に通ずるとはいえ、これをもって誰もが御本尊の開眼をできると考えるのは大間違いであろう。


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