2007/12/3

同苦と異苦の狭間にて  
わだっち氏のコメントを約言すれば、顕正会は馬鹿である、ということだろう。それはそうかもしれない。だが、今回の場合は、何も顕正会のシワザと決まったわけではないので、馬鹿と断定するわけには行かないだろうと思う。
別の言い方をしよう。顕正会は馬鹿である。それはそうなのだが、さすがにそこまで馬鹿ではないだろう、ということなのだ。逆に、わだっち氏こそ証拠を提示すべきである、と顕正会員が反論してくる場合もあり得るので、気をつけたほうがいいと思う。
ゆえにわたくしは、別の犯人の可能性もあるだろうと書いておいたのである。

さて、今日はめずらしく頭の中がカラッポなので、簡単に済ませてしまおう。

涅槃経に云はく、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く如来一人の苦なり」等云云。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。

先ほど、御書システムの今月のコラムを読ませてもらったところ、この御文がテーマとなっていた。これは申すまでもなく諫暁八幡抄のきわめて重要な御文である。

今月のコラムは秀逸である。執筆者は、異の苦と同一の苦の違いに着目し、そこに大聖人の御自覚を拝している。これは富士門流の正統教学に基づくものだろう。
わたくしは今まで、この違いについてはほとんど考えたことがなかった。そもそも涅槃経の「異の苦」がどういう意味なのかも、いまだによくわかっていないのだ。

考えてみれば、変な言葉である。そこで調べてみた。

異の苦:214件
同一の苦:5件
同一苦:51件
同苦:8510件
異苦:828件

今現在の検索データである。単純な比較は、同苦と異苦であろう。これがなんと、一桁も違っているのである。確かにそのとおりだと思う。同苦のほうが世間的にもウケがいいはずなのだ。異苦は考えてみれば意味不明のようなものであるし、世間的にも違和感があるに違いない。
つまり、現代感覚では受け入れ難い、それが涅槃経の「異の苦」なのである。
いちおう、コラムの執筆者の読み方はスッキリしていて、富士門流のわれわれにはスンナリと受け入れられるところである。だが、問題がないわけではない。なぜならば、御義口伝には大聖人の御言葉として、そのまま「異の苦」が使われているからである。

そういうわけで、これは今後の課題としたい。


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