2007/12/8

質問会に勝敗をつけるとしたら・・・  
渡辺氏への返事を書いておこう。日蓮正宗要義、持ってないんだもん、以上。

沖浦氏が面白いことを書いている。質問会に勝敗をつけるとしたら、耕治氏の勝ちであると。これについては異論もあることだろうが、目くじらを立てるほどのことでもあるまい。
わたくしはさらにヒネリを利かせて、質問会の勝者は沖浦耕治ではなく、沖浦克治ではないか、ということを言っておきたいと思う。
なぜかならば、二回目の質問会で樋田氏側の作成した全体映像を視聴して感じたのである。画面の遠くのほうに克治氏の姿が垣間見える。どうやら撮影係りに徹しているらしく、ほとんど言葉を発しなかった。いつもなら、口出ししないと気がすまない、あのオシャベリジジイが、まったく口を挟まなかったのだ。これは驚天動地のことである。

わたくしの思うに、正邪を抜きにして考えたならば、どこの宗派でも共通の悩みを抱えているのではないか。それはいわゆる法統相続のことである。これは法華講はもとより、創価学会も正信会も、あるいは顕正会も同様である。
人数が多い意味では、この悩みは創価学会員がいちばん深刻なのだと思う。例えば、大幹部がいる。創価学会は層が厚いから、なかなかそこまで行くのはたいへんなことである。誰からも羨望の眼差しで見られるような、そんな大幹部がいるかもしれない。だが、その息子がどうしようもない、ドラ息子だったりすることもあるのだ。
こうして見ると、沖浦親子がいかに理想的な存在であるかが明瞭になってくる。父親は息子を信頼し切っている。だから口出しせずにカメラマンに徹していたのだ。そして息子も父親の期待を裏切らず、堂々たる振る舞いを示した。なかなかマネのできることではあるまい。

 貴方との法論、耕治の向学心に火をつけてくれました。
 ありがとうございます。


これは特設テーマ法論館から拾ってきたものである。ある意味、沖浦家における法統相続は、六月の法論で決定したと言えるだろう。ゆえに克治氏は法論の相手方に感謝の言葉を述べているのである。

さて、今回の質問会で耕治氏は、生死一大事血脈抄を引用していた。

然れば久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。

確か富士宮ボーイ掲示板だったと思うが、ずいぶん前にわたくしは以下のような投稿をしたことがある。

http://diary.jp.aol.com/ganko/108.html

ようするに日蓮正宗系統では、ここでの釈尊を大聖人とし、法華経を御本尊のことだと解釈することが、いわば共通認識なのだ。ゆえに本来ならば議論の余地はないのである。
ところが今回の質問会では、本尊抄の仏像をどうして文字曼荼羅と解釈するのか、という問題提起があって、これに関連して報恩抄の「本門の教主釈尊」云々のことも引き合いに出された。同様の意味で、生死一大事血脈抄の「久遠実成の釈尊」についても、なぜこれが大聖人なのか、という質問が出されたわけである。

耕治氏は、御義口伝を読めばわかる、という意味の回答をしていた。また、これを詳しく説明するのは時間が掛かるので、この点は双方の共通認識であるという前提で話をしたい、という意味のことも言っていた。

わたくしはこのところ御義口伝を拝読している。何回目の拝読だろうか・・・ともかく何度も読んでいるけど、未だにわからないことのほうが多い。で、たまたま耕治氏が御義口伝を云々していたので、そのことを念頭において拝読しているわけだが、それでも久遠実成の釈尊を大聖人のことだとする理由がなかなか見えてこない。

そこで思うのだが、耕治氏は質問会で時間が掛かるとして説明を省いた点を、掲示板などを活用して可能な限り説明するべきではないか、ということである。

これは先日も書いたことだが、法華講員はこれを御相伝がなければ正しく拝せない、という手抜き(?)の論法で片付けているのである。ゆえに、もし耕治氏が御相伝書を抜きにして、これを論証できれば、快挙であろう。
創価学会の教学は現在もなお、正宗教学に依存しているところが少なくない。だから法華講員に突っ込まれるのだ。
しかし、怖いところである。正宗教学を離れることは異流儀化に他ならないからである。もちろん顕正会も例外ではない。


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