2007/12/9

郷愁と感傷のブログ  
 仏界湧現の文証

 信心口唱によって仏界が湧現するということを、大聖人の御指南に拝してみよう。
 「但一向に南無妙法蓮華経と唱へさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)
 私たちの唱え奉る題目は、御本尊の名前である。名をを唱え奉ることにより、体である御本尊に通じ、我が生命に仏界が湧現するのである。
 また
 「口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕われ給う」(法華初心成仏抄)と。
 また
 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う。始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし」(松野殿女房御返事)
 ――南無妙法蓮華経と、御本尊を信じ唱えれば、凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。始めはそのことがよくわからないが、自覚できるにつれ、歓喜の心が湧いてくる――と。
 さらに日女御前御返事には
 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
 ――この御本尊を、自分を離れたよそにあると思ってはいけない。ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである――と。すなわち信心口唱により、御本尊が我が身に住する、我が身が御本尊と一体になると仰せられる。なんと有難いことではないか。即身成仏とはこれである。


まず、れん氏に申し上げたい。わたくしは普段、生意気なことばかり書いているが、実際には中身がともなっていないのである。ゆえに、根拠を尋ねられても答えられないことのほうが多く、いわゆる日蓮本仏論にしても曼荼羅正意論にしても、一度としてまともなことを書いたことがないである。ようは顕正会で教わったことを素直に信じてしまっている・・・というレベルなのである。そもそもが大した資料を持っているわけではないのだ。早い話が大して勉強していないのである。

さて、わだっち氏の疑問であるが、具体的にはどこがどう違うと思うのか、それがよくわからないので、以下は推測である。おそらくは、法華経=御本尊ではない、法華経には天照大神が説かれていないから・・・という意味ではないかと思う。
わたくしは法華経を通読したことがないので、その辺のところは何とも申し上げられない。また、上記のごとく、それほど勉強しているわけではないので、詳しいことはわからない。
ただし、一つ言えることは、十一月十八日の質問会で樋田氏が言っていたことからしても、共通認識は間違いないと思う。氏は、元意の辺において法華経=御本尊である、という意味を言っているのである。
また、創価学会側すなわち沖浦耕治氏は、御書中の釈尊を大聖人と解釈していたが、これに法華講員はツッコミを入れてきた。その意図するところは、その拝し方は日蓮正宗独自のものである、創価学会はそれを踏襲しているのだ、ということなのである。

そこで冒頭の文章が活きてくる。

これはかの有名な折伏理論書である。顕正会における教科書みたいなものであるが、おそらく大筋においては、正宗教学と一致していると思う。細かい点では文句があるかもしれないが、それはご容赦願いたい。

注目すべき点が、二つあると思う。

凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。

ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである


まず上段であるが、御書の本文は単に釈迦仏となっている。それにもかかわらず、カッコ書きで本因妙の釈迦仏とし、さらにはそれを大聖人のことだと書いているのである。

下段はちょっとわかりにくいかもしれないので、御書の本文をよく確認されたい。「只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」云々とあるのだ。これを浅井先生は、御本尊を信じ云々としている。つまり、法華経の部分を御本尊と読ませているわけである。

わたくしを含めて、顕正会員はさしたる資料を持っていない。ゆえに、浅井先生の記述をそのまま信じる以外にないわけであるが、この部分に限って言えば、結果オーライということになるだろう。
人によっては顕正会を、妙信講時代からすでにおかしかった、という見方をしているようである。だが、元来は純然たる正宗教学を真面目に学ぶ講中だったのだと思う。
わたくしはその余韻を味わうことのできた、ギリギリの世代かもしれない。


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