2007/12/11

是三無差別と謂己均仏の争い  
コメント欄においては、当ブログ始まって以来の、高度(?)な議論が行なわれている。しかも、わたくしならば一週間ないし十日は要するだろう内容を、わずか一日の間に論じているのである。これには恐れ入った。
だが、逆に言うと、拙速である。雑と言ってもいいだろう。もっとも、こういうことを書くと、どこがどう拙速なのか述べよ、などと言われかねない。
いちおう、あらかじめ答えておこう。わたくしは内容の正否を云々しているわけではないのだ。それ以前の問題である。ようするに、読者に不親切な文章だと言いたいのである。読んでいて疲れる。わけがわからない。
生意気を言うようであるが、わたくしの文章はそこそこ読める文章になっていると思う。大した内容ではないけど、意味の通る文章を書いているつもりである。その秘訣は、一日に一回しか投稿しないことと、一話完結であることだ。
コメント欄でのやりとりを見ると、一話完結ではない。そりゃそうだ、相手とのやりとりなんだから。それから一日一回ではない。もう、これはどうしようもない。膨大な量のコメントを読者が根気を入れて読むしかないのだが、たいていは途中で読む気が失せてしまうものだと思う。
つまり、読者にとっては、内容の正否を判断する以前に、その内容を把握する作業が必要なのである。だが、それがひじょうに面倒臭いのだ。読んでいて、すんなりと理解できる、自然に理解できる、そういう文章を心掛けたいものである。

この要「(一大秘法の)南無妙法蓮華経」を開くと、三大秘法の南無妙法蓮華経になります。

一大秘法(要)=南無妙法蓮華経(如来)
三大秘法(三如是)

報身=久遠元初の自受用報身如来(大聖人様)
法身=事の一念三千(ご本尊様)
応身=我等衆生(戒壇)→諸法


八日のコメント欄からであるが、これはもちろん、耕治氏の文章である。

一大秘法を開くと三大秘法になる。そりゃそうだ。

ただし、耕治氏の説明にはじゃっかんの補足が必要だと思う。一大秘法の南無妙法蓮華経というのは、本尊のことである。これをはっきりと書いておかないといけない。これがアイマイであるからこそ、過日の質問会で樋田氏は、三大秘法を強調したわけである。
もっとも上掲の図では、南無妙法蓮華経にカッコで如来を書き加えているので、いわゆる題目の意味ではなく、本尊の意味を持たせているのだろう。これはいいと思う。
だが、その次の三大秘法に三如是とあるのは、どういう意味だろうか? これがわからない。渡辺氏はこれを頭ごなしに否定するコメントを書いておられるが、わたくしも気分的には近いものがある。しかし、ワンクッション設けるのが礼儀というものだ。耕治氏のことだから、何かしら根拠があって書いたわけだろう。そこを説明願いたいものだ。
さらに、次の報身・法身・応身の捌きが難解である。これも根拠はどこにあるのか、教えてほしいものである。

そうそう、一大秘法の南無妙法蓮華経とは本尊のことである、と書いた。これの根拠は本尊問答抄が手っ取り早いだろう。だが、御書の解釈論は煩瑣なので、さらに端折ってしまえば、ようするにこれが正宗教学の重要なポイントなのである。他門ではこれを、本尊ではなく題目のことだと思っているらしく、では本尊とは何かといえば、釈迦像だったりするわけである。

今日はこんなところで・・・


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