2007/12/12

依怙・依託  
リングが二つ並んでいて、別々のバトルが行なわれている。次元の異なるバトルである。それにもかかわらず、二つのリングを掛け持ちしているような、器用な人もいる。面白いものだ。

//御本尊のことを正報・依報の捌きで説明することがナンセンスというか、おそらくはこれまで誰も取り組んだことのない分野なのだと思う。//

天台も大聖人様も、といていらっしゃいます。すでに答えは大聖人の法門においては解決されている事項ではないのですか。

御義口伝をずーと通解していけば、解消すると思います


http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html?b=20

耕治氏のコメントである。誤解があるといけないので正確に言えば、最初の三行はわたくしの文章で、以下が耕治氏のコメントである。そしてこの後に、御義口伝を引いて説明しているコメントがあるけれども、どうもわたくしには理解が及ばない。

過日の質問会に話を戻させてもらおう。耕治氏は御本尊を依報であると説明していたのだ。これが納得できなくて、わたくしは強いて言えば正報ではないのか、と書いた。さらに、そもそもが依報・正報で論ずることがナンセンスなのではないか、とも書いたわけである。

ここで草木成仏口決にある依怙・依託に注目してみたい。

我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり、

次に観心本尊抄を拝する。

草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。

木画の像を本尊に恃む・・・この恃むを換言すれば、依怙・依託とも言い得るだろう。なるほど、この意味からすれば、本尊を依報とすることも強ち間違いではないことになる。
ただし、それは大聖人の御本意ではない。よく拝して行けば、意味の取り違えに気がつくであろう。その理由は諸法実相抄に明らかである。

問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、下地獄界より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。

耕治氏はコメントのどこかで、森羅万象ないし森羅三千という言葉を使っておられた。正宗にはいわゆる法界即日蓮という教義がある。まさに法界とは、森羅万象のことに他ならない。そして森羅万象とは、依報・正報をひっくるめて全部を意味するのである。このことを踏まえて上掲の諸法実相抄をよく拝するならば、御本尊を依報に固定するわけには行かないことがわかる。また、わたくしは条件付きで正報だと書いたわけだが、これも厳密には間違いということになる。

さて、話は振り出しに戻る。依怙・依託の意味は、われわれ衆生にとってはまさに恃みとするべき意味である。大地がなければ草木は存在し得ない。われわれも同様なのだ。

だが、大聖人の御立場での依怙・依託はじゃっかん意味が異なるのである。

要を取って言えば、大聖人は一念三千を識らざる末法のわれわれのために御本尊をあらわしてくださった、その御本尊をあらわす手段として非情たる草木を用いられた、具体的に言えば、紙と墨を用いて書きあらわしてくださった・・・

つまり、大聖人は御本尊を書きあらわすために、非情の草木に依怙・依託されたのである。ちなみに、有情への依怙・依託は、日興上人への御相伝がそれであろう。

これらのことを踏まえて木絵二像開眼の事を拝すると、開眼の必要性がよりいっそう鮮明になってくるのではないかと思う。


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