2007/12/14

寿量品の本主は何人いるのか?  
//今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、

ここなんですね。南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主であると、ここなんです。


http://diary.jp.aol.com/ganko/954.html#comment

耕治氏のコメントである。いわく、ここなんですね、ここなんです、と。よほど強調したかったのだろう。確かにこれは強烈な御指南である。寿量品の本主・・・

もはや何の話か、わからなくなっている人もいるかもしれないので、少し経緯を説明しておく。
過日の質問会で耕治氏は、生死一大事血脈抄を引用した。その御文には久遠実成の釈尊とある。氏はこれを、大聖人のことだと主張した。その文証は御義口伝にあると。
その説明を、わざわざ拙ブログのコメント欄に、寄せてくれたのである。たくさん書いておられるが、その中でも上掲の部分すなわち「寿量品の本主」ということが、おそらくはもっとも有力な文証なのだろう。

わたくしはこれを、なるほど、と思った。だが、御義口伝はそれほど単純ではなく、一見すると矛盾しているように感じられる部分がそちこちにあって、それを考えているとキリがないくらいなのである。次の御文などはひじょうに悩ましい。

御義口伝に云はく、法華経の行者は真に釈迦法王の御子なり。然る間王位を継ぐべきなり。悉是吾子の子と是真仏子の子と能く能く心得合はすべきなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は釈迦法王の御子なり。

宝塔品二十箇の大事の、第十八 是真仏子の事、である。

寿量品の本主と釈迦法王とどっちが偉いのか・・・などというのは愚問であろうか?
あるいは王位を継ぐという意味が説かれているので、まずは寿量品の本主=釈迦法王とした上で、釈尊の跡継ぎとして大聖人が末法に来入して始めて本主となられた、と読むべきなのだろうか?
しかし、これだといわゆる久遠元初思想は、説明できないことになると思うが、違うだろうか?

そもそもわたくしは、御義口伝に頻出する「日蓮等の類」というのが、よくわからないのである。

先の寿量品の本主ということでも、本主がたくさんいることになってしまって、困りはしないかと思う。国主は一人である、という意味の御指南もあるくらいだから、大聖人御一人を本主とするならば理解できるけれども、御文のごとくならば南無妙法蓮華経を唱える者は全員が本主となってしまうわけである。
ある意味、民主主義などの現代思想とひじょうに近いものがあるので、ウケがいいとは思う。大聖人の御思想がいかにすぐれているかを、こうした点から取り上げる学者もいるようだし、おそらくは創価学会も同様の捉え方をしているわけだろう。

ここで法華講員ならば、ほぼ間違いなく総別の二義を使って説明することだろう。わたくしもそれがいちばん収まりのいい捉え方だと思う。日蓮等の類と言った場合、別しては大聖人御一人のことであり、総じては大聖人門下のこと、さらに拡大すればすべての人に当てはまるわけだろう。
それはもちろん承知していることなのだが、わたくしは御義口伝を拝読する度に、つまづくのである。早い話が未だにわからないことだらけなのだ。
しかし、いつまでも同じところにいても仕方がないので、今回のところはこれくらいで終わりにしたいと思う。

そうそう、耕治氏は引用しておらないようだが、同じく宝塔品の、第十三 若有能持 則持仏身の事、は注目である。

御義口伝に云はく、法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり。則の一字は生仏不二なり。上の能持の持は凡夫なり。持つ体は妙法の五字なり。仏身を持つと云ふは一々文々皆金色の仏体の故なり。さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云ふなり。理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり。即の字は「即の故に初後不二」の故なり云々。

生死一大事血脈抄との関連を思わせる御指南である。


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