2007/12/16

観念の遊戯  
わだっち氏のコメントを拝見して驚いた。まさか涅槃経のことが出てくるとは思わなかったからである。

三大秘法は開くと八万法蔵になっちゃう・・・過日の質問会で耕治氏が言っていたことである。
まさに、この意味では、大聖人の御法門中に涅槃経が出てきてもおかしくない。いや、それどころか、あらゆる経教が出てきていいわけである。実際、大聖人が引用あそばしている経文は、とてつもなく膨大である。
とりわけ涅槃経は、法華経と関係の深い経文なので、法門の展開いかんによってはそれが前面に出てくる場合もあるわけである。代表的な例は、開目抄の後半部分であろう、いわゆる摂折論のくだりである。ここでは涅槃経にスポットが当たっている。

それから「含む」ということは、まさにそのとおりだと思う。おそらく仏法用語としては、「摂する」と表現するのだろう。正確な意味は把握していないが、おおむね含むと同義なのではないかと思う。八万法蔵は究極的には一大秘法に摂せられる・・・みたいな表現が使われているはずである。

報恩抄ならびに三大秘法抄の意を以て本門三法門を考えますと、本門本尊=能居の教主・本有無作三身(所化以て同体)、本門戒壇=所居の土・寂光本有の国土(こちらは正意の戒壇、事相の戒壇を傍意の戒壇とする)、本門題目=所化の衆生の側の信行具足の題目といったところでしょう。本尊問答抄のように、本尊を題目とする場合は、本有無作三身の内証の(法体としての)五字を指すと愚考します。よって無作三身の内証の五字(一大秘法)と、所化の衆生の側の修行する五字(三大秘法中の本門題目)とは概念としては一応立て分けるべき存じます。(後略)

数日前に、れん氏から上記のコメントを頂戴していた。

本尊問答抄のように、本尊を題目とする場合は、本有無作三身の内証の(法体としての)五字を指すと愚考します。

とりわけ、この部分には、しびれた。なるほど、そうだったのか、という感動があった。人によっては、当たり前じゃん、そんなことも知らなかったの・・・などと思うかもしれないが、わたくしは本年二月にまったく違った意見を書いているので、いわばそれをひっくり返されたようなアンバイなのである。

http://diary.jp.aol.com/ganko/651.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/652.html

ここには、れん氏のコメントもあって、それが現在とやや異なる点が興味深い。わたくしが言うのは失礼であるが、格段の成長を遂げておられるように感じられるのである。

さて、リンクを開くのが面倒臭い人もいるだろうから、わたくしがかつて書いたことを簡単にまとめておこう。
三大秘法は本門の本尊・題目・戒壇である。わたくしはこれを、仏・法・僧ではないかと書いたのだ。つまり、本門の本尊というのは人本尊であって、法本尊を含まない。法本尊は本門の題目に含まれる。そして、残りの戒壇については、戒壇がなぜに僧に当たるのかが問題であるが、それは省略させてもらう。興味のある人は、リンクを開いてみるといいだろう。
聞くところによると、日蓮宗系の学者にこの説を唱えている人がいるそうである。もっとも、それはわたくしには関係のないことであるが、ともかく三大秘法を仏法僧に当てはめる捉え方はなかなか魅力的であり、今もなお、わたくしは捨て難い気分なのである。

しかし、れん氏のコメントを拝見すると、やはり氏の説明のほうが正宗教学の見地からして本筋のように感じられるのだ。

それにしても、またしても傍意と正意がお出ましになった。わたくしは未だにこれがわからない。
ただし、ふと思ったことがある。もしもである、事相戒壇が傍意であるとするならば、同様に自行化他の題目もまた傍意であり、さらに無作三身の教主釈尊もまた傍意なのではあるまいか、と。
つまり、三大秘法抄は、傍意の本尊・題目・戒壇を説いていると・・・

この筋でいろいろ考えをめぐらせるのも面白い。だが、しょせんは観念の遊戯に過ぎないであろう。


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