2007/12/19

わかりにくさがウリ?  
昨日分のコメント欄にて、落とし前がどうのこうのと言っている人がいるが、困ったものである。見当違いも甚だしい。面倒臭いので一言、烏滸の事であると言っておこう。

耕治氏には、引き続き賢察をたまわっている。これはひじょうにありがたいことであるが、しかし、こちらが問題としている点には触れていないように思う。わたくしは一日に一回しか投稿しないので、それをじっくり読んでいけば何がどのように問題なのか、それが見えてくるはずだ。難解な用語を羅列して悦に入っている人とは違って、きわめて平易な文章を書いているつもりである。

なお、南無妙法蓮華経如来の件ついては、もし所望であれば詳述してもいいが、馬鹿らしいので筆を控えたのである。わたくしは数日前に、このところ御義口伝を拝読していると書いた。実際、具体的な御文をたくさん引用している。まさか肝心の如来寿量品を読み落とすわけがなかろう。いや、もちろん、そういう時もないわけではないが、ここまで書けば勘のいい人はわかるはずだ。

水無月氏には、そろそろ店じまいしたらどうか、と勧められた。氏はひじょうに温厚で、キツイ言葉を発することはない。少なくとも拙ブログのコメント欄では、常に節度ある振る舞いを見せておられる。
だが、どうも婉曲的ではあるが、拙ブログの存在を疎ましく思っているようにも感じられるのである。以前にもコメント欄が荒れたことがあった。もっとも、わたくしにはそれほど荒れたという印象はなく、今回にしても同様であるが、ともかく氏はその時にもブログの閉鎖を打診してきた。

なかには、あからさまに敵意を示し、拙ブログをつぶそうと目論んでいるような人もいる。ゆえに、こちらのミス(?)には容赦なくツッコミを入れてくるわけで、読者の中にはその様子を見て、心を痛めておられるような人もいるかもしれないと思う。
もし、そういう人がいるとしたら、ひじょうに申し訳ないことだが、わたくしとしては当面、このスタンスでやって行こうと思っているので、静かに見守っていただくしかないであろう。

しょせんは落ちぶれ顕正会員の愚痴なのである。しかし、気取って言えば、正当な言論活動なのである。
つまり、前者の意味で考えると、たかが落ちぶれ会員のブログに、それほどムキになることもなかろう、ということなのだ。
そして後者の意味では、善につけ悪につけ反響があることは言論人としての誉れである、ということになるだろう。ここに一つのヒントがある。

つまり、誰からも相手にされなくなったら、わたくしとしても執筆意欲を失って、自ずから閉鎖の道を選ぶだろう。

最後に、わだっち氏に意見を申し上げたい。沖浦氏を訴えるという話だが、それはおやめになったほうがいいと思う。おそらく今日あたり弁護士などに相談されるのかもしれないが、今ならまだ後戻りができるはずである。理由は詳述するまでもなかろう、そんな馬鹿げたことに時間を浪費するくらいなら、もっと他にやるべきことがあるはずである。


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