2008/2/29

大石寺信仰の面目躍如  
嘲斎坊氏のコメントには恐れ入った。三万人結集のカラクリを、事前に暴露してしまうなんて、いったいどういう目的があるのか、ちょっと謎である。おそらく、現状では組織の建て直しは不可能であり、そのことを誰よりも熟知しているのだろう。そして、今となっては何かしらの荒療治を施す以外になく、その方途を模索しているわけだろう。拙ブログにコメントを寄せられるのは、その手掛かりとなるものを探し求めてのことだと思われる。

この際だから、危険な質問を投げかけてみよう。

周知のごとく、顕正会には本尊疑惑がある。ようするに、勝手に御本尊を複製しているのではないか、という疑いなのである。
昨年、これについては是正協議会が書面をもって、本部に質問を投げかけた。するとその直後、すなわち九月度総幹部会において、浅井先生から間接的ながらも回答と思われる講演があった。しかし、回答には納得のできかねる部分があったのだろう。是正協議会では再度の質問書を送った。これに先生は答えなかった。
もはや今となっては、バレバレという以外にはない。情報に疎い顕正会員はいざ知らず、それ以外の多くの人にとっては、顕正会の本尊疑惑など、すでに答えが見えてしまっていることなのだと思う。

けれども、具体的には誰も真相を知らない。先生が語らないからだ。

おそらく、このことを知っているのは、顕正会の中枢にいる限られた人たちだけであろう。では、誰と誰が知っているのか、具体的にはどこで印刷されているのか、あるいは表装はどうしているのか、そこまで知っている人は誰と誰なのか、である。あるいはそこまでは知らされていないけれども、おおよそのことは聞いている・・・という人がいるのかどうか、である。

なぜ、こういうことを書くのかといえば、これが顕正会の致命的な問題だからである。

このところ法華講の樋田氏は静かである。掲示板を見ても、あまり出ていない。と思いきや、そうではなかった。例の映像サイトに傾注していたのだ。
しかも単にビデオを切り貼りしているだけではなく、率先して現場に出て行っているようである。その成果とも言うべきビデオが二本、今月の中頃に公開された。

その一つが「突撃 顕正会館」である。

画質が悪いこともあって、どこの会館だか不明であるが、樋田氏が顕正会の会館付近で顕正会員と話し合っている様子がビデオで公開されたのである。
これを見ると、男子部であろう面々の程度の悪さがよくわかる。途中で女子部員が出てきて、この人は善戦していた。めずらしく樋田氏がサジを投げる場面があった。ようするに、女子部員の論理もヘッタクレもない、デタラメな論法にサジを投げたのである。しかし、ある意味では、これがいちばん強いのだ。ゆえに善戦と書いたのである。

男子部はだらしなかった。

しかし、止むを得ないというか、仕方がないと思う。おそらく隊長クラスであろうが、部長クラスであろうが、大差ないはずである。
すでに答えは見えていると思う。ようするに本尊疑惑が最大のネックなのだ。こればかりは真相を知らないのだから、どうしようもないのである。
ゆえに、仮に他のテーマで善戦したとしても、本尊問題を突きつけられてしまったら一巻の終わりである。

こうなると、もはや論理的な議論は回避しないといけない。論理的にしゃべっていて、途中まではそれで具合がよかったとしても、本尊問題になった途端に詰まってしまったら話にならない。そこを相手から強く追求されたら、タジタジにならざるを得ないのだ。そのギャップを考えると、悲惨である。だったら最初から論理無視のゴリオシ作戦で行くしかない。

その意味で、くだんの女子部員はなかなかの手腕(?)である。

ご理解いただけただろうか?

わたくしは顕正会の首脳部に言いたいのである。本尊疑惑を完全に解消しない限り、顕正会の未来はないことを・・・である。

理想は解散処分が解かれて宗門へ復帰することであり、その上で御当代上人より御本尊を頂戴できればいいのだが・・・

現状では無理だけれども、しかし、他には選択肢がないことも事実であろう。

2008/2/28

道なき道を歩むことの困難  
山門入り口氏にしては、めずらしく良心的というか、甘めの評価だと思った。ようするに、明年の顕正会男子部三万人結集についての、氏の予想である。

わたくしは相当に厳しいと思っている。

もちろん、顕正会の潜在力は侮れないけれども、それにしても種々の事情を勘案してみると、けっこう厳しい状況だと結論せざるを得ないと思う。

まず、昨夏の五十周年記念幹部大会において、三万人の結集があった。これは顕正会ぜんぶの結集である。ゆえに、単純に考えれば、男子・壮年だけではその半分しか集まらないことになる。一万五千人である。
あの三万人の結集はそれなりに壮観だった。実際、顕正新聞では全体写真を繰り返し掲載していたわけで、これ見よがし、という形容がピッタシだと思ったくらいである。
今度はこれが逆に負担になるのだ。なぜならば、全体写真の様子で比較が簡単にできてしまうからである。わたくしの思うに、二万人弱が限度ではないか、するとその全体写真と昨年の全体写真を比較すれば、どうしたって見劣りすることになってしまう。ゆえに、ヘタな水増し発表はできないのである。

もう一つの指標として、班長会の結集がどの程度であるか、さらに各班の結集能力が何人であるか、ここからおおよその数字が出せるはずである。

顕正新聞第1093号に月例班長会の記事があって、一月度班長会の参加者合計は一万三千五百六十二名と書かれている。残念ながら、その内訳は書かれていない。
各班の結集能力というのは、ようするに班員が何人いるか、呼び掛ければ集会に来てくれる班員が何人いるか、であるが、そんなデータはわたくしの手元にはない。当てずっぽうであることをお断りして書けば、せいぜい一人か二人が現状ではないかと思う。
班長会一万三千人として、班員の平均が一人だとすれば、二万六千人が顕正会の実質会員数となる。班員が二人だとすれば、三万九千人である。
この数字は、昨年の記念幹部大会の三万人という数字からしても、そこそこ妥当な線というか、ツジツマが合っていると思う。

現状、男子・壮年の班長は五千人程度であろう。そこに班員が二人いたとして、一万五千人である。三人ならば二万人、四人ならば二万五千人、五人ならば・・・
つまり、班長を含めた場合、各班で六人の結集ができなければ三万人には届かないわけである。
顕正会員ないし元会員であれば、実情はよくわかっていることだろう。班長といっても、ヘタすると班員がいない場合もあるのだ。班員を五人も十人も抱えている班長など、まず存在しない。三人もいれば、御の字である。これが現実なのである。

ちなみに、平成十七年に行なわれた男子部幹部大会は、およそ一万三千人の結集だったと思われる。

この後、どれだけ組織が伸張しているかであるが、わたくしの実感としては停滞であり、ややもすれば後退気味だかもしれないと思う。
ご存知のごとく、退転者が多い。また、法華講への移籍組も相当数いると考えられるし、こちらのほうは普通の退転者(?)よりも深刻である。
なぜならば、普通の退転者はこういう大事な集会の時に誘えば、戻ってくる可能性もあるし、その集会に限ってはお付き合いで参加するというケースも考えられるからである。
だが、それは法華講に移籍した人には通用しない。

それから会場の問題がある。

そろそろ会場を押さえておかないといけないだろう。三万人にふさわしい会場をである。
昨年の記念幹部大会は会場変更などに見られるごとく、間際まで右往左往している状況だった。あるいは逮捕事件などが影響したとも考えられるが、もしそれが本当ならば、今度も心配である。それこそマスコミが大騒ぎするような大事件が発生すれば、会場の確保が難しくなる。ゆえに早いうちから手を打っておく必要があるだろう。
しかし、結集の目途が立っていないのに、大きな会場を借りるのは、気が引けることである。

宗門では着々と準備を進めているというのに、顕正会は相も変わらず、行き当たりばったりのようだ。

2008/2/27

雨にも負けずの精神  
今朝の沖浦氏からのコメントを拝見して、思い出したことがあった。

平成二十一年の結集・登山では諸天の怒りが爆発するに違いない。

これはフェイクの第886号である。昨年の大みそ日に発行されたものらしい。

諸天の怒りが爆発する・・・というのを読んで、わたくしは苦笑した。どこかの教団に似ているなあと思った。とうとう他力本願に宗旨替えしたのかとも思った。
おそらく創価学会では、ここ十有余年の間、謀略の限りを尽くしてきたのだろう。もちろん、日蓮正宗をやっつけるためである。ところが思ったほどの成果をあげられなかった。それでとうとう諸天の力に頼らざるを得なくなったらしいのである。

顕正会では諸天の働きを重視している。浅井先生が常にそれを教えているからである。
先生は以前、創価学会員は諸天の働きがわかっていない、ということを言っていた。しかし、この認識もそろそろ改めないといけないようだ。

さて、宗門が結集を行なうと必ず天候不順に見舞われる・・・というのは本当だろうか?

わたくしの現時点での所感を申し述べれば、今のところはかなり理想的な展開になっていると思う。ようするに、本年全国各所で行なわれている結集は本番のための予行演習なのだろう、ゆえに本番がどうなるか、それが注目されるのである。
予行演習ではすべて晴天に恵まれた、ところが肝心の本番は悪天候だった・・・これではガッカリであるが、その逆であれば、けっこう感動的だと思う。終わりよければ、すべてよし、である。
ゆえに、今のところは理想的であり、極論すれば本年の予行演習はぜんぶ悪天候でもいいくらいなのである。それに怯むことなく、最後の本番に大結集を実現すれば、しかもその日がまさに諸天も寿ぐ晴天であれば、これほどの感動はないと思う。

さて、どうなることか・・・

創価学会員は、間違っても雨の降ることを祈ってはいけない。そういうのを呪詛と言うのだ。それでは、もはや大聖人の仏法とは異質のものであることを、自ら証明しているようなものである。

其の上雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ。

基本的にはこの御文のごとくであり、天候ばかりは自然界の出来事であり、いつも自分の都合どおりになるものではないことを知らなければいけない。

しかし、例えば七月あたりに大雪が降ったりしたら、もはやそれは立正安国論に説かれるところの三災七難そのものと言わざるを得ないわけで、逆に今の季節はもっとも寒いのだから、雪が降ったところでさしたる驚きではないのである。針小棒大に言うのも大概にすべきだろう。

さて、問題は顕正会である。なんと明年、男子三万の結集をうたっているのだ。

実は顕正新聞の古いのを調べれば、過去にも浅井先生が男子三万人の結集をぶち上げていることがわかる。しかし、実現しなかった。詳細に調べたわけではないが、どうも当時の男子部の幹部たちは最初から実現不能と思っていたらしく、あまりそれを口にしていないようなのである。
ところが今回は違う。顕正新聞を毎回すべて読んでいると、どこかに必ず「男子三万」を云々する記事が載っているのである。枚挙に暇がないくらいだ。

もはや引っ込みがつかないのだろう。今さら、口をつぐんでも遅いわけである。

いずれにしても明年は、何が何でも男子三万を実現しないといけない。はたして現状の勢力で実現可能なのか・・・それは疑問と言わざるを得ないであろう。

2008/2/26

焼きが回ったか?  
トコロテンの譬喩は難解である。何を言わんとしているのか見えてこないが、ともかく顕正会から大量の会員が流出しているのは事実であろう。それがトコロテンの押し出される様子に似ているとでも言うのだろうか?
しかし、最近の若い人には実感できない話だろう。今やトコロテンは、その大半がパック詰めされた出来合いのものだからである。もしかしたら、わたくしもテレビか何かでしか見たことがないかもしれない。細長い箱状の筒があって、そこに寒天のかたまりを入れるのである。片側は網目状の針金が張ってあって、もう片方から筒の内径に合わせた棒状のものを押し込むと、網目の隙間からニュルニュルと寒天が押し出されてくる。それがトコロテンである。
顕正新聞の例のコラムにも、寒天のことが話題に上がったことがあったと思う。ようは身体にいいのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1093号の三面に出ている記事である。

 先生が「第二の五十年は大罰顕われる時代」と断言されたその瞬間から、誰の目にもはっきりとわかるほどその様相は色濃くなり

あまり長い引用だと読んでもらえない可能性があるので、必要なところだけにしぼった。これは第二婦人部長の発言であるが、すごいことを言うものである。

先生が断言されたその瞬間から・・・

さすがに瞬間は言い過ぎだろう。絶句である。もはや何も書く気がしない。

ところで、総合女子部長の記事には次のごとくある。

諸天の働きの凄さを実感すると共に、先生の宗門諫暁・一国諫暁はすでに始まっていることが胸に迫り、

先生の諫暁はすでに始まっている・・・

よくわからないが、第二婦人部長の話と重ね合わせると、何となくわかるような気がする。ようするに、浅井先生の発言が諸天を動かしているのだと、そのように言いたいのではないかと思う。いちおう、総合女子部長の文章では「大聖人様が諸天をして」云々と書いているし、第二婦人部長の文章でも「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の御文を引いてはいるのだが、結局のところ、浅井先生が諫暁の戦いを起こすことによって諸天が動くという文脈になっているように感じられるのだ。そうすると、大聖人の立場はどうなるのか・・・意地悪く解釈すれば、浅井先生と諸天の間に位置する仲介役みたいなことになりそうである。

もちろん、意地悪な解釈である。しかし、誤解を招きやすい微妙な表現であることを、最高幹部の面々は自覚しないといけないだろう。それとも意識的にやっているのだろうか?

さて、もう一つ、総合女子部長の文章から、

謗法・不信の輩が戒壇の大御本尊様を「至近距離から正面写真を撮った」という犀角独歩の発言に、

はっきり言って、ヘンな文章である。詳細は省くが、おそらく誰が読んでも違和感があるのでは、と思う。

総合女子部長もそろそろ引退か?

2008/2/25

生命力=シブトイ?  
ニシケン氏から再びコメントを頂戴した。

文末には、

真実が知れ渡った時、顕正会の崩壊は間違いないでしょう。

とある。

しかし、これがなかなかどうして、シブトイのである。
まず、真実が広く知れ渡るまでの道程がけっこう長い。すでにインターネットを媒介とすれば、瞬時に情報が得られる時代ではある。ところが、テレビで言えば視聴率になるだろうか、それが芳しくないのである。
わたくしのようなネットオタクであれば、こうして当たり前のようにブログを綴り、また、他のサイトなども頻繁に閲覧する。だが、誰もが同じように行動しているわけではなく、仮にネットを活用している人であっても、どのようなサイトを利用しているかは人それぞれなのである。
ましてやネットは玉石混交の世界である。一眼の亀ではないが、膨大なサイトの中から目的のサイトにたどり着くことは、けっこう難しいことである。ごく普通にネットを利用している範囲では、真実にたどり着くことは不可能とすら思えるほどである。その上、顕正会ではネットを便所の落書きのごとく教え込んでいるわけだから、なおのことであろう。

何だかんだ言っても、テレビの影響は大きい。

ゆえに、顕正会を崩壊させるためには、ネットの百万言よりもテレビの報道だと思う。先般の逮捕事件は地域的にはけっこう盛り上がっていたらしいが、いわゆる全国ネットとしての報道はそれほどでもなかった。これでは痛くも痒くもないのだ。もっと大々的に報道しなければいけない。それが顕正会にとってはいちばん痛いのである。

シブトイと書いた。

顕正会は今現在、法義論争で劣勢を強いられている。おそらくこの点においては、挽回することは不可能だろうと思う。理由は簡単だ。
ようするに戒壇論以前において、種々の自己矛盾を解決できずにいるからである。浅井先生の発言に自語相違がある。これを指摘されても反論できない。なぜならば浅井先生が口をつぐんでしまっているからである。こればかりは先生自らが反論を構えないことにはどうしようもないのだ。
しかし、浅井先生には完全主義者の面があって、それゆえに自分の自語相違を信じたくないのだと思う。自分にそのようなミスがあるわけがないと、頑なに信じ込んでいるのだと思う。
ある意味では、こういう姿勢が会員にも影響しているのだろう、活動会員の多くは相手の話に耳を貸さず、とにかく浅井先生は絶対なのだと、ひたすら言い続けるわけである。

シブトイと書いたのは、そのためである。ゆえに、今後もなかなか崩壊しないのではないか、という気がする。

今日、書こうと思っていたのは、顕正新聞第1093号の四面に出ている「正義にめざめて」である。八十七歳の女子部員・・・年齢もすごいが、なんと組長の役職を受けているのだから、これもまた、すごいことだ。
この人は昭和十五年に入信した。いわゆる創価教育学会時代の入信だという。そして平成三年に脱会し、法華講へ移っている。これはよくあるパターンだ。
さらに昨年、姪御さんの折伏で顕正会に入会した。それでいて、すでに組長なのだから、熱心に活動しているわけだろう。

こういう記事を読むと、やはりシブトイと思ってしまう。

同じ紙面には男子部員の活動報告が載っていて、そこには創価学会から入会した人のツテで、創価学会の地区部長さんを折伏した模様などが報告されている。詳しい内容は省略するが、見出しには次のごとくある。

信心も功徳もない学会地区部長
「学会崩壊の日近し」を強く実感


わたくしは顕正会の中で、創価学会の崩壊を何度も聞かされてきた。浅井先生自らが、もうすぐ潰れる、あとは時間の問題である、などと発言しているのを何度も聞いている。しかし、現実には崩壊していない。
結局、顕正会の崩壊も似たようなことなのではないかと思う。現実にはなかなか崩壊しないのだ。シブトイのである。

話を戻して、八十七歳の女子部員には子供が何人かいるらしく、どうやら長男は今も法華講員で、次男は創価学会員のようである。長女は顕正会に入会したらしい。
しかし、ひじょうに複雑である。現在の宗門を取り巻く情勢を縮図化したようなアンバイである。失礼ながら、将来の心配をしてしまった。この人の葬儀の心配である。喪主が誰になるか、それによって葬儀をどこで行なうかが変わってくることだろう。
不謹慎ながらあえてこれに触れたのは、おそらくは同様の問題をかかえている人たちがゴマンといるはずだからである。何とか一本化できないものかと思う。

しかし、この女子部員はなかなかシブトイと思われる。文末には次のごとくあるからだ。

 まずは未だに騙されている学会員・法華講員を一人でも多く救い、(以下略)

2008/2/24

脱会運動者の心理  
ニシケン氏のコメントは辛辣であるが、事実だから文句のつけようがない。それから山門入り口氏のコメントであるが、そういえば氏のブログに次のような記述があった。二月十八日付である。

あと目に付いたのが、中国の食品記事とイーフルエンザの記事ですが、中国食品云々という前に、顕正会員が起こした事件についての謝罪。釈明などするべきでしょう。

まったく、おっしゃるとおりである。

さて、今日は新潟女子部集会における総班副長の体験発表を紹介しよう。これは顕正新聞第1093号の六面に掲載されているものである。

 ことに平成十六年に開催された全国高校生大会では、参加当日に常軌を逸した怨嫉が起き、早朝に待ち合わせ場所に向かおうとしたところを母に行く手を阻まれ、私は母の制止を必死に振り切り、靴も履かずに家を飛び出したのですが、こんどはそこに待ち構えていた親戚一同に囲まれ、参加することができませんでした。

この人はまだ若い。それは高校生大会の記述からしてもわかるが、あるいは続きの文章の中には今年の成人式に参加したことが書かれているので、言わずもがなである。昨今はいわゆる二世会員も多くなってきた。しかし、この人はそうではなく、高校一年生の七月に友人からの折伏で入信している。ゆえに他の家族は誰も入信していないわけだろう。背景としては、おおむねそんなところだ。

浅井先生のよく使う言葉で言えば、ひじょうに健気である。しかし、これは顕正会側の目線であって、母親の目には違って映るのだろう。それが引用部分のごとく、常軌を逸した行動にあらわれているわけである。いや、もちろん、この常軌を逸したということも、母親から見れば、逆になるのだろう。どうして、こんな娘になってしまったのか、それもこれも顕正会が悪いのだ、何としても顕正会をやめさせないといけない、いわんや高校生大会など言語道断である、行かせてなるものか、絶対に阻止してやる・・・と。
結果として、この人は高校生大会に参加できなかった。本人はひじょうに悔しい思いをしたことだろう。また、その後も怨嫉は続き、食事やお弁当を一切作ってもらえなかった、ということまで書かれている。経済的に自立できていない立場にはつらいことだろう。
この難局をどうやって凌いだかというと、今までお年玉などで貯めた貯金やアルバイトのおカネで食事代を捻出した、というのだ。

で、この体験発表の目玉は、いよいよ今春で短大を卒業し、就職するということである。しかも、それが倍率三十倍の難関を突破して、好条件の大企業に就職が内定したというのだから、もはや経済的な心配はなくなるわけだ。

わたくしは思う。高校生大会への参加を妨害したことは、逆効果だったのではないかと。結局はこれらのことがバネとなって、ますます信心が強盛になってしまったのである。むしろ好きにさせておいたほうが、よかったのではないかとすら思うほどだ。

顕正会は拉致・監禁をする怖い団体だと思われている。実際、入信するまでは帰してもらえないケースがあって、それが逮捕事件にまで発展しているわけだから大問題である。
これと上掲の高校生大会への参加阻止は、何となく重なる部分があるような気がする。ようするに、本人は大会へ行きたかったのだが、まさに拉致・監禁に近いようなことをされて行けなかった。逆に入信強要の場合は、本人はやりたくないにもかかわらず、やらなきゃ帰してもらえないわけである。
まるで正反対であるが、本人の意志を尊重しない意味では共通するのではないかと思う。つまり、どっちもどっちではないかと。

いや、もちろん、わたくしは顕正会の入信強要を是とするつもりはない。それと同様の意味において、集会への参加を実力で阻止するような愚行も是認しないと言いたいのだ。ましてや、それが逆効果であるならば、それこそまさに愚行そのものであると言わざるを得ないだろう。

それとも、本人の信心を鍛えるために、あえて試練を与えているのだろうか?

今日の話はどうも書いていてシックリこない。考えてみれば、わたくしは顕正会の脱会を促進する立場にはないので、そちら側の考え方というか心理がよくわかっていないのである。ようは手さぐりの状態で書いているのだ。そんなわけで、ずいぶんとチグハグな文章になってしまったようだ。

2008/2/23

氷山の一角×2=?  
今日は顕正新聞の第1093号からである。

第七面には、めずらしく時事問題が大きく取り上げられている。二つあって、一つは紙面の四分の一を使って、鳥インフルエンザのことが書かれている。しかし、これはちょうど一ヶ月前の新聞にも出ている話題である。

http://diary.jp.aol.com/ganko/1006.html

その一年前にも同様の記事があった。つまり、記事の頻度が上がってきているのだ。これを普通に考えれば、危機が切迫していることになるだろう。実際、今回の見出しには、

 刻々と近づく世界的大流行!!

とある。しかし、顕正会の場合には、これまでにも大地震の切迫などをさんざん言い募って実際には空振りに終わっていることがあるので、また始まった、くらいにしか感じられないのである。いつかは起きることだとしても、こうも頻繁に言い続けていると、かえって感覚が麻痺してしまってマズイのではないかとも思う。

それはさておき、もう一つの記事について書こう。これがスゴイのだ。なんと紙面の半分を費やしているほどなのである。その見出しには、次のごとくある。

毒「ギョウザ」でわかった
  中国の毒薬食品!!


タイムリーな話題ではある。

しかし、記事を読んでいて思うことは、気にしていたら何も食えなくなる、ということだ。
実際、紙面には「毒物混入が疑われる中国産食品リスト」が載っていて、それを読むと頭が痛くなってくる。それこそ、ありとあらゆる食品が中国産であり、その一例をあげれば、ソバが深刻である。記事では判然としないが、おそらくソバというのは中華ソバのことではなく、日本ソバのことだろう。日本ソバでありながら、なんとその八割が中国産だというのである。さらに、ハチミツなどは九割が中国産だという。
もう、こうなると、ソバもハチミツも買えないようなものである。そして、何もこの二品目だけが突出しているわけではなく、他の食品も大同小異なのである。

気になる人は顕正新聞を入手して確認してみるといいだろう。あるいは週刊現代のいずれの号だかに、同様のデータがあるらしいので・・・というよりも、そちらが元記事のようなので、それを確認するのもいいだろう。

わたくしは中国食品の問題について、まったく別の感慨を懐いている。記事の中で、一部共感できるというか、もっとも核心に迫る部分と思われるくだりを次に引用してみよう。

中国食品がなければ、日本はやっていかれないのだ。加えて行政の毒物に対する検査の甘さがある。
 また食品輸入業者や食品関係会社は、中国産の安い食品を輸入しなければ経営が成り立たない。
 さらに各家庭も安くて便利だ≠ニ、加工食品や冷凍食品に頼りすぎ、手抜きをしている事情もある。


最初にイヤミを書いておけば、各家庭で手抜きをしている事情といえば、顕正会員の場合は活動が忙しくてそうせざるを得ないのではないか、ということになる。

それはともかく、中国に依存しているのは食品ばかりではないわけで、例えば、わたくしのパソコンは中国製である。他にも調べれば、中国製品はたくさんある。家電製品など、メーカーは日本の有名どころであっても、中国の工場から出荷されているケースがままあるのだ。衣料品もそうである。あるいは百円ショップの品物もそうであるし、ありとあらゆる分野で中国製が幅を利かせているのだ。

正直に書こう。わたくしはそれらを承知していて使っている。これをどう考えるか、なのである。

ようするに、顕正会的な潔癖さを追求するのであれば、中国製品は絶対に使わないようにするべきではないかと思うのだ。食品は危険だから使わない、だが、それ以外は安くて便利だから使う、というのでは筋が通らない。チャッカリし過ぎている。いわゆるご都合主義ではないかと言いたいわけである。

しかし、どうだろう。現実に、そこまで徹底している顕正会員がいるのかどうか、ちょっとアヤシイような気がするのである。

いずれにしても記事にあるごとく、中国産食品がなければ日本はやっていかれない、この現状は深刻である。しかもそれは食品ばかりの話ではないから余計に深刻なのである。わたくしは自己矛盾を承知しつつ、今後も中国製品を使い続けることだろう。

2008/2/22

穴あき?  
瑠璃堂氏のブログは欠かさず拝見しているが、このところは漫画チックなノリと言うか、人物描写が巧みなのだろう、それぞれのキャラクターが活き活きと描かれていて、その姿かたちがあたかも立体的に映じるほどである。白鳥区長など、その名前からして、あこがれの的のようなイメージが喚起される。また、瑠璃堂氏が旧区長宅を訪ね、布団を並べて会話をしているシーンなどは、まるでテレビドラマのようである。

それはさておき、拙ブログへのコメントはけっこう難解だった。

全体として、何を言わんとしているのか、その大意がよくわからなかった。ことにわたくしはカタカナ語に弱いので、アナーキーというのが俄かには、わからなかった。
そういうわけで、これから書くことは見当違いも甚だしいことになるかもしれないが、それは独白ブログということで、お許し願いたい。

御書を開くとき、ドキドキしませんか。

ぜんぜんドキドキしない。そんな記憶はまったくない。もしかしたら、ずっと昔にそういう時があったのかもしれないが、今はまったくドキドキしない。
これは、いい意味でも悪い意味でも、感覚が麻痺しているからだと思う。例えば、勤行がそうである。わたくしは今でも朝晩の勤行だけは欠かさない。けれども勤行の時に、ドキドキ感もなければ、ワクワク感もない。いわゆる惰性に流された勤行なのである。
いい意味に捉えるならば、勤行の習慣が身についていることになる。ただし、ご存知のごとく、浅井先生は惰性の勤行を戒めているわけで、歓喜充満の勤行でなければいけないと言っている。

御書の拝読においても、同様のことが言えるのだろう。朝晩の勤行ほどではないにしても、毎日のように御書を拝読していれば、やがては惰性的にならざるを得ない面があると思う。それでわたくしの場合は、すでにドキドキ感を卒業してしまって、残っているのは多少のワクワク感だけである。あるいはこれも、いずれは消滅してしまうかもしれない。
わたくしの記憶が確かならば、瑠璃堂氏は昨年になって初めて御書を購入したのだと思う。顕正会を離れてからのブランクもあるし、その意味ではドキドキ感があって当然かもしれない。もしこのドキドキ感を、五年後とか十年後においても持続しているとしたら、それはたいへん素晴らしいことであり、ある意味ではひじょうに機根がすぐれていることになるだろう。

ここ最近、足枷という言葉を何度か使った。
瑠璃堂氏においては、すでに足枷はないはずである。いや、もちろん、精神的な意味で引きずっているものがあるのかもしれないが、いちおう今は顕正会の組織から足を洗って、普通の社会生活を営んでいるわけである。
それにもかかわらず、自ら御書を購入した。これはタダゴトではない。機根がすぐれている。上根上機なのだ。あるいは宿縁とも言えるだろう。
問題は五年後十年後である。なぜならば、人の心は移ろいやすいからだ。もし今後、御書の拝読を継続していって、ドキドキ感・ワクワク感を失わずにいたならば、あるいはもっとも成仏の最短距離に立っているのが瑠璃堂氏なのかもしれないと思う。逆に言うと、歓喜を持続することは、それほどに困難なのである。

しかし、顕正会員におけるドキドキ感は、あるいは罪悪感によるものなのかもしれない。

ようするに、昨今はいわゆる一念信解路線であって、御書を自ら学ぶことはかえってオコガマシイことだとされているのだ。あくまで御書は浅井先生を通さなければ正しく拝せないのだと・・・

ゆえに、昨今の顕正会員は御書を買うことすらない。あるいはマレに、こっそり購入して密かに勉強している会員もいるかもしれない。しかし、そういう人は、やはり後ろめたい気持ちを持たざるを得ないのではないかと思う。換言すれば、罪悪感ということである。

瑠璃堂氏のドキドキ感はこれであろうか?

しかし、自らアナーキーを云々するほどであるから、もはや瑠璃堂氏には足枷はないのではないか、少なくとも現役の顕正会員に比べたならば、遥かに自由度が大きいはずである。

顕正会員は不自由きわまる・・・

そうそう、今日は顕正新聞の第1093号から話題を拾おうと思っていた。正直な感想を言えば、いつもながら、どれもこれも似たり寄ったりの記事ばかりで、ウンザリである。自由度がなさ過ぎるのだ。瑠璃堂氏の言葉を借りれば、心の自由と解放に繋げなければいけない。そういう紙面づくりを考えてほしいものだ。

2008/2/21

境涯と境界の狭間にて  
本当に御書を拝そうと思うのであれば、まずは境涯を磨かなくてはなりません。境涯が低ければ、たとえ御書の御文を全て暗記してしまうほど読破したところで、所詮は指の爪先ほどもこの法門に触ることなど出来ません。磨くべきは境涯だということだと思います。そのためには、とにかくこの仏法を現実の社会のなかで行じていくしかないと思いますよ。

七海氏より、ご覧のコメントを頂戴した。

この前提として、文永十二年の曾谷入道殿御返事が引かれおり、それがまた印象的だった。御文は挙げないが、引用部分以外にも、方便品の長行だとか、霊山浄土であるとか、六波羅蜜経のことなど、短い御書にもかかわらず、いろいろなことが出てくる。

さて、七海氏のコメントであるが、おっしゃる意味はよくわかる。
自分の拙い経験を書けば、若い頃にある小説を読んでいてそれほど感ずるものがなかった、同じ小説を十年くらいしてから読み返してみた、涙がボロボロこぼれるほどに感動した、ということがあった。もっとも、逆に子供の頃は面白かったけど、大人になってから読み返してみるとぜんぜん詰まらない場合もあるのだが、ともかく七海氏のおっしゃる意味はこれに近いだろうと思う。
おそらくこれは、単なる読解力の問題ではないのだろう。文法に長けているとか、語彙が豊富であるとか、そういうこととは別に、人生経験みたいなものが総合力として大きな影響を持つのだと思う。

ただし、それ以前に初歩的な問題もないわけではないと思う。
例えば、わたくしなどはまったく英語が読めない。英語だけではなく、外国語は一つも読めないのだ。ゆえに洋書は翻訳されていなければ、読むことができない。同様の意味で、やはり御書にしても基本的な古文法であるとか、その用語の難解さなどがあって、けっこうとっつき難いものがある。ゆえに、ハナっから諦めてしまっている人も、少なくないのではないかと思う。

拙ブログを閲覧しているほどの人は、けっこう関心の高い人たちなのだろう。いや、何も拙ブログの情報がすぐれているという意味ではなく、わたくしが顕正会員であることや、毎日更新されることなどから、いちおうチェックしておいて損はないくらいに思っているに違いない。
わたくしはそういう人たちに聞いてみたいことがある。例えば、休日である。まったく予定がない。ヒマである。さて、何をするか?
大抵の人は何かしらの趣味を持っているだろうから、それをするに違いない。しかし、それが例えば屋外のスポーツだったりして、悪天候のためにできない場合もあるだろう。その時は何をするのか?
おそらくは第二、第三の趣味があって、それをするに違いない。

さらに聞いてみたい。では、御書の拝読はどうするのか、である。

御書の拝読は別格というか、別に時間を設けて必ず一日に一回は拝読している・・・そういう人がいれば尊敬に値する。けれども、組織に付いている人は、案外に自分から進んで読まないのではないか。わたくし自身がそうだった。
現在は組織から離れている。ゆえに、自らの意志で御書を開かない限りは、御書を拝読する機会はないのである。

そういう初歩的な意味において、わたくしの場合は比較的に御書を拝読しているほうではないかと思っている。しかし、七海氏のおっしゃる意味では、まだまだなのだろう。

境涯を磨く、磨くべきは境涯

氏のコメントで気になった部分をあげさせてもらった。

氏のおっしゃることは、すでにわたくしなりの読解力で、全体的な文脈はつかんだつもりであるし、今日はその線に沿って書いてきたつもりである。その上で、あえて些細な点に触れれば、上掲の表現には少々違和感がある。
これは一般的な用語なのか、それとも教学的な用語なのか、それが判然としないところである。
引用御書との兼ね合いから、その意味を判ずれば、次のごとくなるだろう。すなわち、御書は大聖人の御境界で書かれているわけだから、その境界に近づかないことには深い理解は得られない、といったところだと思う。それはそうだろう。

ただし、わたくしは別の拝し方もあり得るし、そちらの方向性でも構わないのだと、そのように大聖人がおっしゃっているようにも感じられるのだ。

すなわち、凡夫のわれわれには御本尊は文字にしか見えない、だが、実は大聖人の御法魂そのものなのだ、たとえ凡夫にはそれがわからなかったとしても構わない、それを信じてひたすら唱題祈念すればいいのである、と。

今は法華経を御本尊に置き換えたわけだが、御書においても同様のことが言えると思う。わたくしは前々から何度も繰り返し書いているように、御書のことがそれほど理解できているわけではないのだ。意味がわからないで読むのはけっこうなストレスである。しかし、最近はそうでもなくなってきた。意味はわからないけど、ありがたいことだと思って拝読していると、けっこう楽しいのである。

2008/2/20

沖浦式三段論法  
れん氏には、懇切かつ慈愛に満ちたコメントを頂戴しました。ありがとうございました。

事相を中心に据えると、事相の一人歩き、即ち昔の創価や今の顕正会の現証に見える如く、“心の問題”等を一切無視して物理的な員数増加や勢力拡大のみを目指す俗な覇権主義の方向になりますから注意が必要です。

まさに、おっしゃるとおりだと思います。結局、今日の日蓮正宗を取り巻く状況も、その一つの要因として正本堂問題があるわけで、この反省の意味からも、事相については今一度、考え直さなければならない面もあるのでしょう。大聖人が、事相たるゆえに一重の大難がある、と密示あそばしたのも、あるいはこうした意味も含まれるかもしれません。これについては、今後も折にふれて考えてまいりたいと思います。

なお、御授戒の件は、また別の問題ということで、ご寛容願いたいと思います。

さて、沖浦氏から久しぶりにコメントが寄せられた。何を言うかと思いきや、またしても持論の展開である。しかも御書まで引用しているものだから、シロウトが読むと何となく納得してしまう危険性がある。

前にも同様のことがあった。

http://diary.jp.aol.com/ganko/793.html

ようするに、御本尊を道具であると表現するのは誤解を招くのでやめたほうがいい、とわたくしは書いたのだ。ところが依然として、それを改めようとしないわけである。オマケに御書まで引用して、あたかも大聖人がそのようにおっしゃっているかに思わせている。

沖浦氏の持論を単純化すると、こうなるに違いない。

御本尊は剣である。剣は道具である。よって御本尊は道具である。

はたして大聖人は、そのようなつもりで御書をあらわされたのだろうか?

 但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。

剣を譬えに取っているのは事実である。だが、あくまで譬えである。
ゆえに、この譬えが何を意味しているのかを読み取らなければいけないわけで、単純に字面だけを取り上げても意味がないのである。言い換えると、何のための譬えなのか、である。
まさか大聖人は、御本尊を道具であると教えるために、剣の譬えを用いたのだろうか? そんな馬鹿なことはあるまい。では、何のための譬えなのか?

答えは簡単だ。

日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。

これは教行証御書からの引用であるが、ほぼ類文と見てよいと思う。つまり、臆病を誡めるためである。臆病であってはならない・・・このことを剣の譬えをもって御示し下されたと拝するのが自然であろう。


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