2008/2/19

事相戒壇と己心戒壇の狭間にて  
事相戒壇を建立すれば現実の裟婆に仏国土が実現するとは、浅井さんの言葉を真に受けた余りに稚拙な短絡的な御書解釈ですね。

早朝、れん氏よりコメントをたまわった。上掲はその末文であるが、じゃっかん誤解があるので訂正しておきたい。

わたくしが稚拙であることは、まったくそのとおりである。
ただし、浅井先生の言葉を真に受けたというのは、違うと申し上げておきたい。れん氏は以前、拙ブログは独自の視点で書かれているから面白い、という意味の評価を下さったことがあった。生意気を言うようであるが、わたくし自身、そのつもりで書いているのである。
拙ブログは顕正会批判をまったく厭わないし、実際に浅井先生を咎める記述もたくさんある。これは教学的な面においても同様である。ゆえに、戒壇論もまったく同様であって、必ずしも先生の意見と一致しているわけではないし、そのような足枷はないつもりなのである。

いちおう昨日分で、わたくしとしては意を尽くしたつもりであるが、せっかくだからもう少しだけ書いておこう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/603.html

まず、上掲のリンク先であるが、これより数日にわたって観心本尊抄について書いてあるので、わたくしの観解がどのようなものであるか、確認されたいと思う。

此即ち己心の三千具足、三種の世間なり。

わたくしは昨日、この御文を省略してしまったわけだが、れん氏は上掲御文を根拠に、本時の娑婆とは現実の娑婆ではない、と書いておられる。なるほど、明快といえば確かにそうかもしれない。
しかし、わたくしはそれでもなお、これを現実の娑婆世界を意味するものだと思っている。少なくとも、現実の娑婆世界と密接不可分である、と言えるはずである。そうでなければ、観心などというものは意味のないことになるわけで、いわゆる心の問題、あるいは単なる観念論に過ぎないという、批判を免かれないことになるだろう。

前掲リンク先は少々わかり難いので、今一度、説明を試みることにする。

地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。

これは単なる心の問題ではないのだ。なぜならば、

本門の四依は地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし。

だからである。

さらにもう一つ、加えておこう。

今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。

わたくしは本尊抄を拝していて、いつもここに来てギョッとするのである。
例えて言えば、物理だとか数学の超難解の論文があったとして、そこにいきなり最新の時事問題が挿入されているような感じがするのだ。つまり、本尊抄は現実の世界と確実にリンクしているわけで、いわゆる観念の遊戯のようなものとはまったく異なるわけである。
大聖人は、 此の時・此の国に、一閻浮提第一の本尊が立つと仰せられている。まさに、この現実の時空において、本尊があらわされるのだ。

ゆえに、もし戒壇を正意・傍意に分別して、事相戒壇を傍意とするならば、大聖人のあらわされた御本尊もまた、傍意の本尊とならざるを得ないのではないか、と思うわけである。しかし、われわれは大聖人の御本尊を、傍意の御本尊などとは申し上げない。まさに妙法五字の大曼荼羅は、正意の御本尊と拝するべきものである。

よって、わたくしは同様の意味において、この現実の時空に建立されるところの事相戒壇を、正意の戒壇の枠組みに入るべきものと考えたいのである。

http://diary.jp.aol.com/ganko/184.html

上掲はまた、ずいぶん古いけれども、わたくしが書いた文章であることは間違いない。

此即ち己心の三千具足、三種の世間なり。

話を最初に戻すが、もしここで己心の一語にこだわるのであれば、この場合は大聖人の己心であるとするのが正しい拝し方だと思う。この直後には、其の本尊の為体云々の、いわゆる曼荼羅本尊の相貌が示されている。法華経の行者の一身に集約されるところの、いわゆる十界の聖衆が列座している様子は、まさに大聖人の己心中の相貌を具現化したものに他ならないであろう。

なお、本音というべきなのか、しょせん紙幅ないし板の御本尊は傍意である、というような意味を述べる人もいるようであるが、おそらくはみだりに言説すべきことではないはずである。本音がどうであれ、大聖人の御当体にてまします、と拝するべきが信仰者のあるべき姿であろう。


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