2008/2/20

沖浦式三段論法  
れん氏には、懇切かつ慈愛に満ちたコメントを頂戴しました。ありがとうございました。

事相を中心に据えると、事相の一人歩き、即ち昔の創価や今の顕正会の現証に見える如く、“心の問題”等を一切無視して物理的な員数増加や勢力拡大のみを目指す俗な覇権主義の方向になりますから注意が必要です。

まさに、おっしゃるとおりだと思います。結局、今日の日蓮正宗を取り巻く状況も、その一つの要因として正本堂問題があるわけで、この反省の意味からも、事相については今一度、考え直さなければならない面もあるのでしょう。大聖人が、事相たるゆえに一重の大難がある、と密示あそばしたのも、あるいはこうした意味も含まれるかもしれません。これについては、今後も折にふれて考えてまいりたいと思います。

なお、御授戒の件は、また別の問題ということで、ご寛容願いたいと思います。

さて、沖浦氏から久しぶりにコメントが寄せられた。何を言うかと思いきや、またしても持論の展開である。しかも御書まで引用しているものだから、シロウトが読むと何となく納得してしまう危険性がある。

前にも同様のことがあった。

http://diary.jp.aol.com/ganko/793.html

ようするに、御本尊を道具であると表現するのは誤解を招くのでやめたほうがいい、とわたくしは書いたのだ。ところが依然として、それを改めようとしないわけである。オマケに御書まで引用して、あたかも大聖人がそのようにおっしゃっているかに思わせている。

沖浦氏の持論を単純化すると、こうなるに違いない。

御本尊は剣である。剣は道具である。よって御本尊は道具である。

はたして大聖人は、そのようなつもりで御書をあらわされたのだろうか?

 但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。

剣を譬えに取っているのは事実である。だが、あくまで譬えである。
ゆえに、この譬えが何を意味しているのかを読み取らなければいけないわけで、単純に字面だけを取り上げても意味がないのである。言い換えると、何のための譬えなのか、である。
まさか大聖人は、御本尊を道具であると教えるために、剣の譬えを用いたのだろうか? そんな馬鹿なことはあるまい。では、何のための譬えなのか?

答えは簡単だ。

日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。

これは教行証御書からの引用であるが、ほぼ類文と見てよいと思う。つまり、臆病を誡めるためである。臆病であってはならない・・・このことを剣の譬えをもって御示し下されたと拝するのが自然であろう。


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