2008/4/30

生涯現役  
今日もまた、強引に話題をひねり出そう。

顕正新聞第1099号のトップ記事は四月度御書講義についてである。詳細は次号ということで、今号においては要旨が述べられているだけであるが、最初のほうに次のような文章がある。

 定刻を繰り上げた午後六時四十分、浅井先生が教壇に立たれた。

そのすぐ左には、講義の様子をカラー写真が報じている。な、なんと、座っているではないか・・・先生は座って講義をしているのだ。

これは虚偽報道だ。なぜならば、立っていないからである。

まあ、しかし、こんなアゲアシ取りをしているようでは、もはや拙ブログもオシマイである。ひどいもんだ。

わたくしの知る範囲では、御書講義の時はいつも座って講義をしていると思う。昔からそうなのだ。
おそらくは時間が長いからだろう。一時間以上、場合によっては二時間近くになることもあるので、座っていてもおかしくはない。

総幹部会の時は立っていた。

ところがいつの頃からか、総幹部会でも座って講演するようになった。
平均すると三十分前後であろうか、一時間近くの時もあるけれども、昔は立っていたのだ。しかし、今は毎回必ず座っていると思う。その理由は何だろうか?
さしたる理由はないに違いない。ようするに年を取ったのである。こればかりは、どうしようもない。先生としては生涯現役のつもりなのだろうが、それにしても自ずと限界があることだ。

先生の勇姿を見られるのは、あと何年だろうか?

2008/4/29

信心一筋  
顕正新聞の第1099号が届いてから、ずいぶん経つけれども、これまで話題に取り上げることはなかった。もし編集部ないし本部関係者が拙ブログの動向をチェックしているとしたら、ひじょうに不審に思ったことだろう。

正直に書くと、一通り読んでみて、印象に残る記事がなかったのだ。

前にも書いたように、会長本仏論を示唆するような文章であるとか、記述の不正確なもの、あるいはヘボな文章など、これらにツッコミを入れるのが拙ブログの主要な仕事(?)となっている。
たまに感銘を受けた記事があれば、それを話題にすることもあるが、大半は批判的な文章を綴っているはずである。
そういうことで、毎回、どこかにネタはないだろうかと、イヤラシイようだが、そんな視点で記事を読んでいる。しかし、今回は問題視するような記事が見当たらなかった。

この点、編集部の努力を評価したい。

だが、これで終わらないのが拙ブログである。せっかくだから、同新聞から強引に話題をひねり出してみよう。

八戸会館の茶寮開設に全員感動
 戦いが一変、一番槍で誓願達成


四面に、女子部総班長の活動報告が載っているが、上掲はその見出しである。本文を読むと、およそ紙数の半分近くを茶寮の話題が占めている。まるで茶寮の宣伝をしているみたいな活動報告である。

まあ、細かい内容は省こう。ともかく見出しに注目されたい。ようするに茶寮が開設されたことで戦いが一変したというのだ。こういうのを茶寮サマサマというのだろう。

わたくしは思う。今現在、茶寮の設置されていない会館がいくつあるのか知らないけれども、本部としては早急に全国の会館に茶寮を作るべきである。茶寮には戦いを一変させる力があるのだ。この力を利用しない手はない。

けれども、おそらくは茶寮の霊験にも限界があるはずで、すでに茶寮の整備された会館においては、どうしようもない。まさか組織が沈滞してきたからといって、第二茶寮だとか第三茶寮とかを作るわけにも行くまい。
もし本当に力があるのならば、礼拝室も集会室もすべて取り壊して、全館を茶寮にすればいい。さらに、新規に地方会館を建てるのではなく、最初から地方茶寮を建設すればいいのだ。

冗談がきつ過ぎた。

何も茶寮そのものに力があるわけではないのだ。しょせんは一時的なカンフル剤に過ぎないわけで、それは新入信者が大きな集会などを経験して感激するのと同じである。その感激がいつまでも続くわけではない。

先日来の芙蓉楽団の話もそうだが、どうも最近の顕正会は純粋な信心の感激だけでは成り立たなくなってきているような気がしてならない。

かつての顕正会は、余事を交えず、がウリだったと思うのだが・・・

2008/4/28

不公平感の払拭は可能か?  
アキラ氏には重ね重ねのコメントをたまわり、まことに恐縮である。

ある社員はカメラの前で「お恥ずかしい限りです。経営陣に対する不満はありますが、会社全体の問題です。これから改善してまいります。」と堂々と話をした。

わたくしはことに、この部分に感銘を受けた。

顕正会ではこれまで種々の逮捕事件を起こしてきた。そのたびに自らを正当化するための言い訳に終始するか、あるいは頬かむりを決め込むか、二つに一つの対応をしてきた。
間違っても先生自らがおおやけの場で謝罪することなど、金輪際あり得ないというのが顕正会の現状である。
しかし、今や良識のある会員の声が、ネット上でも聞けるようになってきた。このところの茶寮掲示板なども、その傾向をあらわしていると言えるだろう。
浅井先生は断じて己れの非を認めない。しかしながら、すでに会員の中には先生のそうした頑なさを承知している人がたくさんいて、そこを何とかしようと努力している人もいれば、具体的な行動には出ていないけれども、内心では何とかしたいと思っている人もいる。それがネットを媒介として、爆発しつつある。

ゆえに、たとえば今後も逮捕事件が起こることがあるだろう、その時の会員個々の対応において、何か画期的なことがあるかもしれないと、わたくしは思う。

今までの会員の対応は、不当逮捕であること、某団体の謀略であること、顕正会は唯一の正しい団体ゆえに魔の障礙があること、などを弁明に当てていた。活動会員の大半がこのパターンであろう。
ところが今後は、違う対応をする会員が出現するかもしれないのだ。すなわち上掲のごとくのコメントである。

お恥ずかしい限りです。本部に対する不満はありますが、顕正会全体の問題です。これから改善してまいります。

もし、このような発言をする会員がたくさん出てくれば、顕正会も捨てたものじゃないと思う。さて、どうなることやら・・・

次に、

沖縄大会に参加した男子部の数十名の和太鼓の者たちに、「口外してはいけない」との緘口令を敷いて、宿泊代・交通費を本部で負担した

案山子氏のコメントを少しいじらせてもらったが、文脈そのものはまさにこのとおりである。ひじょうに貴重な証言である。

あるいは言うかもしれない、ネット上の匿名での無責任な発言がどうして証言となるものか、と。

わたくしはじゅうぶんに信用できると判断した。なぜならば、すでに先例があるからだ。
先年まで女子部の幹部として活躍してきた人物が、本部から月に四万六千円ほどもらっていたとの証言をしている。これはネット上のブログに記載されているのだ。
なんだ、それもネットかよ、だったら信用できない・・・などと言ってはいけない。この人は現在法華講員であるが、かつては女子部幹部として相当に名前を馳せていたので、今さら顕正会本部としても匿名だから信用できないなどとは、とうてい言えないはずなのである。

ネット上の情報を見くびってはいけない。

拙ブログのコメント欄にしても、あるいは茶寮掲示板にしても、今は匿名に過ぎないかもしれないが、場合によっては出るところに出てもよい、と思っている人だっているはずなのだ。
ましてや人間なんてものは情勢によって態度が変わるものである。これはもちろん、あまりいい意味には聞こえないだろうけれども、それが人間の偽らざる姿でもあるのだ。今後の動向など誰にもわからないが、もしかしたら顕正会が完全崩壊に至ることもあり得るだろう、その時には批判者たちが勢いづく、いわば勝ち馬に乗ろうという動きが顕著になってくる。ことが決する時は一気である。いわゆる雪崩現象が起きるのだ。
ようするに、今はまだ遠慮があるのだ。時が来れば、もっとすごい証言が続出することだって考えられるし、それを実名で行なう人がたくさん出て来るかもしれないのだ。

だから、ネット上の情報をナメてはいけないのである。

さて、交通費・宿泊代を本部が支給することについては、それがはたして大問題かというと、わたくし自身はそうでもないような気がする。

もうすぐ台湾会館が開館するけれども、基本的には台湾の会員のための会館である。ゆえに地元の人たちが集うのだ。
そこに先生が出掛けて行く。他にも日本から主要な幹部が出掛けて行く。この人たちの旅費は本部が支給してもいいのではないかと思う。
同様に、沖縄大会は沖縄の顕正会員の集いであり、他県の会員は関係ないわけである。ゆえに地元の会員以外には、先生と主要な幹部が出席するだけである。この人たちの旅費は本部支給でいいのではないか?

しかし、実態を鑑みるならば、大いに問題がある。説明の要もないが、ようするに顕正会の集会というのは他県からの応援参加が常態化しており、遠隔地からの参加者が多数存在するわけである。
ゆえに、先生と主要幹部だけに旅費が支給されて、一般の会員は自腹で参加するというのは、どうしても不公平感が拭えないのだ。緘口令の意味もここにあるわけだろう。

さて、どうしたものか・・・

2008/4/27

居心地のよい場所を求めて  
昨日の拙稿は文字どおりの拙稿だと思っていたが、案外に反応がよかったので驚いている。

山門入り口氏のコメントなど、ひじょうに嬉しいものだった。ブリ・ハマチのことをわざわざ調べて下さったからである。普通なら、顕正会の問題と関係ないので、そこまでは調べないのではないかと思う。氏にとって、たまたま興味の範疇だったこともあるだろうが、もし拙稿が正真正銘の駄文だったならば、相手にすらしてもらえなかったことだろう。

また、瑠璃堂氏の簡潔にして要を得たコメントと、つい先ほど頂戴したイチロ氏からのコメントによって、洗脳とマインドコントロールの違いについてはおおむね理解できた。まあ、しかし、わたくしのことだから今後もシロウト丸出しで、洗脳とマインドコントロールを混同して使用してしまいそうである。
結論的には、どちらであっても穏やかではなく、顕正会にとってはマイナスイメージを喚起する言葉でしかないことは変わらないだろう。
まさか顕正会が、ウチは洗脳ではない、マインドコントロールだ、などと反論してくることはあるまい。もちろん、その逆もである。

それはさておき、今回のアキラ氏のコメントが気になる。

なぜ女子部・婦人部の精鋭会員を大量に投入してまで楽団やコーラス部を作る必要があったのか?折伏が伸び悩む原因になるのは分かっていたはず。また楽器の代金に多額の御供養が使われた。顕正会七不思議の一つ。

楽器の代金についてはよく知らないので何とも言えないが、折伏が伸び悩む原因ということがひじょうに気になった。芙蓉楽団は折伏の邪魔であるとの意見である。

わたくしはちょっと違うのではないかと思っている。伸び悩みの原因は一種のバブル崩壊であり、芙蓉楽団のことは直接関係がないのではないか、ということなのだ。
早い話が成果至上主義の無理がたたって、活動会員が疲弊してしまった、それが伸び悩みの原因である。むしろ芙蓉楽団は会員をつなぎ止めるための道具みたいなものではないのかと思う。
ゆえに、芙蓉楽団が伸び悩みの原因を作ったのではなく、組織の伸び悩みが見え出した段階で、それを糊塗するために芙蓉楽団を利用した。だから時期的に重なっているので、現象だけを見ると、芙蓉楽団が伸び悩みの原因のようにも見えるのではないかと思う。

聞いた話なので正確性を欠くが、某企業では毎年のように大量の新卒社員を募集している。このご時世に毎年コンスタントに新卒を大量に受け入れることは、けっこう難しいことである。ゆえに成長企業であると目されていた。
ところが実態はじゃっかん違っていた。そこは営業主体の会社で、まさに成果至上主義だった。営業成績の悪い人間は、クビになるわけではないけれども、とても安住できる場所ではなかった。毎年のように大量の新入社員が入ってくるけれども、途中で退社していく人間もたくさんいたのである。
実態はかくのごとしである。思ったほどの成長企業ではなかったのだ。

会社である以上、利潤を上げなければいけない。営業主体の会社であれば、営業に使えない人間はいらないのである。無駄飯を食わせるわけにはいかないのだ。

顕正会にも似たようなところがある。折伏ができないような人間はいらないのである。実際、ひと頃は大活躍していた人物でも、成果が上がらなくなれば捨てられてしまうこともある。
しかし、これではイカンということに、本部でも気がついたのだろう。真面目に五年なり十年なり活動してきた会員を成果が上がらなくなったからといって、簡単に捨ててしまってはいけないことに、気がついたのだろうと思う。
ある意味、そんなことは最初からわかっていたのだ。けれどもつなぎ止める手立てが見当たらなかった。営業主体の企業と同様に、顕正会は折伏主体の組織であるから、成果が出せなくなれば、さすがにクビになることはないにしても、ひじょうに居心地が悪いのだ。脱落者の心理はまさにそこにある。
これを解消するためには、折伏とは別に活躍の場を与えることである。営業主体の会社といえども、別のセクションがあって、そこで役に立つ社員だっているわけだ。同様に、顕正会でもセクションというか、ようは居場所を作ってあげることで、会員をつなぎ止めることができるのではないかと考えられる。

芙蓉楽団の構成メンバーが折伏においてどの程度の成果を上げているか、それがまったくわからないので単なる推測に過ぎないけれども、おそらく折伏をし尽くしてしまって対象者がいないような人が、もはや自分には使命がないのではないかと思いつめて、今まさに顕正会を去ろうとしている・・・それをつなぎ止める役目を芙蓉楽団が担っているのではないかと、わたくしは想像しているわけである。

2008/4/26

低空思考?  
アキラ氏から再びコメントを頂戴した。また、瑠璃堂氏には現役時代の貴重な経験談をたまわった。

おそらくは体育文化祭のことなのだろう。これは不評だったという話がネット上に出回っており、実際のところ一回きりでやめてしまったことからしても、そのとおりなのだろう。本部関係者にしても会員の本音を察知したものと思われる。また、創価学会のモノマネであるというような批判もあったかもしれないし、あらゆる意味でプラスにならないと判断したのだろう。

しかし、芙蓉楽団は残り、その後も重要な行事においては、活躍しているわけである。これがはたして瑠璃堂氏の証言のごとく、会員にとって負担になっているのかどうか、そこはわからない。体育文化祭の場合はそれがメインであること、その後の芙蓉楽団は集会などにおける、いわば余興としての存在だということ、この違いがあるかもしれない。

つまり、体育文化祭の場合は、いったいこれが仏道修行とどのように関係するのか、創価学会と同じじゃないか、というような疑問が会員にも生じていたのだと思われる。けれども、行事における余興としてであれば、まさに有志に限定して行なうことができるので、いわば会内のサークルとして有効に機能するのだろう。極端な話、琴がまったく弾けない人に、それを無理強いすることはないはずなのである。

さて、瑠璃堂氏のコメントで、おやっと思った部分がある。

氏は洗脳とマインドコントロールを別物として論じている。これがわたくしにはわからないというか、不勉強のために何がどう違うのか、把握していないのである。
両者を別物と考えるのは、ある意味では専門家なのだろう。シロウトには同じようなもの、あるいは日本語と英語の違いだけで中身はまったく同じである、というように思えてしまうのだ。まさに、わたくしがそれである。

よく聞くのは、野球とベースボールは違う、という話だ。洗脳とマインドコントロールの違いはこれであろうか?

もともと野球というものはなかった。ベースボールがあった。それが日本に来て野球になった。
同様に、もともと洗脳というものはなくて、マインドコントロールがあった。それが日本に入って来て、洗脳になった。
確か哲学という言葉も元来はなくて、明治時代に作られた言葉だという話だったと思うが、それに近いのだろうか?

それとも、ぜんぜん違う概念なのか?

ブリという魚がいる。ハマチという魚もいる。この両者は同じ魚であるという。地域によって呼び方が変わるのだ。あるいは養殖をハマチと言い、天然をブリと言うとも聞いたことがある。
ヒラマサをご存知だろうか? ブリに似ているのだけれども、いちおう別の魚である。これはおそらくシロウトには見分けがつかないのだと思う。

洗脳とマインドコントロールの関係は、単なる呼称の違いか、それとも養殖と天然の違いか、あるいはブリとヒラマサの関係か・・・

しかし、今日は変な話をしているなあ、くだらな過ぎる。

そういえば、拙ブログでは以前に音楽の話で盛り上がっていたことがある。閲覧者の中に音楽に造詣の深い人が多くいて、いろいろとコメントを残して下さっている。わたくしは音楽に関しても、ズブのシロウトであり、一例をあげれば、いわゆる半音の概念がよくわかっていない。
考えてみるがいい、なぜに半音のある部分とない部分があるのか、ぜんぶの音に半音があればスッキリしていていいではないか・・・というのがわたくしの素直な疑問である。これに関しては、誰かがご教示を下さったと記憶しているが、どうも納得し兼ねるというか、シロウトの素朴な疑問に対する回答としては不足のような気がしていた。ようするに、いまだに理解できていない部分なのである。

あれ? 何を書こうと思ったのかな?

そうそう、思い出した。たとえば、Bフラットという音がある、これはAシャープと同じ音なのだそうである。ところがである。同じ音だけれども意味が違うというのだ。
確かフラットは半音下がる、シャープは半音上がるという意味だと思う。なるほど、結果的には同じ音だけれども、その過程が違うわけなのだ。
しかし、やはりシロウトには、その意味を考える必要があるのか、そこがさっぱりわからない。

おそらくは音楽理論にとどまらず、何事も深く追求すれば、いろいろ難しいことがたくさん出て来るのだろう。

今日の結論はひじょうに簡明だ。わたくしは、洗脳とマインドコントロールの違いなど、今までこれっぽっちも考えたことがなかった。ようするに考えが浅いのだ。たいていのことがそうなのである。

2008/4/25

大局的フォローの必要性  
今朝までに、種々の忌憚のない意見が寄せられた。

アキラ氏の短いコメントにはけっこう唸らされた。慰労の意味というのは、なるほど、そうかもしれないと思ったが、わたくしは別の意味もあるだろうと考えている。悪い言葉を使えば、洗脳の意味である。

音楽には不思議な力がある。若い頃にはミュージシャンになりたいと、そのように思っていた人も少なくないだろう。そこまで行かないにしても、音楽鑑賞が好きな人はたくさんいるに違いない。逆に音楽が嫌いな人はあまりいないと思う。
批判を恐れて今まで書いたことがなかったけれども、わたくしはゴスペルを聴いてもけっこう感動したりすることがある。
謗法だ、汚らわしい、などと思う人がいるのは承知している。ことに顕正会には多いだろう。
けれども、わたくしの場合、外国語で歌われていればまったく意味を解さないので、純粋にメロディだけを聴くことになる。すると、やたらと心地のよいメロディだったりする。素直にいい曲だと思う。
のちにそれがゴスペルであると判明すれば、一瞬はギョッとする。だが、それでもなお、それが心地のよいメロディであれば、わたくしの評価は変わらない。

おそらくキリスト教では音楽そのものが宗教に組み込まれてしまっているのだと思う。それが最初からなのか、あるいは途中からなのか、その辺の詳しいことは知らないけれども、人々を虜にするというか惹きつけるための有効な手段なのだろう。
これを利用しない手はない。誰もがそう思うはずである。ゆえに顕正会でも、わりと熱心に取り組んでいる。純和風のものから洋楽に至るまで、けっこう幅広いジャンルの音楽が採用されている。
確かに、山門入り口氏の指摘するように、創価学会のマネをしている面は否めない。だが、さらに大きく見れば、創価学会も既存の宗教のマネをしているのだ。

仏教にしても宗派によっては読経に節まわしをつけているわけで、そこには一種の音楽的効果があるのかもしれない。

いずれにしても、音楽には不思議な力がある。人を癒しもするし、勇気づけることもできるのだ。大聖人の御指南を拝する限り、それが謗法に相当することはなさそうなので、大いに楽しむべきであろう。

アキラ氏の書いた慰労の意味というのは、そのとおりなのだろう。ここではあえて「癒し」という言葉を使わせてもらうが、わたくしは思うのだ、音楽に癒しを求めることはけっこうなことである、それを否定するつもりはない、だが、そもそもは信仰そのものが究極の癒しではなかったのか、ということをである。

ところが顕正会では癒されない。むしろ、人によっては傷つき、ボロボロになって脱落していくのだ。ある意味では、これが最大の矛盾だとも言えるだろう。

いや、もちろん、

御義口伝に云はく、妙法蓮華経を安楽に行ぜん事、末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり。

こうした御指南がある以上は、甘ったれたことばかりは言っていられないのだが・・・

けれども実態に即して考えるならば、本来は宗教的に癒されているからこそ、どのような大難が襲って来ようとも、泰然自若としていられるわけだろう。ところが顕正会の場合は、組織の内部においてさまざまの葛藤があり、苦悩している場合が少なくないのだ。
つまり、外に折伏に出れば、思いっきり反発を受けるし、それで成果が上がらなければ先輩たちから責められるのだ。踏んだり蹴ったりである。
もっとも、それでいて安楽の境地でいられるならば、それこそ本物なのだろう。

さて、

大局におけるフォロー

サイトウ氏からは貴重なご指摘をたまわったけれども、その肝要は上掲の言葉に尽きていると思う。結局、ねぎらいの言葉などというものは、口先ではいくらでも言えるのだ。もちろん、さしあたっては言葉でしか伝えることができないわけだが、それを繰り返しているだけでは、空しくなるだけである。

また、言葉を重んじるのであれば、先生はさまざまの問題について、説明責任をはたさなければならないだろう。

2008/4/24

仏法ごっこ  
先日は「戒壇論ごっこ」だったが、今回は「仏法ごっこ」である。山門入り口氏のコメントから言葉を借りた。

戒壇論ゴッコの場合はある意味、部分的に稚拙である、ということになると思う。ところが仏法ゴッコの場合は、ようするに顕正会のやっていることはぜんぶ稚拙であると、そのように言っているに等しいと思う。いつもながら辛辣である。

ここ数日はインテリ婦人部員の話をしていた。それとツジツマを合わせて言うならば、インテリジェンスの人物たちを定着させるためには、ゴッコから脱却しないといけない、ということになるだろう。
つまり、顕正会のやっていることは子供のおあそびに過ぎない、ということが見えてしまうと一気に幻滅してしまって、離れてしまうことになるのだ。
山門氏の場合は、その辺のことを思いっきり皮肉っているわけだろう。本部関係者が見れば、さぞや憤るに違いない。
けれども、一面の真理ではある。本部関係者は真摯に受け止めるべきだ。

わたくしは本質的な意味で顕正会のやっていることがゴッコなのかどうか、正直に言ってわからないのであるが、まあ、いちおうはゴッコということにしておこう。

だが、それだけでは済まされない問題がある。実態として、ゴッコではとうてい済まされない問題が横たわっている・・・ここまで言えば、誰もがいろいろな問題を想像することだろう。
わたくしは思う。顕正会のやっていることはゴッコの域を脱していないとしても、顕正会員の意識は違うのだ。彼らは本気なのだ。これこそが顕正会員にとっての、切実かつ深刻な問題なのである。
実は顕正会の活動会員が脱落していく最大の原因は、ゴッコでは済まされないほどの誓願の厳しさにある。つまり、顕正会の活動が幼稚でつまらないから離れて行くのではなく、実際にはその正反対の理由で離れて行く人のほうが多いのだ。もちろん、活動会員の場合である。

ここには、外側の人間と内側の人間のギャップというか、意識の大きな隔たりがある。これに気がつかないといけない。

外側の人間はゴッコだの何だのと揶揄してそれでオシマイである。それ以上のことは考えようとしない。もっとも、考える材料がないのだから、それはまあ、仕方のないことなのだろう。
内側の人間はそうは行かないのだ。ゴッコなどと思って活動している人は皆無に等しい。本気なのである。本当にあと十有余年で広宣流布が来ると思っている人もいるくらいなのである。ゆえに、思うように折伏が進まなければ、それを深刻に悩むのである。

実態としては、そんなところだ。

さて、これをどうするか、である。本部はこうした会員たちのフォローというかケアをどのようにするか、それを考えないといけないだろう。結局、理想ばかりが高いから、現実とのギャップに苦しむのだ。抜苦与楽ではないが、本部としてはこのケアをどうするかを、考えるべきなのだ。

ダメな会員を切り捨てる。もしくは使えなくなった会員を切り捨てる。そんなことをやっていたら、いつまで経っても広宣流布にはならないだろう。

現在のわたくしは気楽な立場である。けれども真面目な活動会員の苦悩が見えていないわけではないので、今日はその視点から書いてみた。

2008/4/23

誰にでもわかるブログ?  
「誰にでもわかる顕正会の誤り」という本が発刊されました

ウィンズ氏のコメントから引用させていただいた。

タイトルがうまいと思う。それだけで本の性質というか、目的がよくわかる。文字どおり、誰にでもわかるタイトルである。内容については、未読なので書きようがない。

昔はこういう本が出ると、総幹部会などで浅井先生が紹介していたものである。

そんな馬鹿な・・・と思う人がいるかもしれない。ようするに以前は批判を真正面から受け止めていたのだ。広宣流布の途上にはさまざまの批判が起こってくる、それを跳ね除けなければ広宣流布は達成できない、ということだった。
至極、当然の理屈である。ゆえに「冨士」が刊行されていた頃は、破折論文のようなものも載せられていた。妙観講を破折するにしても、今みたいに裏も取れないような不確かな情報を載せて墓穴を掘るようなことはなく、いちおうは法義上のちゃんとした破折を試みていたのである。
すでに冨士が廃刊になって、十年以上が経過している。もはや復刊の可能性はゼロに等しい。これが顕正会のレベル低下の一因であることは否めないだろう。

さて、山門入り口氏からもコメントが寄せられている。相変わらず顕正会のことを、よくは書かない人である。

一言でまとめてしまえば、こういうインテリの人が顕正会に入るとは思えない、ということになるだろう。

いちおう、わたくしなりに弁護をしておきたいと思う。最終的には弁護にならない、それがいつものパターンではあるが、あくまで是々非々ということで、よい点は素直に認めるべきであるし、悪い点も素直にさらけ出す、それがわたくしの方針である。

・・・諫暁書を手にしてより入信を決意するまでの三年間、自ら浅井先生の著書を購入し、読み漁り、「顕正会しかない」との大確信をもっての入信でした。

まず、はたしてこの人は六巻抄を含めて本当にぜんぶ読んだのか、という疑いがある。
しかし、これはそれほど無理のあることではない。なぜならば、三年間の時間があったからである。
読書家にもいろいろあるが、多読の人は一日一冊、年間で三百冊以上読破する人もザラにいると思う。ゆえに浅井先生の著作など、分量的な意味では微々たるものであり、それこそ三年間もあれば繰り返し読めてしまうだろう。

それから、本部会館で全著作を購入したことの実否であるが、記事には書かれていないけれども、紹介者随伴であれば問題ないだろう。本人は女性であるが、紹介者は壮年部である。ここに重要な意味があると思う。

すなわち余韻を残す折伏の実践である。

これは先年、強引な折伏によって逮捕が頻発したことから、浅井先生が言い出したことであるが、おそらく壮年部は顕正会の中ではいちばん常識があると思われるので、先生がその指導をする以前から、すでに余韻を残す折伏を実践していたと想像されるのである。
これはある意味、押しが弱いということになるわけで、相手を会館まで連れ出すことができたならば、何が何でも入信勤行に持って行く、というのが壮年部以外の人たちのパターンなのである。
いずれにしても、この人の紹介者はそのような無理強いをしなかった。本人が諫暁書を読んで衝撃を受けたという話は昨日のブログに書かれているごとくであり、おそらく紹介者は感想を聞きに行ったのだろう、諫暁書の配布活動というのはいわゆるワンクッション作戦でもあるのだ。その時点で、もっと他にも読んでみたい、と本人が言ったのかもしれない。そこで本部会館まで案内した。紹介者はあわよくば入信勤行を目論んでいたかもしれないが、あくまで本人の意志を尊重して入信には至らなかった。けれども前掲のごとく、三年の歳月が機を熟させたのである。

まったくの空想ではあるが、いちおうはこれが余韻を残す折伏の実践例と言えると思う。

むしろ、このような折伏を積み重ねるほうが、即効性はないけれども、ひじょうに価値が高いはずである。ゆえに、本当はこの方針に完全に転換したいのだが、現実は自転車操業みたいなものなので、どうしても成果にこだわらざるを得ないのだろう。

最後に、六巻抄を読むほどの人が浅井先生の著書に疑問を感じないのか、そこが不思議だ、という点について書いてみたい。

そういえば、記事の中には法華講とも縁があることが書かれているわけだから、あるいは顕正会の批判なども聞かされているかもしれない。なるほど、そうであればなおさら先生の著書に疑問を持っても不思議ではないし、そのまま法華講員になってしまってもおかしくなかった。
ようするに理解度の問題である。読書家にもいろいろあると書いたが、たくさん読んでいるわりには知識が乏しい人もいる。次から次へと忘れていく、早い話が上書きされていくのだ。あるいは知識は豊富であるけれども、整理ができていない人もいる。いろいろな本からいろいろな情報を断片的に集めているようなものである。
そのような意味で、この人の判断が絶対的に正しかったのか逆に間違いだったのか、それは何とも言えないところである。
思うに、たまたま顕正会が正しいと思い込むようなめぐり合わせだった・・・というのが、いちばん無難なところであろう。

もう一つ言えることは、この先の問題である。昨日も書いたように、この人がずっと顕正会員でいられるかどうか、そこがアヤシイのだ。

先生の著書を読んだだけではわからないことがある。それは組織の実態ということだ。こればかりは実際に、組織の中に入ってみなければわからない。
けっこう先生の書いていることは理想が高いので、それだけ読んでいると理想的な組織なのだろうと思い込んでしまう。けれども現実にはさまざまの問題を抱えている。そこに気がついて、嫌気がさして組織から離れてしまうのだ。

是々非々ということで、おおむね両面にわたって書いたつもりである。

2008/4/22

インテリジェンスな婦人部員  
今日は顕正新聞からの話題である。三月度総幹部会の記事に面白いものがあった。それは第1098号の五面に載る体験発表であるが、まずは編集部へのツッコミである。

第一面は総幹部会のダイジェストが載っている。もちろん、これから取り上げる体験発表についても書かれているわけだが、それがどういうわけか「正義にめざめて」として紹介されているのである。
実際の総幹部会では、はたして「体験発表」だったのか、それとも「正義にめざめて」だったのか、どちらであるか知らないけれども、これはある種のミスであろう。しかし、こんな初歩的なミスをするものか疑問である。
ゆえに、何かしら意図的なものがあるのかもしれない。

さて、話の内容であるが、この人は身延派日蓮宗に五十年もいたそうである。ゆえに、いわゆる「正義にめざめて」としては、通常の日蓮正宗系列からの入会とは違うことになる。過去にも同様の記事があったけれども、それはさておき、なぜに五十年にもわたって無二と信じて来た身延派を見限り、そして顕正会へと移ったのか、それが興味深い。

身延派の先輩三人が狂乱の悪臨終

これは見出しの文章である。編集部は先輩と表現しているけれども、その内の一人はこの人の母親である。つまりは母親の臨終を目の当たりにしてショックを受けた、それで疑問に思ってあらゆる書物を調べた、という話の流れである。

ようは母親が信仰に熱心だったのだろう。この人はその背中を見て育ったのだ。ゆえに教学的なことにはあまり深入りせず、五十年の歳月を送っていたごとくである。
それがくだんの悪臨終を見て、一気に疑問が噴出してきた。そこから猛勉強が始まったごとくである。

 とにかく最初に思い当たったのが法華経を全部読み調べ内容を知ることでした。今になって思い返してみると幼稚な行為でしたが、求めているものへ一歩ずつ近づくような気がしました。そして身延派の出している「日蓮聖人全集」を初めて読み、私の心の目が開かれた思いがして、今まで何をどこで間違ったのか、それを多少なりとも知り得たことが前進でした。

幼稚な行為とは謙遜か、それとも余経も法華経も詮無しの意味なのか、そこはわからないけれども、わたくしから見ればすごいことである。法華経をぜんぶ読むなんて、しかも調べるという語彙が入っているのだから、ただ単に通読したというわけではないのだろう、たいへんなものである。
後半、身延派の出している本について、やや肯定的な書き方をしている。ここを編集部は気にしなかったのか? というのは、法華講員あたりからツッコミが入りそうな気がするからであるが、まあ、わたくし個人はそれほど気にならないところである。
ともかく求道心の旺盛さがよく伝わってくる。

元来が読書家なのだろう、ある時、諫暁書の配布を受けた。

 これが運命の展開の始まりでした。とくに諫暁書を拝読した私は強い衝撃を受け、すぐさま本部会館へ飛んで行き、受付で頒布されていた浅井先生の著わされた書籍をすべて求めました。折伏理論書、六巻抄等、貪るように拝読を重ねました。

どうでもいいようなツッコミを入れるけれども、六巻抄は浅井先生の書いた本ではないだろうが・・・

しかし、そんな低レベルのことを書いている場合ではない。この人は本当にすごい人である。いかに読書家といえども、六巻抄はなかなか読めないはずだ。しかも拝読を重ねたと書いているくらいだから、何度も読んだのだろう。
正直にすごい人だと思う。何しろわたくしは六巻抄を通読したことがないのである。だって持ってないんだもん。

わたくしのことはともかくとして、問題はこういうインテリジェンスの人物が、はたして顕正会に居続けることができるのか、それが心配である。ある意味、顕正会が存続していくための課題の一つと言えるだろう。

最後に、

 もはや私の使命はただ一つ、顕正会の同志と異体同心して、偉大なる師匠・浅井先生の指導を仰ぎ、「本門戒壇の大御本尊様」「日蓮大聖人様」に平伏し、ただひたすら両眼滝のその日まで我が身を抛ち、残りの人生を「広宣流布」と「御遺命の戒壇建立」に命かけ戦ってまいる決意であります。

これはうまいと思った。カギ括弧の使い方がうまい。編集部が入れたのか、それとも本人が最初からこのように書いたのか、わからないけれども、ひじょうにうまい表記だと思う。

わたくしは顕正新聞を読むに当たって、いわゆる会長本仏論の危険性がある文章に目を光らせているのだが、上掲の文章はそれに抵触しないようにうまく工夫してあるように感じられるのである。

2008/4/21

短気は損気  
ウィンズ氏からコメントを頂戴するのは、かなり久しぶりのことだと思う。それにしても奇妙である。おそらく、ウィンズ氏の思っている「のび太氏」と、わたくしの書いた「のび太氏」は、別人なのだろう。そうでなければ、ツジツマが合わないのだ。

確かウィンズ氏は携帯からの閲覧だったと思うので、正信掲示板を確認していないのだろう。

なぜ日顕宗と呼ぶのか? のび太 2008/04/18 23:32

日付を確認されたい。つい先日の投稿なのだ。まさか幽霊ではあるまいし、別人としなければ、他に説明がつかないと思う。ましてや内容が内容である。

創価学会員が、なぜ日顕宗と呼ぶかというと、平成3年7月31日に顕師と能化による次のような発言があった。

「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊授持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。
したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。」

この変節が法主信仰の始まりであった。


(中略)

要するに現在の宗門は、本門戒壇の大御本尊と血脈相承と歴代上人を一体と解釈する”三位一体説”の邪義が蔓延っている。

しかも最後には法華講員の樋田氏を皮肉る意味のことが書かれているくらいだから、明らかに別人である。

さて、ちょうど一週間前の拙稿では、顕正会がらみの裁判について憶測を述べた。すると昨夜遅くに、次のようなコメントが寄せられた。

もう一つの裁判とは借地にタワーを建てたことでもめてるんですか?

わたくし自身は何も知らないので、前述のごとく憶測を述べているだけに過ぎないのである。ゆえに、問われても困る、というのが正直なところだ。

この際、またしても勝手な憶測を書かせてもらうならば、タワーくらいで裁判になるとは思えない、ということである。

ご存じない人のために、簡単に説明しておこう。本部会館の隣接地に二十年契約で三階建てのビルを借りて、それを青年会館と称して使用していた。借りてから数年後、百万達成の折に、看板を立てたのだ。それは看板であると同時に記念碑も兼ねていた。ゆえに通常の看板とは違って、ずいぶんと立派なものだった。これを顕正会では大標識タワーと呼んでいたのである。
借りている間は、借りている側にある程度の裁量があると思う。ましてや長期であれば、なおさらである。ゆえに看板を立てたくらいで、それが裁判になるとは思えない。けれども、もしかしたらオーナーが何かしらの苦情を言った可能性はあると思う。たとえば、顕正会側が何の断わりもなしに看板を立ててしまったとか、そのような場合は確かに文句を言われても仕方がないだろう。しかし、それも話し合いであるとか、お金であるとか、解決方法はあるはずで、それが裁判になることは考え難いことである。

ここで大胆な想像を書けば、オーナーは相談なしに勝手に看板を立てられたことに腹を立て、断じて認められない、看板を撤去せよ、と言い続けていたのかもしれない。浅井先生はしばらく辛抱していたが、ついにキレてしまった。逆ギレである。そこで、看板だけ撤去するのは格好悪いので、いっそのこと契約を破棄してしまえ、ということになったのではないか・・・
いちおうは体裁を繕って、耐震強度の問題を理由にしているが、真相はこんなところかもしれない。

いかにも浅井先生らしいではないか?

仮に顕正会の抱えている裁判というのが旧青年会館がらみだとすると、二十年契約を一方的に破棄したことへの損害賠償ではないかと思われる。早い話が浅井先生の、逆ギレのツケということだ。

瞋るは地獄

折伏理論書にも出ているはずだ。

いずれにしても、今日の話はあくまで勝手な想像に過ぎないので、そこを誤解なきように願いたい。


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