2008/5/29

信仰者の大原則  
hage氏からご挨拶をたまわった。

リンクが貼り付けてあったので、ジャンプしてみた。氏のブログのようである。あらまし拝見させてもらったが、どうやら本門仏立宗の人らしい。
よく知らないので、何とも言い様がないけれども、ブログを拝見する限り、平均すると平易な言葉で信心のことが語られていると思った。この点に関しては、やたらと難解な用語を振り回すようなサイトよりも、よほど好感が持てると思った。

ちなみに、hageというのは禿げ頭をイメージしてしまうけれども、「励む」とか「励ます」の意味が込められているようだ。

そもそも、どういう経緯で氏がコメントを下さったか、他の読者には皆目見当がつかないかもしれないので、少し説明しておこう。前回、日一氏の法華講説というブログについて触れた。このブログにおける唯一(?)のコメント投稿者がhage氏だったのだ。
当初、何度試みてもコメントが入力できなかったのだが、一昨日に再挑戦してみたら入力できた。それで調子に乗って、たくさんのコメントを入れさせてもらった。
早い話が、hage氏はそれをご覧になって、こちらにも来て下さったわけである。

その法華講説であるが、今現在はどういうわけか、登録制になっていて自由に閲覧できないようである。日一氏もいろいろと試行錯誤をしておられるのだろう。しばらくは静かに見守るしかないようだ。

OM氏からもコメントを頂戴しているわけだが、これがまた法華講説がらみの話題なのである。

一般的な顕正会の人の考え方
偏頗かつ独善的な考え
狂信
リトマス試験紙


勝手ながら、氏のコメントを部分的に切り取らせてもらった。おそらく氏にとっては不本意な引用であろうが、このほうが話が見えやすいように思う。
ようするに、日一氏は偏頗かつ独善的であり狂信である、これが平均的な顕正会員の思考であるとしたら顕正会もオシマイだ、というようなニュアンスである。
リトマス試験紙というのは、ある意味ではわたくしに対しての試験なのだろう。巌虎がどのようなことを言うか、見ものであると・・・

ダライ・ラマは悪魔である

日本への原爆投下は当然である


具体例としてはこの二つが出ている。ようするに、日一氏のブログに書かれていたことがこれである。これをOM氏は、偏頗・独善・狂信と言っているわけである。さらには他の顕正会員たちがどう思っているのか、それが問われているのだ。もちろん、わたくしへの問いでもある。

具体例への具体的な回答は避けたいと思う。だが、しかし、大聖人の教えに忠実たらんとすれば、自ずとこのような発想も生れてくるのではないか、という気がしてならない。
これはいわば解釈論争の範疇に入ってくることだろう。当然、違う意見も出て来る。ようは御書を間違って読んでしまっているから、そういう危険な考え方になるのだ、と言うわけだろう。これはけっこう難解な議論である。
わたくしの思うに、程度の差こそあれ日蓮系の教団には同じような発想があるのではないか・・・顕正会のみならず、過去にもあっただろうし、未来にもあり得ることではないか、と思うのである。
実は日蓮系教団に限ったことではないのだ。おそらくは熱心になればなるほど、自讃毀他の傾向が顕著になるのではないかと思う。もちろん仏教だけでなく、あらゆる宗教がそうなのだろう。
ここで話を戻して、日蓮系というよりは法華宗というべきなのだろうか、いわゆる法華経の場合は正真正銘の真実が説かれているから自讃毀他ではない、こういう意味のことがすでに伝教大師の時から言われているわけである。そういうわけで宗教全般に自讃毀他傾向があるにせよ、とりわけ日蓮系教団にはそれが顕著なのだ。何しろ自讃毀他ではないと胸を張ってしまっているのだから・・・

結局、これがもし大聖人の仏法への根本的な誤解であるとしたら、それをどう解消していくかが当面の課題なのだと思う。わたくしは今回、上掲の問題について直接的なアプローチを避けたわけだが、たとえばこれまでにも謗法者を断命すべきか否かを不殺生戒の問題と絡めて考えたりもしているので、けっして都合が悪くて口をつぐむわけではないのである。

わたくしの基本的スタンスは、なるべく現代人に受け入れやすい解釈が望ましい、けれども、現代人に迎合して大聖人の仏法をねじ曲げてしまったら本末転倒だ、ということである。

2008/5/25

独白再開?  
各方面より過分のお言葉をたまわりましたこと、まことにありがとうございました。本来ならば、一つひとつ丁寧にお返事申し上げるべきところですが、いつものごとく省略させていただきたいと思います。

さて、タイトルのごとく独白の再開であるが、よく見るまでもなく疑問符を打ってある。

独白は自分の性に合っているのだけれども、そればかりではツマラナイので、少し外回りに精を出そうかと考えているのだ。

読者の中には、バージョンアップを期待している人もいるかもしれない。コメントにもそのような意味合いのものがあった。しかし、そう簡単に行くものではない。
むしろ相変わらずの、俗にいう○○節みたいな感じにならざるを得ないと思う。それを好ましく感じてくれる人がいるのも事実であるが、ある意味では自分が自分に対して嫌悪感を懐いているようなアンバイなのである。
ゆえに一度、頭の中を完全にカラッポにして、それから再開するのがベストではないかという気がする。そうなると本格的な再開がいつになるか、それはわからない。
そんなわけで過度の期待は禁物である。
わたくし自身、そのような気負いはさらさらない。前回、書いたごとく、必要に応じて更新していくのみ、ということだ。

それで今回であるが、他人のブログや掲示板などにも積極的に参加していこうかと思って、さしあたっては「法華講説」というブログにコメントを投稿しようとした。ところがどういうわけか、コメントが入力できないのである。原因不明である。

法華講説では五日ほど前に、爪上の土というタイトルの短文を発表しているが、そこにはご自身のブログの不人気ぶりを書いておられる。なんと今までにコメントを残してくれた人はたった一人だけらしいのだ。
別にそれを読んだからというわけではなく、わたくし自身の興味の上から、ぜひ伺ってみたいことがあって、コメントを入れようと思った。けれども前述のごとく、コメントを入れようとしても、どうしても入らないのである。
そういうわけで、もしかしたら不人気ぶりというのは誤解で、実はコメントを入れようにも入らないので、それがためにコメントが少ないのではないかと推測した。

はたして法華講説の日一氏が拙文を読んでいるかどうか、それは定かではないが、もしお読みであれば、もっと入力しやすいように改善すべきであろう。

ちなみに拙ブログはひじょうに入力しやすいはずである。
いわゆるセキュリティの関係から、いろいろな機能を付加することは可能である。たとえば、承認機能というのはコメントを入力してもただちには反映されず、管理人が内容を確認してから公開するかどうかを決めるわけである。わたくしはこれを使わない。
その他、いろいろあるようだが、いっさい使わない。もともと機械オンチだから、そういうものにタッチしない意味もあるが、あくまで門戸開放というか、制限を設けるべきではないというのがわたくしの方針である。
そうすると、中には自分にとって不都合というか精神衛生上、ひじょうに好ましくないコメントが寄せられることもある。しかし、それを甘受する、どんなに苦痛であっても削除しない、ということなのだ。

考えてもみよ。現実の生活のほうが遥かに過酷である。ネット上の辛辣なコメントくらいで打ちひしがれていたら、とてもじゃないが世渡りは不可能である。

2008/5/21

石の上にも三年  
当ブログは本日で満三年を迎えた。この間、いちおうは一日も欠かさずに更新してきた。けれども、もうそろそろ終了してもいいと思うようになった。

まだまだやれるとは思っている。やろうと思えば、いつまででも続けられる。ある種のパターンができていて、そこにネタを盛っていけば、いくらでも書けるのだ。
だが、それはそれで大きな意味でのマンネリズムみたいなものであり、すでに読者の中にはそれを嗅ぎ取っている人もいるに違いないのである。

そこで今日を区切りに、いったんは終了としたい。

終了といってもブログを閉じるわけではなく、今後は毎日更新せず、必要に応じて更新したいと思う。ようは不定期更新というわけである。

まだまだやれるつもりでいるとは書いたものの、さすがに毎日が締め切りというのはけっこうシンドイものである。
こう見えても、わたくしはいちおう職業を持っており、外に出る機会が少なくないのだ。ある日、大雪が降って、帰りが遅くなったことがあった。その時にはギリギリで更新を間に合わせたけど、実際には何も書いていない。

http://diary.jp.aol.com/ganko/257.html

これがそうだ。

しかし、事実上の休載はこの一回だけであって、他はそれなりに内容のある文章を綴ってきたつもりである。おそらく、これをマネすることは簡単なことではないだろう、やれるものならやってごらん、と言いたい気分である。

そういうわけで、前人未到のことかどうかは知らないが、わたくし自身としては元来がナマケモノゆえに、よくやったと思っている。誰かの言葉ではないが、自分で自分を褒めたい。

2008/5/20

血圧の上がりそうな話  
昨日分の拙稿に対して、貴重なコメントが多数寄せられている。

沖浦氏は常に胸襟を開いている。別の言葉を使えば、表裏のない人物である。とりわけ昨夜のコメントなどは、並の創価学会には絶対に書けないような内容であり、単にバカ正直というのとは違って、ようは腹が据わっている人なのだと思う。

おそらく本人は否定するだろうが、わたくしの思うに、創価学会が素晴らしいのではなく、実は沖浦氏が素晴らしいのだ。

聖教新聞を一部しか取らない理由を過去にさかのぼって告白している。ある意味、己れの恥部をさらけ出すようなことであり、普通の人はしないことである。ましてやその内容たるや、創価学会の上層部から睨まれてしまいかねない、そういう危険性もある。ことに、公明党には投票しないことを家族で決めて、もし座談会などで発言する機会があれば、本当に発言するつもりでいるらしいのだから、すごい。まさに腹を括っているのだ。

こういう人はなかなかいないと思う。

ちなみに、ネット上で著名な小野不一氏も、公明新聞の購読を打ち切った旨、ブログに書いておられた。

今に始まったことではないのだろう。昨年の参院選がその予兆とも考えられる。
さらに今後、総選挙においてどういう結果が出るか、そこが注目されるわけで、もっぱら現在は自民党の大敗が予想されているけれども、それに連動して公明党もまた相当の痛手を負うことになると思われる。
先のことはわからないとはいえ、ほぼそれが時代の趨勢のようである。

それはともかく、わたくしは沖浦氏が創価学会員であろうがなかろうが、氏個人の人間性に大いに惹かれるのである。さすがにここまで書くと、ホメ殺しの気味が感じられるかもしれないが、正直な気持ちを書いたつもりである。

さて、アテーションプリーズ氏の書いておられることは、初耳のような気がする。もっとも創価学会批判の本は数多くあるので、隈なく調べればそのような記述に行き当たるのかもしれない。
そもそも顕正会員というのは、そうした批判書をほとんど知らないのだ。かく言うわたくしもその一人である。つまり、顕正会流すなわち浅井流の創価学会批判しか知らないし、それでじゅうぶんだと思ってしまっているわけである。
初耳のように感じるのは、そんな理由からだと思う。

社会からバッシングを受けて、それで改善した・・・

で、顕正会も同様に社会から批判を受ければ、自ずと改善されるという考え方のようであるが、そこで再び沖浦氏からコメントが入った。
ようするに、顕正会が社会から注目されることはない、おそらくは永遠に不可能、ということまで書いておられるのだ。
これは相当にパンチが効いている。

わたくしの見るところ、沖浦氏はあまり顕正会に詳しくない。けれども、けっこう正鵠を射ているように感じられるのだ。
逆に言うと、現在の沖浦氏の実感として、ネットで大騒ぎしているわりには大したことない、というのが顕正会の現状なのだろう。地域的な格差というべきか、けっこう顕正会員の多いところもあるけれども、そうでもないところも依然として多いわけである。
冷静に判断して、今のところ顕正会は創価学会ほどのネームバリューを持たない、ということなのだろう。

はたして今後どうなるか、それはわからないが・・・

職員氏から再びコメントを頂戴することができた。しかも渾身の筆というべきか、思いのたけを余すところなく書き綴ったように感じられるものだった。

希望的観測じゃなく、会員の誰とでも分け隔てなく語りあえる克衛さんなら、泥んこになってやってくれますよ。

けれども失礼ながら、希望的観測が強いと思った。

いや、言葉を選んだほうがいいだろう、まさしく主任理事は希望の星なのだ。
わたくしは二年前に克衛待望論というのを書いたことがある。ゆえに、職員氏の言うことはよくわかるのだ。すぐにやめちゃう人も多いが、長く在籍している幹部も少なくないのだ。そうした人たちの中に、彼に対する期待を今もなお懐き続けている人がいることは間違いないと思う。
職員氏もその一人であって、大いなる期待を懐いている。その思いがよく伝わってくるのだ。

おそらくは拙ブログのコメント欄を利用して、誰かに伝えたかったのだろう。

はたして思いは届いたか?


五月二十一日追記:一箇所加筆した。

2008/5/19

血圧が上がりそうな話  
まず、沖浦氏にご挨拶申し上げるが、恥ずかしながら顕正会の実態はかくのごとしなのである。創価学会でも聖教新聞を複数購読している人がいる。しかし、高が知れていると思う。以前のヅラ系氏のコメントでは、確か二部ずつ取っている人が多いと言っていたはずである。いや、そうではなく、複数購読しているとしても、せいぜい二部か三部くらい・・・ということだったと思う。

ところが顕正会の場合はケタが違うのである。ちょうど、先ほど瑠璃堂氏からコメントがあって、どうやらブログの更新をしたらしいので、さっそく見に行ったら案の定、タイムリーな話題だった。二十年ほど前の経験談として、自分名義で三部は当たり前、それ以外に総班員の名義で三部ないし四部の購読をしていたということなのだ。

はたして現在はどういうことになっているか・・・

さすがに昨日の百九十部というのは極端にしても、おそらく平均値は瑠璃堂氏の時代とケタが違ってしまっているはずである。何しろ脱会者が多くて、現状維持すらおぼつかなくなりつつあるのだ。そこを無理して帳尻あわせをしようとするから、誰かが負担を強いられることになるのだ。

ところで、

ダンボールひと箱ぶんの血液。

これが今日の瑠璃堂氏のブログに付されたタイトルであるが、知らない人が読むとギョッとすることだろう。おそらくはミステリータッチの文章を想像するに違いないのだ。
ところが最後まで読んでも、血液の意味がわからない。いったい何の意味があるのか、まるでつかめない。
いちおう身銭を切るという意味合いから、世間普通の義として何となく理解できそうであるが、それとは別の意味も兼ねているのだ。

これは顕正会の活動会員のみに通じる言葉だろう。もったいぶるようで恐縮だが、これ以上は書かないでおく。

さて、本部職員と思しき人からのコメントが入った。もし、この人物が正真正銘の本部職員だとしたら、わたくしとしても嬉しいことである。しかも、比較的にわたくしの考えに近いというか、物事を冷静に客観視しておられるところがすごいと思う。もちろん、逆にわたくしを徹底的にやっつけようという本部職員ないし大幹部がお出ましになっても、それはそれで面白いことだが・・・

再びコメントを頂戴できることを期待して、一つ質問してみよう。

機関紙の問題も、克衛さんなら、全部解決できたはずです。

これは具体的にどういうことなのだろうか?

単なる希望的観測なのか、それとも具体的な処方があるのか、そこが知りたいところである。
結局、先ほどの瑠璃堂氏の証言もそうであるが、あるいは妙観講の渡辺氏など、古い人たちの証言にも多重購読の問題が出て来るのである。つまり、主任理事が表舞台で活躍していた時代にも程度の差こそあれ、同様の問題があったのだ。
ゆえに、克衛さんなら解決できたはず、というのは単なる希望的観測ではないかという気がしてならない。

まあ、しかし、控え目に見積もって、主任理事がいれば今ほど状況を悪化させることはなかった、ということなのだろうと理解した。

克衛さんは、自分なりの答えを見出そうとしたんでしょうね。
会長と対等に向き合い、自分の意見を述べられる唯一の人だった。その人が姿を見せなくなれば、会の勢いが失われることなど目にみえてた。


自分の意見を言える唯一の人というのは、確かにそのような気がする。

会長と対等に向き合えるかどうか、それとは直接関係ないかもしれないが、最近の幹部の話はツマラナイ、というのがわたくしの偽らざる感想である。
内緒の話、ひと頃は班長会などの音源を送ってもらって聴いていた。当然、いちばん最後に話をするのは、部長である。どこの部長とは言わないが、面白味のない話だった。
けれども、主任理事の話は面白かったという印象がある。単なる人の口真似ではなく、自分の考えをしゃべっていた。そんな気がするのである。

しかし、昔の印象なので、あるいは今になって改めて聴いたら、違う感想を懐くかもしれない。そこは何とも言えないところではある。

問題は主任理事に復活の目はあるのか、そこが重大問題だと思う。

テレビのタレントなど、どれほど一世を風靡しようが一年も姿をくらましていれば忘れ去られてしまうものである。
顕正会でも同様のことが言えるわけで、隊長だの区長だの華々しい活躍をしていた人たちにしても、一線を退いてしまえば忘れられて行くのである。これは主任理事とて例外ではないのだ。
ともかく新陳代謝の激しい組織である。昨日今日、入信して来た人たちにとっては、克衛? 誰それ? ということなのだ。

この現実にどのように打ち勝つか、それが問われているのだと思う。

2008/5/18

腐敗堕落の実態  
たった今、茶寮掲示板から転載させてもらった。顕正新聞の購読実態についての、貴重な証言であると判断した。まさに深刻さが浮き彫りになっていると思う。

まさか顕正会擁護の立場で、この証言の信憑性を問う人はおるまい。なぜならば、顕正会擁護=熱心な活動会員であり、その人もまた、大なり小なり多重購読を強いられているはずだからである。

それにしても百九十部には驚いた。これを計算すると、百六十一万五千円になる。ヒドイ話だ。これ以外に、広布御供養もあるわけだから、いったいどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしいことである。
いつも言っていることだが、こういうのは必ず破綻する。わかり切ったことである。実際、この人はすでに顕正会を去ってしまったわけだろう、また誰かがこの代償を担うのだろうか、いや、そんな馬鹿なことはないはずだ。少なくとも続くわけがない。
ようするに、やがては個人ではなく、組織そのものが破綻する。つまり、顕正会そのものが崩壊することにつながるのだ。本部の連中は、それがわからないのだろうか?

先週あたり、瑠璃堂氏が機関紙をテーマに書いていた。記事のタイトルがひじょうに面白いのだが、それはさておき、文章を一部紹介しよう。

多重購読の裏には、組織の実状とかけ離れた目標(誓願)設定だけでなく、
組織の慣習的な指導のもと行われる無理な申し込みと、無理な立替え問題が
昔とは比べようもないほど深刻化しているのだろうと推察いたします。


氏は総班長だったので、その経験談は貴重である。どうやら、まだ話の続きがあるようで、今のところはあまり具体的な数字は出ていないようだ。けれども、昔とは比べようもないほど深刻化している、というくだりはひじょうに象徴的である。
つまり、昔から同様の問題はあった、けれども今ほどではなかった、今は比較にならないほど深刻化している、ということなのだろう。
まさに百九十部の証言が出ることを予見するかのような記事である。

先ほどは金額のことを書いたが、今度は別の計算をしてみた。

普通の感覚では、新聞は一部購読すればじゅうぶんである。それが百九十部ダンボールに詰められて送られてくるという。これは一部ずつ購読している人にとっては、約五年分の量なのである。一回で五年分がどっさりと送られてくるのだ。
わたくしは約二十年分の顕正新聞を所持しているけれども、その保存はけっこう面倒臭い。くだんの話で行くと、わずか四回で二十年分の量に達する。わざわざ難しい計算をする必要はないのだが、これを積み重ねていくと、わずか一年間で百九十年分の新聞購読をしていることになるのだ。
もはや狂っているとしか言い様がない。

このテイタラクで広宣流布ができるのか?

この例に限らず、機関紙ノルマの異常さは誰にも分かるものです。
今月は機関紙購読拡大の月、本部はこういう事を推奨、又は放置していては断じてなりません。「末端幹部が行った事で知らなかった」では全くの責任回避で本部は機能していない。速やかに各組織の現状を正確につかみ、拡大目標の廃止、複数部購読は禁止にすべきです。一国云々を論ずる前に、会員が経済崩壊、家庭崩壊している現状をよく弁えるべきです。


これは茶寮管理人の言葉であるが、まったくそのとおりだと思う。さらに本部首脳は、折伏誓願との矛盾にも気がつかないといけない。

浅井先生はかつて、入信願書の偽造を行なったことが発覚した場合、ただちにその幹部を除名すると言っていた。
以前、嘲斎坊氏が書いていたことだが、男子部のどこぞの隊で大量の入信報告書偽造が発覚したという。氷山の一角だかもしれない。
これ自体、広宣流布を有名無実化することであるし、大聖人への裏切り行為であるから、除名もやむなしであろうと思う。では、顕正新聞の多重購読はどうなのか、である。

これが自己矛盾であることに、本部首脳は気がつかないといけない。

広宣流布を有名無実化する意味では変わりがないこと、大聖人への裏切り行為という意味においては直接には当たらないかもしれないが、往いては同じであろうと思う。ゆえに本部は、多重購読者を全員ただちに除名にしたらいいのだ。だが、そうはしない。逆に黙認しているのである。

それはなぜか?

誰もが思うだろう、それは収入になるから・・・

顕正会では宗門に対して、腐敗堕落ということをよく言っている。文字どおり、よく言うよ、まったく・・・と言いたくなる。顕正会こそ腐敗堕落していることが、ここに露呈しているではないかと。

2008/5/18

資料的価値の高い証言  
機関紙について
NAME:管理人 No.7800
某掲示板の記載を転記します。

うちの支隊長が、
「幹部が退転したせいで、新聞のノルマがきつくなった。追い討ちをかけて昨年比15%増しを隊長からしつこく強要され、生きた心地がしない」と嘆いていました。
現状でも70数%らしく、115%までもっていくにはあと40数部とれと言うのです。「各班5部、借金してでも必ず伸ばす事」と無茶苦茶な事まで言ってます。今月は税金の月で支払いが一杯一杯なのに、わざわざ支隊座まで開いて「俺はサラ金行ってまで捨て身で出しているんだから、皆も捨て身になれ」と、滅茶苦茶な事を言ってます。
これを聞いて、ああこの男は駄目だ、と思いました。支隊長に借金してまで出さなければいけないのか?と問いつめても「大丈夫、直ぐに功徳で返ってくるから安心しろ」と言う有り様。
ガックリきました。出さない!!と言い張ると、支隊内で影口を言う有り様で、普段話しもしない支隊の人からも「みんな借金して新聞とったんだから、場を乱すな。空気を読めよ。功徳無くして罰をくうぞ」と言われてしまい、正直唖然としました。これが浅井先生の本心なのですね。分かりました。そこまで言われるのなら顕正会辞めます。本当にうんざりしました。幹部の方々、お世話になりました。もう二度と関わりたくないです。携帯解約します。アパートに来たら、付きまとい行為で訴えますので、そのつもりで。
****************************
この例に限らず、機関紙ノルマの異常さは誰にも分かるものです。
今月は機関紙購読拡大の月、本部はこういう事を推奨、又は放置していては断じてなりません。「末端幹部が行った事で知らなかった」では全くの責任回避で本部は機能していない。速やかに各組織の現状を正確につかみ、拡大目標の廃止、複数部購読は禁止にすべきです。一国云々を論ずる前に、会員が経済崩壊、家庭崩壊している現状をよく弁えるべきです。

TIME:2008/05/17(Sat) 18:38

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Re: 機関紙について
SPDRKNo.7803

私は某幹部時代、以前から退転した幹部の機関紙を抱え続けた古い組織を受け持ちました。余りに多い部数の顕正新聞購読に愚痴の思いとなっていた各組織の分を無理の無い様にとカットして私個人の部数に切り替えていったことがあります。
その結果として私個人の部数は100部を超え、150部を超えて、最後は190部を超えてしまいました。妻に内緒で借金して工面しましたが、送付先を職場にしたため自分の机の後ろには折っていない状態の新聞が段ボール箱に入って届いては積み上げられていたことが想い起こされます。
そこまでいって初めて「新聞整理しましょうか」と○子部長から声をかけられて部数を整理する運びとなったのでした。しかしながら、それでも尚、部数を減らす事への申し訳なさから無理をしている幹部がおり、その後も75部取っていました。今年は私の75部が減り、その他一緒に宗門に帰伏した多部数購読者がおりますから、その組織では大変だと思います。
私自身も顕正会時代には「顕正新聞こそ唯一の正しい言論機関」「御供養が年に二回あるようなもの」と誇りに思っていましたが、今回の妙観講大草講頭への名誉毀損の判決一つとってもいかに信憑性が無いか価値が無いのかを考えると言葉になりません。
生活が厳しくなる中で工面しては機関紙締め切りと先手の折伏という事で日々追われるかつての戦友・同志の本当の気持ちを思うと哀れです。
組織の問題でもそうですが、問題とならなければ見てみぬ振りをし、問題となっても「自発」「先生はそんな事は仰っていない」で済ませてしまう、更にその意向に沿わない者は切って捨てる、そういう独善・偽善・閉鎖的な体質が窺える一つがこの機関紙購読推進という活動ですね。
管理人様が仰るとおり、改善すべき眼前の目標の一つかと思いますが、これを言うにはまた相当な覚悟が必要です。

TIME:2008/05/17(Sat) 23:48

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巌虎註:茶寮掲示板から転載させていただいた。資料としての価値がひじょうに高いと思う。

2008/5/17

当世をうつし出す浄蓮房御書の一節  
浄蓮房御書を御存知だろうか?

おそらく題名だけを聞いて、すぐに内容の思い浮かぶ人は少ないと思う。かく言う、わたくしがそうである。
実際、あまり引用されることはないに違いない。それほど有名な御文も見当たらない。
たまたま今日は、この御書を拝読していた。すると思い掛けなくも、ひじょうに示唆的な御文にぶつかった。

これは後述しよう。

諫告書の話題は昨日で終わりのつもりだった。けれども浄蓮房御書を拝読していて、書きたいことがもう一つ浮かんできた。

 さて早瀬日如管長には、阿部日顕前管長の譲りを受けて登座をされた。それを恩とするゆえか、(中略)
 貴師はいったい、御本仏への忠誠と前職への義理と、いずれを重しとしているのか。

貴師という表現は、どうなんだろうか?

まあ、それはさておき、この文章の続きには御書が三つ引用されている。ようするに、阿部日顕は大聖人に背く師敵対の者であるから捨てなければいけない、という意味のことを御書に基づいて言っているわけである。

これは無理難題を吹っ掛けているようなものだが、いちおう引用の仕方は適切であると思う。もちろん、日顕上人が師敵対であると仮定した場合である。
それはともかく、わたくしは三番目の引用御書を見て、まったく別のことを想起した。以下、顕正新聞の表記にしたがって御書を掲げておく。

孝子、慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる、孝の至りなり

開目抄の一節である。

浅井先生の引用目的を図式化すると、孝子が日如上人で慈父が日顕上人、そして申すまでもなく王が大聖人である。
これはこれで理解できないわけではないが、わたくしはこれを同時代の人間で構成したほうがより説得力を増すのではないかと思っている。つまり、慈父と王の譬えは基本的に同時代でなければ意味をなさないのだから、そこに日顕上人と大聖人を当てはめても実感しづらいのである。
ゆえに、わたくしは対案として、次のような図を提示しておきたい。

孝子=浅井克衛 慈父=浅井昭衛 王=御当代

まったくの空想であるが、もしかしたら克衛は浅井先生の過度の宗門攻撃に愛想をつかしてしまった、それで今は宗門側に心を寄せているのではないか?

御存知のごとく、浅井先生が宗門批判を強めたのは平成十六年の夏からである。その時にはまったく気がつかなかったが、今になってみると思い半ばに過ぎるものがある。折りしも、主任理事が表舞台から降りてしまった時期に重なるのである。

もちろん、あくまで一つの可能性に過ぎないので、そこは誤解なきように・・・

最後に浄蓮房御書を引用して終わりにしたい。

今の人々は彼にすかされて数年を経たるゆへに、将門・純友等が所従等彼を用ひざりし百姓等を、或は切り、或は打ちなんどせしがごとし。彼をおそれて従ひし男女は官軍にせめられて、彼の人々と一時に水火のせめに値ひしなり。

おそらく理解の及ばない人が多くいることだろう。だが、説明は省略させていただく。

浅井先生が拙稿を読めば、激昂するかもしれない。

だが、これが現実なのだと思う。

2008/5/16

諫告書にひそむ自己矛盾  
トチロ〜氏からコメントを頂戴した。

創価学会員が御当代のことを日如上人とお呼びしていたとの話は、ちょっと信じがたいところである。しかし、わざわざウソのコメントを入れる必然性は考えられないので、そのとおりなのだろう。教学のできる人たちだったと・・・

深い事実も知らないで平気な顔で呼び捨てにする顕正会員とは一体何なのでしょうか?

ここが重要なところだ。

おそらくトチロ〜氏の対峙した創価学会員は、相手が法華講の大信者であることを察知して、ウカツなことは言えないと思ったのだろう。利口である。
ところが顕正会員は、何もわかっちゃいない。ようはコワイモノシラズなのだ。
まさに一念信解路線の反映であるが、現状では大幹部であっても何も知らない、知らされていない、そういう人たちばかりであるから、始末に負えないのだ。

何なんだ、こいつら?

言葉は悪いが心境としてはこんな感じであろう。

さて、昨日は諫告書の呼び捨て表記について、思うところを書いた。
日顕上人憎しで呼び捨てにするのは、わからなくもない。だが、日達上人を呼び捨てにするのはおかしいだろう。八つ当たりみたいなものだ。
さらにそれがエスカレートすれば、やがては歴代上人も呼び捨てにするかもしれない。御当代にしても、あるいはこの諫告書が受け入れられないとわかった段階で、いよいよ呼び捨てに移行するかもしれない。

もちろん、呼び捨ては六十六・六十七の二代だけという可能性もあるが、前にも書いたように、それもまた変な感じがする。ようするに、百年後も二百年後もずっと言い続けているとしたら、それこそ何なんだということになる。いわゆる御遺命守護の完結はどうなったのか、そこがツッコミどころであろう。もっとも顕正会が存続しているかどうか、そこが疑問ではあるが・・・

さて、わたくしの見るところ、諫告書にはもう一つの重要な問題が隠されている。

 現在行われている「御開扉」は、本門戒壇の大御本尊を冒涜し奉るのみならず危害を招く恐れがあるので、即時にこれを中止し、広宣流布・国立戒壇建立の日まで大御本尊を秘蔵し奉ることを強く諫告する。

冒頭の一段であるが、いわゆる標釈結の標文に相当する。そして結文が以下である。

 そしてその忠誠の証こそ、直ちに御開扉を中止し、近き広布のその日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ることである。

無理難題を吹っ掛けている。これが第一印象であるが、わたくしの視点はそこにとどまらない。

御開扉の是非については、よくわからないというのが本音である。いわゆる秘仏という意味からすれば、どれほど熱心な信者であったとしても、滅多に御開帳の機会にあずかれないとするのが筋ではないかと思う。
ゆえに、いちおうはこの筋で考えてみよう。はたして浅井先生の言うことは筋が通っているのかどうか、そこが問題である。

わたくしは大問題だと思う。以下、問題箇所を再掲する。

近き広布のその日まで・・・

これである。

諫告書には日亨上人の本が引用されていて、そこに「遠き広布を待ちかねて」というくだりがある。浅井先生の言う近き広布は、この遠き広布に対応するわけである。
しばしば、あと二十五年で広宣流布しなければ・・・うんぬんかんぬん、これが取り沙汰されている。なぜ人類は亡びなかったのか、浅井の予言は外れたではないか、というような批判である。
これを別の言い方に直すと、なぜ広宣流布できなかったのか、ということになる。むしろ、こちらのほうが本筋であろう。何も人類の滅亡を目指しているわけではないからである。
平成五年の男子部大会では、広宣流布を遠き未来の理想であると思う時代は終わった、という意味の発言をしている。その頃、あと二十年と言っていた。そして平成十年頃には、あと十五年と言っていた。その後は、あと十有余年と言っていた。

多少の誤差は許される辺もあるだろう。

だが、今現在はあと何年であるか、まったく言わなくなってしまった。いや、言わなくなったのではなく、言えなくなってしまったのだ。

つまり、多少の誤差どころの話では済まなくなってしまった。

わたくしの言いたいことが見えたはずだ。もはや浅井先生の「近き広布」は、まったく信用を失ってしまったのである。
もし「近き広布」を言うのであれば、それこそ「あと何年」であるかを明示すべきだろう。それをはっきりせずに、近き広布を言ったところで、誰も信用しないに違いない。

卑近な例で恐縮であるが、「母ちゃん腹減った」と言う子供に対して、「もうすぐ晩御飯ができるから、それまで我慢しなさい」と母親が答えている図を想像するがいい。本当に「もうすぐ」が事実であればいいが、いつまで経っても御飯ができないとしたら大問題である。それで餓死してしまったら、シャレにならないだろう。

2008/5/15

諫告書の問題点  
山門入り口氏から、四月度総幹部会の会長講演のご案内をたまわったわけだが、すでに顕正新聞第1101号にはその全文が掲載されているので、そちらをベースに思うところを書いてみたい。

今回の講演は、日如上人へ宛てた諫告書がメインであり、それがすべてと言ってもいいくらいである。
諫告書の内容は相変わらずと言えばそれまでだが、ひじょうに浅井先生らしさのにじみ出たものだと思う。つまり、悪く言えばワンパターンであり、よく言えば一貫性が保たれていることになると思う。
では、宗門の反応はいかにといえば、まさか日如上人から返事があるとは思えないが、もしかしたら邪義破折班あたりが何かしらの反応を示すかもしれない。

さて、わたくしからは二点ほど、指摘しておこう。

 すなわち細井日達(違背の重大性に鑑み敢えて敬称は略す)は、国立戒壇放棄を「宗門の公式決定」として世間に公表し、内には宗門信徒に対して「国立戒壇は本宗の教義ではない」とたばかった。
 また阿部日顕(当時教学部長)は、
(以下、省略)

浅井先生は日達上人と日顕上人をいずれも呼び捨てにしているわけだが、その後ろのカッコ書きが微妙に違っていて、そこがひじょうに気に掛かるところだ。
まあ、これはいいとしよう。問題は過去との不整合である。平成二年の著書には、次のごとくある。

細井日達管長(御遺命違背のゆえに敢えて日達上人と呼びまいらせず)と阿部日顕管長(同前)の二人

そうそう、思い出した。この本は平成十四年に再刊されているが、なんと上掲の(同前)が削除されているのだ。すると、やはり日達上人と日顕上人に差をつけていることは、間違いないようである。前掲の(当時教学部長)というのは、別に今さら日如上人に説明するまでもないことだろう。その辺が韜晦の気味を感じさせるところだ。

ともかく違背の重大性に鑑みるのはけっこうであるが、なぜに平成二年と平成二十年で違ってしまっているのか、そこが問題である。

日顕上人に対する呼び捨てはいいとしよう。もっとも、このように書くと法華講員から叱られそうだが、話を最後まで読めば言わんとすることが理解できると思う。
顕正会の立場では、平成十年にいちおうは御遺命守護が完結したことになっている。けれども顕正会は宗門へ復帰できなかった。それゆえに顕正会は、というより浅井先生は、宗門への不満をますます募らせていくことになる。それがとうとう爆発して、日顕上人を呼び捨てるに至った。
ここまではいいのだ。ようするに動機としては筋が通っている。ところが日達上人への呼び捨ては筋が通らない。
つまり、日顕上人は今も御健在であり、マレには顕正会の破折なども御説法の中に織り込むことがある。ゆえに、それを耳にしてますます憎悪を募らせることは、ある意味、人間の自然な感情だと思う。ところが日達上人の場合には、すでに故人となられているわけだから、もはやこれ以上、顕正会のことを云々することはないのである。

平成二年も平成二十年も、日達上人への評価は同一であるべきなのだ。むしろ時間的な意味では、そろそろ上人とお呼びしてもよさそうな気がする。
創価学会系の謀略情報紙などには、歴代上人を呼び捨てにするものが目立つ。けれども顕正会はそのマネをしない。その節度には一定の評価ができると思う。同様に、日達上人もすでに過去の人であるからして、歴代上人の一人として敬称をつけてお呼びするべきではないかと思う。

逆に今度は、御当代上人に対してどのような態度を取るべきか、そこが問われてくる。

今回の諫告書は、文章そのものはまさに強言であり、ハタから見て不遜きわまりないものであるが、いちおうは早瀬日如管長という表記になっている。ちなみに文脈上の整合性ゆえか、そのすぐ後ろには阿部日顕管長という表記が見られるが、それはさておく。
ともかく今の段階では、現管長を呼び捨てにしていない。ここが重要だ。今後、それがどのように変遷するのか、注目したいと思う。

二点にわたって書くつもりだったが、今日はこれで終わりにしたい。


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