2008/7/31

弥勒の出世は方便か?  
ありの金吾氏よりご挨拶をたまわった。わたくしは氏のブログを欠かさず読んでいる。何しろ氏は顕正会から宗門に移籍するに当たって、顕正会の全国会館事務所に向けて破折文を送付したほどのツワモノである。ゆえに、その後の動向も、自ずと注目せざるを得ないのである。

わだっち氏にはご多忙にもかかわらず、反応を示して下さり、恐縮至極である。けれども、六巻抄を読めというのはなぜだろう、それがわからない。あるいはそこがわたくしの弱点であることを知って、執拗に迫ってくるのかもしれない。

さて、今日は引き続き、hage氏の質問をベースに書いていく。

日蓮聖人が本仏ならば末法とは、どの様な時なのでしょうか?

弥勒菩薩はどうなりますか?

この二つをわたくしなりにコラボさせてみたい。だが、そもそも氏の質問は簡略過ぎるので、正確な意図がつかめない。よって、もしかしたら、まったくの期待はずれの回答になるかもしれないが、そこはあらかじめご容赦願いたいと思う。

質問の意図を推し量るに、大聖人を御本仏とすると、末法という時代は矛盾を帯びることになるのでは・・・という意味に聞こえる。つまり、仏の入滅後、時間の経過していく様子を説明しているのが、いわゆる正像末の三時、あるいは五箇の五百歳などであるから、あくまで釈尊が基準になっていて、大聖人は基準になっていない。ゆえに、大聖人を御本仏であるとするのは、不自然というか違和感を拭えない、ということなのではなかろうか?

確かにそれは言えると思う。

このことは大聖人のあらわされた御本尊、すなわち妙法五字の大曼荼羅の讃文それ自体が物語っている。いわゆる仏滅後云々の記述である。まさに釈尊滅後、二千有余年を経過した時代が末法であり、そこに大聖人は御出現あそばされた、そのことを御自ら宣言しているわけなのだ。

ある意味では当然過ぎることなのだが、これを釈尊本仏論者は、だから大聖人はあくまで仏勅使なのだ、と主張するわけである。
ここにパラドクスがある。これがわかっていないと、一向に話が進まない。概して仏法の世界は意外性に富んでいることに気付くべきである。釈尊と大聖人の関係においては、いくつもの逆転現象が存するのだ。それが末法の概念にも如実にあらわれていると思う。
実は時間の長短で考えれば、末法がいちばん長い。いちおうは一万年とされているが、報恩抄の「万年の外未来までも」との御指南を拝するならば、それよりも遥かに長いのだろう。ここまで来れば自ずと諫暁八幡抄が想起されるはずだ。

在世は但八年なり。

短過ぎる・・・

おそらく日蓮宗側の人は、このまま黙ってはいないだろう。いろいろな反論を展開してくるものと思われる。

だが、逆にわたくしのほうから聞いてみたいことがある。すなわち弥勒菩薩のことである。撰時抄の冒頭には次の一節がある。

弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給ひて五十六億七千万歳をまち給うべし。

あるいは祈禱抄に、

釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に、仏出でて説法すべしと云ふ事何なる経文ぞや。若し証拠なくんば誰の人か信ずべきや。かゝる僻事をのみ構へ申す間、邪教とは申すなり。

とある。

祈禱抄の当該御文は日蓮本仏論を否定している・・・と考えている人もいるらしいが、それはしばらく置くとして、これらの御文を拝すると、大聖人は弥勒菩薩の出現を肯定しておられるように拝される。さて、いかがなものであろうか?

ようするに日蓮宗の教学的見解を問うているのである。弥勒の出世はあるのかないのか、である。

わたくしの結論を書いておこう。弥勒菩薩の出世はあくまで方便である。ゆえに五十六億七千万年後を期待しても無意味である。
たとえば大聖人は、弥陀の来迎については明確に無いと断言あそばされている。それに比べると、弥勒に関してはあまりはっきりしないのであるが、一代聖教大意の最後のほうに弥勒の出世に言及あそばされている箇所がある。少々御文が込み入っていてわかりにくいけれども、わたくしには弥勒の出世は方便であるとの御見解であろうと拝されるのである。
具体的な御文については、各々が確認されるとよい。

以上のような理由から、わたくしは末法万年を事実上の永遠であると拝する。してみれば、まさに末法に御出現あそばされた大聖人がどれほどの尊い存在であるか、それがよくわかるのではないかと思う。

2008/7/30

代筆御書の大胆さ  
わだっち氏に始まって、れん氏、のび太氏のコメントを拝見して、ヤッカイな問題提起だなあと思った。れん氏とのび太氏はまだしも・・・まだしもと言うのは、信仰に対してそれなりに前向きに取り組んでいるという意味だが、わだっち氏の場合は行動が極端過ぎるように感じられてならない。氏はいつの間にか日蓮正宗を否定する側に立っている。それは承知していたけれども、今度のコメントを拝見すると、もはや正宗だけではなくて、日蓮大聖人の仏法そのものを否定せんとしているかのごとくである。それどころか大乗仏教諸派を全否定するかのごとくにも読めるのである。

もちろん、それは個人の自由であろう。しかし、氏はいったい何処へ向かっているのか、それが見えてこないのである。

さて、hage氏のコメントであるが、これがまた、ヤッカイな内容である。しかし、ある意味では、わたくしの想定内というか、拙稿に対する反応としてはきわめてマットウであり、ひじょうに真面目な質問だと思う。以下、その主要な部分を掲げておこう。

富士派では、日蓮聖人を本仏とされていますが、
それでは、上行菩薩はどのように説明されるのでしょうか?
それと日蓮聖人が本仏ならば末法とは、どの様な時なのでしょうか?
法華経というお経文はどのような役割を持つことになるのでしょうか?
南無妙法蓮華経の御題目と、釈尊、久遠元初の御本仏との関係はどうなるのですか?
常不軽菩薩や弥勒菩薩はどうなりますか?


ぜんぶに回答するには相当の紙数を要するので、とりあえず上行菩薩の問題から書いてみたい。他の問題は明日以降、できる限り取り組んでみるつもりだが、いつもぶっつけ本番で書いているので、どういうことになるか定かではない。

御書の分類の仕方はいろいろあると思うが、わたくしは次のような分類もあり得るのではないかと考えている。

御書・代筆御書・御相伝書

この三分類である。代筆御書ないし代作御書というのは、頼基陳状や下山御消息、そして滝泉寺申状などだ。御相伝書は日興上人への口伝である。そして、残るところの一般的な御書を一括りにすると、上掲の三部類となる。ずいぶん乱暴な整理の仕方であるが、それなりの意味を見出せるのではないかと思っている。

日蓮大聖人を上行菩薩の再誕であるとする点においては、おそらく現今の日蓮門下にさしたる異論はないはずである。日蓮正宗でもそれを主張しているし、わが顕正会においても同様である。
当然、身延派などでもそれを主張しているわけだが、では、正宗と日蓮宗のどこがどう違うのかといえば、大聖人を御本仏と拝するか否かにその違いがあるわけだ。
ある意味、正宗の主張は矛盾している。矛盾は言い過ぎにしても、かなり複雑である。なぜならば、大聖人の御事を上行菩薩であると言いながら、同時に御本仏であるとも言うからである。
hage氏の質問も、おそらくはこの辺の整理の仕方を問うているのだと思われる。

だが、そこにたどり着くためには、もう少し回り道をする必要がある。ようするに、大聖人が御本仏であるかどうかを論ずる以前に、大聖人が上行菩薩の再誕であるかどうか、これを論証するだけでもけっこう難儀なことなのである。

日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候・・・

頼基陳状である。前述の三分類では代筆御書に当たる。御相伝書ほどの大胆さはないにしても、それに次ぐ大胆さの感じられる御文ではないかと思うが、いかがだろうか?
一般の御書ではいわゆる御謙遜ゆえか、御自身をそのものズバリ上行菩薩の再誕であると仰せられることは滅多になく、むしろ上行菩薩ではないとの仰せのほうが圧倒的に多いのである。
たとえば、次の寂日房御書などは、ひじょうに味わい深いものがある。

経に云はく「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。

弘安二年の九月に及んで、なおも御自身を上行菩薩ではなく、その御使いであると規定あそばしているのであるから、建治三年六月の頼基陳状の仰せがいかに大胆であるか、よくわかるというものである。

背景を考えれば、よりいっそう見えてくる。

大聖人は稀代の悪侶である・・・というのが衆目の一致だった。ハタから見れば、幕府の御勘気をこうむって二度も流罪になっているのだから、とんでもない悪僧だと思われていてもおかしくないだろう。実際、建治三年五月の上野殿御返事には、

日蓮房を信じてはよも惑いなん、上の御気色も悪しくなりなん・・・

との一節がある。ようするに、これは上野殿に対して、あんな日蓮房のような悪侶を信じてどうするのか、かえって幕府から睨まれて立場が危うくなるだけだから、およしなさい・・・というような忠告をする人がいたということなのだろう。
頼基陳状における四条金吾殿のケースは話が込み入っているけれども、本質的には同じことである。早い話が大聖人の仏法を信仰していたからこそ、虚偽の訴えを起されてしまったのだ。
こうした背景を踏まえるならば、大聖人に対する一般の評価がどのようなものだったかが見えてくる。
そして今度は大聖人の側からの大胆なる反撃がなされるのだ。つまり、大聖人がいかなる御立場にあられるか、それを四条金吾殿に語らせるわけである。

わたくしの思うに、公開されることを前提とした頼基陳状において、上行菩薩であられることを高らかに御宣言あそばしていることは、只事にはあらずである。もはやこれだけでじゅうぶん過ぎるほどのことではないかと・・・

考えればわかりそうなものである。御書に、自分は御本仏である、などと書かれているほうがおかしいのだ。むしろ大聖人を取り巻く状況を考えれば、上行菩薩であられることを御宣言あそばすだけでも大胆であり、ある意味ではこれがギリギリ精一杯のところだとも考えられるのである。

以上のような理由から、上行菩薩であるか否か、ここが最大の争点であり、もし上行菩薩であることが確定すれば、それはそのままで御本仏とイコールである、というのがわたくしの考え方である。というよりも、これがわが師匠であるところの浅井昭衛の日蓮本仏論である。何かと反抗的なわたくしではあるけれども、この辺の見解はほぼ一致しているのだ。

2008/7/26

種脱相対の名手  
釈尊のルーツは久遠元初の御本仏
 その御本仏が末法出現の日蓮大聖人

(質問)
 日蓮大聖人は釈迦仏より後にお生れになったのに、なぜ釈迦仏より位の高い仏様と言うのでしょうか。

(回答)
 ずいぶん難しい質問をしましたね(爆笑)。
 これは「種脱相対」といって、いちばん重要で、難しい教義なのです。
 わかり易く言えば、こういうことですね。
 釈迦仏のルーツを尋ねるのです。すなわち、釈迦仏のご先祖様を、ずーっと尋ねていく。どんどんどんどん昔にさかのぼっていくのです。
 そうすると、いちばん大本の偉大なご先祖様に行き着く。この大本のご先祖様を、仏法では久遠元初の御本仏と申し上げる。そして、この御本仏が、釈迦仏の滅後二千年以後の末法にお生れになった。それが日蓮大聖人なのであります。
 だから大聖人様は、釈迦仏より後に生れても、仏様としての位は高いのだ、ということです。

 これは私が言うのではないですよ。釈尊自身が、そのように説いているのです。
 いいですか。釈迦仏は五十年間、インドで説法された。しかしそのうちの四十余年は、まだ真実を顕わさなかった。すなわちルーツを明かさなかったのです。
 ところが、一代五十年の説法の極説といわれる法華経の寿量品において、始めて自身のルーツを明かし、こう言っている。
 「皆は、私が十九歳で出家し、三十で始めて仏の覚りを得た、すなわちインドで始めて仏に成ったのだと思っているであろうが、実はそうではない。私は遠い遠い、気の遠くなるような大昔、まだ私が凡夫であった時、南無妙法蓮華経という生命の極理・根源の大法を修行して、仏に成ったのだ」と。
 この最初の仏様こそ、あらゆる諸仏のいちばんの大本の仏だから、本仏という。釈迦仏はこの本仏が姿を変えて垂迹した仏なので迹仏というのです。
 そして末法には、このいちばんの大本の、久遠元初の御本仏が出現して、釈迦仏の手に負えない荒んだ全人類をお救い下さるのです。
 この事はたいへん重大なことであるから、釈迦仏は法華経において、はっきりと次のごとく予言し証明しているのです。
 「日月の光明の能く諸々の幽冥を除くが如く、斯の人、世間に行じて、能く衆生の闇を滅せん」と。
 つまり、太陽や月の光が地上の一切の闇を除くように、この人は末法の世において、よく全人類の闇を滅するであろう―と。
 この予言に照らされ、末法に出現された久遠元初の御本仏こそ、実に日蓮大聖人であります。
 だから、大聖人様は後にお生れになっても、釈尊よりも勝れた仏様なのであります。


先般の台北会館での質問会が顕正新聞第1108号に掲載された。顕正会会長としては初の海外渡航だったと思われるが、それはさておき、この時の質問会における第一問目が上掲である。わたくしの思うに、これはひじょうに重要な意味を持っている。しょっぱなに、この質問を設けた意味はとてつもなく大きい。

簡略に記せば、池田大作氏への対抗意識からだと思われるのだ。

最近はもっぱら宗門批判に重きを置いているが、以前は創価学会批判がメインだった。とりわけ池田氏に対して、さまざまの角度から辛辣な批判を展開していた。
池田氏の海外渡航は数え切れないほどであり、そのたびに現地の識者との対談が行なわれてきた。それらを読むと、釈尊の名前ばかりが出てきて、どういうわけか大聖人の御事にはあまり言及していないのだそうである。これは釈尊のほうがウケがいい、逆に言うと、大聖人は世界的には認知度が低いので相手に話が通じにくいということなのだろう。
これを顕正会では、ケシカランではないか、と言っているわけである。

おそらくはこれが念頭にあってのことだろう、上掲のごとく、いきなり質問会の冒頭に大聖人と釈迦仏の関係を明確化するための質問を設けたのだと思われるのだ。

それにしても種脱相対は難解であり、そんな簡単に説明し切れるものではない。今回の浅井先生の回答は、端折りに端折ったものであって、先生としてもこれが完璧であるとは思っていないだろう。しかし、質問会の性質上、あるいは海外会員への説明という意味では、これくらいがちょうどいいのかもしれない。ともかく冒頭にこれを持ってきたことは、先生の志の高さをよく示していると思う。

当ブログは日蓮宗の人も閲覧しているようなので、彼らがどのように受け取るかも興味深いところだ。

それから昨日分に山門入り口氏からコメントがあった。おっしゃる意味はおおよそ理解しているけれども、わだっち氏もここ数日は沈黙しているようなので、わたくしとしてはしばらく静観したいと思う。

2008/7/25

軽率な言動をいましむ  
昨夜、茶寮掲示板の二階で、わたくしへの呼び掛けのような投稿があった。はよブログを更新せんかい・・・みたいな感じである。

このところの猛暑で頭がやられていることもあるし、それほど書きたいこともないので、更新を控えていたというのが事実である。もっとも、その間に、他の人のブログなどに、コメントを入れさせてもらったりはしていたのだが、茶寮掲示板には投稿していない。

まあ、しかし、この際だから白状しておくと、実は茶寮掲示板が立ち上がった年に、変名で投稿したことがあった。二階のほうだから、今もしっかりとそれが残っている。
そもそも変名での投稿などは、ネットの世界では日常茶飯事なのだと思う。けれども、わたくしは滅多にそういうことをしたことがない。ようは、らしくない行為をしてしまったわけだが、それにはそれなりの理由がある。わたくしとしてはそのすべての経緯を公開しても構わないのだが、他の人に迷惑が掛かるといけないので、とりあえずはこのくらいにしておきたい。
ともかく変名は日常茶飯事である。しかし、わたくしはそれをしない。この証明は拙ブログそのものが証明たり得ると思っている。この三年間は、ほとんどこれ一本に傾注してきた。脇目を振る余裕はなかったのである。

わだっち氏を取り巻く一連の騒動について、わたくしの見解を期待している人がいるかもしれないことは承知していた。何しろ、これまでにもあちこちの話題に首を突っ込むような感じで、わたくしなりの考えを書いてきたわけだから、当然に今回の問題にも首を突っ込むに違いないと思う人がいても不思議ではない。

だが、わたくしは何も書かなかった。今後も書くつもりはない。永遠に書かないというわけではないが、当面は書かないつもりだ。

そこで、もし、どうしても気になる人は、わだっち氏のブログをご覧になられたいと思う。そこに行けば、わたくしのコメントが読める。
ちなみに、そこではある意味、わたくしの違った一面が垣間見えると思う。
ようするに文章自体が、ここでの独白とは違ったものであるし、やはり相手との会話だという意識があるから、内容的にもそれなりの配慮が感じられるはずなのである。

そもそもこの問題については、なぜ書かないか?

何でも首を突っ込みたがるタイプといっても、わたくし場合はけっこう口が堅いのである。
このように書くと、裏事情を知っていて、それを書くといろいろ困ることが起きるので書きたくても書けない、と思う人がいるかもしれない。しかし、そうではない。
ようするに、現段階ではわだっち氏が盛んに書きなぐっているだけであって、その反対側にいる人たちの言い分がまったく出ていないこと、さらに言えば、わだっち氏側にいる人たちの声も聞こえない、だから書きようがないのである。
極論すれば、わだっち氏の一人相撲、狂言とも考えられるのである。

しかし、それならばそれで、今まで親しかった法華講員たちからの反論というか、わだっち氏へ苦情を言ってもおかしくないはずなのである。氏は今や日蓮正宗そのものを否定するほどの言動をなしているからだ。
それにもかかわらず、誰一人として口を開かない。すると、やはり何か問題があったのだろう。実際に、かなり深刻な問題が起きていて、普通の立場の人には手も足も出ない状態なのかもしれないことが想像できるのだ。

それよりも何よりも、関係者であることが容易に推測できるところのトチロ〜氏が口を開かない。それどころかブログを完全に閉鎖してしまったのであるから、これは尋常な事態ではないと思う。

おわかりだろうか?

たとえば、昨年には樋田沖浦法論であるとか質問会があって、わたくしはその感想をいろいろと綴らせてもらった。これは双方の言い分が視聴者に余すところなく伝えられたからこそ、わたくしも感想を述べることができたのである。片方の言い分だけではどうにも判断ができないのである。

そういうわけで、今回の問題にはわたくしも大いに関心を持っているけれども、さりとて現段階では情報そのものに偏りがあるので、何一つ断定的なことは書けないのである。

2008/7/15

資料の紹介を兼ねて  
アキラ氏は三月ほど前にも種々のコメントを寄せて下さっているが、サイトウ氏の言葉にあるごとく、ひじょうに問題意識の高い人である。こういう人はたいていが宗門に帰伏する運命にある。その事例は枚挙に暇がない。
ところがアキラ氏は、こうしていつまでも顕正会に踏みとどまっている。サイトウ氏もそうである。
かく言うわたくしはどうなのかと問われば、顕正会のダメさ加減はよくわかっているが、それと同時に顕正会には使命があるのではないか、今もなお存在すべき理由があるのではないか、というふうに感じているのである。ただし、是正すべき点が山ほどある。拙ブログではこのことを言い続けてきた。そして今後も折にふれて書いていくことになるだろう。

いつも言うように、わたくしは悪いところばかりをあげつらっているわけではない。良い面もあるので、それは大いに宣伝すべきことだと思っている。繰り返しになるが、前回の話などはひじょうに素晴らしい。

生後すぐに離別した実の母親を半世紀の後に引き取って面倒を見ているわけである。今や後期高齢者の問題は深刻をきわめる。政府の無策もさることながら、子供たちが親の面倒すら厄介に思って、ややもすれば虐待を受けるような老人もいると聞く。こうして見ると、半世紀以上も疎遠になっていたにもかかわらず、それを打ち破ることができたのは、まさに奇跡のような出来事である。

顕正新聞には必ず所属と役職が記される。ところがこの体験発表をしている人には役職が記されていない。八十歳という年齢からして、それは納得できることだ。
では、娘さんはどうなのか、それが気になるところである。
顕正会の場合、自分の子供であろうと逆に親であろうと、役職名を付して呼称するのが通例である。しかし、この体験発表では娘さんの名前が出てくるのみで、苗字であるとか役職などはまったくわからないのだ。

何が言いたいかというと、顕正会にはこうした無名の、ようはめざましい活躍はしないものの地道に活動しているような会員も少なからず存在するのだ。
活動報告でよく使われる表現に、底辺の戦い、みたいなものがある。まさに、この底辺が大事なのだ。
氷山の一角という言葉がある。これは三角形というか三角錐をイメージすればわかるだろう。見えている部分はほんのわずかであって、隠れている部分がとてつもなく大きい。これが三角形でいえば底辺の広がりになるわけだが、いかんせん見えないのだから、その正確な数値をはじき出すことは不可能である。

顕正会の潜在能力はあなどれない、ということなのだ。

 昭和四十八年八月二十八日、起工式の席上先生は
 「これから妙信講のなすべきことを思うと、本日この日本の片隅で行なわれているささやかなる起工式そして本部会館のことは、日本国で誰も知る者はいない。しかし今は誰も知らずとも、妙信講が立つとき、必ずや日蓮大聖人の立正安国論の御主張と、この本部会館の存在を、みな知るようになる」
 と述べられました。


これは日付から想像ができるはずだが、いちばん最初の本部会館の起工式における浅井先生の指導である。顕正新聞第1106号の四面に、婦人部総班長が過去の記憶を思い起こすような形で、上掲のごとく書いているのである。

今回は、特にこの内容に関して、イチャモンをつけるつもりはない。自分はその時代を知らないので、いちおうは資料的な意味でここに残しておいてもいいだろうと思ったのが理由の一つである。

そして、もう一つの理由は、まさにこの記事もまた、底辺の広がりを示すものではないかと感じたからである。

わたくしはこの婦人部総班長を知らない。いや、おそらくはこれまでに何度も顕正新聞に登場していることだろうと思う。けれども、それほど印象に残っていないのだ。
ようするに、それほどめざましい活躍をしている人ではないのだろう。顕正会にはこうした会員が無数にいるのだ。まさに底辺の広がりを示すものである。
とりわけこの総班長は三十五年前にすでに妙信講員だった。そして今も婦人部総班長として、第一線で活躍しているわけである。

まあ、しかし、最後にイヤミを書いておけば、残念ながら当時の妙信講員はその大半が脱落してしまった・・・ということのようのである。

2008/7/13

成果主義の思わぬ孝養?  
未明のサイトウ氏からのコメントは、けっこう重要な問題を孕んでいると思う。

入会即本尊返納ではない

とりわけ、この部分が気になった。早い話が成果主義の弊害を感じるのである。

一昨年の暮れに、お守り切断事件がクローズアップされた。これは説明の要もないが、いわゆる謗法払いを強引に行なったがために、器物損壊の疑いで逮捕されてしまったというものである。一挙に四人が逮捕されたこともあって、けっこう衝撃的だった。
いわゆる学会版本尊と、日達上人・日顕上人などの御形木御本尊では、意味合いが違うと思われるが、いずれにしても現在の顕正会では拝まない方針になっている。そうすると、謗法払いというわけではないにしても、入会者に対してしっかりと告知すべきが筋である。
ところがサイトウ氏の言葉によれば、その辺がアヤフヤになっているらしい。ようは、あまり細かいことまで説明すると、入会者が面倒臭がって入会を取りやめてしまう心配があるので、あえて言わないでおくのだろう。入会勤行さえ済ませてしまえば成果になる。その後のことは知ったこっちゃない。大げさに言えば、そんなところだろう。
まさに成果主義の弊害である。

さて、今度は逆に、成果主義の効用(?)ということもある。効用ではなく、孝養と書くべきか?

顕正新聞第1106号に、いい話が載っていたので紹介したい。自画自賛で恐縮だが、わたくしは顕正会の悪い面ばかりをあげつらっているわけではなく、良い面もちゃんと紹介するようにしているのである。これはそこらの批判者たちにはとうていマネのできないことだろう。少なくとも、わたくしの知る範囲では、同様のコンセプトを持つサイトは存在しない。

前置きが長くなった。

第五面に、平成十三年九月入信の、現在は八十歳になる婦人部員の体験発表が載っている。この人は二十歳の時に結婚し、妊娠した。ところがである。ここから波瀾万丈の人生が始まるのだ。

親同士の確執により別れることになり、姑は「別れるなら子どもを堕ろせ」とまで言ってきましたが、「絶対に産むんだ」と実家で娘を産み、一週間お乳を飲ませ、泣く泣く別れたのでした。

いわゆる親権の問題でどうすることもできなかったのだろう。その後、二十三歳で再婚し、子供も授かった。苦労はあったにせよ、それなりの人生を歩んできたことが綴られている。しかし、細かいことは省略して、次の文章をご覧に入れたい。

 平成十六年には娘が住む埼玉県の桶川に移り、五十五年ぶりに娘と一緒に住むことになりました。

おわかりだろうか、この娘というのは産後わずか一週間で別れた初婚の時の子供である。

八十年生きてきて本当に今ほど幸せな時はありません。

平成十三年の入信であると書いた。ようするに、生き別れとなっていた最初の娘が、なんと五十有余年ぶりに訪ねてきてくれたのだ。
これは顕正会の活動会員ならば容易に想像がつくことだろう。折伏のためである。この娘さんは顕正会の婦人部員なのだ。
さらに言えば、いわゆる対象者が尽きてしまって、どうにもこうにも戦いが進まなくなってしまったのだろう、それで産みの母を捜し当てて折伏したのだと思われる。

なんだ成果主義そのものじゃないか?

確かにそのとおりだと思う。わたくしの感覚では、産みの親といえども自分の記憶になく、しかも半世紀もの歳月を経ているとなれば、今さら会おうとは思わないのではないかという気がする。しかし、この娘さんは会いに行った。ある意味、その動機は不純である。成果のために会いに行ったようなものだからである。

だが、それは誤解だった。なぜならば、前述のごとく三年後には母親を引き取って、一緒に生活するようになったからである。単なる成果の対象としか見ていなかったならば、このような展開にはならなかったであろう。この娘さんは実に立派である。ちなみに娘といっても、すでに還暦に近いわけだが・・・

ともかく発表している本人が、八十年で今がいちばん幸せ、と述べていることは、まさにウソイツワリのない本心なのだと思う。

最後に皮肉を書けば、これが顕正会全体の傾向であれば申し分ないのだが・・・となる。

2008/7/12

顕正会の実態についての一考察  
九日の拙稿に対して、れん氏よりコメントをたまわった。公場対決に関することと、妙楽大師の評価についてである。わたくしとは違って、いずれも専門的なアプローチであるが、短い文章の中に要点がぎっしり詰まっていて、ひじょうに有意義である。

また、十日のほうには、イチロ氏と常与師倶生氏のコメントが入っている。これがそれぞれ、ひじょうに印象深い。

マンボウ折伏というのは、どこかで耳にしたような記憶があるけれども、今回はその実態が手に取るようにわかった。御書に、魚の子は多けれども魚となるものは少ない、という意味のことが説かれているが、しかし、それとこれとは事情が違うだろう。御本尊の授与に関することは、厳格でなければならない。その意味ではイチロ氏も、妙信講に理解を示しておられる。しかし、その中に、「問題は質だよ」との言葉を含ませており、これが今となってはひじょうに示唆的なのだ。

現在の顕正会では、入信してもただちに御本尊をもらえるわけではない。というか、いわゆる自宅拠点を除けば、基本的には遙拝勤行なのである。

このことが、ある意味では質の低下を招いたとも考えられる。なぜならば、妙信講時代には一騎当千のツワモノがたくさんいたと言われているが、それは御本尊の有無が関係しているのだろう。つまり、遙拝勤行というのは入信時のハードルを相当に下げていると考えられるのだ。
よく知らないが、創価学会でもそれに近いような形態を取りつつあるらしい。携帯本尊などと呼ばれるものの授与がそれを物語っている。
宗門・法華講でも妙観講などは、ただちに御本尊がもらえるわけではないらしいが、法華講全体としては、やはり入信と同時に自宅に御本尊を安置して信行に励むというスタイルを取っているのではないかと思われる。

何が言いたいかというと、もしかしたら現時点では法華講員の折伏がいちばん質が高いのではないか、ということなのだ。つまり、相手をじゅうぶんに納得させないことには、御本尊の安置など、できっこない話だからである。まさか相手の事情をまったく考慮せず、強引に御本尊を押し付けているのだろうか・・・そんなバカなことはあるまい。

常与師倶生氏のコメントにも感ずるものがあった。

氏は顕正会の本部会館に四回ほど出向いているという。どこに居住しておられるか存じ上げないけれども、ともかく創価学会員の立場で顕正会の本部に乗り込むのは相当の活動家であることを意味するのだろう。何のために出向いたのか、それは本尊の返還を求めてである。

拙ブログでは、おもに顕正新聞掲載の記事から話題を拾っているので、そうすると実態とは食い違っている場合もあるようだ。

http://diary.jp.aol.com/ganko/210.html

妻の入会後、阿部日顕の本尊を返却するため、○○総班長・班長と共に寺院に行きました

これは法華講から顕正会へ移籍した人の事例であるが、この人は顕正会入会に当たって日顕上人の御本尊を寺院に返却したというのである。
わたくしはこの事例に鑑みて、昨今の顕正会では先方に御本尊を返してから晴れて入会するのが主流と考えていた。顕正会の本部に預けるというケースもしばしば耳にするものの、そちらは少数派ではないかと思っていたのだ。
ところが、どうやらそれは誤解というか、わたくしの大いなる錯覚だったようだ。

常与師倶生氏の把握しているケースは、いずれも一人暮らしの未活動家であるという。

つまり、創価学会の活動から距離を置いている人が顕正会のターゲットになっている。いや、別にそればかりを狙い打ちにしているわけではないだろうが、顕正会員の心理としては折伏の決まりやすい、ようは成果の出やすいところを自ずと狙うようになるものである。
さて、この場合の本尊の取り扱いであるが、どうやらその大半は創価学会側に返還されずに顕正会本部に預けられる・・・というのが実態のようである。
理由は簡単である。すでにして未活動会員であるから、本人としては今さら創価学会員と接触したくないと考えても不思議ではない。また、顕正会側の紹介者にしても、同様に考えているのである。わざわざ創価学会側を刺激して話がこじれても困るので、隠密裏にことを進めてしまいたいわけである。
ちなみに、これは未成年者の入信に当たって、親に内緒にしておくというケースに似通っている。

以上のようなことから、実態がどのようなものであるか、おおむね推測ができると思う。顕正新聞の記事がウソというわけではないけれども、ようはごく一部の勇ましい話がクローズアップされているに過ぎず、実態を正しく反映しているわけではないということなのだ。

顕正新聞第1105号には、男子部総支隊長補が法華講の講頭をやっつけたという勇ましい話が載っている。これもウソというわけではないのだろうけれども、しょせんは針小棒大と言うべきだろう。実際には返り討ちのケースがかなりあるはずで、先月あたりまでネット上で勇ましい発言を繰り返していた男子部員などは、今や法華講員となって活躍中である。

2008/7/10

低迷期の過ごし方  
今朝、沖浦氏からコメントをもらった。公場対決について、わたくしとは違う意見を書いておられるが、これは定義が違っているからである。つまり、わたくしの言う公場対決と沖浦氏の言う公場対決は、内容が異なるのだ。これについては、また別の機会に書かせていただきたい。

さて、今日は少し古い話題になるが、五月度総幹部会における「正義にめざめて」を取り上げる。顕正新聞第1104号には、創価学会歴三十六年で支部長まで務めた人の話が載っている。

 私は本年一月二十一日、(中略)創価学会・法華講を経て、晴れて顕正会に入会させて頂きました。

(中略)

 私は昭和二十八年、十八歳の時に創価学会に入信いたしました。

(中略)

 そして平成元年、学会本部に退会願いを出し、御本尊を返納して脱会しました

(中略)

 そして今から三年前の六十九歳の時、(中略)全く知らない人から突然、電話で妙観講に誘われ、ワケもわからないまま入会してしまいました(以下略)

記事の中から、わたくしなりにピックアップさせてもらったわけだが、この人の履歴というか宗教遍歴の様子がよくわかると思う。

今回は何が言いたいかというと、平成元年の御本尊返納のことだ。何をやっておるものか、と思う。

創価学会に長くいて、しかも支部長まで務めた人が、何を考えておるものかと、つくづく疑問に思うところである。
御本尊の返納はひじょうにデリケートな問題である。とりわけ昨今は、いわゆる学会版本尊の問題がある。創価学会員が顕正会員になる場合、これは百パーセント返納である。また、御遺命に背いた二代の貫首の本尊・・・もちろん顕正会の言い分であるが、これも返納が相場となっているようだ。逆に顕正会版の本尊という問題もある。これは未だ疑惑のレベルではあるものの、もはや厳然たる事実であるとの見方も有力である。
それはさておき、上掲の事例であるが、これはまったく事情が違うわけである。ようするに、この人は信仰を捨てたのだ。

しばしば聞く話は、創価学会は間違っているけど大聖人の仏法は間違っていない、だから自分はこの御本尊を死ぬまで信じ抜こう・・・という話である。
つまり、組織には愛想をつかしたけれども、信仰そのものは捨てずに続けるというパターンである。そうやって独りで信心をしている時に、顕正会員から折伏を受け、かくも純粋で真面目な組織があったのかと、大感激の中に入会する。
かつてはこうしたケースがたくさんあったのだ。

わたくしは思う。いったい創価学会は何を教えているのかと。昭和二十八年入信であれば、戸田城聖氏の時代ではないか。それより三十六年、しかも支部長経験者である。それでいて御本尊の大事がわからんかったのだから、まったくおかしな話である。

もちろん、これは創価学会の教育だけの問題ではなく、宗門にも責任があるだろうし、何よりも本人の自己責任が問われるところである。

わかりきったことであるが、どのような組織にもイザコザはある。だが、それは宗教の正邪とはまったく別次元のことである。
おそらく正直な人であれば、己れの所属する組織にもいろいろの問題があることを認めることだろう。当然、顕正会の中にもいろいろあるし、創価学会もそうだろう。正信会も同じである。いわゆる正系門家の冨士大石寺にしても例外ではないのだ。
恐れながら言わせてもらえば、大聖人の御在世も同様だった。日興上人の時代にもいろいろあったようだ。以下、いつの時代にも似たようなことはあったのだ。
ようするに、これは当たり前のことなのである。いわゆる四苦八苦ということが、それである。いかなる聖人・賢人も無常を免かれないという。それは最終的には死を意味するのであろうが、それ以前に病苦であるとか、人間関係の苦しみということも、まさに仏法の説くところなのだ。

以上のような理由から、正系門家といえども完全無欠ではない。しかし、それが当事者にとって、どれほど深刻な悩み苦しみであったとしても、仏法の正邪とは関係ないのである。

しかし、悲しいかな、しょせんは凡夫であるから、なかなか気がつかないのだ。

2008/7/9

好敵手?  
但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは六代二百余年の後なれども智慧賢き人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひたりけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に云はざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして三十巻の末文を造り給ふ。所謂弘決・釈籤・疏記これなり。この三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。

未明に法華講説の日一氏からトラックバックが寄せられた。

わたくしは前回、日一氏の誤読を指摘した。氏は報恩抄の上掲部分を、大聖人は妙楽に対して否定的だった、というふうに読んでおられるわけだが、さすがにそれは誤読だろうと思って、その旨を縷々述べさせてもらった。
すると本日付で、先方のブログに反論が載せられた。それが未明に届いたトラックバックの正体である。

結論を書こう。わたくしには納得できないものだった。

残念ながら意見の一致は見られなかった。けれども、ひじょうに気分がいい。氏には失礼かもしれないが、好敵手という言葉が浮かんできたくらいである。
そこらの感情的な対立ではない。氏の意見はわたくしと異なるわけだが、それでも大いに学ぶところがある。もしかしたら氏にとっても、わたくしの拙文はそれなりに有益なのではないかという気がする。
ようするに、お互いにプラスになっていると思われるのだ。感情的対立ではないゆえんである。

今日は先方の文章を一々取り上げて云々するつもりはないので、必要な人はトラックバックを頼りに法華講説を訪ねてみるといいだろう。

日一氏は以前、大聖人が妙楽に否定的であることの傍証として、三国四師のことをあげておられた。ようするに三国四師とは、釈尊・天台・伝教の三人に大聖人を加えたものである。妙楽は入っていないではないか、というのが日一氏の意見である。
これについて、一言だけ申し述べるならば、釈尊はもちろんのこと天台・伝教も別格なのだ。
さすがに妙楽の評価はそこまで高くない。さりとて低いわけではない。よって、否定的というのは言い過ぎであろう、とわたくしは思うわけである。

そもそも報恩抄とはどういう御書なのか、その全体的な脈絡から考えることも有効だと思う。

おそらく初心者には、どういう御書かさっぱり見当がつかないことだろう。それなりに教学を学んできた人ならば、いくつかの有名な御文が思い浮かんだりするはずだ。ただし、全体的な脈絡を把握している人は、あまりいないのではないかと思う。わたくしとて、偉そうなことは言えないけれども、得意のアバウトさを活かして思いっきり端折って説明するならば、次のごとく言えると思う。

報恩抄は月氏・漢土・日本の仏教史を大観した上で、三大秘法義を宣示顕説あそばす書であると・・・

道善房のことはいわゆる機縁、もっと平たく言えば、重要法義を開示あそばすに当たってのキッカケということになると思う。もちろん、そのことを軽んずるつもりは毛頭ないけれども、報恩抄における主題はやはり三大秘法であろう。その結論部分に向かって膨大なる紙数が費やされているのである。
わかりきったことであるが、大聖人の長文御書というのは、ダラダラと長いわけではない。確たる御構想に基づいて、したためられているのだ。ようはそれを読み取ることができるかどうか、そこに差が出てくるのだと思う。
さて、そうすると、冒頭に掲げた御文は文脈上、どこに位置するのか、そこが知りたいところである。しかし、それは実際に御書を手に取れば、誰にでもわかることなのだ。

当該御文の前には、中国仏教史が天台の事績を中心として説かれている。その後には、今度は日本における仏教史である。もちろん伝教が主役だ。つまり、妙楽のことは、その間に挟まれる格好で触れられているわけである。

もはや話は見えただろう。月氏・漢土・日本の二千有余年という大河のごとき流れの中では、書き切れないことがたくさんあるはずなのだ。おそらくは省略されていることがいくつもあるはずなのである。そうした中で、妙楽のことにはぜひとも触れておかなければならない、というのが大聖人の思し召しであったろうと考えられるのだ。
先に天台・伝教は別格であると書いた。妙楽はその両人に挟まれる格好で登場するのだ。よって妙楽もまた、たいへんな人物と言わねばならないだろう。
天台・伝教ほどではないにしても、それに次ぐ高評価であることは、報恩抄の全体的な脈絡からして間違いないものと思われる。

さて、日一氏は今回、衆生身心御書をお引きになった。

其の後妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給ひて候へども、天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば、たゞ闇夜のにしきのごとし。法華経になき印と真言と現前なるゆへに、皆人一同に真言まさりにて有りしなり。

これは鋭い。

ようするに、ただ闇夜の錦のごとし、というくだりに大聖人の妙楽への評価があらわれていると、このように日一氏は指摘しているわけである。今回はハッキリ書いておられないが、これが「どちらかというと否定的」という意味になるのだろうか?

しかし、わたくしはちょっと違うニュアンスで拝している。

これはまた別の機会に詳述したいところだが、今少しだけ申し述べるならば、大聖人御自身も公場対決の実現を見なかったという点では妙楽と同じなのだ。この点に着目すべきだと思う。おそらく大聖人は、妙楽は臆病ゆえに対決を回避していた・・・というふうには見ていなかったはずなのだ。しかし、これを論証するのは相当に困難をきわめるので、今回はこれで終わりにしたい。

2008/7/6

報恩抄の一節をめぐって  
サイトウ氏の言う異種格闘技は、むしろ顕正会の活動会員にこそ、ふさわしいような気がする。何しろ、熱心な会員は折伏するに当たって、相手を選り好みすることはない。たとえば、同窓会の名簿があるとすると、それを順番に片っ端から当たっていくのだ。面識のない相手だろうが、お構いなしである。ゆえに、いろいろなタイプの人と対峙することになる。そういう意味で、おそらくは真面目に折伏に取り組んでいる人は、それなりに鍛えられているのではないかと思う。

のび太氏のコメントにはリンクが付されているが、その内容がけっこう示唆的だった。思いっきり乱暴な端折り方をするならば、文学作品の中でもことに名作と呼ばれるものはいろいろな解釈が成り立つ、作品が発表されると同時に作者の手を離れて一人歩きをするようになる、時には作者の意図とはかけ離れた読まれ方をすることもある、でも、それでいいのだ・・・というようなことである。これがただちに、のび太氏の言わんとしていることなのかどうかは定かではないが、ともかく一つの考え方として、参考のために提示して下さったのだろう。感謝したい。

但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは六代二百余年の後なれども智慧賢き人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひたりけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に云はざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして三十巻の末文を造り給ふ。所謂弘決・釈籤・疏記これなり。この三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。

さて、やたらと長い引用を行なったわけだが、ちょうど、のび太氏の提示して下さった話題とひじょうに関連性が高いので、今日はこの報恩抄の解釈について書いておきたい。

法華講説というブログがある。実はこの御文の解釈について、かのブログの執筆者とわたくしとで、意見が対立しているのである。
わたくしの思うに、大聖人はあえて意図的に複数の解釈が成り立つような書き方をあそばす場合があるのではないか、また、先の文学作品の話のごとく読者の感受性に任せていろいろな読み方があってもいい、ということもあるだろう。
けれども、やはりどうしても、明らかなる誤読ということもあるはずなのだ。

法華講説の日一氏は、やや変わり者の気味があるものの、好感が持てる人物である。ひじょうによく勉強している人なので、こちらとしても学ぶことが多い。けれども、上掲の御文についての解釈はいかがなものか、と思うのである。

日一氏は、

妙楽大師に対して宗祖はどちらかというと否定的だった

との見解を示している。そして、その根拠を次のごとく書いている。

該当の御文には「或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に云はざりけるか。」とある。さらに「かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。」とある。妙楽大師は、智慧が及ばないからか、人を畏れたからか、あるいは王威を畏れたからか、ということで法論をしなかったので、漢土では天台宗の正法は失せてしまった、ということになる。

他にも理由を挙げているものの、わたくしの思うに、すでに本文において誤読がある以上、その他の傍証は意味をなさないということになる。

では、具体的に指摘してみよう。まず、冒頭に「智慧賢き人」とあることに注目しなければならない。そうすると、その後に「智慧の及ばざるか」と書かれていることに、疑問を感じるはずなのである。同じ妙楽大師に対する評価として見るならば、最初に智慧賢き人とあって、すぐ後に智慧の及ばざる云々とあるのは、おかしなことである。つまり、智慧の及ばざる云々は、妙楽のことではないのだ。

平たく言えば、最初の智慧云々は大聖人の妙楽への評価であり、後の智慧云々は妙楽が先師たちを批判しているくだりなのである。

すなわち妙楽は、天台大師より二百有余年経過した今、法相・華厳・真言などの宗派が跋扈している状況を見て、いったい先師たちは何をやっておったのか、智慧が足りなかったのか、あるいは時の王威を恐れて口を閉ざしていたのか、という具合に言っているのである。もしくは妙楽が言っているのではなく、大聖人が代弁をあそばしているという読み方も出来るが、いずれにしても妙楽は諸宗を破折するために、弘決・釈籤・疏記の三大部をあらわして、華厳・法相・真言などを一時に「とりひしがれた」わけである。

かくて見れば、大聖人の妙楽への評価はひじょうに高いものであって、その逆の解釈はあり得ないのではないかと思うが、いかがだろうか?


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