2008/9/30
無段の帝王?
日一氏からはたびたびコメントを頂戴してありがたい限りである。
けれども表彰状のことは、実を言うとわたくしは紙の表彰状がほしいわけではないのである。いわんやネット上における表彰状をや、ということなのだ。
わたくしは元来がヘソマガリ人間であって、それは顕正会員になる以前からのことであるが、そのもっとも典型的な事例を紹介しておこう。わたくしは若い頃、あるスポーツをやっていた。その具体的な名前は控えるが、たまたま運が良くて全国大会に出場したことがある。で、そのスポーツには段位がある。実は初段程度であれば、実力の如何にかかわらず、ある程度の年数を経れば、取得できるのだそうである。ゆえに自分の仲間たちは全員、初段を持っていた。ところがである。わたくしは初段を持っていない。もらわなかったのである。明らかに、わたくしよりも遥かに弱い選手がたくさんいた。けれども、彼らは押しなべて初段だった。わたくしは無段である。
こんな調子であるから、表彰状などというものにも、あまり興味がない。
しかし、今になってみると、失敗だったかもしれないと思うことがある。
スポーツ選手はその気になれば、何歳になっても現役でいられる。ゆえに今も続けていれば、それはそれでよかった。けれども、すでにやめてしまって久しい。今となってはすっかり衰えてしまって、もはや見る影もない。
こうなると、過去の栄光というほど立派なものではないけれども、ともかく、その証(あかし)となるものに価値が出てくる。全国大会に出たのは間違いないし、資料などを調べていけば、そこにはわたくしの名前が出てくることだろう。しかし、ひじょうに煩瑣である。それよりは初段の免状を額にでも入れて飾っておいたほうが一目瞭然というものだ。
誰か来客があって、それを見る。ほお、初段ですか、すごいですね。いやいや、それは昔の話でして、今はぜんぜんダメですよ。他愛のない会話であるが、けっして悪い気分ではないはずだ。
おめでとうございまする
まする・・・という言い回しは、わざとやっているのだろうけれども、やはりどうしても違和感を拭えない。
おそらく言葉というのは使用頻度が上がるにつれて簡略化されるものだと思う。ゆえに、上掲のような場合は、おめでとう、くらいでもじゅうぶんだし、おめでと、に縮めてしまっても悪くない。若者言葉ともなれば、それがさらに縮まって、ワケがわからなくなる。
どこのサイトだったか忘れたが、正月に掲示板だか何だかを閲覧してブッタマゲタことがある。
あけおめ
そんな言葉がたくさん書き込まれていた。最初は何が何だかさっぱりわからなかったが、あけましておめでとう、のことだということがしばらくしてわかった。
それはさておき、せっかくだから顕正新聞から話題を拾っておこう。本当はあまりにも些細な問題なので取り上げるのを躊躇していたのだが、言葉に関する話題なのでちょうどいいだろう。顕正新聞第1114号の四面に、ヘンな言い回しの文章があった。
〜以外に何物でもない。
原文はセンテンスの途中なので、ちょっと違っているけれども、ようするに「以外に何物」の「に」がおかしいのではないかと思うのだ。「に」ではなく、「の」ではないかと・・・
〜以外の何物でもない
わたくしはこれが正しい言い回しだと思うのだが、どうだろうか?
こういう場合はネットを利用して、キーワード検索をすればいいのである。そうすると、結論がはっきりする。
やはり顕正新聞の表記ではなく、わたくしが提示した表記のほうが多い。しかし、悩ましい。
というのは、顕正新聞の表記は皆無というわけではなく、案外に多いのである。ゆえに、この場合は多くの人が同じ間違いを犯していると考えるべきなのか、それともその言い回しも間違いではなく有効と考えるべきなのか、その判断が難しいのである。
いちおう、今現在の検索データを示しておこう。グーグルである。
以外に何物でも:二十九万六千件
以外の何物でも:百十五万件
本当は両方からたくさんのサンプルを抜き出して、いろいろな角度から調べてみると面白いのだが、さすがにそこまでの元気はない。
けれども表彰状のことは、実を言うとわたくしは紙の表彰状がほしいわけではないのである。いわんやネット上における表彰状をや、ということなのだ。
わたくしは元来がヘソマガリ人間であって、それは顕正会員になる以前からのことであるが、そのもっとも典型的な事例を紹介しておこう。わたくしは若い頃、あるスポーツをやっていた。その具体的な名前は控えるが、たまたま運が良くて全国大会に出場したことがある。で、そのスポーツには段位がある。実は初段程度であれば、実力の如何にかかわらず、ある程度の年数を経れば、取得できるのだそうである。ゆえに自分の仲間たちは全員、初段を持っていた。ところがである。わたくしは初段を持っていない。もらわなかったのである。明らかに、わたくしよりも遥かに弱い選手がたくさんいた。けれども、彼らは押しなべて初段だった。わたくしは無段である。
こんな調子であるから、表彰状などというものにも、あまり興味がない。
しかし、今になってみると、失敗だったかもしれないと思うことがある。
スポーツ選手はその気になれば、何歳になっても現役でいられる。ゆえに今も続けていれば、それはそれでよかった。けれども、すでにやめてしまって久しい。今となってはすっかり衰えてしまって、もはや見る影もない。
こうなると、過去の栄光というほど立派なものではないけれども、ともかく、その証(あかし)となるものに価値が出てくる。全国大会に出たのは間違いないし、資料などを調べていけば、そこにはわたくしの名前が出てくることだろう。しかし、ひじょうに煩瑣である。それよりは初段の免状を額にでも入れて飾っておいたほうが一目瞭然というものだ。
誰か来客があって、それを見る。ほお、初段ですか、すごいですね。いやいや、それは昔の話でして、今はぜんぜんダメですよ。他愛のない会話であるが、けっして悪い気分ではないはずだ。
おめでとうございまする
まする・・・という言い回しは、わざとやっているのだろうけれども、やはりどうしても違和感を拭えない。
おそらく言葉というのは使用頻度が上がるにつれて簡略化されるものだと思う。ゆえに、上掲のような場合は、おめでとう、くらいでもじゅうぶんだし、おめでと、に縮めてしまっても悪くない。若者言葉ともなれば、それがさらに縮まって、ワケがわからなくなる。
どこのサイトだったか忘れたが、正月に掲示板だか何だかを閲覧してブッタマゲタことがある。
あけおめ
そんな言葉がたくさん書き込まれていた。最初は何が何だかさっぱりわからなかったが、あけましておめでとう、のことだということがしばらくしてわかった。
それはさておき、せっかくだから顕正新聞から話題を拾っておこう。本当はあまりにも些細な問題なので取り上げるのを躊躇していたのだが、言葉に関する話題なのでちょうどいいだろう。顕正新聞第1114号の四面に、ヘンな言い回しの文章があった。
〜以外に何物でもない。
原文はセンテンスの途中なので、ちょっと違っているけれども、ようするに「以外に何物」の「に」がおかしいのではないかと思うのだ。「に」ではなく、「の」ではないかと・・・
〜以外の何物でもない
わたくしはこれが正しい言い回しだと思うのだが、どうだろうか?
こういう場合はネットを利用して、キーワード検索をすればいいのである。そうすると、結論がはっきりする。
やはり顕正新聞の表記ではなく、わたくしが提示した表記のほうが多い。しかし、悩ましい。
というのは、顕正新聞の表記は皆無というわけではなく、案外に多いのである。ゆえに、この場合は多くの人が同じ間違いを犯していると考えるべきなのか、それともその言い回しも間違いではなく有効と考えるべきなのか、その判断が難しいのである。
いちおう、今現在の検索データを示しておこう。グーグルである。
以外に何物でも:二十九万六千件
以外の何物でも:百十五万件
本当は両方からたくさんのサンプルを抜き出して、いろいろな角度から調べてみると面白いのだが、さすがにそこまでの元気はない。
2008/9/28
三宝の電子化は可能か?
先週、日一氏より表彰状をたまわったことについて、複雑な心境であると書いた。すると、直ちに日一氏から反応があって、そこには素直に喜ぶようにと書かれていた。
複雑な心境というのは文字どおり複雑であって簡単には説明できないが、無難な説明をさせてもらうならば、電子マネーのごとき希薄さ、なのである。
いや、これは何も日一氏を非難するつもりで書いているのではなく、わたくしのような古い人間にとってはいまだに電子マネーの価値がよくわかっていないという意味なのだ。表彰状にしても同様であって、実際に紙に書かれた表彰状を手渡されるのと、ネット上におけるそれとでは、かなりの違いがある。早い話が実感がきわめて薄いのである。
そういうわけで、表彰されることは嬉しいことではあるけれども、どうもその価値があまり実感できないものだから、素直に喜んでいいのかどうか、よくわからない。それを複雑な心境と表現させてもらったのである。
ちなみに電子マネーに関して、わたくしは昨年あたりからコンビニエンスストアなどで利用させてもらっている。携帯電話をレジの然るべきところにあてがうと、自動的に支払いが行なわれるのである。おつりの煩わしさがないところがいい。
けれども、現時点ではチャージといって、事前に入金しておかなければいけない。たとえば一万円を入金して、携帯電話にそのデータを読み込ませる。携帯そのものが貯金通帳の役目をしてくれるわけで、残高がなくなるまでは自由に買い物ができる。残高がなくなったら、また入金すればいい。
わたくしの思うに、しょせんは現金をあらかじめ入金しておかないといけない、それが現時点での支払いシステムであるが、はたして近い将来、現金を完全になくすことが可能なのかどうか、そこが問題である。ようするに硬貨・紙幣をなくして完全に電子化するのである。わたくしは無理だと思う。少なくともわたくしの生きている時代には実現しないだろう。
連想ゲームのようで恐縮だが、このことは曼荼羅御本尊についても言えるような気がする。
最近は、いわゆる仏法僧のうちの法宝について、久遠元初の法などと説明している教団があるらしい。これを頭ごなしに間違いだとは言えないけれども、さりとて正解であるとも言い難いと思う。ようするに、曼荼羅御本尊そのものを法宝であるとするのが、末法における三宝義としては正解だからである。そうでなければ、大聖人が御本尊をあらわして下さった意味がなくなってしまうわけで、さらにエスカレートすれば大聖人を仏宝と立てる必要すらなくなってしまいかねないのだ。
ところが現実には、そのような動きを見せている教団があるわけで、これはある意味では時代を先取りしているようにも感じられるところである。いや、先取りというよりは、現代人ウケをねらっているとも考えられる。
既述のごとく、電子マネーは便利であり、わたくしも部分的には利用させてもらっている。たとえ一億円であろうが一兆円であろうが、もちろん、そんな大金は持ったことないけれども、現金だったら重いだろうし、かさ張るわけだが、それが電子化されれば質量をゼロにすることができる。それでいて一億円ないし一兆円の価値にはいささかの変化もないとなれば、これほど便利なことはないだろう。
同様の意味で、御本尊を電子化するのである。馬鹿げていると思う人もいることだろうが、詮ずるところ久遠元初の法がどうのこうのと言っている人たちの発想はここに行き着くのではないかと思う。
問題はそれが実現可能かどうかであろう。
わたくしの結論はすでに述べたつもりである。電子マネーにおいてすら、現金を完全に不要化することは難しい。わたくしの目の黒いうちには無理だろう。いわんや御本尊はなおさらのことである。
複雑な心境というのは文字どおり複雑であって簡単には説明できないが、無難な説明をさせてもらうならば、電子マネーのごとき希薄さ、なのである。
いや、これは何も日一氏を非難するつもりで書いているのではなく、わたくしのような古い人間にとってはいまだに電子マネーの価値がよくわかっていないという意味なのだ。表彰状にしても同様であって、実際に紙に書かれた表彰状を手渡されるのと、ネット上におけるそれとでは、かなりの違いがある。早い話が実感がきわめて薄いのである。
そういうわけで、表彰されることは嬉しいことではあるけれども、どうもその価値があまり実感できないものだから、素直に喜んでいいのかどうか、よくわからない。それを複雑な心境と表現させてもらったのである。
ちなみに電子マネーに関して、わたくしは昨年あたりからコンビニエンスストアなどで利用させてもらっている。携帯電話をレジの然るべきところにあてがうと、自動的に支払いが行なわれるのである。おつりの煩わしさがないところがいい。
けれども、現時点ではチャージといって、事前に入金しておかなければいけない。たとえば一万円を入金して、携帯電話にそのデータを読み込ませる。携帯そのものが貯金通帳の役目をしてくれるわけで、残高がなくなるまでは自由に買い物ができる。残高がなくなったら、また入金すればいい。
わたくしの思うに、しょせんは現金をあらかじめ入金しておかないといけない、それが現時点での支払いシステムであるが、はたして近い将来、現金を完全になくすことが可能なのかどうか、そこが問題である。ようするに硬貨・紙幣をなくして完全に電子化するのである。わたくしは無理だと思う。少なくともわたくしの生きている時代には実現しないだろう。
連想ゲームのようで恐縮だが、このことは曼荼羅御本尊についても言えるような気がする。
最近は、いわゆる仏法僧のうちの法宝について、久遠元初の法などと説明している教団があるらしい。これを頭ごなしに間違いだとは言えないけれども、さりとて正解であるとも言い難いと思う。ようするに、曼荼羅御本尊そのものを法宝であるとするのが、末法における三宝義としては正解だからである。そうでなければ、大聖人が御本尊をあらわして下さった意味がなくなってしまうわけで、さらにエスカレートすれば大聖人を仏宝と立てる必要すらなくなってしまいかねないのだ。
ところが現実には、そのような動きを見せている教団があるわけで、これはある意味では時代を先取りしているようにも感じられるところである。いや、先取りというよりは、現代人ウケをねらっているとも考えられる。
既述のごとく、電子マネーは便利であり、わたくしも部分的には利用させてもらっている。たとえ一億円であろうが一兆円であろうが、もちろん、そんな大金は持ったことないけれども、現金だったら重いだろうし、かさ張るわけだが、それが電子化されれば質量をゼロにすることができる。それでいて一億円ないし一兆円の価値にはいささかの変化もないとなれば、これほど便利なことはないだろう。
同様の意味で、御本尊を電子化するのである。馬鹿げていると思う人もいることだろうが、詮ずるところ久遠元初の法がどうのこうのと言っている人たちの発想はここに行き着くのではないかと思う。
問題はそれが実現可能かどうかであろう。
わたくしの結論はすでに述べたつもりである。電子マネーにおいてすら、現金を完全に不要化することは難しい。わたくしの目の黒いうちには無理だろう。いわんや御本尊はなおさらのことである。
2008/9/22
メタボリックな食生活?
早朝、日一氏からコメントをたまわったが、そこには表彰状が書いてあった。はたして喜んでよいのかどうか、何とも複雑な心境である。
それはともかく、法華講説に動きがあった。何やら難しい議論が始まったようだ。具体的な内容については、各々が先方のブログを確認されるとよいだろう。今後、どのような推移を見せるか、わたくしも一読者として、興味津々で見守りたいと思う。
さて、顕正新聞第1113号のいちばん最後には、例の食べ物についてのコラムが載っている。毎回、けっこう楽しみにしているけれども、今回は牛乳について、あれこれ書いてある。
このコラムは過去の新聞を調べると同じ食材が書かれていたりするが、牛乳はどうだったろうか、ちょっと記憶にない。おそらく乳製品という括りでは何度も取り上げられていると思う。いわゆるチーズであるとかヨーグルトだ。
ともかく今回は牛乳であるが、仮に過去に同じ記事があったとしても、おそらくは何かしら新しい情報が加味されているはずである。それが新聞というものだろう。
「脳卒中予防に効果」との疫学調査も
これなどは最新の情報と言えるだろう。本年七月二十九日に厚生労働省の研究グループが発表したという。
もう一つ、わたくしは世間知らずなものだから、次のようなことをまったく知らなかった。
いま世間では、ある著名な医師が流した「牛乳は健康を害する」などの風説が流れて牛乳離れを起こし、ために酪農家が大打撃を受けましたが、とんでもない話です。なんら科学的根拠のない説に右往左往するのは賢くありません。
わたくしは牛乳が好きなのだが、最近はあまり飲まなくなった。その理由は栄養があり過ぎて太ってしまうから、である。くだんの医師がどのように説明しているか知らないけれども、昨今のメタボリック症候群の意味から考えると、栄養が多過ぎるのでそれがかえって健康を害することになるとも考えられる。顕正新聞のコラムではそのことを踏まえてであろうか、コレステロールの高い人は低脂肪牛乳を飲むようにと書いてある。
もし牛乳の味にウルサイ人がいれば同感することと思うが、低脂肪乳って味が落ちるんだよね。そういえば、最近は飲むヨーグルトをよく飲んでいるなあ。これって、糖分もあるし、もしかしたら牛乳以上に栄養過多かもしれないぞ。
ちなみに、弘安二年の曾谷殿御返事には、
一切の百味の中には乳味と申して牛の乳第一なり。
とある。
それはともかく、法華講説に動きがあった。何やら難しい議論が始まったようだ。具体的な内容については、各々が先方のブログを確認されるとよいだろう。今後、どのような推移を見せるか、わたくしも一読者として、興味津々で見守りたいと思う。
さて、顕正新聞第1113号のいちばん最後には、例の食べ物についてのコラムが載っている。毎回、けっこう楽しみにしているけれども、今回は牛乳について、あれこれ書いてある。
このコラムは過去の新聞を調べると同じ食材が書かれていたりするが、牛乳はどうだったろうか、ちょっと記憶にない。おそらく乳製品という括りでは何度も取り上げられていると思う。いわゆるチーズであるとかヨーグルトだ。
ともかく今回は牛乳であるが、仮に過去に同じ記事があったとしても、おそらくは何かしら新しい情報が加味されているはずである。それが新聞というものだろう。
「脳卒中予防に効果」との疫学調査も
これなどは最新の情報と言えるだろう。本年七月二十九日に厚生労働省の研究グループが発表したという。
もう一つ、わたくしは世間知らずなものだから、次のようなことをまったく知らなかった。
いま世間では、ある著名な医師が流した「牛乳は健康を害する」などの風説が流れて牛乳離れを起こし、ために酪農家が大打撃を受けましたが、とんでもない話です。なんら科学的根拠のない説に右往左往するのは賢くありません。
わたくしは牛乳が好きなのだが、最近はあまり飲まなくなった。その理由は栄養があり過ぎて太ってしまうから、である。くだんの医師がどのように説明しているか知らないけれども、昨今のメタボリック症候群の意味から考えると、栄養が多過ぎるのでそれがかえって健康を害することになるとも考えられる。顕正新聞のコラムではそのことを踏まえてであろうか、コレステロールの高い人は低脂肪牛乳を飲むようにと書いてある。
もし牛乳の味にウルサイ人がいれば同感することと思うが、低脂肪乳って味が落ちるんだよね。そういえば、最近は飲むヨーグルトをよく飲んでいるなあ。これって、糖分もあるし、もしかしたら牛乳以上に栄養過多かもしれないぞ。
ちなみに、弘安二年の曾谷殿御返事には、
一切の百味の中には乳味と申して牛の乳第一なり。
とある。
2008/9/21
三大秘法は魔法なのか?
のび太氏はこのところ、ひじょうに饒舌である。しかも、わたくしの文体を真似たものか、独白調になっているところが面白い。
わたくしの思うに、それがいちばん本音を書き易いのではないか。そもそもブログ以前に、日記は自省のための手段のようなものだったはずで、おそらく日記帳などに書かれている文章は独白調である場合が多いのではないか。ある意味において、わたくしがわりとコンスタントに更新し続けてこれたのは、まさに独白だったからである。ようは肩の力が抜けて、リラックスしていたからなのだ。
さて、今日は少し顕正新聞のオサライをする。
第1111号の一面下段に大賀ハスの記事がある。本部会館の蓮池には三千年前の古代ハスがあって、毎年咲いているらしいが、今年はどういうわけか生育が遅れて一向に咲く気配がなかったそうである。それがなんと、八月十七日に一気に開花したという。この日は言わずと知れた男子部幹部会の当日である。おそらくは本年の最重要行事に位置付けられている日に咲いたことを強調したいのだろう。それがバレバレというか見え透いているので、何となくハタ目にはしらけてしまう話である。
ウソかどうか、わたくしには確認する術がないけれども、こういう話は記事にするべきではないと思う。ウソ臭いからである。
しかも、ツッコミどころがもう一つある。この新聞はなんと、八月十五日号なのである。実際は発行が大幅に遅れていたから矛盾はないのだけれども、もし日付どおりに発行されていたとしたら、完全な作り話となってしまう。誰かが百年後にこの新聞を読めば、そのように受け取ったとしても不思議はないのだ。
今回先生は、矢野絢也の告発手記の一部を明かして下さいましたが・・・
同号の三面に載る第二婦人部長の記事である。前にも書いたことだが、「明かす」というのはどうかと思う。何回も同じことを言わせないでほしいものだ。それとも、わたくしが間違っているのだろうか?
第1112号の六面には体験発表が三つ載っているが、わたくしは下段の白血病が完治したという話の中の、次のくだりが気になった。
まるで魔法にでもかかったかのように日ごとに生命力が湧きあがるのを肌身に感じ・・・
この「魔法」はどうなのだろうかと思った。この発表者は高校一年生だと思われる。おそらく若い人たちのイメージとしては、魔法という言葉にロマンチックな響きを感じるのだろう。実はかく言うわたくしにしても、アニメなどの影響だろうか、魔法にそれほど抵抗はないのである。では、浅井先生くらいの世代はどうなのか、というのが気になるところだ。
魔法が直ちに謗法だとは思わないけれども、わりと顕正会ではこういう表現にウルサイような気がしたものだから、ちょっと書いてみたのである。
わたくしの思うに、それがいちばん本音を書き易いのではないか。そもそもブログ以前に、日記は自省のための手段のようなものだったはずで、おそらく日記帳などに書かれている文章は独白調である場合が多いのではないか。ある意味において、わたくしがわりとコンスタントに更新し続けてこれたのは、まさに独白だったからである。ようは肩の力が抜けて、リラックスしていたからなのだ。
さて、今日は少し顕正新聞のオサライをする。
第1111号の一面下段に大賀ハスの記事がある。本部会館の蓮池には三千年前の古代ハスがあって、毎年咲いているらしいが、今年はどういうわけか生育が遅れて一向に咲く気配がなかったそうである。それがなんと、八月十七日に一気に開花したという。この日は言わずと知れた男子部幹部会の当日である。おそらくは本年の最重要行事に位置付けられている日に咲いたことを強調したいのだろう。それがバレバレというか見え透いているので、何となくハタ目にはしらけてしまう話である。
ウソかどうか、わたくしには確認する術がないけれども、こういう話は記事にするべきではないと思う。ウソ臭いからである。
しかも、ツッコミどころがもう一つある。この新聞はなんと、八月十五日号なのである。実際は発行が大幅に遅れていたから矛盾はないのだけれども、もし日付どおりに発行されていたとしたら、完全な作り話となってしまう。誰かが百年後にこの新聞を読めば、そのように受け取ったとしても不思議はないのだ。
今回先生は、矢野絢也の告発手記の一部を明かして下さいましたが・・・
同号の三面に載る第二婦人部長の記事である。前にも書いたことだが、「明かす」というのはどうかと思う。何回も同じことを言わせないでほしいものだ。それとも、わたくしが間違っているのだろうか?
第1112号の六面には体験発表が三つ載っているが、わたくしは下段の白血病が完治したという話の中の、次のくだりが気になった。
まるで魔法にでもかかったかのように日ごとに生命力が湧きあがるのを肌身に感じ・・・
この「魔法」はどうなのだろうかと思った。この発表者は高校一年生だと思われる。おそらく若い人たちのイメージとしては、魔法という言葉にロマンチックな響きを感じるのだろう。実はかく言うわたくしにしても、アニメなどの影響だろうか、魔法にそれほど抵抗はないのである。では、浅井先生くらいの世代はどうなのか、というのが気になるところだ。
魔法が直ちに謗法だとは思わないけれども、わりと顕正会ではこういう表現にウルサイような気がしたものだから、ちょっと書いてみたのである。
2008/9/20
仏法上の証明と科学的証明の狭間にて
日一氏よりコメントが寄せられているが、その内容はともかくとして、ご自身のブログの更新が滞っているのはどうしたことか、と思う。
わたくしのここ数ヶ月の日課は、毎朝、法華講説の更新を確認することだった。かのブログは毎日午前三時に更新されるので、それを読むのが楽しみになっていたのだ。いちおう五時に起床するのがわたくしの習慣ではあるけれども、どういうわけか三時ごろには目を覚ましてしまうことが多くなった。それで法華講説を閲覧して再び就寝となる。ずいぶん不規則な生活リズムであるが、それはどうでもいいことだ。
ともかく最近は更新が滞っている。しかし、考えてみれば、それは日一氏だけではなく、多くのブログがそうなのだ。
どこの誰それがブログを始めた。どんなことを書くかと期待していると、まあ、たいていがガッカリすることになる。内容にガッカリするのではなく、なかなか更新されず、結局はそのまま自然消滅というか放置されたままになっている場合が多いのだ。
理由はさまざまだろう。単純に作文が苦手である人もいるだろうし、コメントが寄せられないので張り合いがない、よって執筆意欲が湧かないとか、そもそもが気まぐれで始めたことなので三日坊主で終わってしまったという人も多いに違いない。
それに比べると、わたくしのブログは今もそこそこ更新頻度が高いと言えるかもしれない。
さて、
『日蓮大聖人は末法の御本仏である。』
このことを証明するには、人生を賭けなければ無理かもしれない。
他にも種々のコメントが寄せられているが、のび太氏のこの言葉が深く突き刺さってきた。
ご紹介の映像はすべて見させてもらった。のび太氏が何をおっしゃりたいのか、わかるような、わからないような、微妙なところだ。
つまり、わたくしに対する警告なのか、それとも督励なのか、あるいはご自身の覚悟を吐露されたものなのか、そこがよくわからないのだ。
何やら数学の世界では、百年前に難問が提示されて、多くの数学者がその証明に取り組んできたけれども、一向に解決できなかったそうである。それが近年になって、とうとう証明されたという。けれども、その証明を見事に為し終えた数学者はその栄誉を拒むためなのか、なんと失踪してしまったというのである。現在は居所が判明しているものの、その人は完全に人が変わってしまっていた。
手っ取り早く言えば、数学の超難問に取り組んで、頭がおかしくなってしまったということなのだろう。いやいや、頭はしっかりしているのかもしれないが、人格的におかしくなってしまった。人間性の喪失というのだろうか、そんなところである。
ゆえに、のび太氏が何を言いたいのかを想像するに、日蓮本仏論などオマエには無理だから早くやめてしまえ、という意味なのか、それとも逆に、やるなら自分の人生を犠牲にする覚悟でやりなさい、ということなのか、おそらくはそのどちらかなのだろう。あるいは、のび太氏自身の覚悟を述べたものだとも考えられるが、いずれにしても拙ブログにコメントを下さったわけだから、わたくしへのメッセージの意味が込められていることには違いないだろう。
わたくしの思うに、日蓮本仏論はそれほど難しく考える必要のないことであって、最初から決まっていることなのだと思っていれば、それでいいのではないかという気がする。ようするに、われわれの立場は俗に言うゴリヤクが得られればそれでじゅうぶんなのであって、逆に言うと、そのゴリヤクが現証という意味での証明になるわけである。
のび太氏が紹介している動画は数学の証明がテーマだった。この文脈で考えると、日蓮本仏論をいわゆる数学的に証明しなければならないということになりそうだが、それはある意味、専門家の仕事である。動画の中にもいろいろな登場人物がいたけど、たいていがどこかの大学教授だった。おそらく数学でメシを食っていくには、それくらいしか選択肢がないのだと思う。
同様の意味で、大聖人の仏法においては僧侶がその専門家に相当するわけで、実際のところ、日蓮正宗には日寛上人であるとか日亨上人などの大学者が存在したし、今もそれに続く人たちがいらっしゃるのである。ゆえに、わたくしごときの出る幕はない、というよりは、わたくしごときが証明をしてしまったら・・・いや、もちろん、できるとは思っていないけれども、ともかく一在家の、それも異流儀といわれる立場の人間が、まさか日蓮本仏論の証明をするなどということがあってはならないのである。
では、オマエは何をやっているのだ、いったい何のためにブログをやっているのだ、というツッコミがあるかもしれない。
わたくしは偉そうなことを書いてはいるけれども、己れのブンザイは弁えているつもりである。つまり、わたくしは行学の二道を励みなさいとの大聖人の仰せに基づき、こうして教学の研鑽をしているだけのことなのである。あるいは前回のブログで触れた法門無尽誓願智という意味もある。まあ、そんなところだ。
もちろん、そうした一環の中で、先の数学的証明みたいなことも考えないわけではないが、さりとて人生を犠牲にするほどの覚悟はない、といったところである。
わたくしのここ数ヶ月の日課は、毎朝、法華講説の更新を確認することだった。かのブログは毎日午前三時に更新されるので、それを読むのが楽しみになっていたのだ。いちおう五時に起床するのがわたくしの習慣ではあるけれども、どういうわけか三時ごろには目を覚ましてしまうことが多くなった。それで法華講説を閲覧して再び就寝となる。ずいぶん不規則な生活リズムであるが、それはどうでもいいことだ。
ともかく最近は更新が滞っている。しかし、考えてみれば、それは日一氏だけではなく、多くのブログがそうなのだ。
どこの誰それがブログを始めた。どんなことを書くかと期待していると、まあ、たいていがガッカリすることになる。内容にガッカリするのではなく、なかなか更新されず、結局はそのまま自然消滅というか放置されたままになっている場合が多いのだ。
理由はさまざまだろう。単純に作文が苦手である人もいるだろうし、コメントが寄せられないので張り合いがない、よって執筆意欲が湧かないとか、そもそもが気まぐれで始めたことなので三日坊主で終わってしまったという人も多いに違いない。
それに比べると、わたくしのブログは今もそこそこ更新頻度が高いと言えるかもしれない。
さて、
『日蓮大聖人は末法の御本仏である。』
このことを証明するには、人生を賭けなければ無理かもしれない。
他にも種々のコメントが寄せられているが、のび太氏のこの言葉が深く突き刺さってきた。
ご紹介の映像はすべて見させてもらった。のび太氏が何をおっしゃりたいのか、わかるような、わからないような、微妙なところだ。
つまり、わたくしに対する警告なのか、それとも督励なのか、あるいはご自身の覚悟を吐露されたものなのか、そこがよくわからないのだ。
何やら数学の世界では、百年前に難問が提示されて、多くの数学者がその証明に取り組んできたけれども、一向に解決できなかったそうである。それが近年になって、とうとう証明されたという。けれども、その証明を見事に為し終えた数学者はその栄誉を拒むためなのか、なんと失踪してしまったというのである。現在は居所が判明しているものの、その人は完全に人が変わってしまっていた。
手っ取り早く言えば、数学の超難問に取り組んで、頭がおかしくなってしまったということなのだろう。いやいや、頭はしっかりしているのかもしれないが、人格的におかしくなってしまった。人間性の喪失というのだろうか、そんなところである。
ゆえに、のび太氏が何を言いたいのかを想像するに、日蓮本仏論などオマエには無理だから早くやめてしまえ、という意味なのか、それとも逆に、やるなら自分の人生を犠牲にする覚悟でやりなさい、ということなのか、おそらくはそのどちらかなのだろう。あるいは、のび太氏自身の覚悟を述べたものだとも考えられるが、いずれにしても拙ブログにコメントを下さったわけだから、わたくしへのメッセージの意味が込められていることには違いないだろう。
わたくしの思うに、日蓮本仏論はそれほど難しく考える必要のないことであって、最初から決まっていることなのだと思っていれば、それでいいのではないかという気がする。ようするに、われわれの立場は俗に言うゴリヤクが得られればそれでじゅうぶんなのであって、逆に言うと、そのゴリヤクが現証という意味での証明になるわけである。
のび太氏が紹介している動画は数学の証明がテーマだった。この文脈で考えると、日蓮本仏論をいわゆる数学的に証明しなければならないということになりそうだが、それはある意味、専門家の仕事である。動画の中にもいろいろな登場人物がいたけど、たいていがどこかの大学教授だった。おそらく数学でメシを食っていくには、それくらいしか選択肢がないのだと思う。
同様の意味で、大聖人の仏法においては僧侶がその専門家に相当するわけで、実際のところ、日蓮正宗には日寛上人であるとか日亨上人などの大学者が存在したし、今もそれに続く人たちがいらっしゃるのである。ゆえに、わたくしごときの出る幕はない、というよりは、わたくしごときが証明をしてしまったら・・・いや、もちろん、できるとは思っていないけれども、ともかく一在家の、それも異流儀といわれる立場の人間が、まさか日蓮本仏論の証明をするなどということがあってはならないのである。
では、オマエは何をやっているのだ、いったい何のためにブログをやっているのだ、というツッコミがあるかもしれない。
わたくしは偉そうなことを書いてはいるけれども、己れのブンザイは弁えているつもりである。つまり、わたくしは行学の二道を励みなさいとの大聖人の仰せに基づき、こうして教学の研鑽をしているだけのことなのである。あるいは前回のブログで触れた法門無尽誓願智という意味もある。まあ、そんなところだ。
もちろん、そうした一環の中で、先の数学的証明みたいなことも考えないわけではないが、さりとて人生を犠牲にするほどの覚悟はない、といったところである。
2008/9/17
顕正会と世界の動きとの関係
れん氏が顕正会の話題に触れるのはめずらしいことである。
詮ずるところ、組織に利用されるだけの誓願ではなく、菩薩の四弘誓願に生きたい、というのが氏の結論である。
組織においては誓願という名のもとに、実は強制が行われているのだと考えられるのだ。なぜかならば、顕正会では内部において、誓願というのは大聖人に誓い奉ることである、大聖人にお約束申し上げることなのだ、仏弟子の誓願はけっして軽いものではない、それを破るということはたいへんな罪障を積むことになるのだ、といった説明がなされているのである。これは物理的な強制ではないものの、ひじょうに強制力の強いことだと思う。
れん氏に言わせれば、これが組織に利用されるだけの誓願に相当するのだろう。
ちなみに茶寮掲示板の管理人がどこかに書いていたはずだが、最近の顕正会では四弘誓願を言わないらしいのである。そこには法門無尽誓願智が含まれる。ゆえに、今の一念信解路線の顕正会にとっては具合が悪い、ということらしい。
先生の構想では教学試験に力を入れるべく、明年は登用試験だけでなく、四級試験も行なうはずであるが、はたして実現できるのかどうか、はなはだ心許ないところである。
ながぶち氏のコメントも興味深い。
実は平成五年に男子部大会があって、その時には七千人の結集だったわけだが、その大会が終わった直後くらいに浅井先生は、男子部への次なる課題を提示した。数年後には三万人の男子部大会を実現すると・・・
結局、あれからすでに十五年の歳月が流れているけれども、今の段階ではまだ三万人の結集を実現していないのである。それを明年いよいよ実現するという。
仮に集めたとしても、ながぶち氏の指摘するようにそれがどれほどの価値を有するか、はなはだアヤシイところである。
価値の有無はともかくとしても、例の「あと二十五年」構想といい、なかなか先生の思い通りには行かないようである。
ところが面白いことに、顕正会の内部ではすべてうまく行っているみたいに宣伝し、実際に熱心な会員の多くはそれを信用しているわけである。ハタから見れば、組織に利用されているように映るのも道理である。
さて、悪いことばかり書いていると嫌われるので、少しは良いこと(?)も書いておこう。
日本の政治は・・・
公明党の横槍
日本の国政を池田が操る
顕正新聞第1113号に載る八月度総幹部会の会長講演から、見出しの一部を拾い上げた。
浅井先生は福田首相に関して、ほとんど言及したことがなく、それが不思議に思えた。九月の初頭にいきなり福田首相の辞任表明があった。わたくしは今度の総幹部会で先生が何を言うか楽しみだと思った。
しかし、九月度総幹部会ではなく、八月度総幹部会の会長講演もけっこう興味深いものがある。これは八月二十六日の集会であるから、辞任表明のことに触れてはいないし、福田首相のことを事細かに云々しているわけでもない。当然であるが、先生は辞任のことなど、つゆも知らなかっただろう。
こういう場合、トンチンカンなことを言っていたとしてもおかしくない。ゆえに、それにツッコミを入れるのは筋違いであろう。
ところがである。煩瑣になるので文章を省くけれども、上掲の小見出しのついた辺りには日本の政治状況が書かれていて、けっこう的確というか、今の段階で読んでもそれほど違和感のない文章なのである。
ここで熱心な会員であれば、浅井先生のご見識の素晴らしさを云々するのだろうが、わたくしはさすがにそこまでは言わない。いちおう紹介したまでのことだ。
世界大恐慌の足音
米国の金融恐慌
同じく顕正新聞の記事に付された見出しである。
つい先日、米国の大手証券会社が経営破綻に陥り、全世界に激震が走った。リーマン・ショックと呼ばれるものだ。これはひじょうに深刻な事態であるが、熱心な顕正会員の心理としてはまたしても先生のご見識(予言?)が・・・ということになるのだろう。
浅井先生は今度の総幹部会で言うだろう、私が前々より言い続けてきました米国の金融恐慌についてでありまするがいよいよ現実味を帯びてまいりました・・・と。
詮ずるところ、組織に利用されるだけの誓願ではなく、菩薩の四弘誓願に生きたい、というのが氏の結論である。
組織においては誓願という名のもとに、実は強制が行われているのだと考えられるのだ。なぜかならば、顕正会では内部において、誓願というのは大聖人に誓い奉ることである、大聖人にお約束申し上げることなのだ、仏弟子の誓願はけっして軽いものではない、それを破るということはたいへんな罪障を積むことになるのだ、といった説明がなされているのである。これは物理的な強制ではないものの、ひじょうに強制力の強いことだと思う。
れん氏に言わせれば、これが組織に利用されるだけの誓願に相当するのだろう。
ちなみに茶寮掲示板の管理人がどこかに書いていたはずだが、最近の顕正会では四弘誓願を言わないらしいのである。そこには法門無尽誓願智が含まれる。ゆえに、今の一念信解路線の顕正会にとっては具合が悪い、ということらしい。
先生の構想では教学試験に力を入れるべく、明年は登用試験だけでなく、四級試験も行なうはずであるが、はたして実現できるのかどうか、はなはだ心許ないところである。
ながぶち氏のコメントも興味深い。
実は平成五年に男子部大会があって、その時には七千人の結集だったわけだが、その大会が終わった直後くらいに浅井先生は、男子部への次なる課題を提示した。数年後には三万人の男子部大会を実現すると・・・
結局、あれからすでに十五年の歳月が流れているけれども、今の段階ではまだ三万人の結集を実現していないのである。それを明年いよいよ実現するという。
仮に集めたとしても、ながぶち氏の指摘するようにそれがどれほどの価値を有するか、はなはだアヤシイところである。
価値の有無はともかくとしても、例の「あと二十五年」構想といい、なかなか先生の思い通りには行かないようである。
ところが面白いことに、顕正会の内部ではすべてうまく行っているみたいに宣伝し、実際に熱心な会員の多くはそれを信用しているわけである。ハタから見れば、組織に利用されているように映るのも道理である。
さて、悪いことばかり書いていると嫌われるので、少しは良いこと(?)も書いておこう。
日本の政治は・・・
公明党の横槍
日本の国政を池田が操る
顕正新聞第1113号に載る八月度総幹部会の会長講演から、見出しの一部を拾い上げた。
浅井先生は福田首相に関して、ほとんど言及したことがなく、それが不思議に思えた。九月の初頭にいきなり福田首相の辞任表明があった。わたくしは今度の総幹部会で先生が何を言うか楽しみだと思った。
しかし、九月度総幹部会ではなく、八月度総幹部会の会長講演もけっこう興味深いものがある。これは八月二十六日の集会であるから、辞任表明のことに触れてはいないし、福田首相のことを事細かに云々しているわけでもない。当然であるが、先生は辞任のことなど、つゆも知らなかっただろう。
こういう場合、トンチンカンなことを言っていたとしてもおかしくない。ゆえに、それにツッコミを入れるのは筋違いであろう。
ところがである。煩瑣になるので文章を省くけれども、上掲の小見出しのついた辺りには日本の政治状況が書かれていて、けっこう的確というか、今の段階で読んでもそれほど違和感のない文章なのである。
ここで熱心な会員であれば、浅井先生のご見識の素晴らしさを云々するのだろうが、わたくしはさすがにそこまでは言わない。いちおう紹介したまでのことだ。
世界大恐慌の足音
米国の金融恐慌
同じく顕正新聞の記事に付された見出しである。
つい先日、米国の大手証券会社が経営破綻に陥り、全世界に激震が走った。リーマン・ショックと呼ばれるものだ。これはひじょうに深刻な事態であるが、熱心な顕正会員の心理としてはまたしても先生のご見識(予言?)が・・・ということになるのだろう。
浅井先生は今度の総幹部会で言うだろう、私が前々より言い続けてきました米国の金融恐慌についてでありまするがいよいよ現実味を帯びてまいりました・・・と。
2008/9/15
誓願式の話題
そしてただいま、男子全幹部の三万結集への鉄石の誓い、男子部長より、確かに聞きました。
三万結集は必ず成ると、私は確信しております。
それにつけても、いま男子部長の発表で聞きましたが、全班長が自ら立てた誓願の総合計は六万二千名を超えたとのこと、驚きましたね。その情熱、心意気が、私は嬉しい。
ただ一つ、心配なことがある。それは六万二千も集まると、もう国内では入るところがないんです(笑)。
で、聞きながら考えていた。中国でも行くかと(爆笑)。オリンピックが終われば、もう「鳥の巣」も空いている(大爆笑)。
久しぶりに顕正会の話題を取り上げる。上掲は八月十七日に船橋アリーナで行なわれた男子部幹部会での会長講演である。顕正新聞第1112号に掲載されている。
明年の夏には三万人の男子部大会を行なう予定になっているが、今回の幹部会はその誓願式という位置付けになっている。早い話が今回の参加者一万人がそれぞれに目標を定めて、一年後にはたくさんの同志と共に大会に集うことを誓い合う儀式だったわけだ。単純計算すれば、一人が二人ずつ連れてくれば三万人になる。そう考えると、案外に達成しやすい数値のように思えるが、現実的にはけっこう難しいものがあると思う。
しかし、班長たちの誓願・・・男子部長の言葉を借りれば、自発の誓願だそうであるが、それがなんと合計すると六万二千百九名になるそうである。それを受けて浅井先生は、そんなにたくさん収容できる会場はないから困っちゃう・・・みたいな冗談をかましたわけである。
ほとんどアゲアシ取りのレベルであるが、わたくしはこれにツッコミを入れたいと思っている。まずは、会長講演の続きをご覧に入れたい。
私はこの三万結集を、「広宣流布の突破口である」と、前々から言ってきました。
そのわけは、この濁悪の日本に、日蓮大聖人に忠誠を貫く身命も惜しまぬ十万の男子精鋭があれば、日本は必ず動く。その十万の成否は明年の三万結集にかかっている。ゆえに三万結集こそ広布の突破口なのであります。
(中略)
この濁悪の日本、魂を失った日本に、御遺命を奉ずる三百万の仏弟子の大集団が出現し、さらに十万の男子精鋭が結集して大諫暁に立つとき、一国は必ず動く、日本は必ずめざめる。
先生の大言壮語は文字どおり前々からのことだから別に何も言うことはない。問題は十万結集のことである。ついさっき、日本には収容できる場所がない、と言っていたではないか?
もはや顕正会員から反論が寄せられる可能性はゼロに等しいので、自分で反論を用意してみよう。
先生が前々から言っていたのは、十万人の大行進ということである。ゆえに必ずしも屋内に結集しようということではないのだ。言い掛かりもほどほどにせよ。・・・といったところであろうか?
まあ、それはそうだ。しかし、十万人の大行進を持ち出すのであれば、五万人の大総会にも言及せざるを得ないだろう。百万達成時に東京ドームで大総会をやると言っていたことはどうなったのか・・・と。
別にグダグダ書くこともないので、そろそろ切り上げよう。
男子部班長たちの自主誓願が六万人だというのならば、わざわざ中国に出掛けるまでもあるまい、東京ドームに会場変更すればいいのである。
三万結集は必ず成ると、私は確信しております。
それにつけても、いま男子部長の発表で聞きましたが、全班長が自ら立てた誓願の総合計は六万二千名を超えたとのこと、驚きましたね。その情熱、心意気が、私は嬉しい。
ただ一つ、心配なことがある。それは六万二千も集まると、もう国内では入るところがないんです(笑)。
で、聞きながら考えていた。中国でも行くかと(爆笑)。オリンピックが終われば、もう「鳥の巣」も空いている(大爆笑)。
久しぶりに顕正会の話題を取り上げる。上掲は八月十七日に船橋アリーナで行なわれた男子部幹部会での会長講演である。顕正新聞第1112号に掲載されている。
明年の夏には三万人の男子部大会を行なう予定になっているが、今回の幹部会はその誓願式という位置付けになっている。早い話が今回の参加者一万人がそれぞれに目標を定めて、一年後にはたくさんの同志と共に大会に集うことを誓い合う儀式だったわけだ。単純計算すれば、一人が二人ずつ連れてくれば三万人になる。そう考えると、案外に達成しやすい数値のように思えるが、現実的にはけっこう難しいものがあると思う。
しかし、班長たちの誓願・・・男子部長の言葉を借りれば、自発の誓願だそうであるが、それがなんと合計すると六万二千百九名になるそうである。それを受けて浅井先生は、そんなにたくさん収容できる会場はないから困っちゃう・・・みたいな冗談をかましたわけである。
ほとんどアゲアシ取りのレベルであるが、わたくしはこれにツッコミを入れたいと思っている。まずは、会長講演の続きをご覧に入れたい。
私はこの三万結集を、「広宣流布の突破口である」と、前々から言ってきました。
そのわけは、この濁悪の日本に、日蓮大聖人に忠誠を貫く身命も惜しまぬ十万の男子精鋭があれば、日本は必ず動く。その十万の成否は明年の三万結集にかかっている。ゆえに三万結集こそ広布の突破口なのであります。
(中略)
この濁悪の日本、魂を失った日本に、御遺命を奉ずる三百万の仏弟子の大集団が出現し、さらに十万の男子精鋭が結集して大諫暁に立つとき、一国は必ず動く、日本は必ずめざめる。
先生の大言壮語は文字どおり前々からのことだから別に何も言うことはない。問題は十万結集のことである。ついさっき、日本には収容できる場所がない、と言っていたではないか?
もはや顕正会員から反論が寄せられる可能性はゼロに等しいので、自分で反論を用意してみよう。
先生が前々から言っていたのは、十万人の大行進ということである。ゆえに必ずしも屋内に結集しようということではないのだ。言い掛かりもほどほどにせよ。・・・といったところであろうか?
まあ、それはそうだ。しかし、十万人の大行進を持ち出すのであれば、五万人の大総会にも言及せざるを得ないだろう。百万達成時に東京ドームで大総会をやると言っていたことはどうなったのか・・・と。
別にグダグダ書くこともないので、そろそろ切り上げよう。
男子部班長たちの自主誓願が六万人だというのならば、わざわざ中国に出掛けるまでもあるまい、東京ドームに会場変更すればいいのである。
2008/9/14
煩瑣な解釈論議
誠に依法不依人の金言を背かざるの外は争でか仏に依らずして弘法等の人によるべきや。所詮其の心如何。
れん氏より早々のご返事をたまわったわけだが、これがまた、いつものごとく専門的であって、とうてい、わたくしの手に負えるものではないので、失礼ながら省略させていただくことにする。
さて、冒頭は本尊問答抄の一節である。
これが御書システムの今月のコラムに取り上げられている部分なのであるが、わたくしは一読して、どうも腑に落ちないものがあったので何回も読み返してみた。結論として、今回のコラムには間違いがあるのではないか、と思った。もちろん、ぜんぶが間違っているわけではなく、むしろ既存の解釈よりは格段に進歩を遂げているわけであるが、さりとて完璧ではない。部分的には驚くべき錯誤ないし錯覚があるとも感じられるのである。
本尊問答抄の当該部分は文意がわかりにくいので、これまでにもさまざまの解釈がなされてきた。御書システムではそれら既存の解釈を不適切とし、今回、修正案を提示した。以下がコラム中に出てくる新解釈である。
誠に依法不依人の金言に背くのであれば、何で仏によらずして弘法等の人によることがあろうか。
さらには、次のごとく体裁を整えて、最終結論としている。
自分たちは無智故に人師の徳行を信ずるばかりであったが、もしそれが依法不依人の御金言に背くというのであれば、何で仏の遺言に背いてまで、弘法等の人師に依ることがあろうか。
従来の読み方と比較しないことには話が進まないけれども、煩瑣になるので簡略に説明したい。
ようするに従来の解釈では「背かざるの外は」を正反対に読んでしまっているというのだ。御書システムではこれを二重否定であるとし、上掲のごとく「背くのであれば」と読ませているが、従来の学者たちはこの二重否定に気がつかず、「背かない限りは」とか「背かぬ以上」などと読んでしまっているというのだ。
この部分はなるほどと思った。
ここで御書システムでは類文というか、文法的な意味で同様の用語例を守護国家論から引用している。けれども、これがわたくしに言わせればとんだ見当違いの解釈なのである。
設ひ百千万の義を立つると雖も四十余年等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ふべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。
本文は上掲のごとくであるが、これを御書システムでは以下のように読んでいる。
たとえ百千万の義を立てたとしても、四十余年未顕真実の文を虚妄と称するのであれば、それは用いてはならない。
これははっきり間違いである。文法的な説明は煩瑣であり、かえって混乱するだけなので・・・というよりも、わたくしには無理なのでなるべく避けたいと思うが、大げさに言うと上掲の場合は二重否定ではなく、三重否定なのである。
いわゆる係り結びというのだろうか、「〜の他ない」という言い回しがある。つまり、大聖人の用語例に従えば、「称せざる」「より外は」「用ふべからず」の三つの否定ということになる。いや、厳密には「〜ざる」「より外は〜べからず」ということなのだろうが、御書システムではこの「〜べからず」の部分にまったく言及していない。
ともかく、上掲の御文の場合、さしあたっては用いる用いないという動詞を除外して読むと、わかり易くなるはずである。つまり、ある論師人師がたくさんの著述を遺しているとしたならば、当然に四十余年未顕真実であるとか正直捨方便であるとか虚妄等の言葉を遺していなければならない。ようするに、虚妄と言わない以外にない、換言すれば、虚妄と言っているはずだ、ということなのだ。もし言っていないとするならば、その論師人師ないしその著述を用いてはならない、これが正解である。
御書システムでは、あたかも四十余年未顕真実の文を虚妄であると称する悪師が存在するかのごとく説明しているが、これが見当違いであることは守護国家論の次の御文を拝するならば一目瞭然だろう。
是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。
つまり、一代聖教をあまねく学び尽くしているほどの学者であれば、仮にそれが浄土宗の学者であったとしても己れの依経が虚妄であることに気がつかないはずはないという意味なのだ。
別件ではあるものの、開目抄には次のごとくある。
法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる。
ここまで書けば、御書システムの筆者には、じゅうぶん理解できることだろう。
本当ならば最後に本尊問答抄に戻って締め括らなければならないが、疲れたのでこれで終了させていただく。わたくしの気分としては、もう少し手を加えたいところであるが、けっこう難儀な作業なので、後日を期したいと思う。
れん氏より早々のご返事をたまわったわけだが、これがまた、いつものごとく専門的であって、とうてい、わたくしの手に負えるものではないので、失礼ながら省略させていただくことにする。
さて、冒頭は本尊問答抄の一節である。
これが御書システムの今月のコラムに取り上げられている部分なのであるが、わたくしは一読して、どうも腑に落ちないものがあったので何回も読み返してみた。結論として、今回のコラムには間違いがあるのではないか、と思った。もちろん、ぜんぶが間違っているわけではなく、むしろ既存の解釈よりは格段に進歩を遂げているわけであるが、さりとて完璧ではない。部分的には驚くべき錯誤ないし錯覚があるとも感じられるのである。
本尊問答抄の当該部分は文意がわかりにくいので、これまでにもさまざまの解釈がなされてきた。御書システムではそれら既存の解釈を不適切とし、今回、修正案を提示した。以下がコラム中に出てくる新解釈である。
誠に依法不依人の金言に背くのであれば、何で仏によらずして弘法等の人によることがあろうか。
さらには、次のごとく体裁を整えて、最終結論としている。
自分たちは無智故に人師の徳行を信ずるばかりであったが、もしそれが依法不依人の御金言に背くというのであれば、何で仏の遺言に背いてまで、弘法等の人師に依ることがあろうか。
従来の読み方と比較しないことには話が進まないけれども、煩瑣になるので簡略に説明したい。
ようするに従来の解釈では「背かざるの外は」を正反対に読んでしまっているというのだ。御書システムではこれを二重否定であるとし、上掲のごとく「背くのであれば」と読ませているが、従来の学者たちはこの二重否定に気がつかず、「背かない限りは」とか「背かぬ以上」などと読んでしまっているというのだ。
この部分はなるほどと思った。
ここで御書システムでは類文というか、文法的な意味で同様の用語例を守護国家論から引用している。けれども、これがわたくしに言わせればとんだ見当違いの解釈なのである。
設ひ百千万の義を立つると雖も四十余年等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ふべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。
本文は上掲のごとくであるが、これを御書システムでは以下のように読んでいる。
たとえ百千万の義を立てたとしても、四十余年未顕真実の文を虚妄と称するのであれば、それは用いてはならない。
これははっきり間違いである。文法的な説明は煩瑣であり、かえって混乱するだけなので・・・というよりも、わたくしには無理なのでなるべく避けたいと思うが、大げさに言うと上掲の場合は二重否定ではなく、三重否定なのである。
いわゆる係り結びというのだろうか、「〜の他ない」という言い回しがある。つまり、大聖人の用語例に従えば、「称せざる」「より外は」「用ふべからず」の三つの否定ということになる。いや、厳密には「〜ざる」「より外は〜べからず」ということなのだろうが、御書システムではこの「〜べからず」の部分にまったく言及していない。
ともかく、上掲の御文の場合、さしあたっては用いる用いないという動詞を除外して読むと、わかり易くなるはずである。つまり、ある論師人師がたくさんの著述を遺しているとしたならば、当然に四十余年未顕真実であるとか正直捨方便であるとか虚妄等の言葉を遺していなければならない。ようするに、虚妄と言わない以外にない、換言すれば、虚妄と言っているはずだ、ということなのだ。もし言っていないとするならば、その論師人師ないしその著述を用いてはならない、これが正解である。
御書システムでは、あたかも四十余年未顕真実の文を虚妄であると称する悪師が存在するかのごとく説明しているが、これが見当違いであることは守護国家論の次の御文を拝するならば一目瞭然だろう。
是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。
つまり、一代聖教をあまねく学び尽くしているほどの学者であれば、仮にそれが浄土宗の学者であったとしても己れの依経が虚妄であることに気がつかないはずはないという意味なのだ。
別件ではあるものの、開目抄には次のごとくある。
法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる。
ここまで書けば、御書システムの筆者には、じゅうぶん理解できることだろう。
本当ならば最後に本尊問答抄に戻って締め括らなければならないが、疲れたのでこれで終了させていただく。わたくしの気分としては、もう少し手を加えたいところであるが、けっこう難儀な作業なので、後日を期したいと思う。
2008/9/12
真偽の審議は慎重に
種々のコメントが寄せられているが、一々については省略させていただきたい。まあ、しかし、れん氏にはご挨拶申し上げないといけないだろう。
立正観抄については興風談所より有力なる偽書説が提示されているとのことである。
わたくしも先の太田左衛門尉御返事と立正観抄を二者択一するとしたら、どうしても前者を取り、後者を捨てることにならざるを得ないけれども、今の段階では何としても整合性を持たせたいと思っている。ともかく日蓮正宗が偽書説を打ち出さない限りは、それに従うべきがわたくしの立場なのだ。
興風談所の研究には定評があり、わたくしも多いに学ばせてもらっている。といっても、ネット上で閲覧できるのは御書システムのコラムくらいであるが、ともかく、毎月の更新を楽しみにしていることは事実である。
それにしても今回のコラムはどうかと思った。何回も読み返したけれども、すっきりしなかった。内容に立ち入るのはひじょうに面倒なので省略させてもらうが、結論的には間違いなのではないかと思った。
もし興味のある人は、ぜひとも今月分のコラムをご覧になって、その感想を聞かせていただければと思う。わたくしには間違いに思える。そこを確かめていただければ、ひじょうにありがたいことである。
もちろん、そこまで書く以上は、もっと詳細に論じないといけないのだが、ともかく今は他の読者がどのように感じるか、それを聞いてみたいのである。
飛躍を承知で書くが、もし他の人が読んでもおかしいと感じられるようであれば、興風談所の研究にも間違いが存することになるわけで、そうすると立正観抄の真偽についても全面的に信用するわけには行かないことになるのではないか、とわたくしは言いたいのである。
ともかく今月のコラムはおかしい。
さて、自分で言うのもおかしな話であるが、わたくしもそれなりの思考力を持っているつもりである。ゆえに、ただ単に他人の文章にケチをつけて、ヘンであるとか、おかしいとか、言っているわけではないのだ。すでに二年前になるけれども、立正観抄については数日にわたって書いたことがあった。
http://diary.jp.aol.com/ganko/461.html
この数日後には創価学会の北林氏への批判なども書いているが、それなりに説得力のある文章になっていると思う。
ちなみに、当時のコメント欄を見るならば、れん氏の存在に気がつくだろう。わたくしにとっては、ひじょうにありがたい存在なのである。
立正観抄については興風談所より有力なる偽書説が提示されているとのことである。
わたくしも先の太田左衛門尉御返事と立正観抄を二者択一するとしたら、どうしても前者を取り、後者を捨てることにならざるを得ないけれども、今の段階では何としても整合性を持たせたいと思っている。ともかく日蓮正宗が偽書説を打ち出さない限りは、それに従うべきがわたくしの立場なのだ。
興風談所の研究には定評があり、わたくしも多いに学ばせてもらっている。といっても、ネット上で閲覧できるのは御書システムのコラムくらいであるが、ともかく、毎月の更新を楽しみにしていることは事実である。
それにしても今回のコラムはどうかと思った。何回も読み返したけれども、すっきりしなかった。内容に立ち入るのはひじょうに面倒なので省略させてもらうが、結論的には間違いなのではないかと思った。
もし興味のある人は、ぜひとも今月分のコラムをご覧になって、その感想を聞かせていただければと思う。わたくしには間違いに思える。そこを確かめていただければ、ひじょうにありがたいことである。
もちろん、そこまで書く以上は、もっと詳細に論じないといけないのだが、ともかく今は他の読者がどのように感じるか、それを聞いてみたいのである。
飛躍を承知で書くが、もし他の人が読んでもおかしいと感じられるようであれば、興風談所の研究にも間違いが存することになるわけで、そうすると立正観抄の真偽についても全面的に信用するわけには行かないことになるのではないか、とわたくしは言いたいのである。
ともかく今月のコラムはおかしい。
さて、自分で言うのもおかしな話であるが、わたくしもそれなりの思考力を持っているつもりである。ゆえに、ただ単に他人の文章にケチをつけて、ヘンであるとか、おかしいとか、言っているわけではないのだ。すでに二年前になるけれども、立正観抄については数日にわたって書いたことがあった。
http://diary.jp.aol.com/ganko/461.html
この数日後には創価学会の北林氏への批判なども書いているが、それなりに説得力のある文章になっていると思う。
ちなみに、当時のコメント欄を見るならば、れん氏の存在に気がつくだろう。わたくしにとっては、ひじょうにありがたい存在なのである。
2008/9/7
正直者の独白
のび太氏からコメントを頂戴した。
すでに戦闘(選挙)モードに入っているとのことであるが、それはなかなか興味深い。ようするに年内の総選挙は確実だということなのだろう。わたくしの思うに、どうもこのところの政局は公明党の思惑通りに進行しているようなのだ。
ちゃんと調べたわけではないので、これから書くことをそのまま信用してはいけない。
わたくしの記憶では福田総理の辞任表明以前に、福田さんでは選挙に勝てない、という声が自民党内だけでなく、公明党の筋からも漏れていたように思う。また、来夏は東京都議選があるので云々と、これもまた、すでにかなり前から言われていたことではなかったかと思う。ようするに都議選と総選挙が重なると困るので・・・何が困るのか知らないが、ともかく公明党ではそのような理由から年内解散・総選挙というシナリオが望ましいと考えていたのである。
であるならば、今の流れはまさしく公明党の思惑通りなのではないか?
重ねて言うが、あくまで上記は当てずっぽうなので信用してはいけない。
まあ、しかし、一つだけ言えることは、すでに現時点の報道においても、解散・総選挙は必至の状況であるかのごとく伝えている。これは不思議といえば不思議な話だ。何しろ解散権は総理一人の権能のはずで、しかもその総理はまだ決まっていないのである。誰が総理になるかはフタを開けてみなければわからない。
それにもかかわらず、もはや既定路線のごとくになっているのだから、不思議だと書いたのだ。あるいはこれが世論操作というものなのか?
しかし、実は解散・総選挙を盛んに迫っているのは野党であり、ある意味では国民世論なのだ。ゆえに与党としてもいつかは打って出なければならない。問題はそのタイミングである。当然ながら解散権を握る側としては、有利にことが運ぶようにそのタイミングを見計らっているわけなのだ。
それにしても、どこかの記事に「負け幅を最小限に食い止める作戦」みたいなことが書かれていた。ああ、なるほど、どのみち負けるのか・・・
選挙ばかりは開票するまで何とも言えないものであるが、前回の総選挙で大勝している分、どうしたって議席を減らすことになるのは必至である。そうは言っても、与党としてはまさか最初から下野するつもりで選挙などしないだろう。ようはギリギリであっても政権維持できればと思っているはずである。
ちょうど面白い話がある。このところ顕正会では、矢野問題を取り上げ、いよいよ池田創価学会も亡びの時を迎えた、などと言っている。実はこんなことは昔から言っていることなのだか、今度ばかりはけっこう核心に迫っているかもしれない。
それは矢野問題が深刻だからというわけではなく、今度の総選挙が問題なのである。これで公明党が自民党と共に大敗を喫することにでもなれば、確実に政権から転落することになる。
もちろん、それで直ちに創価学会が崩壊するわけではないのだが、ようするに顕正会の内部としてはひじょうに嬉しい展開だということなのである。浅井先生の予言(?)が当たったと・・・
けれども、妙な話であるが、浅井先生が予言(?)をすると、それとは逆の展開になることがあるのだ。そうすると今度の総選挙は意外にも与党側の大勝利とか・・・
まあ、それはないと思うが・・・
ところで、御書の引用について、恣意的ではないかという指摘があった。この場合の恣意的の意味がどういうものか、ちょっと見えてこないけれども、あるいはわたくしが相手を翻弄するためにワザと紛らわしい御文を引用しているということなのかもしれない。わたくしとしては、そのようなつもりはまったくないのであるが、のび太氏にはそのように感じられたのかもしれない。
もし、そうであるならば、この誤解を解くことは相当の困難をきわめる。
http://diary.jp.aol.com/ganko/1173.html
リンク先は少し前の拙稿であるが、これと前回の拙稿とを併せてお読みいただくしかない。それでわからないとすれば、それまでである。
なお、御書にはそちこちに矛盾すると思われる御文が存在し、これについてどのように会通すべきなのかが一つの重要な作業になっている。のび太氏はきわめて簡略ではあるが、会通の模範を示してくださった。しかし、わたくしはまったく別の選択肢もあると思っている。ようするに二つの御書があって、それらが矛盾する場合、どちらか一方が偽書であると考えることである。
元来、真偽問題には関知しない、それがわたくしの立場ではあるけれども、マレにはどうにもこうにも会通の利かないような御文に遭遇することがあって、そうすると、ひょっとしたら・・・と思うことがないわけではないのである。
隠しごとをしていると、なかなか誤解が解けないので、正直なところを書いた。
すでに戦闘(選挙)モードに入っているとのことであるが、それはなかなか興味深い。ようするに年内の総選挙は確実だということなのだろう。わたくしの思うに、どうもこのところの政局は公明党の思惑通りに進行しているようなのだ。
ちゃんと調べたわけではないので、これから書くことをそのまま信用してはいけない。
わたくしの記憶では福田総理の辞任表明以前に、福田さんでは選挙に勝てない、という声が自民党内だけでなく、公明党の筋からも漏れていたように思う。また、来夏は東京都議選があるので云々と、これもまた、すでにかなり前から言われていたことではなかったかと思う。ようするに都議選と総選挙が重なると困るので・・・何が困るのか知らないが、ともかく公明党ではそのような理由から年内解散・総選挙というシナリオが望ましいと考えていたのである。
であるならば、今の流れはまさしく公明党の思惑通りなのではないか?
重ねて言うが、あくまで上記は当てずっぽうなので信用してはいけない。
まあ、しかし、一つだけ言えることは、すでに現時点の報道においても、解散・総選挙は必至の状況であるかのごとく伝えている。これは不思議といえば不思議な話だ。何しろ解散権は総理一人の権能のはずで、しかもその総理はまだ決まっていないのである。誰が総理になるかはフタを開けてみなければわからない。
それにもかかわらず、もはや既定路線のごとくになっているのだから、不思議だと書いたのだ。あるいはこれが世論操作というものなのか?
しかし、実は解散・総選挙を盛んに迫っているのは野党であり、ある意味では国民世論なのだ。ゆえに与党としてもいつかは打って出なければならない。問題はそのタイミングである。当然ながら解散権を握る側としては、有利にことが運ぶようにそのタイミングを見計らっているわけなのだ。
それにしても、どこかの記事に「負け幅を最小限に食い止める作戦」みたいなことが書かれていた。ああ、なるほど、どのみち負けるのか・・・
選挙ばかりは開票するまで何とも言えないものであるが、前回の総選挙で大勝している分、どうしたって議席を減らすことになるのは必至である。そうは言っても、与党としてはまさか最初から下野するつもりで選挙などしないだろう。ようはギリギリであっても政権維持できればと思っているはずである。
ちょうど面白い話がある。このところ顕正会では、矢野問題を取り上げ、いよいよ池田創価学会も亡びの時を迎えた、などと言っている。実はこんなことは昔から言っていることなのだか、今度ばかりはけっこう核心に迫っているかもしれない。
それは矢野問題が深刻だからというわけではなく、今度の総選挙が問題なのである。これで公明党が自民党と共に大敗を喫することにでもなれば、確実に政権から転落することになる。
もちろん、それで直ちに創価学会が崩壊するわけではないのだが、ようするに顕正会の内部としてはひじょうに嬉しい展開だということなのである。浅井先生の予言(?)が当たったと・・・
けれども、妙な話であるが、浅井先生が予言(?)をすると、それとは逆の展開になることがあるのだ。そうすると今度の総選挙は意外にも与党側の大勝利とか・・・
まあ、それはないと思うが・・・
ところで、御書の引用について、恣意的ではないかという指摘があった。この場合の恣意的の意味がどういうものか、ちょっと見えてこないけれども、あるいはわたくしが相手を翻弄するためにワザと紛らわしい御文を引用しているということなのかもしれない。わたくしとしては、そのようなつもりはまったくないのであるが、のび太氏にはそのように感じられたのかもしれない。
もし、そうであるならば、この誤解を解くことは相当の困難をきわめる。
http://diary.jp.aol.com/ganko/1173.html
リンク先は少し前の拙稿であるが、これと前回の拙稿とを併せてお読みいただくしかない。それでわからないとすれば、それまでである。
なお、御書にはそちこちに矛盾すると思われる御文が存在し、これについてどのように会通すべきなのかが一つの重要な作業になっている。のび太氏はきわめて簡略ではあるが、会通の模範を示してくださった。しかし、わたくしはまったく別の選択肢もあると思っている。ようするに二つの御書があって、それらが矛盾する場合、どちらか一方が偽書であると考えることである。
元来、真偽問題には関知しない、それがわたくしの立場ではあるけれども、マレにはどうにもこうにも会通の利かないような御文に遭遇することがあって、そうすると、ひょっとしたら・・・と思うことがないわけではないのである。
隠しごとをしていると、なかなか誤解が解けないので、正直なところを書いた。