2008/10/31

教主釈尊の本師とは?  
わたくしがヘタな説明を施すよりも、前回のコメント欄をよく読んでもらったほうがいいだろう。ひじょうに充実した議論が展開されていて、もはや、わたくしの出る幕はなさそうである。法勝人劣(法前仏後)だとか人勝法劣、あるいは人法体一(人法一箇)のような難解な用語がたくさん出てきて、ひじょうに頭の痛いことになった。

前田氏はその用語こそ使わないものの、釈尊と法華経の関係を人法一箇と見ているようである。これはいちおう正しいことだ。

では、なぜに大聖人は、法華経は仏にまさらせ給ふ、と仰せられるのか・・・それが問題である。これに対する前田氏の見解であるが、失礼ながら説得力はあまりないように思う。以下、具体的に指摘させていただく。

法が仏を生じた、仏は法から生じたと云う、能生・所生の関係から言うと、法勝人劣。
法を証悟したのが仏で、法は悟られたものと云う、能証・所証の関係から云えば、人勝法劣。
仏は法を説いたもの、法は仏によって説かれたものと云う、能説・所説の関係から言えば、人勝法劣。


能生所生の関係が法勝人劣であることは間違いない。
けれども、能証所証がなぜに人勝法劣なのか、それが大問題だ。そもそも能証所証とは何か、どこにそのような御指南があるのか、そこから説明しなければならないだろう。
そして、能説所説であるが、これはもちろん一般的には人勝法劣で正しい。けれども、今の所談においては不可である。

理由は簡単だ。ようするに大聖人が否定されているからである。

大聖人が、法華経は仏に勝る、と仰せられている以上、それを前提にするべきなのである。
法華経は釈尊が説いたものである。そんなことはわかりきったことだ。それにもかかわらず大聖人は法華経の優位を仰せられるわけだから、一般的な能説所説の関係を持ち出したところで無意味だろう。
以上のようなことで、失礼ながら氏の説明は説得力を感じない。

「法華経は仏にまさらせ給う事星と月とともしびと日とのごとし」
(窪尼御前御返事・弘安二年五月・真蹟)

「法華経は仏にまさらせ給う法なれば供養せさせ給いて 」
(九郎太郎殿御返事・弘安元年十一月・真蹟)

とご指摘の文等もございますが、これらは、
「法師品第十」の
「合掌し我が前にあって 無數の偈を以て讚めん
是の讚佛に由るが故に 無量の功を得ん持經を歎美せんは 其の復彼れにぎん。」
「分別功徳品第十七」の
「佛及び縁覚弟子ならびに菩薩衆に、布施し供養せん。・・・善男女等あって 我が壽命を説くを聞いて(=法華経を聞くこと)、乃至一念も信ぜば、 其の福、彼れに過ぎたらん」

などの文の意趣を根拠にして、法華経の行者供養・法華経供養を讃えられたもので、
釈尊より法華経の方が有り難い事を教示する文ではございません。


わたくしは法華経に詳しくないので偉そうなことは言えないけれども、上掲の説明には問題があると思う。
前田氏は二つの御書に対する会通として、法華経を引用している。当該御書を確認するとすぐにわかることだが、氏が根拠とするところの法師品も分別功徳品もまったく出てこないのである。
つまり、それが大聖人の御考えなのかどうか、これだけでは証明できないのだ。

日蓮宗から日蓮正宗への批判として、正宗は文底読みとか言って御文をひねくり回して自説の正当化を企てている・・・みたいなことを耳にもするが、今回の議論ではむしろ日蓮宗側が御文をひねくり回している印象を受ける。素直に読めないものかと思う。

而るに女人の御身として法華経の御命をつがせ給ふは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり。

これは以前にも引用させていただいた弘安元年の日女御前御返事である。

あるいは建治四年の上野殿御返事には、

仏はいみじしといゑども、法華経にたいしまいらせ候へば、蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。

明確に勝劣ないし高下を仰せになられている。

あるいは兄弟抄、

 夫法華経と申すは八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄なり。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。
(中略)
 さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。

諸仏の師は法である。しかし、それはあくまで諸仏であって、釈尊は別格という考え方もある。しかるに兄弟抄では、法華経は教主釈尊の本師である、と仰せられるのだ。

もちろん、冒頭にもじゃっかん述べたごとく、釈尊と法華経の関係を人法一箇とすることもあながち間違いとは言えないことである。けれども、ここまで縷々述べたごとく、大聖人は法華経の優位を仰せられてもいるのである。ゆえに、これをどのように整合させるか、それが大問題なのだ。

2008/10/27

本当のボスは誰か?  
前田氏より懇篤なるコメントを頂戴した。なお、他にも各方面から種々のコメントが寄せられているけれども、いつものことながら対応し切れないので、省略させていただく。

佐久間氏談なるものが貼り付けてある。これについては大いに異論があるけれども、詳細は別の機会に譲りたいと思う。
ともかく前田氏の意図は、真偽不確定の引用は避けるべき、ということなのだろう。ようするに、前回の拙稿では諸法実相抄を引用したわけだが、おそらくはそれがあたかも自説を正当化するための強引な手段のようにも感じられるところなのだと思う。
いわば前田氏は、そこにクギを刺したわけである。

けれども、わたくしはそれほど単純な人間ではなく、相手の主張をじゅうぶんに理解した上で論を組み立てているつもりである。ゆえに、あらかじめ反論を予想して、それなりの補強材料を用意してあるのだ。今回はそれを書く。

そうそう、その前に確認しておきたいことがある。前田氏は丁寧にも御書の引用を、わたくしが省略してしまった部分まで紹介し、さらには現代語訳まで付けておられる。これはひじょうに素晴らしいことではあるが、ひとつ疑問に思ったことがある。すなわち、この現代語訳は前田氏自身のものなのか、それとも何か他の資料を使っているのかである。その点を教えていただければと思う。
別にそれを聞いてどうするわけでもないのであるが、わたくしは「満足」という訳語が少し気になった。広い意味では満足でもいいだろう。だが、現代語訳なのだから、現代感覚に即して表現すべきだと思う。そうすると、満足というのはちょっと違うような気がするのであるが、まあ、これはまた煩瑣になるので別の機会にしたいと思う。

例えば
大王が我が子、太子を数多くの臣下に命じて守護をさせるようなものだとあります。

父がわが子の頭を撫で、衣で包んでくださるんです。まもるのです。


「みづから来り給ひて、昼夜十二時に守られ給はん事のかたじけなさ申すばかりなし。」

巌虎さんの言うとおり、当然、諸天、善神の守護は当然なのですが、わが子の事なので大王(釈迦牟尼仏世尊)自らお出ましになるのです。
パシリだけでなくボスのお出ましなのです。


いよいよ本題である。ようするに、わたくしは釈尊をパシリであると書いたわけだが、これについての前田氏からの反論が上掲である。

一見すると、よくまとまっている。というよりは、日蓮宗における教義信条に則った模範的な説明なのだろう。その意味では正しいのかもしれない。
諸天善神が守護の役目を担っているのは当然である。けれども釈尊は我が子すなわち仏子ないし釈子、まあ、いろいろ言い方はあるわけだが、ともかく釈尊は諸天善神(パシリ)だけに守らせるのではなく、自分自身(ボス)が直接、守りに来て下さるというわけだ。
これはまさに、かたじけなさ申す計りなし・・・という御文を拝すれば、なるほどそのとおりである。

ただし、前田氏は知ってか知らずか、重要な点を見逃している。

又かたじけなくも釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

上野殿母尼御前御返事の当該御文では、いわゆる三仏が並列的に論じられている。釈尊一仏ではなく、そこに多宝・十方の諸仏が並ぶのである。

この点は日蓮宗の人がよく引用する南条兵衛七郎殿御書の、

ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。

と事情が異なるのだ。

このことは母尼御前御書の続きの御文を拝すれば、さらに明瞭となるだろう。

 抑いかなれば三世十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘へて候へば、道理にて候ひけるぞ。法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのとなり、主にてましましけるぞや。

諸法実相抄では、釈迦多宝は用の仏であって妙法蓮華経こそが本仏である、と仰せになっている。上掲の御書では、法華経は仏にとって父母であり、乳母であり、主であると、実質的に主師親の三徳を仰せられているのだ。これは往いては同じことである。
つまり、通常であれば仏がいわゆる三徳者なのだけれども、法華経においてはその上位概念として法華経そのものが三徳者なのである。
それを裏付ける御指南はたくさんあるが、その中でもいちばんわかりやすい御文を紹介しておこう。

「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。

これは建治元年の御衣並単衣御書であるが、ほぼ同時期の妙心尼御前御返事がまた興味深い。

 このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををやのあいするがごとく、いをの水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等あつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。

この御文を踏まえて上野殿母尼御前御返事を改めて拝読するならば、ことに、釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて昼夜十二時に守らせ給はん・・・の一段においては、大曼荼羅御本尊の相貌が彷彿としてくること請け合いである。

結論として、前田氏はボスを釈尊であるとしているが、当該御文においては文脈上、法華経そのものがボスなのである。

かく見れば、諸法実相抄における妙法蓮華経が本仏という考え方にしても、けっして特殊なものではないことがわかるはずだ。

2008/10/24

用の仏とは何か?  
今日は久しぶりに更新するが、まだ白紙である。いつもぶっつけ本番なのだ。それでいよいよ投稿を開始しようと思った矢先に、れん氏からのコメントが入って、調子が狂ってしまった。

いつもながら難解である。ゆえに、ひじょうに申し訳ないけれども、本稿は氏のコメントに触れないで、話を進めさせていただくことにする。

そうそう、渡辺氏からもコメントが入っている。う〜ん、これは一本取られた、と申し上げておこう。わだっち氏がどうしているか、気になるところではあるが、そんなことをグダグダ書いていると、他人の心配をするよりも自分の心配をせよ、などと言われかねないので、これはこれでおしまい。

さて、本題である。今日は申すまでもなく、前田氏からのコメントを踏まえて書くことになる。
わたくしは守護国家論と上野殿母尼御前御返事に類文と思しき箇所があることを示した上で、けれども、そこには決定的な違いがある、と書いた。
ところが前田氏は、いささかも違いはない、と言うのだ。

煩瑣ではあるが、今一度、御文を紹介しておこう。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。

仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。

守護国家論の続きの御文には、多宝仏のことが出てくるので、興味のある人は確認されるとよいだろう。つまり、説明の順番が違っているだけで、内容的にはいささかの矛盾もない、というのが前田氏の主張するところである。

けれども、わたくしはこの順序の違いこそが一大事だと思っている。

此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。

いわずと知れた法華取要抄である。わたくしはこの御文が頭にこびり付いて離れない。それゆえに、くだんの釈迦・多宝の順序が逆転している御文が気になって仕方がないのである。

上野殿母尼御前御返事には他にも注目すべき御文がたくさんある。以下、一例だけ紹介しておこう。

 抑此の法華経を開いて拝見仕り候へば「如来則ち、衣を以て覆ひたもふ為し。又、他方の現在の諸仏に護念せらるゝことを為ん」等云云。経文の心は・・・釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

ここでは釈迦・多宝が順番どおりになっているが、それはどうでもいいことだ。わたくしが注目したい点は、釈尊自らが法華経の行者を昼夜十二時に守っている、という部分である。

ここで思いっきり飛躍を承知しながら、諸法実相抄の一文を引用したい。

されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にて御坐し候へ。

真偽の問題があるので前田氏には通用しないかもしれないが、わたくしにとってはきわめて重要な御文である。

用の仏とは何か?

この際だから乱暴な表現を使ってしまおう。パシリである。
つまり、妙法蓮華経という本仏に相対する時には、釈迦も多宝もそれほどの差はないのだろう。さらに言えば、いわゆる諸天善神と同じ役割を担っているのだ。昼夜十二時に守らせ給はん・・・とは、まさしくそのことであろう。
このように考えれば、大聖人がその続きの御文において、釈尊と多宝の順序を逆にしたところで、さしたる問題はないわけである。

弘安四年の上野尼御前御返事に象徴的な御文がある。

 やすやすとあわせ給ふべき事候。釈迦仏を御使ひとして、りゃうぜん浄土へまいりあわせ給へ・・・

さすがに前述のパシリは語弊があるにしても、この御文のごとくならば、釈尊が使いの役目を担っていることは否定できないだろう。すると真偽の問題はさておき、この場合は諸法実相抄のごとく、妙法蓮華経が本仏ということになるはずである。

2008/10/20

しぶとい秘訣  
渡辺氏よりお返事をたまわった。

シブトイ・・・

文中、わたくしのことをこのように言っておられるが、ある意味、これは最上のホメ言葉である。正直、嬉しいと思う。

今さらながら、わたくしは顕正会員の中では異色の存在だと自覚している。おそらくはネット上に出没する顕正会員の中でも、とりわけ異色の存在に違いないと思う。
早い話が変わり者なのであるが、具体的には何がどう違うのか、平均的な顕正会員とどこが違うのか、それが問題である。
会員でありながら、顕正会批判をしている。まあ、そういう人は他にもいるかもしれない。けれども、それをいつまでも続けているのは、めずらしいことだろう。ゆえに以前には、日一氏から鋭い質問が発せられたのだ。巌虎は顕正会に対する憎悪が誰よりも強いのではないかと・・・
しかし、わたくしはそれには答えなかった。というか、答えをはぐらかしてしまった。

ともかく拙ブログに興味を持って下さっている人は、いったい巌虎とはナニモノなのか、とお思いのことであろう。それに対する答えは、ただの落ちぶれ顕正会員である、と申し上げるしかない。今のところは、そんなところである。

一つ言えることは、平均的な顕正会員よりも多少は御法門に詳しい、ということだろう。換言すれば、引き出しが広い、もしくは引き出しが多い、ということだ。

さて、渡辺氏は他にもいろいろ書いて下さっているが、わたくしは次の言葉が気になった。

莫迦者の問題・・・

いったい、何のことだろう?

>莫迦は自分の矛盾に気付くことなどできない。謗法の害毒で悩乱してしまっているのであろう。しかもである。 久遠下種が釈尊の化導であると主張するのなら、なぜ釈尊が末法に生まれて衆生救済をしないのか、説明してみろと言いたい。


説明しましょう。
渡辺さん、多くは言いますまい。

貴方が朝夕読んでいる「寿量品第十六」から
「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり。
然るに今、実の滅度に非ざれども、而も便ち、唱えて当に滅度を取るべしと言う。如来、是の方便を以って、衆生を教化す。所以は何ん。
若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。
若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ち?恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ。是の故に如来、方便を以って説く。比丘当に知るべし。
諸仏の出世には、値遇すべきこと難し。

所以は何ん。

諸の薄徳の人は、無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見る有り、或は見ざる者あり。此の事を以っての故に、我是の言を作す。諸の比丘、如来は見ること得べきこと難しと。
斯の衆生等、是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。

是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う。


渡辺さん、なぜ釈尊が末法に生まれて衆生救済をしないのか、とのことですが、
しているのです。ず〜と、今も。

久遠五百塵点劫の成道から今日までそして又未来永劫まで衆生救済していますね。なぜ見えないのか、お解かりになりませんか?
「朝夕、教えていただいているんですけどね。仏はそこにいる」と

大聖人もこのようにあります。
「此の文を見るに法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。」「守護国家論」〔学会版66頁〕


唐突であるが、法輪のBBSから転載させていただいた。この執筆者は相木という人である。

察しのいい人はおわかりだろう、渡辺氏の書いている莫迦者の問題とは、相木氏とのやり取りを意味しているのだ。

読者のご記憶に新しいことと思うが、以前、拙ブログには前田氏が来訪されていた。上掲はその時の議論と似ている。どうも日蓮宗系統の人は、同じ文証がお好きなようである。
なぜ釈尊は末法に出現しないのか、という渡辺氏に対して、相木氏は寿量品を引用しておられる。これはわたくしと前田氏のやり取りと一緒なので、興味のある人は拙ブログを八月中旬にさかのぼって確認されるとよいだろう。

問題は守護国家論である。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。

これには類文と思しき御文が存するのだ。以下は、弘安三年の上野殿母尼御前御返事である。

仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。

類文と書いたものの、ご覧のごとく、決定的な違いがある。すなわち釈迦と多宝が入れ替わっているのだ。いったい、これにはどういう意味があるのか、とりわけ日蓮宗系統の人たちに聞いてみたいものである。

2008/10/18

ネット規制の目的  
久しぶりに、渡辺雄二氏からコメントを頂戴したわけだが、やや不審な点がある。

まず、ご自身のメール及びホームページがリンクされていないこと。それから、「馬鹿」である。

氏がコメントを投稿する時は、必ずメール及びサイトのリンクを貼り付けている。今まで一度も例外はなかったはずである。
ところが今回はそれが外されているのだ。いったい、この理由は何か、たまたまなのか、それとも何か明確な理由があるのか、そこがひじょうに気になるところである。

そして文中、馬鹿と書かれている。

いや、別にわたくしは人から馬鹿呼ばわりされてもそれほど腹を立てることはないので、それを気にしているわけではないのだ。
いつもは馬鹿ではなく、莫迦なのだ。
う〜ん、これを文字ではなく発声だけで聞くとコッケイである。ヒマな人は声を出して読んでみるといい。いつもはバカではなくバカなのだ。どっちもバカであることには変わりない。
話が脱線した。ともかく、莫迦を馬鹿と書いているので、あるいは別人かとも思ったが、内容的にはいかにも本人の感じがするし、第一、渡辺雄二を騙るほどの度胸のある人は、そうざらにはいないだろう。

ところで、創価破邪顕正館に興味深い文章がある。

 同氏から管理人殿に、祝いのお言葉をいただいたのでお礼を言いたい、と申し出がありましたが、妙観講においては許可を受けた人のみがネット上での破折や書き込み等に関わってよいこととなっております。

 したがって、入講したばかりの同氏には、信仰関連のネットへの書き込みを自粛していただいております。


ネット上では著名な淳一氏が八月十五日に書き込まれたものである。

また、顕正会破折サイトとして著名な「富士大石寺へ帰ろう」では、現在、掲示板を実質的に停止している。さらに、関連リンクのところをクリックすると、確か以前であれば、渡辺氏のサイトであるとか、その他もろもろの関連サイトの一覧が掲示されていたはずであるが、今はどういうわけか、いきなり妙観講のサイトにジャンプするようになっている。

どうやら妙観講ではネットに規制を掛けている。いや、より正確に言えば、ネットへの書き込みを許可制にすることで、講員に規制を掛けている。淳一氏の言っていることは、そういうことなのだろう。

以前に比べると、渡辺氏のネット上での動きが不活発なのは、あるいはそのためなのかもしれない。そうは言っても、一昨日にはコメントを下さったし、淳一氏にしても、それなりの頻度で、各種の掲示板に登場しているのだ。

まさしく両者はツワモノである。

おそらく妙観講では、教学未練の初心者が生半可な気持ちでネット上に出て、デタラメなことを発言するのを避けたいのだろう。それは妙観講にとって不利になるからというよりも、いわゆる法にキズをつける、法を下げる行為であるとの認識からだと思われる。
けれども全面禁止ではなく、上記の二名のごとく、妙観講員の肩書きを背負って登場することは可能なのである。しかし、これは申すまでもなく、とてつもなく大きなプレッシャーだろう。だったら、おとなしくしていたほうが気が楽のはずだ。

ゆえに、ツワモノだというのである。

2008/10/16

夜陰に乗じて  
のび太氏は、わたくしをおだてて、事件について書かせようとしているが、そうは問屋が卸さない。名探偵ではなく迷探偵、それがわたくしの正体だ。もっとも、わたくしがトンチンカンなことを書くのを期待している人もいることだろうから、少しは書いてみよう。

創価学会の徳島文化会館で爆破事件が発生した。その翌日には同じ徳島の、別のところで爆破事件があった。

当然、同一地域であり、内容的にも同一犯のシワザと考えられる。まあ、しかし、事件は迷宮入りになるのではないか、というのがわたくしの予想である。
いわゆる思想犯であれば、そんな夜中にコソコソ犯行に及ぶことはないだろう。白昼堂々とやればいいのだ。ゆえに、犯行の動機が何であれ、犯人は大した人物ではない。ただの小物である。
二度あることは三度あるというので、引き続き、第三弾や第四弾の爆破があるかもしれないが、わたくしはないと思っている。ようするに、犯人がニュース報道などを見て、事の重大さに気がつく。ここでいくつかの選択肢があるわけだが、一つには素直に自首することだ。これなら解決である。しかし、わたくしの思うに、だったら最初からやらないきゃいいのだ。だから二つ目の選択肢として、犯人はこのまま闇の中に消えてしまう可能性が高いと思う。小物ゆえである。
もう一つの可能性も考えられる。ニュースを見て、興奮を覚える。ようは犯人の犯行意欲に火がつくのだ。それでさらなる犯行に及んでしまう。当然、この場合はいずれ逮捕される日が来ることだろう。

保険のセールスの人が冗談交じりに言っていたことがある。いわゆる保険金詐欺のことだが、一回でやめときゃいいものを味をしめて二回三回とやるから捕まるんだよね、ってなことである。なるほど、と思った。ことに保険金殺人ともなれば、一回だけでも怪しまれる。かの有名な人物などは妻に保険金を大量に掛けていた。だから疑われ続けたのだ。

話が脱線したけれども、くだんの爆破事件の場合、このまま沈静化すれば迷宮入りになることだろう。犯人がなおも犯行を続ければ、いずれは捕まることだろう。それが結論である。

そういえば、わたくしの自家用車はこれまでに二回、車上荒らしに遭っている。ナンバープレートを盗まれたこともあった。いずれも警察に届け出ているが一度も犯人は捕まっていない。何しろ夜中に犯行に及ぶものだから、どうしようもないのだ。
ひじょうに不愉快なのは、車の中には金目の物などありはしないのである。それなのに、鍵穴を壊して無理矢理ドアをこじ開けるものだから、いい迷惑である。どうせなら、うまく開錠して、また元の通りにドアを閉めて帰ってくれれば文句は言わないのである。まったくヘボな泥棒だ。

しょせん、こういう連中は小物である。どいつもこいつも夜中にコソコソと悪さをしやがって・・・

けれども、わたくしを含めてネット上の匿名者たちは、似たり寄ったりなのかもしれないなあ・・・悪さはしないけどね。


同日追記:書き終わってから、ニュース報道などをチェックしていたら、何やら爆破事件の犯行声明文が見つかったということらしい。そこには民族義勇軍がどうのこうのと書かれているようなので、いわゆる民族主義者、俗に言う右翼であろうか? すると一種の思想犯になるが、いずれにしても夜中にコソコソやっているようではいけない。恥ずべき行為である。

2008/10/14

三者のコメントを拝して  
将来は、学会員の内実に大御本尊は描けなくなる。
しかし心配はいらない。すでに手は打たれている。


これは前々回の拙稿に対する、のび太氏からのコメントの一部である。

わたくしは、創価学会も顕正会もすでに破門になっているので、いずれは御内拝の経験を有する会員がいなくなる・・・だから五十歩百歩なのではないか、と書いた。いわば上掲は、これに対する、のび太氏からの回答みたいなものである。

コメント全体を読むと、それなりに鋭いものを感じるけれども、上掲の部分はいかがなものかと思った。
なぜならば、心配はいらない、手は打たれている、ということの具体的な内容が見当たらないからである。どのような手を打ってあるのか、その具体的な記述がない以上は、単なる希望的観測でしかないと思う。ようは手前味噌の気味が感じられるところなのである。
まあ、しかし、おそらくはこれ以上、詳しく書くことはないだろう。それはいわば企業秘密みたいなものであって、やすやすとは明かさないものに違いないからだ。

前回分の拙稿に対する、山門入り口氏のコメントを拝見して思うことは、相変わらず意見が一致しないものだ・・・ということである。わたくしもけっこう顕正会を批判しているつもりでいるのだが、氏に比べるとカワイイものに思えてくるのだから、不思議な気分である。

熊本での、いわゆる折伏の対象者が創価学会員だったかどうかは、あくまで当て推量に過ぎないので、これ以上は論じても仕方がないことである。

わたくしの思うに、前回の繰り返しになるけれども、わざわざ熊本県警が顕正会本部に家宅捜索を入れたことが、異常だということなのだ。
報道を素直に受け取ると、顕正会の折伏の勢いは、いまだに衰えが見られない。創価学会系の謀略情報紙においても、顕正会の魔の手(?)が九州に及んでいることを驚いているわけだから、相当である。
つまり、今の状況は全国津々浦々で逮捕があり得ることを指し示しているわけであり、逮捕者を輩出する意味での全国都道府県制覇もあり得ることである。

問題はその先である。

逮捕されて然るべき人物は逮捕すべきであり、それは各都道府県警のなすべき仕事であると思う。
だが、一々その都度、本部会館の捜索を行なっていたら異常だと思う。たとえば、熊本の次は宮崎あたりで逮捕があったとしよう、宮崎県警が大挙して埼玉に行くのだろうか? 次は鹿児島あたりで逮捕があったとしよう、今度は鹿児島県警が行くのだろうか? 沖縄県警とか、逆に青森県警とか、北海道警とか・・・これらが同じ日にぶつかってしまったらどうするのだろうか?
家宅捜索のために全国の都道府県警が埼玉に集結するとなると、いったい、なんなんだ、これは・・・ということになる。ひじょうにセンセーショナルな光景が想像されるところである。

謀略情報紙によれば、警察は浅井先生の逮捕を目論んでいるという。

わたくしはそれも大いにけっこうだと思う。もし本当に実行するのであれば、総幹部会だとか重要な行事の直前に逮捕・勾留すれば効果的だろう。しかし、断わっておくが、それで顕正会を壊滅できるかどうか、五分五分だということだ。逆効果の可能性もあるだろう。

さて、沖浦氏からもコメントを頂戴しているわけだが、おおむね話が見えてきたような気がする。

氏に対する風当たりの強さというのは、さまざまの要素が絡み合っていて複雑きわまる。よって、一言で片付けることは難しい。必ず逆の立場からの反論があって、なかなか収拾がつかないのである。
ゆえに、あくまで一つの視点として、書くことにしよう。早い話が氏に対するヤッカミがさまざまな批判となってあらわれている。そんなところだ。

世間の言葉で、出る杭は打たれる、というのがある。誰もがよく知る言葉だろう。この教訓するところは、だから目立つな、慎ましく生きなさい、という意味があると思う。
ところが沖浦氏は、この逆を行くのである。打たれるのを承知してどんどん前進していくのだ。しかも氏は、これこそが大聖人の仏法を実践する者の本来の姿である、と確信しているわけである。
なるほど、過日の大阪での質問会において、冒頭に好きな御書として佐渡御書をあげておられたところからしても、さもありなん、といったところだ。

ここまでを読むと、ずいぶん沖浦氏に対して好意的に感じられることだろう。正直なところ、わたくしはこれまでずっと氏に好意的であったし、それは今も変わらない。当然、百点満点の人間などいないわけだから、氏にも欠点はたくさんあることだろう。けれども、わたくしにとってはいわゆる憎めないタイプ・・・それが沖浦氏なのである。いや、もちろん、実際には会ったことがないので、会えば違った評価に変わるかもしれないが・・・

いずれにしても、一点だけクギをさしておこう。御書を拝していると、たとえば四条金吾殿に対して隠忍自重を促がすような御指南も存するのだ。これなどは出る杭のことわざに通ずるところである。沖浦氏ほどの人物がこれを知らないはずはないが、ようはこの辺のバランスをどのように保つか、それが氏の課題なのかもしれない。

2008/10/11

入信と入会の差異  
コメント欄が賑わっている。こうなると、いつものパターンではあるが、ぜんぶには対応し切れなくなるので、そこのところをご承知願いたい。

久しぶりに沖浦氏からご挨拶をたまわった。

すでに周知のことであるが、先月下旬あたりから、創価学会員の間で大きな論争が巻き起こっている。その中心人物は沖浦氏である。
これについては、わたくしも思うところが多々あるので、拙ブログにおいて取り上げようかとも考えているが、外野が興味本位で無責任なことを書くのもどうかと思って、今のところは遠慮している。
もう少し様子を見てから、タイミングを見計らって書くつもりだ。

昨日、熊本県警が顕正会の本部を家宅捜索したという。

これは先月末の逮捕事件の延長線上にあるわけだが、それとは別に、本年上半期だけでも顕正会にまつわるトラブルが六百件あった、との報道がつい先日あった。つまり、このところ顕正会のニュースが連続していて、注目度が高まっているのだ。もし本年中に、もう一回くらい報道があれば、かなりのインパクトであろう。

気になったことをいくつか書いておきたい。

まず、今回の場合は強要容疑ということだが、具体的には言葉による脅しだけで、それ以外に強要に相当する行為は見当たらないのではないかということだ。
何が言いたいかというと、わたくしの記憶ではお守り切断事件であるとか、館林の暴力事件など、これらはひじょうに具体性のある事件であるけれども、単に言葉による脅しが強要罪になってしまうとすると、これはたいへんなことだと思うのだ。
以前の顕正会員逮捕の事例をつぶさに調べたわけではないけれども、上記二例のごとく、それなりに具体性の高いものがほとんどだったはずである。それが今回のごとく、何ら具体性のない、相手の受け取り方次第でどうにでも解釈できるような、いわばアイマイな証言だけで逮捕されてしまうとなると、それこそほとんどの活動会員が逮捕されてしまうことになりはしないか、という心配があるわけである。
大げさながら、宗教弾圧にも相当するのではないか、とも思う。

報道を眺めていると、入会書とか入会届という表記が目立つ。
ゆえに、もしかしたら相手が創価学会員だった可能性もあるのではないか、という気がしてならない。さらに想像を逞しくすれば、熊本ではそれなりに名前の通っている創価学会の大幹部の子息だった、という可能性もあるだろう。
だとすれば、それなりに納得できる話である。ようは、子息の顕正会への入会はその大幹部の面目丸潰れを意味するわけだから、何としても入会を取り消したいという思いに駆られても不思議はないのだ。極論すれば、報復みたいなことでもあるだろう。創価学会をナメたらあかんで、タダじゃ済まさんぞ、みたいなことである。
いや、もちろん、これはわたくしの勝手な想像であるから、信用してはならない。

いずれにしても、わざわざ熊本県警がはるばる海を越えて顕正会本部への家宅捜索を実行するものだろうか、さすがにそこまでの大事件ではないだろう、と思うのであるが、どうであろうか?

今日はこれで終わりにするが、最後にお断りしておきたい。今回はかなり顕正会に擁護的な文章になっているけれども、現実には熱心なこととは言え、折伏のやり方に問題があることは否めない。この点は弁解の余地なしであり、事件の真相とは別に、改善すべき事柄である。

2008/10/8

独白の原動力は何か?  
のび太氏と山門入り口氏がタッグ(?)を組んでいる。煩瑣になるので詳しくは論じないが、のび太氏の三項目の箇条書きが面白い。

1、世襲制の問題

2、会員の殆どが戒壇大御本尊を拝観していない。

3、教学の基本に疑問がある。浅井氏の講義をとおしてしか理解しない。その他は拒絶する。


最初の項目はちょっと誤解がある。顕正会は浅井先生に始まり浅井先生に終わるのだ。

二番目はどうだろう。のび太氏は御内拝の経験があるものと推定されるが、今の若い創価学会員は顕正会員とさして変わりがないのではないかと思う。ようするに破門になった時期で言えば、顕正会のほうが先輩格だというだけの話であって、仮に百年先に両組織が存続しているとしたら、文字どおりの五十歩百歩となることだろう。

最後の項目はまさしくそのとおりである。これを顕正会では一念信解と称して正当化してしまっているが、ハタから見れば単なる愚民化政策にしか映らない。事実、妙信講時代からすれば、教学力の低下は明らかであり、ちょっとのことでは取り返しがつかないほどのレベルに陥っていると思われる。

のび太氏は仏法難民という表現を用いておられる。これはなるほどである。順逆二縁に広げて考えれば、今は顕正会難民の急増している時代だとも言えるだろう。
つい先日、時事通信から興味深い報道があった。宗教がらみの相談を集計すると、その七割は顕正会関係の問題なのだそうである。これは全国レベルでの話だ。
浅井先生に言わせれば、日本国の中で顕正会だけが独走している、ということになる。今回の報道は、ある意味、それを裏付ける結果が出たことになるのだ。
しかし、顕正会の独走は喜ばしいことなのかどうか、そこがアヤシイところなのだ。なぜならば、もしかしたら大量の難民を輩出しているだけ・・・なのかもしれないからである。

来月には百三十万を突破するという。これは顕正会の会員数のことであるが、ご存知のごとく、実際はその十分の一にも満たないのだ。
まさか顕正会に名前を連ねているだけで成仏できるとか、そんな甘いことは言わないだろう。だとすると、顕正会は名目上の数字を伸ばしてはいるものの、現実には難民を増やしているだけのことになるのだ。
ましてや、のび太氏の言わんとしていることは、熱心に活動している会員こそが難民ないし難民予備軍であるということなのだ。ひじょうに厳しい指摘であるが、真摯に受け止めるべきことである。

さて、日一氏からは再質問が寄せられた。十月三日分のコメント欄だ。

結論を書こう。ひじょうに鋭い。

ようするに、わたくしの書いている顕正会批判の文章を読むと、そこには憎悪のようなものが感じられるらしいのである。いや、もしかしたら表面的には違うのかもしれないが、ともかく次から次へと顕正会批判を展開していて、一向に衰えない、ハタから見れば、よくそんなに筆が続くものだ、ということなのだろう。つまり、その原動力は何か、という点を掘り下げていくと、表面的には平静を装いながらも、実は顕正会に対する凄まじいまでの怨念があるのではないか・・・これが日一氏の問いなのである。

鋭いと思う。実は怨念があるのだ。いや、自分ではそれほどでもないつもりだが、冷静に自己分析をすると、やはり怨念のようなものがあるらしいのである。
拙ブログのいちばん最初の文章を読むと、どういう方向性のブログになるか定かではないと書かれている。これは事実であって、最初は何の気なしに書き始めたのである。まったくの無計画であり、今も基本的には無計画で、その場の思いつきを書き綴っているだけのブログなのである。
しかし、長いこと書いていれば、そこには自ずと傾向性があらわれてくるはずである。熱心な読者がいれば、そこに気がつくだろう。かえって執筆者本人よりも読者のほうがよく見えるのではないかと思う。
その意味において、日一氏の指摘はひじょうに鋭い。わたくしが気がついていなかったことを気がつかせてくれたからである。

しかし、元来がヘソマガリのわたくしのことであるから、怨念についてはこれ以上、書かないつもりである。逆に韜晦の意味を書いて、ごまかしておこう。

顕正会の魔の手におびえる人たち

これは一見すると顕正会を悪であると前提しているように読めるかもしれないが、わたくしの意図としてはむしろ創価学会側を揶揄するつもりで書いたものである。

対法華講の意味では、

http://diary.jp.aol.com/ganko/523.html

これは以前、戒壇論についてあれこれ書いた時のものであるが、わりと短い文章なのでわかりやすいだろう。ようするに、是々非々ということなのである。わたくしはなるべく法華講員とはケンカしないように気をつけているけれども、これはケンカを承知で書いているのである。さりとて顕正会側ベッタリの主張でもない。これが是々非々ということだ。

また、他門に対するアプローチとして、

http://diary.jp.aol.com/ganko/367.html

これはいかがだろうか?

多くは語るまい。早い話が、単に怨念だけが原動力だったら、こんな話題は書けないはずである。わたくしはいちおう顕正会員なので、自ずと拙ブログは顕正会の話題が多いけれども、さりとてそれが専門というわけではないのである。

2008/10/5

舎衛の三億についての一創価学会員の見解  
 舎衛の三億は、竜樹菩薩の大智度論に
 「舎衛の中に九億の家あり、三億の家は眼に仏を見、三億の家は耳に仏ありと聞くもしかも眼に見ず、三億の家は聞かず見ずと。仏、舎衛に在(いま)すこと二十五年、しかも此の衆生は聞かず見ず、何(いか)に況(いわ)んや遠き者をや」とあります。
 釈迦が二十五年もいた舎衛国において、実際に釈迦を見た人は全体の三分の一、さらに三分の一は仏のいることを聞いたが見ない。
 残りの三分の一は、見たことも聞いたこともなかった。
 見仏、聞法の難き、
 仏に値い法を聞くことがいかにむずかしいかということの譬え。
 日蓮大聖人の仏法の広宣流布とは、あまり関係がない。と思います。

 御書にはありませんし、万民一同。と言われておられますからね。
 然しながら、世論の形成には重要な概念でしょう。
 少なくとも社会の30%程度が創価を理解するなら、世の中の仕組みが相当変わります。
 また、内部でも、会員が30%程度活動すれば、創価学会の未来が開けると思います。



巌虎註:無断転載であるが、これは沖浦氏の所論である。ひじょうに興味深い。


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