2008/10/24

用の仏とは何か?  
今日は久しぶりに更新するが、まだ白紙である。いつもぶっつけ本番なのだ。それでいよいよ投稿を開始しようと思った矢先に、れん氏からのコメントが入って、調子が狂ってしまった。

いつもながら難解である。ゆえに、ひじょうに申し訳ないけれども、本稿は氏のコメントに触れないで、話を進めさせていただくことにする。

そうそう、渡辺氏からもコメントが入っている。う〜ん、これは一本取られた、と申し上げておこう。わだっち氏がどうしているか、気になるところではあるが、そんなことをグダグダ書いていると、他人の心配をするよりも自分の心配をせよ、などと言われかねないので、これはこれでおしまい。

さて、本題である。今日は申すまでもなく、前田氏からのコメントを踏まえて書くことになる。
わたくしは守護国家論と上野殿母尼御前御返事に類文と思しき箇所があることを示した上で、けれども、そこには決定的な違いがある、と書いた。
ところが前田氏は、いささかも違いはない、と言うのだ。

煩瑣ではあるが、今一度、御文を紹介しておこう。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。

仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。

守護国家論の続きの御文には、多宝仏のことが出てくるので、興味のある人は確認されるとよいだろう。つまり、説明の順番が違っているだけで、内容的にはいささかの矛盾もない、というのが前田氏の主張するところである。

けれども、わたくしはこの順序の違いこそが一大事だと思っている。

此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。

いわずと知れた法華取要抄である。わたくしはこの御文が頭にこびり付いて離れない。それゆえに、くだんの釈迦・多宝の順序が逆転している御文が気になって仕方がないのである。

上野殿母尼御前御返事には他にも注目すべき御文がたくさんある。以下、一例だけ紹介しておこう。

 抑此の法華経を開いて拝見仕り候へば「如来則ち、衣を以て覆ひたもふ為し。又、他方の現在の諸仏に護念せらるゝことを為ん」等云云。経文の心は・・・釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

ここでは釈迦・多宝が順番どおりになっているが、それはどうでもいいことだ。わたくしが注目したい点は、釈尊自らが法華経の行者を昼夜十二時に守っている、という部分である。

ここで思いっきり飛躍を承知しながら、諸法実相抄の一文を引用したい。

されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にて御坐し候へ。

真偽の問題があるので前田氏には通用しないかもしれないが、わたくしにとってはきわめて重要な御文である。

用の仏とは何か?

この際だから乱暴な表現を使ってしまおう。パシリである。
つまり、妙法蓮華経という本仏に相対する時には、釈迦も多宝もそれほどの差はないのだろう。さらに言えば、いわゆる諸天善神と同じ役割を担っているのだ。昼夜十二時に守らせ給はん・・・とは、まさしくそのことであろう。
このように考えれば、大聖人がその続きの御文において、釈尊と多宝の順序を逆にしたところで、さしたる問題はないわけである。

弘安四年の上野尼御前御返事に象徴的な御文がある。

 やすやすとあわせ給ふべき事候。釈迦仏を御使ひとして、りゃうぜん浄土へまいりあわせ給へ・・・

さすがに前述のパシリは語弊があるにしても、この御文のごとくならば、釈尊が使いの役目を担っていることは否定できないだろう。すると真偽の問題はさておき、この場合は諸法実相抄のごとく、妙法蓮華経が本仏ということになるはずである。


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