2008/12/30

アク禁への遠い道のり  
今朝、のび太氏からコメントが入った。文中、アク禁の道は遠いと書いておられるが、まったくそのとおりである。拙ブログは事実上、アク禁を禁止している。削除も禁止である。
つまり、投稿した文章は消えずに半永久的に残ることになる。少なくともわたくしがブログを続けているうちは、そのままの状態で残されることになる。
これは一種のナリユキマカセではあるけれども、逆に自分にとってもコメント投稿者にとっても、ひじょうに厳しいことでもあるのだ。

その意味で、ウカツな投稿は出来ないものと、各々が心得ていただければと思う。

先日、山門入り口氏の文章には誤字脱字誤変換が多いと書いた。実は二十八日分のコメント欄に寄せられた氏の文章を読むと、誤字ではなくて誤記がある。ここでは具体的に指摘しない。本当ならば自分で気がつかないといけないレベルである。
また、拙ブログは現在、平均すると百有余名の人たちがほぼ毎回閲覧しておられるけれども、おそらくは多くの読者が山門氏の誤記に気がついていることだろう。しかし、誰もそれを指摘するコメントを寄せないのである。
山門氏には、この現実が何を物語るのかを、ぜひ考えてもらいたいと思う。

さて、サイトウ氏のおっしゃるごとく、わたくしの新提言は受け入れられないだろう。それは最初からわかっていたことである。
わたくしは経済オンチであるけれども、単純に商売について考えると、そこには売り上げと利益という二つの指標がある。これを顕正会に当てはめるとわかりやすい。いや、もちろん、わたくしは何も顕正会を商売だと言っているわけではなく、これは顕正会の折伏の実態を考える上で、好都合の譬えなのである。
つまり、顕正会の折伏誓願というのは売り上げ目標みたいなもので、それが達成されたとしても実質的な利益はまた別問題だということなのだ。

顕正会の現状を譬えると、売り上げは上がっているけれども利益が出ない、という感じだと思う。
それを一言で言えば、粉飾だからということになる。入信報告書の偽造があるかどうか、それはまた別問題だとしても、ともかく折伏の内容がひど過ぎる。ゆえに、入信者は名ばかりの入信であって、実質的には定着しない。つまり、ここでは定着が利益の意味に相当するのだ。
さらに言えば、退転者の続出がある。今まで活動していた人がやめてしまえば、損失であり、これもまた利益に影響する。

だから、わたくしとしては顕正会の体質改善が第一ではないか、組織を整理縮小して、いわばリストラして、抜本的に改善しなければダメなのではないか、と思っているのである。

まあ、しかし、これはしょせん理想論であって、現実にはひじょうに難しいことなのだろう。
その理由は、前述の売り上げの譬えに自ずと答えが出ている。ようは今まで二万の売り上げがあったのを七千に下げるとなると激減である。通常の感覚では怖くて出来ないことなのだ。
売り上げが半分以下になってしまって、それで以前よりも利益を上げるということは、単純に考えて難しいことである。もちろん、それがリストラということなのだが、やはり感覚的には無理なのではないかと誰もが思ってしまうところだと思う。

商売の世界では撤退ということがある。廃業という言い方もある。早い話が儲からんから店じまいをしてしまうことである。しかし、顕正会の場合はそうも行かないのだろう。結局、怖くて思い切ったリストラも出来ないし、ましてや撤退することも出来ない。だから今のやり方で突き進むしかないのだろう。

わたくしの提言が受け入れられないのは、まさにこうした事情によるのである。

さて、一信士氏からは久しぶりにコメントを頂戴したわけだが、そこにはわたくしが思っている以上に危険な状態であると書かれている。
確かに、氏とわたくしとでは立場が違うので、考え方に違いがあるのだろう。氏のおっしゃる危険の意味にしても、かなり異なる意味のようである。
ようするに、わたくしは顕正会の折伏のあり方を抜本的に変えるべきだと提言したわけだが、氏に言わせれば枝葉末節のことなのだろう。文中、御本尊問題という言葉が出てくることからしても、それはわかることだ。結局のところ、それが最大の問題であり、根本問題なのだ。そこをクリアしない以上は、他の部分を改善したところで無意味であると、まあ、そういうことになるのだろう。

これについては、まったくそのとおりであって、もはやこれを言われてしまったらもう何も言えないのである。

しかし、サイトウ氏の直近のコメントはなかなかのものである。それは一信士氏へ宛てたものなのだが、そこには「シブトイ」と書かれている。実は先日、わたくしは「泥沼に浮かぶ泥舟」というタイトルを打った。この意味もシブトイということなのだ。

飽和をご存知だろうか?

たとえば水に角砂糖を溶かしていくと、やがて水がドロドロの状態になってそれ以上は角砂糖が溶けなくなるのである。泥舟というのは沈没する運命を示唆する表現であるが、泥沼の中では案外になかなか沈まないのではないか、という意味を込めてタイトルを打ったのである。

さしあたって、サイトウ氏のような人物が存在する限り、顕正会は潰れないに違いない。

2008/12/29

新提言  
各種のサイトを閲覧していると、またしても浅井先生が問題発言をしたらしい。過日の新青年会館での講演で、あと十有余年で三百万、というようなことを言ったらしいのだ。これは後日、顕正新聞に掲載された段階で詳しく取り上げたいと思うが、確かに問題発言である。

わたくしは今となっては古株に属する、会員歴としてはいちおう二十年選手なので、そう言わざるを得ないだろう。けれども御遺命守護の戦いを直接は知らない。ゆえに宗門などで過去の会長発言として、いろいろと出してくることについては慎重に判断しないといけないと思っている。一種の切り文みたいなことも行なわれているからである。
だが、しかし、「あと十有余年」の場合はまったく違う。わたくし自身が現役会員として、先生の口から発せられる言葉を何度も耳にしているからである。これはひじょうにマズイのではないかと思う。おそらくは十年選手にしてもそうだろう。十年前にも「あと十有余年」と言っていたのだ。それを聞いていれば、今回の会長発言に疑問を感じないはずがないのである。
ゆえに、「あと十有余年」と聞いて本気で頑張ろうと思うのは、入信して数年の初心者ばかりであって、おそらくはそれ以外の、つまりはベテラン会員の大半はしらけているのではないかと思う。

批判者たちに言わせれば、自爆発言ということになる。確かにそうだ。文証顕然だからである。このテイタラクでは、今の段階で先生の指導を聞いて大感激している初心者であっても、たいていは十年持たない。その間に顕正会の実態を、ようは理想と現実との乖離を知ってしまうからである。

もうすぐ顕正新聞の新春号が出来する。

あの最後の面には、毎年恒例として弘通の足跡が掲載されている。グラフに示された、あの見事なまでの上昇曲線は今後どうなるのか、それが興味深い。すでに十有余年で三百万ということは、今までの軌跡から大きく外れてくるのではないかと思われる。依然として上向きではあるものの、その上昇角度が著しく変化して、ムード的には誰の目にも凋落傾向のように映るはずである。もし、それでもなお掲載し続けるならば、それはそれで立派なことだと思うが、さてどうなることやら・・・

 今法戦に班長職を拝命した○○班長は、(中略)現在十二名のご奉公が叶っております。結集においても誓願式以前は長一人であったのが、先の仙台会館改築御入仏式ビデオ放映には、七名の結集を叶えるまでに成長しております。

少し前の顕正新聞であるが、第1120号六面に載る十月度班長会における男子部支隊長の活動報告から引用した。

顕正会の事情に詳しくない人のために説明を加えると、十二名のご奉公というのは折伏で十二人を入信せしめたことを意味する。長一人というのは、ようするに班長でありながら班員がいない状態を示している。
この活動報告は、もちろん顕正会の中ではいい話であり、模範となるべき事例である。長一人の戦いに終始している人にとっては羨ましい限りの話である。
だが、しかし、一般的な視野で見つめると、おかしな話であることに気がつくはずであるし、顕正会員も気がつくべきなのである。

簡単な話だ。十二名の入信者がいて、どうして七名の結集しかできないのか、これが問題である。ようはデタラメな折伏をやっているからだ。

またしても顕正会の事情に疎い人に説明しておくが、ビデオ放映というのは日本全国に会場があって、数日間に分散して行なわれる集会のことである。ようするに、集会の本番は一回限りであるが、それをビデオに録画して全国の各会場で繰り返し放映するわけである。
つまり、参加する意志があれば、よほど特殊な事情がない限りは誰もが参加することが可能なのである。たとえば、火曜日の午前中に放映時間を設けている会場がたくさんあるけれども、これなどは理容店や飲食店などに従事している人を想定してのことである。
ゆえに、仕事が忙しくて参加できないというのは、単なる口実であって、本当は行きたくないのだろう。ましてや入信したくなかったのに、ムリヤリ入信させられてしまったというような人は、二度と会館には近づかないはずである。

顕正会の折伏のあり方を抜本的に変えないといけない。

十年前には一千万を言っていた。それがいつの間にか三百万に変わってしまった。いわゆる下方修正である。

わたくしは思う。だったら折伏誓願も下方修正したらどうかと。たとえば、本年の最終法戦では二万名を目標として、結果的にそれを大きく突破したと報じられている。しかし、現実にはその中にデタラメな折伏がたくさん含まれているのだ。ゆえに、一千万が三百万になったのと同様に、誓願を二万ではなくて七千にすればいいと思う。これならばデタラメな折伏が相当に減るはずである。

これは名案だと思うのだが、どうだろうか?

2008/12/28

めざせ、アク禁第一号  
本年もいよいよ押し迫ってきたが、拙ブログは年末年始も特に変わりなく、いつもと同じ調子で書いていくのみである。

ずるい

中途半端

人に厳しく、自分に甘く


これらは前回のコメント欄において、山門入り口氏とのび太氏が記した言葉であるが、すべてわたくしに対する評価である。

これについては特に抗弁するつもりはなく、むしろ感謝申し上げたいくらいに思っている。普通は相手を傷つけまいと思って、あるいは逆ギレされても迷惑なので、遠慮して言わないものなのである。ところが二氏はハッキリと言って下さった。だから、ひじょうにありがたいことなのである。

そこにフォローをかねてのことだろう、サイトウ氏からのコメントが入った。

もはや伏せ字に関しては何も言うことはないので繰り返さないが、広布御供養についての質問があったので答えておきたい。
わたくしは平成十六年の秋以降、まったく活動していない。よって、広布御供養もそれ以降は一切していない。こうして独白をしているだけである。
今思えば、選択肢としてあの段階で正式に脱会するべきだったかもしれない。まさに、山門入り口氏の指摘する中途半端とはそこを指すのだろう、ゆえにあの時に脱会していれば今頃になって中途半端だのズルイだのと言われることもなかったのである。

もちろん、今から脱会する手もある。

しかし、おそらくはこのまま突き進むことになるだろう。悪く言えば、単なるナリユキマカセであり、安逸を貪っているだけのことなのかもしれないが、しかし、存在価値がまったくないわけでもないだろうと思っている。

というのは、わたくしは何ものび太氏や山門氏にイチャモンをつけているだけでなく、顕正新聞の表記の問題でもいろいろイチャモンをつけている。それが多少なりとも影響力を発揮しているというか、効を奏しているようにも感じられるのである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1005.html

これは本年初頭に書いたものである。ここに「美事」について書いてあるが、現代国語では「見事」が一般的である。ところが顕正会では前者を多用する。浅井先生が好んで使うものだから、幹部はそれをマネするわけである。
ところが最近の顕正新聞を眺めていると、幹部の文章では「見事」が使われている場合が多いように感じるのである。
これなどは、単なるウヌボレかもしれないが、もしかしたら拙ブログを参考にして表記を改めているのではないかとも思えるのである。

仏法と申すは道理である。つまり、牽強付会であるとか、ごり押しのようなことは通用しない。一時的な感情であるとか勢いに任せて、無理を押し通せば失敗するのだ。

同様の意味で、広布御供養も無理は禁物である。浅井先生は未曾有の不況出来に鑑みてのことだろう、とりわけ本年の広布御供養は会員に無理をしてはいけないと言っているごとくである。それにもかかわらず、現場においては無理がまかり通っているらしいことがサイトウ氏のコメントから垣間見えるのだ。

事態は深刻だ。会員数の問題もしかり、名目上の成長と現実との乖離は、破綻を招くだけである。

もし本部のほうで拙ブログをチェックしているのであれば、いっそのこと先生にも読ませてほしいものだ。

2008/12/25

泥沼に浮かぶ泥舟  
前々回の話題は、わたくしの中ではすでに完結していることなのであるが、その後もコメントが寄せられているので、簡単に触れておきたい。

およそ一年前の顕正新聞に次の文章が載っている。

http://white.ap.teacup.com/ganko/917.html

誤植の訂正記事である。

世の中には謝るのが苦手というか、謝るべきが筋なのに謝らないというような人物がいる。おそらくはプライドの高い人たちなのだろう、どこにでも必ずいるものだ。
わたくしは案外(?)に、わりとすぐに謝るタイプである。けれども経験上、一種のフリーズ状態とでも表現するべきだろうか、いちばん肝心な場面で素直に謝罪の言葉が出てこなかったこともある。いわんやプライドの高い人であれば、なおさらのことであろう。

おそらく、ここまでの文章では何を言わんとしているのか、わからないに違いない。それでは、次に、およそ三年半前の顕正新聞をご覧に入れよう。

冥姦講の頭目、大臭滓男

この文章は原文どおりではないのだが、漢字の表記そのものは原文を忠実に写し取ったものである。

おわかりだろうか、これは誤植ではなくて、ワザとこのような当て字を入れて、相手を愚弄しているわけである。ゆえに、顕正新聞の編集部に対して、誤植だから訂正記事を出せと迫ったところで、彼らには訂正する気はさらさらないのである。

わたくしが言っているのはこの一点だけなのだ。伏せ字を使って、顕○会などと書く必要がどこにあるのか、堂々と顕正会と書けばいいではないか、とわたくしは言いたかった。それを受けて、承知した、今後は伏せ字を使わずに書く、というのも一つの選択肢としてあるわけだが、どうやらそのつもりはないようなのである。
つまりはワザとやっている。確信犯的に行なっていることなのだ。
だったら、何も言うことはない。ああ、そうですか、では勝手にどうぞ、というのが結論である。

誤解のないように付言しておくが、今回のやりとりにおいては意識が分裂しているというか、議論が二重構造になっているので、そこに錯覚が生じるのだと思う。
つまり、わたくしは顕正会擁護であり、その相手の人たちは顕正会批判という錯覚があるのだ。わたくしは顕正会批判の立場にいる。けれども、批判するに当たってはそれなりの節度が必要であろう、ということを言っているわけである。
ところが錯覚が生じる。議論をしていて意見が合わないと、それがすぐさま擁護と批判という対立軸のごとくに考えてしまう。それが錯覚なのである。

なお、妙観講の大草一男氏は前掲の記事を名誉毀損であるとして訴えを起こし、先般、その裁判の結果が出た。これはすでに多くの人の知るところである。
逆にこのことを教訓に考えると、伏せ字というのは危険回避の意味があるようにも感じられるところだが、どうだろうか?
もし、そうだとしたら、これをわたくしは姑息だと言いたいのである。

結論として、そのような表記法は好ましくない、かえって書いている人のほうがアヤシイ人のようにも思われかねない、ということなのである。それを承知で書いているとすれば、もう何も言うことはないのである。

ところで前回のコメント欄では、水無月氏が顕正会短信の情報をベースにして、

入信報告書の偽造以外に理由はない。

と書いておられる。

これはやや短絡的な結論のように感じられるところだ。

わたくしはよく知らないのだが、顕正会では死亡者も脱会者もカウントしたままだと巷間言われている。はたしてそのとおりなのだろうか? この根拠はどこにあるのだろうか?
まずはここから詰めないといけないだろう。可能性として、死亡者と脱会者と除名者を総会員数から引いていることがないとも限らないし、絶対にないとは言い切れないと思う。そう考えたほうが逆に顕正会短信の指摘している数字の信憑性が高まるのではないか、わりと現実味のある数字のようにも感じられるのではないか、と思うのである。
儀礼室のメンバーは現在五人だと思われるが、以前は六人だったこともある。これは最悪の場合、一日に葬儀が六件重なる可能性を示唆するわけで、確率論ではどのように計算するべきかわからないけれども、一年間毎日六件の葬儀があったとすれば、相当の人数になる。もちろん、一件もない日のほうが圧倒的に多いはずで、ゆえに平均値をどうやって出すべきか、わたくしには皆目見当がつかないけれども、ともかく顕正会員の死亡者もそれなりの人数が考えられるところである。
除名者はまったく想像がつかないが、それなりに存在するだろう。これは文字どおり除名なのだから、カウントから外しているはずである。
そして脱会者であるが、もしかしたら文書による脱会届の場合、いちおう総会員数から除いているのではないか、という気がしないでもないのである。

以上はすべて推測に過ぎないが、ともかく可能性はいろいろあるわけで、一つに限定されるものではないだろう。

もちろん、水無月氏の言うように報告書偽造も考えられる。
しかし、不思議な話だ。なぜならば、これは案外に顕正会の真面目さを証明するデータとも受け取れるからで、それを謀略情報紙では気がついていないのか、それとも公平を期しているのか、そこが微妙なところである。
ようするに、顕正会では報告書偽造を認めていない、発覚した場合には破棄する、会員数のカウントからも外す、ということを顕正会短信は教えてくれているのである。

ちなみに、顕正会短信の文中には、泥舟といった表現も見られる。言葉は悪いけれども、確かに核心を突いていると思う。

2008/12/22

上昇ムードは演出なのか?  
山門入り口氏に関する話題は決着がついた。本人が確信犯の犯行であると言っているのだから、それが結論である。もはや、わたくしがとやかく言うべきことではないし、言ったところでどうにもならないだろう。

水無月氏のコメントは誤解に満ちている。しかし、矛盾するようであるが、ひじょうにありがたいコメントである。なぜならば、こうした誤解を招くのには必ずそれなりの原因があるからで、その原因を追求することによって今まで見えなかったことが見えてくるからである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/614.html

古い拙稿であるが、ここに詐欺師とほぼ同義のことが書かれている。ゆえに、浅井先生を詐欺師呼ばわりされるのが気に障る、ということはまったくの誤解であり、水無月氏の偏見ないし先入観がそのように思わせていることではないか、と言いたいところだ。
まあ、しかし、これは以前にも何度か書いていると思うが、自分で言う分には気にならないけど他人から言われると腹が立つ、というような心理が幾分かはあるかもしれない。であれば、まさに水無月氏はそこを指摘しているのだろう。

入信報告書大量偽造・・・

本部了承・・・


これは文脈上、無理な目標設定をしているといずれは本部了承のもとで入信報告書の大量偽造をせざるを得なくなる、というように読めるのだが、あるいは現時点においてもそのような傾向があることを含意しているのだろうか?
つまり、本部了承はさすがにないにしても、本部が黙認する形で入信報告書の偽造が行なわれている可能性である。もし、これが事実だとしたら、もはや顕正会は黄色信号を通り越して赤信号が点滅している状況と言わねばならないだろう。
何しろ本年は百三十万を突破した。しかも最終法戦において、二万有余の大折伏がなされた。これはいわゆる上昇ムードに乗っている状況であり、来年はさらなる飛躍が予想されるところなのである。
ところが、それらがすべて虚飾であったならば、最悪である。会員たちは上昇ムードに酔いしれている。けれども現実には崩壊の一途をたどっていることになるのだ。かつて先生は日本の状況をタイタニックになぞらえていたけれども、顕正会こそがタイタニック的状況と言わねばならないだろう。

ここで一つ、おそらくは創価学会員や法華講員が見落としているだろう点を書いておきたい。

ネット上における顕正会のイメージは最悪である。しかも教義上の問題では完全に負けてしまっている。わたくしのようなダメ顕は論外であるが、いわゆる正統派の顕正会員がまったく出てこない。早い話が勝ち目がないから出ようにも出られないのだ。
このイメージが先行してしまっているためだろう。もはや顕正会は「死に体」だと思われているのだ。
ところが現実にはそうでもないのではないか、という一面も垣間見えるのである。どういうことかと言うと、ここ十数年の間の創価学会と法華講の状況は、いわゆる脱講運動だとか脱会運動に血道を上げてきたように見える。では、その間、顕正会はいったい何をやっていたかと言えば、折伏である。そのターゲットは一般大衆なのである。
一般人はほとんどの人が日蓮正宗などという宗派の存在を知らない。創価学会は名前くらいは誰もが知っているだろうが、その中身まで詳しく知っている人はあまりいない。そういう人たちが顕正会に入信しているのである。その人たちの立場になって考えてみれば、わかるだろう。
つまり、ベテランの創価学会員や法華講員の感覚で推し量ったら、それこそ大間違いをすることになる。正宗や創価学会のことをよく知らない人が顕正会に入るということは、裏を返せば、ネット上において顕正会が劣勢であることなど、まったく関知しない人たちが入ってくることなのである。

もちろん、いずれはネット上のことも知る時が来るだろうし、顕正会の組織上のさまざまの矛盾などにも気がつく時が来るだろう。そして、いつも同じ結論になってしまうのであるが、顕正会が冨士大石寺を名乗っている以上、会員には大石寺回帰願望が芽生えることになる。

顕正会の首脳にしてみれば、ひじょうにツライところであるが、いずれにしても広く一般大衆を折伏している間は容易につぶれないだろう。だから無理を承知で大きな目標を設定するのである。

けだし、顕正会の内情が危機的であるかどうか、公式発表の数字だけでは何とも言えないところであるが、それらがすべて粉飾決算だとしたら、破綻は近いかもしれない。

2008/12/21

随他意的独白  
久しぶりに水無月氏の来臨をたまわったが、何やらひじょうに辛辣である。結論部分を拝見すると、顕正会を批判するのは顕正会をやめてからにしたらどうだ、というような意味が書かれている。
面白いと思う。なぜならば、これは顕正会員の気持ちを代弁しているような構図になっているからである。
氏の言わんとしていることは、わからなくもない。だが、別にやめてからじゃなきゃ批判をしてはいけないというルールがあるわけではないし、現に創価学会の中にも同様の人たちがいるので、わたくしだけが責められる筋合いでもないと思う。
まあ、おそらくは目立つのだろう。顕正会は小さな団体(?)であり、ネット上で活躍している人があまりいないので、その意味でわたくしは目立つ存在なのだと思う。ゆえに、今後もブログを続ける限りは、さまざまの批判が寄せられて当然だし、それを覚悟しなければいけないのだ。

さて、昨日と重複するけれども、再び山門入り口氏に申し上げたい。

私個人では、浅井会長は詐欺師と思ってますが、詐欺師と明言するのも問題があるのではと思うので、伏せているだけです。

わたくしは逆だと思う。伏せ字を使うほうがよほど問題だと言いたいのだ。前後するが、山門氏は次のようにも書いている。

受け手の感覚で見方・捉え方は違ってくると認識してます。

まったくそのとおりだと思う。つまり、わたくしは受け手の感覚を言っているのである。極論すれば、受け手の感覚のほうが優先されるのである。独白のわたくしがここまで言うのだから、それを考えてほしいと思う。
山門氏の文章には誤字脱字が多い。より顕著なのが誤変換である。わたくしはこれをすごく気にしているのであるが、あまりにも多いので一々指摘するのも面倒である。実は伏せ字の問題はこの同一線上にあるのではないかと思った。ゆえに誤字を一々あげつらうよりはわかりやすいと思ったのだ。
のび太氏の伏せ字は、いわば確信犯的手法であることがわかった。ゆえに昨日、これ以上は何も言わない、と書いたのだ。けれども山門氏の場合は、明言すると問題があるから伏せ字にした、と綴っているので、それは違うだろうと言いたいのである。

繰り返しになるが、受け手がどのように感じるか、それが重要なのである。昨日書いたごとく、それは卑猥な感じ、あるいは姑息に感じられるのだ。
もっと噛み砕いて書こう。顕正会員があれを読むとどう感じるかである。誰が読んだって、すぐに詐欺師だとわかるだろう。伏せ字の意味がないのだ。
たとえば、わたくしは顕正新聞に載る個人名は大幹部を除いて、すべて伏せ字にしている。仮に石山巌虎という名前の班長がいたとすると、○○○○班長と書いている。山門氏の場合は、これを石山○虎班長と書いているようなものなのだ。わかるだろうか?
つまり、伏せ字にするにしても、プライバシー保護のために完全に伏せ字にするのと、一部だけを伏せ字にするのでは意味が違ってくるのである。同様の意味で、詐欺師を○欺師と書こうが詐○師と書こうが、前後の文章からは容易に詐欺師と推測することができる。これは顕正会員の神経を逆撫でする行為である。

ゆえに、それを意図して、ワザとやっているのであれば、もはや何も言うことはないのである。しかし、そうではないと言うのであれば、こうした表記の方法は好ましくないのではないか、ということなのである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/391.html

かなり昔の拙稿であるが、基本的な考え方は変わっていない。

2008/12/20

移転先からの第一回投稿  
山門入り口氏に対しては、失礼な言葉を投げ掛けてしまったわけであるが、わたくしの思うに、氏はネット上における顕正会批判の第一人者であるからして、その言動には多くの注目が集まっている、だからこそ文章の些細な表現などにも気を使うべきではないか、ということなのだ。
伏せ字というのは、のび太氏がはからずも示して下さったごとく、卑猥な印象を与えるものだと思う。あるいは姑息のようにも感じられるところである。
ゆえに、一流のジャーナリズムではそういう表現を使わないわけだし、逆に言うと、山門氏はご自身の言論活動の価値を自ら低めてしまっていることにもなりかねないのである。

のび太氏の場合は、摧尊入卑という言葉があるけれども、これは普通、本人としては尊んでいるつもりで実はかえって卑しめている、というような意味が摧尊入卑にはあるのだと思うが、氏の場合は最初から顕正会を卑しめるつもりなのだろう。であれば、もはや何も言うことはない。
おでんの具の話は、おそらく組織論として応用ができるだろう。いろいろな具が混ざり合って味がよくなる。組織だって、いろいろな人材がいてこそ活性化されるのだ。

hage氏のおっしゃることはもっともなことだと思う。

日興上人には二十六箇条の御遺誡があって、その中には遊戯雑談を誡める条目が入っている。その意味において、わたくしは日興門流の失格者である。
ゆえに、いっそのことブログをやめてしまおうとも思ったりするわけだが、何となくダラダラと続けてきてしまったというのが実情である。
けれども、インターネットを最大限有効に活用している人たちもいて、必ずしも信仰活動とネットが相容れないということではないのも事実である。その好例が法華講員たちの活躍である。
おそらくhage氏は直接関係しないので実感がないだろうけれども、近年、ネットを介して法華講員になったという人たちが無数に存在するのである。ようするに、創価学会員や顕正会員が自分たちの間違いに気がつき、日蓮正宗に帰伏しているのである。申すまでもなく、それはネット上で活躍する法華講員たちの存在があればこそであり、言い方を変えれば、法華講員たちはネットの影響力を最大限活用しているということなのだ。

いずれにしても、わたくしの存在はほとんど無意味であり、hage氏のおっしゃるごとく大聖人の御意に適うとはとうてい言えないことだろう。

ちなみに、マグマグ氏はそれを承知しつつも、わたくしをかばって下さっているのだろう。ありがたいことである。
それよりも何よりも野良パンダの話が面白かった。これは富士宮ボーイ掲示板におけるマグマグ氏の投稿なのであるが、どうやら中国では野良パンダが市中を跋扈してして人民が大迷惑しているらしいのである。
日本では野良ネコの繁殖が問題になっているけれども、野良パンダとは驚きである。所変われば品変わるとは、こういう時に使うものなのだろう。

そうそう、法華講員の活躍という話に戻って、ありの金吾氏が数日前に書いた内容がひじょうに素晴らしい。簡潔にして要を得た文章だと思う。

顕正会の敗訴と宗門誹謗

これが表題であるが、ようするに顕正会は妙観講との裁判に負けた、けれども会員にはその事実を隠し、あろうことか宗門誹謗を繰り返している、ということなのだ。

本年四月に日如上人に宛てて諫告書なるものが提出された。この背景には一審敗訴がある。そして十一月度総幹部会においては、宗門を批判する講演があったわけだが、この時には二審の敗訴があったのだ。
敗訴の事実には頬かむりを決め込み、それとは別件で宗門を批判する。さすがにこれはいかがなものかと思う。正々堂々であるならば、いちおう敗訴は敗訴として認めた上で、御遺命守護を主張するべきだろう。

単純な道理を言えば、今はネットを通じてこうした裏事情がすぐにわかってしまう、顕正会員だって馬鹿じゃないから情報収集のためにネットを見ることだってある、すると先生のやっていることが正々堂々ではないことがわかってしまうのだ。つまり、先生のやっていることは墓穴を掘っているだけなのである。バレることが明白だからである。

2008/12/18

現実逃避のブログ  
今度は創価学会員二名からコメントを頂戴した。

マグマグ氏は今、ネット上における創価学会の自界叛逆的状況に頭を悩ましていて、おそらくは収束を図ってのことだろう、富士宮ボーイ掲示板に投稿を重ねている。ところが直近の状況は、どうやら争いの当事者の間に入って、かえって板挟みになってしまっているようにも見えるのである。

これはもちろん、わたくしの勝手な感想に過ぎないわけであるが、拙ブログへのコメントを読むにつけ、当たらずとも遠からずという気がしてならないのだ。

沖浦氏とその反対側にいる人たちの争いは、わたくしの見通しを言えば、解決しないだろうと思う。
純粋な意味での教義上の是非ならば、どちらの立場であっても、自分が間違っていた、との表明をして終わらせることができる。しかし、そこに感情的なものが混ざってくると、そうは簡単に行かないのである。実はこれ、日蓮正宗と創価学会の関係でもそうだし、顕正会の場合も同じなのである。大のオトナが文字どおりオトナゲなくも感情的に対立しているのだ。
かく言うわたくしも、それは似たり寄ったりであって、実生活においてはそれこそヒドイものである。

逆に言うと、現実逃避の世界がこの独白ブログなのだと言えるわけで、独白のスタイルを堅持している限りは平和が続くのだ。ゆえに、マグマグ氏の言う、こちらは安泰、というのは氏の実感であると同時に、まさに核心を突いているところだと思う。

さて、のび太氏からのコメントであるが、まず日一氏のことはよく知らないので何とも言えない。ひと頃は盛んにブログの更新をしていたけれども、今は完全に止まってしまっている。その理由はわからない。
唱題の発音について、顕正会では南無をナムと読んでいるのかとの質問であるが、これははっきりしている。顕正会はナムではなく、ナンなのだ。
それはともかく、なぜに顕正会と書かずに伏字にするのか、逆にそれが不思議であり、はっきり言えば、気に食わないことである。

ついでに言えば、山門入り口氏もまたご自身のブログにおいて、詐欺師と書くべきところを伏字にしてあるのだ。これもひじょうに気に入らないことである。
ようするに、浅井先生を詐欺師だと言いたいわけなのだろうが、それをわざと詐欺師とは書かずに一字だけ伏字にしているのである。
わたくしの思うに、こういう書き方をする山門入り口氏こそが詐欺師なのではないか、と言いたいところだ。

これで拙ブログの安泰も終わりかな?

独白ブログではあるものの、けっこう人に噛み付いたりしている。それでも安泰でいられるのは、正しいことを言っているからである。仮に間違っていた場合には、素直にそれを訂正すればいいのだ。

ある意味、沖浦氏も安泰である。おそらく氏とその反対側の人たちの争いはいつまでも続くだろうけれども、換言すれば、それは沖浦氏がいつまでも元気だという証拠なのである。羨ましいことである。

今日は随身仏の宿題をやっつけようとも思っていたが、なんだか話が脱線してしまったので、これで終わりにしたい。

2008/12/17

顕正会なめり  
コメント投稿者の顔ぶれが激変した。こんなブログもめずらしいことだろう。

正直に言うと、顕正会ネタを書くのはけっこうプレッシャーがある。
なぜならば、わたくしは顕正会から離れてすでに相当の年月が経過しているので、現役会員とは感覚的にずれてきている。それでも顕正会ネタを書けば現役会員の注視を受けることになる。ゆえに、ヘタなことを書けば、すかさずツッコミが入ることにもなりかねない。
だからシンドイのである。

別の理由としては、およそ三年有余にわたって、たいていのことは書いてしまった。だから、もうネタがない、という意味もあるのだ。

いずれにしても書くからには、それなりの創意工夫が必要だ。今日はサイトウ氏のコメントをヒントに書かせていただく。

仏教用語というのは意味が難解であることはもちろんだが、それ以前に読み方が難しい。同じ言葉であっても、宗派によって読み方が違う場合がある。たいていは極端に異なるのではなく、微妙に発音が違っている程度なのだと思うが、今は具体例が思い浮かばない。
さて、顕正会の場合であるが、本来、顕正会は日蓮正宗の信徒団体なのだから、同じ読み方をしていないとおかしい。ところが、いろいろと違っている部分がある。これについては、近年、顕正会から宗門へ移籍する人が多くいて、それらの人たちの証言を読めばよくわかることだ。
その代表例は無間地獄かもしれない。宗門では「ムケン」と発音しているようだが、顕正会では「ムゲン」である。

しかし、これはそれほどの大問題ではないような気がする。なぜならば、宗門の内部においても、読み方が一定していない、もしくはどちらでも構わない、というような用語があると思われるからである。

法華講員として著名な樋田昌志氏は、不軽菩薩を「フギョウ」と発音しているようである。これはどうかと思うのだが、なんと平成新編の日妙聖人御書には、そのようにルビが振ってあるのだ。では、正宗の人は全員がそのように発音しているかといえば、それは違うだろう。ようするに、どちらでもいいということなのだ。

日本語の難しさの例として、一匹二匹三匹というのがある。これは、ピキ・ヒキ・ビキと変化するわけで、われわれ日本人は感覚的に身についてしまっているけれども、外国人が日本語を覚えるとなると、これがけっこうシンドイはずである。
同様の意味において、仏教用語は印度由来の言葉もあれば、中国でのいわゆる漢訳の段階で生じた言葉もあるだろうし、あるいは日本に来てから派生した用語もあるだろうし、それらが複雑に絡み合っているのだから、読み方一つ取っても簡単なわけがないのだ。
そういうわけで、ムケンとムゲンくらいの違いは大した問題ではないと思う。

それにしても、顕正会から正宗へ帰伏した人たちが共通して言っていることは、御題目の唱え方の違いである。これは今までの話と同じというわけには行かないだろう。かなり重要な問題である。

法門申さるべき様の事に、「京なめり」という言葉が出てくる。これが今日の表題に結びつくわけだが、ご存知のようにこの御書は三位房に与えられた御指南であり、内容的には常になく厳しいものである。大聖人が三位房を思い切り叱りつけている様子がよくわかる御文だと思う。
誰もが承知していることだろうが、これは何も大聖人が京風の言葉を嫌いだから、それで三位房を叱責しているわけではなく、弟子の慢心を戒める意味がある。この件に関しては背景を含めて、わたくしは次のような説明の仕方がわかりやすいのではないかと思う。

三位房は秀才だった。大聖人から教わることなど何もないくらいに思っていたかもしれない。こういうタイプの人は、大聖人の御内証など知る由もないし、感じ取ることができないのだ。ゆえに三位房は、大聖人を法華経信奉者の先輩格くらいに思っていたかもしれない。だとすれば、いつかは追い抜いてやろうとチャンスをうかがっていただろうし、その意味でも自身の売り込みに躍起になっていたのだろう。それが京都での行動にあらわれているのだ。

定んでことばつき音なんども京なめりになりたるらん。

この一文だけでなく、この前後を拝すると、大聖人の凄まじい御気迫を感じてならない。弟子に対する叱責とはいえ、ここまでの激しさは他の御書に類例を見ないのではないかと思う。
それはともかく、上掲の一文は誤読の可能性があるやも知れない。先ほども書いたごとく、大聖人は京言葉が嫌いだった、というような誤解である。もちろん、大聖人を信仰している人にそのような誤解はないだろうけれども、ここでのポイントは次のごとくだと思う。
どれほど理性的な人であっても、あるいは不動の信念を持っている人であっても、知らず知らずのうちには何かしらの影響を受けてしまっている、ということだ。
三位房よ、オマエは気がついていないかもしれないが、ハタから見ればずいぶんと京風に染まってしまっているぞ、京風が悪いというのではない、しょせん凡夫というのは知らず知らずのうちに悪縁に引かれてしまうことの例を言っているのだ。

ひじょうに示唆的であると思う。いろいろなことに当てはまる話ではあるが、わたくしは浅井先生に言いたい。先生は一貫不変を主張している。おそらく本人はそのつもりなのだろう。けれども、しょせんは凡夫である。やはり長い歳月のうちには、徐々にではあっても、変化せざるを得ないのである。この現実だけは素直に認めるべきだと思う。

2008/12/15

顕正新聞第1121号を中心に  
ひと頃は顕正新聞の話題をほとんど毎号のように取り上げていたけれども、ここ最近はとんとご無沙汰である。その直接的な理由はご存知のごとく、教義上の論争に時間を取られていたからである。もし、これがなかったら、おそらくは顕正新聞のことを書いていただろう。

だが、しかし、卒業というわけではないけれども、今はもう、顕正新聞に対する興味が薄れてきて、積極的に書きたいという衝動には駆られなくなってしまったのである。

たとえば、顕正新聞第1121号の五面右側の記事は、入信から一年半ほどの婦人部組長による体験発表であるが、文中「初めて」と「始めて」が出てくる。いったい、この書き分けは何なのか、どのような違いがあるのか、わたくしにはさっぱりわからない。これを校正ミスだとか誤植と言ってしまえばそれまでだが、何しろ浅井先生が好んで「始めて」を使用するので会員もマネをするわけである。しかし、ハタから見れば、混乱しているだけのように思えて仕方がないのだ。

これを些細なことだと思ったら大間違いだろう。ようするに、どうでもいいことであれば、わざわざ浅井先生のマネをしなくてもいいのである。それを会員はマネする。つまり、一事が万事ということなのだ。こうした些細なことすらマネをするわけだがら、すべてにおいて右に倣えということになる。怖いではないか。

先月、是正協議会がコラムを発表した。そこには浅井先生が首相を「シュソウ」と発音することが書かれている。それをどうやら最近は幹部もマネしているらしいのである。これはアホだと思う。郷に入っては郷に従え、とは言うものの、さすがに限度があるだろう。これだから、洗脳だとかマインドコントロールだとか言われてしまうのである。

同じ新聞の四面左側には正義にめざめての記事がある。昭和三十六年に創価学会に入信したことが書かれているが、その次の文章に疑問を感じた。

初めはビデオ放映や会合にときどき参加するていどの活動・・・

創価学会ではそんな大昔からビデオ放映を行なっていたのだろうか?

そもそもビデオが普及しだしたのは昭和の終わり頃ではなかったかと思う。だからビデオ放映というのは間違いだろう。もしそれに類似する催しがあったとしたら、おそらくは映写機だったはずである。であれば、単なる表現の間違いであって、内容的には事実ということになるわけだが・・・

それにしても思う。なるほど創価学会というのは先進性がある。そんな時代から映像を武器にしていたとすれば、それが創価学会の飛躍の一因だったかもしれない。

そうすると顕正会のビデオ放映は、彼らのマネをしているようなものなのだろうか?

悪いことばっかり書くと不公平なので、少しいいところも探してみよう。同じ新聞のいちばん最後にはコラムがあって、納豆の写真が載っている。う〜ん、ウマそうだ。

一面も取り上げておこう。広島会館の記事である。わたくしは下段の四枚の写真のうち、左上の一枚がなかなかいいと思った。キャプションには次のごとくある。

式後、別室で婦人部幹部を激励される先生。室内には嗚咽が満ちた

嗚咽というのが気に入らないけれども、写真はいいと思う。ようする、集会室と呼ばれる部屋なのだろう、そこで先生と婦人部員たちが向き合っているわけであるが、それがいわゆる膝詰めの語り合いの図になっているのである。これは顕正会の中ではわりと当たり前の構図であって、全国各地の会館・事務所において先輩が後輩に指導している姿がこれなのである。しかし、浅井先生の場合は別格で、いつも一段高いところにいて、先生が会員たちと膝を交えることなど、常にはあり得ないことなのである。

顕正新聞を持っていない人には恐縮であるが、ともかくいい写真だと思った。


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