2008/12/6

曲会私情に気をつけよう  
わたくしは前回、二項目の質問を書いた。これに対して前田氏から、情熱みなぎるコメントを頂戴した。

「教主釈尊」なのか「本門の教主釈尊」なのか「始成仏と法華経」のことなのか「久成仏と法華経」についてのお話なのかを見極めてみてください。

煩瑣になるので、ごく一部分だけの引用にとどめるが、これに他意はない。

ようするに、御書の中には釈尊のことがいろいろの表現で説かれている。ゆえに、前田氏は上掲のごとく、ちゃんと見極めなければいけない、というふうに言っておられるのだ。
はっきり言って、質問の答えにはなっていない。前田氏は御書の名前をいくつか列挙して、それらに出てくる仏をことごとく始成仏であると断定したのだ。それを受けてわたくしは次の稿を書いた。

http://diary.jp.aol.com/ganko/1204.html

リンク先には何が書かれているかというと、自分の引用した御書に出てくる仏が何を意味するのか、ようは始成仏なのか久成仏なのか、それを検証してみたのである。つまり、わたくしはわたくしの責任において、始成仏ではなく、むしろ久成仏であるとするべき理由を述べたのだった。
前田氏はその後、久成仏だの始成仏だのをあまり言わなくなった。ゆえに、事実上の撤回かと問うたわけであるが、そうではないと言う。であれば、氏が列挙した御書について、そのことごとくが久成仏ではなく始成仏であることを立証しなければならない。

「教主釈尊」と「本門の教主釈尊」の違いをはっきり立て分けて御書を読まないと「教主釈尊の本師」と「本門の教主釈尊の本師」
即ち本迹が混同してしまいます。

「本門の教主釈尊の本師は法華経」と言う御書が果たして存在すると思いますか?


まったく、わかっておらない。

わたくしは上掲のリンク先において、百歩譲るつもりで、兄弟抄における教主釈尊は始成仏とも久成仏とも断定できないと見るのが公平ではないか、という意味を書いた。
おそらくは読者の大半が、容易に理解できることだろう。前田氏の言っていることは逆の立場でも言えてしまうことなのである。
次に例文を示すが、ほとんど蛇足の世界である。

「迹門の教主釈尊の本師は法華経」と言う御書が果たして存在すると思いますか?

ちなみに、そのままの御書は存在しないが、当然ながら意味合いとしてはこれに近いものがいくつかあると思う。むしろ、これは前田氏が得意になって挙げてくるところだろう。
だが、わたくしが引用したのは兄弟抄であり、そこには本門とも迹門とも書かれていないのである。ゆえに、それをどうやって見極めるのか、そこがはっきりしない以上、本門の教主釈尊の本師は法華経という御書が存在するのか、などと問うことは無意味である。

さて、ここで二つ目の質問に移るが、仏は法の母という御書があるのかどうか、どうやら無いということのようである。

前田氏はいくつか御書を引用しているけれども、すべて不可である。皮肉にも、本門の教主釈尊の本師が法華経だという御書があるのか、と書いたことがアダとなってしまっていることに気がつかないといけない。

あるいは少々イジワルに聞こえるかもしれないが、そうではないのである。前回、論理は単純明快でなければならない、と書いた。わたくしの言い分は次のごとくである。

諸仏の師は法である。これは涅槃経の言葉であるが、いくつかの御書に出てくる。当然ながら、大聖人は肯定引用をあそばしている。
つまり、「諸仏の師は法」という端的な表現に対抗し得る文証があるのかどうか、なのである。
もし、「仏は法の母」という文証があれば、相当だと思う。ところが前田氏はそれを出せなかった。いくつか御書を引用しているものの、ひじょうに複雑な論理展開になっていて、言わんとしていることがよくわからないのだ。
もちろん、ぜんぜん理解できないというわけではないけれども、整理整頓ができていないという印象が拭えないところである。

さて、今日もまた、質問を書いておこう。いよいよ本尊問答抄である。

 問うて云はく、然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。

ここでの釈迦は始成仏なのか、それとも久成仏なのか、お答え願いたい。

なお、わたくしは引っかけ問題みたいなことをするつもりはないので、あらかじめ正解を書いておきたい。すなわち久成仏である。

これを始成仏だと主張するのは、かなりの無理があると思うのだが・・・


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