2009/1/28

なぜ顕正会は功徳を失ったか?  
未明に現役隊長を名乗る人物からコメントが寄せられた。もしこれが本物の現役隊長だとしたら、これほど貴重な投稿もないだろう。本部首脳は心して読むべきである。

4者連合軍で老若男性3万人の結集は成るものの、問題はそのあとだと思う。
結集人数は大本営発表でごまかせるが、その後の折伏法戦で、果たして男子部のスケールが変わるか否か。
9月10月11月を括った秋の法戦は、おそらく結集に結びつける為の折伏が突出する男子部がそれなりの成果をみせるだろう。だが無理に無理を重ねた祭りのあとを襲う『虚無感』が怖い。来年の法戦が女子部にかなわないとき、大会の意義が問われる。
まして3万人結集の席で、10万人結集の時期決定がなされるとしたら、もはや組織はもたない。もう無理は効かない。


さすが現役の隊長を名乗るだけあって、的確なコメントである。
ようするに、先生の掲げる目標というのは、そこがゴールではなくて次のステージへの出発点なのだ。だから今夏の大会では、いつものごとく何かしら新しい目標が大仰に掲げられるのではないかと予想されるわけである。それを現役隊長氏は、十万結集のことではないかと書いておられるわけだが、それは確かにキツイことである。
現実的な目標を掲げるのであれば、次は五万人規模の大会を目指すくらいが妥当であろう。それくらいならば会場もそちこちに存在するので、可能だと思う。
しかし、問題は男子部にそこまでの余力(?)があるのかどうか、そこが疑問である。

現役隊長氏はそのバロメータとして、秋の折伏法戦をあげておられる。つまり、夏の大会で三万結集が実現したとして、それがゴールではなく新たなスタートになるわけだから、本当ならばその三万人の総力をもってして秋の戦いに打って出れば相当の成果が期待できる。しかし、現実には大会直後の戦いゆえに結果を出さないといけないという至上命令みたいなものがあって、尻を叩かれながらの戦いになるのだ。結局、その無理がたたって、もはや来年は惨憺たる状況になるだろうと、このように氏は予測しているわけである。

現役の隊長が拙ブログにコメントを寄せて下さるとは驚きである。しかもその冷静な分析力にはさらに驚かされたものである。現役会員の中にも正気の人がいるのだな、と言ったら失礼であるが、かくも的確な状況分析ができる人がいるとは意外である。いや、逆に内部にいるからこそ、顕正会の実情を正確に認識できるのかもしれない。外側からトンチンカンな批判をしている人とはエライ違いである。

なぜ顕正会はダメになってしまったか?

氏は女子部との比較において、男子部のダメさ加減を書いておられるようであるが、わたくしは顕正会の全体的傾向として、凋落の気味が感じられてならないのである。
顕正会では今どのような折伏が行なわれているのか、わたくしはよく知らないけれども、かつては信心をすると福運と生命力が増してくるというような説明がなされていたと思う。もしこの説明が本当だったならば、退転者などはあり得ないのではないかと思う。もはや顕正会には功徳がない、俗に言うゴリヤクがない、だからこそ多くの人が組織から去っていくのではないかと、このように考えるのが自然ではないかと思う。
おそらく法華講員に言わせれば、それはニセ本尊だからだ、ということになるだろう。もちろん、その可能性もあるけれども、直接的な因果関係はやや異なるような気がする。ニセ本尊が取り沙汰されるようになったのは、ここ十年くらいだと思われるが、顕正会における本尊作製はもっと前から行なわれていたと考えられるのだ。しかし、顕正会そのものはそれなりに伸びていた。
ゆえに、わたくしは日顕上人への誹謗がもっとも直接的な近因とも言うべきものであろうと思う。いわゆる三宝誹謗である。この皮切りが平成十一年の御相承断絶発言であり、五年後にはついに上人を呼び捨てるほどの暴挙に出た。

早い話がこれで顕正会は功徳を失ってしまったのではないかと思うのだ。

もし、わたくしの見方が正しいとしたら、今後は顕正会がどれほど足掻こうとも凋落の一途をたどるしかないはずである。顕正会では大聖人の仏法を絶対であると言い切っている。まさに絶対なのである。

三宝誹謗の罰がかくも顕著に出たという意味において、顕正会は歴史によき教訓を残すことになるだろう。

2009/1/25

三万結集が生む歪み  
今日は諸氏のコメントを拝見して思ったことを書く。

のび太氏は話の運びがうまい。足抜け(脱会)するのに一苦労との意味において、ヤクザも顕正会も同じだと言いたいらしいのだ。これは返す言葉もない。事実だから、どうしようもない。
もう一つのコメントもまた、なかなか巧みな論の運びである。顕正会の教条主義を批判すると同時に、創価学会の良さをさりげなくアピールしているところが心憎い。
しかし、どうなのだろうか、一説によると今度の総選挙は自公の大敗が予想されており、下野確実との見方もある。わたくしの思うに創価学会といえども永久に不滅とは言えないだろうから、本年はその意味で正念場を迎えているようにも感じられるところである。もちろん、顕正会も男子三万の大結集があって、まさにそれが正念場なのであるが、いずれにしても教義解釈というものはそうした現証と一旦は切り離して論ずるべきことであろう。
そうすると、戒壇論一つ取っても決して単純なものではなく、なかなか結論が出ないのではないかと思う。たとえば、日蓮宗の人と議論すれば、日蓮本仏か釈迦本仏かの論争になって、これがなかなかどうして簡単には結論が出ないのである。おそらくこれは、創価学会と顕正会の戒壇論議にも当てはまることだろう。

しかし、これはまた別の機会に譲るとして、次に譲二氏のコメントを拝見して思った。

本当のところは、先生は非常に困っているのだと思う。もはや凡夫の力ではどうにもならない。

これが全文であるが、短い中にもひじょうに含蓄があると思う。
まず、先生が困っているという意味は、次から次へと逮捕者が出ることについてであろう。以前ならば不当逮捕であるとして、総幹部会などの場において警察を糾弾すると同時に、その背後の謀略組織を痛烈に批判するような、まことに勇ましい発言が見られたけれども、今はいわゆるダンマリを決め込んでしまっている状況である。
おそらく今回の逮捕は男子三万結集という目標がその遠因となっているに違いない。結局、入信勤行だけの名ばかりの入信者ばかり増やしても結集にはつながらないわけで、こんな簡単な道理は誰にだってわかることである。ゆえに、単なる折伏の成果だけでなく、夏の男子三万結集につながる戦いをせよ、というような指導がなされていると考えられるのだ。
はっきり言って、実質的には入信後即日退転というケースがたくさんある。マレに興味本位というか、せっかくだから顕正会がどのような団体なのか見させてもらおうということで、数ヶ月ほど体験入学的にビデオ放映だとか集会などに顔を見せる人もいる。もちろん、そこで発心して活動家になる人もいるだろうし、逆に去っていく人もいる。当たり前のことだ。
けれども、上述のごとく即日退転の人が多いものだから、集会への参加を呼び掛けて素直に従う人はものすごく有望な人材のごとくに思えてしまうのである。ましてや夏には大結集が待っている。
こうした背景がわかれば、今回の逮捕者の心情も理解できるはずである。いや、もちろん、理解はしても断じて認めるわけには行かないが、ともかく切羽詰った精神状態に置かれているものだから、相手が脱会したいと申し出れば、もう、それだけでキレてしまうのである。
浅井先生だって、この道理がわからないわけではないだろう。しかし、どうすることもできない。まさに譲二氏の言うごとく、凡夫にはどうすることもできないのだ。

サイトウ氏のコメントに三万結集の日時と会場の変更が書かれている。

ご存知の人も多いと思うが、昨年の八月十八日に船橋アリーナで男子部幹部会が開かれた。その翌日に、のぶりん氏が集会の模様をご自分のブログに綴っていて、なんとそこには本年の三万結集は長野のエムウェーブで行なわれる旨が書かれているのである。
この情報を受けて、さっそく創価学会の謀略情報紙がイヤミな記事を書いた。
ところがどういうわけか、その後、これはガセネタではないかという疑いが持ち上がった。のぶりん氏も没交渉というかネット上ではわたくしの独白以上に孤高の存在なので、謎の人物ということで情報の信憑性に疑問が呈されるようになったのである。
けれども、結果的に上述のごとく、先日の総幹部会で正式に発表されたわけだから、のぶりん氏の情報は正しかったことになる。

その辺の裏事情はよくわからんが、ともかく日時や会場の変更はさしたる問題ではないだろう。実際に三万結集が実現するかどうか、それが注目点である。

2009/1/22

顕正会員へのお年玉  
一月八日分のコメント欄に、「顕正会員脱出中」を名乗る人から寄稿があった。内容もさることながら、わたくしはその名前に感じ入った。とりわけ、その直後には顕正会員逮捕の報道があったので、何かしら不思議な符合を感じた。

というのは、その事件はまさに脱会にまつわるトラブルだからである。つまり、顕正会から脱出しようとしている人と、それを必死に引き止めている人との争いなのだ。当然、これは氷山の一角がたまたま顕在化したわけであって、それこそ全国津々浦々で日常茶飯のごとく起きていることなのだろう。ちょうど拙ブログへのコメントと事件とが重なり合ったことによって、顕正会の問題点の一つがよりいっそう鮮明になった格好である。

山門入り口氏のコメントはわたくしに対する脱会の勧めであり、ありがたいことではあるけれども、今のところは特に申し上げることはない。

hage氏のコメントは、けっこう中身の濃いものであり、傾聴に値するものである。実質的にはサイトの紹介であるが、リンク先を拝見して大いに驚いた。なんと高校三年生の書いた文章なのである。はっきり言って、この人はわたくしよりも遥かにオトナである。

彼らは自分たちの活動は全て神の意志であり、人々のためであるといっているのだ。彼らの言い分に従って解釈するならば、彼らにとって少年に武器を持たせることも、少女を犯すことも神の意志であり、正義なのである。しかし、彼らが本当にそう心から信じているならば、彼らが信じているものは神ではない。死と欲望の悪魔である。神というのは、彼らにとって争いのための口実でしかない。

これはhage氏が引用している部分の少し前に出てくる文章であるが、大いに考えさせられるところである。
もちろん、顕正会員の立場であれば、上掲の記述と顕正会の問題を同一視するのは飛躍であり、牽強付会も甚だしいことだと言いたくなるはずである。顕正会は少年に武器を持たせてもいなければ、少女にみだらなことをしているわけでもないからである。
しかし、程度の差こそあれ、もし顕正会が反社会的な行動を取っているのであれば、まさに同じ構造を有していることになるのではないか、ということなのだ。

文中には「神」が出てくる。これを日蓮大聖人に置き換えて読んでみたらどうだろうか?

あるいは、最後の文章を次のごとく直すと、わかりやすいかもしれない。

御遺命守護というのは、彼らにとって争いのための口実でしかない。

御遺命守護の部分を広宣流布に置き換えてもいいだろう。

さて、今回の逮捕事件の詳細であるが、面倒なので省略してしまおう。もはや、それほど書きたくもないのである。またかよ、もう、いい加減にしてくれよ、というのが本音なのだ。
二つほどポイントがあると思う。一つはいわゆる入信(入会)強要事件ではなく、脱会拒否事件ないし脱会妨害事件とも称するべき内容だということだ。世間の顕正会に対するこれまでのイメージは、強引な勧誘活動によるトラブル続発の団体ということだったと思う。今回の事件もこの延長線上にあることはもちろんであるが、一般人はよりいっそう顕正会に恐怖を感じることになったと思われるのだ。入ったら二度と出られない、まるでアリ地獄のごとき恐怖の団体であると。
もう一つのポイントは、事件の発生から逮捕までの期間がきわめて短いことである。どうやら事件は先月の十六日に起こったらしい。それが今月の二十日には逮捕なのだから、わずか一ヶ月である。この意味はそう難しいことではないだろう。おそらく警察は顕正会の折伏がきわめて違法性の高いものであることを認識して、今後は積極的に逮捕していくつもりなのだと思われる。顕正会の活動会員は覚悟されたい。

もし本事件において、顕正会側が抗戦するとしたら、どうするのか興味深いところであるが、あらかじめ一つ言っておきたいことがある。
創価学会の謀略説がある。具体的には何が謀略なのか、それが問題であるが、たとえば入信者ないし入会者に接近して脱会を促がすことは、けっこう行なわれているようである。いわゆる脱顕運動だ。
これを謀略と言うのであれば、それはそうなのだろう。しかし、早い話がその程度のことで脱会を希望するような人を入信させるからいけないのだ。逆に言うと顕正会に魅力がないから脱会したいわけなのだから、それを創価学会の責めに帰すのは筋違いであり、八つ当たりみたいなものである。
かつて妙信講が解散処分になった時、創価学会では妙信講作戦なるものを立てて講の壊滅を目指していた。けれども潰れなかった。それは妙信講に魅力があったからだろう。もし顕正会に魅力があるのならば、創価学会の脱顕運動ごときで脱会するわけがないのである。
本部の首脳たちはそこのところがわかっておらんのではないかと思う。

最後に、タイトルの意味はあえて言うまでもないけれども、どうもここ数年は毎年のように正月に顕正会員の逮捕報道があるので、まるでお年玉みたいだということなのだ。別案として、浅井先生へのお年玉、も悪くないだろう。

2009/1/15

随身所持の俗難について  
今日は随身仏について書く。と言っても、大したことは書けない。なぜならば、何も知らないからだ。

顕正会では先日、教学試験の五級が行なわれた。その出題範囲は顕正会発行の南無日蓮大聖人という本からであるが、その中に随身仏についての記述が見られる。

 立像を退く

 さらに大聖人は、伊豆御流罪以来つねに傍に置かれていた「釈迦の立像」を「墓所の傍に立て置く可し」(宗祖御遷化記録)と退けられ、御入滅の用意として妙法五字の御本尊を中央に奉掲せしめた。
 この「釈迦の立像」は伊豆御流罪のおり、地頭の伊東朝高が帰依のしるしに、海中より出現した仏像を大聖人に献じたものである。
 大聖人がこれを身を離さず所持されたのは、釈迦の一体仏といえども、大聖人の観見の前には一念三千即自受用の本仏と映じ給うゆえで、我等凡夫が真似をすべきことではない。
 いま御入滅に当ってこの「立像」を退けられたことは、機根未熟の弟子に対して立像への執着を断たしめ、末法正意の本尊が妙法五字の大曼荼羅にあることを、最後に御教示下されたのである。


随身仏という表現は出てこないけれども、これは間違いなく随身仏のことを説明しているくだりである。

この本はもちろん浅井先生が書いたのであるが、問題はこの説明がどこまで通用するか、である。おそらく日蓮宗の側からは異論が出ることだろう。では、日蓮正宗はどうなのか、あるいは正信会だとか創価学会などの正宗系ではどうか、ひじょうに気になるところである。

そもそも、わたくしはこれまで随身仏についてほとんど触れてこなかったけれども、それは御書に記述がほとんど見られないからである。
おそらくは船守弥三郎殿許御書がその唯一の文証ではないかと思われるが、いわゆる真蹟重視の人たちにすれば、この御書は論外ということになるはずである。すると御書のどこにも記述が見られないことになる。
しかし、もちろん宗祖御遷化記録には随身仏のことが書かれているわけだから、その存在を完全に否定することはできない。だったら、御書の中にその痕跡がもっとたくさんあってもいいと思うのだが、いかがだろうか?

つまり、わたくしが言いたいのは、大して重要ではないから御書に残っていない、ということなのだ。

これでオシマイにしてもいいのだが、あまりにも雑過ぎるのでもう少し論じてみよう。
大聖人は佐前の、いわゆる松葉ヶ谷の草庵に御住まいであった頃、いったい何を本尊としていたのか、それが謎である。神国王御書には仏像を本尊としていた旨の御記述がある。それはもちろん釈迦の仏像であるが、問題はこの仏像がいわゆる随身仏のことなのか、それとも別のものなのか、である。
もう一つ、これは佐後になるわけだが、身延の草庵には釈迦の仏像が安置されていたのかどうか、という問題がある。それは忘持経事という御書に、教主釈尊の御宝前、という御記述が出てくるからである。
わたくしの見解を申し上げれば、前者は随身仏のことであろうと思う。それ以外に仏像は存在しなかった。また、後者の場合は随身仏か、もしくは大聖人の御事を比喩的に表現あそばしているのだろうと思う。つまり、教主釈尊の御宝前はイコール日蓮大聖人の御宝前という意味なのだ。ゆえに仏像は存在しない。

理由は単純である。もし、仏像があったのであれば、それもまた御遷化記録に書かれていなければツジツマが合わないからである。そうでなければ、あろうことか釈尊の仏像を隠密裏に処分してしまったことになるわけで、大聖人自らが大謗法(?)を犯したことになってしまうのだ。また、神国王御書を拝すると、あたかも暴徒によって仏像が破却されてしまったかのように受け取ることも可能であるが、これが事実ならばそれこそ大聖人は万死に値するであろう。命に代えても仏像を守るべきだった。ところが後年の御書を拝すると、そのほとんどすべてが、法華経の行者であるところの自分を流罪死罪に処した幕府の傍若無人を責める内容になっているのである。ゆえにもともと仏像はなかったと考えるほうが自然である。

ゆえに仏像についての問題は、最終的には随身仏の一事に掛かってくるのだと思う。

それにしても冒頭の浅井先生の説明は・・・おそらく正宗でも同様の説明がどこかに存在するのだろうと思うが、しかし、じゃっかんの問題を感じるものである。具体的には先生の、大聖人には随身仏が一念三千即自受用の本仏に映じ給うた云々であるが、これは五人所破抄の記述と噛み合わないように思うのである。

五人一同に云はく、先師所持の釈尊は弘長配流の昔より弘安帰寂の日に致るまで随身せり、何ぞ輙く言ふに及ばんや云云。
 日興が云はく、
(中略)随身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。

継子は(ママコ)の意味であろう。寵愛というのは大聖人が随身仏に向けて注ぐ愛情であり、ここでは随身仏を継子であると言っているわけであるから、それを寵愛する大聖人こそが本仏となるはずである。もちろん、これは譬えであって、御本仏の大慈悲に継子・実子の差別はない。
月を待つ片時の蛍光はまさにそのとおりであって、随身仏はいまだ寿量品の釈迦仏の形像にはあらず、という意味になるだろう。

いずれにしても、蛍光はあくまで暫定的なものゆえ、末法万年を視野に入れるならば、あえて御書に残す必要のない事柄である。随身仏の御指南がほとんど存在しないのも当然のことなのだ。

2009/1/11

脱天台宗は予定変更か?  
れん氏より三通のコメントを頂戴したが、中でも以下の文章が秀逸である。

蓮祖は天台宗ないし比叡山の復興を目指されていたのは事実ですが、建治・弘安年間に興師が弘通した駿河で、興師やその門弟が対峙したのは岩本実相寺や四十九院・熱原竜泉寺といった天台宗寺院であったのは看過すべきでなく、熱原法難を頂点とした建治・弘安年間の日蓮門下の天台宗寺院との軋轢に対処する過程で、宗祖に最晩年の弘安年間に脱天台宗の方向に向かわせたのではと拝考します。
その宗祖の最大限の脱天台宗の処置が、上行所伝の五字七字の題目を本尊とすることの表明(本尊問答抄)であり、“不軽菩薩の利益”を修行の行軌とすることの門弟への遺言(諫暁八幡抄)であったものと拝考するものです。


今日はこれをベースに、わたくしなりの意見を書く。

大聖人の御化導を拝すると、弘安元年がある種のターニングポイントのごとくで、大げさに言えば劇的な変化を遂げているようにも感じられるところである。れん氏が挙げている本尊問答抄がまさにその代表格であることは、まず衆目の一致するところであろう。
さらに委細に尋ねていくと、治病大小権実違目が大いに注目される御書のはずで、わたくしは詳しく存じ上げないけれども、どうやらこの時期には御判形にも変化が拝されることのようだ。
ちなみに、わたくしが昨年の議論の中でしばしば引用した日女御前御返事は、治病抄の前日にあらわされたごとくである。

れん氏は、天台宗寺院との軋轢が脱天台宗をもたらした、端折ってしばえば、このような見解を述べておられるわけだが、これは事実に即した考察だけに、確かに説得力がある。
けれども、わたくしは逆の見方も可能なのではないかと思っている。つまり、大聖人は最初から脱天台宗を目指していた。途中までは理由があって天台宗の復興を謳っていたけれども、御晩年においてその必要性がなくなった時点で、いよいよ御本懐の法門を開示あそばした、という見方である。
おそらくは日興上人などの高僧には早い時期から御指南あそばしていたであろうし、潜在的には御書の各所にその片鱗が垣間見える。天台宗寺院との軋轢の理由の一端も、おそらくはそこにあるのだろう。

 されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。

これは開目抄の有名な御文であるけれども、弘安二年の聖人御難事には次のごとくある。

仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩をならべがたし。

おわかりいただけるだろう、開目抄では御謙遜の言葉を添えられているが、後年の聖人御難事では明確に天台伝教を下しているのである。
ちなみに、同様の意味で「仏の大難」云々を拝することができることに気がつくべきである。つまり、大聖人は釈尊に遠慮して明言を避けているものの、言外において、自分は仏を凌駕する大難を受けたのだ、と仰せられているのである。

話を戻して、天台伝教との関係を治病抄に拝してみよう。

止観に三障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時具に起これり。又天台・伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしをまさりたり。一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。

観念だとか観法はよくわからないことであるが、観念観法は智者の行解、という意味の御指南が十章抄にある。すると「観念すでに勝る故に、大難又色まさる」の仰せはたいへんなことである。つまり、大聖人は難の大きさにおいて天台伝教を凌駕しているのではなく、御法門そのものにおいて彼らを超越していることを御宣言あそばしているのである。
ひるがえって既出の開目抄の御指南を拝するならば、智解においては天台伝教に遠く及ばないとの仰せが御謙遜であることがはっきりするはずである。しかも開目抄の時点で、すでに後年のごとき思いを秘めておられたことも確実である。
ましてや主師親の三徳を仰せられるのであるから、なおさらのことである。

これが文永九年であり、弘安元年までは六年有余の時間がある。煩瑣になるので省略するが、そこには天台伝教を凌駕する、ないし、その片鱗を垣間見ることのできる御指南がたくさんある。しかし、前に述べたように、理由があって大聖人は自重しておられた。

その理由とは、おそらくは公場対決であろう。

前回の拙稿で引用した強仁状御返事にしても公場対決についての御書だった。あるいは弘安元年三月の諸人御返事はいかがだろうか?

具体的な御文を挙げないが、どうやらこの時期にも公場対決の話が持ち上がっていたらしいのである。おそらく大聖人は、これを最後の機会だと考えていらしたのだろう。けれども、実現しなかった。ゆえに、この後は今まで公場対決に備えて封印していた御法門を開示して、いよいよ御化導の総仕上げに入られたのだと考えれば、おおむねツジツマが合うのではないかと思う。

われわれには盲点がある。われわれは大聖人を末法の御本仏として拝する。この結論を前提に考えていると見えないことがあるのだ。
考えてもみるがいい。今現在においても日蓮本仏論には異論を唱える人が多い。ましてや大聖人の御在世においてはどうか、なのだ。いわんや公場対決の場においてをや、である。
いかに大聖人といえども、公場対決において御自身の御内証を示して、それで相手を屈伏せしめることは困難なことだと思う。
ゆえに、さしあたっては伝教大師の正統を主張することに専心して、そこを足掛かりにして次のステップを踏むという、いわば戦略があったのだと考えられる。
しかし、公場対決は実現を見なかった。ゆえに、その見切りがついた段階で、最後の御化導に入られたのである。

2009/1/9

「天台宗の御本尊」について  
http://white.ap.teacup.com/ganko/1167.html
http://white.ap.teacup.com/ganko/1170.html

いきなりリンクを貼ったわけだが、これは昨年の夏に書いた文章である。

今、再び前田氏より天台宗の御本尊について、問題提起があった。それで過去の議論を少し拾ってみたわけであるが、何ともお粗末な議論だと思う。
拙稿もそうであるが、失礼ながらコメント投稿者もどうかと思う。議論が膠着しているというか、あまりにも視野が狭くなっているように感じられてならないのだ。
おそらくは閲覧者の中にもそのように感じている人がいただろうし、実際、オマエはレベルが低過ぎる、もういい加減にやめたらどうか、という意味のコメントを寄せる人もいた。

天台宗の御本尊

建治元年の一代五時鶏図に出てくる御文である。

わたくしはこれを、像法時代の本尊であって末法のそれではない、と書いた。しかし、これは短絡的な結論であって、必ずしも正確な説明ではないことに気がつかないといけない。そこで今日はひじょうに妙な具合であるが、自説を破折することにしたい。

われわれには錯覚がある。実は天台宗の言葉に錯覚しているのだ。
当たり前の話だが、大聖人の時代には日蓮宗はなかった。もちろん、日蓮正宗もなかった。つまり、現在の自分たちの尺度で測ってしまうと、天台宗は像法時代の教えであって末法においては去年の暦のごときものである、という意識が働いてしまうのである。
ゆえに、天台宗の御本尊、という表記に眩惑してしまって、おかしなことになっているのである。

まずは法門申さるべき様の事から拝してみよう。

叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏を請じ入れ・・・

いかがだろうか、まさしく天台宗の御本尊である。

これをいわゆる佐前の御書だからとして排除するわけには行かない。なぜならば佐後の御書にも同趣旨の御指南が存するからである。たとえば、次の御輿振御書などは観心本尊抄と同時期であることからしても、その重要性を否定できないと思う。

今末法に当たって日本国計りに叡山有り。三千界の中に但此の処のみ有るか。(中略)山門繁盛の為・・・

顕仏未来記も拝しておきたい。

安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。

つまり、大聖人はいわゆる法華宗の意味で天台宗と仰せになられた可能性が高いのである。すなわち、「天台宗の御本尊」は、「法華宗の御本尊」の意味に他ならないのではないか、という解釈もあって当然なのである。

ところが昨年の八月には誰もそのような指摘をする人がいなかった。いかにも視野狭窄である。ゆえに、お粗末な議論、と書いたのである。

さて、次は建治元年の強仁状御返事である。

日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来、叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き・・・

これでほぼ結論が見えてきたのではないかと思う。一代五時鶏図と同年であることからしても、この重要性は見逃せないところである。
大聖人は叡山の復興を目指していた。真言に与同する慈覚・智証はもちろんのこと、以後の念仏などに与同する悪侶を排斥して、伝教大師の時代に戻すことを目指していた。上掲の御文はそのように拝する以外にないであろう。

さらに後年の四信五品抄にも、次のごとくある。

爰に延暦年中に一の聖人有って此の国に出現せり。所謂伝教大師是なり。

これではっきりしたのではないかと思うが、どうだろうか?

ようするに、天台宗の御本尊は大聖人の正意の御本尊であること、それは像法のそれではなく末法における御本尊である、ということになるのだ。
もちろん、像法と末法との間には画然たる違いがある。それはほぼ同時期の撰時抄や報恩抄に明瞭である。
だが、しかし、いわゆる三国四師の上からは、先師たる伝教大師からの正統な相承者として、末法における弘通の使命を御自覚あそばしていたわけである。
何もこれは大聖人の御指南に矛盾があるということではない。やや面倒な作業ではあるけれども、どのように整理整頓するかという問題なのである。

いずれにしても、天台宗の御本尊は法華宗の御本尊の意味であり、否定されるべきものではない。よって、わたくしが昨夏に論じたことは短絡的な思考による不適切なものだったと言わざるを得ないであろう。

自分で自分を破折するとは、おかしなブログである。

2009/1/8

浅井会長の発言にはもっとえぐいのがありますよ。  
clean-my-mind氏からのコメントであるが、おっしゃることはまったくそのとおりである。
世間の顕正会評をひとくちに言えば、終末論を掲げて人々の不安を煽っている、みたいなことになると思うが、まさにその決定的な文証が会長発言として残されているわけである。
また世間では、これを会長の予言だとして、とりわけ批判勢力では、会長の人類滅亡の予言は見事に外れた、と嘲笑しているわけだ。

エグイの意味はよくわからないけれども、何となく雰囲気で伝わるものがある。

いわば浅井先生は断言をしてしまった。しかも年限まで明言してしまった。ゆえに、これが取り返しのつかない失敗であることは間違いないことだ。

ただし、わたくしの思うに、仮に本年でもいい、あるいは来年でもいい、もし人類が滅亡したらどうなるのか、である。もちろん、そんなことはないと思うが、仮定の話である。そうすると先生の予言は当たったことになると思う。年数の多少の誤差などは問題ではないだろう。人類滅亡の事実こそが重大事件だからである。
確かに、わたくしの中にはじゃっかんながら先生を弁護したいという気持ちがある。それは事実であるが、少なくとも「あと二十五年」の発言をしてからは、多少(?)の遅れがあるものの確実に年数を減らしてきたのである。あと二十年、あと十五年、あと十有余年、と。
ここまで書けば、ご理解いただけるだろう。ようするに、先生は本気だった、マジだったのである。ある時期までは・・・
けれども、ここに来て、どういうわけか足踏みしてしまって一向に進まなくなってしまった。いつまでもあと十有余年と言っていたら大問題である。はたして「あと十年」はあるのか、「あと五年」の到来はどうか、と言えば絶望的だろう。おそらくは先生もそれを承知しているはずである。

つまり、先生もある時期までは本気だったが、途中からは無理だということに気がついた。それにもかかわらず、今も本気の振りをして、会員に無理をさせているのである。そこが大問題なのだ。

いくら先生が本気の振りをしようが、ここ十年の発言の変遷を見れば明らかである。

もちろん、「あと二十五年」の責任もある。これは前にも書いたことがあるけれども、本当ならばマスコミが積極的に顕正会にスポットを当てて、それこそ徹底的に「あと二十五年」の真意を問うべきだと思う。これに先生がどう答えるか、見モノである。
わたくしの思うに、当時は本気で思っていました、と回答するのがいちばん無難であろう。では、今はどうなのかであるが、それはもはや答えに窮するしかないはずである。
もし、今でも本気であるなどと言おうものなら、それこそ十年間の変遷が決定的な証拠として挙げられることになるだろう。

よって、前回の拙稿で列挙した会長発言の重要性を知るべきである。

ところで、なぜ日蓮正宗に帰依しないのか、という質問については、過去にも同様の問いを法華講の諸氏より頂戴しており、その都度、ああでもないこうでもないと書いてきたので、ここでは繰り返さない。

「正しい本尊」
「勝れた本尊」は
「本門寿量品の本尊並びに四菩薩」(観心本尊抄)であり、

日蓮御図顕の本尊である。

と言う当たり前の事を訴えて行きたいと考えています。
日蓮の本尊は一つです。


正月早々ですが、例の鶏図に説かれる「天台の本尊」って中国にも日本にも存在しないようで、

結局「天台、伝教、己心の本尊」「幻の本尊」なのだそうですね。


わたくしを狙っている(?)のは、正宗法華講員だけではないようである。前田氏はどうやら引き続き、拙ブログを舞台に随力演説するつもりらしい。

2009/1/5

パフォーマンスの裏に隠された真実  
れん氏より、貴重な意見をたまわった。しかし、わたくしの思うに、氏の見解は一面の真理ではあるものの、現在においてはかなり事情が違ってきているのではないか、という気がする。つまり、今はかつての創価学会による折伏大行進を知らない人が多くなったので、特に若い人たちは創価学会との類似性をまったく感じずに顕正会に入ってくると考えられるのだ。ゆえにわたくしは、顕正会が拡大しない理由は別にあると思っている。おそらくは顕正会そのものに種々の問題があって、今はそれが加速度的に噴出し始めている状況なのだろう。今も数字の上で観察すれば、かなりの入信者がいる。しかし、それが定着しないし、今まで頑張っていた人すら脱落していく状況なのである。悲しいがこれが現実なのだ。

サイトウ氏から貴重な情報をたまわった。

『十有余年』発言の事ですが…。確か平成11年元旦号の念頭の辞の題号が『あと15年』だったと記憶しています。その翌年、つまり平成12年には『あと14年』ならぬ『あと十有余年』と幹部達は発言していましたよ。先生自身の十有余年発言は、調べるのが面倒なので分かりませんが、手元にあった平成13年10月15日(第887号)に掲載の男子部班長の記事にも「されば○○班一同、あと十有余年、…。」とあります。

これは重要な証言である。ようするに、先生の発言は確認できていないけれども、顕正会の中ではおよそ十年前から「あと十有余年」を言っていた、ということなのである。
氏はひじょうにツライ立場であるけれども、こうして正直にコメントを入れて下さっている。これは本当にありがたいことであるし、わたくしが言うのもおかしな話であるが、氏はこの正直の功徳で梵天(?)に生ずることであろう。
顕正会員以外には意味不明であろうが、そこはご容赦願いたい。

さて、以下は浅井先生の発言を年代順に並べたものである。あらかじめ日付を示しておくと、平成十年九月二日、同十六年八月二十二日、同二十年十二月二十三日、である。

顕正会の会長として、謹んで大聖人様に誓い奉る。一千万は、あと十五年、平成二十五年までに必ず成し遂げること、堅く誓い奉る。

・・・三百万こそ広宣流布の鍵であります。
 私は、この三百万をなんとしても十年以内に成し遂げ、重大な御奉公に備えたいと決意しております・・・


・・・三百万まで、あと何年かかるのか。
 私は、あと十有余年で、断じてこれを成しとげる。そして大聖人様のお待ちあそばす大法戦場に、いささかも遅れず到着したい。


もうこれで顕正会破折は完了したようなものである。わずか十年間でこうも言っていることが変わるものかと不思議に思うが、事実なのだから仕方がない。

ところで上掲の真ん中の発言であるが、これをわたくしはうっかり失念していた。というか、あまり問題視されたことがなかったように思うのだが、いかがだろうか?

三百万の死身弘法を誓い奉る

これは平成十六年の幹部大会を報じた顕正新聞第976号の一面の大見出しである。わずか五年前には一千万を言っていた。それが三百万になってしまった。まさにツッコミどころである。
ところが平成十六年当時、わたくしはまったく気がつかなかった。不思議なことであるが、顕正会を批判する人たちもあまり問題視していなかったのではないかと思われるのである。

それはなぜだろうか?

実はこの平成十六年の幹部大会というのは、浅井先生が激烈なる宗門誹謗を開始した意味で、内外から大きな注目を浴びた大会だったのである。この後、先生は日顕上人へ対決の申し入れをするに至るが、それは実現しなかった。この結末は「最後に申すべき事」である。すなわち平成十七年八月二十八日に「最後に申すべき事」を送付して、ここでいちおう宗門攻撃を終了するわけである。

浅井先生は、なんと一年間にわたって、宗門誹謗キャンペーンを張り続けたのである。
当然、宗門側はこれの対応に集中したであろうし、おそらくは創価学会の面々にしてもナニゴトが起こったのかと、注視していたことであろう。
つまり、これが「目くらまし」になっていたのである。

前年に百万を達成した。先生としては、次なる目標をどうするか、それが悩みだったのかもしれない。単純に、十年以内に三百万を、という発表をすれば顕正会員にしても、五年前の一千万の誓いはどうなったのか、と疑問に思うことだろう。ましてや批判勢力からの容赦ないツッコミが予想されるところである。
この解決方法が宗門誹謗キャンペーンだったのではあるまいか?
あれほどの激烈さはあるいは昭和四十年代の御遺命守護の戦いを凌駕するものかもしれない。しょせんはパフォーマンスであると言っても、今までの呼称である「阿部管長」を返上して「阿部日顕」と呼び捨てにするのは度が過ぎていることである。
ゆえに、ここには何かしらの計算があった。その理由の一つが三百万という公然たる自語相違から注意を逸らすことだったと考えてもおかしくないだろう。
実際、わたくし自身、今までずっと気がつかなかったことである。その意味で、先生の計算は見事である。

顕正会の活動会員たちは百万までの戦いで疲弊してしまっていた。先生は戦いに加速度をつけたいと思っていただろうが、現場の活動会員たちはイッパイイッパイの状態だった。一千万など望むべくもない。しかし、目標を示さないことには前進できない。

結論として、宗門誹謗の真のネライは、会員に対するカンフル剤の意味と、会員ないし批判者たちへの目くらましの意味ではなかったか、というのがわたくしの推測である。

2009/1/4

「あと十有余年」に隠された真実  
各方面から新年のご挨拶をたまわった。いつものことながら、一々のお返事は省略させていただくが、hage氏のおっしゃる「一天四海皆帰妙法」はまさにそのとおりなのだろう。ちなみに顕正会ではこの言葉を使わないけれども、おそらくは一閻浮提広宣流布が類似の表現に当たると思われる。いずれにしても顕正会は閻浮広布の前段階として、当面は日本の広宣流布を目標に掲げているわけである。

一信士氏の、一昨年はお世話になった、というのが何ともイミシンである。それはともかく、早く法華講員になれ、これが氏の言いたいことだと思われるが、まあ、おそらくは今年もウダウダと駄文を綴り続けることになるだろう。

前回、わたくしは「あと十有余年」の初出の時期について、ご存知の人がいれば教えてほしいと書いた。誰も教えてくれないので仕方なく、自分で調べようと顕正新聞の古いのを引っ張り出した。さすがに一字一句まで確認する元気もなく、ダラダラと眺めているだけだったが、おおよその見当はつけることができた。
折りしも山門入り口氏のブログを拝見すると、そこには水無月氏のコメントがあり、「あと十有余年」の初出は平成十六年八月二十二日の幹部大会の会長講演だと思われる、と書かれていた。さすがは水無月氏である。

今、この時の顕正新聞をざっと眺めているのだが、今までまったく気がつかなかった発見があった。大発見と書けばさすがにオーバーであるが、それなりに重要な意味があるだろう。これは次回、改めて書きたいと思う。

水無月氏の「思われる」という表現が奥ゆかしくて好ましい。わたくし同様と言ったら失礼だかもしれないが、さすがに過去の新聞を一字一句まで調べるわけにも行かないだろうから、断定的な言い方は避けたのだろう。
ゆえに、これよりも古い「あと十有余年」の文言をご存知の人がいれば、引き続きご教示をたまわりたいと思う。

まあ、しかし、おそらくはこれが初出であろうと思われる。その根拠は簡単だ。

そうそう、その前に過去の拙稿を紹介しておこう。

http://white.ap.teacup.com/ganko/342.html

自分で書いておきながらすっかり忘れていたが、顕正会で盛んに言っている三百万もまた、くだんの平成十六年の幹部大会から始まったことである。

この前年に、顕正会の悲願(?)であるところの百万が達成された。考えてみればわかると思うが、百万達成以前に三百万を云々するのはおかしなことである。つまり、百万の次の目標として打ち出されたのが三百万なのである。ちなみに、それ以前には一千万を言っていた。これはチャンチャラおかしな話であって、だから今はもう言わなくなってしまったわけである。
「あと十有余年」の初出が平成十六年というのも、ほぼ同様の理屈である。百万達成以前においては、「百万まであと何年」というのが当面の目標だったわけで、その段階で「あと十有余年」のフレーズを使うことは考えられないことである。ゆえに、この時が初出であると、ほぼ断定してよいのではないかと思う。

しかし、そうすると前回、わたくしが十年くらい前から耳にしていると書いたことは、大間違いだったことになる。実際、それは事実誤認だったわけであるが、しかし、それもこれも浅井先生に責任がある。ご存知のごとく、あと十五年で一千万、と言っていたのだから、もはや文句は言えまい。

さて、わたくしの発見は次回に譲るとして、過日の新青年会館における会長講演から別の話題を拾っておこう。

 この新青年会館は、一昨年(平成一八年)秋からの懸案でした。それまでの旧青年会館は借りビルで、見かけは頑丈そうでしたが、メタボということもある(笑)。実は耐震強度が心配だったのです。
 そこで三次診断という、最も精密な検査を三ヶ月かけてやった。そうしたら震度五弱で倒壊の恐れがあることがわかったのです。


http://white.ap.teacup.com/ganko/804.html

リンク先をご覧になればわかると思うが、以前は震度五弱の文言を掲載時に削除してしまったことがあった。それがここに来て堂々と活字に残してしまったわけであるが、これはいったいどういうことなのだろうか?

わたくしには何とも理解しかねる点である。

2009/1/2

顕正会を斬る  
各方面よりコメントを頂戴しているが、感慨深いのは顕正会にあまり縁のない人、もしくは関心がないと思われる人たちからのコメントが多いことである。当然ながら多くの人から注目していただけることは嬉しいことであり、励みになることである。

まあ、しかし、今日は顕正会に関心のない人には恐縮であるが、純然たる顕正会ネタを書かせていただく。

あと十有余年

顕正新聞の新春号すなわち第1124号の一面下段には、浅井先生の年頭の辞が掲載されている。そのタイトルがこれである。

そして二面の下段には、次の見出しがある。

広宣流布のゴール、今はっきりと

これは先月二十三日の新青年会館落成御入仏式を報道する記事なのであるが、冒頭の太字部分には次のごとくある。

先生はついに「広宣流布のゴール」を、はっきりと見せて下さった。

それで四面から六面にかけては、その時の会長講演が掲載されているわけだが、これにつけられた大見出しが以下である。

天生原への御供こそ広宣流布のゴール
「あと十有余年」命かけて御奉公貫かん


もはやこれ以上の引用は必要ないだろう。誰が読んだって、十有余年後には広宣流布のゴールに到着すると読めるはずである。これは大問題だ。

まず、読者にお願いしたいことがある。この「あと十有余年」のフレーズはいつから使われるようになったか、その正確な時期についてご存知であれば教えていただきたいと思う。つまり、初出の時期と、その講演内容をつぶさに検討したいのだ。
わたくしは漠然と十年くらい前だろうと思っているのだが、横着ながらちゃんとは調べていないのだ。ゆえにご存知の人がいれば、教えていただきたいのである。
ある意味、これが顕正会破折のいちばん手っ取り早い方法になるだろう。十年前に「あと十有余年」と言っていながら、今もまったく同じことを言っていたら、誰が考えたっておかしなことだからである。

顕正会に入って数年の人にはわからないことである。逆に言うと、そういう人たちを騙していることになるのだ。
先生の取り巻き連中もどうかしていると思う。彼らは少なくとも十年以上前から顕正会員だったはずだ。今度、新しく総合女子部長になった人物にしても、すでに二十年以上のキャリアがある。
ゆえに、先生の本当の弟子であるならば、忠臣であるならば、先生に言わなければいけないのだ。先生それはマズイのではありませんか、十年前にも同じことを言ってましたよ、これでは必ず批判勢力がツッコミを入れてきますよ、と。
事実、すでにネット上ではこれが話題になっていて、顕正会から法華講員になった人たちなどは、またしても自爆発言か、といったアンバイで、もはやあまり驚きもしなくなっている様子なのである。

わたくし自身、「あと十有余年」についてはこの三年有余の間に何回も取り上げてきて、もうウンザリしているのである。パソコンでご覧の人は、左側の検索窓を使って、過去の拙稿を確認されるとよいと思う。

過去の拙稿と重複することを承知で、少し書いてみよう。今回の講演でもそうだが、先生は十有余年後に直ちに国立戒壇が建つとは言っておらず、ようするに三百万の顕正会員が一国に向かって諫暁を行なえば日本は動く、と言っているのである。問題はそこからの具体的な戒壇建立へのプロセスというかシナリオが語られていないことである。それにもかかわらず会員たちは、あたかも十有余年後には戒壇が建つかのごとく錯覚してしまうのだ。何しろ前掲のごとく、顕正新聞ではゴールがはっきりと見えた、先生が見させて下さった、などと書いているのだからヒドイものである。何も見えていないのに、見えたように錯覚しているだけなのだ。

創価学会と対比してもわかりやすいだろう。

顕正会では正本堂にケチをつけた。いろいろ細かい議論があるわけだが、一つにしぼって言えば次のごとくなるだろう。

八百万信徒による民衆立戒壇

これが正本堂であるが、こんなのが大聖人の御遺命の戒壇であるわけがない、というのが顕正会の主張なのだ。

話は見えただろう。次は顕正会の目指している(?)ものである。

三百万顕正会員による国立戒壇

しかもその三百万が単なる名目上の数字であって、中身がないのだから困ったものである。もちろん八百万学会員も数字の上でのことだが、顕正会よりも遥かに中身が充実していたのだ。

顕正会員の懐いている十有余年後は、錯覚であり、幻想に他ならない。


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