2009/3/31

栴檀は双葉より芳し  
渡辺氏は北条時頼のことに言及しているけれども、わたくしの認識では、この人は禅門の徒ではなかったかと思う。まあ、しかし、当時の状況を大枠で見れば、大聖人対諸宗連合軍であるから、その線で理解すべきなのだろう。

れん氏は専修念仏と台家における浄土教の違いを云々しているわけであるが、やはり大枠で見れば似たり寄ったりであり、大聖人御自身もあまり区別を意識せずにいらしたのだろう。それが道善房に対する評価に反映しているのではないかと思う。


前田氏より、お詫びと訂正のコメントを頂戴した。誰にでも間違いはあるのだから、さして気にすることでもないだろう。ましてや、これで氏の主張が破綻したというわけではなく、単なる部分的な錯誤に過ぎないのだから、そこを修正した上で自説を展開していけばいいのである。

虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。

たとえば、清澄寺大衆中を単純に読むと、上掲の後に例の領地問題が出てくるわけだから、これを立宗以後の出来事であると考えるのは、順番としてはきわめて自然なことなのである。
しかし、まさか年表ではあるまいし、必ずしも順番どおりに記述されているとは断定できないのではないか、というのがわたくしの見解である。
それこそ文章構成というのは、多種多様のパターンがあるわけだから、話が逆戻りすることだっていくらでもあることなのだ。面倒なので調べていないけれども、御書を隈なく調べれば同様の例がたくさん出てくるはずである。

ゆえに、わたくしはこれを立宗以前であると考えるわけだが、具体的な時期についてはよくわからない。おそらくはかなり早い時期ではないかと思っている。
すると、れん氏のほうから具体的な意見が出された。なんと建長元年から五年の間であろうというのだ。
ここはわたくしとかなり異なるところである。わたくしは前回、立宗の遥か以前、と書いた。

この際だから大胆な推測を試みよう。何しろ史料がないのだから、しょせんは推論に過ぎないのであるが、大聖人の御年で十六歳から二十一歳までの期間であろう、この時期に領地問題があって大聖人の尽力によって解決できたのだと思う。

平成新編の巻末年表を開くと、十二歳で清澄寺に登ると書かれている。その後、正式の入門は十六歳の時のごとくである。二十一歳の欄には叡山遊学と記されている。この後、およそ十年間にわたって諸国を遊学されているわけだ。
わたくしは思う、この間の資金はいったいどのように調達されたのか、それが案外によくわかっていないのではないかと。
おそらくは領家が出資者であろうが、これはすでに多くの人が言及していることである。では、いったいどうして大聖人に、ありていに言えば大聖人は漁師の息子なのである、それにもかかわらず、どうして資金の援助をしたのか、それがよくわかっていないのではないか、と思うのである。

わたくしはその答えを、領地問題に求めるべきだと思う。

領家にとって東条景信は脅威の存在だった。領地問題は死活問題である。もし景信との係争に負ければ、もはや領家は没落するだけの運命だったのかもしれない。そこを大聖人が八面六臂の活躍で救ったのである。
もし、そうであれば、領家は文字どおり九死に一生を得たようなものであるから、この恩に報いるために大聖人に対して資金の援助を惜しまなかっただろうと想像できるのだ。
もちろん、さらに遡れば、なぜに大聖人が領家の味方をしたのか、そこが問われることになるわけだが、その辺の事情は次の御文に窺えることである。

領家の尼ごぜんは・・・日蓮が父母等に恩をかほらせたる人

大聖人は父母への孝養の心がひじょうに厚い。相手が父母にとっての恩人ならば、父母になり代わって恩に報いんとするのはきわめて自然なことだろう。
そして領地問題があって、大聖人は領家の窮地を救うことで恩を返した。今度は尼御前が大聖人に恩を感じ、恩に報いる番である。

大聖人はけっして恩着せがましいわけではないが、上掲の中略部分には次のごとくある。

されども恩をしらぬ人となりて・・・

これは領家の尼が竜の口法難で退転してしまったことを意味するものと思われるが、これに関連する御文が法蓮抄にある。

日蓮は・・・一閻浮提第一の僻人ぞかし。かゝるものなれば、上には一朝の威を恐れ、下には万民の嘲りを顧みて親類をもとぶらはず、外人は申すに及ばず。出世の恩のみならず、世間の恩を蒙りし人も、諸人の眼を恐れて・・・

いかがだろうか?

出世の恩はともかくとして、大聖人が世間の恩を云々あそばすのは異例のことである。これは文脈上、大聖人が恩を受けたのではなく、その反対側の意味である。

まさしく領地問題は仏法上の恩ではなく世法上のことである。もちろん、これがただちに立宗以前を証することにはならないわけだが、前述の諸国遊学のための資金をどのようにして得たかを考慮するならば、それが領地問題における功績にあったのではないかと想像することは、けっして荒唐無稽なことではないだろう。

2009/3/29

領地問題の時期について  
http://white.ap.teacup.com/ganko/1262.html#comment

いきなりリンクを貼ったわけだが、前田氏はここに次のごとく書いている。

たとえば、この事件より三年前の松葉ヶ谷法難(39歳)での
「小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」『神国王御書』(学会版・1525頁)とありますが、


つまり、清澄寺大衆中に出てくる領地問題を弘長三年の出来事とした上で、その三年前の松葉ヶ谷法難に言及しているわけである。

しかし、この神国王御書の引用は、はたして適切なのだろうか?

http://white.ap.teacup.com/ganko/1236.html

参考までにリンクを付したが、面倒なので読むのはやめたほうがいいだろう。言いたいことは、わたくしにとって当該御文は先刻承知のことであり、前後の御文を含めてよく吟味してある、ということだ。
それで結論を言うと、上掲の前田氏が引用している部分は、松葉ヶ谷法難ではなく、竜の口法難のことである。
おそらくは誰が拝してもそのように読めるはずである。それとも松葉ヶ谷法難であるとする、何か有力な根拠でもあるのだろうか?

それはともかく、清澄寺大衆中の話題に移ろう。

領家と東条の間に領地問題のようなものがあった。わたくしも諸氏の見解同様に、領地問題だと思っているが、当該御文を拝すると別の側面があることに気がつく。いや、気がつくなどと大仰に言うほどのことではなく、誰もが承知していることであろう。早い話が清澄寺を念仏宗に改宗せんとの計略である。
領地問題と改宗は表裏一体のことなのだろう。ゆえに一年が内に解決を見たということは、景信の改宗工作も失敗に終わったことになるはずである。
そうすると次の善無畏三蔵抄の御記述をどのように会通するべきなのか、そこが最大のポイントになるに違いない。

此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況んや人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す。而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり、(以下省略)

なんと大聖人は道善房を念仏者であると断言あそばしているのである。しかも、この後の御文に出てくるごとく、道善房は阿弥陀仏を五体も作っているのだから、驚きである。
であれば、改宗工作も何もあったものではないだろう、その必要性はまったくない。しかるに清澄寺大衆中では、東条景信が改宗を企てていたごとくに読める。ツジツマが合わないのだ。
まさか大聖人がウソをついているわけではないだろう。いったい、どのように拝するべきなのか?

もう一つ、善無畏三蔵抄から引用しておきたい。

爾の時に日蓮意に念はく、別して中違ひまいらする事無けれども、東条左衛門入道蓮智が事に依って此の十余年の間は見奉らず。

御文の「爾の時」というのは、文永元年十一月十四日の道善房との会見について仰せられたものである。どうやら大聖人は立宗以来、十有余年の間、東条景信の妨害によって故郷へ帰ることができなかったごとくである。

以上のような理由から、大聖人が立宗以後において、東条と領家との問題に介在したことは考え難いのではないかと思うが、いかがであろうか?

もともと念仏は幕府御禁制だった。大聖人の御幼少の頃はである。それが徐々に浸透し始め、幕府の中にも念仏の信者が増えていった。
大聖人は天台法華宗の正統派を自負あそばしておられたから、東条景信の動きとは真っ向から対立することになる。ここに領地問題が絡んでくるわけだが、何しろ大聖人は日本第一の智者にてあられる。しかも上述のごとく、もともと念仏は幕府御禁制なのである。
つまり、仏法と世法の両面からして、大聖人にはじゅうぶんの勝算があられたのだろう。

もちろん、これは立宗の遥か以前を想定しての話である。

逆に考えてみれば、よくわかるはずだ。もし弘長三年だとすると、その直前には幕府の傍若無人によって大聖人は流罪に処されているのである。つまり、まともな法廷闘争など望める状況ではなかったのだ。実際、領家の尼は、この後の竜の口法難の時には退転しているのである。同様の意味で、伊豆流罪直後に・・・より正確に言えば赦免後になるわけだが、それにしても領家の尼の性格からして、大聖人に味方してもらおうとは思いもしないだろう。

ちなみに道善房が阿弥陀仏を五体も作ってしまったというのは、先に述べたごとく、徐々に念仏が浸透していったことが当然ながら背景としてあって、それと同時に東条景信が巻き返しに転じたことのあらわれと考えればいいだろう。

天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらいをそるゝ事、犬の主にををふり、ねづみの猫ををそるゝがごとし。

ご覧の開目抄のごとくである。

2009/3/28

「日蓮が御本尊」をめぐって  
hage氏より、富士派は仲が悪い、との指摘を受けた。まったくもって、そのとおりである。面目ないことだ。
もっとも、それだけ活発である、熱心な信者が多い、とも言い得ることではあるのだが、おそらく宗教を毛嫌いしているような人たちには通用しない話だろう。
人の振舞にて候いけるぞ、との御指南をよく噛み締めたいものである。

さて、清澄寺大衆中をめぐって、議論が盛り上がってきたようである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1257.html
http://white.ap.teacup.com/ganko/1258.html
http://white.ap.teacup.com/ganko/1262.html#comment

これまでの議論は、上掲のリンク先を順番に読むとつかめると思う。

前田氏の見解は、弘長三年説であり、本尊は釈迦像ということのようだ。
れん氏は当初、二説の可能性を論じていたけれども、最新のコメントにおいては立宗以前を支持することを表明している。本尊については明言を避けているごとくである。

れん氏の紹介する山上先生の論考はネット上に公開されており、そこには次のごとくある。

しかし大聖人が虚空蔵菩薩でない「日蓮が本尊」に起請したからといって、何故に建長五年四月二十八日以降でなければならないのだろう。たとえばそれが釈尊像であったとしても(それさえも確定はできない)、建長五年四月二十八日以降とする根拠とはならない。

さすがに虚空蔵菩薩説には無理があるらしい。さりとて釈尊像であることも確定はできないようだ。れん氏が本尊について見解を保留したのは、山上論文を信頼してのことだと思われる。

ひじょうに生意気なようであるが、わたくしは解説書の類をほとんど読まない。何しろ持っていないのだから、読みようがないのである。ゆえに御書を直感的に拝している場合が多いのだ。
すると、清澄寺大衆中の「日蓮が本尊」が、わたくしには虚空蔵菩薩のように感じられたのである。まさに直感であり、悪く言えば、当てずっぽうに過ぎない。
ゆえに、珍説であると言われれば、まあ、それはそうかもしれないと思う。

時期についての考察は単純である。まず、虚空蔵菩薩ありきということで、「日蓮が本尊」が虚空蔵菩薩ならば立宗前のほうが自然であろうという発想なのである。

ゆえに、極論すれば、立宗後であっても構わないのである。

前田氏は弘長三年説を唱えている。
平成新編に付された巻末年表を見ると、伊豆流罪の赦免が同年二月二十二日で、その後は持妙法華問答抄の御述作が載るだけであり、空白になっているのだ。それがなんと翌年の秋まで続くのである。
弘長四年すなわち文永元年の十一月十一日には、いわゆる小松原法難があった。前田氏も書いているごとく、これは単に念仏宗批判に対する憎悪だけでなく、領地問題が絡んでいるだろうことは想像に難くない。
つまり、その直前の一年有余の空白期間に領地問題があって、大聖人がそれに全精力を費やしていたという考え方もなくはないのである。

まあ、しかし、これで行くと、いわゆる立宗宣言の後において、大聖人は虚空蔵菩薩に祈願したことになってしまい、ひじょうに困ることになるのだ。

誰が困るのか?

日蓮宗の人も日蓮正宗の人も困る。だから、この説を唱える人はいないのである。つまり、我々は往々にして、自分の都合に合わせて解釈してしまっているのだ。

上述は変化球である。

わたくしの考えでは立宗前のかなり早い時期、つまりは大聖人がまだ御若い時分の出来事であろうと思う。もちろん本尊は虚空蔵菩薩であるが、この続きは次回にしたいと思う。

2009/3/27

新語発表?  
今日は顕正新聞第1130号掲載の二月度総幹部会・会長講演を取り上げる。

国立戒壇こそ折伏行の究極の姿
 折伏の大精神を捨てた池田大作
 偽戒壇・正本堂で邪宗との共存図る


会長講演の大見出しである。

偽戒壇は浅井先生の造語だと思われるが、これを盛んに言い出したのは去年くらいからである。それ以前はおそらく、正本堂の誑惑、というような表現が多用されていたはずである。つまり、正本堂は事壇にあらずして義壇である、しかるに宗門と創価学会はこれを事壇であると偽った、という意味を一括して示すのが「正本堂の誑惑」だったのだ。
しかし、今となっては意味が通らないというか、通じにくいのだろう。ゆえにセンセーショナルな新語を編み出した。初心者にもわかるような言葉として、偽戒壇を言うようになったのだと思われる。
顕正会の過去の戦い、浅井先生の激闘、ということを深く学ばなくても「偽戒壇」と聞けば、何となくでも宗門・創価学会は悪い連中なのだと感じることだろう。これに対して、「誑惑」はひじょうに難解な表現であり、それだけでは何が何だかさっぱりわからないはずである。

しかし、わたくしはこの「偽戒壇」をひじょうに問題だと感じている。法義上の問題点は、昨年の九月に書いた。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1178.html

ここでは繰り返さないが、正本堂は偽戒壇ではなく、義戒壇である。これを偽戒壇と言ってしまっては日寛上人の御指南に背くことになるのだ。

さらに別の角度からもツッコミを入れておこう。

顕正会(妙信講)は正本堂の御供養に参加したではないかという批判がある。
わたくしは従来、この批判には賛成しない立場を貫いてきたが、しかし、顕正会側の態度がここまで硬直してくると、ああ、なるほど、批判者側の言い分にも一理あるな、と思えてくる。
簡単である。顕正会は偽戒壇に御供養した。こう書けば、誰だって矛盾を感じるはずなのだ。

さらに言えば、二度にわたる誑惑の訂正、がある。これは昭和四十五年と四十七年に創価学会側の代表幹部を論破して訂正せしめたという浅井先生の自慢話であり、ワシは細井管長と池田大作を訂正せしめたのだぞ、という音声テープが残っている。
しかし、やはり矛盾なのだ。ようするに、正本堂の誑惑は昭和四十七年に訂正された、誑惑は潰えたのである。だからこそ、妙信講は正本堂完成後において御登山・御内拝を申請したわけであろう。
つまり、顕正会は偽戒壇への参詣を願い出たことになるのである。

まだ問題はある。正本堂はすでに解体撤去され、存在しない。すでに十年の歳月が流れているのだ。
仮に今もなお正本堂が存在し、さすがに創価学会員は無理にしても法華講員が盛んに御登山している状況であれば、まだ話はわかる。ところが今は正本堂ではなく、奉安堂なのである。いつまでも正本堂のことを云々しているのはおかしな話なのだ。
しかし、こんなことを書くと、そのうち奉安堂すら偽戒壇だと言い出すのではあるまいか、いや、さすがにそんなことはないと思うが、それにしても浅井先生は何を言い出すかわからないところがあるので少し心配である。

エセ摂受

以上のようなことで、わたくしは偽戒壇という表現を不可だと思っているわけだが、それはさておき、今度はエセ摂受の話である。

おそらくはこれも浅井先生による新語であろう。先の偽戒壇はその初出を確認していないが、エセ摂受は今度の講演が初出であると思う。すごい表現である。

結論から書こう。この表現そのものには特に問題を感じない。どんどん使えばいいと思う。

つまり、摂受という弘通の方法は必ずしも間違いではなく、いわゆる四悉檀の上からは、末法においても摂受の側面がないわけではないのである。ゆえに浅井先生は明確な区別をつけるために「エセ」を冠したのだろう。池田氏は折伏の大精神を捨ててしまった、では、摂受なのかといえば違う、あんなのは摂受ですらない、エセ摂受だ、というようなニュアンスではないかと思う。偽戒壇もすごいが、こちらもかなりのインパクトである。

もちろん創価学会員にとって上述は大いに不満であろう。しかし、わたくしに文句を言われても困るので、不満があれば顕正会本部に苦情を言ってもらいたい。

話はまだ続く。

わたくしは偽戒壇を不可であると書いた。一方、エセ摂受は可であると、すぐ上に書いた。
もしかしたら、ずいぶん偏頗に感じられるかもしれない。
だが、違うのである。ちゃんと話の続きがあるのだ。

新語を発表したい。

エセ折伏

ようするに、エセ摂受がどうのこうのと言っている顕正会こそ、「エセ折伏」ではないのか、ということなのだ。

入信報告書偽造は論外にしても、成果至上主義の弊害がさまざまの形で噴出してきているのは否定できない事実であろう。早い話が単に数字を追い求めているだけで、中身がまったく伴なわなくなってしまっているのだ。ゆえに折伏法戦でコンスタントに一万人以上が入信しているにもかかわらず、実質的にはほとんど会員が増加していない。これで本当に広宣流布は近いのか、御遺命成就は近いのか、はなはだ疑問である。

まあ、これ以上、クドクドとは書くまい。エセ摂受だの何だのと他人の批判をする前に、己れの組織の実態をよく見つめるべきであろう。

2009/3/23

流行語大賞第一候補?  
各方面から種々のコメントを頂戴しているが、とりあえずはつい先ほど寄せられた渡辺氏からのコメントに応じておく。

平易にして切れ味の鋭く、小気味のよい文章である。ただし、一つだけ顕正会側の弁護をしておくと、かつて世雄会と称するサイトがあって、そこでは浅井先生を大聖人の再誕であるかのごとく書いていた。さすがにそれはマズイだろうと思っていたところ、案の定というべきか、このサイトの主宰者は顕正会を除名になったそうである。では目師再誕ならばいいのかといえば、おそらくはダメだろう。当然、日興上人でも日寛上人でもダメである。もし、インターネットでそれを大宣伝しようものならば、即刻除名になるに違いない。

しかし、だったら顕正新聞の記事にしても、表現には慎重を期すべきであるが、実際にはかなりキワドイ表現が見られる。いわゆる会長本仏論と見まごうばかりの記事が出ているのだ。
渡辺氏の指摘はまさにここにあるわけで、なぜにそのような記事を載せるのか、まさにそれこそが浅井先生の本性なのだと、そういう意味なのだろう。
会長本仏論については、警告を発する意味でこれまで何度も取り上げてきたので、興味のある人は左の検索窓を利用して確認されるとよいだろう。

いずれにしても結論的には、浅井先生がすべてなのである。こう書くと、いわゆるワンマン体制という意味に聞こえるだろう。広い意味ではそのとおりであるが、わたくしの言う意味は別である。すなわち、顕正会の求心力は「浅井先生」なのである。
つまり、顕正会ではいちおう戒壇の大御本尊という言葉を口にはするものの、ご存知のごとく大御本尊への御目通りができない、妙信講時代はまだしも今の若い顕正会員のほとんどが御開扉の経験がない、というのが実態なのだ。ゆえに、冨士大石寺顕正会とは称するものの、大石寺とは無縁であり、御書も積極的には学ばないから大聖人の御事もよくわからない。
この当然の帰結として、浅井先生を奉るしか道はない。それが唯一の求心力であり、まさにこれを外してしまったら顕正会は文字どおり空中分解する以外にないのである。

今の状況は新興宗教の一教祖といったところだろうか?

真面目な顕正会員がこれを読めば激高するかもしれない。しかし、客観的に見ればそのように映るのである。悲しいかな、顕正会を維持するための求心力として浅井先生を持ち上げれば持ち上げるほど、ますます教祖のイメージが強くなる、という悪循環に陥っているのである。

ところで渡辺氏のブログには、浅井先生の預言(?)が外れたことが書かれている。
ようするに、中国で大暴動が起きるという意味の発言を昨年の暮にしていて、その時期を本年二月であると言っていたが、結局は大したことなかったではないか、ということなのだ。
自分もこれを書こうと思っていたが、ボヤボヤしているうちに先を越されてしまった。
それはともかく、実際には小さな暴動が断続的に続いていて、けっして安定しているわけではないようだ。しかし、それは中国に限らず、どこの国も似たり寄ったりである。ゆえに、よほどの大暴動でも勃発しない限り、注目されることはない。そういうわけで、何事もなかったかのごとく、二月は過ぎ、今はすでに三月である。

先生の予言(?)で有名なのは、あと二十五年で人類滅亡、であろう。しかし、こういうことを繰り返していると、一種の虚言癖みたいなもので感覚が麻痺してくるのかもしれない。普通ならば反省して発言に慎重になるものだが、どうも先生は懲りない人のようだ。

またしても真面目な顕正会員は激高するかもしれないが、しかし、発言には責任を持たないといけない、それが世間の常識である。

信心不純になれば似非摂受に

今日は顕正新聞第1130号に載る二月度総幹部会の会長講演を書くつもりだったが、最初の話が長くなってしまったので簡単に済ませてしまおう。

浅井先生は造語がうまい。その言葉の是非はともかくとして、会員に強い印象を残す言葉を次々に発明している。いわゆる偽戒壇は顕正会における流行語であるが、今回の似非摂受もまた流行しそうな雰囲気である。実際、この後に行なわれた班長会においては、ほとんど全員が口を揃えて「似非摂受」ないし「エセ摂受」と言っているくらいである。先生の発言を復唱するのが幹部の役目ではあるけれども、これほどまでに横並びで同じことを言っていると、キモチワルイものである。

今日のブログは辛辣だったか?

2009/3/21

三方向への返事  
渡辺氏のほうで何やら新情報を入手したらしいが、今の段階ではまったく見当がつかないので、これは保留にしたい。

もしかしたらセンセーは目師様?寛尊の再誕?興尊の生まれ変わり?

そしてこちらは同じく渡辺氏であるが、三月十四日分のコメント欄に寄せられたものである。

日目上人だったり日寛上人だったり日興上人だったり、なぜに一定しないのか、そこがわたくしには疑問である。単にガセネタだからという理由も考えられるが、おそらく渡辺氏のことだからそれなりに確証を得て書いているのだろう。
そうすると次の二通りの可能性があるかもしれない。
一つには会員個々が勝手に言っていることで、本部首脳にはそうした意図はまったくないことである。もう一つの可能性はすでに浅井先生は悩乱(?)していて、言っていることがコロコロ変わるものだから、ある時は日目上人の再誕説を会員に吹き込んだり、ある時はそれとは違う説を唱えたりといった具合に、一貫性のない支離滅裂な状態なのかもしれない。

いちおう、わたくしは前者の可能性を支持したいと思う。さすがに二番目のほうは、ひど過ぎる話だからだ。
ともかく顕正会では浅井先生を持ち上げ過ぎているので、底辺では自然発生的にいろいろな説が出ていたとしても不思議はないと思う。実はわたくしも聞いたことがあるが、なんと上記三種の再誕説とは別の再誕説を唱える会員もいるのである。誰の再誕であるかはとりあえず伏せておこう。
わたくしはその発言者に問うた。この説はどこから出てきたのか、幹部の誰かが言っていたのか、と。しかし、どうやらそうではなくて、自分で勝手にそう思っているらしかった。

さて、話は変わる。

初学の者という名乗りで、三月十二日分の拙稿にコメントが寄せられた。どういう立場の人かは不明の点もあるが、どうやら日蓮宗系統の人物らしい。なぜならば顕正会のことには興味がなく、昨年来の前田氏との議論に大いに関心を寄せているからである。

わたくしに対する評価を要約すれば、次のごとくなるだろうか?

巌虎の話は面白いので、うっかりすると納得してしまうが、しかし、外では通用しないデタラメきわまる話なので、気をつけねばならない。

なかなか辛辣だ。

諸君はどうか知らんが、わしは言われるとおりに大辞典を引いてみた。[本師]とは教法を指すのでなく、教法を教える人(仏)を言う事だと知ったよ。

こちらは氏のコメントを原文どおり引用した。

ようするに、兄弟抄には法華経は教主釈尊の本師であるという意味の御文があって、昨年、前田氏とわたくしの間でその議論が延々と続いていた。しかし、一向にラチが明かず、事実上の休戦状態に入った。彼が言っているのは、この話である。早い話がわたくしの主張は間違っていると言いたいらしい。

そうであるならば、まずはその大辞典の記述をご紹介願いたいところである。わたくしに言わせれば、辞典を調べれば御書のすべてがわかるのか、ということになるのだが、それでは元も子もないので、まずはその辞典に書かれている内容を吟味してみたいのである。その記述が納得できるものであるかどうか、極論すれば辞典に書いてあることにも間違いはあるわけだから、鵜呑みにするわけには行かないだろう、まずはそこからである。

今回は[日蓮が本尊]は虚空蔵菩薩である。

これもまた珍説である。


珍説であるかどうか、その根拠というか説明がまったく見えない。単に外では通用しないと言ったところで、無意味だろう。どうして虚空蔵菩薩ではいけないのか、それが珍説であれば逆に定説は何か、それを書くべきだろう。

いちおう、この件は先方の反応を見てから、再論したい。

さて、最後にhage氏からの質問にお答えしないといけない。

顕正会の方の臨終の相について、実際にご覧になった方どうでしたでしょうか?
白く軟らかく軽かったでしょうか?それとも黒く硬く重かったでしょうか?
何人の方がそうだったのでしょうか?
顕正新聞にはその様な記事はあるのでしょうか?


正直に言おう、わたくしは顕正会での葬儀に出席したことはあるが、顕正会員の臨終の相は一度も見たことがないのである。ゆえに、この件に関しての発言権はないと思っている。

とは言うものの、でき得る限り書いてみたい。

顕正新聞には、頻度としてはどうだろう、年に数回くらいであろうか、臨終に関する体験発表や活動報告などが掲載されていると思う。最近の例では、顕正新聞第1127号すなわち二月五日号の五面に、次のような見出しがある。

パーキンソン病の母の美事な臨終の相に号泣
 色白く、柔かく、生前より綺麗に


これは婦人部総班長の体験発表である。写真を見る限り、年齢は五十前後だと思われる。亡くなった母親の年齢は、おそらく七十代であろう。記事中にはその記述が見当たらないので、平均寿命よりも若くして亡くなったことを多少は気にしているのかもしれない。

わたくしは体験発表の内容にケチをつけるつもりはないので、この事例についてはこれ以上の深入りを避けたいと思う。

顕正会における葬儀の問題としては、男女青年部にこそ注目すべきである。これは推測に過ぎないが、おそらくは今の活動会員には支隊長・総班長クラスの幹部でも葬儀の経験がない人がたくさんいるのではないか、と思われるのだ。
つまりは、臨終の相を見たことがないのである。
男子部・女子部は壮年部・婦人部と没交渉である。ゆえに、くだんの婦人部総班長のように自分の母親が亡くなるというような経験は少ないし、仲間の葬儀に出る機会も少ないのである。
ましてや顕正会員の間では、邪宗の葬儀には出ないというような、それが公式見解なのかどうかアヤシイことが流通しているので、実際に職場の関係だとか親戚だとか、最悪の場合は自分の親の葬儀にも出ないというケースもあるくらいである。

以上のような理由で、顕正会では臨終の相を云々するものの、男女青年部においては実際に臨終の相を見たことがない人が多いと思われるのだ。仲間の顕正会員の臨終の相を見る機会もなければ、それ以外の臨終の相を見る機会もない。ゆえに、比較のしようがないのだから、よき臨終なのか、悪臨終なのか、本当は何とも言えないわけである。
さらに言えば、近親者でもなければ、むやみやたらに遺体に触れることなどできっこないだろうし、納棺や出棺の時でもなければ持ち上げることもないだろうから、柔かさだとか重さなど、わからない。ましてや滅多に経験することのないことなのだから、客観的に比較することもできない。
それこそ同じ日のほぼ同じ時刻に死亡した人を並べて、比較検討でもしない限りは何とも言えないだろう。ようはその人の主観で言っているだけのことなのだ。

このように書くと、ではオマエは大聖人の御金言を否定するのか、と反論してくるかもしれない。これについては特に弁解するつもりはないが、ともかく顕正会の男女青年部は葬儀の経験が乏しい、臨終の相を見たことすらない人もいる、という点が話の主眼だと理解してもらいたい。

さらに最悪のケースを書いておこう。これは伝聞に過ぎないことをお断りしておくが、いちおう公称百三十万の大所帯であるから、マレにはあり得ることに違いない。
高校生で男子部や女子部で活躍している人がいる。この人が事故死であるとか、病気などで急死してしまうケースである。家族が顕正会員であれば問題ないが、本人だけが顕正会員で家族は大反対しているような場合、おそらく顕正会で葬儀を行なうことは不可能だろう。つまりは邪宗で葬儀を行なうことになるのだ。これ以上は申すまい。

顕正会には若い人材がたくさんいると言えば聞こえはいいが、現実には上述のような問題も発生しているのである。もちろん、マレには若くして立派な青年もいて、自分の祖父母などが亡くなった時に両親を説得して顕正会で葬儀を出すようなこともあるが、しかし、そうした事例はきわめて少ないに違いない。

2009/3/17

瑣末な論議  
今日は前回の続きである。あまり内容のある話ではないので、忙しい人は読まないほうがいいかもしれない。逆に興味のある人は、できれば前回分をコメント欄を含めてよく読んでもらうと話が通じやすいと思う。

マイナス十五度以上にはならない裏磐梯の地

この意味について、どうやらサイトウ氏とhage氏は同じ結論を言っているごとくである。
渡辺氏は過去の事例をあげるだけで直接的な言及はないが、おそらく上掲については意味不明の言い回しだと考えているのだろう。そのために過去の事例として、午後零時云々を引き合いに出したのだと思われる。
また、この点については、hage氏も例文を紹介した上で「日本語は難しい」と書いているので、おそらくは渡辺氏と同じ感想を懐いているのだろう。
逆にサイトウ氏は、何ら不自然なところはないとしているので、意見が対立していることになる。

わたくしの意見を書いておこう。上掲はもちろん誤解しやすい表現である。で、おそらくはサイトウ・hageの両氏とは逆の意味なのではないか、と考えている。

ゆえに修正案を書くならば、

マイナス十五度以下にはならない裏磐梯の地

となるだろうか?

これは以上・以下の意味を両氏の見解に沿って修正したものである。つまり、この執筆者は、裏磐梯は寒いところであるがそれでもマイナス十五度よりも下がることはない、というつもりで書いたのだと思われるのだ。

なぜ、そう言えるのか、根拠を示そう。もしかしたら、これはけっこう面白い話かもしれない。

 鎌倉時代の気象は寒冷期に当っている。当時の記録には、琵琶湖が凍り軍馬が渡ったことが記されている。まして北海の孤島・佐渡の厳しき寒さは想像を絶しよう。
(中略)恐らく当時の佐渡の気温は零下二十度をこえたと思われる。まさに骨まで凍る極寒とはこれである。

これは「南無日蓮大聖人」という本に出てくる文章である。サイトウ氏は「こえた」を不適切としているが、まあ、この際、それはどうでもいいことである。ともかく浅井先生の見解ではマイナス二十度以下ということになる。これが顕正会員の共通認識でもあるわけだ。

くだんの体験発表は顕正新聞第1129号の七面に出ている。その一つ手前すなわち六面には、「各地で集会活発・・・」との見出しがあって、いろいろ出ているわけであるが、その中に「本州最北端・青森で婦人部集会」と題する記事がある。おそらくはこれが決定打となるだろう。以下はその記事中の文章である。

青森で観測史上稀に見る大寒波を記録したとき、仏壇の花立の水が凍結したことがあった。身を切るような寒さは体力まで奪われる寒さだったが、それでも零下十三度だった。その寒さと全く比較にならない寒地獄の佐渡において、(以下省略)

もし、わたくしに錯覚があるとしたら、この記事が原因である。つまり、順番からしてこの文章を読んだ後にくだんの体験発表を読んだものだから、おそらくは同じ論旨に違いないと思い込んでしまったわけである。ゆえにサイトウ氏と同意見の人が大勢を占めるようであれば、わたくしの誤読となる。

まあ、しかし、やはりどうしても不自然だろう。以下、再掲する。

マイナス十五度以上にはならない裏磐梯の地

裏磐梯は名前からして寒そうではあるものの、本州最北端にしてマイナス十三度なのであるから、もうちょっと暖かいのではないかと考えるのが自然であろう。
ちなみに、わたくしの居住地域は比較的温暖で、いちばん寒い時期でも零度になるかならないかである。それも未明の最低気温であって、日中は十度前後まで上がってくる。
おわかりいただけるだろう、青森の例は大寒波の襲った時であり、おそらくは最低気温であって日中の最高気温はそれ相応に上がるはずである。それが裏磐梯の場合は、あたかも終日にわたってマイナス十五度以下みたいに聞こえてしまうのである。そんな馬鹿な話はあるまい。

よって、この体験発表で言うところのマイナス十五度以上は、サイトウ・hage氏の言うところのマイナス十五度以下の意味だと考えるのが至当である。

シツコイようであるが、いちおう言っておくと、わたくしは以上・以下のいずれもありだと思っている。文章表現というのは前後の脈絡で判断すべき点がいくらでもあるのだ。たとえば深い井戸があったとする。もちろん下に向かって穴が開いているわけである。どのくらいの深さがあるか、推測で十メートル以上はあるだろうと書いた場合、まさか十メートルよりも浅いと考える人はおるまい。その意味でくだんの体験発表の文章はけっして間違っているわけではないと思う。

最後に、この話のどこが面白いかというと、わたくしは同じことが御書の拝読にも言えるのではないかと思ったのである。極端な話、多くの人が共通の解釈している、これ以外に解釈のしようがない、というような御文があったとしても、実はそれが大間違いかもしれないのだ。


三月十八日追記:すでにコメントを頂戴しており、おおむね一件落着の様子であるが、本稿引用文に重大な欠落があった。上掲の赤字部分はたった今、挿入したものである。まったく、いちばん重要なデータを抜かしてしまうとは、我ながらイヤになるほどのオオボケだ。

さらに追記:本稿の最後の段にも一字加筆した。どうも集中力に欠けているようだ。

2009/3/15

素敵な笑顔  
顕正新聞第1129号は御書講義の特集号であるが、四面以降には各地で行なわれた集会の記事が掲載されている。ことに七面の右上の記事が注意を惹いた。顕正会用語を使えば、わたくしはその体験発表に付された顔写真に「目が釘付け」になってしまった。

顕正新聞に載る体験発表や活動報告には必ず本人の顔写真が添えられている。それがひじょうにツマラナイのである。まるで運転免許証の写真みたいで面白味がないのだ。ようは表情が硬いのである。

ところがである。

くだんの写真は破顔一笑というのだろうか、まさに会心の笑みを湛えているのである。それがわたくしの見るところ、けっして作り笑いではなく、ものすごく自然な笑顔なのである。シアワセの絶頂期にいて、何の憂いもないかのような表情なのだ。それを見ているだけで、何となくこちらもシアワセな気分にひたれるような、そんな写真なのである。

実際、この人の体験発表を読むと、確かに歓喜に満ちている。これについては文句の言い様がないというか、ケチをつけるべきではないだろう。素直によかったねと声を掛けたいくらいだ。

笑顔の写真は衝撃的であり、効果的だと思う。
もちろん作り笑いではいけない。本当の、心の底から湧き出すような歓喜に満ちた笑顔であれば、それだけで顕正会は素晴らしい団体だと思わせることができるだろう。
もしかしたら顕正新聞を見て入信を希望する人が続々と出るかもしれない。そうなれば、この写真の採用を決めた人物の手柄であり、快挙と言えるだろう。
しかし、繰り返しになるが、作り笑いではいけない。そのような不自然な笑顔を陳列してもキモチワルイだけであり、逆効果である。ゆえに、編集部にはそれを見分ける能力が要求されるし、さらに本部首脳は顕正会員が笑顔でいられるような組織づくりを心掛けないといけない。

まあ、しかし、理屈はわかっていても現実には難しいことである。くだんの体験発表者にしても、はたしてこの先もずっと笑顔でいられるかどうか、それはわからないことだ。

さて、前言をひるがえすようだが、この体験発表には不審な点がある。わたくしとしてはケチをつけるつもりはないのだけれども、やはり指摘しておかなければならないだろう。

 着るものも蓑だけの、その御姿を偲び奉れば、凡夫の自身と大聖人様をくらべるのは恐れ多いことではありますが、昨年の今頃、私もマイナス十五度以上にはならない裏磐梯の地で、身を切るような寒さと豪雪の中、暖房もなく、一杯のお湯で命をつないでいたことを思い出しながら、大聖人様はたった二畳の三昧堂で、弟子を思い、重要な御書をたくさん御述作して下さった御姿が眼前に浮かび、涙が止まりませんでした。

どうだろうか? 不審な点に気がついただろうか?

宿題にしたい気分であるが、誰からもコメントがないと困るので書いてしまおう。上掲の中で不自然な部分を今一度、再掲しておく。

私もマイナス十五度以上にはならない裏磐梯の地で、身を切るような寒さと豪雪の中、

おそらく一般の人が読めば、すぐに気がつくはずだ。逆に顕正会員は気がつかない可能性が高い。
いやいや、そうではない。逆である。
一般人には訳のわからない文章であるが、顕正会員にはよくわかる文章、それが上掲である。

マイナス十五度以上にはならない

身を切るような寒さと豪雪

これが一般人にはものすごく不自然に感じるはずである。なぜならば、上段の「以上にはならない」が意味不明であり、どのように解釈すべきか迷うのである。

たとえば、マイナス十六度はマイナス十五度以上なのか以下なのか、どちらであろうか?

逆に、マイナス十四度はマイナス十五度以上なのか以下なのか、どちらであろうか?

いちおう、顕正会員の解釈としては、裏磐梯は寒いところであるがそれでもマイナス十五度よりも気温が下がることはない、ということではないかと思うがどうだろうか?

しかし、文章の整合性からすると逆で、裏磐梯はひじょうに寒いところでマイナス十五度よりも気温が上がることはない、と読むべきだと思うのだがどうだろうか?

やはり宿題にする価値がありそうだ。わたくしも考えているうちに頭が混乱してきた。氷点下の場合、一般にどちらの表現が適切なのか、それがわからなくなってしまった。たとえば、マイナス二十度以上というのは数値として表現するならば二十度以上三十度未満みたいになると思うが、文章表現の場合はマイナス二十度以下としたほうが寒さを強調できる、いや、それこそ文章表現は前後の脈絡も影響してくるので、マイナス二十度以上という表現もじゅうぶん寒さを伝えているかもしれない。本当にわからなくなった。

ともかく種明かしだけしておこう。顕正会員は、鎌倉時代は寒冷期に当たっており佐渡の冬はマイナス二十度をこえた、というように教わっているのである。ゆえに、くだんの体験発表者はこれを前提に文章を書いているわけで、顕正新聞購読者すなわち顕正会員も同様の認識を持っている。しかし、一般の人はその前提を知らない。ゆえに、おそらくは当該部分に違和感というか不審を感じるのではないか、とわたくしは思ったわけである。

2009/3/14

顕正新聞第1129号の話題  
顕正新聞の出来はいつも遅れがちであるが、とりわけ御書講義が掲載される時には大幅に遅れる傾向にある。理由は万全を期しているからであろう。実際の講義はもちろん口述である。それを活字化するとなると、冗長な部分は思い切った要約が必要であるし、逆に説明不足の部分があれば加筆する必要がある。その辺の加減が難しいのだろう。だから御書講義特集号は出来が遅れるのである。

第1129号には佐渡御書の講義が掲載されている。万全を期しているだけのことはあって、よく書けていると思う。ひじょうに充実した内容である。もっとも最近は年に数回しか講義を行なわないので、それでいてデタラメな内容だとしたらオハナシにならないだろう。本当ならば、こうした内容の濃い講義をもっとコンスタントに行なうべきであるが、おそらくは実現しないだろう。もう無理なのだ。

しかし、今回の講義にしても百点満点ではない。わたくしは次の部分が大いに気になった。

 「正法は一字一句なれども、時機に叶いぬれば必ず得道成るべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶うべからず」とは
 大聖人様はただ「妙法蓮華経」の五字を、身命も惜しまず弘通あそばし、この御修行により下種本仏の成道を遂げ給うたということです。
 そしてこれを鑑として、我等末弟に「時に叶う修行をせよ」と仰せられる。もし時に叶う修行をしなければ、いかに経論を学び御書をそらんじたとしても、成仏は叶わないのであります。


いかに経論を学び御書をそらんじたとしても・・・

この部分がひじょうに気になるのだ。善意に読めば、わからなくもない。だが、諸事情を勘案するならば、それで済ますわけには行かないだろう。

まず、善意に汲み取るならば、次の御書などが参考になるだろう。

すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。

つまり、「そらんじたとしても」の部分に力点を置けば、浅井先生の言っていることは正しいことであって、少しも間違いのないことなのである。けれども、そうは問屋が卸さない。誰もが善意に読んでくれるとは限らないのだ。

わたくしは思う、なぜに千経万論と御書を並列的に論ずるか、ということを・・・

浅井先生は開目抄の翌月にあらわされた佐渡御書を、開目抄は長文かつ難解であるゆえ、平易・簡略にして改めて門下一同に下された、それが佐渡御書である、と説明している。これはもちろん間違っていない。では、何が間違っているのか、それは開目抄の次の一節にヒントがある。

爾前の経々は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経々は多経なり、此の経は一経なり。彼々の経々は多年なり、此の経は八年なり。

いわゆる権実相対の辺であるが、これがくだんの佐渡御書と相似の関係にあることがわかるだろうか?

正法=法華経

千経万論=爾前権経


もはや説明の要もないことだが、あえて書いておこう。浅井先生のつもりとしては「そらんずる」のほうに力点を置きたかったのだろう、それはもちろん善意に読めばわかることだが、しかし、そもそもがここで御書を千経万論と並べて論ずること自体が間違いなのである。これではまるで御書を爾前権経の側に入れてしまっているようなものだからである。

当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。

もちろん暗記することと心肝に染めることは違うわけだが、このことは後述するとして、ここでの台家はいわば千経万論の入り口である。

開目抄の冒頭を拝するがいい。

習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。

あるいは曾谷入道殿許御書には、

 此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。

とある。

何しろ、一切世間の外道の経書は皆是仏説にして外道の説に非ず、という言葉があるほどなのであるから、千経万論とてあながちに否定できるものではないのである。浅井先生はこの辺のことがわかっていないのではないか、いや、わかっているけれども、あえて触れないようにしているのではないか、というふうにも感じられるところである。

先ほど、暗記と心肝に染めることは違う、と書いた。ようするに顕正会側の言い分としては、暗記はダメだけど心肝に染めることはいいことである、浅井先生は暗記をいましめているのであって心肝に染めることまでは否定していない、ということになるだろう。
しかし、現今の一念信解路線ではこれさえアヤシイと言わねばなるまい。つまり、多くの会員は浅井先生の講義を受けて、ああ、そうなのか、御書は勉強しなくてもいいのか、と解釈する可能性が高いのである。
もしや、先生はそこまで計算してあの文言を加えたのではあるまいか、という穿った見方すらしたくなるほどである。誤誘導とでも表現すべきところかもしれない。

かつて顕正会では御書の発刊を予定していた。わたくしの感触では、当時の浅井先生は本気でその実現を目指していた。だが、しかし、今はまったく考えていないのだろう。その気はさらさらないに違いない。

はからずも今回の講義がそれを証明したような格好である。

2009/3/12

祈請と起請  
先般、顕正会では佐渡御書の講義が行なわれ、それが顕正新聞に掲載された。これについては後日、渡辺氏への返事を兼ねて書きたいと思っている。

れん氏は保田妙本寺の信徒であるという。これまでにもそれを匂わせる発言を繰り返してきたわけだが、ここまで明確に示したのはこれが初めてではないかと思う。
究竟・未究竟については、わたくしのほうからは特に申し上げることはない。大石寺の大講堂にはくだんの御本尊の模刻が安置されていると聞いているし、そもそも一時期とは言え、妙本寺は日蓮正宗の末寺だったわけである。ゆえに正宗信徒には、取り立ててアレルギーのようなものはないはずであるし、わたくし自身も同様である。
ただし、現今の正宗では血脈の切れた本尊に功徳はないみたいな話も流れているので、わたくしの認識は間違っているかもしれない。
ちなみに顕正会は極端なアレルギー体質であって、ややもすれば日蓮正宗すらも邪宗と見なしているフシがある。もはやそうなると、大聖人の御真筆であってもそれが顕正会以外の所有であれば謗法であると、ほとんどそれに近いことを言っているに等しいことになるのだ。

今まで信じてついてきた指導者達は皆、誰一人として「法華経を身読した大聖人様が、魂を込めて御図顕下さった御本尊に、唯の一度も礼拝供養した経験の無い人達の集まった教団」であることに気付き愕然とするのです。

前田氏がどの教団を想定して書いているのか定かではないが、上掲はまさに顕正会に当てはまることである。

しかし、顕正会に御真筆御本尊がないのは無理のない話であって、大石寺の歴代上人の常住御本尊があるだけでもシアワセなことだと思う。ところが上述のごとく、今ではその大石寺すら否定しかねない状況になりつつあって、当然、常住御本尊を新たに頂戴する機会もなく、そうなると顕正会で独自に御本尊を用意しないといけないことになる。ゆえに、これが本尊偽造疑惑につながってくるのは必然のことであり、ますます窮地に追いやられることになるのだ。

まあ、それはさておき、話題を変えよう。今回は前回の続きみたいなものである。

巌虎氏から横やりが入りましたが、「日蓮」と名乗ってからの本尊は釈迦牟尼仏です。

清澄寺大衆中には「日蓮が御本尊」という御文が出てくる。前田氏の言い様だと、釈迦牟尼仏に決まってる、という感じに聞こえる。しかし、上掲は必ずしも正解だとは言えないのではないかとわたくしは思う。
すでに、れん氏がヒントを出しているごとく、大曼荼羅=大本尊の線もあるのだ。もちろん当該御文の場合は仏像であろうことがほぼ確実であるけれども、前田氏の言うように「日蓮と名乗ってからの本尊は」云々としてしまっては全体的な意味になってしまうので不正確である。
もう一つ言えることは、すでにわたくしはこれを虚空蔵菩薩ではないかと書いているわけであるから、それを踏まえてもらわないことには話にならない。つまり、わたくしはこれを立宗前のことだろうと推定しているわけで、そうするとここで「日蓮が御本尊」と仰せになられる「日蓮」の意味はあえて便宜的に現在の御名乗りに従って表記あそばしていると考えることもじゅうぶんに可能なことなのである。
前田氏はこの点をまったく考慮していないのではないかと思うが、いかがだろうか?

法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。

これは別の御書であるが、わたくしの引用意図がわかるだろうか?

まさかこの御文をもって、大聖人はすでに十七八の頃から日蓮を御名乗りあそばしていた、などと考える人はおるまい。同様に「日蓮が御本尊」も御文の前後を踏まえて、この出来事がいつ頃のことであるかを判断しないといけないのだ。それをせずしてヤミクモに、日蓮と名乗ってからの本尊は釈迦、などと言ったところでまったくの見当違いである。

「日蓮が本尊(久遠実成釈迦如来)にどれほどの思いで祈って、勝ち取った事なのかは清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩も良くご存知のはずである」

これは前田氏による意訳なのだろう。正直に言うと、これはよく書けていると思う。いわゆる文脈上から判断すると、こちらのほうが自然なのである。つまり、日蓮が御本尊〜此の事は虚空蔵菩薩も云々、という文章の流れからすると、御本尊と虚空蔵菩薩が別々であると読んだようが自然に感じられるはずなのである。

逆に言えば、わたくしの読み方には無理がある、不自然である、ということになる。それを承知でわたくしは、御本尊=虚空蔵菩薩を主張しているのだ。ゆえに、本当ならばもっと詳細に根拠を論じないといけないわけだが、どうもこの辺は教学的に関心が低いらしく、ネットで調べてもあまり言及している人はいないようである。そういうわけで、張り合いがないのでやめておこうと思う。

それにしても素朴な疑問がある。

もし大聖人が釈尊像に起請を結いつけたのだとすると、日蓮宗あたりではそうした風習というか祈祷の方法が今でも行われているのだろうか?


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ