2009/4/27

悩乱しているのは誰だ?  
昨夜のサイトウ氏からのコメントであるが、ヤラレタと思った。正直に言って、ひじょうに説得力がある。理路整然としていて、非の打ちどころがない。見事に破折されてしまったようなアンバイである。

おそらくは多くの顕正会員が拍手喝采していることだろう。もちろん閲覧していればの話だが・・・

わたくしは編集部批判と題して、顕正新聞の編集部は悩乱している、という意味まで書いてしまった。だが、悩乱しているのはオマエのほうだ、という声が聞こえてきそうである。
いちおう、この件に関しての白黒は、実際の音声を確認するまでわからないことである。もし、音声をお持ちの人がいれば、ぜひとも公開してほしいと思う。その結果、わたくしの邪義(?)が明白になったとしても、一向に構わない。逆にそのほうが痛快である。
この際、顕正新聞の編集部からの逆襲を期待しておこう。

一方で、早朝になってニシケン氏からコメントが寄せられた。これは一種の修正案なのだろう。ようするに、くだんの婦人部総班長の登壇を原文どおりであると認めた上で、論じているのだと思われる。

四月十五日号はトップを飾るべき記事がなくて困っていた。編集作業の過程で、総班長の登壇に半年前の日曜勤行の指導が引用されていることに気がついた。これはさすがに古い話だとは思ったが、他に適当な材料がないのでこれをトップ記事にしてしまった。おおむねこのような意味になるだろうか?
もちろん真相はわからないが、これが事実であれば編集部の苦労が感じられるところである。早い話が浅井先生に原因がある。先生が毎月コンスタントに御書講義を行なっていれば、ネタに困ることはないのだ。ところが最近は年に数回しか講義をしない。だから載せるべきネタに窮しているわけである。

さて、今日は婦人部関連ということで、副総合婦人部長の登壇を紹介しておこう。

 そしてこの佐渡御書を心肝に染めるならば、たとえ学会が死に物狂いで謀略を仕掛けてこようと、世の中がどれほど乱れようとも、大聖人様が「大地を的とするなるべし」と御断言あそばされた広宣流布のゴールまでの「あと十有余年」を、全員が師子王の子となって揺るぎなく貫かせて頂けるのだと、確信でいっぱいであります。

これはすごい文章である。

何もわたくしはアゲアシ取りをしているつもりはないのだが、この書き様だとあたかも大聖人があと十有余年で広宣流布のゴールを迎えることを断言しているごとくに読めてしまうのである。
大聖人が大地を的とすると仰せあそばしたのは事実である。だが、しかし、それが何年後のことであるかは明言していない。有名な御文で言えば、時を待つべきのみ、ということなのだ。

すでに顕正会の上から下までが狂っているというか感覚的に麻痺しているのだと思う。この際だから、教えてあげよう。

あと十有余年というフレーズそのものがひじょうにおかしいのだ。

おそらくは来年も「あと十有余年」なのだろう、再来年も「あと十有余年」であり、その次の年も、さらにその次の年も、「あと十有余年」なのだろう。これはおかしいだろう。誰が考えたって、おかしいはずだ。

もし顕正会が本当に大聖人の弟子としての自覚と責任を持っているのならば、この点をよく考え直して再構築する必要があると思う。

2009/4/26

編集部批判  
登壇経験者氏からコメントを頂戴した。しかし、どうも誤解があるようなので、まずは以下のリンク先をご覧になられることをお願いしたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1243.html

登壇者の原稿を事前にチェックして、あれこれと手直しをするのは当然のことだと思う。これを厳しく咎める人もいるわけだが、わたくしはそうではない。
また、実際の登壇と新聞紙上の文章が違っている場合がある。人によってはこれを改竄であると大騒ぎするが、わたくしは違うと思っている。

次の話は改竄ではないけれども、ひじょうに問題を感じた事例である。

http://white.ap.teacup.com/ganko/804.html

ようするに、旧青年会館の件であるが、震度五弱で倒壊してしまうという発言を新聞掲載時には削除してしまったのだ。

さすがにこれはマズイと思ったものだが、この例に限らず、実際の発言と新聞紙上の活字が異なっている例はたくさんある。おそらく注意深く調べれば、毎回のように発見できるだろう。
だが、わたくしはその大半を問題ないと思っている。むしろ活字段階で加筆修正を行なうことは当然であり、積極的にすべきことだと考えている。誰の講演でもいいが、いわゆるテープ起こしをした文章というのはたいていが拙劣であって、読みにくい場合が多いのである。ゆえに、これを読みやすくするためには、冗長なところは削るべきだし、逆に説明不足の部分は大幅に加筆するべきだと思う。
まさか、これを改竄と呼ぶ人はおるまい。それは常識知らずもいいところだ。

前置きが長くなった。

前回の拙稿では婦人部総班長の記事を取り上げ、実際の登壇と新聞紙上の文章が違っているだろうことを書いた。これはテープなどで確認しないことには話が進まないのであるが、どうやら登壇経験者氏の話し振りからして事実のようである。
氏はこれを、普通に行なわれていることであって別に問題はない、と書いておられる。上述のごとく、わたくし自身も活字化するに当たっての加筆修正を認めている。
そうすると、いったい何が問題なのか・・・ということになる。

加筆修正というのは文章を整えることである。読みやすくすることだ。それをわざわざ変な文章にする馬鹿がどこにいるのか、とわたくしは言いたい。

すでに書いたように、ビデオ放映などの音声と新聞の活字では違っている場合がたくさんあるはずである。しかし、わたくしがそれを問題にすることは滅多にない。なぜならば、活字化される段階においては、より洗練された文章になっているからである。
しかし、今回の場合はどうかというと、わたくしはその音声を確認すらしていないわけである。ゆえに、本当ならば実際の登壇と新聞紙上の文章が違っていることなど、絶対に気がつかないはずなのだ。ところが、気がついてしまったのである。
つまり、それほどにあの文章は不自然なのだ。

繰り返しになるが、実際の登壇を確認してもいないのに、どうしてそれが新聞紙上では違っているなどと断言できるのだろうか?

できないはずである。

ところが登壇経験者氏はそれを前提に話を進めてしまっているわけである。

新刊本が出たとしよう。本屋でそれを購入して読む。著者はこの書にずいぶんと力を入れて、何度も書き直した。ゆえに初稿と最終の稿では相当に違っている。しかし、そんなことは読者のあずかり知らぬことなのだ。
今現在のわたくしはビデオ放映などにはまったく参加していない。ましてや婦人部班長会の音声を聴く機会はほとんどゼロである。つまりは顕正新聞掲載の文章を完成品として読むわけであって、実際の登壇がどうだったかなど知る由もないし、いわんや最初の原稿などはまったく知らぬことなのである。
それでいて、記事と登壇に差異があることに気がつくのは、その文章がデタラメ過ぎるからである。

この責任は編集部にある。

前回を踏まえて、今一度書こう。音声を確認していない以上、わたくしの書いていることはあくまで推測に過ぎない。ゆえに、もしこれが事実だったらという条件付きであるが、もし事実であれば編集部は悩乱していると言わざるを得ないだろう。

最後に、これを改竄と言うべきかどうかであるが、厳密には改竄とは別次元のことである。しかし、顕正会がこうした小細工を弄する組織だということを証拠づける意味で、好都合なサンプルだと言えるだろう。前回のタイトルはそのような含みを持たせたわけである。

2009/4/25

記事改竄発覚か?  
山門入り口氏は顕正会に恨みがあるらしい。昨夜と今朝の二つのコメントを拝見して、わたくしはそのように思った。

拙ブログは平均すると顕正会に批判的である。しかし、たまには擁護的なことも書く。すると、すかさず山門氏から反論が寄せられるのだ。
わたくしはなるべく相手の主張を善意に受け取るように心掛けているので、その反論が当を得ているものであれば、特に問題にはしないのである。それは先日のフェイクへの対応を見れば、よくわかるだろう。
ゆえに山門入り口氏に対しても同様であり、何でもかんでも反論してやろうとか、そういうつもりは毛頭ないのである。

逆に山門入り口氏を見ていると、どうも顕正会に対しては何でもかんでも批判してやろう、もっと言えば、ケチをつけてやろうというような姿勢に見えてしまうのだ。その辺からして、何か恨みがあるのだろうとわたくしには感じられるのである。

それはさておき、先日の渡辺氏のコメントに関連して、書きたいことがある。

簡単なことですよ。
「私の幼稚な原稿を素敵な文章に加筆してもらってうれしい」という心境でしょう。
洗脳されている間はわかりません。


渡辺氏はヤラセ登壇の実態について一例をあげているわけだが、他にもいろいろあるのだろう。昨年だったか、「正義にめざめて」の記事がデタラメであることが、トチロ〜氏によって暴露されたということもあった。

わたくしもこれまでいろいろと不審な点をあげつらってきたわけだが、今回、もしかしたら顕正新聞の第1134号が決定的な証拠となるかもしれないと睨んでいる。
以下、やや煩瑣ではあるが、二つの記事を並べてみたいと思う。一つは第一面に載る日曜勤行における浅井先生の指導である。例の、半年前の行事を今頃になって報道しているという、マヌケな記事である。もう一つは五面の婦人部総班長の記事であるが、これは三月下旬に行なわれた班長会における登壇である。

 広宣流布をめざし、共に尊敬し、励まし合い、いたわり合い、この麗しい団結の中に共に信心口唱していく。
 その中にこそ生死一大事の血脈があり、それが大聖人様の弘通の所詮である。
 よって広宣流布の大願も叶うのであります。


 三月度総幹部会において先生は、佐渡御書は御遺命守護の戦いの最中に七回講義し、広布前夜を迎えて改めて拝読したことを明かして下さり、「仏法に身命を惜しまぬ者、必ず仏に成る」との仰せ、いま時に叶う修行は「信心口唱と広宣流布のお手伝い」であること、摂折二門を弁えて「国立戒壇こそ一国折伏の終着点であること」等の大事をしっかりとつかんでほしいと指導下さいました。
 御遺命守護の戦いに連なれなかった自身も、今こうして広宣流布最終段階の重大な時に、佐渡御書講義を頂けた有難さが肚の底から湧き上がり、先生に対し感謝の思いで一杯です。
 「広宣流布をめざして、お互いに尊敬し、励まし合い、麗しい団結の中に共に信心口唱していく。その中にこそ生死一大事の血脈があり、それが大聖人様の弘通し給う所詮である。よって広宣流布の大願も叶うのである」
 との先生の指導を実感として味わった今こそ、大確信で佐渡御書を身読させて頂き、茨城に新しい潮流を巻き起こし、四月こそ加速度をつけた大前進で、新水戸会館建設をご決断下さった浅井先生に、ご報恩の大折伏でお応えする決意です。


あるいはわたくしのほうに重大な錯誤があるのかもしれないが、いちおう考えていることを書いてみよう。

上掲の婦人部総班長の記事は、おもに佐渡御書の講義を云々しているわけである。ところが途中で浅井先生の言葉が出てくるわけだが、それがなんと同じ新聞の一面の文章そのものなのである。
一面の記事は昨年の十月五日に行われた日曜勤行の指導であり、総班長の記事は本年三月二十八日であるから、前後関係から言えば特に問題はない。
しかし、佐渡御書を云々するくだりで、唐突に半年前の日曜勤行の指導が出てくるのはいかにも不自然なことである。しかもそれは生死一大事血脈抄なのだ。

ゆえに、これは一面の記事を見本にして五面の記事を書いたのではないかと、わたくしには思えてならないのである。

同新聞は四月十五日号である。当然ながら総班長が一面の記事をマネて書くことはできない。つまり、編集部が書いたと考えられるのだ。
くだんの総班長が登壇したのは事実だろう。問題は上掲のごとき文言があったかどうかである。
この決定的な証拠は婦人部班長会に参加した人が握っていることになる。テープでも残っていれば、決定的であろう。

もし、わたくしの推測どおりだとしたら、顕正新聞の編集部もオシマイである。もはや悩乱しているとしか言い様がない。

2009/4/24

スイッチオン?  
昨日は入れ違いで、渡辺氏よりコメントを頂戴していた。氏はかつて顕正会の本部に勤めていたので、その証言には一定の信憑性がある。いわく、最初の本部会館は五十六畳だった、と。わたくしの漠然とした記憶では、もう少し狭かったように思うのだが、今となっては確かめようがない。東京会館が完成した後も、しばらくは第二会館として使われていたが、今は取り壊されてしまって存在しないからである。

また、当初の発表では、百畳敷きの本部会館を建てる、ということだったようだ。これは浅井先生の大風呂敷が今に始まったことではないことを証する一つのエピソードと言えるだろう。

渡辺氏からはもう一つコメントを貰っているが、それは別の機会に譲りたいと思う。

さて、ニシケン氏から迅速なレスポンスを頂戴した。

巌虎さんこそ顕正会員の心理が理解出来ないようですね。
地元に会館建設と聞いただけでどれ程嬉しい事なのか。
ワクワクする思いで完成をまっているのですよ。
大本営の発表の如く、顕正会が爆発的な発展を遂げているならば、さぞかし立派な会館が建つだろうと期待するのですよ。
期待が大きければ大きいほど、会館を見た時「ガッカリ」するのですよ。

大きな大会の結集人員など水増しがあっても会員には全く分かりません。
その他、誇張しているような事に疑いをもっても推測でしかありませんよ。
しかし、会館は現実の物です。
顕正会の爆発的な発展がどれほどの物なのか?
会館を見ることによって信憑性が増すのですよ。
小さい会館を目の前にした時、夢から覚めるように客観的に顕正会を見るようになるのです。
ただし、盲信者は別だろうと思いますがね。

以降は、他の会館建設を聞いても大したこたぁ〜ないと思うようになりましたね。


氏の言うガッカリは、まさにご自身の経験に基づいてのことのようだ。そうであれば、これを頭ごなしに否定することはできない。この点を踏まえて、わたくしなりに再構成するならば、次のごとくなるだろう。
顕正会は今盛んに「あと十有余年」を主張している。あたかも十数年後には広宣流布が達成されるかのような、そんな言い方をする会員もいるほどである。しかし、地方会館の数にしても、一つの会館の規模にしても、とてもじゃないが広宣流布の最終段階を彷彿させるものではない。それこそ広宣流布を実現させるためには、本部会館クラスの建物を全国都道府県に建てなければ無理だろう。今の地方会館の規模で言うならば、都道府県ではなく市町村レベルにおいて、まさに全国津々浦々に会館が建たなければいけないだろう。
おそらくニシケン氏の発言は、こうした背景を踏まえてのことだと思われる。文中、「盲信者は別」とあることからしても、わかることだ。

まあ、しかし、わたくしが前回書いたことも、あながちには間違っていないことだと思う。盲信かどうかは別にして、今までよりも大きな会館を建てて貰えれば、それはそれで嬉しいことだと思う。

わたくしの個人的な話を書くと、自分の所有している自動車はいわゆる普通車であるが、もうかれこれ十年乗っている。新車で購入して十年である。そろそろ買い替え時であるが、今のご時世からしても、己れの経済事情からしても、同じグレードの車を買うに憚られる状況である。そこで思い切って軽自動車にしようかとも考えている。おおよそ話は見えただろう。たとえ今よりもグレードの低い車だとしても、新車で購入すればそれなりに嬉しいはずなのである。

まあ、これはどうでもいいことだ。

そろそろ話題を変えようかと思いきや、今度は山門入り口氏からのコメントである。正直に書こう、前回のコメントはそれなりによく書けていると思ったが、今回はぜんぜんダメである。

宗門より会員数が多いと言ってる顕正会。
しかし、その活動拠点である、会館自体が収容人数も一部屋では、すし詰めにして末寺と同等程度の余裕のなさ。

だから、ちっちゃい会館と言ってるだけであります。
見た目でも小さいですしね。
また、比べるのが酷ですが、学会の会館と比べたら、本当に小さいと判るでしょう。
 学会の小規模な会館と比べても小さいですよ。


こういうのをスリカエと言うのだ。念のために、前回のコメントを紹介しておこう。

現時点では憶測ですが、五十八畳の仏間て、隣接してる、集会室、談話室とかを可動式の壁で仕切っていたりするかも知れません。
そうなると、実際のスペースが五十八畳しかないて事もありますね。
 また、柱とかもあったりして、もう少し狭いかも知れません。
まぁ〜完成した写真公開されれば、ちっちゃい会館て判明するでしょう。


推測で書くことが悪いと言っているのではない。ようするに、可動式の間仕切りがあってそれをぜんぶ外してしまえば五十八畳あるが普段は仕切りがしてあって狭くなっている、というような意味を山門氏は書いているわけである。さらに端折って言えば、顕正会は誇張が過ぎるので五十八畳とは謳っていても実際はもっと狭いのではないのか、というような憶測を述べているわけだろう。しかるに今回のコメントでは、宗門末寺や創価学会の会館と比較して云々しているわけである。

前回書いたごとく、これは札幌会館が完成した暁に再論すればいいことだと思う。

さしあたっては本当に五十八畳あるのかどうか、これが最大のポイントである。それから談話室と集会室の広さがどれくらいあるか、この辺が気になるところである。

創価学会の会館と比べて広いか狭いかなどはまったく関係のない話である。

2009/4/23

ブログの中の懲りない面々  
さてと、どこから手をつけるべきか?

まず、ニシケン氏の主張であるが、いったい、どこに主眼があるのか、やや不明瞭のような気がする。
どうも字面を眺めていると「ガッカリ」という言葉にこだわりがあるように感じられるのだが、その意味では会館の収容人員など大した問題ではないだろう。ようするに、顕正会にはガッカリするような事案が他にもたくさんあるからである。
わたくしの思うに、ニシケン氏は活動会員の心理を読み取れていないというか、読み誤っているのだと思う。

先日も書いたが、わたくしは以前、会館の畳の数を数えたことがあった。しかし、今はすっかり忘れてしまった。そういうわけで、以下の話はあてずっぽうであることをお断りしておく。

わたくしは音羽時代の本部を知らない。常盤台の本部からである。
常盤台に建った最初の本部会館は今の地方会館よりも小さいくらいではなかったかと思う。その次には公園のすぐ脇に新会館が建った。今の東京会館であるが、これは一気に倍以上の広さになったように感じたものである。
さらに今度は寿能町に移転した。言わずと知れた、今の本部会館である。その時も、やはり一気に倍以上の広さになったと感じたものである。

地方会館においても同様のことが言えるだろう。最初は誰も借り手のつかないような木造の古ぼけたアパートの一室から始まって、次には貸ビルの一室、さらに組織が大きくなるとビルのワンフロアを、さらにはビルを丸ごと借りるとか、買い取ってしまうとか、そのようにして徐々に大きくなってきたわけである。真面目に活動してきた会員にとっては、それが励みであり、悦びなのだ。

以上のような理由から、活動会員が新会館にガッカリすることはないと思う。むしろ、それとは別次元において、いつまで経っても成果に追いまくられている現実に嫌気がさすのだろう。ちなみに、きわめて逆説的ながら、そのキッカケが新会館とは言えるかもしれない。つまり、新会館が建てば一時的には嬉しい気分になる、しかし、それは錯覚に過ぎない、結局のところ会館が新しくなっても組織の実態は変わらない・・・という現実に気がつくことになるのだ。

山門入り口氏からも会館の広さについてのコメントが寄せられている。

さて、会館の収容人数で五十八畳の仏間の部分ですが、導師が座る位置とその前の部分は、人が着席しませんよね。
約2畳のスペースは、含まれない。
もう少し、細かいことをいえば、御宝前前の一畳一列分は、人が着席しない部分ですね。
 両サイドは、座る場合もありますが、勤行、会合などでは、空きスペースがあります。
 会館の入仏式などの映像を見れば、畳二列は空きスペースですね。
厳密に言えば、五十八畳をフルに使用されてない。

ニシケンさんが書かれてる1階部分ですが、ひいき目に見ても、談話室が半分あれば良い方でしょう。
他は、玄関、ロッカー、受付、トイレ、階段、事務所と最低限必要なスペースで使えない部分ですし。

屁理屈を言えば、豚小屋ではあるまいし、会員を詰め込んで収容する事が、会員の為めを思ってる行為か?て思いますね。
廊下や階段は避難通路であり、収容目的とは、言えない部分でしょう。

現時点では憶測ですが、五十八畳の仏間て、隣接してる、集会室、談話室とかを可動式の壁で仕切っていたりするかも知れません。
そうなると、実際のスペースが五十八畳しかないて事もありますね。
 また、柱とかもあったりして、もう少し狭いかも知れません。
まぁ〜完成した写真公開されれば、ちっちゃい会館て判明するでしょう。


先日の苦言が効を奏したものか、かなり緻密な文章になっている。しかし、わたくしの率直な感想を言えば、まだ甘いな、といったところだ。

そのポイントは最後の一行にあると思う。

ちっちゃい会館

ようするに結論ありきなのである。チッチャイと言わんがために、その方向性であれこれと材料を並べているだけにしか見えないのだ。まだ建ってもいない建物をあれこれ言っても仕方がないだろう。ゆえに完成してから、実地調査をするしかない。
ここでの最大の争点は、実際の会館が本当に五十八畳あるかどうかだと思う。これはその時までのお楽しみというか、お預けということでどうだろうか?
なお、わたくしは会館が建ってもわざわざ確認しに出掛けるつもりはないので、どなたかの、おおむね現役会員ということになるだろうが、その証言を待つことにしたいと思う。

のび太氏からフェイク第1019号の紹介をたまわった。

浅井は顕正会による広宣流布を急がないと日本が亡ぶとか、人類が滅亡する、隣国が侵攻してくると会員に恐怖感を植え付けている半面、半年前の記事を今頃、トップで報道するとは、余りにも間の抜けた新聞作りだ。

これは確かにそのとおりだ。顕正会員はフェイクの口の悪さに心中穏やかではないだろうけれども、素直に受け取るべき点だと思う。
強いて言えば、「半年前の記事」ではなく、「半年前の行事」としたほうがよさそうに思うが、まあ、それはどうでもいいことだ。

わたくしは見出しの文章が気になった。

顕正新聞は半年前の行事を捏造して報道

ここでの捏造が何を意味するのか、わたくしには読み取れなかった。

2009/4/18

キモイブログ?  
山門氏がレスを入れると厳虎氏のスイッチが入るようだ。(笑)以前も伏字の件でスイッチオンんになった。
過去世は、猿とカニなのか犬なのか?
どちらも想像の範囲で語る訳だから、多少の論理性があっても偉くはないでしょう。(笑)

「上から目線」という言葉が、あっしの周囲でよく言われる。興味のある方は自分で調べてください。
最近、管理人の言動をみていると感じます。

上から目線の不軽菩薩ってキモイよね!


のび太氏からのコメントである。

これはけっこう核心を突いていると思う。山門入り口氏に対して、やや過剰気味の反応を示しているだろうことは、わたくし自身に自覚がある。また、上から目線ということも、おそらくはそのように映るだろうことも承知しているつもりである。

コンセンサスという言葉がある。
わたくしは拙ブログを独白ブログと位置付け、自分の好き勝手なことを書いてきた。しかし、当初はコメントを頂戴するとそれなりに丁寧な返事を書いていた。いわゆる「ですます調」の文章でお返事申し上げるようにしていた。
しかし、途中からはほぼ今の文体に固定して、種々のコメントに対しても独白と同様に、いわばゾンザイな物言いに終始してきたわけである。
もし、これが気に入らないのであれば、拙ブログなど閲覧しなければいいし、ましてやコメントなど寄せなければいいのだ。
逆に、これは巌虎の個性でありキャラクターとして許容できると思うならば、今後もお付き合い下さればいいのである。

ただ、それだけの話である。

ようは、かくも無骨というか無愛想なブログにもかかわらず、コメントを寄せて下さるということは、その人とわたくしの間においてコンセンサスが取れているからなのだと思う。ある意味では、のび太氏もそれをじゅうぶんに承知しているのだろう。だからこそ「キモイ」と言えるのだと思う。
わたくしはけっこう辛辣なことを書いている。主には顕正会に対してであるが、時には宗門に対して、あるいは創価学会に対しても同様である。個人に対する場合もある。
当然、逆襲があるはずなのだ。それをまさか、他人に対して辛辣なことを書いておきながら自分に対する同様の言葉は許せない、というのは虫が良過ぎる話だ。その内容が真実であれば、どれほど辛辣であったとしても真摯に受け止めなければならない、と思うわけである。

しかし、キモイとは・・・

確かにそうかもしれないが、いちおう自己弁護をしておこう。
伏せ字問題については、今もまったく考えに変わりはない。詐欺師と書くべきところを○欺師として、いったいどのようなメリットがあるのだろうか、それが理解できないのである。これは相手が山門氏だからではない。誰が書いても同じことである。
また、根拠の話も同じである。ようするに誰かの発言に対して根拠を求めることはごく普通のことである。また、発言者がそれにでき得る限りの回答をすることも当然のことである。いったい、それのどこに問題があると言うのか、逆に教えてもらいたいくらいである。
つまり、わたくしとしてはそれほど間違ったことをしているつもりはないし、書いてもいないつもりなのである。しかし、それがトータルの印象としてキモイということなのであれば、もはやどうしようもないことだ。

ちなみに、わたくしは山門入り口氏のブログを欠かさず閲覧している。愛読者と言ってもおかしくないだろう。氏の精力的な更新には脱帽するものである。
ある意味、同業者(?)である。ようするに、顕正会批判という意味において、同じ方向性にあるわけだ。
面白いことであるが、どこの世界でも同業者というのは、案外に仲が悪かったりするものである。その理由はさまざまだろう。単にライバル心ということもあるだろうし、近親憎悪みたいな複雑な心理もあるかもしれない。
いずれにしても氏とわたくしとの明確な違いは、批判の手法が違っていることだろう。このことは再三書いてきたことなので繰り返さないが、ともかく手法に違いがあることは確かだと思う。
まあ、しかし、いずれにしても氏の精力的な更新は驚嘆に値する。なかなかマネのできることではない。

話は変わるが、前回分の拙稿に、ニシケン氏よりコメントを頂戴した。

具体的事案に入る前に総合的な意味で、おっしゃるごとく顕正会は何でもかんでも大げさであり、誇張が過ぎるキライがある。ゆえに、あとでガッカリすることになるのだ。

さて、札幌会館の収容人員であるが、もちろん誇張があることは事実だろう。しかし、わたくしはおおむね五百名を信用していいのではないかと思っている。より正確に言えば、五百名弱であろう。少なくとも四百名以上は入るという意味だ。
ニシケン氏の考え方をじゃっかん修正して、わたくしは一畳あたり四人半として、集会室と談話室が十畳ずつとして、そこに五十八畳の仏間を加えると、七十八畳になる。これで合計三百五十一名となる。
さらに廊下と階段を含めれば、残りの五十名はどうにかなりそうだ。

四人半はキツイだろうとの反論が予想される。

しかし、わたくしの経験からすると、日曜勤行はそのくらいギチギチに詰め込んで行なわれている。今の本部会館はよく知らないけれども、東京会館が本部会館だった頃の日曜勤行には参加していたので間違いないことである。

そもそもニシケン氏のデータにも不確かなところがあるわけで、集会室や談話室の広さは推定でしかない。単純に考えれば、二階に五十八畳のスペースがあるわけだから、一階にもほぼ同じスペースが確保できる道理である。ゆえに、この辺を考慮して、計算し直す必要があることだとは思う。

いずれにしても現役会員からの正確な証言がほしいところだ。ひじょうに簡単な話である。ようするに畳の枚数を数えればいいだけのことだからである。
札幌会館はまだ無理にしても、既存の各種会館の仏間や集会室の畳の数をコメントしてもらえれば、ひじょうに有意義である。
そういえば、わたくしも通っていた会館の畳を数えたことがあったけど、すっかり忘れてしまった。メモでも残しておけばよかった。

2009/4/12

妄想の世界  
顕正新聞ネタも今日で一区切りである。

先日、たまたま自作自演という話題が持ち上がったわけだが、確かに顕正会では上昇ムードを演出したいという目論みがあって、それが顕正新聞のそちこちに見え隠れしている。たとえば、第1133号の一面下段に掲載されている記事などは、編集部の誰が書いたものか知らないけれども、ひじょうに露骨である。

札幌会館 いよいよ着工!
 九月落成、五百名収容可能


この見出しには、さしたる問題はない。わたくしが気になったのは、本文中の次のくだりである。少しばかり長いが、どこが問題なのか、閲覧者にも考えていただきたいと思う。

 建物は鉄骨造二階建てで五百名収容可能。巨大地震や様々な災害を想定した万全の対策が施されている。

 極めて堅牢な造りでありながら、外観は清楚にしてモダン。明るい御影石調の外壁は落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 会館内部も細部に至るまで美しく機能的で、一階は玄関ホール・集会室・事務室・授乳室、二階は荘厳な須弥壇が設えられた五十八畳の礼拝室と談話室、また全室に同時放送システムやビデオモニター等も完備される。


便宜的に空行を入れたが、他意はない。

端的にツッコミを入れたい。完成してから言えよ、ってことである。

文中の「施されている」という言い回しが気に入らない。わたくしならば、「施される」としたいところだ。
いわゆる設計施工で言えば、今は設計の段階なのだから、いよいよこれから「施される」わけだろう。「施されている」は完成後の表現である。
同様の意味で、二つ目の段落もおかしいと思う。雰囲気を醸し出している? それはないだろう。まさか工事現場が雰囲気を醸し出しているわけではないだろう。これは修正不能の文章である。
あるいは完成予想図を見て・・・当該記事には完成予想図が出ているのだが、それを見ての感想ということなのだろうか?
いちおう、そのような会通もできなくはないが、しかし、やはり完成してから書くべきことだと思う。

三番目の語尾は正しい。しかし、冒頭の「会館内部も細部に至るまで美しく機能的」がひどい。すでに説明済みだが、さらに言えば、完成予想図は外観だけなのに、どうして内部のことがわかるのか、というツッコミも可能だろう。

いずれにしても、完成してから言うべきことを先に言ってしまっているのは、どういうことなのだろうか?

それが最初に書いた、上昇ムードを演出したい、ということだと思う。だから事実と違うことを平気で書くのである。極端な話、会員が意気消沈していたとしても、新聞報道では逆のことを書く。いわゆる大本営発表みたいなものだ。

それにしても、ひどい記事だと思う。ツッコミが入ることを予想できないものかと不思議に思う。
あるいはすでに正常な判断能力を失っているのではないかと疑いたくなるところである。
もし、それが事実であるならば、その象徴は「あと十有余年」なのだろう。もはや現実を直視できずに、妄想の世界に入り込んでしまっているとしか言い様がないことである。

妄想だからこそ、完成していない建物を、清楚だの美しいだのと言えるのである。

2009/4/11

記憶の上書き  
いわゆる謀略ビラについて、顕正会の自作自演ではないか、といった疑惑が取り沙汰されている。山門入り口氏に言わせると、その可能性があるとのことだ。そこでわたくしは根拠を求めた。以下はその回答である。

証拠、根拠をこれ以上明かすことが出来ないので、あえて、ご指摘されたことには、根拠も、証拠もだせないと認めます。

この言い回しだと、実は証拠はあるのだが事情があって出すことができない、というようにも読むことができる。なぜならば、氏のコメントは他の事案においても、思わせぶりな内容が多いからである。
しかし、証拠はあるけど出せない、というのは無いのと同じことなのである。ましてや今回の場合、「これ以上明かすことが出来ない」とは書いているものの、以上も以下もありゃしない、一つも根拠を示していないのである。

別に気取って敷居を高くするつもりはないのだけれども、拙ブログにコメントを入れる時にはよく考えてからにしてもらいたい。わたくしがどのような反応を示すか、そこまで想定して書くべきである。

○○の可能性がある・・・

こういう書き方は使い勝手がいい。わたくしも使うことがあるし、誰もが使っていることだと思う。
しかし、可能性とさえ表現すれば、何を書いても許されるのかと言えば、それは違うだろう。当然ながら根拠が必要なのである。もし根拠のないことであれば、その内容によっては誹謗中傷になってしまうからだ。
もちろん、逆も言えることである。たとえば、浅井先生は偉大である、もしかしたら日目上人の再誕かもしれない、などと言う人がいたとする。やはり根拠が必要なのだ。この場合、根拠もなしに言っていれば、それはただの盲信であり、狂信ということなのだ。
つまり、方向性が逆なだけで、結局は同じような間違いを犯していることになりかねないのである。そこに気がつかないといけないと思う。

ところで、顕正新聞第1133号に載る「正義にめざめて」に、いかにもヤラセっぽいものがあった。この「ヤラセっぽい」というのは、ヤラセの可能性がある、とほぼ同義である。ゆえに根拠を述べないといけない。どこがどのようにヤラセっぽいのか、それを書かないといけない。それを今日は書いてみたい。

五面に昨年十一月に入会した婦人部員の登壇がある。役職を持たない七十八歳の人だ。昭和二十九年から昭和五十三年まで創価学会員だったという。どうも文章を読む限り、その後は法華講だとか正信会だとかに縁をした様子は見られない。この点は重要である。

わたくしは二つのことを疑問に感じた。まず一点目は次のくだりである。

 また正本堂完成後、参詣した際、御宝前の大前机に張り付けられた、寝そべる池田大作の裸体レリーフを目にしたときにはギョッとし、「なんでここに池田大作の裸像が彫られているのか」と開いた口がふさがらず、身震いし、正本堂が御遺命の戒壇であることにますます疑いが強まるばかりでした。

本当は全文紹介しないと理解しづらいのだが、ともかくこの部分はきわめて不自然である。具体的には「ますます疑いが強まるばかり・・・」というのがおかしい。この書き方だと、誰もが前段において同様の話題が書かれていると想像するはずである。ところが正本堂の話題は上掲の部分が初出なのである。

つまり、この文章は先入観に凝り固まった人が書いたのではないか、と想像されるのだ。

正本堂は御遺命の戒壇にあらず、という結論ありきの文章であり、しかもそれが骨の髄までしみこんでいる人の文章と思われる。だからこそ前後の脈絡を無視した文章になっているのだ。普通ならば、上掲に先んじて何か正本堂に関することで疑問に思うことが書かれていなければいけないのだ。その上で、ますます疑問が強まった、と書けば自然である。

裸体レリーフについて、わたくしは知る立場にないので詳しい人に聞いてみたいと思うが、あれは信徒の席から確認できるサイズなのだろうか、ということである。

もしかしたら、これもヤラセかもしれない。つまり、これは後年、創価学会において次々に造反者が出て、その折に暴露された話の一つではなかったかと思われるのである。ゆえに御開扉の時に信徒席から見て、そのレリーフの主を池田大作だと認識できたかどうか、ひじょうにアヤシイことなのである。

顕正新聞第457号と聞けば、ずいぶん古く感じることだろう。これは平成元年の御遺命守護特集号であるが、そこにくだんの写真が掲載されている。
わたくしはつい先ほどまで知らなかったというか、考えもしなかったことであるが、そもそも顕正会がこれを撮影できるわけがないのである。すると、いったいどのようにして入手したのか、それが気になるところである。
これはどうやら、週刊誌に掲載されたものを転用したもののごとくである。

いずれにしても裸体レリーフが信徒席から確認できるかどうか、そこがヤラセかどうかを決定づける最大のポイントであろう。

さて、二点目である。

 間もなく正本堂が音を立てて崩れ、会員の尊い浄財、精一杯の財の巨大金庫が壊わされた感覚で、たいへんショックを受けましたが、私の胸の中では「この正本堂が本当の御遺命の戒壇なのか」と疑っていましたので、「やはり正本堂は偽戒壇だったのだ、学会は終わりだ」と大確信しました。

おおむね一点目で説明してしまったので、それほど多言を要しないだろう。いわゆる後付け理論である。ことに偽戒壇が決定的である。以前にも書いたが、これは浅井先生による造語である。しかも最近のことだ。
話の冒頭を振り返ってもらいたい。この人は昭和五十三年に創価学会をやめて、法華講にも正信会にも縁をしていない様子であると書いた。そして顕正会に入会したのは昨年のことである。
ゆえに、もしかしたら正本堂の崩壊を、リアルタイムでは知らなかったかもしれないのである。

いかがだろう、こうして見るとヤラセっぽいことがよくわかるはずである。

ただし、一つだけ弁護しておこう。実際には弁護にならないけれども、ようするに記憶の上書きである。
われわれは得てして錯覚することがある。つい最近になって知った事実を、あたかも昔から知っていたと思い込んでしまうことが、おそらくは誰にでもあることだと思う。
この登壇者はその状況にあるのかもしれないのだ。

しかし、この場合の記憶の上書きは、いわゆる洗脳に他ならないだろう。

2009/4/10

偽タワー  
未明に山門入り口氏よりコメントをたまわった。

逆に、不利な状況を打破するための自作自演の方が、可能性が有ると思いますね。

いつも言っていることだが、こういう場合は根拠を提示しないといけないと思う。ようするに氏は、山形で謀略ビラが撒かれたことを、顕正会による自作自演の可能性がある、と書いているわけである。他人に疑いを掛けるのであれば、それなりの証拠に基づかないといけない。ここでは「不利な状況を打破するため」というのが、あるいは根拠のつもりなのかもしれないが、それにしても何がどのように不利なのか、その説明がまったくできていない。

いや、何もわたくしは、完璧な証明を要求しているわけではないのだ。健全な批判を求めているのである。
わたくし自身、それほど論理的な文章を書いているわけではないけれども、最大限の努力はしているつもりである。つまり、証明できているかどうかはアヤシイけれども、自分なりに精一杯、根拠らしきものを積み上げて文章を書いているわけである。
その点、どうも山門氏は手抜きがあるというか、あえて言えば、手ぬるいのではないかということなのだ。

わたくしは自作自演の可能性をほとんどゼロだと考えている。理由はきわめて簡単である。男子部長は法的措置を進めていると言っている。しかし、もしこれが自作自演であれば、それこそ墓穴もいいところだろう。
山形の事案とは別の、例のお守り切断事件のほうでは「虚偽告訴罪」を云々しているのである。
笑えるではないか、相手を虚偽告訴罪で訴える側が、実は虚偽告訴罪を犯そうとしているという構図なのである。盗人猛々しは浅井先生の常套文句であるが、それこそ自分で自分のことを言っていることになるのだ。

久しぶりに顕正会を擁護するようなことを書いてしまったが、あくまで是々非々である。

そこで今日は三月度総幹部会の会長講演について触れたい。顕正新聞第1133号には次のごとく書かれている。

正本堂というのは国立戒壇を否定するための小道具ですよ。インチキ手品のネタですよ。

浅井先生は毎回、過激な言葉を繰り出して、わたくしを驚かせてくれる。

小道具には恐れ入った。どちらかというと大道具なのではないかと思うが、ようは正本堂をあしざまに言うための修飾語としては小道具が適切なのだろう。インチキ手品のネタは言わずもがなである。

次のくだりはけっこう重要である。

 いいですか。正本堂の御遺命違背について、正本堂が崩壊する以前は、三大秘法抄の御金言に照らしてその違背を教えなければならなかった。
 しかし、今は話は簡単です。
 「現証を見よ。御遺命の戒壇なら、壊れるはずがないではないか」
 と言えば、誰でもわかる。わずか二十六年で壊れてしまったということは、偽戒壇だからです。


ああ、なるほど、と思った。

わたくしは以前より、偽戒壇という表現はいかがなものかと言い続けてきた。それを浅井先生は気にしたのだろうか、いよいよ現証を持ち出してきたのである。
実はこの現証論というのは、妙に説得力がある。上記のごとく、わたくしは半ば納得してしまったわけである。確かに二十六年で解体撤去されることは通常の建築物では考え難いことであるし、ましてや本門戒壇ともなればそんなチャチなものであるはずがないのである。

う〜ん、困った。

これについては山門入り口氏の指摘が有効かもしれない。氏は数日前に自身のブログで、だったら大標識タワーはどうなのか、という意味のことを書いている。

なるほど、これは使える話だ。顕正会では百万達成の記念碑を兼ねて大標識タワーを建てたのだが、なんとわずか数年で解体撤去の憂き目に遭っているのである。
浅井先生の理屈で言えば、偽タワーだからです、となりそうだ。さらに現実的に言えば、顕正会の百万そのものが嘘っぱちだったということなのだろう。皮肉な話であるが、事実だからどうしようもない。

正本堂の話に戻って、上掲の先生の言葉はまさに一念信解路線の継続を意味するものである。御遺命違背のことすら現証だけで片付けてしまうとなると、もはや教学など必要ないに等しいであろう。巷間では、今の顕正会員は戒壇論すら満足に論じられない、と言われているけれども、ああ、なるほど、それはそうかもしれないと思った次第である。

2009/4/9

苦労を知らない人たち  
二月度総幹部会で山形の男子部支隊長が「謀略ビラ」について発表していたけれども、あまりにもクダラナイので取り上げなかった。ところが三月度総幹部会では、男子部長がわざわざ「学会の謀略について」と題して、詳細に言及しているのでちょっと驚いた。今秋、山形に会館が建つ。その妨害工作の一環として、建設予定地周辺にビラが撒かれたようである。

酒田市民に告ぐ

酒田市内に
会館建設決定!!
速やかに入会せよ!!

 亡国の大難は刻々と迫る!
 大地震が起こり
 第三次世界大戦勃発!!
 回避するには入会のみ!!

  入会して下さい!!
  入会しないと
  地獄に落ちる!!

   謗法の酒田まつりを
   即刻中止せよ!!

冨士大石寺 顕正会


上掲は顕正新聞第1130号ないし1133号に載せられているビラを、ほぼ忠実に書き起こしたものである。

創価学会による謀略かどうか、わたくしの知ったことではないが、もし彼らがやっているのだとしたら、バカなことはおやめなさいと申し上げておきたいところだ。
ある意味、利敵行為だからである。顕正会を元気付けるだけなのだ。
世間でも、逆境をバネにする、といった表現が使われるが、顕正会はこういうのを会員の発奮材料に利用するのがうまいのである。
男子部長は登壇で、法的措置を進めつつある、と言っている。単なるポーズというか威嚇ないし牽制の発言なのかもしれないが、ともかく総幹部会でこのように大々的に取り上げるからには、勝算があるのだろう。わざわざ都合の悪い話を持ち出すわけがないからである。

顕正会の事情に通じている人であれば、上掲のビラを顕正会員のシワザとはとうてい思えないはずである。ひと目で、顕正会を騙る外部の謀略、と思うに違いない。
逆に、もし顕正会員が犯人だとしたら、そいつは悩乱会員である。活動会員のやることではないし、一度でも真面目に顕正会で活動したことのある人であれば、このような書き方はしないはずである。
今日はその理由を書いてみたい。

犯人は文章がヘタである。わたくしがいちばん気になったのは、次の一行だった。

入会して下さい!!

お前はバカか、と言いたいところだ。

わたくしは自分ではこうして駄文をつづっているけれども、けっこう他人の文章にはウルサイのである。自分のことを棚に上げて、他人の文章にイチャモンをつけるのが好きなのだ。
ようするに、全体的に命令口調の文章でありながら、どうしてここだけ丁寧語になっているのか、おかしいだろう、と言いたいのである。
顕正会では相手に諂って入信をお願いするようではいけないと教えているわけで、だからこそ罰を強調するわけなのだ。
実際、上掲のビラを読むと、その辺は心得ているのだろう、亡国の大難だとか地獄に落ちるとか書いてある。しかし、それにしても狂っている。最初のほうには「入会せよ」と命令口調で書いてあるにもかかわらず、どうしたことか途中で一行だけ「入会して下さい」とまるで哀願するような書き方をしているのである。

もう一つ言えることは、「入会」である。これはどうなんだろうか、今の顕正会ではこれが普通なのかどうか、わたくしにはちょっとわからないところであるが、普通は「入信」なのである。入会はいわゆる「正義にめざめて」の人たち、すなわち創価学会員であるとか法華講員などが顕正会に入る場合に入会となるわけで、その他の人たちは入信のはずなのである。

もはや、これだけで外部の謀略だということがよくわかると思うが、もっと大事なことがある。あのようなビラを顕正会の活動会員が作るわけがないという決定的な理由があるのだ。

それを一言で表現するならば、成果至上主義の顕正会においてクソの役に立たないビラなど誰が作ろうものか、ということになる。

数年前に、浅井・大草法論の実現が取り沙汰されたことがある。この発端は顕正会員が諌暁書を大草宅に投函したことだった。その諫暁書には本人の連絡先が付されていたという。
顕正会の活動会員は長年活動しているとやがて折伏の対象者が尽きてしまう。そこでどうするかというと、一つの手段として諌暁書に自分の氏名・住所・電話番号などを貼り付けて、配布するのである。しかし、どうも最近はそれでは効率が悪いというか、ただ単にポストに投函するだけでは反応が期待できないので、手渡し配布という方法が行われているようである。
つまり、ポストに投函して相手の反応を待っているだけでは、折伏の締め切り日に間に合わないということなのだ。

これで話は決着である。連絡先を書かないビラなど、真面目な活動会員が作るわけがないし、そんなものを配るわけがないのだ。

そんなことで入信する人がいれば、顕正会員は苦労しないのである。


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