2009/7/30

謗家の住み心地  
山門手前氏にしても、やぶさめ氏にしても、わたくしの顔をつぶさないように注意を払いながら、なおかつ山門入り口氏の弁護をしている。これはなかなか立派な心掛けである。オトナの対応だ。

いずれにしても一件落着とは行かなかったようだ。

管理人さん自心、顕正会に執着して謗法与同の自覚が無いのか?答えられないんですね。

自心?

さっそくやってくれた。何もわたくしはアゲアシ取りを目的としているわけではない。前回、はっきりと書いておいたはずである。誤字脱字がないか、よく確認してから投稿するようにと。

それはともかく、上掲は山門入り口氏からの催促である。山門氏は、わたくしがnabe氏のコメントを利用して、都合の悪い質問から逃れようとしていると睨んだのだろう。言わば、逃がさんぞ、ちゃんと答えろ、というような感じであろうか?

この話の発端は、わたくしが山門氏に対して、あなたは他門に与同しているのではないか、と追求したことに始まる。そう言うオマエ(=巌虎)は顕正会に与同しているじゃないか、というのが山門氏の切り返しである。
別に都合が悪くて質問に答えなかったわけではない。早い話が面倒臭いからである。いちおう、わたくしなりに自己弁護をさせてもらうと、拙ブログでは顕正会を徹底的に批判してきた。おそらくインターネット上で何年にもわたってコンスタントに批判を続けているのは、わたくしくらいではないかと思う。ゆえに与同はしていない。与同罪は免かれている。

しかし、これですべての人を納得させられるかと言えば、無理だろう。わたくし自身、自分でツッコミを入れたくなるほどだ。
たとえば、秋元御書には謗家という概念が出てくる。つまり、自分は謗法を犯さなかったとしても、謗法の家に生まれれば同じく無間地獄に堕ちるのだ。それを逃れるためには徹底的に破折しなければいけない。その意味で、わたくしは顕正会批判を展開しているわけだが、はたしてネット上における匿名での行為だけで謗家を逃れることができるのか、やるなら実名でやらないとダメではないのか、という指摘があって当然である。
また、これは同じく秋元御書に基づくことなのだろう、顕正会では「御遺命に背いた団体に席を置いて、身の持つはずもなく、次々と罰の現証があらわれてまいりました」などという発表がよくなされている。ようは創価学会を指しているわけだが、本人が熱心に活動していようがいまいが、そこに席を置いているだけでも罪障を積んでいることになるというのが顕正会の主張である。
つまり、立場を逆にすれば、顕正会に席を置いているだけでも与同罪だということになる。

以上のごとく、わたくしは己れの置かれている状況をじゅうぶんに承知しているわけであり、これについてはとやかく言われたくないというのが本音である。いや、もちろん、言いたい人は何度でも言えばいい。拙ブログは出入り禁止の処置も講じないし、コメントを削除することもないので、遠慮は無用である。

むしろ今回の収穫は、山門氏の謗法に対する認識が明瞭になったことだろう。

わたくしは謗法与同という言葉を使っていない。単に、他門に与同と書いただけである。ところが山門氏はこれを謗法与同の意味と理解した。
つまり、他門は謗法である、ということになる。もちろん山門氏は顕正会も謗法であると見做しているわけであるが、いずれにせよ、これは正宗信徒としてきわめてマットウな見識である。
山門氏には、この立ち位置をぜひとも堅持していただきたい。

宙ぶらりんな、中途半端な立ち位置

一方、このわたくしは上掲のごとく、宙ぶらりんであり、中途半端なところに立っている。それを山門氏は、何とかせよ、と言っているのだ。

結論は簡単だと思う。相手にしなければいいのだ。中途半端な人間のブログなどにコメントを寄せることはない。相手にするから付け上がるのだ。

最後に、

なぜ、テキスト化することでの疑問は、ご自身で調べてください。

これは言語明瞭・意味不明瞭というヤツだ。

いったい、何がどのように疑問なのか、さっぱりわからない。自分で調べろと言われても、何をどのように調べればいいのか、まったくわからない。困ったものだ。

さて、次回は別の話題に移りたいのだが、はたしてそれが実現するかどうか、微妙なところである。

2009/7/29

上から目線  
前回のコメント欄が面白い。

本当ならば今日は山門入り口氏へのお返事を中心に書かねばならないが、はからずもnabe氏がわたくしの代弁をして下さったような形なので、これにて一件落着としたいところだ。
しかし、今度はやぶさめ氏からのコメントが入った。それがどうやら山門入り口氏への弁護のようなアンバイになっている。

山門入り口さんは多分、OCRソフトを使って文書をテキスト化してるんじゃないでしょうか。ぼくも前にOCRソフトを使っていたことがあるんですけど、特徴としては、たとえば新聞のような小さい文字ほど誤変換が多いのと、それから、読み方ではなく、文字の形が似ている別の文字に変換されてしまう事がある、という特徴があったと思います。最新のOCRソフトは、認証精度もだいぶ良くなっていると思いますが、山門入り口さんのように、あれだけ大量の文書のテキスト化作業をしていたら、多少の誤字は仕方がないような気がしますね。

一読して、言うべきことはちゃんと言っておかなければならない、と思った。

前回、コピペを否定するつもりはないと書いた。上掲はそっくりそのままコピペの話に当てはまることである。つまり、まったく言い訳にならないのだ。
ソフトの精度の問題などはまったく別次元の話であって、どれほど精度が高かろうがソフトに全面的に依存してしまったとしたら、オシマイである。
学問に王道なし、という言葉がある。前にも繰り返し書いていることだが、たとえば平成新編御書検索を使うとひじょうに便利である。しかし、だからと言って、常日頃の拝読を省略して検索だけで御書が学べるものではない。また、学生はちょうど夏休みであるが、かつて読書感想文の宿題みたいなものを経験したことのある人も多いだろう。なかには面倒臭がって本文をまったく読まず、巻末の解説文を読んでそれをヒントに感想文をでっち上げる人もいた。ようは手抜きである。
この手抜きということは、ある意味ではひじょうに進歩的であり、これを的確に使える人は頭のいい人だと思う。しかし、現実には大半の人が使い方を間違えてしまい、単なる横着なズボラなナマケモノになってしまうのだ。
パソコンが普及した。今の段階でパソコンを使っている人は普通の人である。であるから、文書の資料があって、それを機械的にテキストデータ化していく作業はそれほど特殊な技術を必要としない。まさか、それを勘違いして、自分は特殊な技術を駆使する特別な存在なのだ、などと思ったら大間違いである。むしろパソコンで言えば、そのソフトを開発する人こそ特別な存在なのだと思う。

以上の説明でじゅうぶんだろう。文書資料をデータ化するにしても、現時点ではやぶさめ氏の指摘するごとく、ソフトに限界がある。ゆえに、そこには使用者の工夫が要求されるのだ。しかるに、何らの工夫ないし努力をせずして、仕方がないなどと開き直るのはいかがなものか、とわたくしは言いたいのである。

いや、もちろん、読者というか利用者がそれを承知しつつ活用すればいいという考え方はあるだろう。わたくしもそれに異存はないのだ。

ゆえに、わたくしは山門入り口氏のブログを欠かさず閲覧しているけれども、重箱の隅をつつくようなマネはしていない。しかし、前々回の拙稿をご覧いただければ、誰もがわかるだろう。何だこれは・・・というような初歩的なミスがあるのだ。目に余るとはこのことである。こんな簡単な間違いにも気がつかないようでは失格である、とわたくしは言いたいのだ。

高飛車な物言いを承知で書くが、他人のコメント欄に文章を投稿する時には細心の注意を払って、それこそ下書きをして間違いがないか何度でも読み返すべきである。さらに言えば、文章の間違いだけではなく、内容そのものにも容赦のないツッコミを入れるつもりでいるので、そこを覚悟されたい。

かく言うわたくし自身、内外からの注視を受けて書いているわけであるから、それなりの覚悟は持っているつもりである。

2009/7/26

危険な立ち位置  
今日は快晴である。

やぶからぼうに天気の話題から入ったが、それにはワケがある。今日は大石寺で大規模な集会が行なわれるからである。雨でも降れば、創価学会員あたりがボロクソに書いただろう。もっとも、晴れであっても、何だかんだとイチャモンを付けるのは目に見えているが・・・

ともかく熱中症には気をつけてほしい。

御書拝読に時間を当てて、価値ある時間を過ごされてる管理人さんなら、真筆重視の拝読はされてますよね。
真偽未決は別として、偽書と判ってる御書なんて、重要視なんてしませんよね。


さて、前回は山門入り口氏の初歩的なミスを指摘したわけだが、それに対する氏からのコメントには上掲のごとく書かれていた。見事な切り返しである。

わたくしは山門氏がしばしば犯す誤植について、資料の信頼性が損なわれるので気をつけるべきだ、という意味のことを書いた。本人はあまり気にしていないようだが、これは凄く大事なことなのだ。
山門氏はすでに大量のテキストデータを保有しており、資料館のようなサイトも立ち上げている。今後もデータは増加する一方なのだろう。ともかく熱心である。
しかし、わたくしはそこに数多くの誤植を確認している。いや、確認といっても一々記録を残しているわけではないので、どこがどのように間違っているかを、直ちに指摘することはできない。すでに資料そのものが膨大なので、今さら確認する気にもならない。
つまり、裏を返せば、山門入り口氏自身が同様であって、今さら一字一句確認しようとは思わないはずなのだ。

だとすると、山門氏の資料館などはゴミの山みたいなもの・・・さすがに言い過ぎではあるが、ともかく資料としての価値は低い。

では、どうしたらいいか・・・

簡単な話である。ともかく一回一回の更新ないし入力作業において最善を尽くす、これだけである。

わたくし自身、ある時期までは御書の入力を手抜きして、平成新編御書検索などのデータを丸写ししていた。もちろん、コピー&ペーストである。これはひじょうに楽であるが、楽である分、御書が心肝に染まらない。しかもテキストに問題がないかどうかの確認が甘くなる。つまり、間違っている部分をそのまま転載してしまうことになるのだ。
これはマズイと思った。
ちょうど、その頃だったろうか、ある人物が御書の引用に際しては必ず自分で打ち込んでいるという話をしていた。わたくしは大いに感化され、それ以降はどんなに面倒でも御書の引用は自分で打ち込むように心掛けている。

もちろん、コピペを否定するつもりはない。ただし、コピペをする場合、そのテキストデータに間違いがないかどうかを確認することが必要である。もし、それを怠るようであれば、もはやオシマイである。まったくオハナシにならない。

真筆重視の拝読・・・

先ほど見事な切り返しと書いたのは、資料の信頼性を云々するのであれば、当然、真筆重視の拝読をするべきだ、というのが山門入り口氏の指摘であり、真偽未決はまだしも偽書は論外だと氏は言いたいわけで、これはいちおう筋の通った話だと思う。

しかし、じゃっかんスリカエ気味であり、墓穴を掘っているような気がしないでもない。

わたくしが誤字脱字にウルサイのは、逆に言えば写本の重要性を認めているからなのだ。そこに気がつかないといけない。
コピペは一種の写本である。しかし、それは安易な写本であって、間違いを増幅させる危険性がある。だから気をつけろと言っているのだ。
逆に、正確無比の写本であれば、その資料の価値はベラボウに高いことになる。

顕本法華宗のshamon氏あたりは日興上人の写本が残る御書にすらケチをつける有り様であるが、これはいかがなものかと思う。

つまり、わたくしは真筆だけを重視するような拝読の仕方は取らない。おそらくこれは日蓮正宗の方向性とほぼ一致すると思う。逆に、あたかも真筆重視が当然のごとく言う山門氏は他門に与同していることになりかねないと思うのだが、いかがだろうか?

さらに墓穴を掘っていることの証拠を示しておこう。

本御書の編纂会に真偽検討委員会を設け、過去に疑義ありとされた御書一四七篇について、五十五回に亘る審議によって厳正な検討を加え、真書・偽書・真偽未決書に判別し、たとえ行学増進に役立つと思われる書でも偽書は不収録とした。

平成新編の例言である。上掲の後ろのページには、真偽未決書も不収録である旨が書かれている。つまり、平成新編に収録されている御書はすべて真書ということだ。

拙ブログを長いことご覧になられている人であれば、わたくしが常日頃の拝読には平成新編を用いていることをご存知であろう。また、拙ブログで紹介している御金言の数々は、そのほとんどが平成新編からの引用である。つまり、わたくしは正規の正宗信徒ではないものの、御書の拝読に限ってはほとんど正宗信徒と変わりがないのだ。

真偽未決はともかくとして、偽書を重要視するなんてことは、まったく論外の話である。しかし、この対義語は真書であって、必ずしも真筆ではない。ゆえに真筆重視というのは正宗信徒の取るべき道ではない。それでは御開山様の御写本を軽視するのか、という話になってしまうからである。
いずれにしても、わたくしには御真蹟を直接拝読する力はない。御写本にしても同様である。ようは真書であるか偽書であるか、判断する能力を持たないのだ。
であれば、日顕上人の御監修をたまわって刊行された御書を信頼する以外にないし、それが正宗信徒としては至極当然の態度であろう。

2009/7/22

説教調  
山門入り口氏より資料の提示をたまわった。ひじょうにありがたいことではあるが、しかし、一読してギョッとした。

南無妙法蓮帝経

なんだこりゃ・・・

先日、信徒のブンザイで題目を書いてもよいのかどうか、というような議論がコメント欄を賑わしていたが、おそらくはnabe氏の最後の回答が正解なのだろう。わたくし自身、御書の引用に際して、南無妙法蓮華経と書くことを当たり前のようにしてきたが、別にそれ自体に問題はないと思っていた。むしろ御書の本文を無視(?)して、南○経などと書くほうがよほど違和感のあることだと思う。

それはともかく、上掲はいかがなものかと言いたい。

前にも言ったはずだが、これでは資料の価値が激減してしまうのだ。信頼性の低い資料など、誰も利用しないだろう。ましてや御題目である。シツコイようだが、わたくしは何度でも言うつもりである。今後も容赦はしないので覚悟されたい。

さて、hage氏には四信五品抄の現代語訳をたまわった。ご自身のコメントがないので、何を意図するものか判断しかねるが、もしかしたら同抄の仰せは末法無戒を指向するものであると、そのように言いたいのかもしれない。

これはこれで面白い議論であるが、とりあえず簡単に片付けてしまおう。富士一跡門徒存知事にはいわゆる十大部が示されている。これは日興上人の御選定あそばすところであり、そこには四信五品抄も含まれている。ようするに、日興上人は同抄の仰せをじゅうぶんに承知した上で、法華本門の大戒を仰せになられているわけであるから、一見すると自家撞着のようではあるけれども、おそらくは整合性が取れているのだろう。

四信五品抄には廃事存理という言葉が出てくる。わたくしはこれに大いに注目している。しかし、これはけっこう面倒な考察になるので、宿題にしたいと思う。

これで先日来の議論はおおむね一区切りといったところか?

わたくしは今朝、百六箇抄を拝読した。なぜ同抄を拝読したかというと、特別な理由があるわけではない。順番に読んでいるだけである。つまり、昨日は本因妙抄を拝読したし、おそらく数日後には御義口伝に突入することだろう。

別に自慢話をしているつもりはない。ただ、わたくしは時間のある時にはなるべく御書を拝読するように心掛けている、ということを言いたいのだ。拙ブログはどんなにヒマであっても、一日に一回しか投稿しない。ヒマに任せて、掲示板などに四六時中、へばり付いている人もいるようだが、それはその人の勝手ではあるけれども、わたくしはどうかと思う。その時間を御書の拝読に充てたら、どれほど価値のあることか・・・

御書の拝読が苦痛であるとか、退屈だという人がいるのは事実である。その気持ちも理解できる。なぜならば、わたくし自身がそうだったからだ。

ただ漠然と読んでいてもツマラナイものだ。ところが、問題意識を持って御書を拝読していると、けっこう面白いし、発見もある。
わたくしは顕正会に疑問を持った。組織上のさまざまの問題もさることながら、教学上のことでも疑問が生じてきた。その時に御書を読むしか他に道はないと思った。
今でも思っていることなので正直に言うが、戒壇論については宗門側にも相当の無理がある。だから鵜呑みにできない。さりとて顕正会の言っていることにも所々に矛盾を感じる。
そうすると、生意気なようであるが、御書から答えを出すしかない。これがわたくしの御書拝読の動機であり、経緯である。

最後に、今回の拝読でもっとも注目した御文を紹介しておこう。

三十九、脱益の説所と戒壇の本迹

霊山は本(事戒)、天台山は迹(理戒)。久遠と末法とは事行の戒(事戒理戒)。今日と像法とは理の戒体なり。


あまり解説めいたことを書くのはやめておくが、まず、カッコの部分は御書の表記とは違っていることをお断りしておく。御書の表記どおりに表現できないので、便宜的に上掲のごとくした。

ともかく、久遠と末法を事行の戒としながら、なおかつ事戒と理戒を併記している点が注目されるところだ。

2009/7/21

事の戒法についての重大なヒント  
またしても旦氏より迅速なレスポンスをたまわったが、しかし、どうも今回のコメントは意味が通らない。それはわたくしの不勉強もさることながら、旦氏の説明にも不備があるのではないかと思うので、しばらくは保留にさせていただく。

法華講説の記事を少し振り返ってみた。今回の議論の始まりは六月の中頃のようだ。途中、空白期間もあったが、それにしても議論が一ヶ月以上も続くとは驚きである。

拙ブログはもともと独白を主体としていた。しかし、丸三年を経過した段階で少し方針を変更し、ある程度は議論に取り組むようになった。
ただし、不毛の議論はしたくない。掲示板などで見かける堂々巡りの議論は時間の無駄であるし、閲覧者に対しても失礼ではないかと思う。
こうした考えが基本にあるものだから、わたくしは毎回の更新において、必ず新鮮味のある文章を心掛けている。

そこで今日は顕正新聞第1141号の一面に載る、日曜勤行の指導を取り上げたい。

末法においては戒律はいらない。「末法無戒」とはこのことですね。破戒ではない、無戒なのです。

六月七日の日曜勤行では四信五品抄の拝読があった。具体的な御文は省くが、ともかく浅井先生の大好きな(?)御書なのだろう、引用頻度が高いのだ。

その理由はさておき、わたくしは上掲の部分が気になった。
以前にも書いたことがあるはずだが、末法には法華本門の大戒が必要なのである。ゆえに、上掲の戒律不要は不正確であり、正確には小乗経の二百五十戒を始めとした爾前迹門の諸戒を不要ないし不用とする。
また、末法無戒の意味もじゃっかん不正確なところがある。
大聖人は、おおむね正法・像法・末法に対応させる形で、持戒・破戒・無戒としている。つまり、正法とは釈迦仏法が正しく行じられている時代であり、像法は少しずつ逸脱者が出始める時代、そして末法はデタラメな連中ばかりの時代ということなのだ。これがそのまま持戒・破戒・無戒にスライドするわけで、早い話が末法の衆生はハナッから戒律など持とうとも思わない極悪人ばかりという、それが無戒の意味なのである。

本門戒体抄という御書がある。一説によれば、これが御授戒の原形とのことで、わたくしは実際の御授戒のことはよく知らないけれども、爾前迹門の諸戒を捨て法華本門の大戒を持つ、というのが当該御書の主旨であり、どうやら正宗寺院で御授戒を受けると御住職よりそのような言葉を言い渡されるようである。御授戒は大聖人の時代より伝わる化儀・・・ということなのだろう。
顕正会では入信時に御授戒を行なわない。僧侶がいないのだから行ないたくても行なえないのかもしれないが、あるいはそうした意味から末法無戒については上掲のような説明でお茶を濁しているのかもしれない。

それはさておき、では具体的に、法華本門の大戒とは何か、それが問題である。

 これが「受持即持戒」ということです。受持とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えること。この信心口唱がそのまま持戒、戒を持ったことになるのです。

同じく浅井先生の指導であるが、わたくしが前掲のところで、先生の言っていることは不正確、とか、じゃっかん不正確、とやや弱い言い方に抑えたのは、これがためである。
末法における法華本門の大戒に具体的な内容が伴なうのであれば、先生の言う末法無戒は大間違いになる。しかし、上掲のごとく受持即持戒であれば、実質的には末法無戒とさして変わらないことになる。
おそらくは日蓮正宗でも受持即持戒を言うのだろう。他に何か具体的な戒律が項目ごとに定められているとか、そんな話は聞いたことがないので、この点では顕正会と同じなのだと思われる。

さて、わたくしが繰り返し書いてきた「法華本門の大戒」の出典であるが、これは申すまでもなく五人所破抄である。

若し爾前迹門の尸羅を論ずれば一向に制禁すべし。法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。但し本門の戒体の委細の経釈面を以て決すべし云云。

本門の戒体の委細の経釈・・・

凄まじい御指南である。面を以て決すべしとは、日興上人の御確信のほどを伝えて余りあるところだ。なぜ、ここまでの御確信があられるか、わたくしごときがこれ以上を論ずるのは僭越というものだろう。

2009/7/20

文法大嫌い  
旦氏より迅速なるレスポンスがあった。さすが頭脳明晰である。わたくしの提示した問いに対して、文法の専門用語を駆使して、よどみなく回答をしておられる。
ところが、後に訂正文を入れてこられた。単なる言い回しの不備はともかくとして、近称の指示代名詞については撤回するということなのだろうか?
わたくしは文法には疎いので、何がなんだかさっぱり理解できないが、そんなに難しく考える必要はないのではないかと思う。ようするに、「これ」とか「それ」とか「あれ」という言葉の文法上のウンヌンカンヌンではなく、具体的に何を指しているか、それさえ理解できれば事足りるのだ。

我等持仏堂には開山様の曼陀羅を懸け置き申し候、此の曼陀羅は見申す度に悪心も増し候まゝ衆中の内に帰し申し候。

わたくしは史料を所持していないので、もしこれに法太郎の解説が付されていなければ、誤読していただろう。ご承知のごとく、上掲はひじょうに誤解しやすい文章なのである。
あたかも開山様=日興上人の御本尊を指して、「此の曼陀羅は見申す度に悪心も増し・・・」と言っているように読めてしまうからだ。
当然、旦氏の論理で考えると、「此」は直前の文章に係ることになる。ゆえに、もし旦氏の思考が硬直していれば、その筋で回答を寄せていただろう。しかし、氏は頭脳明晰であり、柔軟な思考の持ち主であるから、そのような愚を犯すことはなかった。

ここでわたくしが言いたいのは、なぜに「此」が日精上人の御本尊であるとわかったのか、である。

旦氏ほどの人物がまさか法太郎の解説を鵜呑みにすることはないだろう。
つまり、文章を読む場合、単純に直前直後の文脈だけで判断するのではなく、もう少し広い範囲で文脈を理解していく必要がある。当然といえば、当然のことであるが、旦氏はそれを実行したまでのことである。
そして、これはわたくしが従前より主張していたことなのだ。

ゆえに、三大秘法抄の「事の戒法と申すは是なり」もまた、範囲を広げて拝するべきであり、ここでの「是」は「戒壇とは〜」からの一段を指し示すと考えるのがきわめて自然なことだと思う。

しかし、どちらにしても、事の戒法と申すは是なり。の「是」を同じように近称の指示代名詞と仮定したとしても、
「是」は手元に存在することになりますから 未だ存在していない本門寺を指して「事の戒法」と仰せられているのではないことになりまする。


この部分を撤回するのかどうか、まずはそれを確認しないといけないが、上掲には仮定という言葉が入っているので、その前提でいちおうは成立している論理だと見做して、わたくしの意見を書いておきたい。

正直なところ、旦氏の主張には無理があると思う。
ようは、いまだ存在していない本門戒壇を指して「是」と言うことはあり得ない、との主張なのだろう。一見すると、筋が通っているように思えるが、これは初歩的な誤謬である。
わたくしは文法には疎いが、そこそこの読解力はあると思っている。確かに存在しないものを指して、「これ」とは言わない。では、どうやって指し示すのかという疑問が残る。しかし、これは簡単な話なのだ。ようするに、説明している行為を指している、説明という行為に代理させている、ということなのである。
別に難しい話ではない。戒壇というのはこれこれこういうものである・・・と説明した上で、事の戒法とは是である、と結べば、誰だって説明の内容を指して「是」と言っていると理解するはずなのだ。平たく言えば、事の戒法ってのはたった今説明したことがそれなのだよ、となるだろうか?
ここでは「それ」と書いたが、これにツッコミを入れるのは言葉のアヤを理解しない人である。

さて、今一度、上掲の文章を確認してほしい。わたくしには、旦氏が戒壇建立即事の戒法を否定してしまっているように読めるのだが、いかがだろうか?

もし、そうだとすると、これが氏の最大の矛盾である。何しろ、自分自身でも戒壇建立即事の戒法を認めていたわけだから自語相違になるし、そもそもが日蓮正宗の見解とも異なることになるのだ。もしくは、わたくしのほうに何か重大な見落としがあるのだろうか?

ところで日相上人文書のことであるが、これは過去に何度も書いているので省略させていただきたい。
今、略して言えば、大石寺には日寛上人の御直筆の御指南がたくさん残っているのだから、さしあたって文証の提示はそこからお願いしたい。日相上人の御筆記を軽んじるつもりは毛頭ないけれども、六巻抄ないし御書文段において寛尊がどのように御指南あそばしているか、そこをしっかり押さえておかないと、おそらくは後々、禍根を残すことになるに違いない。

もはや顕正会など取るに足らない存在であり、ゆくゆくは消滅するのかもしれないが、顕正会が主張してきたことは残る。妙な話、大石寺を批判する連中は、顕正会の主張が使えると思えば、その使える部分だけをイイトコ取りして何度でも繰り出してくるのだ。

2009/7/19

言葉のアヤトリ  
今日は旦氏との議論についてである。まずは、リンクを貼っておこう。読者には、リンク先を一読してから、本稿を読まれることをお願いしたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1317.html

煩瑣になるといけないので、旦氏の意見を二項目に要約させてもらった。

倒置法が使われている他の御文を明示せよ。

今現在、事の戒法は存在するのか、それとも存在しないのか、答えよ。


まず、倒置法の使われている御文であるが、宿題にさせてもらいたいと思っている。というのは、適切な御文が思い浮かばないからである。しかし、このままではツマラナイので、暫定的にいくつか挙げておこう。

唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

立正安国論の末文であるが、これは倒置法でも何でもないので、誤解しないように願いたい。

ここでわたくしが言いたいのは、「のみ」という終わり方の具合のよさである。もちろん、これが直ちに「時を待つべきのみ云々」の倒置法を証明することにはならないが、幾分かは傍証になるかもしれないと思う。

当に知るべし、此の国に大聖人有りと。

法蓮抄の有名な御文である。倒置法の用語例としては、現時点ではこれくらいしか思い浮かばない。というか、この続きの御文も倒置法なのであるが、この手の倒置法はけっこうあると思う。
しかし、どうもスッキリしないというか、おそらくは納得してもらえないだろう。わたくし自身、これが決定打とは思えない。
もっとも類文繁多の場合もあれば、全御書中たった一箇所しか見られないような表記もないわけではないので、必ずしも同様の用語例がなければいけないという話でもないだろう。

いずれにしても、最初に述べたごとく宿題としたい。なぜならば、現時点では御書を隈なく調べたわけではないからである。

[三]、「我等持仏堂には開山様の曼陀羅を懸け置き申し候、此の曼陀羅は見申す度に悪心も増し候まゝ衆中の内に帰し申し候。」(要集八巻五八頁)

※三、敬台院は今般の件に就いては信心を励まし、魔を破るために持仏堂には日興上人の御本尊をおかけする。精師の御本尊は見るたびに悪心が起こるので大石寺の衆中に返却する。


さて、これは法太郎のサイトから拾ってきたものである。御書ではないが、けっこう好都合の史料である。

旦氏は単純に、「時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」の「是」を直前に係るとして、時を待つことが事の戒法なのだと解釈している。では、上掲の場合はどうなるのだろうか?

これをわたくしから旦氏への宿題としたい。

それでは次の項目に移ろう。事の戒法は存在するのかしないのか、ようは今の段階で存在しているのか、それとも存在していないのか、その二者択一を迫っているわけである。

旦氏は存在するという意見である。だとすると、こちらは存在しないという意見を言わないといけないような雰囲気(?)であるが、別に相手と同じ意見でも構わないし、あるいは第三の選択肢があってもいいことだと思う。

結論を書こう。日寛上人の御指南に基づけば存在しないが、日達上人の御指南に基づけば存在する。これでいいのだと思う。

顕正会の場合、日達上人の御指南を己義だと断じているので、存在しないという結論になる。
だが、わたくしはこれまで、日達上人の御指南を否定したことはない。もしかしたら不思議に思う人がいるかもしれないが、それは過去の拙稿を徹底的に調べてみればわかることだ。
ようするに、この法門に関しては両義併存と考えるのが適切な対処の仕方であり、何が何でも二者択一しなければいけないとするほうが無理なのだ。

此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に・・・

これは大草一男氏が初めて指摘したことなのかどうか知らないが、迹門の理戒に対して本門の事戒を示唆する御文である、という主旨のことを彼は述べている。つまり、叡山が迹門の理戒ならば、こちらは本門の事戒であると解するのが理の当然だということなのだろう。
まさに日達上人の御見解がこれである。広布以前においても大御本尊ましますところは事の戒壇なのだ。当然ながら、そこには事の戒法も存することになるだろう。

もし、ここで二者択一を迫って、日達上人の御指南を正しいとするならば、日寛上人の御指南は間違いだとしなければならない。宗門ないし法華講員はこの道理を理解せずして両者を無理に会通するからおかしくなる。
寛尊の御指南は、戒壇建立即事の戒法に基づいての捌きであり、日達上人のそれはいわゆる法体に約しての御指南であるから、そもそも御法門の組み立て方が違っている。ゆえに、両者に表面上、矛盾があっても一向に差し支えのないことなのだ。
すなわち寛尊は、いまだ時至らざるが故に事の戒壇はないとして、では事相戒壇が建立されるまでは戒壇は存在しないのかと言えば、それは違うと仰せられるわけである。ただし、それを事壇とは言わない。では理壇なのかと言えば、それは迹門の理戒との混同・誤解を生ずるので、そうは言わない。そこで義壇という御表現を用いられた。あるいは義理・事の戒壇に当たるとも仰せられる。
まさに、この趣きに従うならば、いまだ時が至らないので事の戒法はない、としなければならない。強いて言えば、義の戒法となるが、これはやや意味不明である。すると、義理・事の戒法に当たる、とするのが至当であろうか?

もう一つ、重要な視点がある。三大秘法抄には一念三千の証文を論ずる段があって、そこに次の二文を拝することができる。

底下の凡夫理性所具の一念三千

大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千


すべては大聖人の御指南が基本となる。まさに、日寛上人も日達上人も、大聖人の御指南に基づき御法門を展開あそばしていることが、わたくしにはよくわかる。

理性所具ということは、衆生にはもともと仏の素質が具わっているが、それがまだあらわれていないことを意味するのだろう。日寛上人は、事の戒法が顕現ないし成就する以前においては、「事」の御表現を避けられた。おそらくは上掲の大聖人の御指南を踏まえてのことだろう。
そして、これはまた、台家の迹門理の一念三千と当家の本門事の一念三千の対比にも相当する御指南である。この場合、大覚世尊云々は大聖人の久遠元初における成道を意味するものと拝するのが当家の捌きであり、おそらく日達上人はここから敷衍せられたのだろうと思われる。煩瑣ではあるが、話が見えないと困るので、御文を追加させてもらおう。

問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、・・・実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

まさに久遠元初のその昔より今に至るまで、三大秘法は厳然と存在するのだ。当然、事の戒法も存在することになるだろう。

ただし、繰り返しになるが、それを成就ないし顕現以前において、事の戒法と表現してよいのかどうかという問題がある。寛尊は避けられた。一方、事の戒法はともかくとして、事の戒壇については日達上人が御指南あそばした。

よって、わたくしはさしあたって、時の御法主上人の御判断に従うべきだと結論したい。

つまり、現在も事の戒法は「時を待つ」という形で存在しているという論の反論にはなっておらず、むしろ旦の意見を肯定する引用のような気がするのですが、どうでしょうか。

最後に、旦氏の意見に、感想を述べておこう。

事の戒法は「時を待つ」という形で存在している・・・

これはひじょうにケッタイな文章だと思う。たぶん、時を待つことが事の戒法である、という主張に固執するものだから、こういうケッタイな言い回しになるのだろう。
わたくしは、時を待つことが事の戒法だとは考えないので、事の戒法が時を待つという形で存在しているとの表現には違和感がある。ただ、今まで述べてきたように、時を待っている間は存在しないのかと言えば、さにあらず、ということなのだ。
これはほとんど言葉のアヤの世界であって、双方の意見にどれほどの違いがあるのか、もしかしたら誰にも理解できないのではないかという気がする。もちろん、わたくしもわかっていないが、旦氏もまた同様なのではないだろうか?

もう一つ、宿題を出したくなった。

時を待つことが事の戒法であるとする根拠を、歴代上人の御指南から出してもらいたい。

2009/7/16

七面倒さを乗り越えて  
種々のコメントを頂戴しているが、わたくし個人は山門入り口氏とのやりとりが喫緊の課題であろうと考えているので、その他の問題は後回しにさせていただきたいと思う。

以下が、これまでの主なやりとりである。

山門入り口氏からもコメントを頂戴しているが、わたくしはその内容よりも氏のブログに掲載された記事に興味を持った。それは創価新報の七月十五日号である。

いわく、平成新編にはおよそ四百箇所の間違いがある、と。

大日蓮の七月号に正誤表が掲載されていて、その項目数が四百近くもあるという話らしい。ある意味、創価新報は他人のフンドシで相撲を取っているようなものだ。宗門は自ら誤りを認めて公表しているわけだから、それにケチをつけるのもどうかと思う。むしろ批判をするのならば、自分たちで誤りを発見すべきだろう。
どうやら現在はすでに第四刷が出回っているらしい。ちなみに、わたくしの所持しているものは第二刷であるが、間違っている箇所を確認してみたらそのままだった。いや、話が逆である。ようするに、第四刷は間違いの部分を承知していて、そのまま印刷に回してしまったらしいのだ。なぜに改版しないのか、そこが疑問である。


管理人さんのお持ちの御書は、学会版ですか?

第三刷版の間違いの修正表ですが、第四刷は確認してませんが、三刷版の間違いは、修正してると思います。
(修正してなければ、笑われても仕方がないですけど。)

第二刷で確認とありますが、大石寺版のなら修正されていなくてもおかしくないですよね。


山門入り口氏より質問が寄せられている。しかし、これは愚問ではないかと思うので、回答を保留したいと思う。もし、回答が必要であれば、今一度、拙稿をよく読んだ上で再質問をするべきである。

正宗版の御書をお持ちなのは、分かりますよ。

>ちなみに、わたくしの所持しているものは第二刷であるが、間違っている箇所を確認してみたらそのままだった。

第三刷の正誤表で第二刷版を使って確認しても、そのままでしょう。
4刷で確認してませんよね。

>ようするに、第四刷は間違いの部分を承知していて、そのまま印刷に回してしまったらしいのだ。なぜに改版しないのか、そこが疑問である。

第四刷を出すときに確認作業をして、間違いが分かったから、三刷の正誤表をだしたと思ってます。
 確認はしてませんが、改訂版と記載がなくても、四刷版は、修正されてると思います。

もしかして、三刷版を出すときに、二刷版の間違いが修正されてないいてことなのでしょうか。


わたくしは山門氏の、巌虎の御書は学会版なのか、という質問に愕然とした。もう、それだけで、回答意欲を失ってしまった。ゆえに、拙稿をよく読んでご覧なさい、という意味のことを書いて一蹴した。それで終わるかと思ったが、終わらなかった。

さて、ひじょうに面倒な議論になってしまったものである。こういう時は思い切った捌きが必要だ。よって、おそらく山門氏の考えていることは次のごとくだろうと、勝手に想像を膨らませてみたい。

おっ、巌虎のヤツ、めずらしくおかしなことを言っているぞ、よし、いっちょ、ツッコミを入れてやるか!

前掲のやりとりを読めば、どこがポイントかは一目瞭然だろう。ようするに、わたくしは平成新編の第二刷でもって訂正箇所の確認を行なったわけであるが、早い話がそこにツッコミを入れているわけである。第二刷で確認したって意味がないじゃないかと。巌虎はそんな単純な道理もわからないのかと。
もう一点は、わたくしが第四刷を云々していることを咎めているのだと思う。やりとりの最後を読むと、ようは第四刷ではなく第三刷ではないのか、巌虎はそこを書き間違えているのではないか、と山門氏は問いただしているごとくである。

さて、読者はどのように受け取るであろうか?

まず、一点目は愚問である。
わたくしが第二刷で確認したのは事実であるが、それはむしろ褒められて然るべきことだと思う。何しろ、第二刷しか所持していないのだから、さしあたってはそれを調べる以外に他に手立てがないのである。逆に、第三刷ないし第四刷を所持していながら、確認すらしていないとすれば、そちらのほうが怠慢であろう。
そして、前掲の拙文を読めばわかるごとく、わたくしは「話が逆」であると書いているのである。つまり、第二刷で確認しても無意味というか、訂正されていなくて当然であることを百も承知しているわけある。

しかし、無意味ではなかった。これは後述しよう。

二点目の問題は、わたくしの勘違いだったと書いてしまえば簡単であるが、実はそんな単純な話ではないことに気がつかないといけないのだ。
まず、山門氏の指摘するごとく、第二刷の誤植が第三刷において改まっていないということが真相のようである。そうすると、わたくしの書いた第四刷云々は間違いということになる。しかし、わたくしは間違えたわけではない。
結論を書くと、これは創価新報の悪逆さを証明するに好都合の話なのである。

では、創価新報の記事を一部、引用しよう。

【初版時(平成6年)に大量の誤字・脱字・系年忘れ】
【今回更に400ヵ所の訂正】

平成6年に日顕宗が発刊した「平成新編日蓮大聖人御書」が、今なお宗内外から失笑を買っている。
 初版本では、「系年」の入れ忘れや誤字・脱字が大量に見つかり、末寺坊主から批判の声があがるほどの事態に陥った。

 ところが今回、「大日蓮」7月号に新たに正誤表が掲載され、またしても呆れた間違いの数々が公表されている。
 表によると、今回は実に397ヵ所もの表記を訂正。中には、明らかに安直なミスも散見される。


創価新報の意図的な操作に気がつくべきである。

今回更に・・・、新たに正誤表が掲載され・・・、今回は実に397ヵ所・・・

これではあたかも、今までとは別に新たな間違いが三百九十七箇所も発見されたごとくに読めてしまう。創価新報の読者はおもに創価学会員である。彼らの多くは平成新編を所持していないし、大日蓮に掲載された正誤表を見る機会もない。

 宗門ではすでに第4刷を発刊しているが、日顕が「最も信頼すべき内容」と言ってから数年の間に、一体何回出し直せば気が済むのか。

これでおおむね話が見えただろう。創価新報の記事を読むと、あたかも最新の第四刷に大量の誤記があって、その正誤表が大日蓮に掲載されたかのごとくに読めてしまうのだ。意図的な操作たるゆえんである。

以上のごとく、わたくしが第四刷と書いたのは単なる勘違いではなく、創価新報の記事を信用してのことである。

なお、第二刷を使って正誤表の確認をしたことが無意味ではなかったことも、すでに了解できたことと思う。基本的に第二刷と第三刷は同じ箇所が間違っていると考えられるのだ。そうすると第四刷は改訂版なのだろう。だが、宗門は最新版が出来したからといって、それを信徒に売り付けるつもりは毛頭ないのだろう。なぜならば第三刷以前を所持している人の便宜として正誤表を出したことがその証拠である。

それにしても、面倒臭い文章を書いているものだと、我ながら思う。

2009/7/16

「星界の道〜航海中!〜 」から転載  
【初版時(平成6年)に大量の誤字・脱字・系年忘れ】
【今回更に400ヵ所の訂正】

平成6年に日顕宗が発刊した「平成新編日蓮大聖人御書」が、今なお宗内外から失笑を買っている。
 初版本では、「系年」の入れ忘れや誤字・脱字が大量に見つかり、末寺坊主から批判の声があがるほどの事態に陥った。

 ところが今回、「大日蓮」7月号に新たに正誤表が掲載され、またしても呆れた間違いの数々が公表されている。
 表によると、今回は実に397ヵ所もの表記を訂正。中には、明らかに安直なミスも散見される。

 初版本が出た当時、日顕は「従来発刊のあらゆる御書に対し、最も信頼すべき内容を持っております」 (平成6年7月24日、法華講総会)などと豪語していた。
 それにもかかわらず度重なるこの失態。編纂の責任者、藤本日潤(東京・常泉寺)をはじめ宗門教学部は一体今まで何をやってきたのか。

 日顕宗坊主らの教学力のなさを裏付けているのが、みっともない誤字の乱発。
「X一字の如くに」→「○一子の如くに」
「X十六王字」→「○十六王子」
 これらは、仏法用語で言えば基本中の基本、たとえ変換ミスだとしても、一見すればすぐに誤りと分かるものばかり。

「転重軽受法門」の中では、「X如来の現在する」→「○如来の現在すら」という間違いを犯しているが、これは、御書全編を通じて40回以上も出てくる「如来の現在すら猶怨嫉多し」という法華経法師品の有名な一節に含まれる言葉だ。

また、「四十余年未顕真実」の書き下し文も「X未だ真実を」→「○未だ真実を」などと間違えているが、そもそも「いまだ」をどのように変換しても「未」などという漢字は出てこない。

 つまり、御文の意味をまったく理解していない坊主が読み飛ばしたとしか思えないずさん極まりないミスなのである。
 宗門ではすでに第4刷を発刊しているが、日顕が「最も信頼すべき内容」と言ってから数年の間に、一体何回出し直せば気が済むのか。

 そのたびに、2度も3度も買わされる信徒はウンザリである。
御書は、大聖人の御心そのものである。御書を心肝に染め抜こうという気迫、一念があれば、こんな幼稚なミスなど起ころうはずもない。
 この宗門御書、265人の坊主が携わって作りあげたというが、結局、坊主の無能さを証明しただけの代物に過ぎない。

くしくも、昨日に取り上げた話が掲載されているとは、驚きである。
 しかし、平成6年発行で数度にわたる修正があったのは、始めて知った。

誤字・脱字に関しては、山門もあまり言えない部分だが、金銭問題が発生しないし、一人作業だからということでと、いい訳をする。(^^;

 しかし、265人の僧侶が携わり、最終チックを確りしなかったのかと感じる。修正箇所が397ヶ所とは、多いかもしれない。(頑張って数えましたね。)
 山門はそんなにないかと思っていたのだが、さすがに397ヶ所の修正は、修正表を見ながら書き込みをする気にもなれない。
 
 あえて個人的な意見を述べると、金銭を払って購入した書籍に大量の間違えがあるのだから、回収・交換をするのが、良心的な行為だろう。
 ハッキリ言って、不良品を買わされたとなると思う。
これが一般書籍なら回収交換は確実に行われると思う。
発行者側の責任なのだから。

ちなみに2冊購入してるのだが(><)
 



巌虎註:上掲は山門入り口氏のブログからの転載であるが、前半が創価新報の記事で、後半はそれに対する氏の所感である。

2009/7/15

梅雨明けは近い  
つい先ほど、nabe氏よりコメントをたまわったが、これはひじょうにややこしい議論なので回避したいと思う。

今日はいちおう、昨日分の拙稿に対するコメントすべてにお返事申し上げようと考えている。さて、どこから手をつけるべきか、ひじょうに悩ましいところだ。

まず、山門入り口氏より質問が寄せられている。しかし、これは愚問ではないかと思うので、回答を保留したいと思う。もし、回答が必要であれば、今一度、拙稿をよく読んだ上で再質問をするべきである。

水無月氏からは辛辣なコメントが寄せられた。わたくしはともかくも、櫻川氏までトバッチリを食らってしまった格好である。
戸田路線の継承者という見解は創価学会員には受け入れ難いだろうが、案外に客観的な見方なのではないかと思われる。というのは、『迷走する顕正会を斬る』では宗教学者として著名な島田裕巳氏の、路線転換する以前の創価学会に似ている、との言葉を紹介しているからである。
ただし、水無月氏も承知しているごとく、櫻川氏は次のごとく書いている。

 戸田会長が切り開いた独創的な教団モデルの有効性は、若き浅井昭衛氏の眼前で実証されていた。
(中略)
しかし、戸田氏の会長在位は七年の短さであり、昭衛氏は戸田路線も絶えざる修正・改良を要することを、学ぶ機会がなかった。

この裏を返せば、池田大作氏は戸田路線の修正・改良に成功して今日の大創価学会を築いた、とも言い得るだろう。もっとも修正ないし改良が、批判者の立場からすると変節という言葉に置換されるわけだが・・・

それはさておき、教学主任の件はわたくしの見通しが正しかったことになるだろう。およそ半年前に前総合女子部長の去就について書いたことがあった。ようするに、教学主任は単なる肩書きであって実質的には引退に等しいだろう、とわたくしは見ていたのである。

ところで山門手前氏のコメントであるが、失礼ながら議論がアサッテの方向に行ってしまっているような印象を受ける。
まあ、それはいいとして、法統相続のことがやや不審である。最初は法燈相続と書いていた。それを変換ミスであるとして、わざわざ訂正のコメントを入れたのである。
顕正会では使わない言葉なので、わたくし自身、あまり馴染みのない言葉ではあるのだが、しかし、これは両方とも有効なのではないかと思う。何しろ、キーワード検索をすれば両方の表記が出てくるわけだから、いわゆる同音同義なのだろう。
適切な事例を思い浮かばないが、たとえば雅意と我意などが同音同義に当たるだろう。

最後に、天照太御神・・・う〜ん、これは投稿者の名前なのか、それとも信仰の対象を指し示すのか、判然としないところだが、ともかく世の中にはいろいろな人がいるものである。ご紹介のサイトをいちおうは開いたが、あまり真面目に読む気にならなかった。
おそらくは同様のことが拙ブログにも言えるのだろう。今は一日平均で百数十人の閲覧をたまわっているが、はたしてどれだけの人がちゃんと読んでいるか、それはわからない。いわゆるナナメ読みの人が大半なのではないか、という気がしないでもないのである。

さて、天照太神は仏法上においても軽からざる存在であるが、あえて次の御文を紹介しておこう。

わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重んずけれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。

国立戒壇否定の論陣を張る場合、こうした御文が活きてくるかもしれない。


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