2009/10/25

色相荘厳否定の理想と現実  
沖浦氏にはわざわざ北海道から返信をたまわった。竜女の件であるが、なるほど、氏の捉え方は達意的というか、ひじょうに現実的であり、それなりに説得力を感じさせるものがある。今、わたくしなりに敷衍するならば、いわゆる竜は伝説上の存在であるから、それをそっくりそのまま理解するのではなく、いったい何を示しているのか、その本質を見抜くべきなのだろう。おそらく無難なところでは、人界所具の畜生界として理解することである。人間は平等といえども、現実にはそれぞれの境界がある。畜生界のみならず、餓鬼界であるとか地獄界、あとは修羅界などが相場であろうか、多くは六道のどこかに位置するわけだ。おそらく大聖人の仏法では、このカテゴリーを一段ずつクリアしていくのではなく、ストレートに登りつめることができるのだろう。今、自分が地獄界にいるとすれば、仏界は遥か彼方にあるかに見えるが、そうではないのだ。

おおむねこんなところでどうか?

ただし、昨日の拙稿で書いたように、動物はそのままで成仏できるはずである。まあ、しかし、それをここで沖浦氏とトコトン議論しても仕方がないだろう。さしあたって、我々は人界に生を受けたのだから、そこに基準を置くのは当然のことなのだ。新池御書はそうした角度からの御指南なのだろう。

自画自賛して言えば、わたくしは話のまとめ方がうまい。いつまでも不毛の議論をしているのをしばしば見掛けるが、ハッキリ言ってアホだと思う。

それはさておき、顕正新聞の第1151号が届いた。

今号は山形会館の特集記事であるが、一通り読んでそれほど注意を惹かなかった。強いて言えば、会長講演はそれなりに面白い。たとえば、話のマクラの部分で税務署のことを云々して聴衆を笑わせている。

隣の税務署の看板を見て、歓喜の心をおこす人はない(爆笑)。

これは地元会員の心理をうまく捉えていると思う。
だいたい、若い顕正会員にとっては税務署が何をする場所なのか、よくわかっていないだろう。ある程度の年齢を重ねて、収入が増えてくるとわかる。とりわけ商売をしている人がいちばんよくわかっている。なるほど、税務署の看板を見て嬉しい気持ちになる人は、滅多にいるものではない。
ようするに、山形会館が完成して、そこには「冨士大石寺顕正会」の立派な看板が立っている。地元会員ならば、それを歓喜の気持ちで見つめることだろう。隣の税務署など眼中にない。先生はこの会員の心理を巧みにくすぐっているわけだ。

まあ、一々こんなことを取り上げていたらキリがないので、もう一つだけ書いて終わりにしたい。顕正新聞に聖教新聞が載っている。九月二十七日と二十八日の聖教新聞であるが、なんと池田大作氏は二百六十もの名誉称号をもらっているそうである。凄いことだ。当然ながら顕正会ではこれを揶揄する意味で紹介しているわけである。わたくしは聖教新聞九月二十七日号二面の見出しが面白かった。

人類史上 並び得ない壮挙

とっさに思い出したのが、久遠元初以来の壮挙、である。

沖浦氏には失礼ながら、こうした美辞麗句もまた色相荘厳に異ならないのではないかと思う。

2009/10/24

秋の法門談義  
再び赤木氏よりコメントをたまわったが、この件は別の機会に譲らせてもらって、今日は沖浦氏との法門談義と行きたい。

 一切衆生を仏性がある。
 その通りですが、人しか仏の条件は満たせません。
 犬は次に生まれて人間になって仏になれます。
 御書に有ります。

 『一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、』
 (新池御書)

 一切衆生が仏になれる条件で、先ず人間界に生まれる。と書かれてあります。

 『千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、』
 (松野殿後家尼御前御返事)

 ここにも同じ意味のご指南があります。
 ですので、一切衆生はそのままでは仏にはなれません。
 人と言う媒体が不可欠です。


いちおう全文を紹介させてもらった。

沖浦氏の主張はきわめて常識的な解釈であり、おそらくは多くの人の支持を得られるのではないかと思う。わたくし自身もそれほど意見に相違があるわけではない。何しろ前回、人間に生まれることが仏道修行の最短コース、とわたくしは書いているのだから、必ずしも真っ向から意見が対立しているわけではないのである。

だが、しかし、たとえば犬が仏になるためには一度人間に生まれ変わる必要があるかと言えば、わたくしは違うのではないかと思っている。これは竜女の成仏をどのように理解するかが争点になるだろう。まずは、開目抄から引用しよう。

竜女が成仏、此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。

ここで大聖人はいわゆる女人成仏を論じているわけだが、初期の女人成仏抄を拝見すると、より詳しいことがわかる。

八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し・・・女人成仏の路をふみわけ候。

蛇身を改めずが重要である。同抄にはさらに次のごとくある。

然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。

竜女は畜生道の衆生なのだ。

竜畜下賎の身

竜畜下賎の即身成仏


祈禱抄と教行証御書である。まさに類文繁多であるが、たとえば撰時抄の一文などもひじょうに簡明である。

五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。

最後に建治元年の上野殿御消息を引用したい。

法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の竜女成仏し、仏の姨母憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。

畜生にもあらず、蛇身にもあらず、との仰せが凄まじい。つまり、法華経は畜生でさえ即身成仏する経なのだ、いわんや人間の女性が成仏しないわけがないではないか、という意味に他ならない。

以上、種々の御指南を紹介したが、これらを踏まえると沖浦氏の所論はいまだ不完全のようにも感じられるところである。ややもすれば、爾前経の範疇を脱していないとも思えるのだが、いかがであろうか?

しかし、一見すると矛盾するようであるが、沖浦氏の引用した新池御書や松野殿後家尼御前御返事の御意もあながち否定できるものではないので、やはり人間に生まれることが仏道修行の上では有利であり、最短コースであろうことは間違いないのだろう。あとは真面目に修行するかどうかの問題だ。

2009/10/23

秋の深まり  
赤木氏より十七日分の拙稿にコメントを頂戴した。

数と内容が両立していないと組織はよくならない。(以下省略)

おっしゃるとおりである。数と内容が両立していないことを世間では粉飾決算と呼ぶ。あるいは大本営発表とも言う。これはよくならないどころか、かえって組織の崩壊をもたらす。
しかし、顕正会の場合は、だからと言って正直に内情を打ち明ければ、ますます疲弊することになる。もう、どうしようもないのである。
よく機械類などに使われる表現として、どうも調子がよくないけど騙し騙し使っている・・・というのがある。ようは修理するには金が掛かるし、買い換えるともっと金が掛かる、だから今のまま使い続けるしかない、壊れたらそれまでだ、というような一種の開き直りである。
まさに今の顕正会がそれなのではないかという気がしてならない。

しかし、これは問題だ。

機械の場合は騙し騙しでもいいが、顕正会の場合は人間が相手なのである。会員を騙し騙し使っているとしたら大問題である。これはいわば倫理的問題であるが、宗教者に対して倫理を問うのは一種のパラドクスである。これが末法濁悪の姿なのだろう。

さて、昨夜の沖浦氏からのコメントであるが、これは氏の持ち味が十二分に発揮された文章だと思う。そこで今回は反論ではなく、補足意見のような形で書いてみたい。

 狼に育てられた子供がいて、十数歳で救出されました。
 この子は一生言葉を喋れず、直立歩行も困難でした。
 然しながらやはり人間です。


言葉も喋れず、直立歩行も困難だとしたら、人間のテイをなしていないことになる。ゆえに氏はこの後、人間が人間の環境で育つという条件を付している。わたくしはこれをひじょうに示唆的であると思う。
ようするに、仏道修行においても同様であって、ちゃんとした環境下で修行をしないことには成就しないわけだろう。また、そのタイミングみたいなものも重要になってくる。
ちゃんとした環境下というのは、何も過保護を意味するわけではない。修行なのだから厳しいのは当然である。しかし、狼の話が示すように、もし狼を師匠にしたならばとんでもないことになる。もちろん、この場合は邪師という意味に相当する。また、タイミングというのは時機のことである。くだんの話は、狼という邪師に十数年間も付き従っていたために、もはや回復不能になってしまったという事例なのだ。ゆえに、なるべく早い段階で正師に出会い、修行を開始するのが望ましいのだろう。

チンパンジーは人間の環境で飼育しても、人にはなりません。

それはそうだ。

沖浦氏はあえて煩瑣を避けて省略したのだろうが、ひじょうに重要な点が省かれている。

チンパンジーは人間にはなれない、だが、仏にはなれるのだ。

前回、平等観について少し触れたが、大聖人の仏法では一切衆生に悉く仏性があると説く。この一切衆生とは人間の意味ではない。ありとあらゆる物が含まれるのだ。通常、生きとし生けるものなどと表現するが、大聖人は次のごとく仰せられる。

一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか(有情非情)。

草木はまだしもである。瓦礫ともなれば、凡夫の思慮を超える。

あるいは二乗作仏について、十界互具であるから自分たちの己心にも二乗界が存在する、ゆえに二乗が不成仏なら自分も含めて全員が不成仏である、と大聖人は仰せである。おそらくチンパンジーは畜生界だと思われるが、やはり同じことが言えるのだ。

まあ、しかし、当然ながら人間に生まれることが仏道修行の最短コースなのだろう。さすがにチンパンジーの姿では修行がしづらいだろうし、草木ないし瓦礫ともなれば、積極的には修行できない。

ところがどっこい、人間に生まれると誰もが油断してしまって、仏道修行を怠けてしまう。この辺の事情は新池御書に詳しいが、さしあたって今は一文だけ紹介しておこう。かく言うわたくし自身が、いちばん肝に銘じなければいけない御指南である。

たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯火は消えやすし。

ことに顕正会の場合、熱心な活動会員ともなれば、いちおうは仏道修行の火が燃え盛っていると言えるかもしれないが、これはいわゆる火の信心であって長続きしない。一種の燃え尽き症候群みたいになってしまい、組織を去る人が後を絶たないのが現実である。

2009/10/22

公式見解と私的見解の狭間  
沖浦氏からさっそくのコメントを頂戴した。日寛上人の邪義・・・御書にはまったくない・・・云々と。

どうやら昨日の拙稿を理解してもらえなかったようだ。

御書には説かれなかった御法門もある。とりわけ戒壇の大御本尊は秘仏にてましますから、そこに記載がなくても不思議ではないし、むしろ当然のことである。
大聖人の御真筆御本尊は現存するだけでも百数十幅を数える。そのすべてが御書に出てくるわけではない。むしろ御本尊の授与に関する御記述は少ないくらいなのである。
いわんや戒壇の大御本尊は秘仏にてまします。弟子檀那に対する御手紙に大っぴらに書かれていたらおかしいだろう。

此の事は余が第一の秘事なり。委細には向かって問ふべし。

当該御文は撰時抄における羅什三蔵の故事を説かれる段であるが、こうした事例を拝するにつけ、いわゆる口伝相承のようなものが存在したと考えざるを得ないと思う。

しかし、何もわたくしは、無条件に口伝相承を受け入れるべきだと言っているのではない。それなりの蓋然性がなければいけないだろう。日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も云々とある。これについて宗門ではいろいろな会通をしているが、おそらくはごく普通に読めば、誰もが同じように理解するはずである。やはり貫首にも間違いはある。そこはしっかりと見極めなければいけない。
たとえ口伝相承であっても、それが御書と正反対であれば、疑問に思うのが普通である。極端な話、時の猊下に第六天の魔王が入って、おかしなことを言わせるかもしれないのだ。ゆえに、その場合は貫首の言葉を用いてはいけないのである。
問題は御書に説かれていない御法門である。この場合は判断の仕方が難しい。さて、どうするべきであろうか?

昨日はその答えを書いたつもりだった。わたくしは直接的な御指南が存在しない場合でも、必ずどこかにヒントがあるはずだと思っている。もしそうでなければ、それこそ上述のごとく第六天の魔王の好き放題のことが可能になってしまい、仏法はたちまちに壊乱してしまうことだろう。

大聖人の仏法は三大秘法である。そこには本門の戒壇という重要な御法門が含まれている。ところが本尊と題目に比して、戒壇についてはどうも理解が深まらない傾向にある。しかし、三大秘法である以上は、戒壇についてもきわめて重要な意味があると考えなければならないだろう。
残念ながら、わたくしは未だによくわかっていない。それが正直なところだ。
ところが大石寺に伝わるところの戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置し奉るための御本尊であるという。そして顕正会では、これを日本ないし一閻浮提を仏国と化す秘術であると主張している。まさに顕正会の公式見解である。おそらくは宗門も同様というか、そもそもは宗門の見解なのだと思う。

この意味においては、まさに特別な御本尊ということになる。

問題は御書に出てこないという点であるが、すでに書いたごとく必ずどこかにヒントがあるということ、そして少なくとも御書と矛盾しないというか、矛盾があれば信じるに足らないわけだから、ようは整合性があるかどうかが問題なのだと思う。

貴方も私も、南無妙法蓮華経如来の当体なんです。

沖浦氏のコメントから一文だけ抜き出させてもらったが、これについてはずいぶん前に耕治氏からご教示をたまわっていて、わたくしなりの見解を書かせてもらったことがある。

http://white.ap.teacup.com/ganko/966.html

煩瑣になるので省略するが、ともかく最初から仏だったら仏道修行の必要はないことになる。この辺が問題だろう。
近・現代における画期は、人間は平等であるという思想であろう。現代人には当たり前のようなことが昔は違ったのである。仏法はかなり早い段階から平等観のようなものが底流にあって、とりわけ大聖人の仏法ではそれが明確である。沖浦氏はこの点を力説しているのだと思う。
しかし、現代においても現実社会には不平等が存在する。今や格差社会が流行語のごとくになっている。

こうして見ると、沖浦氏の書いていることがすべて間違いであるとは言わないが、しかし、単なるキレイゴトのようにしか感じられない部分もなきにしもあらずである。
実際の沖浦氏は行動の人であり、人一倍の努力家であることは間違いない。ただし、人に対する処方としては、いかがなものかという気がしないでもない。つまり、氏のコメントは単なる理を説いているだけであって、現実的な処方とは言えないと思う。
大聖人の御法門を事の一念三千というのは、まさに末代幼稚のために御本尊をあらわして下さったからに他ならないであろう。これが現実的処方というものだ。単に理を説いただけでは救えない、それが末法の衆生だからである。

わたくしにとって大曼荼羅御本尊の存在意義、とりわけ戒壇の大御本尊の存在意義は御書の意に照らして矛盾しない。我ながら説明不足は否めないが、おおむねこんなところだ。

2009/10/21

公式見解原理主義者のブログ  
国分ひろし氏のコメントに感情論とある。沖浦克治氏のコメントには、ああ言う若者が何十万人と出てこなければ世界広布などは夢物語、とある。わたくしの思うに、さしあたって感情は情熱という言葉に置き換えられるのではないか、であれば沖浦氏の言うようにそうした若者がたくさん出てくることが広宣流布につながるのだろう。もちろん、法門の正邪を論ずることが最重要課題であるが、それ以前に人材がいるかどうかが問われるのだと思う。ゆえに前回、いわゆる二世・三世の創価学会離れに言及したわけである。その実情は外部の人間のあずかり知らぬところであるから、ここでこれ以上書いても仕方がない。

貴方が御書を引用し、戒壇様が一大秘法であり、それ以外に一大秘法はありえないとの証明をなさい。

今日は他人の議論に首を突っ込んでみようと思う。

基本的に、戒壇の大御本尊は秘仏とされているわけであるから、御書をもって証明することは不可能のはずである。もし御書に明記されているとすれば、秘仏とは言えなくなってしまうからだ。
ゆえに、しばしば引用されるところの聖人御難事における「二十七年」は、いわゆる出世の本懐を示唆あそばす御文ではあるけれども、直接的には何が出世の本懐であるかはわからないようになっている。これまさしく大聖人の深き思し召しであろう。秘仏たるゆえんである。
余談ではあるが、善光寺の阿弥陀仏は七年に一度開帳されるという。しかし、なんとそれは御前立本尊と呼ばれるものであって、さらにその奥に別の本尊がある。どうやら、それこそが正真正銘の御本尊らしい。では、これはいつ開帳されるのかというと、なんと驚くべきことにこちらは絶対の秘仏であり、永遠に開帳されることはないのだそうである。
戒壇の大御本尊は信徒に限り内拝が許される。また、本門戒壇が建立されれば・・・その時の具体的な姿はわからないけれども、ともかく多くの人々が拝することになるだろう。
つまり、大御本尊は戒壇建立の暁までの時限的秘仏とも言い得ると思う。

もちろん同時に、三大秘法抄に仰せのごとく、寿量品に建立する所の本尊は如来秘密神通之力の文に係るところであるから、その意味ではあくまで秘仏なのであろう。ぶっちゃけ言えば、凡夫の思慮の及ばない点において、秘であり密なのだ。そもそも三大秘法は三大秘密の法に他ならない。自ずと本門の本尊はそこに帰着するわけである。

三大秘法は申すまでもなく、本門の本尊と戒壇と題目の五字である。一大秘法は本門の本尊であり、別しては本門戒壇の大御本尊に他ならない。

在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にゝき。

わたくしはここにヒントがあると思う。

仏の在世にはいったいどのような戒壇が建てられていたのか、わたくしの思うに、おそらくは道場くらいの意味に解しても差し支えないと思う。仏道修行をするための道場である。釈尊は道場主ということになる。
提婆達多という人は、あらゆる面で釈尊に対抗心を持っていた。ゆえに提婆も道場を開いたのだ。しかし、提婆の道場は人気がなかった。そこで彼は実力行使に出た。釈尊の化導を妨害するという行動である。そうした過程で死者が出たのだろう。
釈尊の道場と提婆の道場、これを大聖人は戒壇と御表現あそばした。さしずめ提婆のほうはニセ戒壇となるだろうか?

大聖人の御在世においては身延こそが戒壇そのものだった。大聖人のましますところが即戒壇なのである。この意味において、近年の日蓮正宗において戒壇の大御本尊のましますところを根源の事の戒壇と定義していることは、そこそこ理に適っていると言えるだろう。もちろん御遺命の事の戒壇は別である。

大聖人の御遺命とは、本門戒壇の建立に他ならない。まさしく本門戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置するための御本尊である。大聖人の御真筆御本尊はたくさんあるけれども、戒壇安置の本尊は一つしかないという、この特殊性に注目すべきであろう。

つまり、一大秘法は本門の本尊であり、別しては戒壇の大御本尊である。それ以外にはあり得ない。上掲の報恩抄の一文が示唆しているのは、このことである。

2009/10/18

アクキン大王とホタルの戦い  
樋田氏と柳澤氏の法論を拝見した。

結論を言えば、あまり面白くなかった。おそらくはもう二度と視聴しないだろう。ただし、ある意味、それはわたくしの固定観念というか先入観のせいであろう。以前の樋田氏対創価学会員の法論を基準に考えるから、期待はずれになってしまうのだ。

柳澤氏は入会三年であるという。その意味では善戦だと思う。
樋田氏が御書をふんだんに引用して話を進めるのに対し、彼からはほとんど御書の引用がなかった。これが法論としては期待はずれの原因であるが、三年程度のキャリアでは致し方のないところだろう。
逆に、それが樋田氏にとっては難攻不落のような感じだったのかもしれず、氏にしてはめずらしくテコズッテいるような印象を受けた。実際、氏は映像の中で、今回は一般人を折伏しているみたいだ、という意味のことを言っていた。

柳澤氏は好青年である。わたくしはそう思った。けっこう頭の切れる人のようだ。ゆえに、研鑽を重ねて行けば、いずれは物凄い論客に成長するかもしれない。
ただし、彼の発言を聞いていると、どうも今の創価学会は仏法から離れつつあるのではないかと思えてしまうのである。脱日蓮正宗はおろか、ややもすれば大聖人の仏法からも脱却しようとしているのではないか、というふうに感じられるのである。
彼の発言には、「日蓮という人」が繰り返し出てくる。わたくしはこれを、あながちに不敬であるとは言わないが、しかし、どうも尊崇の度合いが低いように感じられてならないのである。たとえば、一般人に対して折伏する場合、為人悉檀の意味で使うならば、それはそれでいいだろう。しかし、相手は樋田氏である。つまり、今となっては宗派が別ではあるものの、大聖人を御本仏と仰ぐ意味では同じなのである。それにもかかわらず、くだんのような言い回しを連発しているわけだ。これはいかがなものかと思う。
あえて一つだけ得点を差し上げるならば、対話の重要性を謳っていたことである。言うのは簡単だが、現実はどうかという問題がある。しかし、彼は立派にクリアしている。なぜならば、樋田氏との対面法論を実現したからだ。

委細に見れば、他にもいろいろあるだろうが、再視聴してまで検証する気にはなれないので終わりにしたい。

今度は樋田氏と金本氏の法論を拝見した。

これはつい先ほど視聴したばかりであるが、面白いといえば面白かった。ビデオ法論というのだろうか、ようはテレビ電話の状態で法論をし、それを多くの人が同時に閲覧できるようなシステムがあるらしい。それがいつ行なわれたものか知らないが、樋田氏のサイトに掲載されたのでそれを閲覧したわけである。
何が面白かったか、説明しよう。この法論には司会者が登場するのであるが、なんとこれは金本氏の婚約者らしいのである。このオチが面白かった。わたくしは最初の段階から、なんだか胡散臭い司会者だなあ、と感じていた。おそらくは誰もがそう感じるだろう。それが視聴を続けていくと、ますます妙な具合なのである。それで最後まで見ると金本氏と司会者がグルであることが判明するのだ。それも自分たちで暴露したも同然の結果になっているのだから、まるでお笑いの世界である。
ある意味、ひじょうに出来過ぎていて、あるいは樋田氏も含めてこうしたオチを演出したのではないかと思えるくらいである。まさか、それはないだろうが、しかし、なんともオソマツな法論である。

法論そのものとしては、ほとんど中身のないものだったが、部分的には見どころがあった。金本氏はなかなか迫力のある人で、ところどころ意味不明の言説があったにせよ、樋田氏をカルト呼ばわりするところなどは圧巻だった。冷静に見れば、金本氏のほうが遥かにカルトっぽいのだが・・・

金本氏はいわゆる学会三世のようだ。

拙ブログではここ数回、ダイヤモンドという経済誌に宗教の特集記事が出ていたことを紹介したが、くだんの特集では創価学会についても相当の紙数を費やしている。その中に、いわゆる二世・三世の学会離れという現象を論じた部分があって、たとえば最近は非創価学会員と結婚する女子部員が増えていて、結婚を期に信心をやめてしまうケースが増えているそうである。
どうやら金本氏の婚約相手も非創価学会員らしい。それは誰が視聴しても感じるだろう。専門用語がまったくわかっていないからだ。
結局、そうすると彼女も信心をやめてしまうかもしれない。いわゆる二世・三世は自分の意志で信心を始めたわけではないので、そこが弱点なのだろう。もし自分の意志で入信した人ならば、自分の夫になる人を何とかして入信させるだろうし、少なくとも己れは信心を貫くはずである。

この辺が現在の創価学会に内在する大きな問題点だと思われる。

話はぜんぜん違うのであるが、富士宮ボーイでは「焼失」の意味について、ちょっとした議論が続いている。もはや結論は見えていると思う。蛍氏は道理を重んじる人であって、その言説はいつも理路整然としていて気持ちがいい。一方のアク禁大王と来たら・・・

2009/10/17

隔世の感  
だいぶ時間が空いてしまったが、ダイヤモンドの記事で思い出したことがあるので書いておこう。新興宗教の信者数の実態は、おおむね公称の三分の一から十分の一くらい、という意味のことが記事に出ていた。

三分の一が実数であれば、これはマシなほうというか、ある意味では優秀と見做してもいいくらいである。
では、顕正会はどうかというと、どう見積もっても十分の一以下であるから、これは最低の部類に入るだろう。もしかしたらワースト一位かもしれない。
これが日本国を独走している顕正会の実態である。

ずいぶん前の話であるが、浅井先生は創価学会の人数を五百万だと言っていた。
ダイヤモンドには八百万世帯と書かれている。これはいわゆる世帯数での表示なので、これを人数に直すとどうなるかがよくわからないけれども、ともかく浅井先生は五百万人だと言っていたのだから、これはけっこう優秀な数字であろう。
顕正会は公称人数こそ百三十五万であるものの、現実にはどう見積もっても十万以下である。以前、顕正新聞の発行部数が二十万部であることが判明したけれども、ご存知のごとく多重購読が問題になっており、それを考慮すれば十万以下であることがよくわかるはずである。
さらに厳密に計算すれば、今夏の男子部大会で三万人ということは、ここには実質的に壮年部も含まれているので、これに女子・婦人を加えても六万人がせいぜいのところとなる。しかし、これでもまだかなり甘い見積もりであり、おそらくは五万以下なのだろうというのが衆目の一致するところだと思う。

九月度総幹部会の活動報告に次のごとくある。

入信者は十五名以上いるものの全員戦列から離れており、組員を指導しても軽んじられたり罵声をあびせられることが続き、組員に対しまったく指導ができなくなっておりました。

これは男子部組長の記事であるが、おそらくはこれが顕正会員の平均的な姿なのだろう。
文中、全員が戦列から離れている、とある。これではあたかも以前は戦列に加わっていたと読めてしまうところであるが、現実は違うだろう。ようは入信勤行後、即退転というパターンがほとんどだと思われる。
つまり、今の顕正会は入信報告書の数ばかりを積み上げているだけであって、実質的な会員数は横ばい状態なのだ。

これは熱心な活動会員がいちばんよくわかっていることだ。

顕正会には一人で百名以上の折伏成果を上げているようなツワモノがたくさんいる。いや、わたくしは現実にそういう人をたくさん知っているわけではないが、おそらくはザラにいるだろう。このことは案外に、敵対勢力であるところの創価学会員にしても、あるいは法華講員にしても、認めていることではないかと思う。ようは、それほどに顕正会の折伏はデタラメであり、中身の伴なわないものだという意味なのである。

先ほど紹介した記事では、十五名が全滅状態だった。では、百名折伏を達成したツワモノたちの場合はどうなのか、である。百名のうち、いったい何人が残っているのか、それが問題である。
ダイヤモンドの記事には三分の一ないし十分の一という話が出ていた。これを当てはめるならば、百人のうち三十数名ないし十名程度が残っていることになるが、三十人も残っていたら大したものである。おそらくは十人がいいところであり、それ以下である可能性がきわめて高いと思われる。
まさか百名を入信させて、それが全滅するとは思えないが、かなり低い数字であることは間違いないだろう。

根拠は簡単である。すでに十五名全滅の記事がそれを証明しているわけであり、さらに大きく見れば、公称百三十五万の実態が数万程度であるというのが何よりの証左であろう。

しかし、実は話が逆なのである。

そういうデタラメな折伏をやっているから、いくら数字を積み上げても中身が伴なわないのである。くだんの男子部組長は十五名以上の成果を上げている。あるいは百名以上の成果を上げている人もザラにいると書いた。しかし、いずれも折伏のテイをなしていない、単なる勧誘行為に堕してしまっている。それが今日の顕正会を形成しているのだ。

以下は『迷走する顕正会を斬る』の記述である。

 かつて、妙信講の三千達成奉告の総登山には、千五百余名が渇仰の思いで参加した。当初はまっとうな法華講として、組織の隅々まで血が通っていたのである。妙信講として最後となった第二十三回総会には、五万人の講員数で、一万人が武道館に参集した。
 平成七年に横浜アリーナで開催された第二十六回総会は、会員数が二十数万人で参加者は三万名であった。これを最後に顕正会の総会は途絶え、現役活動会員で総会参加の経験を持つ者は数少ないだろう。


かつての妙信講は講員の過半数を結集できる力があったのだ。これは驚異的な数字である。

それが今の顕正会と来たら・・・もはや形容の言葉もないほどだ。

2009/10/9

台風一過の秋晴れ  
どうやら新しい人がお見えのようであるが、拙ブログはレスポンスの悪さがウリ(?)なので、そこを承知の上でお付き合い願えればと思う。

 余談ですが、「ダイヤモンド」という経済専門誌がありますね。その九月十二日号に、日本における十八万にも上る全宗教団体の信者数のランキングが載っていたが、これを見て驚いた。
 なんと十八万の全宗教団体の中で、顕正会は十四位になっていた(大笑)。
 学会は三位、宗門は三十位でした。しかしこれらは国立戒壇の御遺命を捨てたゆえに全く伸びてない。
 他はすべて見るも穢らわしい邪教ばかり。しかもこれらの邪教はすでにみな形骸化してしまっている。たとえば念仏の東本願寺派などはみな墓檀家で、これを信者数にしているに過ぎない。


前回の拙稿に対して、ニシケン氏からクレームがついた。ようするに、わたくしの引用の仕方が悪くて、意味が読み取れないということだった。確かに、それはそうだ。何しろ経済専門誌であるから、ウッカリすれば宗教団体の資産などのランキングだとも思えてしまうところである。そこで引用範囲を広げてみた。上掲がまさにそれであるが、すでに自明のごとく、これは信者数が十四位だという意味である。

図書館で当該書籍を確認してみたところ、いろいろ面白いことがわかった。これはけっこう内容の充実した特集記事である。単にランキングが掲載されているだけではなく、現在の宗教団体の諸事情をさまざまの角度から検証しており、ページ数も相当である。

信者数のことで言えば、創価学会が三位になっている。では一位と二位はどこなのかが気になる。一位は神社本庁。二位が幸福の科学である。
しかし、神社本庁の場合は、はたして一個の単位として考えてよいものなのか、いわゆる宗教団体という枠とは異なるのではないかと、誰もが疑問に思うはずである。
幸福の科学は意外だった。単純に考えて、先般の総選挙で一議席も取れなかったのが幸福の科学であり、一方の創価学会(公明党)は負けたとは言うものの、二桁の議席を確保している。ゆえに両者の実力には相当の開きがあるはずである。
その意味で、なんだかんだ言っても実質的には創価学会がナンバーワンなのだろう。

四位以下、いわゆる既成仏教の諸派と新興宗教が半々くらいの割合で混在しているが、確かに浅井先生の言っていることにも一理ある。いわく、すでにみな形骸化している、と。
形骸化は、既成仏教に向けての意味合いが強いと思われるが、おそらくは新興宗教にも当てはまるだろう。上位にランクインしている代表例として、天理教や立正佼成会が挙げられるけれども、これらは新興宗教の中では老舗である。
つまり、幸福の科学を除けば、その悉くが顕正会よりも古い団体であり、今はたいていが活力を失っていて、もはや往年の勢いは見られない。ゆえに、顕正会だけが日本国を独走している、と言うわけなのだろう。

ところが、今回の記事における顕正会の扱いは、ひじょうに小さい。それが不可解というか、いや、逆に、現実的にはそれが順当なのだろう。記事を一通り読めば、わかるはずである。

今回の特集記事には個別の宗教団体を論じるページもある。主要な新興宗教を二十団体に絞って論じているページもある。なんと顕正会はそこに含まれていないのだ。
信者数のランキングでは堂々の十四位なのである。ところが主要な二十の団体に入っていない。これはやはり中身の問題なのだろう。宗教団体の公称信者数などはどこも当てにならないが、とりわけ顕正会の信者数はサバ読みが過ぎるということなのだ。
ちなみに、今はウッカリ失念したが、新興宗教の幾つかの団体ではかつての公称人数を抜本的に見直して、大幅に数を減らしてしまったところがある。ようするに実情に合わせて、正直な数を公表したわけである。こうした事情を勘案すれば、顕正会の公称人数がいかにムナシイか、専門家には一目瞭然なのだろう。
わたくしの気がついた範囲では、ランキング以外で顕正会のことが取り上げられているのはたったの一箇所であり、わずか一行ばかりだった。いわく、顕正会のように高校生をターゲットにしている団体もある、云々。

日本国を独走しているのならば、記事の中で大きく取り上げられないのは不可解なことだ。しかし、現実的にはそれが顕正会の実力なのだろう。専門家はよくわかっているのだ。

もし顕正会が今のカウント方式を改めないのであれば、いずれは神社本庁を抜いてダントツのトップに躍り出る日が来るかもしれない。それでいながら、せいぜい数万人規模の集会しか開けないのであれば、誰が見てもオカシイと思うに違いない。いや、すでに今の段階でもじゅうぶんにオカシイのであるが、それが内部の人間にはなかなか見抜けないというのも現実である。

おおむね以上であるが、数日前に図書館で読んだ記憶のままに書いているので、不正確な部分もあるかもしれないことをお断りしておきたい。

なお、週刊新潮のバックナンバーについては、かつて拙稿でも取り上げたことがあるので、興味のある人は以下を参考にされたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/133.html

自分でもすっかり忘れていたし、今は当該号を持っていないので確認のしようがない。たぶん捨ててしまったのだろう。

2009/10/5

自分を棚に上げて  
九月度総幹部会の会長講演について書こう。

 矢野裁判については、まだ知らない人もあると思うので、つまらんことですが、少し説明しておきます。

これが今回の講演の最大のツッコミどころだと思う。

浅井先生は、先般の公明党惨敗と共に、「手帳強奪事件」裁判での創価学会側の敗訴を挙げて、創価学会ないし池田大作氏の亡ぶ先兆であると言っている。そして、なんと今回の講演では、この裁判についての説明にかなりの紙数を費やしているのだ。
つまらんことだが少し説明しておく・・・などと言っておきながら、かなり詳細に説明している。その一々をここに紹介するのは煩瑣なことなので省略するが、いったいどこがツッコミどころかと言えば、裁判の内容そのものではない。
今回の裁判の結果は、どうやら新聞・テレビが一切報道していないらしい。唯一、北海道新聞だけが報じたのだそうである。

浅井先生は次のごとく言う。

学会のこととなると、これほどの重大判決も報じない。マスコミ業界の学会を恐れるこの異常さは、いったいどうしたものか。中国共産党の言論統制を思わせる。

わたくしは先生に言いたい。妙観講との裁判について、まったく触れないのはどうしたことか、と。

つまり、つまらんことと言いつつも、他人の裁判についてはこうも詳しく説明しておきながら、顕正会側の敗訴に終わった裁判には口をつぐんでいるという、この自己矛盾である。
それこそ妙観講員あたりに言われそうである、顕正会の敗訴はいよいよ顕正会崩壊の号鐘、浅井昭衛滅亡の先兆である、と。
さらに、言論統制という意味では顕正会員にも当てはまることではないかと思う。何しろ知らされていないことがたくさんあるものだから、いざ法華講員たちに遭遇すると何も答えられないし、そこでかえって顕正会の欺瞞を知り、正義にめざめることになるのだ。
何ともイヤミな展開ではないか。

それはさておき、わたくしは次のくだりがひじょうに気になった。

 一方、裁判では勝った矢野絢也にしても、少しも威張れたものではない。(中略)
 ことに許しがたいのは、御遺命破壊に協力していたことですよ。

これはいかがなものかと思う。この後、矢野氏が御遺命破壊に協力していたということの説明がいちおうは書いてあるものの、説得力が感じられないのである。いわく、公明党首脳であった矢野絢也が、これを知らぬはずがない、関与してないことはあり得ない、云々と。
これでは証拠能力がないだろう、単なる推測に過ぎない。もっと言えば、ただの思い込みであり、妄想に他ならないのではないかと思う。

あと、どうでもいいことを二つ書いておこう。

 なんと十八万の全宗教団体の中で、顕正会は十四位になっていた(大笑)。

これはダイヤモンドという経済専門誌の九月十二日号の記事だそうである。

この笑いの意味がよくわからないのだが、まあ、多少は自負心というか自慢の気持ちがあるのだろう。もっとも、ここでの笑いは聴衆側の反応だと思われるが、おそらくは同時に、先生自身の気持ちをあらわしているに違いない。

 これはまさしく組織犯罪ですよ。これをやらせた背後の最高指揮者は誰なのか。いずれ自ずと明らかになるに違いない。
 この事件を見て思うことは、池田大作には、世間に知られて困る悪事がどれほどあるか、ということですね。


これは先の手帳強奪事件の説明の一端であるが、ともかく面白い文章構成である。頭隠して尻隠さずであろうか?

わたくしの知るところでは、お笑い芸人の使う手法に似ているような気がする。

2009/10/4

一将功成りて万骨枯る  
めずらしく顕正新聞が早く届いた。第1150号はいわゆる十月五日号である。最近は・・・というよりも以前から顕正新聞の出来は遅れがちであり、期日前に届くことは滅多にない。ゆえに郵便受けを見て、一瞬、我が目を疑ったけれども、どうやら本物のようである。

今号は九月度総幹部会の記事が中心であるが、昨日の拙稿で取り上げた話題と重なる部分があったので、それを書こうと思う。

講演集の感激

一面の記事を読むと、「講演集の感激」と題して五人の登壇があったと書かれている。ところがどういうわけか、三面から五面にかけて六人分の記事が載っている。

まあ、それはどうでもいいことだ。

ともかく、ここ数ヶ月は講演集の話題で持ち切りである。これが何を意味するのか、何か裏事情があるのではないか、わたくしはそれが気になってしまう。
確かにセンセーショナルな内容なのだろう。ゆえに話題が続くのだ。しかし、それは別の何かを覆い隠すための手段なのではないかと思えてしまうのだ。
以前にも書いたごとく、おそらくは櫻川氏の著書を黙殺するための積極的な手段なのだろう。ただ黙殺するだけではなく、よりセンセーショナルな話題を持ち出して会員の意識を縛り付ける・・・それが積極的な手段の意味である。

さて、昨日の拙稿で取り上げた「妙法の教育」であるが、この発表者は壮年部の総班副長であり、小学校の教頭であるとのことだ。そして今回の九月度総幹部会においては、なんと教育関係者が三人も登壇している。正確にはかつて教育関係者だった人も含まれるが、いずれにしても興味深いことである。
おそらくは歴史認識にリンクする意味で、教育関係者の登壇はそのニーズに応えるものなのだろう。活動会員の登壇はそのすべてが浅井先生の賛嘆に終始すると言っても過言ではないが、とりわけ教育関係者がそれをやれば箔が付く、浅井先生の仏法史観の正当性をよりいっそう補強できる、少なくとも一般会員にそのように思わせることができる、という構図である。
ずいぶんイジワルな観察だとは思うが、これが現実である。昨日、社会に貢献できる人材を云々したことも、実は同じことなのだ。やはり社会的にそれなりの名声を得た人物がたくさんいれば、顕正会に対する評価も変わるはずである。いちおう本部首脳も理屈はわかっている。だから今回の場合は教育関係者を多く登壇させているわけなのだ。

三人の内訳を紹介しておこう。

一人は五月度総幹部会でも登壇した男子部班長。二百五十三人の逆縁を乗り越えたというツワモノである。男子部とは言うものの、年齢はかなり上である。県立高校の校長を経て、すでに定年退職している人だ。

そして今度は現役の教師であるが、公立中学校で英語を教えているらしい。昭和五十八年に入信し、現在は壮年部の班長である。

もう一人は女子部総班長。平成九年の入信で、当時は小学校の教師だった。しかし、二年後に退職している。いわく、もっと広宣流布に戦いたい、時間的に自在を得るため、云々と。

校長先生は年齢的に遅く入信したので比較しづらいが、残りの二人は若い頃に入信したという意味で、好都合のサンプルである。
壮年部班長は記事の中で、入信とは名ばかりで最初はまったく活動していなかったことを書いているが、一方の女子部総班長は入信から二年後には早くも教員をやめているので、おそらくは最初の頃から熱心に活動していたのだろう。
片や班長、片や総班長、この役職の差は見た目以上にデカイと思う。つまり、壮年部と女子部ではレベルが違うので、もし同じく班長だったとしても、あるいは同じく総班長だったとしても、女子部のほうが値打ちがあるはずである。
いったい何を言いたいのか、早い話がこの女子部員は教職をなげうって熱心に活動した結果として今の総班長の地位がある、一方の壮年部員は今も教職に就いているので活動はほどほどなのだろう、その結果が班長ということだ。
ちなみに、少し前に紹介した裁判所の書記官を中途退職した人は、婦人部支区部長である。
もちろん、それで本人が満足ならば、とやかく言う筋合いのことではないだろう。しかし、現実にはそれで失敗している人もたくさんいるわけだ。

久しぶりに『迷走する顕正会を斬る』から引用しよう。

 今の浅井昭衛氏は、かつての栄光の美酒にいつまでも酔っていたいのであろう。そして無謀なノルマを課して、職場や家庭での会員の生活基盤を崩し、多くの顕正会員の人生を狂わせ、かけがえのない時間を奪っている。そして、「あと十有余年」等と展望のない口先の小細工で会員を謀り、使役し続けている。昭衛氏が過去の栄光に耽溺したいなら、自分一人でそうしていればよいのである。前途ある青年を巻き添えにすることは、もう止めてもらわなければならない。

余計な解説は不要であろう。


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