2009/11/28

証拠固めは確実か?  
水無月氏より感想を求められたので、今日はその辺のことを簡略に書きたいと思う。ようは顕正会からの圧力によって批判サイトの閉鎖が相次いでいるという話の真相について、トチロ〜氏がご自身のブログで貴重な情報を開示しておられる点、それから現時点では暫定的なのだろうか、ともかく顕正会短信が復活したことなど、その辺のことを書くつもりである。

まず、山門手前氏のコメントを紹介したい。

顕正会からの文書を見て削除を行った

あまりにも幼稚な文書


またしてもツッコミを入れたくなった、なんでそんなことを知っているのか、と。

まあ、彼はトチロ〜氏と近しい関係にあるみたいなので、その方面からの情報なのだろう。ようするに、顕正会はプロバイダに対して文書でもって圧力を掛けたという事実があり、すでに一部の法華講員たちはその物証を入手しているということなのだろう。ゆえに、幼稚な文書、と書いているのだ。まさか文面を知らずに幼稚だとかなんだとか、そんなハッタリは言えないだろう。

以下は、トチロ〜氏のブログからの引用である。

顕正会は“権利侵害及び送信防止措置の依頼”なる書をプロバイダーに送りつけ、「この管理人を訴えるから管理人の個人情報を提示せよ!」と迫っております。理由としては「名誉毀損、及び侮辱」だそうです。

しかしながら、その提示してきた証拠とする内容は甚だ幼稚であります。取るに足りない批判をあげつらって「顕正会員を盲目的な信仰者と思わせている。」とか、「顕正会が洗脳という手段を使用しているという印象を与える記述がある。」だとか、ヒステリックにプロバイダーに陳情しているのです…。(実際は盲目的なのも、洗脳も事実だろうが!って言いたくなりますが…。)

けれども、顕正会自体が公序良俗に反する団体であること、及び批判サイトの内容が日蓮正宗の教義に関するものであり、司法においても踏み込んで裁くことは不可能であること。顕正会もまた日蓮正宗に対して誹謗中傷を公然と為している事実をプロバイダーに説明すれば、プロバイダーも馬鹿ではありませんから、こちらの主張を理解して下さって、顕正会からの請求を却下してくれます。何も恐れるほどの事ではございません。ただし、個人を特定しての誹謗中傷であれば、又状況は変わってくるでしょうから、当該箇所は訂正若しくは削除しなければいけないかもしれませんね…。顕正会短信さんはその部分が多すぎて一気に閉鎖を決断したのかもしれませんね…。


話は戻りまして、上記行動は憶測でも妄想でもなく、ここ数ヶ月の間にあちこちで見聞きしている現実です。複数の法華講員から同様の情報を頂き、かつその証拠の書面も頂いております。


すでに物的証拠がある以上、これは動かし難い事実なのだろう。

ところがちょっと面白いことが浮かび上がってきた。

顕正会短信が復活してますが、トップページの文が私には意味不明で理解不能です。

水無月氏のコメントであるが、意味不明にして理解不能であるという、その文面を次に紹介しよう。

最近「顕正会」の名前で各サイト運営会社に対して顕正会を批判するページの削除を要求する事例をいくつか確認しています。もっとも第三者の悪意の悪戯の可能性もありますが、このページに関する抗議は顕正会本部以外からは受け付けません。メールは個人アドレスではなく本部アドレスから通知願います。

顕正会短信のトップページ(?)である。わたくしは上のほうで、暫定的云々と書いた。というのは、当該サイトには「裏ページで公開中」とあって、どこにもリンクが見当たらないのだ。つまり、現状ではたとえ更新があったとしても記事が読めない。そんなトップページがあるかと言いたいところだ。

わたくしの勝手な想像を書いておこう。

まず、顕正会短信のメンバーたちは自分たちのやっていることをヤバイことだと自覚している。だから閉鎖を余儀なくなれた。しかも今度は裏ページと来たもんだ。これまたヤバイことをやっている自覚があるからだろう。
そこで上掲の文面である。
彼らは創価学会側の人間である。すると人材がいないわけではないだろう。法律家であるとかそれに準ずるような人材がわんさかいる、それが創価学会の強みだ。
顕正会側の圧力に黙って手をこまねいているわけがない、泣き寝入りするわけがない。おそらくは法律家の手を借りるなどして、反撃に打って出たと思われる。たとえば顕正会側の文書に脅迫に相当するような表現があれば・・・例の流血云々がその傍証というか推測を成り立たせているわけであるが、ともかく顕正会短信側が反撃の材料として、それを逆手に取ることはじゅうぶん考えられることだと思う。
ところがである。顕正会側は知らぬ存ぜぬという態度に出た。ようするに、顕正会を騙る者が勝手にやったことであって、顕正会としてはそのような圧力を掛けた事実はまったくない、ヌレギヌである、と。

いかがだろうか?

おおむね推測どおりだとすると、ここで顕正会短信側は動きが取れなくなる。プロバイダに顕正会名義の文書が送られたのは事実なのだろう、しかし、それが顕正会の正式な文書なのかどうか、それを立証するのは困難に違いない。今一度、上掲の顕正会短信の文面を読むがいい、第三者による悪意のイタズラかもしれないと書いているのだ。こうして見ると、わたくしの想像もあながち的を外してはいないのではないか、いや、むしろ逆に、けっこう核心に迫っているのではないだろうか?

以上の理由から、トチロ〜氏ないし山門手前氏の握っている証拠も再検証する必要があるだろう。本当に顕正会から発せられた文書なのかどうか、その確認作業が必要である。顕正会だって馬鹿じゃないから、そう簡単に馬脚をあらわすはずはないのだ。

とは言え、

閉鎖して誰が一番得するか?
誰が一番ホッとして胸を撫で下ろしているか?

答えはそこにあるんじゃないでしょうか。


少し前のニシケン氏のコメントがいちばん鋭いのだろう。問題は証拠固めである。

それにしても今回のわたくしは犯人を顕正会だと決め付けて書いてしまっている。本当ならば、他の可能性についても考えるべきであろう。

2009/11/23

謝罪文  
一昨日の拙稿に不穏当な記述があり、山門入り口氏および関係各位に多大なご迷惑をお掛けしましたことを、ここに深く反省し、謝罪するものであります。山門入り口氏には今後とも忌憚のないご意見・ご指導・ご鞭撻をたまわりますよう、お願い申し上げるものであります。

さて、以下はいつもの独白調で書かせていただくが、

山門入り口氏あたりは実際の講演と活字化されたものが違うとすぐに大騒ぎする・・・

これが不穏当な部分である。これについて、山門入り口氏からクレームがついたわけだが、非はわたくしのほうにあるので見苦しい言い訳は慎みたいと思う。ようするに、山門氏は顕正会のことなら何でもかんでもケチをつけている、というのは誤解であって、内容を吟味した上で問題ありと思われる箇所を指摘するという姿勢を貫いているわけである。するとわたくしの、すぐに大騒ぎする、というのはまったくの事実誤認であり、いわば偏見なのであろう。他人をイロメガネで見てはいけない。ましてやそれをあたかも客観性があるかのごとく装うのは悪人のすることである。厳に慎みたいと思う。

それはさておき、顕正会短信閉鎖の真相については、多くの人が興味を懐いているらしく、拙稿のコメント欄にもいくつか書き込みがあった。

諫暁を聞いてくれなければ、流血もやも得ない自体になるとか言っていたりして?・・・^^

これは山門入り口氏が冗談めかして書いているわけだが、けっこう説得力があると思う。流血もやも得ない、というのは氏のいわゆる話し言葉なのだろう、普通は止むを得ないと書く。自体は事態であろう。それはともかく、これはいわゆる御遺命守護の戦いにおける浅井先生の用意していた非常手段の一つであり、そうした表現が文書に残っている。そうすると、なるほど、このような方法で圧力を掛けている可能性もなきにしもあらずであろう。

しかし、問答無用で削除というのがどうもわたくしには解せないところだ。少なくとも、そのまま泣き寝入りする理由がわからない。ようするに、顕正会の圧力で強制削除になったとしよう、もしそれが事実だとしても、どうして彼らはそのまま黙っているのか、何らかのアクションを起こしてもおかしくないだろう、とわたくしは言いたいのだ。この辺の事情に詳しい人がいれば、ぜひとも合理的な説明をお願いしたいと思う。

ところで、ニシケン氏からもコメントを頂戴しているが、これは意味深であり、いわゆる婉曲表現である。言いたいことはよくわかる。しかし、明言を避けているところが巧妙であり、わたくしとしてもこれ以上の言及は避けたいと思う。

最後にトチロ〜氏のコメントを紹介したい。

顕正会が批判サイトの運営者のプロバイダーに圧力をかけている事実は存在します。

氏が根拠のないことを書くとは思えないので、それなりの確証を得てのことなのだろう。後日、ご自分のブログで発表するとのことなので、それを待つことにしよう。

2009/11/21

会長講演二題  
まず、十月度総幹部会の会長講演を顕正新聞第1153号から引用する。

大聖人様はあの悪逆の平左衛門、良観においてすら、その悪を霊化せしめ、本仏成道の助けとなさしめ給うている。

とりわけ霊化が興味深い表現である。わたくしの記憶では、かつて浅井先生の口からこのような言葉が発せられたことは一度もないはずである。講義録や数々の著書にも見当たらないのではないかと思う。

なぜ、このような表現を用いたのか、そこがひじょうに気になるところだ。

というのは、わたくしの言語感覚ではあまり響きがよくない言葉だからである。
ずいぶん前にも書いたことがあるが、わたくしのところにエホバの証人がたまに来る。来ると必ず二冊セットで渡されるものがある。いわゆる彼らにとっての機関誌なのだろう。
今は読みもしないが、最初の頃はいちおう興味を懐いて読んだことがある。わたくしの読書術は、一冊の本をぜんぶ読む、拾い読みとかナナメ読みをしない、というものである。そうすると、その本の傾向性が見えてくる。
エホバの証人の本は当然、記事ごとに内容も違うし、執筆者も違うわけだろう。しかし、どうも似たような雰囲気があるのだ。それは顕正会で言えば、顕正会独特の言い回しだとか他では使わないような単語が頻出することである。
彼らの本を何冊か続けて読んでみて、いちばん印象に残っているのは、霊的という言葉だった。ともかく霊的が頻出するのだ。
結局のところ、霊的とは何か、それがよくわからないものだから、読んでいてストレスが溜まる一方だった。彼らはわかっているのだろうか、それともわかったつもりになっているのだろうか、その辺を追求してみようかと思ったが、面倒なのでそのままウヤムヤにしてある。

浅井先生の言う霊化もまた、わたくしにはよくわからない表現であり、いかがなものかと思うところである。

もっとも先生の場合は、わかり易さがウリであるから、前後の文章を読めば言わんとしていることはわかる。しかし、その表現そのものの是非という意味で、今回はいかがなものかと思うのである。今一度、部分的に切り出してみよう。

悪を霊化

アゲアシ取りを承知で書けば、言葉の並び方によっても印象がガラリと変わる場合があるので、わたくしは常にその辺を気をつけたいと思っている。上掲の場合、ウッカリすると、次のようなことにもなりかねない。

悪霊化

もちろん、これはあくまでアゲアシ取りであるが、しかし、悪霊化となるとまったく意味が違ってきてしまうので、そうなると大事件である。

さて、今度は顕正新聞第1154号であるが、鹿児島会館での会長講演である。

御当躰

これが気になった。今回の講演では「躰」が頻出する。現代表記は「体」である。なぜ、わざわざ「躰」を使うのか、それがよくわからない。

というのは、顕正会版の勤行要典を見ると、二座の御観念文に「御当体」とあるからだ。今さら字体を難しくする必要がどこにあるのか、とりわけ一念信解路線の顕正会において、読めない字を使う必要があるのか、聞きたいものである。

 いいですか。「南無妙法蓮華経」とは、日蓮大聖人の仏法上の御名前なのです。
 ゆえに御義口伝には、「南無妙法蓮華経如来」と仰せられている。「如来」とは仏という意味です。南無妙法蓮華経という名の如来、その仏様こそ、久遠元初の自受用身すなわち日蓮大聖人であられる。


思い出したが、ずいぶん前に沖浦耕治氏が南無妙法蓮華経如来のことを云々しているのに対し、わたくしは御書のどこにそんな言葉があるのかと問うたことがある。当然ながら、わたくしはわかっていて問うたのだ。御義口伝の寿量品二十七箇の大事のいちばん最初には次のごとくある。

南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

つまり、浅井先生にしても耕治氏にしても、一種の切り文をしているわけである。原本がどうなっているか、さすがにそこまでのことをわたくしは知らないが、御書全集にしても平成新編にしても上掲のごとく一続きになっていて切れ目がないのだ。

せっかくだから、再び顕正会版の経本にご登場願おう。

妙法蓮華経。如来寿量品。第十六。

字体は便宜的に現代表記に直させてもらったが、いわゆるマルの打ち方はご覧の通りである。

わたくしは南無妙法蓮華経如来を間違いだと言いたいわけではない。ようするに、御義口伝の当該御文をもって直ちに南無妙法蓮華経如来とするのは不正確であり、切り文との指摘を受けざるを得ないことになるので、その点を承知しておく必要があると言いたいのだ。

もう一つ、御書の引用についてイチャモンをつけておくと、まったく同じ御書がそっくりそのまま二回引用されている。しかも比較的長文である。これは片一方を省略してもいいだろう。山門入り口氏あたりは実際の講演と活字化されたものが違うとすぐに大騒ぎするけれども、それはまったく気にする必要のないことである。

最後に、

広宣流布の時には、富士山に温泉が湧くのではないか

これは日亨上人が仰せになったことなのだそうである。

2009/11/20

顕正会短信閉鎖の理由は何か?  
山門入り口氏のコメントを読んで驚いた。なんと顕正会短信がサイトを閉じてしまったのだ。何しろ昨日の今日というか、あまりにも急な話なので、驚きを隠せない。厳密に言えば、昨日の今日ではなく、昨日の昨日なのだ。

わたくしは昨日の午前中にブログを更新した。内容はご承知のとおり、顕正会短信にまつわることである。
その晩に山門入り口氏からコメントを頂戴した。それが上述のサイト閉鎖の話である。ゆえに驚いたのだ。
その前日には顕正会短信とネタが被っているとの指摘を受けていた。だからこそ、気になって当該サイトを閲覧し、それを昨日のブログのネタにしたわけである。それ以前は、ほとんど閲覧したことがなかった。正直なところ眼中になかったのだ。しかし、ネタが被っていると言われれば、誰だって気にならないはずがないだろう。

以上のような経緯を踏まえれば、わたくしの驚きようもご理解いただけるのではないかと思う。

さて、山門入り口氏によれば、他にも顕正会批判のサイトが閉鎖になっているらしく、どうやら氏はそれを顕正会のシワザだと考えているようである。
だが、わたくしは違うのではないかと思っている。少なくとも今回の場合は、違うのではないかという気がしてならないのだ。
今日はこれからその理由を書くつもりだが、ともかく急な話でもあり、それほど考えがまとまっているわけでもないので、その辺をあらかじめご承知願いたいと思う。

以前、如月というハンドルネームの創価学会員が、拙ブログに出入りしていた。如月氏は何が原因か不明だが、わたくしに対して異常なほどに敵意をむき出しにしていた。興味のある人は過去のコメント欄を確認されるとよいだろう。ともかく、いろいろと凄いことを書いているので、わたくしの言う敵意むき出しが単なる個人的主観ではないことがわかると思う。

今、わたくし自身、探すのが面倒なのでどこに書かれているか確認していないのだが、なんと如月氏はわざわざプロバイダに連絡を取って拙ブログを潰そうとしたのだった。いや、もしかしたらハッタリなのかもしれないが、ともかくプロバイダに働きかけたという意味のコメントがどこかに残っているのは間違いないことである。
そのコメントによれば、プロバイダは動いてくれなかったらしい。ようするに、当事者間で話し合って下さい、という意味の返答があったそうである。
プロバイダとしては常識的な対応をしたのだと思う。それはそうだ。わたくしはプロバイダに対してお金を払っている立場なのである。それにもかかわらず、クレームがついたからと言って、拙ブログを強制的に削除するようなことをすれば、わたくしとて黙っているわけがない。いや、実際は法的な手続きをどうこうするような、そんな面倒なことをするつもりはないけれども、少なくともその段階でプロバイダとの契約を打ち切ることは確実である。まさか、わざわざお客さんを失うようなことをプロバイダがするわけがない・・・というのが常識的な線であろう。これが結論である。
もちろん、拙ブログに重大な過失があれば話は違ってくるだろうけれども、わたくし自身にそうした自覚はまったくない。ゆえに、紆余曲折があったにせよ、今日まで継続することができたのである。

以上の経験を踏まえて、わたくしはたとえ顕正会といえども他人のサイトをどうこうできるものではないと思う。
たとえば前回ないし前々回の人事の話であれば、まさに顕正会の首脳部が生殺与奪のすべてを握っていると言えるだろう。しかし、それは内部の話であって、外部には通用しないことである。会社に譬えるならば、ワンマン社長がいて、気に食わない社員を次々にクビにする。しかし、よその会社の社員を自由自在にクビにするようなことは絶対にできないことである。
つまり、顕正会短信が正当な言論活動をしているのであれば、顕正会側からの圧力によって強制的に閉鎖になるようなことはあり得ない。

ゆえに、おそらくは自主的に閉鎖したのだろう。

その場合の一つの可能性としては、あるいは顕正会側から何らかの働きかけがあったのかもしれない。
たとえば、顕正会短信の記事に名誉毀損に相当するような記述があったとすれば、サイトを継続するならば法的措置を講ずるというオドシを掛けることができる。そこで短信のメンバーがこれはヤバイと思えば、サイトを閉じることだろう。
あくまで推測に過ぎないが、おそらくはこの辺が妥当な線に違いない。

しかし、わたくしは思う。もし、上述が事実であったとすれば、顕正会を糾弾するよりも顕正会短信を糾弾すべきである。だらしがないではないか、己れの言論に確信があるならば、あくまで言論活動を続けるべきである・・・と。
かつて言論出版妨害事件というものがあった。この時は創価学会がいわば加害者だった。しかし、今度は被害者である。皮肉な話だ。
しかも、当時の妨害事件では創価学会の圧力に屈せず、逆に創価学会の非を世間に広く知らしめることができた。ところが今度の場合、現時点では単なる泣き寝入り状態である。

繰り返し言おう、もし顕正会短信に正当な言論活動をしている自覚があるならば、このまま終わってはいけないはずだ。

さて、自惚れを承知で、もう一つの可能性を書いておこう。

もしかしたら拙ブログが原因ではないかと・・・

本人たちの判断か、あるいは創価学会の上層部からの指令で閉鎖した可能性もある。

わたくしは昨日、ネタが同じでも料理の仕方でぜんぜん違ったものが出来上がるという意味を書いた。実際、彼らとわたくしでは調理法が根本的に違うわけで、それは多くの人が認めるところだろう。問題はどちらの料理がオイシイかである。
もちろん、その人の好みもあるわけで、味の問題は一概には言えないので難しい。しかし、昨日の拙稿で指摘したごとく、彼らは妄想炸裂だとか精神病院だとか平気で書く。これがひじょうにマズイのだ。
彼らにとってはオイシイのかもしれないが、問題は世間一般の尺度である。

おわかりだろうか、顕正会批判者たちは顕正会の異常さを強調する。時にはカルトであると決め付ける。確かにそれはかなりの確度で言えることである。
ところがである。拙稿と彼らの文章を読み比べると、どうであろうか? おそらくは彼らのほうが異常に感じられるのではないか? 自分で言うのもナンであるが、拙稿はわりと常識的であり、おそらく第三者が読めば、それほど悪い印象を懐かないのではないかと思うのだ。もちろん、顕正会短信と比べての話である。

つまり、顕正会短信はその節度のなさからして、かえって創価学会のイメージを悪くしているフシがあるのだ。もし、これが事実であれば、当然ながら創価学会の上層部としては、やめるように言わざるを得ないだろう。

これはフェイクなど、他の謀略情報紙にも言えることなのだが・・・

2009/11/19

顕正会短信へのメッセージ  
覆面隊長氏のコメントは本部首脳にとって耳の痛い話だろう。外部の人間がとやかく言うのと違って、その一つひとつが的を射ているので、ひじょうに痛いのだ。

初信者ならまだしも部長まで不安定な組織って何?

全文引用してもいいくらいであるが、一つに絞らせてもらった。

上掲は一般社会にも当てはまることだろう。たとえば企業でも年がら年中、中途採用の募集を掛けているようなところがある。おそらくはよほど待遇が悪いのだろう。やめていく人間が多いのだ。しかし、もしかしたら経営者はそれでいいと考えているのかもしれない。あまり長く居てもらうといろいろと都合の悪いことが出てくるのだろう。近年、労働者派遣が全盛をきわめていることも、おそらくは同じ意味があるに違いない。しかし、だからと言って、幹部社員まで同じ扱いにする会社はないはずである。仕事のノウハウであるとか、お得意先への対応などを考えると、さすがにマイナス面が大きいからだ。

思えば顕正会員の教学力低下も、有能な幹部が次々に組織を去ってしまったことに一因がある。もちろん、根本的には一念信解路線が原因であるが、それと同時に古い会員が続々と抜けて行くことにも一因がある。
古い会員を排除する。これを企業に置き換えれば、いわばリストラみたいなものであるから、必ずしもマイナス面ばかりではないのだろう。しかし、総合的に判断したら、やはりマイナス面のほうが大きいのではないかと思われる。
通常、リストラは無能の社員を排除するための手段であるが、顕正会の場合は有能な人材を排除してしまっているような感じが否めない。それが今では外部の人間にも見透かされてしまっている状態なのである。

さて、昨日の拙稿であるが、顕正会短信とネタが被っているとの指摘を受けた。

わたくしは普段、顕正会短信を読んでいないので気がつかなかったが、確かに同じことを書いてしまったようだ。時間的には拙稿のほうが後になるので、いわゆるパクリということになる。しかし、同じネタを使っても、料理の仕方はさまざまだ。その点で、わたくしは多少の自信がある。

顕 正 会 短 信2009.11.12
脳内妄想のレベルは更に向上していた!


凄いタイトルである。これが彼らの調理法なのだろうが、はたしてお味のほうはいかがなものか、そこが疑問である。

上掲の顕正会短信では、くだんの元副男子部長を徹底的にこき下ろしている。この辺がわたくしとは根本的に違うところだ。
おそらく彼らは創価学会員なのだろう。組織的なのか、それとも会員有志によるものなのか、それはわからないが、ともかく創価学会側の視点で書かれているのは間違いない。
わたくしに言わせれば悪意に満ちた文章である。少なくとも敵意むき出しであることは、第三者が読めばわかることだろう。

何が根本的に違うかと言えば、わたくしは副男子部長の書いている内容の是非を云々せず、なぜ今も男子部なのか、年齢からすれば壮年部に移籍してもよいのではないか、といった方面から組織の問題点を抉り出そうとしたわけである。
ところが彼らは、創価学会のことを悪く書かれて、それに感情的に反発しているだけなのだ。妄想炸裂だとか、精神科を受診せよだとか、よく書けるものである。

それはともかく、次の一文が気になった。

「副男子部長」にまで登りつめたのだが、突如退いたかと思うと、その後「班長」をしていることが判明したのだ。あまりにも落差の激しい降格人事に、顕正会ウォッチャーの誰もが「もう彼は浮かんでこない」と囁いていたものだが、(以下省略)

班長をしていることが判明したとは、どのような調査によるのだろうか?

これが事実であれば、あまりにも落差の激しい降格人事である。しかし、ちょっと解せないところがある。
顕正会の場合、男子部長は専任であるが、副男子部長などはおおむね隊長兼任である。ゆえに、実力主義の顕正会では、折伏の成果が芳しくなければ降格も止むを得ない。しかし、隊長であれば普通は総支隊長ないし支隊長に降格されることはあっても、さすがに班長は考え難いことである。
ただし、支隊長の場合、今度は班長兼任というか、直属班を持つケースがある。そして顕正新聞掲載の折伏成果一覧には、個人名で○○班と記される。

以上、わたくしの推測が正しいとすれば、顕正会短信の記事は事実誤認であり、もしわざとそのように書いたとすれば悪意の文章であることが確定する。

さて、せっかくだから、もう一つ紹介しておこう。

顕 正 会 短 信2009.11.10
トミー失脚?男子部世代交代?人事の裏を読む


トミーは前第一部長のことだろう。しかし、顕正会の中でそのように呼ばれているのか、それとも彼らが勝手に呼んでいるのか、定かではない。

それはともかく、わたくしが気になったのは、トミーが十隊長専任になったという記述である。これが事実かどうか、もし事実だとすると、彼らがそれをどのようにして知り得たのか、ひじょうに興味が惹かれるところである。
前掲の元副男子部長の話では、あまりにも落差の激しい降格人事、などと書く彼らである。それに比べると、何となく中途半端な人事であり、タイトルの失脚だとか世代交代がどうもシックリこないのであるが、いかがだろうか?
確かに、彼らもそこに疑問符を付けているので、今回の人事の意図するところを測りかねているのだろう。

ちなみに、顕正新聞を読む限りでは、前第一部長が隊長専任になったかどうか、ハッキリしない。もしかしたら次の総幹部会で、十隊長の交代が発表されるかもしれない。そうであれば、現時点ではまだ十隊長は交代していないことになるので、いちおう顕正会短信の記事は正しいことになる。しかし、ここはいきなり部長兼隊長解任では衝撃が大きいのでワンクッションを入れたと考えるべきところなので、彼らの書く隊長専任は見通しの甘さを露呈したような格好になるだろう。

もちろん、この話は今度の総幹部会で隊長交代があると睨んでのことだから、もし交代がなければ、わたくしが大バカ者だということになる。

2009/11/18

人事発表に隠された真実  
今日はまず、顕正新聞第1153号に載る十月度総幹部会の記事を紹介したい。

 聞けば私の家は、附近一帯の学会員で知らない者がいないほど悪名が高いらしく、連れ込まれたら最後、拉致監禁され、未だかつて生きて帰った者がいないという(大爆笑)、「恐怖の館」なのだそうです(爆笑)。

これはいわゆる活動報告であるが、こうした創価学会を揶揄する記事は枚挙に暇がないほどであり、めずらしいわけではない。では、なぜにこの記事を紹介したかというと、わたくしはこの登壇者に注目したからだ。記事には男子部二隊支隊長との肩書きが付されている。しかし、実はこの人物、かつては副男子部長だったのだ。

役職が下がっても、こうして地道に活動を続けていることは立派であるが、わたくしが言いたいのは別のことである。

たとえば女子部の幹部として活躍していた人がしばらく姿を見せなくてどうしたのかと思いきや、結婚・出産などを経て婦人部として再出発するケースがまま見受けられる。男性の場合は出産するわけではないけれども、やはり年齢相応のところで男子部を卒業して壮年部に移籍するのが常識的な線だと思う。ゆえに、男子部の大幹部がある日突然、総幹部会などの壇上から姿を消したとしても、おそらくは壮年部に移籍したのだろう、男子部で大幹部だったとしてもいきなり壮年部で大幹部に抜擢するわけにも行かないだろうから、今は一壮年部員として頑張っているのだろう・・・とわたくしは思っていた。

ところが上掲の元副男子部長は、今も男子部の支隊長なのである。まあ、確かに掲載されている顔写真を見る限り、まだ男子部で通用しそうではあるが、おそらくはすでに四十を過ぎていることだろう。いったい、いつまで男子部に所属させておくのか、そこが今後の注目点である。

もちろん、本人の希望ということもあるだろうが、しかし、次の事例はまったく別次元の問題を想起させるものである。

 さらにこのたび、壮年部から男子部に編入された青森地区と第七隊の青森三箇支隊で第六十三隊が結成・・・

そうそう、これは九月度総幹部会における人事発表であり、顕正新聞第1150号に掲載されているものである。ちなみに当該記事の見出しには、男子部 組織いよいよ充実、などと書かれている。

『迷走する顕正会を斬る』の著者である櫻川氏は、著書の中で壮年部の疲弊ぶりを鋭く指摘しているわけだが、まさにその現実を垣間見るところである。
いつまでも男子部を卒業させないことがまず第一の問題であるが、それどころか壮年部の地区を潰してまで男子部を盛り立てようとしていることは、異常である。たとえ見出しに、男子部いよいよ充実、などと書かれていたとしても壮年部の地区が消滅しているわけだから、顕正会の組織としてはトータルでプラスマイナスゼロのはずなのだ。
穿った見方をすれば、壮年部はすでに死に体であり、いまさら充実を図ってもムダな努力に終わるだけなので、その分を男子部に傾注したほうが得策ということなのかもしれない。これが事実だとすれば、真面目に壮年部で活動している人をバカにした話である。
さらに穿った見方をすれば、実は男子部もすでに組織がガタガタになっていて、譬えれば出血多量のために輸血を必要としている状態で、しかも、いつまでも出血が止まらず輸血をし続けなければ死んでしまうような深刻な事態なのかもしれない。

話を十月度総幹部会に戻そう。毎回、必ず人事発表がある。いちおう、表向きは組織が発展充実していることを意味するものだ。たとえば九月度総幹部会は先ほど紹介したように、組織いよいよ充実、との見出しがあって、その記事の文末には次のごとくある。

 今回の人事により、男子部は全国六十三箇隊の陣容となった。

そして、十月度の総幹部会は次のごとくだ。

 今回の人事により、男子部は全国六十四箇隊の陣容となった。

隊が一つ増えている。微増のように思う人もいるかもしれないが、仮に毎月のように隊が増えていけば凄いことである。ともかく、これが組織の発展充実を演出している姿である。

演出などと言うと、真面目な顕正会員が反発を感じるかもしれないが、実際、今回の顕正新聞はけっこう衝撃的である。もしかしたら男子部の組織にも何かしらの動揺が走っているかもしれない。

男子第一部・第四部で部長交替

今まで男子第一部長だった人物の消息が気になるところである。というのは、この人は男子部のナンバーツーだった。男子部長を除けば、実質的にトップと言えるだろう。総幹部会の席順では浅井先生の隣が男子部長で、その隣に座っていたのが前第一部長である。
それが十月度総幹部会で壇上から姿を消してしまったのだ。顕正新聞第1153号の一面上段の写真を見れば、一目瞭然である。
それで今度の新第一部長であるが、彼は第七部長だった人物である。そして、どうやら記事を読む限り、今回の組織改編で第七部は消滅した模様である。

これでおわかりだろう、顕正会の組織は広宣流布に向かって常に拡張し続けている、それに伴ない人事も発展充実が図られる、というのが表向きの看板であるが、現実はかなり深刻である。皮肉ながらも、最終段階を迎えたごとくである。

もっとも、冒頭に紹介した元副男子部長のように、前第一部長も一会員に戻って地道に活動するとか、あるいは数ヶ月ないし数年後には壮年部員として登場する可能性もないわけではないだろう。

まあ、しかし、可能性がなくはないとは言え、きわめて低いと考えるのが一般である。

2009/11/17

泣いてバショクを斬る  
各方面よりコメントを頂戴しているが、今日は前回に引き続き、山門手前氏に対する追求である。

わたくしは前回、論点がボヤケないように、二つに絞って問いを発した。それに対して山門手前氏より、いちおうの回答があった。しかし、それはまったく回答のテイをなしていないものだった。

順番が逆になるが、まずは二点目から入りたい。

又、何故知っているか?という問いにもここでは返答できませんね(笑)。お会いしてお話しすべき時にお話します。

事実上の回答不能宣言である。

わたくしはフェイクの記事をハッタリだろうと書いた。すると山門手前氏より、そうではない、フェイクは証拠を入手した上で記事を書いている、という意味のコメントが寄せられた。これは驚きである。なぜ山門手前氏はそれを知っているのか、ぜひ聞かせてもらいたい、とわたくしは書いた。それに対する回答が上掲なのである。

回答不能と同時に、見事なスリカエである。とりわけ次の文章は、それが顕著である。

それとも私たちと会う勇気もないのでしょうか?

勇気があるとかないとか、挑発的な言辞を用いて、いつの間にか会うか会わないかという話題に摩り替わっている。これを遁辞と言うのだ。

顕正会の教義がパクリでなく顕正会の解釈が正しいとか思われているのでしたら、堂々と私と会えるはずですが、如何でしょうか?

これもまったく同じことで、わたくしのほうからは会うとか会わないとか一言たりとも口にしていないにもかかわらず、勝手にどんどん話を進めてしまっているわけである。これはおそらく、わたくしからの追及を逃れるための非常手段のつもりなのだろう。しかし、上述のごとく、これはスリカエ以外のナニモノでもないのだ。

さらに山門手前氏は、ここでも失態を演じている。

前掲、私たちと会う勇気もないのか、であるが、ここでの私たちとは山門手前氏とトチロ〜氏のことである。山門手前氏がそのように書いている以上、わたくしはてっきりトチロ〜氏の承諾を取ってのことだと思っていた。ところがそうではなかったのだ。

トチロ〜氏いわく、

山門手前さん、勝手に約束されては困ります。(^_^;)

いかがだろうか? これがいったい何を象徴しているか、賢明な読者はすでにおわかりだと思うが、このことは後述したい。

さて、順番が逆になったが、最初の問題を取り上げたいと思う。いや、その前に山門手前氏に確認したいことがある。

顕正会に関しては「完全悪」と断言しているので学会の立場とは異なります。

この文章がわたくしには理解できずにいるので、もう少し詳しい説明をお願いしたい。ようするに、完全悪と断言しているのは山門手前氏なのだろう、それはわかるが、学会の立場と異なる、というのは誰がどのように異なるのか、それがよくわからない。この点、よろしく回答願いたいと思う。

それはそれとして、最初の問題とは何かを簡単に説明すると、山門手前氏は顕正会批判の「全て」を善意であると書いている、さすがに「全て」は言い過ぎだろうというのがわたくしの意見だ。実に他愛のない話である。ここで仮に山門手前氏が、まあ、確かに「全て」は言い過ぎだったかもしれない、というふうに返答していれば、話はそれで済んだのである。ちなみに前回の拙稿のタイトルは、まさにその意味に他ならない。

ところが山門手前氏はどのように応じたか・・・次の一文が氏の回答である。

フェイクが悪意であると言うのは、厳虎さんの立場による見方です。

またしても山門手前氏は墓穴を掘ったようだ。これは自爆と言ってもよいかもしれない。

巌虎の立場による見方というのは、換言すれば巌虎の主観という意味だろう。だったら山門手前氏はどうなのか、である。氏の言う、顕正会批判は全て善意、にしても同様に、氏による主観ではないのかとわたくしは問いたい。それとも巌虎のは主観であって、己れのは客観であるなどと言うつもりであろうか?

本稿の冒頭において、山門手前氏のコメントは回答のテイをなしていない、と書いたのはこのためである。

ちなみに主観という言葉は必ずしも悪い響きではないと思う。たとえば、わたくしよりも遥かに勉強家で教養のある人がへりくだって、「これはあくまで己れの主観であるが・・・」などと前置きして何かをしゃべっているとすれば、それは傾聴に値する場合が多いと思う。ようは主観も程度の問題なのだ。その人の境界によるのである。

ゆえに、程度が低くなれば、単なる思い込みに過ぎない、ということにもなってくるし、それがさらに悪化すればいわゆる妄想ということにも通じることだろう。いよいよ結論が見えてきた。

失礼ながら山門手前氏は思い込みの強い人である。それが先述のトチロ〜氏の一件に象徴されているわけである。ようするに、くだんの失態の原因は、トチロ〜氏ならば巌虎との面談に加わってくれるはずという自分勝手な思い込みにあるわけだろう。すると以下の文章も、おそらくは同じ傾向性を有しているに違いない。

調査不足です。学会側は、証拠を入手しています。

山門手前氏はこの詳細を、会った時に話すと書いている。しかし、この場で説明すればいいのだ。なぜそれができないかと尋ねれば、また何かしら言い訳をするのかもしれないが、もはや賢明な読者にはよく話が見えたことだろうと思う。

これで今回の一件は終了としたい。

2009/11/14

己れの過ちを認める度量があるか?  
ニシケン氏の言うナンセンスはまったくそのとおりだと思う。わたくしは従来、今回のような無意味な応酬は、なるべく回避するように心掛けてきた。しかし、これまでの山門手前氏の投稿姿勢であるとか、その内容には常に疑問を感じていた。そして以前はそれをヤンワリとした形で、ようは注意を喚起していたのであるが、どうも一向に改まる様子がないので、今回は徹底追及の方針に転じたわけである。

顕正会を批判するサイトは多数ある。

それらは、全て「善意」なのである。


すべてが善意であるというのは、さすがに言い過ぎではないのか?

調査不足です。学会側は、証拠を入手しています。

山門手前氏は、なぜ学会側が証拠を入手していることを知っているのか?

以上、二点に要約した。これは前々回から前回に掛けての拙稿を最大限、要約したものである。
あるいはわたくしのこうした手法をイヤらしいと感じる人もいるかもしれないので、少しだけ説明しておこう。もちろん、これは山門手前氏の失策を責めているわけであって、ようは弱点を突いているようなものであるが、しかし、これはわたくしの一貫した主張でもあるのだ。
つまり、すべてが善意であるという山門手前氏の主張はたった一つでも悪意のサイトが存在すれば崩れる。それがフェイクなのだ。ところが氏はそれを認めたくないからなのか、上掲のごとく、フェイクが証拠を入手しているなどと書いてしまった。ゆえに、一法華講員のアナタがどうしてそんなことを知っているのか、と追求しているわけである。

あまり長々と書くと論点がボケてしまうので、今日はこれくらいで終わりにしよう。

2009/11/13

麗しき兄弟愛  
ヤレヤレ、である。

やぶからぼうに、何の話だかわからない人もいると思うが、先日来の拙ブログをご覧になればよくわかることだろう。ようは山門手前氏のコメントに対して、わたくしは不服を感じ、その旨を前回の記事に書いた。それに対してさっそく、山門手前氏より回答が寄せられた。それが正直なところ、あまりにもオソマツなものだから、嘆息したわけである。それがヤレヤレの意味だ。

しかし、この際だから徹底的に追求してみようと思う。

ご回答いたします。

顕正会を擁護する発言は、全て「悪」です。
理由は多数ありますが、割愛させていただきます。


ヒドイものである。冒頭に、ご回答いたします、などと大仰に書いておきながら、その二行後に、理由は多数あるが割愛する、と書いている。これでは議論にならないだろう。顕正会を擁護する発言はすべて悪であるという。顕正会に限らず他人を悪と断ずる以上は、それ相応の理由を述べる必要があるはずだ。理由はたくさんあるわけだろう、だったら代表的なものをいくつか書いておくのが筋である。その上で、他にも理由はたくさんあるが割愛する、とするのならば問題はないけれども、一つも開示せずに割愛するとはナニゴトかと言いたい。

そもそもが前回のわたくしの疑問に答えていない。顕正会批判はすべて善意であるという、さすがにそれはオカシイのではないか、と問うたのだ。
あるいは間接的に答えたのだろうか?
上掲のごとく、顕正会擁護はすべて悪としている。ならば、その逆であるところの顕正会批判はすべて善である、という理屈を言っているのかもしれない。しかし、わたくしはそれをあらかじめ予想して、フェイクによる宗門批判を取り上げたのだ。すなわちフェイクは宗門批判もするが顕正会批判もする、するとフェイクは善なのか悪なのか、いったいどちらなのか、という問題が生じるわけである。この問いに山門手前氏は答えていない。
こちらの問い方がヘタなのだろうか、それとも氏の読解力に問題があるのだろうか?

又、それが学会によるものでも同じです。
当然ながら学会が顕正会を擁護する事はありません。


ほとんど意味不明である。こうした文章を綴るところからすると、失礼ながら氏の思考力に問題がありそうである。

何度も書いていますが顕正会は、存在自体が悪です。

これが山門手前氏の持論なのだろう。

顕正会の存在自体が悪である以上、顕正会擁護もまた悪である。こういう理屈なのだと思われる。
しかし、何度も同じことを言わせるものではない。わたくしは、顕正会批判をすべて善であるとするのはさすがにオカシイだろう、と言っているのだ。むしろ低レベルの悪意に満ちた批判を展開しているようでは、かえって顕正会を利することにもなりかねない。それをずっと言い続けているのである。
そもそもが顕正会の存在自体を悪であると断ずることはよほどの覚悟が必要である。日本国憲法の精神に基づくならば、そう易々と他人を悪人呼ばわりすることはできないだろう。いわゆる信教の自由を踏みにじる行為である。ゆえに、顕正会を悪と断ずる場合は、純粋に教義上の問題として論ずる必要があると思うが、いかがだろうか?
はたして山門手前氏にそれが可能なのかどうか、そこが問われるところである。

調査不足です。学会側は、証拠を入手しています。

これはフェイクが浅井先生の過去の遊興などをあたかも知っているごとく書いていることに対して、わたくしがそれはハッタリだろうと書いたことを言っているわけである。

山門手前氏はまたしても墓穴を掘ったようだ。

調査不足というのは、わたくしに対する言葉だろう。何を気取っているのかと思う。わたくしは調査などしていない。常識的に考えて、フェイクの連中が先生の過去を知っているわけがないので、ハッタリだろうと書いたのだ。
ところが一方の山門手前氏は、驚くべきことに彼らが証拠を入手していることを知っているのである。なぜ知っているのか、彼らとグルなのか、もし違うとするならば、いったいどのような調査によってそれを知り得たのか、ぜひとも回答を願いたいものである。

あくまで個人的な観点ですが、学会は全く念頭にありません。(以下省略)

これ以上は無意味なので省略するが、上掲もまた見当違いの甚だしい文章である。
わたくしとて、創価学会にはさしたる関心を持たない。別に創価学会のことを論じようとしているわけではないのだ。
前回の拙稿をよく読むがいい。わたくしは山門手前氏の矛盾を指摘するために創価学会を引き合いに出したまでである。
まさに、それ以上でも以下でもないのだ。

さて、ややこしい話だが、山門入り口氏からもコメントが寄せられている。一部を紹介しよう。

そんな昔を知ってる人が普通いないとは、言い切れないですよ。

確かに断言できるかと問われれば躊躇せざるを得ないところだ。もしかしたら証言者が出てくるかもしれないので、その可能性を否定するつもりはない。
ただ、たとえばの話だが、わたくしは浅井先生を二十年以上前から知っている。昨日今日、顕正会に入ってきた人とはわけが違うのだ。しかし、いったい浅井先生の何を知っているかと言えば、何も知らないに等しいのだ。
これでわかるだろう、仮に大昔から知っていたという人がいたとしても、一から十まで知っているわけではないのだ。先生に遊び友達みたいなのがいれば、かなり貴重な証言を得られるだろうが、表面的な付き合い程度であれば、フェイクの書いているようなことまでは知らないと考えるのが普通である。

以下は省略するが、独自の取材ないし独自の調査をしている山門入り口氏には、いろいろな方面から多大の期待が寄せられていることだろう。わたくしも期待している一人である。

2009/11/12

徹底抗戦  
山門手前氏よりコメントを頂戴しているが、どうも短絡的な印象を拭えない。以前にも種々のコメントを頂戴しており、それらの総数は膨大をきわめるけれども、概して氏の文章は短絡的な傾向にある。

ところがそれらの多くは悪意で書かれている。わたくしの思うに悪意で書かれている文章というのは、見る人が見るとわかってしまうものである。

上掲は拙稿の一部であるが、氏はこの文章を取り上げて次のごとく書いている。

顕正会に対する批判は、悪意ではありません。顕正会が「社会悪」なのですから、それを擁護する事は「悪」を広める事です。

まず、わたくしが言いたいのは、拙文を一部分だけ取り上げるのは一種の切り文であり、わたくしの本意を捻じ曲げて読んでいる可能性があるし、また、他の読者にもそうした誤解を与えることになりかねないので、その点を注意されたいと思う。もし、これを意図的に行なっているならば、それこそが悪意ということなのだ。

わたくしは昨日、次のようなことも書いている。

つまり、顕正会がロクでもない組織であるのはもちろんだが、それを批判している連中もロクでもない、ハタから見ればそのように映るのである。

おわかりだろうか、わたくしは何も顕正会を一から十まですべて擁護しようなどとは思っていないし、実際にはご覧のとおり、ロクでもないと書いているくらいなのである。また、前掲のごとく、顕正会批判の多くは悪意で書かれている、というふうに書いたわけだが、ここでの「多く」に注目すべきである。つまり、顕正会批判はすべて悪意である、などとは書いていないのだ。

ところが山門手前氏はどうかと言うと、次のごとく書いている。

顕正会批判に関して etc.

公開日:2009/11/11 11:50 .

まず、顕正会を批判するサイトは多数ある。

それらは、全て「善意」なのである。
(以下省略)

なんと昨日、拙ブログのコメント欄とは別に、ご自身のブログに上掲のごとく書いているのだ。驚くではないか、氏は顕正会批判のすべてを善意であると言い切っている。この極端さはいったい何なのか?

つまり、わたくしは顕正会批判の多くは悪意で書かれているとしたが、すべてが悪意であるとまでは断じていない。ところが、一方の山門手前氏は、顕正会批判のすべてを善意であると書いてしまっているのだ。
イヤらしい言い方をすれば、これは自ら逃げ道を塞いでいるようなものである。なぜならば、もしたった一つでも悪意で書かれている文章が存在すれば、氏の主張はそこで瓦解するからである。
すべてが善意であると言い切るだけの自信がどこから生ずるのか、わたくしはそこが知りたいところである。本当のところは、単に言い過ぎてしまっただけのことではないかと思うが、どうだろうか?

こういう時、わたくしならばすぐに己れのアヤマチを認めることができる。というか傷口が広がって痛い思いをしたくないので、早目に処置をしてしまうように心掛けているのだ。ところが人によっては、それが出来ない人もいる。もしかしたら浅井先生なども同様かもしれない。さて、山門手前氏はどうだろうか?

フェイクという謀略情報紙がある。主には宗門批判というか、ほとんど誹謗中傷と見紛うような記事を書いているわけだが、たまに顕正会のことも書く。そこで山門氏に問うてみよう。

フェイクの記事は善意であるか悪意であるか?

どういう答えが返ってくるか知らないが、わたくしの思うに、フェイクを善意であるとすると宗門誹謗をも認めることになる。逆に悪意であるとすると、ここで山門氏の主張は破綻する。
ゆえに、宗門ネタの時は悪意であって、顕正会ネタの時は善意である、というのがいちおう整合性の取れた答えではないかと思うが、どうだろうか?
しかし、この論理を第三者がどのように受け取るか、そこが問題だろう。つまり、上記はいちおう整合性があるものの、単にムリヤリ整合性を持たせているだけの話である。ハタから見れば、恣意的ないし独善的ということになるだろう。

さらに問いたい。

創価学会に対する批判は善意なのか悪意なのか、である。
これも答えを待つべきであるが、勝手にどんどん話を進めよう。今の宗門においては、あるいは創価学会批判をすべて善意であるとする見解もあり得るかもしれない。しかし、話はそんなに簡単ではない。
創価学会批判は昔からあった。詳しくは知らないが、すでに昭和三十年代あたりからあったわけだろう。しかし、当時は「日蓮正宗創価学会批判」だったのだ。
ここに、いわゆる破前・破後という視点が必要になってくる。つまり、創価学会が破門になる以前においては、創価学会批判は悪意だった。そして破門以後においては、それが善意に変わるわけである。
しかし、考えても見よ。以前の批判書が突然、悪意から善意に変異するような馬鹿げた話はあり得ない。純粋にその批判の内容が善意か悪意かなのである。ゆえに日蓮正宗創価学会時代においても、すでに創価学会の組織そのものには種々の問題があって、それらを抉り出すような批判書もあっただろう。これらはきわめて良質な批判書であり、善意の批判書と言えるはずである。逆に今の創価学会に対して、根拠のない誹謗中傷に類するような記述をすれば、それは悪意に他ならないのだ。

以上の道理に当てはめるならば、顕正会批判もまた同様であって、すべてを善意とすることも、逆にすべてを悪意とすることもできないのではないか、あくまで批判の内容を吟味して、善意であるか悪意であるか判断すべきではないのか、とわたくしは考えるのであるが、いかがだろうか?

最後に悪意の文章を一つ紹介しておこう。これを善意と言い切ることができるのか、山門手前氏にお聞きしたいところだ。

今後も顕正会が暴走を続けるなら、大塚三業地での浅井の女遊び等を暴露する用意がある。

わたくしの見るところ、これはフェイクのハッタリだろう。普通に考えて、そんな昔のことを知っている人がいるわけがないし、ましてや証拠を提示することは困難に違いない。つまりは、単なる誹謗中傷である。

普通の人の感覚では、誹謗中傷=悪意なのだが・・・


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