2010/4/21

依法不依人御書を拝し奉る  
沖浦氏の二つのコメントを拝見したが、わたくしの思うに何も解決していない、議論が堂々巡りしているだけである。

 堕落法主の寛師書写で御本尊様にお力ある。

 書写係りの条件は、案外ゆるいんでしょうね。


これが最初のコメントの全文。そして、次のコメントは少し長いので必要な箇所だけ引用させてもらうが、以下のごとくである。

 第一、大石寺などは、大聖人様に直接の縁もゆかりもない寺です。

だから、なぜその寺の二十六代目の住職の本尊を用いるのか、と聞きたいのだ。すると氏がどのように答えるか、もう、おわかりだろう、それが前掲なのである。

もともと創価学会は日蓮正宗を正系門家であると認識していた。未だに日寛上人御書写の本尊を用いているのは、そうした経緯があるから当然のことである。しかし、沖浦氏の認識というか見通しによれば、創価学会はそこから脱却しようとしているらしいのだ。もし事実であれば、いずれは日寛上人の御本尊を破棄することになるだろう。それが自然な流れである。

わたくしは予言をしておきたい。もし、そのような時が到来したならば、それこそが創価学会の終焉であると。理由はあえて書く必要もないだろう。

さて、今度はnabe氏であるが、話がどんどん面倒臭い方向に向かっているようだ。

御法主上人に対する侮言の根拠、実例を示してもらいましょう。

わたくしは猊下に対して侮言などしていない。これが答えだ。

日精上人の話が出てくるので、ようはそうした事例を示せと言っているわけだろう。そして、わたくしがそれをやれば、ことごとく破折して進ぜよう、という意味が込められているのだと思われる。
簡単な話だ。わたくしは先日、天母山の話を書いた。これは冨士に出ているから書けたのだ。それ以外の事例はまったく知らない。日精上人の件は聞きかじっている程度のことであって、ほとんど知らないに等しい。
いつだか書いたはずだが、歴代上人の文献をいろいろ突き合わせてその齟齬をあげつらうのは、創価学会員の得意とする分野である。ゆえに、わたくしにそれを期待するのは筋違いであろう。

ともかく、わたくしに猊下を誹謗する意図はない。本質論として、猊下にも間違いがあるはずだ、猊下だけを例外に置くことはできない、と言いたいだけのことである。その点、nabe氏はよく本質を弁えているので、今回もひじょうに重要なことを書いておられる。

 日蓮大聖人も「人」です。

つまり、大聖人も例外ではないのだ。しかし、この辺は言葉のアヤというか、誤解を招きかねないので、そこが心配である。ようは、本質論ゆえにけっこう奥の深い問題であり、簡単には論じられないところなのだ。よって、今回のところはこのくらいで終わりにしたい。

論語読みの論語知らずですね
(中略)
 経文を本とするすなわち如説修行でなければならない、ということですから、引用が間違っています。

引用が間違っている・・・

これがよくわからない。わたくしとしては間違っていないつもりだ。

失礼ながら、むしろnabe氏の如説修行云々のほうがピントがずれているような気がする。間違いとまでは言えないが、やや飛躍ぎみであろう。ようするに、往いては如説修行の意に当たるのだろうけれども、直接的にはそこまでの意味はないと拝するべきだと思う。

世間の人々は何れを是という事をしらざる故に、或は多人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言について少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をすつ。仏は依法不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は依了義経・不依不了義経とはせいし給へども、濁世の衆生は依不了義経・不依了義経の者となりぬ。

ページが跨っているので、理解しづらいかもしれないが、

当世の僧俗多くは人を本として経文を本とせず。

大きな流れとしてはここが前掲の結論部分に相当するわけである。

つまり、世間の人々は何が正しいのか、判断能力がないので多人数であるとか権威者の言葉などをそのまま鵜呑みしてしまう、大聖人はその愚かしさを仰せになられているのだ。

この辺が、あるいはわたくしが暗に猊下を批判しているように受け取れるところなのかもしれないが、あえて言うならば、不勉強を棚に上げてヤミクモに猊下絶対を言い募るような法華講員に対する警鐘の意味はあるだろう。それを賢愚の分かれ目と書いたのだ。

なお、当該御文における賢愚の直接的な意味は、賢王愚王である。直前の御文を紹介しておこう。

例せば国ををさむる人、国の中のまつり事、三皇・五帝等の三墳・五典にて賞罰ををこなえば、聖人・賢人とはいわるれども・・・

この流れにおいて、

これ偏に文書に依りて人によらず、人によりて文書によらざるによりて賢愚はいで来たるなり。当世の僧俗多くは人を本として経文を本をせず。

と仰せあそばすわけである。

ゆえに文脈上、直接的には国を治める人の賢愚を意味するけれども、結論的には当世の僧俗に当てて、その多くは愚であると断じておられることになるわけだ。

さて、以上がわたくしの拝し方であるが、これのどこがどのように間違っているのだろうか?


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