2010/5/30

近き将来に向けての提言  
顕正新聞第1171号のトップ記事は立宗御報恩勤行会における会長講演であるが、これについては特に触れない。

その下段には水戸会館がいよいよ完成し、来月の十三日にオープンすることが記されている。以前、「さくら川」のことを書いた。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1315.html

今回の記事では、ちゃんと「桜川」と書かれている。やはり、これが一般的な表記なのだろう、わざわざ「さくら川」などと書く必要性は、どこにもないのだ。

ところで十三日は御講である。今はどうやら第二日曜を御講の日にしているらしいが、たまたま来月はちょうど十三日に当てはまっている。四月の神奈川会館オープンも第二日曜だった。
一説によると、顕正会の首脳部はあえて御講の日を選んで御入仏式を行なっているとのことである。この日は法華講員も動きが取れない。何しろ自分たちがお寺に参詣する日だからだ。
なるほど、法華講の勇ましい連中があえて浅井先生の来る日を狙って、会館前で何らかの動きをするかもしれない。それは本部首脳にとって、ひじょうに怖いことだ。

今やネット上に動画が出ているので有名だが、平成元年前後に顕正会と妙観講の間でいろいろなことがあった。あの時も顕正会のほうがヒステリックというか、過剰な反応を示していたように思う。結局、いろいろな意味で顕正会のほうが不利なのだろう。ましてや今はニセ本尊の問題があって、これが最大のネックになっている。やはり本部首脳としても、そこを衝かれたら一溜まりもないことを承知しているのだろう。

さて、顕正新聞当該号は二面以降、すべて四月度班長会の記事で埋められている。

巌のごとき大忠誠心

これは壮年部副部長の記事だが、凄い表現力である。実はこのフレーズ、以前にも登場したことがある。誰が言い出したかと思えば、なんと副部長本人である。

http://white.ap.teacup.com/ganko/609.html

しかし、これを真似る人は他にいないようだ。わたくしの知る限りは他にいない。考えてみれば、壮年部班長会での登壇であり、しかも数年に一回の頻度である。影響力が小さいのは当然だかもしれない。

それはさておき、話を変えよう。男子部長の記事に、六十六・六十七代の貫首が二代にわたって創価学会に諂い云々、というくだりがある。わたくしはいつも思うのだが、六十八代はどうなのか、それが問題だろう。浅井先生はすでに頭が硬くなっているから仕方がないにしても、男子部長がそれでは困る。将来の展望を考えて、発言するべきだ。

 しかし「御大事守護の御本尊」が、いま御遺命守護に命を賭された先生のもとにまします不思議に思いを巡らせば万感胸に迫り、近き将来、国立戒壇堅持の貫首上人がお出ましになれば、先生の「御遺命守護の功績」が称えられ、宗史に燦然と輝く日の来ること大確信するものであります。

文中、近き将来を云々するくだりがあるけれども、わたくしにはとうてい首肯できない内容である。残念ながら男子部長の展望は単なる希望的観測であり、きわめて実現性の低いものだと言わざるを得ない。

ご存じでない人のために、少しだけ回り道をしよう。御大事守護の御本尊というのは、明治初期に戒壇の大御本尊を御守護申し上げたという功績によって、その任に当たった在家信徒に与えられた御本尊のことである。それが今、顕正会の神奈川会館に安置されているわけだ。男子部長をはじめとして顕正会の幹部たちは、この由緒ある御本尊が浅井先生のもとに存在することに不思議を感じている。いわば先生が特別な存在であることの根拠の一つになるわけだろう。確かに熱心な活動会員であれば、ああ、そうなのか、これは凄いことだ、と思うに違いない。

あるいは男子部長もまた、こうした活動会員たちと同じ思考レベルにあるのかもしれない。であれば、明治時代における「御大事守護の功績」と同様のことが、近き将来において実現する。すなわち「御遺命守護の功績」が事相となる。男子部長はこのように夢見ているのかもしれない。

ある意味、六十八代について云々しないのは、この近き将来の展望を含みにしているとも考えられる。男子部長だって馬鹿じゃない。やはり、いずれは宗門との関係を修復しないことにはやっていけなくなる、そう考えて不思議はない。いや、むしろそれが常識的な判断のはずだ。もし男子部長に次期会長としての自覚があるならば、これこそがまっとうな判断に違いない。いちおう、この意味では男子部長もずいぶん成長したと言えるだろう。

さて、ここで問題である。わたくしは既述のごとく、これについて首肯できないとか実現性が低いとか書いた。すなわち男子部長の将来の展望は、現実的ではない。ゆえに懐疑的にならざるを得ないのだ。その理由はこれまでにも再三にわたって書いてきたつもりである。

いわゆる御相承の断絶について、これをどのように修正するか、ここにすべてが凝縮されているのだ。

創価学会では御当代をニセ法主の二代目だと言っているごとくである。顕正会ではこのような言い方をしないけれども、御相承の断絶を言ってしまった以上は創価学会と同じ方向性にあると思われても仕方がないだろう。それでいて近き将来、顕正会を認めて下さる猊下がお出ましになると考えるのは、いかにも都合の良過ぎる考え方である。これを世間では自己中と言う。

男子部長も馬鹿じゃない。このくらいの道理はわかるだろう。さて、どうするか、だ。浅井先生は自分の間違いを認めたくないタイプである。しかし、もし本気で宗門との関係を修復しようと思うのならば、己れの非も認めないといけない。今さら先生自身がそうするとは思えないけれども、次代を担う城衛であれば、それは可能だろう。もちろん、簡単な話ではない。

ともかく「御相承の断絶」を撤回すべし、というのがわたくしの主張であり、まさにこれが顕正会の近き将来を決定付ける一つの重要なカギである。

2010/5/23

ナンメイ  
大沢氏にはご理解をたまわることができた。しかし、こういう時、一筋縄で行かないのがnabe氏である。いわく、個人的理由を宗祖が認めるだろうか、と。確かに痛いところを突いている。もはや、わたくしとしては何も言えないところだ。ともかく大沢氏はご慈愛こもるコメント、nabe氏のそれはさしずめ厳愛のコメント、ということで終わりにしたいと思う。

さて、今日は四月度総幹部会の記事をやっつけてしまいたい。

婦人部青森支区部長の活動報告に、気になる記述がある。何かトラブルがあったのだろう。いわゆる内紛だと思われるが、文面からは具体的なことが見えてこない。

 振り返れば、黒石顕正会員は昨年九月、浅井先生に組織を守って頂き、以来、全員が清々しく晴れやかに異体同心して広宣流布に戦わせて頂いておりますが、このあまりに深き大恩を、私自身、片時も忘れたことはありません。

黒石方面の顕正会組織に何かしらの問題があった。それは単に婦人部だけのことではないらしい。文面からわかるのはこの程度のことである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1380.html

リンク先をご覧になればわかるごとく、昨秋、壮年部の青森地区が消滅している。やはり何かあったのだろう。

それはさておき、この活動報告には婦人部青森支区の実勢が数字で示されている。いわゆる折伏の戦いにおいて、総勢二百五十名が動いたこと。それは支区集会参加者の約八割に当たること。結果、百六名の紹介者によって百四十九名が入信したこと、などが書かれている。

おそらくこれはかなり理想的な数字なのだろう。

集会にはおよそ三百人が参加し、しかもその大半が熱心な活動会員らしいのだ。ただ単に集会だけに参加するといった消極的な会員は少ない。いわゆる傍観者が少ないということだ。
それは紹介者と入信者の数字からもわかることだ。紹介者一人当たり二名弱の入信ということは、ごく一部の人間がシャカリキになって活動しているわけではなく、いわゆる底辺の広い戦いが行なわれている証拠である。
そして全体としては、折伏を実践したものの結果を出せなかった人が半数以上いるわけで、この点がひじょうに重要だと思う。つまり、わりと常識的な折伏であって、強引な折伏ではないということなのだ。

さて、次に行こう。

イジメに悩みナイフ30本隠し持つ

これは男子部班長の体験発表であるが、わたくしはてっきり合計三十本のナイフを所有している意味かと思っていたら、そうではなかった。なんと学校に行く時には制服の裏などにいつも三十本のナイフを隠し持っていたのだそうである。いかにもウソ臭い話であるが、いかがだろうか?

せいぜい二・三本が現実的だろう。これは前掲の活動報告でも言えることだが、仮に二百五十人が折伏して二百五十人が入信したとすれば、いかにもウソ臭い。むしろ現実的な意味からすれば、二百五十人が動いて結果を出したのが二十五人、というくらいでもいいだろう。

さらにこの体験発表には、闘牛士が牛をかわすような形で車をかわして事故を免かれたという話が出てくるのだが、これもちょっとアヤシイところだ。話の面白さは認めよう。だが、しかし、具体的な動作を検証していくとツジツマが合わないのではないかと思えて仕方がないのだ。自転車の急ブレーキは後輪が持ち上がって、確かに闘牛士のような挙動になる可能性がある。それで突進してくる自動車と自分の乗っている自転車が平行になって、スレスレのところでぶつからずに済んだと言いたいわけなのだろう。そもそもブレーキを掛けるタイミングが遅ければ自転車の向きがどのようになっていてもぶつかってしまう。車の通過する軌道の手前で止まることができなければ手遅れになるのだ。もしくは車が来る前にそこを通り抜けてしまう以外にない。しかし、この話では思いっきりブレーキを掛けたわけだから、車の手前で止まれたわけなのだろう。であれば、横向きになろうがなるまいが関係ないのだ。

最後に、八十歳の男性婦人部員の話を紹介しよう。

入信は婦人部組長による諌暁書配布がキッカケである。近年、このケースが存外に多い。諫暁書の配布活動がいかに効を奏しているか、ということだ。

散華

わたくしは仏法用語としての認識を持ってはいたものの、世間知らずなものだから、その他の用例にはあまり馴染みがなかった。ようするにこの人の兄は戦死していて、それを散華という言葉で表現しているのだった。

 私は少年時代、志願した少年航空兵になることができませんでした。兄や友人の幾人かは、特攻隊員として南溟(なんめい)の果ての雲を血に染めて散っていきました。

散華云々のくだりとは別に、上掲のような記述もあって、わたくしはうなった。わざわざカッコで(なんめい)と書いてあるからいいものの、そうでなければ読めもしなかっただろう。自分の教養のなさをまざまざと思い知らされた格好である。

2010/5/21

返報  
都合の悪い時は独白の世界にもぐりこむ、それがわたくしの常套手段であるが、しかし、今回は行き掛かり上、大沢氏に対して「いなせの返事」を申し上げなければならないだろう。種々の事情を勘案して、日蓮正宗への帰伏は先送りにしたい。これが結論である。種々の事情の中には個人的な理由も含まれるので、これ以上の説明は控えさせていただくことにする。

まさにこの辺が、nabe氏をして「巌虎さんが自分の成仏を真剣に考えているとは思えません」と言わしめる結果になっているのだろう。

顕正会では、知らずとは言え御遺命に背いた団体にを置いて身の持つはずもなく、などという発表がよくある。この理屈で言えば、顕正会が間違った団体であれば本人に自覚がなくともそこに在籍しているだけで罪障を積むことになるわけだから、一刻も早く脱会すべきが筋だろう。
ちなみに話は脱線するが、顕正会に入っているからと言って安心はできない、真面目に御奉公しなければ功徳は積めないし成仏できない、というのが顕正会幹部の言い分である。仏道修行とは厳しいものだ。間違った団体の場合、そこに在籍しているだけでも罪障を積む。一方、正しい団体の場合、在籍しているだけではダメだと言うのだ。それはそうかもしれないが、聞いているほうにしてみると、何となく都合のよい理屈を言っているように聞こえてしまうから不思議である。
それはともかく、かつての顕正会であれば、どちらが正しいか結論が出るまでトコトン話し合おうではないか、というのが普通であったが、今は完全な弱腰になってしまっている。ようするに自分たちが間違っているという自覚が少しは芽生えているからなのだろう、その上で顕正会が間違った団体であれば潔く身を退くべきが道理であるからして、今はその事実に直面することを恐れているわけなのだろう。

わたくしはいわゆる活動会員ではないので、こうした心理的葛藤があるわけではない。帰伏するに当たっても、それほど障壁があるわけではない。しかし、あくまでそれはわたくし自身の自由意志に基づくものであり、その結論として当面は帰伏しないということなのだ。

さて、他にも種々のコメントを頂戴しているので、今日はその感想を書こうと思う。

ありの金吾氏の話は、氏の非凡さを物語るものである。
おそらくはわたくしと世代が異なるのだろう、確かにそれも理由の一つだ。というのは、わたくしよりも古い世代の顕正会員ないし妙信講員たちは御書を持つことに何の躊躇もなく、わたくしの世代の顕正会員はその影響もあってか、わりと自主的に御書を購入していたのである。ゆえに、ありの金吾氏はそれよりも新しい世代の顕正会員・・・いわゆる一念信解路線の中で育った人なのだろうと思われるのだ。
つまり、御書を持つことに躊躇がある。それゆえに本部に問い合わせた。しかし、そこがまた、非凡さの理由の一つだ。
たぶん、このような事案で本部に電話が掛かってくることは滅多にないのだろう、だからこそ電話を受けた本部職員は返答に窮したのだ。そこで男子部長のお出ましである。
この電話のやりとりの結果、ありの金吾氏は顕正会への疑問を深めることになった。それが後に宗門へ帰伏することにつながるわけである。

ありの氏のケースは滅多にないことかもしれないが、いずれにしても結果だけで判断するならば本部の対応がマズかったことになるだろう。わたくしは許可してもよかったのではないかと思う。ただ現状では顕正会版が存在しない以上、よその御書を購入することになるので、たとえば創価学会版ならば創価学会を利することになる。その意味から、大っぴらに許可するわけには行かないが、君がどうしてもほしいのであればそれは構わない。このように言えば、ありの氏だって疑問には思わなかったはずである。

われわれが御書を読んでも理解できない云々は、確かに顕正会では当然の理屈であり男子部長だって間違ったことを言ってしまったとは思っていないだろう。しかし、どうせ理解できないのだから読んでも意味がない、と言うのであれば、それは大間違いである。まさにこの辺が今の顕正会のアヤシイところだ。つまり、意図的に御書から遠ざけようとしているのではないか、という疑惑が生じてしまうのだ。行き着くところは浅井流法門であり、いわゆる浅井教である。

「顕正会の中心はどなたなんですか?」

しかし、ジャスティ氏のこの質問は失礼ながら引っ掛け問題みたいなもので、浅井先生と答えたとしても、それはそれで仕方がないのではないかと思う。ゆえに、もし可能であれば再質問をして、その回答を確かめるべきだろう。
え? 浅井先生が中心? 顕正会の中心は大聖人ではないのですか?
これにどのような回答があるか、そこで正真正銘の浅井教かどうか、見極めるべきだと思う。

顕正新聞を読んでいると、大聖人と浅井先生を並べて論じている記事を見つけることがある。今は具体例を挙げられないが、たとえば、大聖人の御守護と浅井先生の大信力に守られ・・・みたいな表現がある。いちおう、この場合は序列として大聖人が筆頭になっているので問題ないとしよう。ところがどっこい、ある時、これが逆になっている記事があったのだ。これまた具体例を挙げられないので恐縮だが、浅井先生の○○と大聖人の△△・・・というような文章である。さすがにこれはマズイだろう。

現時点でもじゅうぶんに浅井教と言い得る側面はある。それが全面的になるのはいつのことか、一つの注意点であろう。

怨嫉謗法ダメですよ。

最後に沖浦氏からのコメントにも触れておこう。

俗に、人を呪わば穴二つ、などと言う。これは確かに真理なのだろう、わたくし自身の経験上においても実感するところである。呪うは極端にしても、物凄く嫌いな人物がいると、心の中で穏やかならざることを考えていたりする。ところがこういう心理状態の時は、案外に自分自身が失敗を犯したりするものである。考えてみればそれも道理である。ようは心中が煩悩で掻き乱されているわけだから、普段ならば当たり前にできることがうまくできなかったりする。それが運悪く大失敗に至るケースもある。

怨嫉謗法がダメだと言うのは、おそらくこれが理由であろう。仏法とは何も特殊なことを説いているわけではなく、あくまで道理に立脚しているものなのだと思う。すると単純な道理として、怨嫉はその怨嫉者本人の精神状態がすでにして異常なのだから、それが行動全般に悪影響を及ぼすだろうことが容易にわかることである。

ただし、はたして沖浦氏の言うように、法華講員が怨嫉謗法に当たるかどうか、それはまた別の問題であり、わたくしの関知するところではない。


五月二十三日追記:一部修正

2010/5/17

浅井先生の御聖意?  
今日はのび太氏のコメントをベースに思うところを書くつもりだが、その前に触れておくべき事柄が出来した。大沢克日子氏による長文のコメントである。

巌虎様は顕正会の問題点、浅井会長の矛盾を知っておられるにもかかわらず、「監視」「批判」のみに止まっておられてよろしいのでしょうか?

文章の中ほどにご覧の記述があって、さらには文末にも同趣旨の文章がある。

顕正会により様々な実害を受けている会員が出ている現状を見る時、問題点に気付きながら、第三者的に「監視」「批判」に止まってしまっていいのでしょうか?

ようするに、巌虎はブログを書いているだけで他に何もしていないじゃないか、それはイカン、ということなのだろう。それでは無慈悲だ、というのが最終結論である。

ひじょうに厳しいコメントであるが、事実なので仕方がない。ご批判は甘んじて受けたいと思う。
もし現状から一歩前進をするとしたら、一つには宗門への帰伏という具体的な行動が求められるところだろう。他の選択肢としては、たとえば顕正会批判をするにしても、ブログでやるのではなく、直接的な行動に打って出るべきだ、という考え方もあるだろう。もちろん、他にもいろいろあることだろう。
ようするに、今のままブログを続けていれば、大沢氏に限った話ではなく、同様の批判が各方面から出ても、おかしくはないのだ。
ゆえに、それはそれで甘んじて受け止めるしかない。それがイヤなら、最終的にはネットから撤退するしかないだろう。わたくしの唯一の自慢(?)は、自分にとって耳の痛い話であっても、削除せずに残しておくことである。

nabe氏にお伺いします。顕○会時代の遥拝勤行と唱題で日蓮大聖人を御本仏と感得できるのでしょうか?
厳虎氏の観念論的な信仰はどうもこの辺にあるように思うのですが…率直な感想をお願いします。


さて、本題である。のび太氏のコメントはわたくしに宛てたものではないが、さりとて無関係というものでもないので、思うところを書いてみたい。

相変わらず顕正会を伏せ字にしているところが気に入らない。どこか他のところにコメントするならまだしも、拙ブログは副題に零落れ顕正会員云々と書いているわけである。いわば顕正会のことが主要なテーマとなるべきブログなのだ。そこでわざわざ伏せ字を使うことにいったい何の価値があるのか、おそらく普通の感覚からすればひじょうに奇異に感じられるはずである。ちなみに以前の沖浦克治氏は顕彰会と書いていたが、今はちゃんと顕正会と書くようになった。それが常識人のあり方だろう。

遥拝勤行と唱題で日蓮大聖人を御本仏と感得できるのでしょうか?

再掲させてもらったが、ここでの感得の意味がよくわからない。単に教義の問題として捉えるならば、顕正会員は大聖人を御本仏であると認識しているわけであって、それは遙拝勤行云々に左右されるものではない。

顕○会員のように遥拝勤行と唱題で御本仏の境地を感得できるのか不思議でなりません。

のび太氏の二つ目のコメントである。何となく話が見えてきた。この前にはnabe氏のコメントがあって、感得とは仏果を得ること、と書いておられる。のび太氏の、御本仏の境地を感得する、という意味が仏果を得ること、すなわち成仏の意味であると理解しておこう。それをnabe氏に問うところが面白い。

この際、遙拝勤行は関係ない。今、もっとも問われるところはニセ本尊疑惑である。つまり、法華講員の言い分としては、そんなので成仏できるわけがない、ということになる。何を隠そう、これはそっくりそのまま創価学会にも当てはまることなのだ。法華講員たちの認識としては、創価学会版の本尊も顕正会版のそれも、いずれも不可ということになる。妙な話、ニセ本尊を拝むくらいならば、むしろ遥拝のほうがマシという見解もあり得るだろう。この意味で、のび太氏の質問は自爆のようにも感じられるところである。

厳虎氏の観念論的な信仰

ここはある意味、大沢氏の批判とオーバーラップするところだと思う。ゆえに、あえて抗弁するつもりはないが、しかし、どうなんだろうか、のび太氏の周囲には顕正会員がいないのか、そこが気になるところである。これは顕正会経験者であれば、よくわかっていることだと思うが、わたくしの信仰姿勢は決して模範的ではない、いわば顕正会における異端であって、平均的な顕正会員像とは異なるものである。よって、わたくしの姿を見て顕正会員とはこういうものなのだ、と思ったならば大間違いである。のび太氏にはそこを誤解のないようにお願いしたい。

観念論的の対極に位置するのが何か、適切な言葉が見つからないが、熱心な活動会員たちは実践的であり、行動力がある。一方のわたくしが落ちぶれ会員を自認するのは、まさに事実だからである。

なお、観念論的という意味において、あるいは顕正会の信仰が実生活にメリットをもたらさないという一面があるのは否めないかもしれない。熱心な活動会員ほど生活破綻に至るケースが多いとも言われているが、もしこれが事実であれば、ぶっちゃけ功徳がないのだろう。のび太氏の言う観念論的信仰は、この意味では案外に正鵠を射ているのかもしれない。

いずれにしても、わたくしを平均的な顕正会員像だと思うのは大間違いであると、これは何度でも言っておきたいところだ。

話は変わるが、四月度総幹部会の副理事長の登壇を紹介したい。

 また顕正新聞には、総幹部会・御書講義・日曜勤行等における浅井先生の重要指導が掲載されておりますが、耳を通して頂いた指導を、改めて活字を通して拝読することで、御聖意がより深く命に刻まれ、信心は深まるのであります。

凄いことを言っている。これではまるで浅井先生が御本仏みたいだ。

2010/5/16

浅井式循環論法  
前回のコメント欄には、めずらしい人が登場した。茶寮氏である。はたして何年ぶりのことであるか、おそらくは丸三年くらいの空白期間があったのではないかと思われる。

さて、コメントの中身であるが、そこにはリンクが貼られてあるので、紹介しておこう。

http://sakuragawa.qee.jp/b/m/b9nent.html

 山門入り口さんのブログに「新年企画!」として、「元旦号で見る顕正新聞!」が掲載されました。事態の推移を把握するために「定点観測」は重要であり、とてもよい着眼点であると思います。「年頭の辞」は、浅井昭衛会長の発言の変遷が時系列に把握できる、絶好の定点観測ポイントでしょう。

なんと櫻川氏のサイトだった。その中で茶寮氏が注目したのは平成十四年の年頭の辞である。

 この三毒渦まく日本に、いま刻々と二大氷山が近づきつつある。そして国家財政の破綻も巨大地震の発生も時期を同じくし"早ければ二〇〇二年、遅くとも二〇〇五年"ということは、容易なことではない。この二大氷山の到来こそ、恐るべき他国侵逼の予兆に他ならない。

nabe氏に言わせれば、今さら浅井発言の不整合をあげつらっても意味がない、それこそ枚挙に暇がないくらいであるから、過去の事例だけでもじゅうぶんである、ということになりそうだ。

確かに、古くから顕正会を見つめてきた人にしてみれば、もはやウンザリするくらい自語相違を知っている。しかし、昨今の人たちにとっては、知らないことも多い。あと二十五年の話にしても、その発言そのものをリアルタイムで聞いたわけではないし、今はその二十五年のタイムリミットすら過ぎてしまっているわけだから、何となく実感しづらいのだ。
もし、ここに平成十年から十三年頃にかけて入信した人がいるとして、平成十四年前後はまさにノリノリの状態だったとしよう。そこで上掲の年頭の辞を読めばどう感じるか、なのだ。さらに、その同じ人物が今もなお現役バリバリの顕正会員だとしたら、本年の三月度ないし四月度総幹部会の会長講演をどのように受け取るか、そこが問題である。茶寮氏の指摘はまさにこれであろう。
ゆえに、nabe氏のようなベテランにしてみれば今さらのことであっても、新しい人たちにとってはけっこう新鮮な出来事とも言えることなのだ。
よって、先生が自語相違を繰り返すたびにその一々を批判していく、これも一つの有力なあり方のはずである。

そういうわけで、今日は茶寮氏の視点を踏まえて、わたくしなりに書いたみたいと思う。

日本の行く手に二つの大氷山

これが直近の四月度総幹部会の見出しの一つである。二つの大氷山と二大氷山は同じ意味と考えるのが普通であろう。すると平成十四年の年頭の辞との自語相違は明瞭である。

 二大氷山   =国家破産と巨大地震

 二つの大氷山=国家破産と他国侵逼


ただし、前掲に明らかなごとく、国家破産と巨大地震は他国侵逼の予兆であると言っているので、大きな意味では矛盾がない。問題は巨大地震がどうなってしまったのか、そうした都合の悪い部分に頬かむりしている点であろう。これまた毎度のことではあるのだが・・・

さて、先々月すなわち三月度総幹部会の会長講演を再掲しよう。以前の拙ブログで取り上げた部分である。

 今や、多くの学者そしてマスコミが、一斉に「国家破産の到来必至」を叫ぶようになって来たが、私はその到来を、遅くても五年以内、早ければ二・三年後と思っております。

今一度、平成十四年の年頭の辞をご覧に入れたい。

そして国家財政の破綻も巨大地震の発生も時期を同じくし"早ければ二〇〇二年、遅くとも二〇〇五年"ということは、容易なことではない。

もはや説明の要もないが、あえてピックアップしよう。

遅くても・・・、早ければ・・・

早ければ・・・、遅くとも・・・


これはいかがなものだろう。浅井先生には会員を騙しているという自覚がないのか、それとも自覚してやっていることなのか、そこが気になるところである。

おそらく当時から在籍している顕正会員であれば、気がつく人もいることだろう。ただし、多くの人は気がつかないと思う。なぜならば、わたくしのような傍観者ですら、茶寮氏のコメントを読むまでうっかり忘れていたのである。いわんや、熱心に活動している会員には過去を振り返る余裕がないので、そのまま気がつかないでいる人が多いと思われるのだ。

結論として、今さら浅井発言の矛盾をあげつらうのはウンザリだというのも事実であるが、一方では常に発言をチェックしてそこに矛盾がないかどうか監視を続けることも必要である。

なお、のび太氏のコメントについては、明日、書く予定だ。

2010/5/14

会長講演を読んで  
昨日に続いて、顕正新聞第1170号から話題を拾いたい。

日本の行く手に二つの大氷山

四月度総幹部会の会長講演はこの見出しに尽きるだろう。では、二つの大氷山とは何かであるが、一つには国家破産のこと、そしてもう一つが他国侵逼のことである。これらは以前から主張していることであり、今さら新鮮味などありはしないと思うムキもあるかもしれないが、浅井先生のうまいところは毎回必ず最新の情報を盛り込むことである。ゆえに、記事をていねいに読んでいくと、へえ、そうなのか、という具合に納得させられてしまうのだ。先生を無二の師匠と仰ぐ熱心な活動会員であれば、なおのことであろう。

前にも書いたことだが、わたくしは国家破産を期待するわけではないけれども、もしそれが現実化したならば、それはそれで構わないと思っている。どうやら顕正会も同じ考えのようだ。
いや、より正確に言えば、国家破産は他国侵逼の前触れ・先難に過ぎないという認識なので、回避不能と考えているわけだろう。いわば広宣流布に至る過程で、どうしても通らなければいけない関所のようなものなのだろう。その意味で顕正会員たちは覚悟を決めているわけだ。
問題はもう一つの他国侵逼のほうである。浅井先生は中国の動きを事細かに説明して、いずれ中国が日本を攻めてくると主張するわけである。わたくしはここがよくわからないのだ。

具体的にはどのようなシナリオであるか、それが見えてこないのだ。他国侵逼の恐怖が全日本人に大聖人への帰依を促すわけなのだろう、それを言っているのはわかるのだが、具体的には他国侵逼があるのか、それとも直前で回避することができるのか、そうしたことがまったく見えてこないのである。
映画やドラマなどでは時限爆弾をあと何秒というギリギリのところで止める話がよく出てくる。いかにも感動的であるが、それはお話の世界だからであって、とてもじゃないが現実的とは言えないだろう。とりわけ他国侵逼の場合はひじょうにわかり難いと思う。
わたくしのように普段、テレビも新聞も見ないような人であれば、もし他国侵逼が直前で回避されたとしても、そのまま何も知らずにいることだろう。その意味では、現実に中国軍が本土上陸を遂げるくらいでないと、まったくインパクトがないことになる。

しかし、ここで次の問題が生じるのだ。

もし中国軍が日本に上陸したとして、この段階からどのようにして逆転するのか、である。いわゆる「神風」をどうやって吹かせるか、なのだ。鎌倉時代における蒙古襲来の時には、暴風雨によって侵略を断念させるを得なかったとされている。では、現代において、それは何なのか、である。まさかそのような自然現象ないし超自然現象を期待しているわけではあるまい。

俗に言う「カミカゼ」だが、もちろん顕正会ではそのような表現はしない。ずばり大聖人の御守護と言っている。しかし、わたくしにはその具体的な姿がまったく見えてこない。

熱心な活動会員たちは浅井先生のご見識を大絶賛する。確かに冒頭でも記したように、先生は最新の時事問題に敏感であり、それらを講演に巧みに盛り込んでいて、それなりに面白い話に仕上がっていると思う。わたくしが言いたいのは、それと大聖人の仏法の距離である。つまり、時事問題を論じている分にはきわめて現実的であるが、それがどういうわけか大聖人の仏法を論ずる段になると、途端に非現実的になってしまうのだ。ここが問題だと思う。

話が逆戻りして恐縮だが、浅井先生は次のごとく言う。

 問題は、この国家破産が起こるか起こらないかではない。それがいつなのか、ということだけであります。

つまり、先生としては国家破産を序分としてその先の他国侵逼を正宗分とする手前、国家破産を不可避であるとしたいわけなのだろう。

わたくしはあえて言いたい。正気の沙汰ではないと。

国家破産とは国力の大幅な減退に他ならないわけで、まさに先生の主張するごとく、その先には他国侵逼が待ち構えていることだろう。これは愚鈍なわたくしにもわかることだ。
であれば、その他国侵逼を回避するためには、さしあたって国家破産を回避する必要がある。もはや手遅れ、などと言ってはならない。手遅れだろうがなかろうが、最善を尽くすのが筋である。
わたくしの思うに、顕正会が取るべき道は国家破産を回避するための方策を提言することではないか、今の顕正会の実力では何を言っても影響力はないけれども、それが現段階での最善の行為のはずなのだ。

繰り返し言う。「あと十二年」ではない、「いま」なのだ。国家破産を回避するための努力をせずして、将来の他国侵逼にどうして役に立つことができようか。一丈の堀を越えられぬ者がそれ以上の堀を越えられるわけがないのだ。

先生は以前、客観情勢がその必要を迫るならば・・・と言っていたはずである。この意味からしても、国家破産の時に何もせずして他国侵逼の時に立ち上がろうでは筋が通らないことだ。

2010/5/13

砂上の百四十万顕正会  
水無月氏よりコメントを頂戴した時点では、まだわたくしの手元には顕正新聞が届いていなかった。してみると、氏がどのように新聞を入手しているのか、そこが興味深いところであるが、まあ、それはどうでもよい話である。

さて、水無月氏が問題にしている部分は、顕正新聞第1170号の三面に出ている。

 日本はいま、「主なき国」になってしまった。王法の完全なる衰微です。
 それでも昭和天皇の時は名亡実存で、事実上、国主の徳があられた。しかし平成にいたって名実ともに「象徴」となり、いまの皇太子夫妻においては「公」よりも「私」が優先し、皇室そのものが変質する恐れがある。私はこれを憂えております。


今回の四月度総幹部会における会長講演の全体的なバランスからすると、この部分はそれほど分量のあるところではなく、わたくし自身は普通に読んでいて素通りしてしまいそうな感じだった。つまり、水無月氏が取り上げなければ、そのままブログに書かずに終わっていた可能性が高いのだ。本年に入ってからだろう、拙ブログでは「空位」についてあれこれ書いたことがある。今回の講演はその延長線上にあるわけで、内容的には今までの繰り返しみたいなものなので、それほど興味を惹かなかったという意味もある。

しかし、よくよく読んでみると、おかしな文章のようにも感じられるところだ。
最初に「主なき国になってしまった」と言っておきながら、あとから「皇室そのものが変質する恐れがある」などと憂えている。すでに「なってしまった」という完了形を使っている以上、その意味においては変質してしまっているわけだろう。
そもそも今回は、何一つ具体的なことが書かれていない。皇太子夫妻の公私の問題というのは何を意味するのか、その具体的説明がないので何が言いたいのかわからないのだ。

事のついでに私見を述べておこう。じゃっかんは人の受け売りであるが、今の皇室はメディアにさらされ過ぎている。これが問題なのだ。ゆえに、あえて言えば、もっとプライベートを大事にすべきだと思う。これを言い換えれば、公ではなく私を優先しろということになる。浅井先生とは正反対の意見だ。
なぜかならば、たとえば鎌倉時代でもいいだろう、その頃の人々は皇室のことをどれだけ知っていただろうか、である。江戸時代でもいい、はたして江戸の町民だちは皇室の何を知っていたのか、何も知りやしないのだ。おそらく武家にしても同様だろう。
つまり、民主化の進んだ現代社会とそれ以前の時代では、事情がまったく異なるのだ。ことにマスメディアの発達した今日、いわゆる公人の扱いを受ける立場の人たちは、その一挙手一投足が注目される運命にあるのだ。

浅井先生の言う、皇室そのものの変質とは何を意味するのか不明だが、少なくとも時代そのものが大きく変化を遂げているわけだから、自ずと皇室にも変化せざるを得ない面があるのは否めない。そこでポイントとなるのが、変化してもよい部分とそうでない部分だ。先生はこれに言及していない。
これは法華講の人がしばしば言うところの、化儀と化法の問題に似ているところがある。化儀は時代の変遷にともなって自ずと変化していくもの、変化してもよいものだそうである。一方の化法はいわゆる万古不易である。
同様の意味で、皇室において変化してもよい部分、絶対に変化してはいけない部分、それはいったい何なのか、浅井先生はこれに言及しないといけないはずである。

今の段階ではそれが不明瞭だと思う。いわゆる本有の王法論を唱える先生にしては、何となくアイマイというか歯切れが悪いような気がするところだ。

単純な類推で言わせてもらえば、国立戒壇における勅宣に重みを持たせるためには、もっと皇室に権威がなくてはならない、皇室の存在が軽くなってしまっては困る、という意味があるのかもしれない。
だとすると、顕正会としては具体的に何をどのように運動していけばいいのか、そこが問われるところだ。
かつて皇室典範改正問題の時には男子精鋭一万人のデモ行進を企図していた。ご存知のごとく、これは状況の変化を受けて実現しなかったわけだが、それはそれでよいとして、では、それ以外に皇室の権威を高めるための何か有効な手立てがあるのか、そこが問題なのだ。

この結論はけっこう簡単である。顕正会員を増やすことなのだ。浅井先生の弟子を名乗る顕正会員たちが、まさか皇室を軽んずることはないだろう。近年の顕正会では、いわば自虐史観からの脱却という意味の啓蒙活動を行なっているわけで、その一連の流れの中に皇室の権威発揚も含まれている。ましてや顕正会は本有の王法論を唱えているわけであるから、なおさらのことであろう。

つまり、顕正会員が増えれば、もちろん熱心な活動会員が増えればであるが、そうすれば皇室問題は解決する。理屈はこのとおりだ。

しかし、現実はどうか?

そもそもこの理屈が正しいかどうかで意見が分かれるところだが、それはさておき、現実問題として顕正会員が増えているのかどうか、そこがアヤシイところなのだ。今回、二ヶ月間で一万七千人を超える人たちが顕正会に入ってきたという。これで顕正会の総会員数は百四十万人を突破した。しかし、実数はいかばかりであろう、それこそ名実ともに「象徴」と化している、それが百四十万顕正会の実態ではあるまいか?

顕正会はかつて勅宣御教書をめぐって、宗門ないし創価学会と論争していた。今となっては、それが実に馬鹿らしいことであることに、浅井先生も気がついているのだろう。なぜならば、時代の変化はいかんともし難い、民主主義だから民衆が国主だとかそういう小理屈は関係なしに、しょせんは数が物を言う、それが現実だからである。

2010/5/9

「正義にめざめて」消滅の謎  
今回の一件はほぼこれで落着であろうと思う。

昨夜の山門入り口氏のコメントについて言わせてもらえば、接続詞がデタラメだということだ。これでは伝えたいことが正確に伝わらない。たとえ内容的に優れていたとしても、台無しになってしまう。そこを考えるべきだろう。

ところで、今朝のnabe氏のコメントには、重要な証言が含まれている。

わたくしは前回、顕正会を脱会したとしても直ちに新聞の郵送が止まることはない、そのようなケースはきわめて異例のことであろう、という意味を書いた。
しかし、nabe氏によって、それが覆された格好である。氏は他の講中のことは知らないと断りつつも、脱会即新聞打ち切りは枚挙に暇がない、と言うのだ。
この点、わたくしの主張に間違いがあったことを、いちおうは認めたい。ともかく、憶測というか、勝手な思い込みで書いている部分が少なくない、それが拙稿の正体であることが暴露された格好だ。
その上で、あえて言わせてもらえば、本部首脳にとってはnabe氏の存在も、その影響力の大きさからして看過できないのだろう。ゆえに自ずと過剰に反応してしまう傾向にあるのだろう。常識的に途中で勝手に新聞の購読を打ち切ることなどできっこないことであるが、そうした正常な判断を失うほどの過剰な反応ぶりは、まさに本部首脳の余裕のなさを示しているのだと思う。

さて、久しぶりに顕正新聞の話題に移ろう。

第1169号の一面には、三月二十一日の日曜勤行における会長指導が掲載されている。これはけっこう評価できる内容だと思う。以下、思いっきり端折るが、意味はじゅうぶん通じるはずである。

 ここでいう「心の病」とは、今日でいう鬱病などの精神科で扱う病気のことではない。三毒等の心から起こる病です。

(中略)

 病気というのは、身体だけには限らない。経済苦も、家庭不和も病のうち。また国家にとって自界反逆・他国侵逼は重病です。

ひじょうにうまいと思った。おそらく、人によっては浅井流法門(?)の臭みを感じるところだろう、わたくしもそれを感じないわけではないが、しかし、これが間違いであるとは言えないはずである。なまじっか反論しようものならば、かえって恥をかくことになる。なぜならば、これは御書の大意をよくつかんだ上で、解釈・敷衍しているからだ。

御書の名前を書き忘れた。これは、病によりて道心はおこり候か、で有名な妙心尼御前御返事を中心として、その他の病に関連する御書をいくつか織り交ぜた上での指導である。

代表決意 11

新講演集の感激 4

体験発表 6


さて、上記は今号の登壇記事を項目別に数えたものである。これがようやく本日のタイトルに結び付くことになる。

いわゆる「正義にめざめて」の記事がゼロである。いったい、これはいかなる理由であろうか? たまたまなのか?

しかし、そうではないのだ。

学会で罰の連続 鉛のように重い体!

池田讃嘆・功徳なし

「正本堂崩壊」のビデオ見て放心状態


これは前掲の体験発表のうち三つから、見出しなどをピックアップしたものである。つまり、実質的には「正義にめざめて」に分類されてもおかしくない記事が体験発表に紛れ込んでいたわけだ。当然、編集部としては意図的に紛れ込ませたわけだろう。その理由が気になるところだが、実際にはさしたる意味はないのかもしれない。

今回はこんなところだ。内容的にはさして興味が湧かなかった。強いてあげれば、女子部の班長で博士号を取得した人がいる。写真を見る限り、かなり若い。博士号など簡単に取れるものではないだろう。これには素直に感心した。

2010/5/8

悩乱行為  
今日はnabe氏のコメントから入ろう。まさに驚愕である。
簡略に説明すると、旧顕正寺に安置されていた日応上人の御本尊は、紙幅の原本を拡大コピーして板本尊にした、ということである。もちろん、あくまで可能性を論じているわけであって、断定しているわけではないのだけれども、しかし、ビックリ仰天である。
残念ながら、わたくしは当該御本尊を拝見する機会がなかったので、これに関しては何も言えない立場だ。ただ一つ言えることは、顕正寺を潰して今の典礼院を建てた時に日応上人の御本尊を引っ込めてしまったのはなぜか、という点が不審であり、何か都合の悪いことがあったのではないかと思わせるところである。
ちなみに他のブログでは、東京会館以外の御本尊はすべてニセモノではないか、という話が出ている。まさに驚天動地であるが、これもあくまで可能性の話である。

さて、話は変わって、今度は顕正新聞にまつわる山門入り口氏との係争(?)であるが、相変わらず話が噛み合わないものだ。しつこいようだが、わたくしの主張を再掲しておこう。

本部首脳としては多重購読を望ましいことだとは思わない。それで儲けようなどとは思っていない。ましてや脱会者を出して、その差額分を浮かせるというような、まさかそんなチンケな発想をするわけがないのだ。

山門入り口氏はこの意味がまったく理解できないようである。

氏は新聞購読についての種々の問題を書いているわけだが、わたくし自身、多重購読の問題をはじめとして、これまでにもたくさん書いてきた。つまり、基本的には意見に相違はないのである。まず、ここを理解しないといけない。
その上で、実は本部首脳も多重購読を望ましいとは思っていない、一人が百部を取るよりも百人が一部ずつ取るほうが望ましい、このように考えているはずだとわたくしは言いたいのである。この点、いかがだろうか?
これが理解できれば、最後の問題は自ずと解決するはずである。すなわち脱会者を出して差額分を儲けるなどという馬鹿げた発想はあり得ない、ということである。

ちなみに前々回の山門入り口氏のコメントの一部を紹介すると、

訴えたくても、領収書並に契約書の控えもない。

このようなくだりがある。

これについて、素人ながら意見を言わせてもらうと、もし本気で訴えようと思えば不可能ではないと思う。けっこう簡単な話だ。顕正新聞の年間購読は郵送になっている。ゆえに郵送されてこないという事実の提示をすればそれでよいのだ。
まったくの別件であるが、わたくしの知人が何かのことで弁護士に相談したことがあった。弁護士いわく、そんな少額ではかえって足が出ますよ、と。
これを顕正新聞の件に当てはめればよくわかるだろう。山門入り口氏は訴えたくても領収書がないから無理だと思っているらしいが、それは違うのだ。もし訴える気があれば可能であるし、ほぼ勝訴は間違いないだろう。ただし、そのテマヒマを考えたらかえって損だということなのだ。

それはさておき、話を進めよう。

実際に、一方的に新聞発送を止められて、購読期間が残っていても、差額の返金が有りません。

そうした事例があることは承知している。わたくしの知る範囲では、コットンあめ氏がそうだったと思うが、他にはどれくらいあるのだろうか?

そこに図らずも、ユタ氏がコメントを下さった。

脱会しながら、未だに定期購読を続けている法華講員がここにいます。

たぶん異論はないと思うが、顕正会から法華講に移っても更新が切れるまでは購読を続けている人が大半なのではないかと思う。むしろコットンあめ氏のような例はごくマレであるはずだ。

もし、山門入り口氏があくまで自説を貫きたいのであれば、同様の事例をたくさん示す必要がある。上に書いたごとく、その大半は更新が切れるまで郵送が続くはずである。よって、差額分を儲けるなどという馬鹿げた発想はあり得ない、というわたくしの主張に分があることは明白だろう。

では、なぜにコットンあめ氏の場合、郵送が止まったのか?

これについて、わたくしの所感を書いておくと、これは衝撃的な事件だった。当時、顕正会の問題に関心を寄せていた人たちであれば、知らない人がいないくらい有名な事件だった。いや、もちろん、インターネットの中での話である。しかし、インターネットの普及度を考えれば、それはそれで物凄くインパクトのある出来事だったと言えるだろう。本部首脳にしてもインターネットの影響力を看過できないものであると考えているフシがある。
つまり、一会員の脱会・宗門への移籍という意味では小さな出来事かもしれないが、当時はそれなりに注目度が高く、コットンあめ氏が熱心な活動会員だったことからして、本部の首脳たちも動揺したのだろう。その精神的動揺が判断を狂わせた。それが新聞の郵送打ち切りという悩乱行為(?)を起こさしめた。
逆に言えば、コットンあめ氏の脱会がどれほど本部首脳に衝撃を与えたかという、その証左が新聞の件にあらわれているのだと思う。

以上のような理由から、脱会者の新聞購読を本部が勝手に打ち切るというケースはほとんどないのではないか、コットンあめ氏のケースはきわめて異例のことではないか、とわたくしは睨んでいる。

言わずもがなのことであるが、山門入り口氏のために書いておこう。もしコットンあめ氏が今も顕正会員であれば、あれから翌年も翌々年もずっと新聞購読が続いたのである。しかも熱心な活動会員だったわけだから、折伏して新たな人材をたくさん生み出したかもしれないのだ。顕正会の首脳部にとって、どっちが得であろう、まさか差額分を儲けるほうが得だとは言うまい。

なお、裁判を起こす必要はないけど、内容証明などを利用して権利を主張することは比較的簡易にできることだと思う。顕正新聞未着分を一括して郵送するか、さもなくば購読料の差額を返還せよ、との主張である。

2010/5/6

前回を踏まえて  
山門入り口氏とわたくしとでは、その考え方に大きな隔たりがある。もはや細かい点にまで立ち入っていたらキリがないので簡単に済ませたいところだが、いちおう要点だけは押さえておこうと思う。

まず、顕正新聞の件から片付けよう。

 ま、一番領収書の発行を嫌う理由は、購読期間が残っていて脱会したら、新聞発送を止める。
もちろん、差額料金の返却はされない。
訴えたくても、領収書並に契約書の控えもない。
差額分の新聞代、丸儲けでしょう。


上掲を思い切り端折れば、領収書の発行を嫌ういちばんの理由は差額分を丸儲けするため、となるだろうか?

この発想には驚かされる。奇想天外とはこれであろう。
顕正会の実態はご存知のとおり、ひじょうに定着率が悪く、そこが首脳部の悩みのタネなのだ。そこに差額分を丸儲けするなどという発想が生まれる余地はない。なぜならば、逆にどうしたら定着させることができるか、それが課題としてあるからだ。つまり、顕正新聞の購読推進は会員を定着させる手段・・・悪い言い方をすれば、会員を縛り付ける手段なのである。
たとえば、どこかのスポーツクラブの会員になったとしよう。入会金だとか月謝だとか、それ相応のお金が掛かっている。そうすると普通の人の心理としては、せっかく高い月謝を払っているのだから通わないと損だということになる。
同様の意味で、顕正新聞の年間購読を申し込むということは、その時点ですでに本人に顕正会員としての自覚が芽生えている証拠であり、少なくとも年間購読の意味からすれば一年間は顕正会員として頑張ってみようという意思表示に相当するわけである。
本部首脳としては多重購読を望ましいことだとは思わない。それで儲けようなどとは思っていない。ましてや脱会者を出して、その差額分を浮かせるというような、まさかそんなチンケな発想をするわけがないのだ。
もちろん現実には多重購読がまかり通っている。本部はそれを仕方なしに黙認しているような格好である。しかし、繰り返しになるが、それは儲けになるからではない。仮に一人で百部の購読をしているとしよう。それよりも百人が一部ずつ購読したほうが遥かに素晴らしいことなのだ。
結局、その理想を実現できず、さりとて現場で購読を推進している活動会員としてはブザマな結果を報告したくないので、目標に届かない分を自分が引っ被る。しかし、負担が重くなれば、いずれは破綻する。その一つのバターンが活動会員の失踪である。

もう、おわかりだろう、本部首脳としては熱心な活動会員を増やしたい、ゆえに、わざわざそれに逆行するようなことを好んでするわけがないのだ。活動会員が失踪すれば、困るのは本部首脳である。その意味では脱会者もまったく同じだろう。それこそ差額分を儲けて喜んでいる場合ではない。

さて、新聞の件はこれくらいにして、もう一つの件を書いておこう。

前回の拙稿には不正確な部分があったので修正させてもらった。寝たきり老人が驚異的な回復を見せたという話であるが、この人は九十二歳の男性女子部員である。奥さんの年齢は記述がないので不明であるが、ようは奥さんが女子部の班長であり、この班長の折伏によって入信したために女子部の所属になっている。おそらくはこのまま女子部の班員として活動していくのだろう。よって男性女子部員と表現させてもらうことにした。

前置きが長くなったが、山門入り口氏はこの話をウソだと考えているらしい。そこでわたくしはその理由を聞いてみた。すると直ちに氏から返答があった。しかし、正直なところ、わたくしの問いには何一つ答えていないのではないかと思う。以下、前回と重複することをお断りしておく。

顕正会の体験発表その他もろもろの登壇にはウソがある。これは今までいろいろな人が論証してきたことである。しかし、ここに新たな体験発表があるとして、これがウソかどうかは今までの実績に左右されないのだ。
たとえば窃盗の常習犯がいる。この近辺で窃盗があったとしよう。すると誰もが思うかもしれない、またアイツが犯人なのではないかと。しかし、こうした予断が冤罪を生む原因となる。山門入り口氏にはこの道理がわからないのだろうか?
つまり、今までの実績からすれば顕正会の体験発表はウソが多い、確かにそのとおりだとしても、では、すべての発表がウソなのかどうか、まさかすべてウソだとはさすがの山門入り口氏でも断言できないだろう。であれば、個別の問題として、今回の発表のどこがどのようにウソであるか、それを具体的に指摘しなければいけないはずである。

耳触りの良い言葉で、広宣流布のために、方便も仕方がないで、納得するような会員も多数居る。

確かにそのとおりだと思う。しかし、これはいわば状況証拠ないし傍証と呼ばれるものであって、直接的には何の証明にもなっていないのだ。山門入り口氏はこの道理をよく弁えるべきだと思う。

最後にnabe氏のコメントから・・・

 日応上人の板御本尊様が松本の御内仏(庫裡に安置する)だとすると、すべて辻褄があってしまうのですけど。

いったい何がどのようにツジツマが合うのか、よくわからないけれども、ともかく重要なコメントだと思う。わたくしは先日、顕正会の所持する常住御本尊には不審な点がある、という意味のことを書いた。たとえば、現時点において会館に安置されている常住御本尊は三幅だと思われるが、それ以外はどうなっているのかという問題がある。残りの御本尊の中には一般会員が一度も拝見したことのないもの・・・すなわち会館に安置されたことのない御本尊もあるのだ。はたして、その理由は何だろうか?

nabe氏の言う御内仏が事実だとすると、なるほど会館向けではないのかもしれない。しかし、それ以前に重大な問題がある。そもそも松本御住職個人の御本尊であれば、はたして存命中に浅井に渡すだろうかという疑問が生じるのだ。たとえば臨終間際になって譲与することはあり得るが、だとすると今までの先生の説明はウソだったことになる。もっとも浅井先生のことだから煩瑣を避けて説明を省いたという可能性もあるにはある。

いずれにしても上述のことはすべて憶測の域を出るものではないので、読者にはくれぐれも誤解のないように願いたい。


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