2010/5/4

バスタータイムズ以来の快挙?  
先日、山門入り口氏のブログを拝見していて、驚いたことがある。おそらくはバスタータイムズ以来の快挙であろう。まずは過去の拙稿を紹介したい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/374.html

平成18年(2008年)4月15日というのは、あり得ない日付である。ようは印刷ミスなのであるが、本来ならば2006年とするべきところを2008年と打ってある。これを当時の創価学会系のサイトが指摘したわけである。

今回は山門入り口氏が発見した。顕正新聞第1169号の最終面に、「神奈川会館御入仏式」ビデオ放映会場一覧が掲載されていて、そこにとんでもないミスが存在するのだ。どういうわけか山形県の欄に、秋田会館と書かれている。もちろん人間にはミスが付き物であるけれども、さすがにこれはヒドイと思う。ぶったるんでいる、としか言いようがない。

しかし、当の山門入り口氏の文章ときたら、そこらじゅうに誤変換があるのだからコッケイである。これまでにも何度か指摘しているのだが、一向に改まる様子がない。わたくしにはそれが不思議でならない。

昨夜のコメントにしてもそうだ。

一基一縁の常住本尊

おいおい、それを言うなら一機一縁だろう。一基では、まるで墓石みたいではないか?

それから、ドサクサに紛れて勝手に持ち出した、と書いているけれども、ここは事情を熟知して書いているのか、それとも勝手な思い込みで書いているのか、それがひじょうに気掛かりである。

http://blog.goo.ne.jp/ijyuuinntotirou/e/055225b0e69a9dff6442457cab4e2569?fm=rss

これは移住院十智郎氏のブログであるが、わたくしの読解力ではいわゆる妙縁寺重宝の御本尊以外はすべて返還されていると読める。もし、これが事実であれば、東京会館に安置されている御本尊以外は、文字通りの出所不明の本尊となるわけである。この点を山門入り口氏はどのように考えているのだろうか?

 一番良いのは、ビデオ放映で、本人が自転車に乗って走ってる姿を映して流すなりしれば、確実に事実と判るでしょうね。

ここにも誤字と思われる箇所が存在するけれども、それはさておく。
昨日の拙稿で、九十二歳の寝たきり老人が自転車に乗れるほどの驚異的回復を見せた、という顕正新聞の記事を紹介した。これに対するコメントの一部が上掲である。
確かにビデオに映せば面白いと思う。しかし、寝たきりだった時の状態を知らない人にとっては、ちょっと説得力が弱いだろう。九十二歳が自転車に乗っている姿はそれだけでけっこうインパクトがあるとは思うが、しかし、身体能力には個人差がある。
当てずっぽうを承知で書かせてもらえば、日本全国を探し回れば九十過ぎでも当たり前のように自転車に乗っている人がザラにいるのではないか、まあ、確率的には少ないだろうけれども、おそらく十人中一人か二人くらいは自転車に乗れるのではないかと思う。わたくしもその年まで生きていれば、乗る自信がある。
ちなみに、阿仏房は佐渡から身延まで三度も参詣している。最後の参詣は九十歳の時だろうか、この人は別格かもしれないが、一つの事例として象徴的ではあると思う。

話がくどくなってしまったが、ともかく寝たきり時代を知らない人には今の元気な姿を見ても説得力がない。この点を山門入り口氏はどのように考えるのだろうか?

そもそも氏は、顕正会の発表にはウソや誇張が多いので信じ難い、と言う。それは過去の実績からして、そのとおりなのだろう。しかし、個別の問題として、この件を疑う理由はあるのだろうか?
つまり、何の根拠もなしに、ハナっから疑って掛かるという姿勢はいかがなものか、ということなのだ。もちろん鵜呑みにするのも問題だ。わたくしは信じ難いけれども事実なのだろうと書いた。ゆえに鵜呑みにしているわけではなく、わたくしなりの判断で事実だろうと推定したわけである。
一方の山門入り口氏はどうなのか、信じ難いという意味ではわたくしと同じであるが、結論が違う。信じ難い=ウソだ、このように言わんとしているごとくである。では、その根拠はどのようなものだろうか?

わたくしは上述のごとく、この件に関しては自分なりの判断で事実であろうと推定したわけである。当然、相手を問い詰めるばかりではいけない、わたくし自身がその推定理由を書かねばならない。
理由は簡単だ。いつも書いていることである。ウソの発表をするメリットがない、それどころかデメリットのほうが大きいからである。
くだんの話は三月度女子部班長会での支区長補による活動報告である。九十二歳の夫というのは、この人の夫ではなく班員さんの夫である。もし、この話が真っ赤なウソであれば、この班は疑問に思うだろう。親戚や近所の人たちが次々に入信しているという話もあり得ないことになる。いわゆる折伏の成果すらも架空のものとなるのだ。
ウソの話を聞いて疑問に感じれば、活動に消極的にならざるを得ない。ましてや架空の折伏成果であれば、組織にとって一つもメリットがないことになる。活動報告には、十七名の紹介者によって二十三名が入信していると書かれているが、これもウソなのだろうか?

以上がわたくしの、信じ難いけれども事実なのだろう、とする理由である。

さて、一方の山門入り口氏の、事実とは思えない、とする理由はどのようなものであろうか?

なお、顕正新聞の領収証の件については、特に申し上げることはない。どうやら山門入り口氏は、ヤマシイことがあるから領収証を発行しないものと睨んでいるようであるが、むしろそのヤマシイこととは何か、そこを追求するのが氏の仕事(?)であろう。たとえば多重購読者がいる。仮に一人で百部の購読をしているとしよう。すると八十五万円である。もしこのような領収証が存在するとしたら、これこそ動かし難い物証となる。顕正会はそれを恐れて領収証を発行しないのかもしれない。もちろん、これはあくまで推測に過ぎないが、こうした具体性のある話こそ、読者の期待するところなのだ。


五月六日追記:本文中、誤字および不正確な記述に修正を加えた。

2010/5/3

神奈川会館特集を中心に  
コメント欄が活況を呈しているが、わたくし自身に関係するものは、ほとんどない。おそらくは「群盲撫象」と「コウモリ」くらいであろう。これについては特に書くこともあるまい。わたくしが教学のことを書けば、nabe氏からいろいろと言われるハメになるのは毎度のパターンである。また、のび太氏の言うコウモリは、わたくしのスタンスが不明瞭であることを言わんとしているのだろう。基本的には是々非々をモットーとしているけれども、創価学会と宗門とを天秤に掛けた場合にはどうしても宗門ビイキにならざるを得ない、これは致し方のないところだ。

なお、nabe氏に対するバッシングのようなコメントが続いているけれども、これについて感想を書くと、さすがは一角の人物である、ということだ。

もちろんnabe氏がである。

前に沖浦氏のことで書いたが、毀誉褒貶の激しい人は立派な人である、というのがわたくしの基本的認識である。善につけ悪につけ、それだけの影響力を持っているからこそ、人からいろいろと言われるわけなのだ。
逆に批判をしている側こそ、自分自身をよく見つめるべきだろう。今はこうした媒体があるから、どうにか意思表示が可能である。それ自体は良いことだと思うが、では、もしこのような媒体が存在しなかったならば、いったいどのようにして己れの存念を表現するのだろうか、そこをよく考えるべきだと思う。
かく言うわたくし自身も同じような立場だから、何一つ偉そうなことは言えないけれども、一つだけは自信を持って言えることがある。個人攻撃をしないことだ。
今の拙ブログは顕正会批判がメインである。しかし、わたくしは顕正会の誰か一人だけを失脚させようとか、そのような呪詛的な意図で文章を書いたことは一度もないつもりである。個々の記事をピックアップするにしても、それは顕正会全体の問題を抽出するためであって、個人をヤリダマに挙げることが目的ではないのだ。

浅井先生はインターネットを公衆便所の落書きだと言っている。確かにそうした側面もあるだろう。ただし、わたくしは落書きをしているつもりはない。少なくとも、落書きだとは思われたくないので、そのように思われないために努力しているし、工夫しているつもりである。コメント投稿者におかれても、そのように心掛けてほしい。

さて、顕正新聞第1168号は、神奈川会館特集である。

特筆すべきことは、御大事守護の御本尊であろう。顕正会が所持している常住御本尊はぜんぶで七つと言われているが、その一つが五十四世日胤上人の書写あそばされた御本尊で、これを顕正会では「御大事守護の御本尊」と呼び習わしている。
この御本尊には個人の名前が記されている。どうして個人授与の御本尊が妙縁寺に保管されていたのか、その経緯が気になるところであるが、ともかくこれを松本御住職から受け取ったというのが浅井先生の主張である。
わたくしは御形木御本尊の問題もさることながら、常住御本尊についてもいろいろ不審な点があるように感じている。しかし、何しろ調べる手立てがないので、これはどうにもならないことである。

会長講演はこれくらいで終わりにして、おそらく今回の目玉は元皇族出身者の体験発表だろう。八十四歳の婦人部組長である。
しかし、正直な感想を書けば、内容的にはどうかと思った。その出自が注目されるものの、体験発表そのものは大したことないのではないか、ようは元皇族出身ということが最大の売りなのだろう、それだけの話だと思う。
まあ、しかし、悪いことばかり書くのも失礼だから、一文だけ紹介しておこう。

 私の同年代の人たちを折伏していくと、確信も感激もない人生に何の疑いも持たず、何が楽しいのかしらと感じるほど・・・

八十四歳にして、このような精神的高揚感を持てるのは大したことであり、高齢社会における一つの理想ではあるだろう。さらに、同新聞には三月度班長会の記事も併載されており、そこにはもっと凄い話があるのだ。

夫は、昨年三月に入信するまでの十数年間、寝た切りでありましたが、信心口唱のなかに、今では自転車に乗れるまでになり、先日には雪かきや、脚立に乗って木の枝を伐るほどになり、この功徳あふれる姿を見ただけで、親戚や近所の人たちが次々と入信しております。

この人は九十二歳である。八十前後でいわゆる寝たきり老人になってしまったとすれば、もう、あとは時間の問題である。日本の平均寿命は世界一とも言われているが、病床に臥せったまま長生きしても意味がない。そんな人がたくさんいても困るのだ。これが高齢社会の最大の課題である。
ところがである。この人は入信してから見る見る元気になり、自転車に乗ったり、雪かきや脚立での作業をこなすほどの回復ぶりを示しているのだそうである。
これは信じ難い話だが、事実なのだろう。そしてこの事実を目の当たりにした人たちが次々に入信しているという。

そもそも顕正会に功徳があるのか、そこがもっとも深刻な問題ではあるけれども、ともかく上掲の記事は素直に凄いことだと思う。

忽ちに功徳!長年の病気も寛解

神奈川会館に戻って、これはいわゆる「正義にめざめて」の登壇である。昨年十一月入会で未だ平会員というのが微妙なところだが、それはともかくも、上掲の寛解という表現が好ましく感じるところだ。顕正会の記事は何かと誇張が過ぎる傾向にあるので、病気の話であれば完治と書かれるのが相場である。しかし、そこをあえて寛解と書いているところが、ひじょうに好印象である。


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