2010/5/13

砂上の百四十万顕正会  
水無月氏よりコメントを頂戴した時点では、まだわたくしの手元には顕正新聞が届いていなかった。してみると、氏がどのように新聞を入手しているのか、そこが興味深いところであるが、まあ、それはどうでもよい話である。

さて、水無月氏が問題にしている部分は、顕正新聞第1170号の三面に出ている。

 日本はいま、「主なき国」になってしまった。王法の完全なる衰微です。
 それでも昭和天皇の時は名亡実存で、事実上、国主の徳があられた。しかし平成にいたって名実ともに「象徴」となり、いまの皇太子夫妻においては「公」よりも「私」が優先し、皇室そのものが変質する恐れがある。私はこれを憂えております。


今回の四月度総幹部会における会長講演の全体的なバランスからすると、この部分はそれほど分量のあるところではなく、わたくし自身は普通に読んでいて素通りしてしまいそうな感じだった。つまり、水無月氏が取り上げなければ、そのままブログに書かずに終わっていた可能性が高いのだ。本年に入ってからだろう、拙ブログでは「空位」についてあれこれ書いたことがある。今回の講演はその延長線上にあるわけで、内容的には今までの繰り返しみたいなものなので、それほど興味を惹かなかったという意味もある。

しかし、よくよく読んでみると、おかしな文章のようにも感じられるところだ。
最初に「主なき国になってしまった」と言っておきながら、あとから「皇室そのものが変質する恐れがある」などと憂えている。すでに「なってしまった」という完了形を使っている以上、その意味においては変質してしまっているわけだろう。
そもそも今回は、何一つ具体的なことが書かれていない。皇太子夫妻の公私の問題というのは何を意味するのか、その具体的説明がないので何が言いたいのかわからないのだ。

事のついでに私見を述べておこう。じゃっかんは人の受け売りであるが、今の皇室はメディアにさらされ過ぎている。これが問題なのだ。ゆえに、あえて言えば、もっとプライベートを大事にすべきだと思う。これを言い換えれば、公ではなく私を優先しろということになる。浅井先生とは正反対の意見だ。
なぜかならば、たとえば鎌倉時代でもいいだろう、その頃の人々は皇室のことをどれだけ知っていただろうか、である。江戸時代でもいい、はたして江戸の町民だちは皇室の何を知っていたのか、何も知りやしないのだ。おそらく武家にしても同様だろう。
つまり、民主化の進んだ現代社会とそれ以前の時代では、事情がまったく異なるのだ。ことにマスメディアの発達した今日、いわゆる公人の扱いを受ける立場の人たちは、その一挙手一投足が注目される運命にあるのだ。

浅井先生の言う、皇室そのものの変質とは何を意味するのか不明だが、少なくとも時代そのものが大きく変化を遂げているわけだから、自ずと皇室にも変化せざるを得ない面があるのは否めない。そこでポイントとなるのが、変化してもよい部分とそうでない部分だ。先生はこれに言及していない。
これは法華講の人がしばしば言うところの、化儀と化法の問題に似ているところがある。化儀は時代の変遷にともなって自ずと変化していくもの、変化してもよいものだそうである。一方の化法はいわゆる万古不易である。
同様の意味で、皇室において変化してもよい部分、絶対に変化してはいけない部分、それはいったい何なのか、浅井先生はこれに言及しないといけないはずである。

今の段階ではそれが不明瞭だと思う。いわゆる本有の王法論を唱える先生にしては、何となくアイマイというか歯切れが悪いような気がするところだ。

単純な類推で言わせてもらえば、国立戒壇における勅宣に重みを持たせるためには、もっと皇室に権威がなくてはならない、皇室の存在が軽くなってしまっては困る、という意味があるのかもしれない。
だとすると、顕正会としては具体的に何をどのように運動していけばいいのか、そこが問われるところだ。
かつて皇室典範改正問題の時には男子精鋭一万人のデモ行進を企図していた。ご存知のごとく、これは状況の変化を受けて実現しなかったわけだが、それはそれでよいとして、では、それ以外に皇室の権威を高めるための何か有効な手立てがあるのか、そこが問題なのだ。

この結論はけっこう簡単である。顕正会員を増やすことなのだ。浅井先生の弟子を名乗る顕正会員たちが、まさか皇室を軽んずることはないだろう。近年の顕正会では、いわば自虐史観からの脱却という意味の啓蒙活動を行なっているわけで、その一連の流れの中に皇室の権威発揚も含まれている。ましてや顕正会は本有の王法論を唱えているわけであるから、なおさらのことであろう。

つまり、顕正会員が増えれば、もちろん熱心な活動会員が増えればであるが、そうすれば皇室問題は解決する。理屈はこのとおりだ。

しかし、現実はどうか?

そもそもこの理屈が正しいかどうかで意見が分かれるところだが、それはさておき、現実問題として顕正会員が増えているのかどうか、そこがアヤシイところなのだ。今回、二ヶ月間で一万七千人を超える人たちが顕正会に入ってきたという。これで顕正会の総会員数は百四十万人を突破した。しかし、実数はいかばかりであろう、それこそ名実ともに「象徴」と化している、それが百四十万顕正会の実態ではあるまいか?

顕正会はかつて勅宣御教書をめぐって、宗門ないし創価学会と論争していた。今となっては、それが実に馬鹿らしいことであることに、浅井先生も気がついているのだろう。なぜならば、時代の変化はいかんともし難い、民主主義だから民衆が国主だとかそういう小理屈は関係なしに、しょせんは数が物を言う、それが現実だからである。


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