2010/5/21

返報  
都合の悪い時は独白の世界にもぐりこむ、それがわたくしの常套手段であるが、しかし、今回は行き掛かり上、大沢氏に対して「いなせの返事」を申し上げなければならないだろう。種々の事情を勘案して、日蓮正宗への帰伏は先送りにしたい。これが結論である。種々の事情の中には個人的な理由も含まれるので、これ以上の説明は控えさせていただくことにする。

まさにこの辺が、nabe氏をして「巌虎さんが自分の成仏を真剣に考えているとは思えません」と言わしめる結果になっているのだろう。

顕正会では、知らずとは言え御遺命に背いた団体にを置いて身の持つはずもなく、などという発表がよくある。この理屈で言えば、顕正会が間違った団体であれば本人に自覚がなくともそこに在籍しているだけで罪障を積むことになるわけだから、一刻も早く脱会すべきが筋だろう。
ちなみに話は脱線するが、顕正会に入っているからと言って安心はできない、真面目に御奉公しなければ功徳は積めないし成仏できない、というのが顕正会幹部の言い分である。仏道修行とは厳しいものだ。間違った団体の場合、そこに在籍しているだけでも罪障を積む。一方、正しい団体の場合、在籍しているだけではダメだと言うのだ。それはそうかもしれないが、聞いているほうにしてみると、何となく都合のよい理屈を言っているように聞こえてしまうから不思議である。
それはともかく、かつての顕正会であれば、どちらが正しいか結論が出るまでトコトン話し合おうではないか、というのが普通であったが、今は完全な弱腰になってしまっている。ようするに自分たちが間違っているという自覚が少しは芽生えているからなのだろう、その上で顕正会が間違った団体であれば潔く身を退くべきが道理であるからして、今はその事実に直面することを恐れているわけなのだろう。

わたくしはいわゆる活動会員ではないので、こうした心理的葛藤があるわけではない。帰伏するに当たっても、それほど障壁があるわけではない。しかし、あくまでそれはわたくし自身の自由意志に基づくものであり、その結論として当面は帰伏しないということなのだ。

さて、他にも種々のコメントを頂戴しているので、今日はその感想を書こうと思う。

ありの金吾氏の話は、氏の非凡さを物語るものである。
おそらくはわたくしと世代が異なるのだろう、確かにそれも理由の一つだ。というのは、わたくしよりも古い世代の顕正会員ないし妙信講員たちは御書を持つことに何の躊躇もなく、わたくしの世代の顕正会員はその影響もあってか、わりと自主的に御書を購入していたのである。ゆえに、ありの金吾氏はそれよりも新しい世代の顕正会員・・・いわゆる一念信解路線の中で育った人なのだろうと思われるのだ。
つまり、御書を持つことに躊躇がある。それゆえに本部に問い合わせた。しかし、そこがまた、非凡さの理由の一つだ。
たぶん、このような事案で本部に電話が掛かってくることは滅多にないのだろう、だからこそ電話を受けた本部職員は返答に窮したのだ。そこで男子部長のお出ましである。
この電話のやりとりの結果、ありの金吾氏は顕正会への疑問を深めることになった。それが後に宗門へ帰伏することにつながるわけである。

ありの氏のケースは滅多にないことかもしれないが、いずれにしても結果だけで判断するならば本部の対応がマズかったことになるだろう。わたくしは許可してもよかったのではないかと思う。ただ現状では顕正会版が存在しない以上、よその御書を購入することになるので、たとえば創価学会版ならば創価学会を利することになる。その意味から、大っぴらに許可するわけには行かないが、君がどうしてもほしいのであればそれは構わない。このように言えば、ありの氏だって疑問には思わなかったはずである。

われわれが御書を読んでも理解できない云々は、確かに顕正会では当然の理屈であり男子部長だって間違ったことを言ってしまったとは思っていないだろう。しかし、どうせ理解できないのだから読んでも意味がない、と言うのであれば、それは大間違いである。まさにこの辺が今の顕正会のアヤシイところだ。つまり、意図的に御書から遠ざけようとしているのではないか、という疑惑が生じてしまうのだ。行き着くところは浅井流法門であり、いわゆる浅井教である。

「顕正会の中心はどなたなんですか?」

しかし、ジャスティ氏のこの質問は失礼ながら引っ掛け問題みたいなもので、浅井先生と答えたとしても、それはそれで仕方がないのではないかと思う。ゆえに、もし可能であれば再質問をして、その回答を確かめるべきだろう。
え? 浅井先生が中心? 顕正会の中心は大聖人ではないのですか?
これにどのような回答があるか、そこで正真正銘の浅井教かどうか、見極めるべきだと思う。

顕正新聞を読んでいると、大聖人と浅井先生を並べて論じている記事を見つけることがある。今は具体例を挙げられないが、たとえば、大聖人の御守護と浅井先生の大信力に守られ・・・みたいな表現がある。いちおう、この場合は序列として大聖人が筆頭になっているので問題ないとしよう。ところがどっこい、ある時、これが逆になっている記事があったのだ。これまた具体例を挙げられないので恐縮だが、浅井先生の○○と大聖人の△△・・・というような文章である。さすがにこれはマズイだろう。

現時点でもじゅうぶんに浅井教と言い得る側面はある。それが全面的になるのはいつのことか、一つの注意点であろう。

怨嫉謗法ダメですよ。

最後に沖浦氏からのコメントにも触れておこう。

俗に、人を呪わば穴二つ、などと言う。これは確かに真理なのだろう、わたくし自身の経験上においても実感するところである。呪うは極端にしても、物凄く嫌いな人物がいると、心の中で穏やかならざることを考えていたりする。ところがこういう心理状態の時は、案外に自分自身が失敗を犯したりするものである。考えてみればそれも道理である。ようは心中が煩悩で掻き乱されているわけだから、普段ならば当たり前にできることがうまくできなかったりする。それが運悪く大失敗に至るケースもある。

怨嫉謗法がダメだと言うのは、おそらくこれが理由であろう。仏法とは何も特殊なことを説いているわけではなく、あくまで道理に立脚しているものなのだと思う。すると単純な道理として、怨嫉はその怨嫉者本人の精神状態がすでにして異常なのだから、それが行動全般に悪影響を及ぼすだろうことが容易にわかることである。

ただし、はたして沖浦氏の言うように、法華講員が怨嫉謗法に当たるかどうか、それはまた別の問題であり、わたくしの関知するところではない。


五月二十三日追記:一部修正


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