2010/8/29

折伏成果の水増し疑惑について  
引き続き顕正新聞第1180号から話題を拾うつもりだが、その前に大沢氏のコメントの一節を紹介しておこう。

顕正会全体としては最終的に多くの会員が顕正会を離れ、名目上の会員累計数と実働会員数が乖離していきますが、法華講員に縁のない会員の多くが正法に縁することなく、そのまま消え去ってしまいます。

大沢氏は顕正会の活動会員の多くが正義に目覚めることなく消え去っていくことを嘆かれている。この場合の正義は申すまでもなく正宗への帰伏を意味するが、ようするに顕正会員は正宗に縁することなく、顕正会で罪障を積むだけ積んでやがては信心と無縁の人生を歩むことになる。罪障消滅が出来ずに可哀想だということだろう。

今日のテーマは折伏成果の水増し疑惑である。妙な話であるが、仮に百万枚の入信報告書が虚偽であったならば、大沢氏の嘆きはかなり軽減されることになるだろう。なぜならば、その百万枚に記された人物たちは顕正会という邪教(?)に縁していないことになるからだ。勝手に名前を使われたという不名誉は残るものの、実質的には罪障を積んでいないことになる。

さて、本題である。

水増し疑惑に証拠はあるのか、証拠もなく言っているとしたらタダじゃおかんぞ、という声があって当然だろう。わたくしは先般の六・七月度の折伏成果に疑問がある。顕正新聞第1179号には「誓願を大きく突破する一万五千八○二名」と書かれているが、どうも納得がいかないのである。

 しかし皆さんの中には、真心こめて折伏したが逆縁が多くて誓願に達しなかった、というところもあったに違いない。
 がっかりしなくていいですよ。「この次こそ」との、強靭な鋼のような心を持ってほしい。挫折してはいけない。逆縁の壁を乗り越えるとき、そこに滔々たる広布の潮流が流れてくるのです。


第1179号に載る七月度総幹部会の会長講演からであるが、もちろん、これが直接的な証拠であるわけがない。結論を言えば、直接的な証拠は何もないのだ。

しかし、わたくしは第1180号を読んでいて、気になった。なんと総幹部会直後に行なわれる月例の班長会において、総合婦人部長と総合女子部長の二人が揃いも揃って、くだんの会長講演を引用しているのだ。つまり、現実には負けた組織がたくさんあったことが窺い知れるのだ。

いや、もちろん、これが水増し疑惑の証拠となるわけではない。善意に解釈すれば、顕正会全体では誓願大勝利であっても中には負けた人たちもいるわけで、先生はそういう人たちにまで配慮されているのだ、総合部長もしかりである、しょせんは巌虎の邪推に過ぎない、ということになるだろう。

では、会長講演の続きをご覧に入れよう。

 聖徳太子でも三度軍に負けたけど、四度目に仏様に祈って勝ったではないか。広宣流布の戦いも順調に行くことはない。負けたことをバネにして、「今度こそ」と胸を張って進んでほしい。

先には「この次こそ」とあって、今度は「今度こそ」である。さらに続きの文章をご覧に入れよう。

 次の戦いは九月。ひと月だけの法戦ですが、「今度こそ」の不屈の心で進んでほしいのであります。

またしても「今度こそ」である。証拠はないけれども、ここまで読めば誰しもが同じような感慨を懐くのではないかと思う。わたくし自身は会長講演を読んでもそれほど不審を感じなかった。しかし、翌号の総合部長二人の記事を読んだ段階で、これはひょっとしたら・・・と思ったわけである。

しかも重要な点がある。おそらくは初めてのことだろう、浅井先生は九月の折伏について具体的な数字に言及していないのだ。
もう一つ言えば、近年は「秋の三連戦」が多かった。つまり、九・十・十一月を一単位としての法戦である。なぜに本年はそうしなかったのか、おそらくは前年と比較されるのがイヤだったのだろう。
これらの事実から推測できることは、組織の疲弊である。もはや具体的な目標を掲げられないくらい組織が疲弊してしまっている。

もしこれが事実であれば、六・七月の成果にしてもひじょうにアヤシイものになってくる。それは当然だ。本当に誓願突破の大折伏が行なわれているのであれば、その勢いを秋の戦いに結びつければいいのだ。ところが先生いわく、「この次こそ」「今度こそ」云々と。

以上、わたくしの手法では必ずしも直接的な証明にはならないけれども、水増し疑惑についてはかくのごとしである。

モンゴルに御本尊様がお出まし

これは女子部の支区長補の活動報告の見出しであるが、実はこれも水増し疑惑に関連がある。
彼女は長野とモンゴルを股に掛けて戦うツワモノである。今回の活動報告は、四度目のモンゴル弘通についてであり、見出しにあるごとく現地の副長さん宅に御本尊が安置され、結果として六・七月法戦で八十五名の入信が叶ったという話が紹介されている。
部外者にはわかり難い話だが、支区長補というのは実質的には総班長である。すると、この総班の折伏成果が何名だったか、ひじょうに気になる。それが前号の弘通上位一覧に載っているのだ。

九十五名

これが彼女の総班の成果である。察しのいい人には説明不要だろう、上掲の数字はモンゴルでの弘通を含めた成果である。現地では八十五名が入信しているのだ。よって、国内での成果は十名に過ぎないことになる。

男子・女子・壮年・婦人の四者を見渡しても、九十五名は突出している。ところが、その内容たるや、大半が国外での成果なのだ。こんな調子で日本の広宣流布ができるのかと言いたい。

今回、確たる証拠もなしに水増し疑惑に踏み込んだのは、この事実に気がついたからである。顕正会では広宣流布には順番があって、まずはこの日本が広宣流布すると主張している。であれば、国外での成果は別枠を設けるべきであり、国内の成果と一緒くたにするべきではない。でなければ、これも一種の水増しだと見られても文句は言えないだろう。

2010/8/28

平伏  
現役顕正会員のヴァン氏よりコメントを頂戴した。今や拙ブログは元顕正会員の包囲網が厳しく、現役会員にとって居心地の悪い場所となってしまった。そこにあえて踏み込んで来られたヴァン氏の心意気は大いに称賛されるものである。

nabe氏のコメントについては、さすがに上品とは言えないけれども、あながち捨てたものではないだろう。わたくし個人としては、それほど嫌悪を感じない。むしろ氏の直截さというか、歯に衣着せぬところが案外に好ましく感じるくらいである。

善意だから、純粋だから、真剣にやっているからというような基準ではなく、本尊・教義が正しいのか否かで日蓮大聖人の仏法を行じる者は折伏していきますよね?

そして今度は大沢氏のコメントであるが、これはおっしゃるとおりである。しかし、拙ブログの内容に対して違和感を感じるという点については、逆にこちらが違和感を感じざるを得ないところである。
なぜならば、拙ブログを最初から順番に読んでみればいい、そこには顕正会批判と同時に顕正会を讃嘆する文章もたくさん含まれているからだ。早い話が是々非々ということであり、この方向性は今に始まったことではなく、以前からのものである。
ゆえに、今さら違和感を感じるなどと言われたところで、かえって困惑するだけのことなのだ。

しかし、わたくしは大沢氏がコメントを寄せることを妨げない。遠慮せずに言いたいことを書かれればよいと思う。

わたくし自身が書きたいことを書いている。そしてブログという形で世に問うている。コメント欄も開放している。そこには自分にとって耳の痛い話もあることだろう。当然ながら覚悟の上である。

さて、今日は顕正新聞第1180号から話題を取り上げる。

いま、日蓮大聖人の弟子と名乗れるお方は、ただ浅井先生だけ

男子第三部長の記事である。わたくしはこの人の文章にけっこう注目している。なぜならば、この人は未だに一度も猊下を呼び捨てにしたことがないからだ。今回の記事でも「細井日達管長」と書いている。城衛を筆頭に幹部のほとんどが「細井日達」と呼び捨てにしている中で、まさに孤忠を貫いているのだ。

しかし、上掲の文章を深読みすれば、実質的には猊下を蔑ろにしていることになるだろう。

次は三面の記事であるが、総合婦人部長・副総合婦人部長・第八婦人部長・茨城支区部長の四人の文章を、一つのキーワードに注目してピックアップしたものである。

誰人も真似事すらできぬ先生の御奉公の尊さに平伏いたしました。

敢然と御遺命守護に立たれた大勇猛心に平伏いたしました。

先生の御遺命守護の戦いは、(中略)すべてが不思議の連続であったことに平伏し、

浅井先生を召し出だされた大聖人様の仏力にただ平伏し、

先生の(中略)師子吼にはひれ伏したものであります。

どこまでも大聖人様への大忠誠を貫かれる先生のお姿に、ひれ伏す思いになりました。

おわかりだろうか、「平伏」という単語にこだわって集めてみた。「ひれ伏す」も実質的には同義である。
蛇足ながら誤解のないように繰り返し言うが、これは新聞の一つのページから抽出したものであって、あちこちから集めたわけではないのだ。
凄いではないか、七月度婦人部班長会では居並ぶ幹部たちが、ご覧のように「平伏」を連発しているのである。

大聖人に平伏するという意味の文章と浅井先生に平伏するという文章が混在しているので、これをどのように整理整頓すればいいか、そこが難しい。ゆえに、今回は会長本仏論だとか、そういう意味での批判はとりあえず差し控えることにして、素朴な感想を書いておこう。

これは異様だ。

現代感覚では明らかに異様と感じるところだと思う。大沢氏の言葉ではないが、まさに違和感を感じるところである。御本仏に平伏するのは、いわゆる南無ないし帰命の別表現だと考えれば当然の行為だろう。しかし、会長に平伏するというのはいかがなものかと思う。

これだから新興宗教の教祖などと言われてしまうのだ。

2010/8/25

好感度の高い体験発表  
大沢氏からはたびたび熱烈なるコメントを頂戴している。また、前回は水無月氏からもコメントを頂戴した。

わたくし自身、顕正会のダメさ加減はよくわかっているし、さまざまな点で欺瞞があることも承知している。だが、ぜんぶがウソではないし、悪い点ばかりではないのだ。

K対策について

警察への通報について(K対策会議用)


これは六月度総幹部会で話題になった創価学会の内部文書である。天下の創価学会が弱小(?)の顕正会など相手にするわけがない、という説を唱える人もいるけれども、まさかこのような物証が出ているにもかかわらず、いまだに言い続けているとしたら、どうかしていると思う。

創価学会は後継者難である。大幹部の子女が信心に目覚めない。また、世間の少子高齢化を反映してか、全体的に若い世代が育っていないのだ。
実は顕正会でも同様のことがあって、壮年部だとか婦人部の錚々たる大幹部たちには当然ながら息子や娘がいるはずであるが、案外に育っていない。しかし、面白いことには、父親や母親が組長だとか班長で目立つこともなく地道に活動している、そういう家庭から有望な人材が出てくるケースがけっこうあるのだ。しかも男子部や女子部では、高校生であろうが結果さえ出せれば、一人前の扱いを受ける。成果主義の弊害が言われて久しいが、逆にこれを実力主義だと解釈すればメリットもあるのだ。すなわち大幹部の子女であっても、いわゆる親の七光りは通用しない。純粋に頑張って結果を出した人が評価される世界なのだ。
こうして顕正会は、若手の実力者が一人いれば、そこから細胞分裂のごとく増殖していくのだ。実は創価学会が恐れているのはこれなのである。

前回、「学会の虚偽告訴と戦って」と題する登壇を二つ紹介した。

このうちの女子部班長の登壇であるが、ようはこの班長が若手実力者なのだろう。ゆえに目をつけられたのだ。
年齢はいくつくらいだろうか? すでに会社勤めをしているが、掲載されている顔写真から判断して、まだ高校を卒業して間もないようである。
つまり、社会的にはまだ駆け出しの新米であるが、顕正会の活動会員としてはまさしく一級闘士である。しかも信心歴が二十年だとか三十年というベテランよりも、折伏成果の上ではひじょうに有望な人材である。なるほど創価学会から睨まれても不思議はないだろう。

もう一つの登壇は男子部の第三十九隊長によるものだが、「昨年八月の男子部大会の時、ある高校生を保護者の承諾を得ずに深夜に連れ出した」ことが問題になって、警察沙汰にまでなったという話である。
確かにこれは、厳密に突き詰めていくと誘拐にも相当する事件かもしれないが、しかし、それほど大袈裟なものでもないだろうと思う。高校生くらいになれば、友だち同士で泊り掛けの旅行にも行くだろうし、放任主義の家庭であれば行き先すら知らない場合もあるだろう。
ただ、それが一般的な旅行であればいいが、カルト教団のイベント(?)だから許せない、ということはあるかもしれない。

なお、当該記事を読む限り、必ずしも創価学会の関与が明確ではないが、ともかく彼らにとっては若手の顕正会員の動きが驚異ないし脅威なのだろう。ゆえに、証拠はないが動機はある、というのが妥当なところかもしれない。

最後に顕正新聞第1179号から体験発表を紹介しよう。

勇気出して勤行、成績最下位が急上昇

男子部班長の登壇である。この記事には創価学会のことがまったく出てこないが、おそらく顕正会対策に携わる創価学会員にとっては目障りな存在であろう。

入信はしたものの、自宅に私の部屋はなく、家族全員が同じ部屋で寝ているため、両親の目を気にして勤行ができずに悩んでおりました。

いまどき、めずらしい家庭環境だと思う。しかし、上掲の見出しにも書かれているごとく、勇気を出して両親に事情を説明して勤行を実践するようになった。その結果として、成績の急上昇であるとか、バドミントンの大会で二位になったことが書かれている。

わたくしは好奇の目というか興味本意だけで彼の家庭環境を書いたのではない。むしろ彼のご両親は素晴らしい人たちだ。勤行の実践を「お前がやりたいのなら好きにやりなさい」と許可したこともそうだし、折伏の苦情にも見事な対応をしている。以下、少々長いが紹介しておこう。

 三・四月法戦に中学校時代の友人を折伏したところ、その親が家に怒鳴り込んで来ました。しかし私の父は「子供同士の話なのにどうして親がそんなにムキになるのか」と、笑いながらお茶を勧めてくれました(笑)。
 父は「今後十人を折伏して、その十人の親が今回のように怒鳴り込んで来たら、顕正会をやめた方が良い。しかし一件でもそうならなかったら信心を続けても良い」と励ましてくれ、
(以下省略)

ずいぶん寛大だ。それにしても、十人中云々の根拠というか、発想がよくわからない。わたくしの実感としては、十人中三人から苦情が出たらアウトという気がする。公平に考えるならば、苦情が過半数を上回ったところでアウトだろう。この場合、六件がそれである。ところがこの父親は、九件の苦情まではガマンするという。末法の衆生にしては、デキが良過ぎる。

それから中学時代の恩師二人も顕正会員だったという話が出てくる。

宇都宮会館で二人を見つけて驚いたという。両者とも数学の教師だそうで、一人は男子部支隊長、もう一人は壮年部の総班副長である。
この話のポイントは、この中学教師たちはデタラメな折伏をしていない、もし成果に縛られていたならば、卒業生を片っ端から折伏しているはずだからだ。しかも名ばかりの顕正会員ではなく、目立たずとも地道に活動している点が素晴らしい。
ありがちなのは、中学時代の恩師を折伏したら、とっくの昔に入信していて今は化石状態というケースである。しかし、ここでは二人が別系統の組織で、それぞれ地道に活動しているわけだから、ひじょうに理想的である。

以上、この体験発表は好感の持てるものだった。

2010/8/24

馬鹿笑い  
大沢氏のご厚意を無にするようで恐縮であるが、今日は少し話題を変えさせてもらうことにする。

学会の虚偽告訴と戦って

顕正新聞第1179号の五面は、このテーマで二本の記事が出ており、それとは別にもう一本、活動報告が掲載されているが、これもまた創価学会をダシに使った記事なので、いわば創価学会批判特集ページである。

いずれも七月度総幹部会の登壇記事であるが、まずは下段に掲載されている壮年部藤沢地区部長の活動報告に付された写真に注目したい。

「池田亡びる≠フ顕正新聞を下さい」
 学会員が次々と顕正新聞求める


この見出しの左側に、会長以下幹部たちが馬鹿笑いをしている写真が掲載されている。どの瞬間の笑いであるか判然としないが、記事中にはカッコで笑いを示す表記がたくさん出てくる。一例を挙げよう。

 さらに七月二十六日には、朝八時に石井と名乗る学会員から「『池田亡びる』の顕正新聞を一部下さい」(大笑)と電話があり、「どうしても欲しいから一部頂戴ね(大笑)。『池田大作亡びる』って書いてある新聞よ(大笑)。本当に亡びるの?」と執拗に聞いてきたそうです。

はっきり言って馬鹿だと思う。文字通りの馬鹿笑いであるが、とりわけ浅井先生の大口を開けて笑っている姿が醜悪である。
もちろん、人によって感じ方はさまざまであろう。熱心な活動会員たちは醜悪と思わないのかもしれない。
しかし、考えてみるがいい。相手が誰であれ、一人の人間が亡びんとしている・・・具体的には亡くなろうとしているわけである。そうした状況下での馬鹿笑いは醜悪以外の何物でもない。

そう言えば、前回は別件で野卑な笑いについて触れたわけだが、まさに今回の馬鹿笑いも同じである。大沢氏はコメントにおいて、日護会と顕正会の共通性を指摘し、さらに両者では顕正会のほうが罪が重いとまで書いている。わたくしは内心、さすがにそれは言い掛かりだろうと思ったが、案外に本質を鋭く突いているのかもしれないと思い直した。

浅井会長が、日詳上人、日胤上人、日布上人、日開上人等御歴代の御正師に対し奉り、野卑な笑い声を立てながら、足蹴にしているようなものと言っても過言ではないのではないかと思います。

おそらく先生としては不本意であろう。しかし、顕正新聞掲載のあの写真が証拠である。あのような写真を出してしまうこと自体が感覚の麻痺を意味する。図らずも先生の奥底にある醜悪な部分を露呈してしまっていることになるのだ。

学会の謀略、ついに証拠をつかむ!!

学会と公安警察の連携まざまざ!!


さて、今度は上段の二本の記事である。

浅井先生は六月度総幹部会において、創価学会関連の裁判を七つ起こしていることを公表した。ところが、これは真っ赤なウソではないか、と言う人もいるのだ。早い話が会員を欺いているわけである。裁判なんか一つもやっていない。けれども裁判をやっている振りをして、会員に安心感を与えるのだ。先生はわれわれ活動会員のために、いざとなったら弁護士を派遣してくれるし、裁判も起こしてくれるのだ。これならば、後顧の憂いなく安心して活動できる。

わたくしは素直に、先生が裁判を起こしていると言っている以上、そのとおりなのだろうと思っているが、こうした考えは甘いのだろうか?

ましてや今回の記事には次のようなくだりがある。

本年四月二十八日、第一回目の口頭弁論が行われました・・・

これは女子部班長の登壇記事である。これでもウソなのだろうか、というのがわたくしの言い分である。
前にも別件で書いたことがあるけれども、会長の単独ないし少数の大幹部たちだけで口裏を合わせることは可能である。しかし、末端の一班長を共犯者にすることは不可能だと思う。もし彼女が退転して、暴露してしまったならば一巻の終わりだからだ。
というよりも、真面目で熱心な末端会員にウソを書かせることは、マイナスにしかならないのだ。顕正会とはこんな汚い団体だったのかと、落胆せざるを得ないからである。今まで裏も表もないと信じ切っていた人にとっては、物凄く大きなショックに違いないのだ。

よって、裁判そのものは現実のものなのだろう。問題は前回の主観云々ではないけれども、顕正会の主張がどこまで通用するかである。結局、裁判の結果が芳しくなければ、わざわざ報告することはないだろう。すると、今後の総幹部会で一向に裁判について触れないとすれば、それは結果が惨敗だったからだと考えるのが妥当である。

先のことはともかく、今回の記事でわたくしが思いを新たにしたことを書いておくと、このところ顕正会員の逮捕事件が下火になっていると思いきや、そうではなかったということだ。新聞・テレビなどで大々的に報道されないだけであって、実際には全国各地で問題が起こっているらしいのだ。
くだんの女子部班長の場合、逮捕には至らないものの、四回の事情聴取を受けているし、なんと千葉会館にも家宅捜索が入ったのだそうだ。
そして、もう一つの記事では大阪会館と三人の男子部幹部宅に家宅捜索が入ったことが書かれていて、こちらは産経新聞と読売新聞の京都版と、京都新聞に書類送検された旨の報道があったという。

いずれも事件の内容は他愛のないもので、こんな程度のことで警察が動くものかと思うのだが、とりあえず具体的なことは省略させていただくことにする。

ともかく現時点では七件の裁判を起こしているというのだから、こうした冤罪(?)が七件発生しているわけなのだろう。ただし、以前のようにマスコミが大々的に報道しない以上、われわれが知得るのはさしあたって顕正新聞の記事だけである。当然、事件はこの七件以外にもあるかもしれないし、明らかに顕正会側に非がある場合もないとは限らないだろう。しょせん自分たちに都合の悪いことは伝えないものだ。


八月二十五日追記:誤字を修正した。

2010/8/22

日護会の大失態  
いつものごとく、すべてに対応し切れないことをご了承願いたい。

まず、大沢氏の指摘事項について、わたくしなりの感想を述べる。
前回、壮年部総班長の活動報告を紹介したところ、大沢氏はその内容に不審を感じ、真偽を確かめるために先方に問い合わせた。その結果、総班長の記事は間違いであることが判明したという。事実を都合のいいようにねじ曲げて発表しているとのことである。早い話が有名人を利用しているわけだ。
しかし、わたくしの思うに、くだんの総班長には悪意のカケラもない。善意は言い過ぎにしても、それに近いものがあると思う。

それが折伏になっているかどうか、仮に折伏と言えるレベルには達していないとしても、本人の主観としては折伏なのだ。ゆえに、顕正会の真摯な姿を命で感じていた東條さん・・・という記述もまた、主観的にはそのとおりなのだと思う。
もし、これがそうではなく、事実とは正反対であるにもかかわらず、意図的に「命で感じていた」と書いているとしたら、それこそ悪意そのものである。しかし、これを証明することは、ほとんど不可能であろう。たとえば総班長が個人的な日記の中で、大逆縁だったけどそれじゃ活動報告にならないので都合のいいように書いちゃえ、などと言っていれば大事件であるが、たぶんそのような証拠は出てこないだろう。
よって、くだんの活動報告は、本人の主観に基づけば決して間違っているわけではないと考えて差し支えないはずである。

もちろん、先方にも言い分があるわけで、最終的にはそちらが尊重されることは当然のことである。大沢氏が報告されるごとく、先方はあくまで歴史認識において共感するだけであって宗教的にはまったく賛同するものではない、というのが真相のようである。もはや、ここまで判明すれば、総班長が何を言ったところでしょせんは勝手な思い込みに過ぎないということで一蹴されてしまうことになるわけである。

以上、わたくしの言いたいことは、末端の活動会員に悪意はない、しかし、しょせんは勝手な思い込みであり客観的には通用しないということだ。活動会員たちはここに気がつかないといけない。しかし、気がつけば活動会員でいられない。

この話の延長線上には、「あと十二年」だとか「広布最終段階」などがある。

つまり、これらはすべて主観であって、客観ではない。早い話が勝手な思い込みであり、幻想なのだ。何故に顕正会員の思考には客観性が欠如しているのか、これはひじょうに重要なテーマであるが、おそらくは浅井マジックのなせるワザなのだろう。わたくし自身もそうだったが、会長講演を聴いているといつの間にかそれが本当に実現可能なことのように錯覚してしまうのだ。

いずれにしても世間に通用しないことをやっている以上、それが広宣流布に通ずることにはならないはずだ。歴史認識ではなく、仏法そのものに対して心底から共感させることが出来なければ、無意味である。むしろ、歴史認識云々は折伏のための方便であるから、もしそこで終わってしまうとすれば、爾前経止まりということにもなりかねない。まさに大沢氏の言うごとく、それでは折伏にならないだろう。

熱心な活動会員たちは、今が広宣流布の最終段階であり、十二年後には広宣流布の大勢が決せられると信じている。ゆえに、各分野の著名人も今は事情があって入信には至らずとも、命では顕正会の正しさを感じているのだと、このように自分たちに都合のいいように思い込んでいるのだ。

この話はこれくらいにして、衝撃的な動画が紹介されたので、そちらに話を移すことにする。

これがニセ本尊です。実家から黙って持ってきました。

日護会がどのような団体であるか知らないが、これはユユシキ問題である。黙って持ってきたということは、泥棒と同じことである。自ら泥棒であることを白状している。こうした行為を仏法の世界では悩乱と言うのだ。

わたくしの実家から持ってまいりました。今頃、実家は大騒ぎになっていると思われます。

動画にはこのセリフの直後に複数の笑い声が入っている。物凄く野卑な笑い方だと思う。ふざけた連中だ。

実家が大騒ぎになっているという認識がある。ということは、自分がその大騒ぎを起こした張本人だという自覚があって然るべきである。仲間たちもそれに気がつかないといけない。それにもかかわらず、一同に笑い声を発しているのだ。狂っているとしか言い様がない。

本物のニセ本尊・・・

(中略)

これが創価学会のニセ本尊です。

順番が前後するが、これもまた凄いセリフである。本物のニセ本尊という表現がある以上、偽物のニセ本尊という表現もありそうだが、意味不明である。ようするに今の時代は何でもかんでもネットを介して入手することが可能なわけで、いわゆる曼荼羅本尊の画像もたくさん存在する。しかし、あくまでそれは画像であって本物ではない。強いて言えば、それが偽物のニセ本尊に当たるだろう。さすがに本物には滅多にお目に掛かれるものではない。そこに彼らの一味が実家から本物の御本尊を持ち出してきた。ゆえに、彼らにしてみれば、正真正銘の実物の本尊を目の当たりにして、いわば興奮状態なのだ。

それにしても集団心理とは恐ろしいものだ。もし自分もそこに居たとしたら、同じように野卑な笑い声を立てていたかもしれない。だとすれば、一生の不覚である。

しかもこの話にはオチ(?)がある。なんと動画に映し出されている御本尊は、創価学会版の本尊ではなく、日顕上人の御形木御本尊なのである。あろうことか、彼らは大猊下の御本尊を誹謗しているのだ。知ってか知らずか、それはわからないけれども、万死に値するほどの大謗法行為であろう。

この際、提案しておこう。動画で、かくもブザマな失態を見せてしまった以上、同じく動画で謝罪を行なうべきではないか、と。

最後に、誤解のないように書き添えておくが、もしこれが創価学会版の本尊だったとしても、彼らの行為は決して是認されるものではない。

2010/8/17

猛暑復活  
種々のコメントを頂戴しているが、いつものごとく対応し切れないので、その点をご了承願いたい。

顕正新聞昭和60年7月5日号より

新入信者の所属に関して
1.紹介者の所属の成果とする
2.男性は30歳以上は壮年部、29歳以下は男子部
  男子部による折伏の場合、34歳以下は男子部
  女性は30歳以上は婦人部、29歳以下は女子部
  女子部による折伏の場合、34歳以下は女子部
  既婚女性は原則として婦人部 29歳以下で本人の意思があれば女子部でも可


これは貴重な資料だ。水無月氏に感謝申し上げたい。

以前、わたくしは顕正会の定年制について書いた。おぼろげな記憶なので、間違っているかもしれないが、六十五歳が定年だったと思う。
ある意味、上掲はわたくしの記憶を裏付けるものと言えるだろう。男子部・女子部の上限がかくも低年齢であることからすれば、壮年部・婦人部の上限が六十五歳だとしても不思議はない。
今はそれが完全に撤廃された格好である。いや、もちろん、信心は臨終の夕べまで、ということを顕正会では昔から言っているわけだから、定年制の撤廃は理に適っていることである。

しかし、顕正会全体としての定年制はそれでよいとしても、男子部・女子部に関しては大いに問題があるだろう。今日においては上掲の年齢基準が大幅に緩和されているというか、実質的には規定が存在しないに等しい状態である。以前にも紹介したと思うが、八十・九十の男子部員だとか女子部員が存在するわけだから、大袈裟に言えば無法状態みたいなものだ。

仮に上掲の基準を、男子部・女子部は四十歳ないし四十四歳を上限とし、それ以上の者は壮年部・婦人部の所属とする、という規定にすれば理解できなくもない。平均寿命が延びている分を延長したわけである。しかし、もはや今の顕正会はこうした決め事も意味をなさないだろう。あの三万人の男子部大会にしても、もし四十四歳以下に限定したならばどうなっていたか、想像に難くない。ましてや二十数年前の三十四歳を上限とするルールを厳守したならば、どうなっていたか・・・想像するだに空恐ろしい。

さて、今日は顕正新聞第1179号の話題である。しかし、なんとなく夏バテ気味なので、簡単に終わらせたい。

同号は七月度の総幹部会特集号であるが、婦人部班長の登壇に三笠宮寛仁殿下を折伏した話がある。どうやら今回の折伏で四度目ということなので、それなりに深い関係なのだろう。いわゆる騙まし討ちのような折伏であれば、二度と面会できないだろう。何しろ相手が相手だけにデタラメな折伏が通用するわけがないのだ。

また、壮年部総班長の記事に、東條英機元首相の孫を折伏した話がある。これは例の講演集を送付したところ、先方からお礼の電話が掛かってきたという。その後、実際に会って折伏した様子が事細かに書かれているが、それは省略しよう。以下、余談ながら紹介したい部分がある。

 先日、東條さんがある法華講員の知人に会ったとき、新講演集を片手に顕正会の話をしたそうです。するとその法華講員は、先生と顕正会のことを口汚く貶してきたとのことで、顕正会の真摯な姿を命で感じていた東條さんは、悪口だけの法華講員の態度に嫌気がさし、かえって顕正会の正しさを感じたということでした。

東條さんは、いわば有名人である。すると知人の法華講員が誰であるか、もちろん第三者が記事を読んだだけでは皆目わからないが、おそらく本人であれば自分のことだとわかるだろう。
もし上掲の記事が正しいとすると、くだんの法華講員は大いに反省しないといけないと思う。法華講員同士で顕正会のことをボロクソに言う分にはさしたる問題はない。しかし、一般の人に向かって話す場合、どのように説明したらいいのか、よく考えないといけないだろう。
生意気を言うようであるが、拙ブログでは相手を批判するにしても、それなりの節度を持って批判しているつもりである。わたくしは憎悪であるとか悪意の滲み出た文章を好まない。おそらくは大半の人がそうだろう。であれば、己れがそのような文章を書いて他人を不快な気持ちにさせてはいけないはずだ。

しかし、これは法華講員よりも、むしろ顕正会員が肝に銘じるべき事柄だろう。

それはともかく、話を戻そう。

上述の二つの記事には共通項がある。単純に言えば、有名人を折伏したということだ。
しかし、二人とも入信には至っていない。いわゆる逆縁であるが、記事中には逆縁という文字が見当たらない。おそらく顕正会側には限りなく順縁に近いという意識があるのだろう。
クチコミで言われていることなのかどうか知らないが、顕正会側の願望としてはこういう人たちが広宣流布の大事な局面において重要な役割を演じることによって、一気に広宣流布が達成されるということがあるのだと思う。だから逆縁とは言わず、入信には至りませんでしたが・・・という表現を使うのだ。

早い話が、こうした記事を載せることで活動会員に期待を持たせているのだ。皇室関係の人間であるとか元首相の孫が入信すれば、その影響力は計り知れない。現状ではあと何年などと言ったところでまるで希望が持てないけれども、彼らが入信すれば状況が激変することだってあり得るだろう。本部としては活動会員に期待を懐かせる。逆に言えば、そうして会員をつなぎ止めているのだ。

最後に、やや余談ぎみではあるが、くだんの婦人部班長はかつて婦人部の大幹部だった。確か本部幹事だったこともあるはずである。また、壮年部の総班長のほうは男子部で隊長をやっていた。今と違って、ぜんぶで二十箇隊くらいの時代に隊長をやっていたので、大幹部だったと言えるかもしれない。

二人はいわゆる降格ということになりそうだが、しかし、これらの記事は顕正会にとって好ましいものである。なぜならば、華々しく活躍していた幹部がいなくなると誰もがあらぬ心配をするけれども、役職が下がったとは言え、こうして第一線で地道に活動している姿を見れば多くの人が安心するからである。

かく見れば、今回の記事は二つの意味で会員をつなぎ止める効果があると言えるだろう。

2010/8/14

顕正新聞第1178号から  
引き続き沖浦氏からコメントを頂戴しているけれども、今日は顕正新聞の話題を取り上げたいと思う。第1178号に掲載されている記事だ。

80歳「命の捨て場所はここだ!」
 自身こそ後期高齢部≠フ先陣を


後期高齢部とは聞き慣れない言葉であるが、これは六月度総幹部会の会長講演に出てくる話である。
顕正会は高校生などの若年層をターゲットに勧誘活動をしている、というような批判があって、先生はこれに反論をしているわけだ。いわく、一切衆生に仏法を勧めるのに、老若男女の別はないでしょう、と。
むしろ最近は高齢者の体験発表・活動報告が目立つ。顕正会の高齢者は本当に元気だ。よって、もう一つ部を作らないといけない。その名は後期高齢部・・・云々と。

上述の会長講演は第1176号に掲載されているが、次の部分はあえて太字で紹介しておこう。

これは男女をわけないで、男女共学で行く(爆笑)。

この後も冗談をかまして聴衆を笑わせている。男子部・女子部でだらしのないのがいたら、後期高齢部に体験入学させて鍛え直す・・・云々。

拙ブログでは本年に入ってから、男性婦人部員とか男性女子部員という表現を使うようになった。
それは顕正会の最近の傾向として、婦人部ないし女子部の紹介で入信する男性・・・とりわけ高齢の男性が多く、彼らはそのまま婦人部・女子部の所属になっている場合がほとんどだからである。
ちなみに、女性男子部員・女性壮年部員という表現は今のところ使ったことがない。おそらく皆無というわけではないのだろうけれども、前者に比べれば圧倒的に少ないと思われる。

わたくしのこうした指摘を気にしたものか、先生の男女共学という発想は実態を糊塗するというか、正当化する狙いがあるようにも思われるし、また最近の顕正新聞の表記に変化が見られることも拙ブログの影響かもしれない。

顕正新聞の表記の変化というのは、たとえば体験発表や活動報告の場合、見出しの次に所属と名前が書かれるのが普通であるが、なんと冒頭の記事には所属が書かれていないのだ。名前だけである。
顔写真を見れば、男性であることは明らかであるし、名前も男性のそれである。いったい所属がどうなっているのか、まさか後期高齢部ではないだろう、まだ正式に決まったわけではないし、おそらくは冗談で終わる話だと思う。記事の本文を読んでも判然としないが、しかし、答えはいちばん最後に書かれていた。

(婦人部銀座支区)

ようするに、これは婦人部銀座支区集会での登壇であり、この人は男性婦人部員なのである。頭隠して尻隠さず、みたいなオチだ。

話は前後するが、記事には次のごとくある。

後期高齢部長になって千人・万人を引っ張っていく人材になりたい・・・

冗談なのか本気なのか知らないが、この人は現時点では平会員である。それがいきなり部長になれば大抜擢であろう。

ところで同新聞には類似の記事がもう一つある。記事の内容ではなく、表記の類似性である。しかし、こちらは頭隠して尻隠さずではなく、竜頭蛇尾・・・いや、違う、適切な表現を知らないが、強いて言えば、所属詐称であろうか?

壮年部 ○○ ○

(第三十五区集会)


これには本文中に女子部の班長から折伏されたことが書かれているし、文末のカッコ書きは女子部の区集会を意味しているので、男性女子部員であることは明らかだ。それにもかかわらず、肩書きは壮年部になっている。

おそらく顕正新聞の編集部は、試行錯誤しているのだろう。しばらくは見守りたいと思うが、いつまでもこんなテイタラクではいけない。そもそも、これは表記の問題というよりは、異性の入信者の処遇をどうするかの問題である。編集部ではなく、本部首脳が考えないといけないことだ。もっとも編集部も本部首脳もほとんどイコールのようなものだが・・・

最後に男子部総支隊長補の体験発表を紹介する。

半ば諦めかけていたことでしたが、四十四歳にして縁あって結婚することとなり・・・

オメデタイ話なので、これにイチャモンをつけるつもりはない。『迷走する顕正会を斬る』では結婚できない会員が多いことを指摘しているが、これはささやかながらも顕正会側からの反論の意味があるのだろう。同時に、結婚願望のある会員たちにとって、励みになる話である。

しかし、この人はそうすると今現在、何歳になるのだろうか?

おそらくはかれこれ五十近くになっていると思われるが、おいおい、いつまで男子部なんだよ、というのがオチである。

2010/8/12

沖浦流法門の欠陥  
種々のコメントが寄せられているけれども、今日も引き続き、沖浦流法門への批判を書き綴りたいと思う。

 お間違いですね。

(中略)

 それは違います。

いったい何がどのように間違っているのか不明である。本尊問答抄における、法華経の題目を本尊とすべし、との御意を字句どおりに拝することが間違いとでも言いたいのだろうか?

しかし、もしそうだとすると、それこそ沖浦氏の間違いである。

わたくしは前回、いくつかの御書を引用したわけだが、最後に新尼御前御返事を持ってきた。それは本尊問答抄の御指南を補完する意味からである。法華経の題目を本尊とするの御意は、すなわち妙法五字の大曼荼羅に他ならないからだ。

実は、新尼御前御返事を引用するまでもなく、本尊問答抄の末文を拝すれば一目瞭然である。

其の旨をしらせまいらせむがために御本尊を書きをくりまいらせ候に、他事をすてゝ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ。

大聖人の文章構成力は抜群である。どれほどの長文御書であっても、冒頭の一段と結末とが見事に一致するようになっている。いや、もちろん、違った構成の仕方もあるわけだが、本尊問答抄の場合はご覧のごとくである。

まさに、法華経の題目を本尊とすべしの御意は、妙法五字の大曼荼羅を本尊とすべしの御意に他ならないのだ。

 漫荼羅本尊は、コピーのコピーです。

今回の最大のポイントはここであろう。沖浦氏は日女御前御返事と阿仏房御書を引用し、それを根拠に曼荼羅御本尊をコピーのコピーであると断じている。これは以前の、御本尊は方便、とほぼ同趣旨と考えられるが、とんでもない大間違いである。

 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なり。されば主題の五字は中央に・・・

最後の部分、主題の五字は中央に・・・というのは、まさに妙法五字の大曼荼羅を意味するものであり、わたくしの主張と何ら矛盾するものではない。

それはさておき、沖浦氏の根拠は「すりかたぎ」である。これは摺形木という漢字ルビが振られているわけだが、氏はこれをコピーと言いたいわけなのだろう。そして阿仏房御書を引いた後、曼荼羅は宝塔のコピーであり、宝塔は私どもの命のコピー、よってコピーのコピーであると。

言いたいことは、わからなくもない。しかし、これは間違いである。少なくとも以前の御本尊方便説と同様に、ことさらに御本尊の価値を貶める不適切な表現であると言わざるを得ないだろう。
では、何がどのように間違っているかを説明するが、摺形木というのはコピーではない。微妙なニュアンスの違いではあるものの、コピーと言ってしまったならば本意から逸れてしまうのだ。
これはコピーではない。コピーとは模造品のことであり、いわば海賊版である。ここで大聖人の仰せられる摺形木は、まさしく正規版のことなのだ。

その根拠は文にあって顕然である。再掲しよう。

是全く日蓮が自作にあらず

当該御書は大聖人の仏法上の御立場を論ぜず、直ちに御本尊について論じている。この場合、御本尊の権威づけをどこに求めるか、その答えは自ずと決まってくる。すなわち釈迦・多宝・十方の諸仏である。ゆえに日蓮が自作にあらずと仰せられるのだ。

この御本尊は日蓮が勝手に自作したものではない、三仏から認証を得た正規版の御本尊である。

わたくしなりの意訳であるが、これが正しい拝し方だと思う。これをコピーのコピーなどと言おうものならば、御本尊の価値を貶めることになるだろう。

今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり。多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。こゝさながら宝塔の住処なり。

阿仏房御書の拝し方については、沖浦氏の説明にそれほど違和感はない。結論として、コピーのコピーは大間違いであるが、それを除けば概ね問題ないと思う。

ただし、いわゆる広義と狭義の違いに気をつける必要がある。ご存知のごとく、本尊とは法華経の行者の一身の当体なのだ。広義には阿仏房もそれに当たるというだけの話である。ゆえに、われわれが南無しているのは広義ではなく狭義の、いや、この場合は総別を用いるのが適切であろうか、すなわち別しての御立場にあられる大聖人の一身の当体に対し奉って南無するわけである。

考えてみるがいい。阿仏房御書は御本尊授与の砌における御指南である。そこにおいて何故に御本尊の価値を貶めるような結論に至るであろうか、そのような自家撞着の御指南をあそばす道理があるわけがないではないか、というのが結論である。

2010/8/11

沖浦流法門の誤謬  
前回の拙稿は失敗だった。沖浦氏への批判が主目的であることは題名の示すとおりであるが、どういうわけか逆に法華講の諸氏からお叱りをこうむる結果となってしまった。確かに逆効果というか、沖浦氏を調子付かせてしまったようである。氏は逆境に強い。氏は逆境をバネに飛躍するタイプなのだ。この際、称号(?)を授けよう。沖求羅克治だ。

沖浦氏の話題はまた後で書くつもりだが、その前に山門入り口氏のコメントに応じておかなければいけない。氏のコメントはひじょうに不可解である。

厳虎さんが直接証言者から話を聞く、お膳立てをと思っていますが、メアドを公開してないから連絡のしようがないです。
こちらのメアドは、掲載してるのですから、話を直接聞いて確かめるのが怖いのかと思ってしまいます。


この点はおっしゃるとおり、わたくしは臆病者である。

それに、詳しい話を公の場で書いたら、先方に迷惑が掛かるかも知れないから遠回しないい方をしてましたが、目師再誕説なんて生やさしいものではないです。

しかし、ここからが不可解なのだ。目師再誕説なんて生やさしいものではない? では、いったい何なのだ?

話を勿体ぶってるのではないし、ただ、先方に迷惑が掛からないようにする為めに濁した話になってましたが、これ以上は、話を書きません。
 そして、話をするとしたら、自分が信心を止めるときでしょう。
それでも全部は話さないし、残りは、墓まで持って行くだけです。


結局は言えないわけである。もったいぶっているわけではないと言いながらも、結果的には同じことをしていることになるのだ。言えないのであれば、最初から何も言わなきゃいい。しかも浅井先生の問題を云々していて、何故いきなり「話をするとしたら、自分が信心を止めるとき」となるのか、ここが最大の謎である。そして墓まで持って行くという。おそらく不可解と感じるのは、わたくしだけではないだろう。

この際、顕正会問題から足を洗ったらどうか、言いたいことも言えない状態で続けるのは精神衛生上、よろしくないと思う。もっとも戦略的に言いたいことをあえて言わない場合もあるわけだが・・・

沖浦氏の話に戻ろう。

 ご本尊は法華経ではありませんよ。

わたくしにはこれがわからない。そこで単純な問いを発しておこう。御本尊と法華経はどちらが尊いか?

 そして、法華経とは、南無妙法蓮華経です。
 ご本尊ではありません。


答えを聞く前に勝手に判断すると、どうやら法華経とは南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経は御本尊ではない、ということになりそうだ。しかも途中で御本尊を道具であると書いているので、南無妙法蓮華経と御本尊では南無妙法蓮華経のほうが尊いことになるのだろう。

しかし、そうすると本尊問答抄の冒頭の一節をどのように拝するのだろうか?

法華経の題目を以て本尊とすべし。

これは単純に南無妙法蓮華経=御本尊と拝するべきだろう。

さらに日女御前御返事の次の一節をどのように拝するか、聞いてみたいものである。

此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。

法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる・・・

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。

上野殿御返事の有名な御文であるが、整合性を考えるならば前掲の「法華経を持ちて」は「御本尊を持ちて」と拝するべきではないのか?

法華取要抄の一節は沖浦氏も別のコメントで引用しているわけだが、ここに改めて引用させていただく。

日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。

これらを踏まえて新尼御前御返事を拝するならば、自ずと答えが見えてくるだろう。

此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば・・・

沖浦氏はあえて曼荼羅御本尊と御題目を切り離そうとしているごとくであるが、両者が密接不可分であることは言わずもがなのことである。この基本中の基本に気がついていないとすれば、たとえ御書をたくさん諳んずることができたとしてもそれは無意味なことだと思う。

2010/8/8

沖浦流法門を斬る  
山門入り口氏と沖浦氏からコメントを頂戴しているので、それについて書いておきたい。

以前にも、石井納豆の話題で、3回か4回続いたことが有ったので、また、納豆販売の力入れかて思って、最初の方を読んでませんでした。

山門氏は相変わらずズサンである。他人に対して批判めいたことを書くのであれば、そうした読み飛ばしは厳に慎まなければいけない。早い話が先入観だとか予断で物を言っている、それが氏の悪いクセである。しかも上掲の「石井納豆の話題」がこれまた不正確というか、あるいは悪意でそのように書いているものか、ともかく事実とは異なるのだ。ようするに、「納豆の話題」であって「石井納豆の話題」ではない、あくまで納豆の話題の中に石井納豆の宣伝が含まれているというのが事実である。

納豆に関してはこれくらいでいいだろう。問題は次の目師再誕説についてだ。

上級幹部が、口コミで目師の再誕て言ってますよ。
それ以前に、会長自身が一部に自己申告してるから、幹部に言わせて、逃げ道を残してるだけでしょう。
多分、一番古い自己申告は、現在の上級幹部も知らないでしょうね。
宗門に在籍していた時代ですから。
 あ!また証拠とか言われるのなら、管理人さん本人が確かめる気があるのなら、仲介の仲介はしますよ。


相変わらず要領を得ない文章である。いったい何が言いたいのか、それが伝わってこない。しかもピントがずれている。

前回、わたくしは次のごとく書いた。

今後も顕正会員にとって浅井先生は特別な存在ではあるけれども、その具体的な姿というか立場というか、仏法上の位が不明瞭のまま、いつまでもダラダラと続いていくのだと思う。

これに対して山門入り口氏は、幹部たちがクチコミで目師再誕だって言っているし、先生が自分で言っちゃっている、と書いているわけだ。そして予防線というか、先回りをして、証拠はある、と言っている。しかし、その「仲介の仲介」というのがなんともイヤラシイではないか、ようするに文書であるとか音声として証拠が残っているわけではなく、妙信講時代の古参会員の証言を得ている、しかも上掲の言い様では又聞きなのだろう、だから仲介の仲介と言わざるを得ないのだ。

ピントがずれているというのは、この直前にはポリ銀氏からのコメントがあったからである。一部を再掲しよう。

僕は顕正会時代にずっと日寛上人様の再誕だと思っていました。

彼は、浅井先生を目師の再誕ではなく、寛尊の再誕であると思っていた。これについて山門入り口氏がどのように考えているか、そこが重要である。普通の思考であれば、わたくしの書いたように浅井先生の立場というのは不明瞭となるはずである。ご存知のごとく、会長本仏論という視点もある。すると目師再誕には固定化されていないことになる。
クチコミで目師再誕を言う幹部がいるのかどうか知らないが、まあ、いても不思議はないだろう。それから証拠の有無にかかわらず、かつて先生が目師再誕を自己申告したということも、おそらくは誤解の要素もいくらか含まれているとは思うが、しかし、先生の中に自分を特別の存在だとする一種の驕りがあるのは確実なので、おそらくはそのようなニュアンスの発言があったのだろうとは思う。
では、なぜに目師再誕に固定化されないのか、その辺の考察がまったく出来ずにただ単に、クチコミ指導がある、かつて自己申告している、などと書いたところで、それがいったい何になるのだろうか?

これはわたくしの邪推かもしれないが、山門入り口氏はわたくしに対して反発心を秘めている。だから言葉尻を捕らえてわたくしが不明瞭と書けば、その反対の意味のことを書いているのではないか? しかし、結局は大意を見失っているがために要領を得ない文章になっているのではないか?

それともわたくしのほうが間違っているのだろうか?

さて、話は変わる。

 文は人ですね。

今度は沖浦氏のコメントであるが、これはこれで意味不明である。いや、もちろん、上掲のような箴言というか格言があるのは知っているけれども、ようするにこの場合、この場面において何が言いたいのか、それがわからないのだ。

 方便なんですよ。

そこで前々回のコメント欄に残された氏の文章について、わたくしなりの破折を試みたいと思う。

なんと沖浦氏は御本尊を方便であると言っているのだ。

法華講の諸氏はサジを投げたものか、これについて何も反論していない。確かに沖浦氏は難敵であり、まともに相手にしていたら勝てない、よってハナっから相手にしないのが賢明である。

しかし、大事なポイントは逃してはならない。御本尊を方便とは何事か、そんな馬鹿な話はあるまい。
まず、以前にもどこかで書いたと思うが、正直捨方便という言葉がある。すなわち、正直に方便を捨てよ、ということだ。方便は捨てなければならない。だったら沖浦氏は御本尊を捨てるのか、と問いたいところだ。
ちなみに、以前は捨てないという答えを頂戴している。おそらく今も同じだろう。そこで結論だが、方便という表現は不適切としなければならない。さしあたって沖浦理論そのものの是非は別にして、御本尊を方便であるかのような言い方はやめなければならない。

ところで、しばしば法華講の諸氏が返答に窮している問題がある。御本尊と自分の命とどちらが大事か、との問いである。

この際、わたくしの本心を吐露しておこう。もし、ナイフであるとか銃口であるとかを突きつけられて、まさに次の瞬間に死を想起させる状況に追い込まれたならば、わたくしはそそくさと退転するに違いない。わたくしの信仰心とはその程度のものである。臆病にては叶うべからずであるが、逆に言えば、臆病なのか凡夫の常である。
この意味において、沖浦氏の己れの生命を中心とする本尊観はひじょうに魅力的であるし、現代的でもあると思う。沖浦ファンというか沖浦流法門の伝道者が少なからず存在する理由も頷けるところだ。
だが、しかし、ここで話は終わらない。わたくしは沖浦流法門の破折を目的に書いているわけだから、ここで終わってしまったら意味がないことになる。

命は法華経にたてまつる。

この開目抄の御文をなんと心得るかだ。

大聖人は己れの命よりも法華経のほうが大事であると仰せになっているのだ。法華経は現時において御本尊のことと拝するべきだろう。生命よりも御本尊のほうが大事なのだ。

南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。(中略)さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。

白米一俵御書である。ここでは法華経ではなく仏となっているが大意は同じである。ともかく仏になるためには命を捨てる覚悟がいるのだ。

しかし、大慈大悲の大聖人はこれを御自身に引き当てることはあっても、凡夫のわれわれに強要することはない。

此等は賢人聖人の事なれば我等は叶ひがたき事にて候。

続きの御文を心して拝したい。

 たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。

これが答えだ。

沖浦氏のコメントを再掲しよう。

方便なんですよ。

はたしてこのような物言いをする人が大聖人の御意に通ずるであろうか、大聖人の御眼にはどのように映っているか、とてもじゃないが快くは思われないであろう。

 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。

沖浦氏とて末代幼稚の一人であろう。それにもかかわらず、方便なんですよ、などとわかった口を利くのはいかがなものか、というのが結論である。


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