2011/6/27

時事ネタに見る顕正会の特殊性  
それほど書きたいこともないのだが、たまには更新しておかないといけないだろう。

会長の作戦は成功しつつあるのやも知れません。

元会員氏が在籍していたのはいつ頃なのか判然としないが、近しい幹部が御相承を云々していたとは驚きである。ようするに浅井先生が相承を受けているという話である。

大沢氏も触れられているごとく、先生は若い頃に管長代務者の謦咳に接していたことがある。また、先生の父親が当時としてはそれなりに有力な信徒であったことから、おそらくは猊下に接する機会も少なからずあっただろうと思われる。

しかし、それが直ちに御相承に結びつくものではないことは自明のことだ。

わたくしの思うに、どのような理論を構築しようともあくまで信徒の一人に過ぎない、それが浅井先生なのだ。もし教祖になりたいのであれば、日蓮正宗の教義を捨てるしかない。日蓮正宗の教義にしがみ付いている以上、信徒のブンザイを越えることはできないのだ。

不公平だと思ってはいけない。もし信徒がイヤなら出家すればいい。いちおう理論上は可能なことなのだ。しかし、今さら遅いというのも事実である。

ゆえにわたくしは、浅井先生の作戦が成功しつつあるとは思わない。例外は熱狂的な活動会員たちだけだが、なぜ例外なのかと言えば、彼らはごく少数に過ぎないからである。日本全体から見れば少数であることはもちろんのこと、もしかしたら顕正会の中でも少数かもしれないのだ。皮肉を言えば、百五十万顕正会という看板がまさにアダになっているわけで、そのうちの何割が熱狂しているかを考えれば少数と言わざるを得ないだろう。

さらに活動会員という枠で考えても危ういところだ。

熱心に活動している人は信じて疑わないから熱心なのだ。しかし、そこにはわずかながら疑心が内包されているのも事実である。なぜならば退転者が後を絶たないからである。まさにここは内面的な問題なので実態を正確に把握することは不可能である。ゆえに本部首脳にしても疑心暗鬼なのだ。活動会員にしてみれば、こんなことをやっていていいのだろうか? という不安がある。本部首脳にしても、こいつら大丈夫だろうか? もしかしたら退転するんじゃないだろうか? という不安を抱えているのだ。

異論が発生するのを恐れて、解釈を避けるのであれば、その宗教は現実とは懸け離れた観念上の宗教であるとの批判を免れないでしょう(いたずらに避けるのは「宗教団体の自殺」であると思います)。

話は変わるが、大沢氏のコメントはなかなか鋭いところを突いていると思う。というのは、顕正新聞第1209号二面の下段にコラムがあって、最後の一行は次のごとく書かれている。

 共産主義の中国も、諸天の働きによる異常気象には、お手上げというところである。

中国は今、六十年ぶりの大旱魃なのだそうだ。いわば上掲のコラムはそうした時事ネタを取り扱ったものであり、最後の一行さえなければ一般紙・誌に載せてもおかしくないような記事である。逆に言うと、最後の一行(=上掲)がひじょうに特殊なのである。

大沢氏のおっしゃる意味からすれば、異論を恐れずに宗教的解釈を加えているので顕正新聞は立派なものである。しかし、問題はその妥当性であろう。わたくしには大いに異論・反論がある。

ともかく上掲はイヤミな文章である。わたくしの思うに、共産主義であろうが資本主義であろうが異常気象は同じである。顕正会は中国を敵視する傾向にあるので、それが無意識にも文章に反映しているのだろう。むしろ中国人民には罪のない話なので、彼らの側に立って憂えるべきが筋である。ところが実際の筆致は人民のことなどそっちのけで、共産主義を揶揄するような文章になってしまっている。たぶん書いた人は物凄く性格の悪い人なのだろう。

諸天の働きを云々するのはいわば顕正会の特徴である。何でもかんでも諸天の働きで説明しようとする。

しかし、わたくしはそこに無理が生じているのではないかと感じてならない。

先般の浜岡原発がそうである。さらに、その前には東日本大震災の位置付けを大罰時代到来の号鐘などと言い、まさに諸天の働きに絡めて論じたわけである。顕正会の内部では「あと十年」が合言葉になっていて、今はまさにゴール目前の直線コースを突っ走っているつもりでいる。ゆえにこの十年間は激動の時代であり、次から次へと大きな動きが生じてくる。実際、今回の大地震と大津波は歴史的な事象であり、顕正会の主張を裏付けるものと考えられた。

しかし、それがかえってアダになっているのだ。

つまり、今後の十年間は世の中の事象を何でもかんでも仏法上の因縁から説明しなければいけないという、甚だ面倒なことが課せられてしまった格好なのだ。

その産物が前回の拙稿で紹介した婦人部幹部たちのおかしな記事である。

とりわけ最後に紹介した福島原発事故の解釈が凄まじい。戒壇の大御本尊を守るためには浜岡原発を停止しなければいけない。そのためには福島原発が事故を起こす必要があった。その事故のために福島の人たちは甚大な被害を受けたわけだが、それがかえって功徳となるのだと言うのだ。わたくしに言わせればデタラメもいいところであるが、彼女らはまったく気がついていないのだろう。

この先、こうした珍解釈が次々に生まれると思うと、暗澹たる気持ちになる。

2011/6/20

婦人部の幹部連中を斬る  
今日は顕正新聞第1209号から話題を拾うことにする。

 この御書を全員で拝読したのが、あの巨大地震の前でした。そして講義録が出来したのが巨大地震のあと。まさに大罰の時代突入と同時に拝した御書ですよ。私は時の不思議と思っております。

第一面の記事は五月八日の日曜勤行における指導である。

二月に御書講義があった。松野殿御返事である。実はこれが顕正会の中ではけっこう反響を呼んでいるのだ。
ご存知のように浅井先生は今回の地震を予言できなかった。しかし、先生は上掲のごとく、二月の講義を時の不思議であると言っている。
なぜならば、御書の内容が今回の地震とよくマッチングして、顕正会員たちの心に強く焼き付いたからである。

生死無常・老少不定

いわばこれが松野殿御返事における重要なキーワードとなるわけだが、先生とて巨大地震が来ることを想定して、この御書を選んだわけではなかった。たまたま結果的に多くの人が亡くなり、計らずも上掲のキーワードが当てはまったということなのだ。さすがにこれで予言が当たったとは言えない。アツカマシイにも程がある。そこで先生は「時の不思議」と言っているわけである。

ところが活動会員たちは先生を神格化(?)したいのか、とんでもないことを言い出す。

全日本人が拝読すべき歴史的重書・松野抄講義録

第三面に載る婦人部豊島支区部長の記事である。再び一面に戻って、浅井先生がどのように言っているか、確認してみよう。

全日本人が拝すべき御書

一種のスリカエなのだろう、先生は御書のことを言っているのだが、くだんの婦人部幹部は御書ではなく御書の講義録を言っているのだ。微妙な差異とは言え、ここは看過できないところである。なぜならば、七面の婦人部組長の記事には次のごとくあるからだ。

 浅井先生のご指導には大聖人様の御心を感じます。

まるで、浅井先生は時の大聖人である、と言っているみたいなものだ。

今回は婦人部の発言に問題を感じるものが多かった。再び三面に戻って、まずは副総合婦人部長の記事を取り上げよう。

しかも会館御入仏式の前日に、全面運転停止になったことには息を呑み、浜岡原発からほど近い浜松会館建立が、仏法のため国のため、いかに大きな意義を持っていたのかと、表現し難い感慨を覚えたものであります。

ここだけ読むと浜松会館が建ったお陰で原発が止まったみたいに読めてしまう。おかしなことを言う人である。

浜岡原発の運転停止を諸天の働きとするのが浅井先生の見解であるが、先般も指摘したごとく、幹部たちはさらにそこから飛躍して「先生のお叫びに諸天が即座に感応した」などと言っている。これもまた神格化そのものであろう。先生をそこまで持ち上げてどうするのかと思うが、上掲の続きにも同様の記述があることを付け加えておこう。

それよりも何よりも問題は次のくだりである。

 もし破局の号鐘となる最初の地震が東海地震であったなら、日本は瞬時に壊滅していたに違いなく、大聖人様が大罰の中にも妙国日本をお守り下さったと、深く噛み締めずにいられませんでした。

これは失言だと思う。確かに同規模の地震が東海地方を中心に起これば被害は甚大だろう。しかし、二万数千人が亡くなっているという現実を思えば、仮定の話などはまったく無意味である。遺族にしてみれば、納得できない話である。

第八婦人部長も似たようなことを言っている。

諸天を動かす大聖人様のお力により、二五〇〇万人の命が救われたのだと涙が溢れ・・・

二千五百万人というのは学者がはじき出した数字であり、いわゆる想定される犠牲者の数である。つまりはこれも仮定の話なのだ。今回の地震・津波の犠牲者が二万五千人だとすると、その千倍の犠牲者が出るとの想定である。逆に言うと今回の犠牲者は千分の一に過ぎないことになる。

だが、しかし、仮定の話と現実の話を混同してはいけない。婦人部の幹部たちの言っていることは、遺族の感情を逆撫でするようなものなのだ。遺族にとっては人数の多寡ではなく、その人にとってかけがえのない存在であることに意味がある。そこに無限の悲しみが凝縮されるのだ。

くだんの学者にしたって、おそらくは同意見に違いない。ようは顕正会が勝手に学者の説を都合よく利用しているだけなのだ。迷惑な話である。

最後に福島の婦人部幹部の記事を紹介しよう。

 東日本大震災が東海地震に先がけて発生したのも、それに伴う福島原発の大事故も、浜岡原発を停止させるためであったと思えば、戒壇の大御本尊様をお守り申し上げる諸天の働きの凄さに驚くばかりであり、また仏法上、福島が「お山」を守るために一分なりともお役に立てた有難さが込み上げ、悲惨な原発事故も「土器」を「宝器」に変えて下さるのだと感謝の思いでいっぱいでした。

何だろう、これは。もはや言葉を失うほどだ。

せっかくなので顕正会員のために言っておくと、運転停止だけでは助からない、廃炉にしないと安心できないのだ。なぜならば福島第一の四号炉を見るがいい。あそこは運転停止中だったのだ。それにもかかわらず爆発して無惨な姿を曝け出している。つまり、燃料を完全に抜いてしまわない限り、事故の可能性はゼロにならないのだ。

2011/6/19

拙ブログの流儀  
多摩準急氏にはご丁寧な挨拶をたまわり、まことに恐縮であります。今後とも拙ブログをご贔屓下さいますよう、お願い申し上げるものであります。また、ユタ氏にもよろしくお伝え下さい。

さて、前回の続きというわけではないが、せっかくだから種々のコメントを考慮して書こうと思う。

正直に言うと、わたくしは内心でおおひがし氏をアホだと思っていた。一種の専門バカであり、山門手前氏のこと以外には何も書けないのかと思っていたのだ。

しかし、それはわたくしのヒガメだった。

信行氏へのレスポンスから始まって、その後の大沢氏とのやりとりを拝見すると、おおひがし氏の言動はひじょうに示唆に富むものだった。のび太氏と同様にわたくしも興味深く読ませてもらっていたのである。

そう言えば犯罪を犯した者も仏教用語で刑罪壊滅?みたいな熟語みたいなのを聞いた事があります。
確かユタ氏のブログで人間手前とか言う人が言ってましたw
私の罪は罪状消滅?で宗教上は許されるとか色々良く判らない事を主張しておりましたが、小生は別にその人の事を名指しして書いていた訳では無いので勘違いされていたようですw
しかし、罪を犯した自覚とそれが許されるという主張を一度に書かれると何か違和感がありますよね、それって免罪符にしていないのかな?とか・・・



刑罪壊滅とか罪状消滅はわざと書いているのかもしれないが、業界的(?)には罪障消滅と書くのが一般的である。

然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか。

此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。

日蓮大聖人の御指南である。ここは法華講員のほうが遥かに詳しいだろうが、わたくしの思うにおおひがし氏の言っていることにも一理ある。再掲しよう。

罪を犯した自覚とそれが許されるという主張を一度に書かれると何か違和感がありますよね

まったくだ。

しかし、ここで注意しないといけないのは、これは大聖人の御指南を正しく拝していないことによる誤謬であって、大聖人の教えが間違っているわけではないことだ。前掲の二つの御文に共通なのは、「無始の罪障」である。平たく言えば過去世における罪のことであって、現世のそれではない。そりゃそうだ。たとえば交通違反でいわゆる反則金の支払いを命じられたとしよう。おそらく法華講員であろうと創価学会員であろうと、あるいは顕正会員であろうと同じである。反則金の支払いが消えることはない。そんな都合のいい宗教が存在するのならば、紹介してほしいものである。そもそも大聖人の仏法は国家との関係をひじょうに重視しているので、そんな自己都合の道理が通用しないことは自明のことなのだ。

おおひがし氏に誤解してほしくないのは、まさに上述のことである。仏法はきわめて合理的なものであって、もし信仰者が正しく理解し、それに基づいて行動するならば、物凄く有益なものなのだ。悲しいかな、現実には正しく理解できていないものだから、それが社会との軋轢を生むことになる。組織的な意味では顕正会がそのヤリダマに挙げられるわけだ。

おおひがし氏のコメントは合計するとかなりの分量になる。ゆえにわたくしはすべてを咀嚼し切れていないのだが、とりわけ二点ほど理解不能のところがあった。

病気から守れなかった最初の我が子を胸に抱いた時から二度と同じ過ちを犯してはならないと誓った・・・

わたくしの読解力では、氏は最初のお子さんを亡くされたらしい、と読めた。ところが後のコメントでは次のごとく書いている。

ちなみに最初の子は結構病気がちでしたが、おかげさまで今ではピンピンしています。

強いて理解するならば、お子さんは病死されたわけではなく、病気に罹ってしまったという意味なのだろう。それを病気から守れなかったと書いているわけだ。
確かに重度の病気であれば、前掲のような表現も必然なのかもしれない。親の思いとはそういうものだ。
しかし、たぶん多くの人がわたくしと同じ読み方をしたのではないか。氏は子供を亡くされたのだと。早い話が前掲はそういう誤解を生じやすい文章なのだ。

ここで山門手前氏との確執に思いを馳せれば、わたくしの疑問も見えてくることだろう。つまり、動機が不明瞭なのだ。なぜそこまで執拗に山門手前氏を責めるのか、それがはっきりしないのだ。おおひがし氏はまだ何か隠していることがある。だから前掲のような意味不明の文章を綴ることになるのだ。

たぶん、氏はこれ以上のことを話せないのだろう。インターネットの片隅とは言え、公開の場である。そこには自ずと限界があるのだ。

さて、二点目の疑問は単純明快である。

これが話題のすり替えと言う論法です、判ります?卑怯な手ですから二度と使わないようにしてください、私の様に故意に使用するのと無意識に使用するのとでは悪質さが違います。

スリカエは卑怯だから二度と使わないように・・・

これはそのとおりだが、後半部分の意味がよくわからないのだ。故意と無意識では悪質さが違う。これもおっしゃるとおりだが、問題はどちらがより悪質であるか、それが大問題である。

おおひがし氏は無意識のほうが悪質だと言いたいのだろうか?

氏は相手の大沢氏に対し、たびたびピュアであると書いている。であれば、スリカエにしても・・・いや、もちろん、スリカエかどうかは別の議論だが、ともかく気がつかず無意識に行なっていることになるだろう。まさかそれを悪質であると言うのだろうか?

わたくしには理解できない。この部分に限って言えば、おおひがし氏は悩乱しているのではないかと思う。

もっとも夜中における連続投稿ゆえの瑕疵、早い話が単なるミスというか、文章の推敲ができていないだけのことかもしれないが・・・

さて、丁寧に大沢様がレスして下さったので恐縮なのですが貴方に対する小生の目的は既に達成されております。

最後におおひがし氏をガッカリ(?)させて、終わりにしよう。

わたくしの思うに、氏の目的は山門手前氏の悪辣非道を周知徹底すること、それによって山門手前氏をネット上から・・・少なくとも拙ブログのコメント欄から抹殺すること、それが目的なのだろう。ゆえに今まで、触らぬ神に祟りなし、を決め込んでいた諸氏が話題に乗ってきたこと自体が、おおひがし氏の目的達成を意味するのだと思う。

ただ、大沢氏も表明しているごとく、それが何の影響ももたらさないのも事実である。

問題は本人が出てくるかどうか、そこに懸かっているわけだが、もし山門手前氏がコメント欄に出てきても、わたくしの対応は今までと変わらないだろう。

それが拙ブログの流儀である。

2011/6/16

もぐら叩きゲーム  
今日の表題の意味は山門手前氏とおおひがし氏の関係をあらわしたものである。どちらがモグラであるかは説明するまでもないだろう。山門手前氏は叩かれたくないので引っ込んでしまった。しかし、古くから拙ブログをご覧になっている人ならば知っているはずだが、実は過去にも同様のことが何度もあったのだ。山門手前氏は毎日のようにコメント欄に登場する。一方のおおひがし氏は滅多に来ない。たいてい忘れた頃にやってくる。すると山門手前氏はたちまち姿を見せなくなる。しかし、ほとぼりが冷めた頃に登場し、再びコメントを残すようになる。この繰り返しなのだ。

わたくしは教行証御書の一節を想起した。

彼の良観が日蓮遠国へ下向と聞く時は・・・

この場合、皮肉なことに山門手前氏が良観で、おおひがし氏が大聖人となる。

山門手前氏は九日の夕方にコメントを残しているが、それ以降はまったく音沙汰がない。おおひがし氏は十日の朝に登場し、わずか数日の間にたくさんのコメントを残していった。いずれも山門手前氏を糾弾する内容である。たまたま山門手前氏が別件で多忙だという可能性もなくはないが、おそらくはおおひがし氏の登場を知って形勢不利を悟って鳴りを潜めてしまったのだろう。

巌虎さん、一言言っておきます
世の中にはね、小生を含めあなたが信じられないくらいクズな人間って居るもんですよ。


独白ブログにはメリットがある。厄介なコメントをやり過ごすことができるのだ。ゆえにわたくしは山門手前氏とおおひがし氏の確執(?)に深入りしないようにしてきた。もちろん、今も深入りするつもりはさらさらないのだが、せっかくだから少しは首を突っ込んでみようかと思う。

小生を含め・・・

これが意味深である。小生はおおひがし氏のことだが、どちらに含まれるのかがよくわからない文章なのである。

トチロ〜さん
小生のやっていた事は間違いですが、言っていた事は本当だったでしょう?


氏は自分のやっていたことが間違いであると自覚している。すると自分もクズの仲間に含まれるという意味にも読めてしまうのだ。山門手前氏はクズである。しかし、自分もクズである。

沖浦克治さん
相手にするほど大物どころかこの国にとって穀潰しですよ、相手にするだけ時間の無駄です。


おおひがし氏は矛盾している。相手にするだけ時間の無駄、そう言っている本人が相手にしてしまっているわけだ。これも前掲のことと絡めて考えると、真面目な人間がクズの相手をするのは時間の無駄だから自分が代わりに相手をしてあげる、と言っているようにも受け取れるわけである。

山門手前
ネットやめたら?


敵意むき出しというか、怨恨のようなものが感じられるところだ。

ここ最近、巌虎さんや他の皆様へ対する暴言もいい目に余るようになってきた事ですし、ここはガツンと一発お見舞いしてやろうかと。
でも巌虎さんに怒られるといけませんので様子を見ながらネチネチ頑張りたいと思います。


前半部分の暴言云々はさしたることではないと思う。誰もが自分の意見を言える環境にある。アク禁のようなことをするつもりはないので、それぞれが己の主張を展開すればいいのだ。つまり、山門手前氏が暴言を吐いたとしても、それはそれで結構なことなのだ。その暴言に我慢がならないと思えば、言い返せばいいだけの話である。

後半部分が悩ましい。上述のごとく、怒るも何もないのだ。おおひがし氏だけアク禁にするわけにもいかないので、好きなようにお書きになればいい。それにしてもネチネチという言葉がまた象徴的である。氏の不気味さをよりいっそう強めていると思う。

また、このブログの管理人さんを無視してまで警告を発し続けています。
静かに我慢し静観して下さる巌虎さんには大変申し訳ないと思っております。


おおひがし氏はいちおう正常な判断能力をお持ちのようである。わたくしは我慢しているわけではないが、静観している点はまさにそのとおりである。それについて申し訳ないと思っておられるわけだから、氏は正常である。つまり、他人に迷惑を掛けることを承知しつつも、やむにやまれぬ思いから行動しているわけなのだ。その具体的な内容についてはつぶさに検討しないと是とも非とも言えないが、時には非常手段も辞さないという考え方にはわたくしも共感するところがある。もちろん程度の問題であって、その辺はいわゆる社会通念上の判断に委ねられるところなのだろう。気持ちはわかるが、そこまでやるのはいかがなものか、というような場合もあるわけだ。

奴も「ごめんなさいもうネットやめます」とだけ書いてネットから消えるのであれば小生も黙って消えるのですがねぇw

これが一連の書き込みの最後の一行である。山門手前氏の性格からして「ゴメンナサイ」は口が裂けても言わないだろうが、結果的にはネットから姿を消してしまった。そういうわけでこれ以降、おおひがし氏も書き込みをしていないので、今回はこれで終了となるのだろう。

多摩準急

ついでに言えば、この人の登場がわたくしには腑に落ちない。どうやらユタ氏の友人のようである。しかし、このような人が拙ブログをチェックしているとはとうてい思えない。ゆえに、どうしてお出ましになったのか、その辺の事情がよく理解できないのだ。

ともかく今日はこれで終わりにしよう。

2011/6/9

反原発と御遺命守護  
トチロ〜氏よりコメントをたまわった。

帰るなら今をおいて他にはない・・・

時間が経てば経つほど帰りづらくなる。実はもうすでに帰りづらい状況になっているわけだが、それでも帰る気があるのならば今をおいて他にないということなのだろう。いわば最後のチャンスであろうか?

山門手前氏のおっしゃるとおり、津波対策をしっかりやっておれば今の惨状は回避できたかもしれない。ただ原発事故に限らず、あらゆる事故が後の祭りなのだ。ああすればよかった、こうすればよかった、後から言うのは簡単である。そこで反原発論者たちは単純明快な結論を述べるのだ。そんな危険な発電方法は最初からやらなきゃいいのだ、と。

ポリ銀氏の記憶同様、わたくしの記憶もアイマイだが、たぶんそれは質問会の回答だろうと思う。新潟だったかもしれない。おっしゃるとおり、当時の浅井先生は原発肯定派だった。しかし、わたくしの記憶では積極的な意味での肯定ではなく、現状肯定というか、日本は資源に乏しいので致し方ない、というようなニュアンスだったと思う。日本の技術力ならば安全に運転できるという、いわゆる安全神話に乗っかっていたのも事実だろうが、将来的には核融合がどうのこうのとも言っていた。この核融合も今となっては疑問だが、当時は未来の技術として期待されていたのだと思う。

浅井先生とて全知全能ではない。ゆえに発言の内容をつぶさに吟味すれば、その時代を反映しているはずである。世論に迎合するわけではないだろうが、いくらかは世論に引っ張られているのだと思う。

原発はすべて廃止すべき

そこで顕正新聞第1208号に入るが、五月度総幹部会における会長講演で浅井先生は反原発を打ち出した。

 それに替わる代替エネルギーも、当面は火力発電で、そして将来は太陽熱・地熱・水力等の自然エネルギーでやるのです。

まともなことを言っていると思う。

やがて浜岡原発は必ず廃炉にまでいたると、私は確信しております。

現時点ではかなり踏み込んだ発言である。浅井先生は戒壇本尊第一主義者であるから、大石寺ないし戒壇建立地が放射能で汚染されることは何としても避けたいのだ。

チェルノブイリのごとく、二十年もそこに立ち入ることができなくなったら・・・

たぶん政府の公式見解としては津波対策が完了した時点で浜岡を再開することになっているのだと思う。ゆえに廃炉になるかどうか、現時点では微妙なところだ。しかし、もし数年後に浜岡が再開されたとしても、この件で先生の予言が外れたとか言うのは控えたい。やはり廃炉が本筋だと思う。さらに言えば、前々回の拙稿に示したごとく、すべての原発を廃炉にすべきなのだ。戒壇本尊第一主義の究極はそこにあることに気がつかないといけない。

いずれにしても浅井先生がここまで踏み切ったことを言えたのは、世論の動きと関連してのことだ。

御遺命破壊の謀議こそ亡国の根源

浜松講演と五月度総幹部会講演は基本的に同じである。前半部分で原発問題に触れ、後半部分で御遺命守護に言及している。誰もが容易に気づくことと思うが、原発問題と御遺命守護は相似をなしている。次の部分がいちばんわかりやすいだろう。

学会は国立戒壇を否定して正本堂のたばかりを守るためには、宗外の学者まで動員した。東京電力が学者を動員したのと、まことによく似ている。

なるほど、浅井先生が原発問題の事情に精通すればするほど、反原発に傾くのも頷けるところである。

さて、問題はこの先である。原発問題は福島での惨状を目の当たりにした多くの国民が問題意識に目覚め、大きく動き出した。では、御遺命守護はどうか、である。どうもこの辺がわたくしには見えてこない部分なのである。多くの国民が御遺命守護の戦いを知れば、あるいは顕正会の肩を持つのかもしれない。しかし、はたして国民が日蓮正宗という一つの宗派の騒動に関心を寄せるかどうか、そこが疑問なのである。宗門と創価学会の問題にしても、あれから二十年も経って、今では一般人の関心から大きく外れてしまっているように見える。いわんや顕正会など眼中にないだろう。つまり、顕正会の御遺命守護が国民の関心事になることはひじょうに考えにくいことなのだ。

そこで浅井先生は他国侵逼を持ち出すのだろう。まさにこれならば国民の関心事そのものである。

ただ残念なことには、これは御遺命守護ほどには顕正会の専売特許とはなり得ないことである。過去の日蓮主義のことを思えば、今は静かにしている日蓮宗諸派もいずれは他国侵逼を言い出すことはじゅうぶん考えられるし、他国侵逼という言葉は使わないにしても他の宗教でも同様のことを言い出すことは自明のことだと思う。先にも書いたごとく、世論に迎合するつもりはなくとも、自ずと世論に引っ張られるものだからである。

その時に、顕正会は前々から主張していた、と胸を張ったところであまり意味はない。結局は宣伝が上手なところが伸びていくのだ。つまり、最悪のケースを言えば、前々から他国侵逼のことを主張していた顕正会が肝心な時には埋没してしまうことだってあり得るのだ。

以上、今回の会長講演は反原発と御遺命守護を比較対照させる見事な構成ではあるが、はたして顕正会の存在が今の原発問題のように広く国民に認知されるようになるかどうか、そこが甚だ疑問なのである。

2011/6/8

幹部たちのオベンチャラを斬る  
前回の拙稿もマヌケだった。

早い話が不安を煽ることだけが目的であり、停止だとか反原発だとか言うつもりはさらさらなかったのだ。

もし、地震そのものは不可避のことだが被害を少なくする努力は当然必要である、と言うのであれば、浜岡のみならず日本中ないし世界中の原発を停止すべきだろう。残念ながら浅井先生の発言には、そこまでの踏み込みがない。

この直後に顕正新聞の最新号が届いた。そこには五月度総幹部会の会長講演が載っていて、上掲のわたくしの言葉をことごとく覆しているのだ。

 こんどの巨大地震で、初めて原発の危険性が白日に晒されましたが、私は原発はすべてやめるべきだと思っております。

ここまで明言すれば立派なものだ。もちろん賛否両論があるのは当然のことで、今なお原発の必要性を説く人もいないわけではない。この辺の議論は別の機会に譲るけれども、ともかく顕正会としての態度をはっきりさせたことに価値があると思う。いや、もちろん、もし会員の中に原発賛成の人がいたとしても構わない。これは教義上の問題とは次元が異なるので、多様な意見があったとしても差し支えないのだ。

浅井説によると「地震」で原発の事故が起こったような表現が各所にみられますが、本質的には、地震ではなく、地震後の「津波」による事故です。

わたくしは山門手前氏の意見に反対である。たとえば関東大震災の場合、犠牲者の大半が火災で亡くなっている。それを本質的には「地震」ではなく「火災」であるなどと論ずる人はいないはずなのだ。ゆえに今回の場合も本質的な意味で言えば地震で正解なのである。実際、福島第一原発は津波以前に地震の段階で破局的なダメージを受けていた、という説を唱える専門家もいるくらいである。もし、それが事実ならば、山門手前氏の意見は大間違いということになるだろう。

孫さんは、反原発というよりも「ご自分の商売」の種になる事にのみ関心があるだけで、反原発とは関係ありません。

なるほど、言われてみればそんな気もするが、しかし、腹の内がどうであれ、掲げている看板が立派であれば、いちおうは評価すべきだと思う。孫氏が何かアコギなことをやっているという決定的な証拠があれば、そこで評価し直せばいいのだ。


関東大震災の折、大石寺も大きく揺れたのですが、御僧侶二人が御戒壇様を御守りしようと御宝蔵に向かったところ、天から
「動かすに及ばぬ」
という声がしたので、御僧侶は顔を見合わせて、結局御戒壇様は御宝蔵にそのままいらっしゃることになったという話であったと思います。


この話はわたくしもリアルタイムで聞いていた。二人のうちのどちらかが後に池袋の常在寺の住職となられ、何かの折に浅井先生に語ったのだった。

わたくしの感想を言えば、先生もかつては御僧侶とたくさんの面識を得ていた、しかし、そうした御僧侶方もその大半がお亡くなりになられ、今では顕正会とのパイプ役となり得る存在がいない・・・大沢氏のコメントの趣旨とは異なるが、これがわたくしの偽らざる感想である。

さて、前回に引き続き、今日も浜松会館の記事を中心に書く。

冨士大石寺顕正会 浜松会館

まずはどうでもいいことから書くが、男子部第八十隊長の記事に上掲の表記がある。相変わらずいい加減なものだ。正式(?)には大石寺と顕正会の間に半角スペースを入れるのが顕正新聞における正しい表記であり、実際の看板もそうなっている。ゆえに上掲は誤植である。

 先生は浜岡原発の深刻な問題に言及されましたが、そのわずか数日後、菅首相が中部電力に要請し、浜岡原発が停止となった事態には、先生のご発言の重さを痛感し大感激いたしました。

いよいよ本題である。これは女子部総務・第十一女子部長の記事であるが、いかがなものかと思う。たぶん顕正会の活動会員たちにはそれほど違和感がないのだろう。いったい、どこが問題なの? ぜんぜん問題ないでしょう? と思うに違いないのだ。

浅井先生の原発に対する姿勢は直近の五月度総幹部会で明確となり、わたくし自身はもはや責める必要を感じなくなりつつあるが、しかし、弟子たちの発言には問題を感じざるを得ないのだ。

先生のご発言の重さ・・・

これがハタから見れば物凄くコッケイなのだ。

何度も書いてきたが、平成十六年に一国諫暁を行なった。あるいは平成九年にも行なった。実はそれ以前にも鈴木善幸首相の時に諫暁を行なっているのだ。
おわかりだろう、相手が素直に耳を傾けるかどうかは別であるが、ともかくアクションを起こしたという事実が重要なのである。
では、今回の場合はどうなのか、そこがポイントである。結局のところ、内輪で話をしただけのことであって、相手には伝えていない。政府に対して原発を止めろということを、浅井先生が何らかの形で伝えたという話はまったく存在しないのだ。

ところが、熱心な活動会員たちは先生を特別な存在だと思っているから、内輪だけの発言であっても影響力があると思い込んでいるのだろう。これが物凄くコッケイなことであることに気がつかないから、さらに次のような発言も出てくるわけである。

 しかしながら本日の御入仏式に符節を合わせるごとく、浜岡原発全面停止に至ったことは不思議でならず、これすべて浜松会館建設を以て戒壇建立の地・静岡を守らんとされる浅井先生のお心に感応する諸天の働きと、思わずにいられませんでした。

浅井先生のお心に感応する諸天の働き・・・

第三男子部幹事・第二十九隊長の発言である。まるで大聖人と浅井先生が同一境界であるかのような、そんな感じにも聞こえてしまうくらいである。次の婦人部富士支区部長の文章も同様だ。

 先生が
 「震源域の真ん中に位置する浜岡原発で大事故が起これば、東京や名古屋も強い放射能汚染を受ける」
 と叫ばれてよりわずか十四日、本日を目前に停止したことは偶然とは思えず、先生のお叫びに諸天が即座に感応したと思えてならず、大感動いたしました。


先生のお叫びに諸天が即座に感応した・・・

浅井先生がそんなにスゴイ人ならば、今までの予言もすべて適中させることができたはずなのに、どうして外れてばかりだったのだろうか?

最後に少しだけ擁護的なことを書いておこう。

浜岡原発に至近の距離の浜松に会館を建てた。その完成と原発停止の時期が符合したのは確かに不思議なことである。これは狙っても当たらないことだ。なぜならば会館建設は活動会員数の増加が必須条件であり、原発の問題とはまったく無関係だからである。

しかし、この不思議な符合をことさら強調し、あたかも浅井先生が諸天を駆使し得るかのように宣伝するのはいかがなものかと思う。すぐにやめるべきだ。

2011/6/6

浅井先生の浜松講演を斬る  
最近の拙ブログの特徴は拙稿とコメント欄がリンクしていないことである。拙稿とは関係なく、コメント欄だけが勝手に独り歩きしていくのだ。その理由の一つは沖浦氏にあるのだろう。氏は各方面で出入り禁止になっている。とりわけ日蓮正宗系の掲示板から追放されることが多い。氏は正宗信徒との議論を欲しているのだろう。そこで拙ブログのコメント欄が格好の媒介となるわけだ。わたくしとしては出入り禁止にするつもりはまったくないので、正宗信徒たちが応戦を続ける以上はいつまで経っても終わらないだろう。

それはそれでけっこうなことだ。

先日、山門手前氏から「貴殿は顕正新聞のみを論拠に」云々のコメントを頂戴したが、まさに氏の指摘がピタリと当てはまる事案が発生した。

小出裕章、後藤政志、石橋克彦、孫正義

本日午後より、上掲の四氏が国会に招致されるそうだ。たぶん顕正会員に馴染みがあるのは石橋氏くらいであろうが、この四人がどういう括りになるかと言うと、いわゆる反原発論者である。


これは五月二十三日の拙稿であるが、本部首脳ないし顕正会の活動会員たちはどう思ったことだろうか?

実はこれより一週間も前に、顕正会の幹部たちは小出裕章氏のことを聞き知っていたのだ。五月十五日に浅井先生がしゃべっているからである。
ところがわたくしはまったく知らなかった。ゆえに上掲のごとく、顕正会員に馴染みがあるのは石橋氏くらいだろうと書いたのだ。
結局、これは山門手前氏の指摘が正しかったことになるだろう。わたくしは顕正新聞が届くまで、浜松会館での会長講演の内容をまったく知らなかった。それはまさに顕正新聞のみが情報源だからである。
顕正会ウォッチャーの中には活動会員と通じていて即座に情報を入手できる人もいるかもしれないし、あるいは自らがスパイのごとく顕正会の集会に潜入することもあるのかもしれない。
それに比べれば、わたくしのやっていることがいかにノンビリであるか、一目瞭然だろう。

もっとも自分ではそれでいいと思っているわけだが・・・

さて、気を取り直して本題に入ろう。顕正新聞第1207号には浜松会館での会長講演が掲載されている。

浜岡原発 全面停止!

これが会長講演の前半部分の目玉である。

浅井先生は四月度総幹部会で浜松会館用のネタを仕込んでおいた。こういうのを伏線と呼ぶのだろう。その時にも浜岡原発に言及しているわけだが、静岡県民にとっての関心事であれば、これを五月十五日に浜松に行って詳しく論ずるであろうことは必然の流れだ。

しかし、ここにはじゃっかんの欺瞞がある。

もちろん浅井先生は凡夫であるから先のことはわからない。ゆえに予期せぬ出来事が起こっても仕方がないわけだが、わたくしの思うに、どうも浅井先生にとって浜岡停止はまったくの想定外だったらしいのだ。

その想定外の事象を講演に取り入れざるを得なくなって、結果的に内容が少しチグハグになってしまった・・・わたくしにはそのように感じられるのだ。

まず、表面的な欺瞞から指摘しよう。

 ところが――。突如、全面運転停止になってしまった。浜松会館御入仏式の前日に、突然停止になったのです。何とも不思議ですね。

インチキ臭い文章だ。突如とか突然というのは事実誤認に近いだろう。ある意味、あえて印象操作を狙っているとも受け取れるところである。
突如ないし突然の言葉が相応しいのは菅総理の緊急記者会見であろう。それは五月六日のことである。その後、中部電力が総理の要請を受け入れて停止したわけである。
ゆえに、実際に運転が停止になった日付がいつであろうと、それを突如ないし突然と表現するのはおかしなことなのだ。

これがまた同時に、浅井先生にとって浜岡停止が想定外の出来事だったことの傍証ともなり得るところが面白い。先生にとってはまさに突然の出来事だったのだ。

直接的な証拠は四月度総幹部会の会長講演にある。具体的な文章は省略する・・・というよりも、話が逆なのである。つまり、浅井先生は浜岡原発の危険性を口にはするものの、それを停止すべき旨の発言をしていないのだ。どこにも証拠がない。早い話が不安を煽ることだけが目的であり、停止だとか反原発だとか言うつもりはさらさらなかったのだ。

ところが突然停止になってしまった。そこでこれをどのように解釈するか、浅井先生としても困ったわけである。

 しかし、動機はどうであれ、結果的にそれが、仏法のため、人のためになればいいではないか。「文句あっか」ということです(大笑)。
 これは、本人にもわからんでしょうが、諸天の働きなのです。
 諸天が菅総理を動かしたのだと、私は思っております。


これが浅井先生の解釈である。わたくしに言わせれば、その場しのぎのヤッツケ解釈だ。

広布前夜の大罰の時代到来

これは三月度総幹部会の会長講演であるが、ようは東日本巨大地震についての先生の見解である。今回の地震はまだ序の口であって、これから次々と巨大地震が連発するというのが先生の主張なのである。
つまり、この整合性からすれば、浜岡停止は都合の悪いことなのだ。なぜならば四月の講演では浜岡の危険性を取り上げたものの、それは巨大地震に伴なう災害の一形態として説明していたからである。ようは放射能の恐怖も大罰の一つの姿であると、このように捉えていたのだ。
もし、地震そのものは不可避のことだが被害を少なくする努力は当然必要である、と言うのであれば、浜岡のみならず日本中ないし世界中の原発を停止すべきだろう。残念ながら浅井先生の発言には、そこまでの踏み込みがない。

しかし、活動会員たちはそこまで気がつかないだろう。とりわけ静岡の顕正会員にとって浜岡停止は慶事であるから、今回の浜松での会長講演はひじょうに心地よく感じられたに違いない。

 この浜松会館は浜岡原発からわずか三五`ですよ。だから東京よりも、名古屋よりももっと危ない。
 しかし、私が心の奥で最も心配していたのは、お山のことです。戒壇の大御本尊まします富士大石寺が、もし「警戒区域」になったら、いったいどうなるのかと、私は憂えていた。


この辺は本心なのだろう。伏線かどうかわからないが三月度の総幹部会では、震度六強だった富士宮の地震に言及している。この時すでに福島の状況が抜き差しならなくなっていたので、わたくし自身も浜岡のことが頭によぎったくらいである。

大沢氏も言っていたごとく、大石寺を中心に考えるならば今回の浜岡停止は画期的なことである。しかし、沖浦氏はこれに反論する。わたくしは必ずしも両者の中間的立場ではないが、最終的にはすべての原発を停止することがもっとも望ましいことだと思う。理由は簡単だ。戒壇の大御本尊の御座所はどこかと尋ねれば、別しては大石寺であるが、広義の意味ではこの地球上がそれに当たる。ならば浜岡が止まればそれでよしという理屈にはならないだろう。

2011/6/2

行列のできる日は来るのか?  
偉そうなことを言える立場ではないが、正当此時御書については大沢氏のお考えのとおりだと思う。さらに付言すれば、わたくしは三大秘法抄との類似性を考えている。

予年来己心に秘すと雖も・・・

ここまで書けば充分だろう。いずれにしても正当此時御書は断簡なので、はっきりしたことは言えない。何しろ本尊抄のようにぜんぶが残っている御書でさえ違った解釈が存在するのだから、いわんや断簡においてはなおさらのことである。

内閣不信任決議案の可否は微妙なところだ。多くの人が指摘するように、次の顔が見えてこない点が悩ましい。今の総理の不人気さは気の毒なくらいであるが、さりとて次の顔が見えてこない。結局、今の政治状況では誰が総理になってもダメなのではないか。政治家たちもそれがわかっているから、積極的に打って出る人がいない。ある意味、政治家も打算的なのだろう。こういう時にこそ名乗りを上げるのが本物の政治家のはずなのだが・・・

顕正新聞が届いているけれども、今日は古い新聞から片付けたいと思う。

今回の地震発生と余震の連続、ことに福島原発の事故発生により、海運事情の変化は興味深く、海外船の日本への寄港を回避する動きの中でも、とくに重要な輸入物資の船舶の占有率が高い中国船が用船市場からいち早く撤退した状況に、来るべき兵糧攻めの先相を見た思いとなりました。

第1204号に載る男子部支隊長の活動報告である。

この人は海運会社に勤めている。ゆえに上掲には専門用語がたくさん出てくるけれども、言っていることは簡単である。原発事故による放射能汚染が怖くて、外国の船が日本に入って来なくなった。ことに中国の船が顕著である。おおむねこんな話であろう。

来るべき兵糧攻めの先相

それにしてもこのくだりが凄い。顕正会員の思考というのは、なんでもかんでも他国侵逼に結び付けてしまうものらしい。以前に書いたけれども、わたくしはまったく逆の解釈をしている。ようするに、はたして中国が放射能まみれの日本を欲するか、ということなのだ。

ところで上掲の記事の続きには次のようなくだりもある。

震災翌日に中国人パート十数名が一斉に帰国

発表している本人がどう思っているか知らないが、この部分はわたくしの主張を裏付けるものである。実際、中国人のみならず外国人全般の姿をあまり見ない。外国からの旅行者も激減してしまった。ヒドイ話もある。日本人と結婚してすでに子供までいる中国人が、なんと家庭を放棄して単独で祖国に帰ってしまったというのだ。

こんな状況では他国侵逼どころの話ではないだろう。

そうそう、ちなみに当該記事には、日本に寄港するなら船を降りたいという外国人船員が出始めていることなどを受け取り、今後の事態の推移を真剣に憂慮する、と書かれている。なるほど旧壮年部の人なので、そんなに非常識ではないらしい。おそらく拙ブログを読めばそれなりには理解することだろう。

三・四月の法戦こそ、一五〇万への関所であると私は密かに思っていた

さて、今度は折伏成果について書く。顕正会は昨年の最後の法戦で負け、本年最初の法戦でも負けた。そういうことで浅井先生も心中穏やかではなかったのだろう。それが蓋を開けてみると、目標一万四千に対して一万六千を超える成果を上げることができた。そこで上掲のごとく密かに思っていたことを吐露したわけだ。

以下、第1206号の記事を中心に書く。

わたくしの思うに、今回の戦いも相当に厳しかった、三回連続での負けはなんとしても避けたい、絶対に負けられない戦いである。ゆえに上からのプレッシャーが物凄かったと思われるのだ。その片鱗が第三婦人部長の記事にあらわれている。

第三婦人部もかつてない苦戦ながらも・・・

穿った見方かもしれないが、第七男子部長の記事にも垣間見ることができる。

次なる法戦には全組織が誓願大突破の爆発的大折伏を成し・・・

こういう書き方をする以上は、一部にせよ不本意な結果に終わってしまった組織があったのだろう。

さらに、次の副総合婦人部長の記事が凄い。

 このたびの大震災は、地上で戦う地涌の菩薩にとって大きな援護射撃だったと、いま強く感じております。

これは本音なのだろうけれども失言である。震災で多くの人が亡くなっているのだ。それを援護射撃と言ってしまったらマズイだろう。遺族の心証を著しく損ねるものだ。
浅井流罰論の弊害だろうか、今回の一連の記事の中にも逆縁だった人が津波に呑まれたとか、創価学会員の家が流されたとか、そういう記事がたくさんある。
もっとも彼らは純粋に罰を信じているのでまだカワイイものかもしれない。しかし、上掲の場合はそうではなく、組織が伸びればそれでよしという自己中心的な考えばかりで、犠牲者のことなど眼中になくなってしまっているのだから始末が悪い。

それはともかく副総合婦人部長の本音から窺えることは、やはり今回の戦いがひじょうに厳しかったことである。もし震災がなければ負けていたかもしれない、震災が原動力となって大折伏ができた、と彼女は言いたいのだ。

わたくしは思う。その割には少ないのではないかと。

諫暁書出来の頃に在籍していた人ならば聞いたことがあるだろう。当時は内輪で言っていたのだ、いずれ諫暁書に記されたことが事実となったならば、会館に入信勤行の行列ができる、と。

ゆえに、一万四千の目標を二千ばかり上回ったくらいでは、お話にならないのだ。これが目標の二倍三倍ともなれば度肝を抜かれることになるが、現状ではまだそこまでの勢いとは言えないだろう。三連敗はなんとしても避けたいという思いで頑張った結果、勝つことができた。その程度の話だと思う。

次の六・七月の結果が注目されるところである。

震災関連の体験発表・活動報告などが本物であれば、上昇気流に乗って次の戦いもかなりの好結果が期待できる。しかし、記事がニセモノであれば、自ずと結果もよくないだろう。どちらに転ぶか、注目したいと思う。

最後にオマケを一つ。

瓦礫の中の金庫に松野抄を命に刻む

拙ブログをよくお読みになっている人ならば、わたくしが何を言いたいか先刻承知であろう。

まったく、わけのわからん構文だ。


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