2011/7/30

聖人賢人再考  
今日はまず、七月十二日の拙文を示す。

浅井先生の宿題は伝教=賢人とする御文を挙げることである。すべての御書を確認するのは容易ではないが、わたくしの知る限りでは伝教=聖人とするのが大聖人の常の御表現である。

今頃になってようやく気がついた。大沢氏から、あるいは沖浦氏から、重大なヒントを頂戴しておきながら、ちゃんと調べなかったことを反省しなければいけない。

賢人と申すはよき師より伝へたる人、聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり。仏滅後、月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり。所謂天台・伝教の二人なり。此の二人をば聖人とも云ふべし。又賢人とも云ふべし。

妙密上人御消息の一節である。もちろん、基本的には天台・伝教を聖人とするのが正しいわけだが、上掲のごとく賢人とする捌きも存在するのだ。今回の一件はわたくしの不勉強が暴露された格好である。これはある意味、浅井先生らしいヒネリとも言えるだろう。

いや、そうではなくて、日妙聖人と伝教大師との比較相対を明確化したと考えるべきかもしれない。世間一般の価値判断からすれば、伝教大師のほうが遥かに位が高い。しかし、諸法実相抄の男女は嫌うべからず云々の御指南を併せて拝するならば、立場が逆転するのだ。さらには撰時抄の彼の天台の座主よりも・・・との御指南も有効であろう。下種仏法の筋目からすれば、むしろ浅井先生の言っていることのほうが本筋なのかもしれない、というのが今回の結論である。

顕正会に詳しいわけではないが、九電以上におかしな組織が顕正会であるときいておる。
上から下への命令が絶対服従であるとか、門外の情報を遮断操作するなど。
違うのであろうか。


信行氏のコメントである。

九電以上におかしな組織かどうか知らないが、「門外の情報を遮断操作する」という点はそのとおりなのだろう。これは櫻川氏が『迷走する顕正会を斬る』で指摘していることだ。同書の中から代表的な一節を掲げておこう。

 浅井氏は常に情報統制をして、都合の悪い情報は講員・会員に伝えない。

この一文を証明することは簡単だ。『迷走する―』が世に出てからすでに丸二年が経過するにもかかわらず、浅井先生はこの本を一度も話題にしたことがない。まさに顕正会にとって都合の悪い情報なのだろう。

上から下への命令が絶対服従・・・

この点について感想を言えば、なるほど定着率が悪いのはこれが理由なのかもしれないと思った。それが仕事であれば仕方がない面もある。上司の命令を聞かざるを得ないのは、早い話がそれで金をもらっているようなものだからだ。しかし、それとて今の時代は職業選択の自由もあるし、思想信条の自由もある。ゆえに、どうしても命令がイヤならば職場を去るという手段を取ることも可能である。ましてや顕正会は職業ではない。一部の本部職員を除けば、無償で奉仕しているわけだ。そうなると、幹部からムチャなことを言われれば、反発をおぼえても不思議はない。命令などは論外だ。なんでアンタの命令を聞かなきゃいけないんだ、バカバカしい、ということになる。

もちろん、浅井先生もこうした問題には敏感で、後輩を追い詰めてはいけない、共に励まし尊敬し、麗しい団結を、というような意味のことを繰り返し言っている。こうなると、あとは現場の問題というか、幹部たちの自覚の問題なのだろう。しかし、いずれにしても構造的な意味では折伏誓願がある以上、いつまでも同じことの繰り返しであることは以前にも指摘したつもりである。

さて、今日は残りのスペースで第1212号をやっつけてしまおう。

 最も危険な浜岡原発が諸天の働きにより全面停止したごとく、先生の師子吼に必ず諸天は感応し、巨大地震の連発に間に合いすべての原発廃止が実現すること、大確信したものであります。

婦人部相模支区部長の記事であるが、これはある意味、浅井先生を追い詰めているのではないかとも思える文章である。

そもそも浜岡停止が諸天の働きと言えるのかどうかが疑問である。つまり、ここが崩れてしまえば、以下の文章も成立しないことになるのだ。
まあ、ここはいちおうクリアしたことにしよう。浜岡は諸天の働きで停止した。さて、次はすべての原発である。諸天は先生の師子吼に感応しないといけない。諸天も忙しくて大変だ。
馬鹿にしているように聞こえるかもしれないが、そうではない。原発そのものは人為である。つまりは人間が作ったものである。ゆえに国民の大多数が反対すれば明日にも止まるのだ。自然現象とは次元の異なる話である。
むしろ顕正会のほうが馬鹿にしている。真面目に反対運動をしている人たちを馬鹿にしているのだ。

上掲の記事にはもう一つ興味深いことが書かれている。ようするに巨大地震の連発の前に原発が止まることである。単に運転が停止になるのではなく、全面廃止というのだから凄いことだ。

わたくし個人は即時廃止でもいいと思っている。しかし、脱原発を主張する人たちにもいろいろな意見があって、たぶん段階的に廃止していく考え方がいちばん多いのではないかと思われる。その時間的スパンもさまざまで、五年から十年とか、十年から二十年とか、おそらくは種々雑多の意見があるのだろう。この辺は今ちゃんと調べて書いているわけではないが、おおむね上述のごとくで間違いないはずだ。

何が言いたいか、おわかりだろう。顕正会は「あと十年」と言っているのだ。すると原発の段階的廃止は採らない。スケジュール的にツジツマが合わなくなるからだ。少なくとも五年以内に廃止しないといけない。何しろ、その後には巨大地震の連発が待っているのだから、原発廃止が遅れれば遅れるほど、「あと十年」が延び延びになってしまうのだ。

しかし、これはあくまで相模支区部長の記事を根拠に書いていることなので、顕正会の公式見解とは異なっている可能性もなきにしもあらずであることを付言しておきたい。

101歳の祖母が眠るような良き臨終

女子部総班副長の体験発表である。いい記事だと思った。ただ惜しむらくは、この人の祖母は特別養護老人ホームで最期を迎えた、ということである。老人ホームを否定するつもりはないが、できる限りは家族が協力し合って自宅で面倒を見るべきだろう。もちろん、口で言うほど簡単なことではない。しかし、いい記事なだけに、その一点が逆に惜しまれるのだ。

2011/7/27

顕正新聞第1212号を読んで  
大沢氏には貴重な資料の提示をたまわった。

第三十四世日真上人

顕正会員は歴代上人のほんの一部しか知らない。それはわたくしを含めてだ。日真上人のことはまったく存じ上げなかった。ご紹介の文献はわたくしの能力では相当に難読であるが、しかし、こうして折に触れ学ぶことによって、多少は進歩していくことができるだろう。ありがたいことだ。

さて、今日は顕正新聞第1212号の話題である。

 すでに広宣流布は最終段階の直線コースに入っている。

改めて紹介するまでもないが、一面に出て来る文章なので注目しておきたいと思う。六月十二日の日曜勤行における浅井先生の指導である。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1469.html

ところで、それとは別に気になっていることがあって調べてみた。リンク先には何が書かれているかと言えば、日曜勤行の記事に使われている浅井先生の写真は同じ写真の使い回し、ということだ。すでに一年以上も同じ写真を使い続けていることになる。

マンネリズムもいいところだ。

ある意味、先生の広宣流布の青写真もマンネリであり、直線コースこそ今年になって言い出したフレーズであるものの、最終段階はもうずいぶん前から言い続けていることである。これでもし組織そのものがまったく伸張せず、逆に停滞ないし後退しているとすれば、もはや終わっているとしか言い様がないだろう。

ゆえに本部首脳としては、なんとしても組織が発展していることをアピールしたい。そこで同じ一面に、六月度の班長会の参加人数を載せている。

 参加者の三者合計(全国会場)は過去最高の一万六千九四三名。

わたくしはカッコの全国会場が気になった。たぶん初めての表記だろうと思う。

現在、班長会は青年会館で行なわれている。会場のキャパシティもあるだろうし、遠隔地の人がまさか毎月参加するわけにも行かないだろう。ゆえに、かなり以前から記事になっていたと思うが、大所帯であるところの女子部などは地方会館でも同時中継の形で班長会を開催していた。たぶん男子部・婦人部も同様と思われるので、全国会場は今に始まったことではないはずである。よって、今さら全国会場を標榜したところで何の意味があるのか、それがよくわからないところだ。

それはともかくも、今後は班長会の参加人数が顕正会のバロメーターになるだろう。

最終段階の直線コースであれば、月々に水かさを増していかねばおかしい。それが一年経っても二年経ってもあまり変わらないとすれば、文字通りの停滞であり、後退とも言い得るだろう。
少なくとも地方会館は今もコンスタントに新規の建設が進んでいる。すると青年会館だけの集計では限界があるにしても地方会館の集計を含めれば、自ずと参加人数の増加が見込まれるはずなのだ。
つまり、広宣流布は最終段階であること、そして地方会館建設というインフラ整備が整いつつあること、この二点から考えて班長会の参加人数が増加しないはずはないのだ。

わたくしが皮算用をしても無意味であるが、理想は倍増であろう。一年後に三万人の班長会を実現できれば大したものだ。まあ、そこまで欲張らなくても、毎年一万人ずつ水かさを増していけば満足である。はたして現実はどうか・・・

九電「やらせメール」で民意捏造
 学会の「K対策」と手口が酷似


新コラム「時流」の見出しである。九州電力のやらせメール事件は有名な話であるから説明するまでもないが、今回のコラムの面白いところは創価学会の顕正会対策を例に取って九電を糾弾していることである。つまり、今回は九電が主役であり、創価学会はあくまで脇役なのだ。
それはともかく、この一事をもってしても日本における原発の未来はないと考えざるを得ないだろう。ヤラセのメールにどれだけの力があるかわからないが、そもそもこれは原発推進派だけの専売特許ではなく、反対派にも利用可能なことである。このように書くと違和感があるかもしれないが、早い話がインターネットというツールは万人に開かれたものなのである。
今のテレビ・新聞はまだ真実を充分に伝えているとは言い難い。しかし、インターネットを開けば、テレビ・新聞で報じていないような情報がたくさんあって、それが容易に得られるのだ。ネット上では反原発が圧倒的な勢力を誇っている。
つまり、九電のヤラセなどは焼け石に水であり、それが発覚したとなればなおさら墓穴を掘るだけの話であって、原発はますます疎まれるだけの存在にならざるを得ないのだ。

また、前回の話題で触れた対面法論に関連して言えば、原発問題で推進派と反対派の討論が行なわれたことがあった。なんと動画サイトには、東大の大橋氏と京大の小出氏の一騎打ちとも言える討論が記録されているのだ。震災が起きる遥か以前の話である。

東大の大橋教授は権威を笠に着てのことか、自信満々に事故は絶対に起こらない旨、主張していた。しかし、現実に事故は起きた。その後の大橋氏の消息はどうなったろうか、わたくしは知る由もないが、一説には雲隠れしてしまったとも囁かれている。

これにしてもインターネット普及以前であれば時間とともに忘れ去られていく出来事であったろうが、今は違う。永遠に残るのだ。

原子力安全・保安員

最後に「時流」の記事から誤字を指摘しておこう。上掲は保安院が正しい。わたくしのパソコンも保安員としか出てこないので、おそらく編集部の(小)氏も同様なのだろう。

巷ではホアンインゼンインアホという回文が流行っているらしい。

2011/7/25

種々のコメントを踏まえて  
先週はまったく更新をしなかった。理由は特にない。早い話がサボリである。これも堕落のきわみであろう。

確かに楽しいブログだと思います。

多摩準急氏のコメントである。いったい何が楽しいのかわからないが、ともかくそのように言ってもらえることは嬉しいことだ。

浅井氏が原発事故後しきりに用いて重宝している京大原子炉研究所の小出助教ですが、日本での原発を批判する一方で北朝鮮の核開発を肯定し擁護していることがわかりました。浅井氏はこういう人をも利用してしまうんですね。

阿呆という人のコメント全文である。浅井先生の無節操を責めているのだろうが、わたくしはそれ以前の事実関係について疑問を感じた。小出氏が北朝鮮の核開発を肯定・擁護しているのは本当だろうか? 確たる証拠があれば提示願いたいと思う。

学者と言えども思想信条がある。ゆえに小出氏が北朝鮮シンパであったとしても一向に構わない。しかし、もしそこに根本的な矛盾が存するのであれば、それは糾弾されてしかるべきだろう。逆に言うと、学者はそうした自己矛盾に敏感である。ゆえに普通に考えれば上掲のようなことはあり得ないはずである。自国の原子力の危険性を訴えている人がどうして他国の原子力を肯定・擁護することがあるだろうか?

わたくしの直感では、小出氏を貶めるためのガセネタではないか、と思う。

ちなみに、小出氏はどうやら天皇制に否定的の立場であるらしい。たぶん浅井先生とはこの点で相容れないと思われるが、しかし、それとこれとは区別して論じるべきだろう。ずいぶん前に話題に上がった竹田恒泰氏は皇室の末裔であるが、反原発を標榜して本まで出版しているくらいだ。つまり、立場は異なれども反原発の一点では共闘し得るという意味で、矛盾はないと考えるべきなのだ。何でもかんでも一から十まで意見が一致しないと話が進まないのであれば、世の中は機能しなくなるに違いない。

浅井の弟子を名乗るなら浅井の説をとるべし。
さなくして他人および他門人を論評するとはまことでたらめなり。
これすなわち浅井を評すといえども浅井にも及ばぬ無節操と言うべし


信行氏からお叱りを頂戴した。特に申し上げることはないのだが、前掲の話と関連して言うならば、それぞれの立場を単純化して色分けするのはいかがなものか、ということになる。わたくしを浅井先生の弟子にはめ込んでしまえば攻撃し易い。しかし、わたくしはいわゆる玉虫色ではないが、ちょっと複雑な位置にいる。そして拙ブログでは読者もそれを了解してコメントを下さっている。ゆえに今さら無節操だと言われても仕方がないことなのだ。

家屋住居に安置するところの仏壇・厨子は戒壇である。
寺院本堂も戒壇である。
さて、寺院本堂は建造物であるが、仏壇を建造物というか。
建造物と言っても支障はあるまいが、さて文脈からいえばいかなるものであろうか。
宗祖の本意はこのような議論であろうか。
瑣末な浅井の詭弁だけが突出していると思ふ。


こちらのコメントは難解だ。もう少し具体的に言っていただかないと、何とも返答の仕様がないところである。

日顕上人様の御講義の前段について、いささか冗長な印象を持たれたということですが、私はそうは思いません。
御講義は、教師の御僧侶を対象にする内容ですから、背景や関連の項目について種々お話しになるものでしょうし、顕正会破折の意義から特に御講義を掲載されたのですから、歴史も含め非常に他項目にわたっているのではないでしょうか?


大沢氏はわたくしの戯言など捨て置けばよいものを懇切丁寧にコメント下さった。一つには謗法呵責の意味であろうし、さらには一分の慈悲に催されてのことであろう。

他項目は多項目だと思われるが、まさにおっしゃるとおりに違いない。何しろわたくしは上人の御講義を全文拝読したわけではないのだ。ご紹介下さった部分のみを読んで、冗長などと勝手な感想を述べているわけであるから、破邪顕正の精神からも大沢氏が上掲のごとく書かれるのはもっともなことだと思う。

いずれにしても立場の違いとは恐ろしいものだ。今のわたくしは顕正会とも距離を置いているが、さりとて宗門に帰伏したわけでもない。この微妙な立ち位置は不安定であるものの、案外に居心地がいいのだ。なぜならば言いたいことが言えるからだ。ゆえに浅井先生に対しては容赦ない批判を加えるし、宗門とりわけ猊下に対しては遠慮しつつも思ったことを言わせてもらっているわけである。

宗教掲示板に見受けられるような歩み寄りの無い法論こそ時間の無駄と何故思わないのか不思議で仕方ありません。

むしろ遠慮がない意味では、おおひがし氏のような無宗教者がいちばんの強敵であろう。上掲は別して言えば、沖浦氏と大沢氏のやりとりを揶揄したものと思われるが、しかし、誤解がなくもない。

両氏は実践行動の人である。拙ブログのコメント欄のみが活躍の場ではなく、現実の生活の中で実際に行動を起こしているのだ。

また、樋田昌志氏のようなツワモノがいることも忘れてはいけないだろう。氏は三度のメシよりも法論が好きだと言って憚らない人物である。しかも氏の法論は掲示板にとどまらない。むしろ対面法論がメインである。

おおひがし氏のおっしゃるように、確かに掲示板でのやりとりはラチが明かない場合が多い。それにもかかわらず、いつまでも堂々巡りを繰り返している人たちがいるとすれば、それは陰弁慶なのだろう。しかし、樋田氏が存在する以上、おおひがし氏のコメントは一面的な見方であり、とりわけ日蓮正宗信徒には当てはまらないと言わざるを得ないのだ。

残念ながら顕正会にはそうした人材がいない。たぶん今が妙信講時代であれば事情が違っただろうと思うが、今さらナイモノネダリをしても仕方がないことである。

早い話がもう終わっているのだ。

時間の無駄と何故思わないのか・・・

再掲であるが、実は時間を無駄にしているのは他でもない、わたくし自身なのかもしれない。なぜならば、終わっている対象を論評し続けていることになるからだ。

2011/7/16

堕落のきわみ  
本尊抄の題号については、なるほど、どのように読めばいいのか悩むところである。もし一般人にクイズを出せば、ほとんどの人が不正解になるだろう。

わたくしの思うに、今の顕正会員も相当にアヤシイところである。大雑把に言うと、平成以前からの幹部たちは押しなべて読めるが、最近の人たちは幹部であっても読めない可能性がある。なぜならば、本尊抄は二級教学試験の出題範囲であり、以前はほぼ毎年コンスタントに試験が行なわれていたからだ。しかし、平成以降はいわゆる一念信解路線に入ってしまい、久しく試験が行なわれていない。本年の三級試験実施にしても、久しぶりのことであって、前回がいつだったかすら思い出せないくらいなのだ。

 三大秘法は簡単です。

 南無妙法蓮華経と言う命が私共の命の呼び名で、それが本門の本尊で、私共が唱えて化他をすると本門の題目。
 その本尊と題目を保つ身体が本門の戒壇。

 建物じゃないのです。


さて、話は変わって、今度は戒壇のことである。沖浦氏によれば、戒壇は本尊と題目を保つ身体のことであって、建物ではないのだそうだ。これは何か斬新なことを言っているように聞こえるかもしれないが、実は言い古されてきたことなのである。

己心戒壇

興味のある人はこのキーワードで拙ブログを検索されるとよいだろう。この問題はずいぶん前から議論してきたことであって、その途中には沖浦氏も登場するくらいである。いわば話の蒸し返しであり、堂々巡りをしているだけなのだ。今、略して言えば、己心戒壇を全否定するつもりはないけれども、さりとて本門寺の戒壇を建立すべしとの御遺命がある以上、築壇の必要性を否定はできないだろう。それにもかかわらず、建物じゃない、などと主張するのはまさに御遺命違背である。

前回のコメント欄には日顕上人の御指南が掲載されている。おそらくわたくしは当該部分を初めて拝見したのだと思う。今、略して感想を申し上げれば、上人は事相についてかなりの時間を掛けて説明あそばしているごとくである。ただ、恐れながら申し上げれば、やや冗長にも感じられるところである。しかし、それは事相の重要性を強調するためだ。

かく見れば、国立戒壇の名称を度外視すれば、現状では宗門と顕正会はほぼ同じ、創価学会だけ完全に逸脱、という結論になるだろう。もっとも沖浦氏の持論と創価学会の公式見解が一致するかどうかは議論の余地がある。

皆さんは節電と言う修行は行っておりますか?

最近のおおひがし氏は準レギュラーのような存在である。以前は特定の人物だけを狙って、それがために拙ブログに出入りしていたような印象を拭えなかったが、今はちょっと事情が違ってきたような感じがする。

そこでエネルギー問題についての私見というか、わたくしなりの知見を書いておきたいと思う。まずは六月度総幹部会の会長講演をご覧に入れよう。

 「原発を廃止すると電力不足になる」などと言われているが、これはウソですよ。電力会社や原発推進派が為にする宣伝であります。
 京大の小出裕章助教によれば
 「実は原発の設備利用率を上げるため、従来の火力発電所の稼働率は現在四八%まで下げられている。この火力発電所を復旧させて稼働率を七〇%まで上げれば、原発をぜんぶ止めても充分間に合う」とのことです。
 その上で、太陽熱・地熱・風力・水力・海水流等を利用した自然エネルギーを開発すればいいのです。


 小出裕章助教は今や有名人であるから、彼がどのようなことを言っているかはネットで調べれば一目瞭然だ。その他、反原発ないし脱原発を唱えている人たちの意見を平均化すれば、浅井先生の言っていることになるのだろう。すなわち現時点での自然エネルギーの普及率からすれば、今すぐに大転換することは難しい。そこで短期的には火力発電を活用し、中長期的には自然エネルギーにシフトして行くことが望ましいとの考え方である。

浅井先生の記述で興味深いのは、太陽熱である。実は前回の総幹部会でも太陽熱と書いている。わたくしは太陽光の誤記ではないかと思っていたが、どうやら太陽熱にこだわりがあるらしい。

原子力も火力も発電の原理は同じなのだそうだ。ようするにお湯を沸かして蒸気を発生させ、その蒸気の力でタービンを回して発電する。いわゆる蒸気機関である。
すると風力や水力なども動力が異なるだけで発電の原理自体は同じだとわかる。なるほど太陽熱・地熱も同様だ。
ところが太陽光となると、いったいどのような仕組みで電気が生まれるのか、よくわからない。この点ではたぶん浅井先生とわたくしは似たり寄ったりなのだろう。

純粋にエネルギーとして考えるのならば、必ずしも電気は万能ではない。電気は便利であるが、万能ではないのだ。

オール電化という考え方が間違いだったのだ。

今、拙ブログの読者で統計を取ったらどうなるだろう。たとえば炊事であるとか、風呂であるとか、これを電気でまかなっている人がどれだけいるのか気になるところだ。
いや、もちろん、これは個人の選択の自由であるから、オール電化を全否定するつもりはない。しかし、煮炊きや風呂焚きにはガスが向いている。熱効率がベラボウにいいのだ。
たぶん、電気が活躍するのは照明や冷蔵庫などであろう。そして夏は冷房だ。

電力会社は文字通り会社であるから、建て前では省エネだとか言うものの、実際には電気をたくさん使ってもらったほうがいいのだ。だからオール電化を推進してきた。ゆえに、ここに来てユーザーに節電をお願いするのは、筋違いの話なのだ。

俗に言う殿様商売なのだろう。もし純粋な意味での民間企業であれば、節電を呼び掛けること自体が矛盾である。競合他社が存在すれば一発でオシマイである。つまり、本来ならば万難を排して電力の供給に全力を尽くすべきなのだ。震災よりすでに四ヶ月が経過する。最初の頃の計画停電が何だったのかと思わずにいられないが、電力不足が本当だとすれば少なくともあの時点でわかっていたことなのだ。だったら四ヶ月の間に手を打つべきことはたくさんあったはずだろう。これが競争の激しい民間企業であれば、手をこまねいているわけがない。迅速に対応するはずである。

たまたま前回、今年も猛暑か? と題して書いた。

わたくしの思うに、人間が贅沢になってしまっている。しかもそれはかなりの意味で不可逆性である。
たとえば江戸時代であれば、東京大阪間を徒歩で移動した。乗り物は一部の人が利用していただけで、大半の人が自分の足で歩いていたのだ。しかし、現代人が東京大阪間を歩くことはない。
たぶんクーラーにも同様の意味があるだろう。クーラーに依存する生活に慣れてしまえば、そこから抜け出せなくなる。そうして現代人は暑さに対する耐性が失われてしまったのだ。

エネルギーを消費するということは、人間が楽をすることである。しかし、それがために人間が堕落してしまったという意味もなくはないだろう。なるほど、おおひがし氏が節電を修行と位置付けたのもムベナルカナである。

最後に白状しておこう。今日は偉そうにいろいろと書いたわけだが、わたくしの部屋はクーラーを二十四時間付けっ放しにしてある。まさに堕落のきわみだ。

2011/7/13

今年も猛暑か?  
大沢氏は御書に詳しい。伝教大師聖人か賢人かについて、聖人とすべきだが賢人としてもあながち間違いではない、というのが氏の見解である。まあ、わたくし自身も前回、アゲアシ取りに近い・・・瑣末な問題と書いたわけで、大きな意味ではどちらも同じ方向性であるから目くじらを立てるほどのことではないのだろう。ただ、御書の解釈はこうした小さなことの積み重ねによって、場合によってはとんでもない曲解が生じることもあり得るので、いちおう気がついた点は指摘しておくこともムダではないだろうと思う。

所詮、出家は在家に絶対に及びません

さて、今度は沖浦氏のコメントである。いろいろ書いておられるが、一行だけ挙げさせてもらった。この部分はまさに氏の持論なのだろう。今まで何度も目にしている文章だ。

しかし、わたくしには理解できない。もし客観的ないし公平な視点で物を言うのであれば、出家と在家に差別はない、平等である、と主張するほうがよさそうである。早い話が、沖浦氏の主張は逆のバイアスが掛かっているのではないか、宗門・法華講が出家の優位を云々することに対抗意識を燃やしているのではないか、と思われるのである。つまり、わたくしの目線で言わせてもらうと、対抗意識むき出しの姿がコッケイというか、それがある意味では沖浦氏らしくないとも感じられるところなのである。生意気を言うようであるが、氏はその程度の人間ではないだろう。さらなる飛躍が期待されるところである。

さて、原発関連で気になったことを書いておこう。次は総幹部会での会長講演の一節である。

 若狭湾沿岸には、全国で最も多い十五基の原発が並び「原発銀座」などと言われているが・・・

同じ地域に十五基も林立しているとは驚きだ。ところが女子部の総班副長は次のごとく発表している。

狭い日本列島に林立する五十四基の原発のうち、十三基がひしめく福井県は最も危険な県である・・・

数字が違っているのだ。これはどういうことだろうか?

たぶん、「ふげん」と「もんじゅ」を含めるかどうかで数字が違ってくるのだと思うが、この辺はちゃんと説明するか、もしくはどちらかに統一して発表するべきだろう。いずれにしても福井で福島のような事故が起これば、日本もほぼオシマイである。それがわかっていて、なおも原発を続けようとする人がいるのは何とも不思議なことである。毒気深入とはこれを言うのだろう。

40年間 布団の中で唱題していた同志が
 巨大地震を機に翻然と地涌の魂に


今回の総幹部会の中で最も注目した記事がこれである。婦人部総班副長による活動報告だ。

ようするに、四十年間布団の中で勤行をしていた人が巨大地震をキッカケに堂々と信心をするようになった、という話である。なぜに布団の中で勤行していたのか、それは家族に内緒にしていたからである。わたくしが驚くのは、そんな状態で四十年間もよく信心を続けることができたということである。しかもである。発表者はこの本人と四十年ぶりに再会を遂げたのだそうだ。つまり、この四十年間は電話や手紙で連絡を取るだけの関係だったのだ。

ここから何かが見えてくるのではないか。わたくしの思うに、顕正会の潜在的会員数である。

顕正会は定着率が悪いと言われている。事実そのとおりなのだろう。しかし、上掲のような隠れ顕正会員的な存在も見過ごせない。現在の名目会員数は百四十数万であるが、実数は十万に満たない、これが衆目の一致するところである。しかし、そこにわたくしは潜在的会員数という新たなカテゴリを設けるべきかもしれないという気がするのだ。ともかく四十年間は並大抵のことではない。このようなケースの人がたくさんいるとは思えないが、そうは言っても潜在的なものである。ようは見えないからこそ侮れないのだ。

入信46年、地涌の菩薩の魂にめざめる

これはすぐ隣に掲載されている記事だが、まさに上述のことを裏付けるかのごとくだ。

発表者は婦人部の組長である。つまり、あまり活躍している人ではない。実際、記事を読むとわかるが、単に入信が古いだけで自覚を持って活動に励んでいた時期はほとんどないに等しいようだ。しかし、今こうして総幹部会の壇上で発表しているのである。

わたくしは前々回、組織の疲弊を感じさせる記事、と題して書いたわけだが、今回はいわば逆の視点で書いたわけである。どちらが本当であるかはとりあえず保留にしておこうと思う。

大石寺付近で樒を販売している売店では、多数の登山者相手に、御宝前に供える樒が早く傷むようにと、わざと根っこを熱湯に浸けて販売

これは一つ前の新聞であるが、気になったので取り上げることにした。よくわからん話だ。なぜならば、これは創価学会員が登山していた時代の話であり、ともかく毎日たくさんの人たちが大石寺に来ていたのだ。つまり、そんなセコイことをする必要など、まったくなかったはずなのだ。そもそも根っこを熱湯に浸けるとどうなるか、そこがよくわからんところである。もし売れる前に見る見るうちに傷んでしまったら元も子もないだろう。また逆に、買ってすぐに傷んでしまえば、あの店の樒は持ちが悪いということで、かえって評判を落とすことになる。つまり、そんなバカなことをするわけがない、というのがわたくしの結論である。

なお、この話題は山門入り口氏も取り上げているので、興味のある人はご覧になられるとよいだろう。


七月十四日追記:一部修正した。ちょっとした言い回しが気に入らなくて悩んでしまう。修正後もシックリこない。

2011/7/12

脱原発の機運  
お返事申し上げなければならない事案もいくつかあるようだが、独白ブログの看板を盾にして省略させていただくことにする。

 伝教大師が波涛三千里を渡って中国に仏法を求めたのも、また玄奘三蔵が十万里の道を踏み越え、中国からインドへ経典を求めて渡ったのも、これらはみな上代の賢人、しかもみな男子ですよ。

顕正新聞第1210号一面の記事である。これは前々回にも取り上げた日曜勤行の指導であるが、指摘しておきたいことがある。今回はアゲアシ取りに近いというか、おそらくは瑣末な問題に過ぎないだろう。しかし、いずれにしても上掲は不正確ないし事実誤認である。

然るに玄奘は西天に法を求めて十七年、十万里にいたれり。伝教御入唐但二年なり、波涛三千里をへだてたり。此等は男子なり、上古なり、賢人なり、聖人なり。

浅井先生はこの日妙聖人御書をいわば意訳して前掲のごとく説明したのだろう。わたくしはとっさに、伝教大師を賢人とするのはおかしいだろう、と思った。大聖人が伝教大師を賢人と表現あそばすことはないのではないか、あくまで伝教は聖人なのではないか、とわたくしは思うのである。少なくとも上掲では「賢人なり、聖人なり」とあるわけだから、聖人を省いてしまうのは問題である。

浅井先生の宿題は伝教=賢人とする御文を挙げることである。すべての御書を確認するのは容易ではないが、わたくしの知る限りでは伝教=聖人とするのが大聖人の常の御表現である。

時流

新コラムの名称である。今までも時事問題を扱うコラムはあったが、たぶん今回が初めてだろう、時流というタイトルが打ってあるのだ。その内容であるが、覚せい剤の恐ろしさについてである。東京新聞の記事をそのまま転載したものらしい。わたくしには今のタイミングでこれを取り上げるのはなぜだろうとの疑問が残った。

さて、今度は第1211号の話題である。

東日本巨大地震こそ「大罰の時代」突入の号鐘

同号のメイン記事は六月度総幹部会の報道であるが、わたくしにとっては裏面の記事が目玉だった。顕正会流に言えば、目が釘付けになったほどである。紙面のすべてが図面と写真でカラフルに彩られていて、ひじょうに見ごたえのある記事である。上掲はその大見出しであるが、おそらくはこの見出しや図ないし写真に付された説明を書き直せば、一般の雑誌に載せてもおかしくない記事だろう。しかも図には「気象庁の資料を参照」と書かれていたり、写真には提供者が明記してある。そんなの当たり前だろうと思う人もいるかもしれないが、以前の顕正新聞から見ると格段の進歩であり、編集部もけっこう努力していることが感じられて、わたくしには好印象なのだ。新聞をお持ちでない人には恐縮であるが、ともかく言葉で説明するよりも現物を確認したほうが早いだろう。

そこで総幹部会の会長講演に移ろう。

 原発事故というのは、ひとたび発生すれば制御不能ですよ。そして放射能汚染による被害は、時間的にも空間的にもどこまで広がるかわからない。それは日本民族の生命を細胞レベルで蝕む恐ろしさがある。このことがわかった以上、もう原発は直ちに廃止しなければいけない。

今回の講演でも原発問題に多くの紙数を割いている。浅井先生の主張は明瞭だ。

このことがわかった以上・・・

わたくしは引用文を太字にして紹介することにしているが、実は新聞の表記そのものがここだけ太字になっているのだ。穿った見方をすれば、過去の発言との整合性を気にしてのことかもしれない。以前にも触れたが、過去にたぶん一度だけだろう、先生は原発問題に言及したことがあるのだ。その時は原発を容認する意味の発言をしていたのだと思う。ゆえに今回はそこを突っ込まれないように、「このことがわかった以上」云々と付け加えているわけだ。つまり、今までは原発の危険性がわからなかった、しかし、今回はっきりとわかった、わかった以上は反原発を唱えるのが筋である、という意味なのだ。

 総じて原発推進派は、「原発を廃止すると電力不足で日本経済がおかしくなり、国民生活が成り立たなくなる」などと主張しているが、国民の命を危うくして、何が国民生活かと私は言いたい。

正論だ。

先般の浜岡原発に見るごとく、必ず諸天の働きにより、原発はすべて速やかに廃止される・・・

最後にイジワルを言えば、あと○○年がお好きな先生なのだから、原発廃絶の時期も同様に明言すればよかったと思う。わたくし自身も原発廃絶に異存はないので、先生の予言が当たることを期待したいところだった。しかし、上掲のように年限をアイマイにしているようでは、廃絶の時が来ても当たったことにはならないだろう。しかも今は脱原発の機運が盛り上がっている時であるから、ここで諸天の働きを云々しても後出しジャンケンの責めは免れない。もし三月度総幹部会で言っていたら相当なものだったが・・・

2011/7/10

組織の疲弊を感じさせる記事  
沖浦氏のコメントを読んでいて腑に落ちないところがあった。一々を取り上げていたらキリがないのでやめておくが、おそらくは次の部分が最大のポイントであろう。

 『私は、皆に、わけへだてなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握り拳のなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ』

釈迦が言っているのだそうだ。なんと沖浦氏はこれを根拠に唯授一人を否定したいらしい。これはビックリだ。

釈迦が言っているのはけっこうであるが、肝心の大聖人がどのように言っているかのほうが重要であろう。
より厳密に言えば、釈迦がどの場面で言っているのか、そこが問われるわけである。法華経の言葉なのか、爾前経なのか、それだけでも意味が違ってくる。ゆえに単に釈迦が言っているというだけでは文証として甚だ甘いのだ。
ましてや大聖人がまったく用いられない経文を引っ張り出してきたところで、いったいどれほどの価値があるのか、そこがひじょうにアヤシイところである。

以上、今回の引用は沖浦氏らしからぬ失敗だと思う。

五回連続
  ストライク!


さて、上掲は顕正新聞第1210号の記事であるが、男子部組長の体験発表である。職場のボーリング大会で五回連続ストライクを取ったそうだ。それがどうした、と言いたいところだが、昨年十月の入信というから、まあ、無理もないところか・・・

わたくしの思うに、いわゆる世間的な成功体験を至上とする功徳論には問題がある。
いや、もちろん、沖浦氏のように実証体験を示すことが折伏につながるという意味で奮闘努力することに水を差すつもりはないのだが、しかし、もしそれを至上とするのならば教団はあらゆる分野に人材を送りそこで一位を獲得することを目指すことになるだろう。高校野球では宗教団体の名前を冠する学校が活躍していたりするが、まさにそれが上述のことを意味するわけである。
確かにそれが教団にとって一定の宣伝効果をもたらすことは事実であろう。しかし、それはあくまで一定程度であり、絶大の宣伝効果があるとは思えない。ましてや現実問題として、創価学会は人数が多いので社会のあらゆる分野に会員がいるけれども、必ずしもそれぞれの分野で一位を獲得しているわけではない。日蓮正宗であっても同様であるし、顕正会も同じである。
ちなみに、わたくしはかつて一度だけボーリング大会に出場したことがある。結果は最下位だった。何人くらいの大会だったろうか、三十人はいたと思う。少人数で遊んでいてビリというのは珍しくもないが、大勢の中でビリというのは滅多に経験できることではない。

さて、わたくしの自慢話(?)はほどほどにして、もう一つ体験発表を紹介しよう。

入信以来一年、確実に心が変わってきた!

この記事には疑問を感じた。いわゆる平会員であり、男性婦人部員である。婦人部の愛知支区集会での発表のごとくであるが、前掲の記事と比べると不審な点がいくつもある。

前掲の発表者は昨年十月入信であり、先ほどは書き忘れたが婦人部に所属する叔母の縁で入信したわけである。一方、こちらの男性は昨年七月入信で、婦人部の班長さんから折伏されて入信している。つまり、片や一年未満で組長、片や一年にならんとするのにもかかわらず平会員のままであること、しかもまだ婦人部のままなのだ。

しかし、単にそれだけの話ならば、わたくしは取り上げなかっただろう。不審な点は発表の中身にある。

前掲の記事にはボーリング大会の話もあれば、父親を云々するくだりもある。ボーリング大会は職場関係の話であり、父親云々は申すまでもなく家族の話である。ところがどうしたわけか、今度の体験発表には仕事であるとか家族であるとか、そうした話がまったく出てこないのだ。
体験発表には大きく分けて三つのパターンがある。病気克服・家庭問題の解決・職場での実証。
ところがくだんの体験発表はいずれのパターンにも当てはまらない。もちろん、パターン化して考える必要はないわけだが、ともかく体験発表らしからぬ発表、強いて言えば活動報告に近い内容に思えるのである。

恣意的と言われると困るので、いちおう体験発表らしいくだりも紹介しておこう。

毎晩のように飲み歩く生活を一〇年ほど続けていた・・・

ともかく新聞をお持ちの人は確認されるとよい。繰り返しになるが、上掲のあたりを除けば全体としては活動報告に近いと思う。さりとて婦人部所属の男性平会員が活動報告をするのもヘンな感じが否めない。たぶんそこで体験発表の扱いになったのだろう。

こうした実態をどのように見るかが問題だ。

ようするに、新しい人材が次から次に出てきていると捉えるか、それとも人材がいないので平会員だろうが何だろうが構わず使っていると捉えるか、わたくしにはどうも後者のように思えて仕方がないのである。

2011/7/7

諸天についての雑感  
沖浦氏の精力的な投稿は驚異的であるが、それはたぶん正信掲示板の閉鎖と関連することなのだろう。氏はかの掲示板において精力的な投稿を続けていたので、そこが閉鎖となれば自ずと余力が生じる。その余力のいくらかが拙ブログのコメント欄に注がれているのだろうと推測する。

さて、本題である。

 先日、婦人部の幹部から面白いことを聞いた。集会で、東北の顕正会員がみな不思議の御守護を頂いたことを聞いた一婦人が、その幹部に
 「諸天には、この人が顕正会員だということが、わかるんですかね」(大笑)と。
 顕正会員のおでこにマル顕のシールでも貼ってあれば分かるんでしょうがねー(大爆笑)。


顕正新聞第1210号の一面から引用させてもらったが、五月二十九日の日曜勤行における指導である。マル顕のところ、正式には○の中に顕が入っているが、入力の方法がわからない。ともかくマル顕印というか、そういうマークのようなものがオデコに貼ってあれば・・・というジョークなのだろう。聴衆一同が大爆笑をしたものらしい。もっとも、顕正会員はマル顕印の代わりに鶴丸バッジを付けているので、すぐにわかるが・・・

震災以降、顕正会ではたくさんの体験発表があった。しかし、わたくしは震災関連の体験発表について、ほとんど取り上げてこなかった。その理由は二つある。

彼ら顕正会員たちも被災者である。ゆえに、わたくしのような被災していない立場の者が、彼ら彼女らの体験にケチをつけるようなことは厳に慎まなくてはいけない、と思ったからである。つい先日も某大臣があっという間に辞任に追い込まれてしまったが、それは被災者の感情を逆撫でするような言動をしたからに他ならない。いわば空気が読めていないのだろう。拙ブログは顕正会批判が主ではあるが、何でもかんでもケチをつけてやろうというような考えは元々なかったし、今回のような激甚災害においては顕正会員といえども多かれ少なかれ被災しているわけだから、その点を配慮するのは当然のことなのだ。

しかし同時に、一見して矛盾するようであるが、わたくしが震災関連の体験発表を取り上げなかったのは論評に値しないからでもある。

大沢氏と沖浦氏のコメントにも諸天の守護を云々するものがあって、ひじょうに考えさせられた。顕正会員は諸天の働きというものを純粋に信じている。解釈そのものには温度差があるものの、おそらくは大沢氏にしても沖浦氏にしても諸天の働きを信じているのだろう。もちろん、その温度差が大き過ぎて意見が一致することはないわけだが、たぶん多摩準急氏やおおひがし氏たちから見れば、日蓮正宗も創価学会もそして顕正会も似たり寄ったりに映るのだろうと思う。

さて、そこで必然的に問われるのは、わたくしの考えはどうなのか、だと思う。

顕正会の体験発表は論評に値しないと書いた。すると、巌虎は諸天の働きを軽視しているのではないか、と思う人がいてもおかしくないだろう。どちらかと言うと、おおひがし氏など一般人の思考に近いのではないか、と感じる人もいることだろう。もっと言えば、巌虎は信心のないヤツだ、という感想を懐く人がいても不思議ではないと思う。

この辺を詳細に論じたらキリがないので、ここで結論を述べてしまうことにする。わたくしの現時点での考えを言えば、諸天善神のことはよくわからない、積極的に肯定することもできないが、さりとて否定もできない、こんなところである。

すると、なぜに顕正会の体験発表は論評に値しないなどと言うのか、というツッコミがあるはずだ。肯定も否定もできないのならば、偉そうなことは言えないはずだからである。

この答えは案外に簡単だ。

顕正会は大聖人の仰せのままを信じているという。もしそれが本当ならば、もっと凄い体験発表がなければおかしい。よく読んでみれば、大したことがないのだ。正直なところ、ショボイ話ばかりなのだ。

火も焼くこと能はず水も漂はすこと能はず

何が言いたいか、もうおわかりだろうと思う。

今回の震災では大津波で町全体が消滅してしまったような地域もある。鉄筋コンクリートの頑丈な建物は辛うじて残ったものの、木造家屋は根こそぎ流されてしまって跡形もない有様だ。海から相当離れているとか高台は例外である。もし顕正会員宅が海べりの低地にあったとしよう。周囲の家々がすべて流されてしまっているにもかかわらず、顕正会員宅だけ一滴の水も被らなかったとしたら、これこそ経文そのままである。火災でも同様だ。一角すべてが全焼にもかかわらず、その中に一軒だけ無傷の家屋があったとしたら凄いことである。

これらが現実に起こればニュースになるだろう。しかも、そうした家々を調べたところ、実はすべてが顕正会員宅だった・・・とすれば凄いことだ。それこそ入信勤行の行列ができるに違いない。

繰り返しになるが、顕正会員の体験発表はよく読んでみると大したことがない、それどころかショボイ場合もあるのだ。すると、どうなるか考えてほしい。彼らが諸天の働きを論ずれば論ずるほど、かえって諸天の働きがショボイものに思えてきてしまうのだ。

こういうのを摧尊入卑と呼ぶ。

以上、具体例を挙げなかったのは、顕正会員といえども被災者であり、やはり心情的には気の毒に思わざるを得ないからである。

2011/7/3

原発の話題を中心に  
女子部長からコメントを頂戴した。顕正会には女子部長がたくさんいるので、特定することは難しい。だからこそ本人も投稿する気になったのだろうが、部長クラスから先生への批判的なコメントが寄せられるとは驚きである。ある意味、末期症状を呈しつつあるのだろう。いや、呈しつつあるのではなく、もはや末期そのものかもしれないのだ。

顕正新聞第1210号が届いた。相変わらず浜岡停止の話題に終始しているが、今回も浅井先生を持ち上げる記事ばかりが目立つ。まずは諸天の働きを云々する記事から紹介する。

一筋に忠誠を貫かれる先生の師子吼に、諸天が応じる姿

どこまでも深き先生の忠誠心に諸天が即座に感応

先生の強きご一念によって諸天が動いた

浅井先生のご一念に、諸天が感応した大現証・・・すべて先生の師子吼のままに諸天が動いた

上から順番に、男子部第七十八隊長・婦人部長岡支区部長・婦人部福井支区部長・女子部第十区長の記事である。

やや煩瑣であるが、もう一つ紹介しておきたい。女子部第二区長の記事である。

 また浅井先生は、今回の巨大地震でその危険性が白日の下に晒された原発につき
 「すべてやめるべきである」
 と叫ばれましたが、ことに浜岡原発については
 「私が心の奥で最も憂えていたのは、お山のことである。戒壇の大御本尊まします富士大石寺が、戒壇建立の霊地たる天生原が、もし放射能汚染を受けたら、どうなる」
 と密かに憂えておられたご心情を伺っては、胸が締め付けられました。
 しかしその後、突如として浜岡原発が全面停止となった不思議を眼前とし、浅井先生のご発言に感応する諸天の働きとは何と凄いのかと、ひれ伏しました。


ひじょうに問題のある文章だ。流行の言葉を使えば、これは一種のペテンであろう。いったいどこがペテンなのか、それは各自が判断されたい。

次は福井支区部長の記事の見出しである。

「原発銀座」の福井で戦う我らこそ
 全県民を救う折伏を急がねば


これ自体は問題ないだろう。ここに前々回の福島支区幹事の記事を並べるならば、そこに大いなる矛盾を感じるはずなのだ。これもまた各自で判断されたい。

中部電力社員も驚く浜岡原発停止

さて、これは第九男子部長の記事の見出しであるが、そもそも浅井先生がこれまで原発問題にあまり言及してこなかった理由とは何かを、この記事が教えてくれているのではないかと思う。

男子部には総支隊長補という、ややこしい役職名がある。それはともかく、どうやら見出しの中部電力社員とは、記事中の総支隊長補のことらしいのだ。うろ覚えで恐縮だが、以前にも東電に勤める顕正会員の記事があったような気がするし、顕正会もそれなりの大所帯なので電力会社に勤めている人がいても不思議ではないだろう。
以前から反原発運動は存在した。しかし、今ほどメジャーではなかった。一部の反体制の人たち、とりわけ左翼系と思しき人たちが運動していた。
以前の浅井先生が原発問題に触れなかった理由がこれでわかると思う。一つには電力会社に勤務している活動会員に遠慮してのこと。もう一つは左翼系との共闘を嫌ってのこと。おそらくはこの二つが理由だと思われる。

ちなみに第九部長の記事には次の一節がある。

先生の激闘は宗史のみならず人類の歴史に燦然と輝きを放ち、語り継がれるものであること断じて疑いありません。

これまた凄い持ち上げようだ。まあ、本人がそう思うのは勝手である。しかし、客観的には甚だ無理がある。何しろ宗史からも抹殺されつつあるのだ。いわんや人類史に燦然と輝くことなど、ほとんど不可能な話であろう。

 私は仕事上、原子炉建屋の耐震解析や、冷却水を海に放出する際の流体解析等の業務に携わったことがあります・・・

冒頭にも紹介した七十八隊長に再び登場してもらった。確かこの人は本部職員だったのではないかと思うが、それにしても凄い経歴の持ち主である。

被災地の復興も何年、あるいは何十年という長期スパンで考えなければならないことは間違いありません。

半減期が極めて長く毒性の強いプルトニウムが流出したことで、原発被災地の復興が遅れるとの見解である。専門的な話でわたくしにはよくわからないが、たぶんそのとおりなのだろう。そこでこの人に質問してみたい。こういう時、諸天は役に立たないのか、諸天の力で放射能を除去できないのか、と。


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