2011/9/26

イチャモンのつけ方  
今日はおさらいである。

十日あまり前に、大法戦開始の欺瞞、と題して書いた。これは顕正新聞第1216号に証拠が出ているのだ。再掲しよう。

 原点の月八月を迎え、早々に頂いた九・十・十一月法戦の誓願に、浅井先生の急がれるお心を強く感じて・・・

つまり、八月二十五日の総幹部会以前に、すでに誓願が打ち出されていたことを意味するわけである。

さらに第1218号にも証拠が出ている。次の文章は班長会における総男子副部長の登壇である。

総幹部会を待たずして九・十・十一月法戦の誓願が発表されたことに、一五〇万を急がれる浅井先生のお心が胸に迫り・・・

同じく班長会の登壇で、今度は男子部支隊長の記事だが、二百五十三件という驚異的な逆縁記録を樹立した人物と紹介すれば、ご記憶の人も多いことだろう。注目すべき内容だ。

 また折伏におきましては八月十二日、解散処分の意義深き日に、今法戦の支隊誓願を達成・突破することが叶い・・・

今法戦・・・

これはもう秋の大法戦のこと以外に考えられない。これで大法戦開始の欺瞞は明らかだろう。スポーツなどでは合図の前にスタートすれば違反となり、失格する。いわゆるフライングだ。もちろん、顕正会の場合はフライング可であり、自発の折伏ないし先手の折伏を推進していくことはいいことなのだ。しかし、本部自体がスタートを前倒ししてしまったとなれば、そうした会員個々の自主性を踏みにじることになる。これがノルマ化の実態である。

さて、次の話題である。

<通知>

平成23年9月8日
顕正新聞社

8月度総幹部会特集号の顕正新聞(9月5日付)につきましては、全国会員より「折伏・配布に活用したい」との声があがり、先生より「特価50円としなさい」との指示がありましたので、9月8日よりこれを実施いたします。


またしても再掲で恐縮だが、わたくしはこれに不審をおぼえた。はっきり言えば、全国会員から折伏・配布に活用したいとの声があがったというのはウソではないか、と思ったのだ。穿った見方ながら、これは浅井先生が自ら仕掛けたことではないのか、とわたくしは睨んだわけである。

問題は証拠があるのかどうか、そこが問われるわけだが、なんと第1218号にその証拠が出ているのだ。

・・・今回の総幹部会の指導を全日本人に早く伝える折伏を進めたい!と居ても立ってもいられぬ思いに駆られました。
 顕正新聞片手の草の根運動を起こして
 「原発は直ちに廃止しなければいけない」
 との先生の師子吼を国中に聞かしめ、民意を動かす戦いを顕正会が起こすのだとの闘志が衝き上げ・・・


班長会における副総合婦人部長の登壇である。もはや説明の必要を感じないが、少しだけ加えておこう。

顕正新聞片手の草の根運動を起こして・・・

婦人部班長会が行なわれたのは八月二十九日のことである。くだんの新聞は九月五日号である。副総合婦人部長は新聞が出来する一週間も前に配布活動を暗示するかのような発言をしているのだ。彼女は婦人部の大幹部であるが、それ以前に浅井ファミリーであることが大きい。ここまで説明すれば充分だろう。

さて、次の話題である。三つ目のおさらいはこれだ。

 八月度総幹部会において浅井先生は、原発の代替電力のエネルギーとして、天然ガス利用の火力発電が最も勝れていることを詳細に立証されたが・・・

これは第1218号の四面のコラムの冒頭であるが、この部分はまさに突っ込みどころ満載の文章である。天然ガスによる火力発電が最も優れていることは認めよう。それは結構なことだが、わたくしの思うに上掲の文章は正確さに欠いている。

確かに会長講演は面白かった。しかし、詳細に立証、とは言えないだろう。立証は表現として不適切だと思う。また、詳細もどうかと思う。ここは控えめに、素人目にはわりと詳しく説明されていて、わかりやすい記事だった、というのが無難なところだ。

つまり、専門的な意味では詳細と呼べるレベルには達していないし、立証にも当たらない。たとえば会長講演では熱効率のことが省かれている。これはけっこう重要であろう。原発は発熱量の三分の一しか電気を作れない。ところが最新のガスタービンは三分の二近くも電気に変換することができるのだ。あるいは会長講演では発電単価のことにもあまり触れていない。わたくしは今、資料なしで書いているけれども、それでもこれだけのことがわかっているのだ。もし立証という言葉を使いたいのであれば、もっと詳細にデータの比較を行なわなければいけないだろう。はっきり言って、先生のは立証ではなく、単なる説明に過ぎないのだ。

しかも上掲の文章は大きな誤解を孕んでいるというか、誤解を生じかねない危うさがある。

原発の代替電力のエネルギーとして・・・

そもそも言い回しがひじょうに気に食わないのだが、まあ、それはどうでもよいことだ。同新聞では幹部たちが一斉に会長講演を賛嘆していて、当然ながら代替発電のことにも言及している。そこでのわたくしの印象を言わせて貰えば、あたかも天然ガス火力が新発見の発電方法のごとくに書いてしまっていることだ。第八婦人部長の記事を紹介しよう。

・・・先生より液化天然ガスによるコンバインドサイクル発電という、安全・安価で、原発が全く不要となる代替エネルギーがあることを教えて頂き、眼が開かれる思いでした。

先生の発言に対しては感動を大袈裟に表現しないといけない。だから上掲のような書き方になるのだろうが、しかし、これはちょっとおかしいことである。先日も取り上げたが、東京電力はすでにガス・コンバインドサイクル発電を採用しているのだ。つまり、東電自体がすでに採用している発電方法に対して、あたかも新発見のごとくに言ってしまっているところがおかしいのだ。

最後に、もう一つ指摘しておこう。

原発の代替という表現が間違っているわけではないが、誤解ないし錯覚を起こしかねないことも事実である。なぜならば、くだんのコラムの言い様では、あたかも原発が電力供給の主役みたいに読めてしまうからだ。その代替がガス火力であるという、そんな文脈になってしまっているのだ。しかし、現実は違う。関西電力は原発への依存度が高いらしいが、全国平均では三分の一ないし四分の一というのが原発への依存度である。一方、火力は電力供給のおよそ半分を担っている。残りが水力であり、それ以外の自然エネルギーは微々たるもの、これが現状である。つまり、あくまで主役は火力であって、原発は脇役でしかないのだ。

以上、我ながらアゲアシ取りの気味が感じられなくもないが、おさらいを兼ねて書かせていただいた。

2011/9/22

秋の入り口  
沖浦氏のご紹介下さった太陽光発電には大いに期待したいと思う。ただし現状では太陽光が主力となるのは難しい。単純な話、天気が悪いと使い物にならないからだ。また、かの武田邦彦教授は自然エネルギーに懐疑的であり、自然エネルギーは自然を破壊する、と主張しているごとくである。よくわからん話だが、大学教授が言っているのだから、それなりの根拠があるのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1217号から、目に付いた記事を紹介しよう。まずは原発・震災関連ということで、女子部の平会員の体験発表を取り上げる。

川崎病の娘が原発事故で外部被曝

この人は六月に入信したばかりなので、平会員でも不思議はない。わたくしが気になったのは外部被曝のことだ。震災当時、郡山に住んでいた。放射能のことが心配で、四月には故郷の八戸に戻った。そこで被曝検査を受けたところ、娘が外部被曝していることがわかった。

いったい、どのような検査をしたのか、それが不明である。また、記事には数値が高い旨の記述があるけれども、具体的な数値が書かれていない。

わたくしの思うに、外部被曝は計測不能なのではないだろうか。線量計を持っていないとわからない。ようするに、郡山であれば毎時一マイクロシーベルトであろうか、それが事故後の平均的な放射線量だと思う。つまり、郡山に居住している人は一時間当たり一マイクロシーベルトの被曝をしていると考えられるのだ。これが外部被曝である。ゆえに、八戸に移住してから被曝検査をしたところで、何がわかるというものでもないだろう。一方の内部被曝は、呼吸ないし飲食によって体内に放射性物質を取り込むわけだから、それが後に尿検査などによって検出されれば内部被曝がわかるわけである。

「大震災で学会員はみな死んだんだぞ」
「顕正会員だけ守られるなんてあるか」
 学会幹部、思わず功徳なき実態を暴露


男子部組長が大阪男子部集会で発表したものである。さすがにどうかと思うが、たぶん本部首脳もそれは承知しているのだろう。というのは、わたくしの印象ではこうした過激な記事はせいぜいが地方集会までであって、総幹部会の晴れ舞台で発表されることはないのだ。

さて、次は男子部六十隊長の体験発表だ。こちらは総幹部会での登壇である。

祖母が御金言どおりの良き臨終
 発足以来 一筋の信心を貫く


このところ立て続けに古参の人たちが登場している。といっても、多くは訃報である。はたして発足当時の人がどれだけ残っているのか知らないが、今後はどんどん亡くなられて行くことだろう。すでに半世紀を過ぎているのだ。ところで今回はお孫さんが発表していて、これが男子部の隊長というから大したものだ。定着率の悪さが指摘されて久しいが、しっかりと親子三代にわたって信心が根付いている家も存在するわけである。

この記事で唯一、気になった点を指摘しておこう。祖母の享年が書かれていないことだ。何歳で亡くなられたか、必ず書いてほしいと思う。

六面の上段には、中国人とモンゴル人の記事が並んでいる。

中国人のほうは平会員でしかも所属が不明である。平成二十年二月の入信にしては不可解だ。

一方のモンゴル人は女子部総班副長である。こちらは以前にも取り上げたことのある人物で、ようはモンゴルでたくさんの人が入信しているけれども、それを日本国内の会員数とゴッチャにしているのは問題ではないか、という意味のことを書いた。

今回は、八月に来日して浅井先生に会ったことを報告する記事なのだが、気になる点が二つあった。

「太陽の国、日本からすごい仏様の教えが弘まるのだ」

なんと、この人の父親が言っていたのだそうだ。実は以前にも似たような話があった。再掲しよう。

 サキヤ家は釈迦族の家系であり、小さいころより「東の国に本仏が出現する」と祖父から伝え聞いていたそうで・・・

http://white.ap.teacup.com/ganko/1549.html

こちらはネパールの話だ。もしこれらが本当の話ならば学術的にも貴重であろう。当然、チベットなどにも同様の伝承があると推測し得るわけで、そうすると仏教圏全体を精査する必要性も出てくる。しかし、単なる作り話であれば、顕正会はますます世間から相手にされなくなるだろう。

 「あと十有余年で日本は広宣流布する」との先生の大確信のお言葉・・・

これが二点目だ。あれれ・・・と思った。なぜならば五面に載る婦人部大阪支区の支区長が次のごとく書いているからだ。

 「広宣流布まであと十年もかけてはいられない。早く西日本に潮流を!」

ここはカギカッコになっているものの、先生の発言とは限らないようだ。ゆえに、直接的な意味での自語相違には当たらないのかもしれないが、それにしても明らかな矛盾である。少なくとも整合性を持たせるなら上掲を次のごとく修正すべきだろう。

広宣流布まであと十有余年もかけてはいられない。

しかし、これはあくまで上掲の二文の整合性であって、実際にはもはや取り繕うことは困難である。以下、七月度班長会における幹部たちの発言を再掲しよう。

最も重大な最後十年に御奉公が叶う歓喜・・・

残り十年を切った最後の戦い・・・

わたくしは浅井先生に言いたい、今さら十有余年はないだろう、と。

2011/9/21

石炭火力を侮ることなかれ  
原子力発電を推進してきたのは自民党政権に他ならない。自民党のパートナーが公明党である。いわゆる与同罪に相当するわけだ。なるほど沖浦氏が公明党に批判的である理由はこの辺にもあるのだろう。

さて、昨日の続きである。

原発止めても電力不足なし

火力発電で充分

前回の拙稿を読み返すと、順番がややこしくなっているが、ともかく原発は危険だから止めなければいけない、というのが結論だ。しかし、止めると電力不足になるのではないか、という不安の声がある。そこで代替エネルギーの話になるわけだ。

浅井先生は、猛暑のこの夏でも停電は全くなかった、火力発電だけでも間に合うことが実証された、と言っているがこの続きの文章が興味深い。

 その火力発電のことですが、中部大学教授の武田邦彦さん。原発についていくつもの本を書いている学者ですが、この人は脱原発の立場から「石炭火力発電まで戻るべし」と題する論文を書いておりますが、勉強不足ですね。

勉強不足・・・

わたくしは一瞬、何を言っているのか理解できなかった。しかし、続きの文章を読むとわかってくる。

 実は火力発電の中では、液化天然ガス(LNG)による火力発電が一番いいのです。

つまり、浅井先生は武田教授を勉強不足だと言いたいらしいのだ。いまどき石炭火力なんて古臭いものに固執しているのは頭が化石化しているからだ・・・と言ったか言わないか、それはわからないが、ともかく武田教授の主張に批判を加えているのは確かであろう。

 そしてLNGによる火力発電の中でも、最新鋭のコンバインドサイクル発電が最も勝れている。

たぶん、広瀬隆の受け売り、と言われるゆえんはこの辺にあるのだろう。

 このガス・コンバインドサイクル発電機が列島各地に設置されれば、原発などは全く不要なのであります。
 その上で、ゆっくりと太陽光、地熱・水力・海流等の自然エネルギーによる発電を考えていけばいいのです。


まあ、正論であることは間違いない。

ここで余談ながら着目したいのは、太陽光だ。これまで浅井先生は太陽光ではなく太陽熱と言っていた。ここに来て熱から光に転向した理由が気になるところである。

それにしても大学教授を勉強不足だと言ってしまうところが浅井先生の凄いところである。これがもし相手が仏教学者であればわからなくもないが、そうではなくて原発問題の専門家が相手なのだ。もともと浅井先生は門外漢であり、おそらくはここ半年の間にいわば俄か勉強で仕入れた知識に過ぎないはずである。武田教授にすれば、アンタに言われたくないよ、といったところだろう。

以下、わたくしの拙い知識を述べておく。

そもそも原発が必要とされた理由を考えるべきである。原発が危険であることは昔からわかっていたことなのだ。人類はスリーマイルやチェルノブイリを経験している。日本においても東海村で深刻な事故があった。それにもかかわらず原発を推進し続けた理由の一つはエネルギー問題なのだ。
いわゆるオイルショックがあった。また、産油国である中近東は大袈裟なようだが四六時中戦争をやっているようなアンバイで、ひじょうに不安定なのだ。当然、エネルギー政策を考える上で無視できない事柄である。
石油が枯渇するという心配もさることながら、それ以前に一朝事が起これば輸入がストップしてしまうという現実があるのだ。そのリスクを軽減する一つの方法が選択肢を広げること、すなわちエネルギーの多様化なのだ。

つまり、石油ばかりに依存するのではなく、その他のエネルギーも有効に活用していく。そうした方針から、原発の必要性も説かれてきたのだ。

武田教授がどのような観点から石炭火力を持ち出したのか知らないが、わたくしは上述の意味で石炭も選択肢として残しておくべきだと思う。むしろ浅井先生の言い方だとあたかも天然ガス一辺倒のような印象を拭えないのだ。

 もし台湾有事となれば、その影響は日本にとって重大である。台湾海峡で軍事緊張が高まっただけでも、日本のシーレーン(海上輸送路)は脅かされる。

平成十六年の諫暁書の記述である。たぶん合宿研修会をやっていた頃だろう、先生はシーレーンの話をよくしていたはずだ。たとえば日本の食糧自給率の低さなどを挙げて、もしシーレーンが封鎖されれば日本は一夜にして立ち行かなくなる、という意味を言っていた。食糧のみならず、石油も天然ガスも、何もかもが入って来なくなるのだ。

以上、天然ガス火力が高効率であることなど、武田教授にしてみれば百も承知のことだろうし、浅井先生に勉強不足だと言われる筋合いはないはずだ。資源の乏しい日本においては選択肢を広げておく必要がある。その意味では石炭火力もあながち捨てたものではないだろう。

最後に笑えるネタを一つ。

東京電力・横浜火力発電所のガスコンバインドサイクル発電機

何が可笑しいか、新聞をお持ちでない人にはわからないだろう。これは写真に付された説明なのだが、不適切というか不親切というか、実にトンチンカンなのだ。写真は横浜火力発電所に間違いない。しかし、それは発電所の全景であって、発電機そのものではない。少なくともどれが発電機なのか、写真では判別できないのだ。

いちおう修正案を示しておこう。

ガスコンバインドサイクル発電機が大活躍する東電・横浜火力発電所

あくまで一例である。

2011/9/20

八月度総幹部会の会長講演を読んで  
沖浦氏は公然と公明党批判をしている。おそらくはこれが他の創価学会員の不評を買っているのだろう。しかし、氏はそれを覚悟の上で発言しているわけだから立派なものだと思う。

信行氏にしてはめずらしく具体性のあるコメントだ。おおむね正論だと思うが、ただ一点だけ顕正会側の弁護をしておこう。顕正新聞はわりと紙質がいい。一般紙と比べれば一目瞭然だ。ゆえにそんなにボロモウケをしているようには思えない。

さて、本題に入ろう。

「原発を全廃しても電力不足起こらず」

顕正新聞第1217号の一面には横書きの大見出しがあって、さらに縦書きで三行の大見出しがある。上掲は縦書きの見出しの一つである。

これについて、わたくしの個人的感想を言えば、物凄く違和感がある。さすがに一面の大見出しには相応しくないだろう。これが反原発運動の機関紙であればまだしも、曲がりなりにも宗教団体の機関紙なのだ。しかもわたくしの記憶では前例がない。一面の大見出しは顕正会のことか、もしくはそれを取り巻く宗門ないし創価学会のこと、あるいは当然ながら大聖人ないし歴代上人の御事を云々する、それが顕正新聞の見出しだったはずなのだ。ゆえに上掲の原発云々の見出しには、物凄く違和感があるのだ。

ただし、時期的にタイムリーな話題であることは確かだ。

震災直後、計画停電なるものが始まった。しかし、これは物凄く不評だったこともあるし、現実に電力が足りていたこともあって、すぐに中止された。春先はそれほど電力需要のある季節ではないのだ。当時、心配されていたのは夏場のことだった。今は足りているけれども夏場は電力不足に陥る可能性があると。

さて、実際はどうだったか?

八月度総幹部会が行なわれたのは二十五日のことだ。つまり、夏も終わりを告げようという時期なのだ。実際には九月に入っても厳しい残暑が続いたわけだが、しかし、電力はどうにか間に合った。ようするに原発がなくても電力は足りることが証明されたわけだ。

これで会長講演における原発不要論の論拠の一つが片付いた。

もう一つの論拠は原発不要論というレベルを通り越して、原発は絶対的に悪であるという考え方の開陳である。まさにガチガチの反原発運動家のごとくだ。最初に結論を紹介してしまおう。

 原発が、どれほど国家・民族にとって危険なものかがわかった以上、知りながらなお推進を叫ぶ者は、私は国賊だと思っております。

原発の危険性については、とりわけ人体への影響が昔から懸念されており、さまざまな学者の見解がある。そうした中で彗星のごとく、一人の学者が登場した。

児玉教授の満身の怒り

児玉龍彦氏は今や有名人であるから、ここで細かい説明をする必要はないだろう。わたくし自身、まったく存じ上げなかったが、たぶん多くの人が同じだと思う。国会での演説がセンセーショナルであり、それが動画サイトに上げられると、たちまちに知れ渡った。
東大の教授であることが凄い。わたくしの勝手なイメージを言えば、東大は御用学者の巣窟みたいなところなのだ。そこにかくも立派な人物がいたことが驚異的なのだ。
氏の論述はきわめて理路整然としていて、よどみがない。専門的でありながら、一般人にもそれなりの説得性を持つ論述なのだ。

児玉教授の話を思いっきり端折らせてもらえば、ともかく放射能は人体に危険である、となるだろう。

よって、原発を全廃せよ、これが浅井先生の主張である。

 いま原発問題こそ、国家にとっての喫緊の重要課題ではないか。だが、閣僚も党執行部も「菅おろし」に血道を上げている。
 ということは、自民・公明は菅首相の「脱原発」に反対しているが、民主の閣僚等も、同じく反対だから「菅おろし」をやっているのか、と思わざるを得ない。


これは原発推進派のいわゆる黒い巻き返しであろう。野田内閣が発足して間もなく、経済産業大臣が辞任するという事件があった。鉢呂氏は脱原発に積極的だったと言われている。だとすれば、まさに黒い巻き返しである。各方面から指摘されているように、辞任の理由には不審な点がある。失言が取り沙汰されているけれども、辞めなければならないほどの失言とも思えない。ちょうど同時期に、中部大学の武田邦彦教授もバッシングを受けていた。テレビでの発言が問題となったのだ。しかし、同教授はこれを突っぱねた。学者の信念から発した言葉なので訂正するつもりはない、という意味を言っていた。鉢呂氏も踏みとどまるべきではなかったかと思うが、しかし、黒い巻き返しはそれすら許さないほど強烈なのだろうか?

浅井先生は国立戒壇の是非で国論が二分される時が来ることを夢見ていた。しかし、それは夢で終わりそうである。まさか、その代替のつもりであろうか、今回の講演はまさに原発の是非で国論が二分されている状況を論じたものである。確かに、国家にとって喫緊の重要課題ではあるものの、顕正会の本来の目的からすれば逸脱とも受け取られかねないところである。

今日はこの辺で終わりにしたい。

2011/9/19

第1217号の総括的評価  
八月度総幹部会の話題に入ろう。

先日も少し触れたが、顕正新聞第1217号はひじょうにインパクトのある紙面だと思う。
まず、会長講演が充実している。その中心的話題は原発問題であり、一般人が読んでもけっこう頷ける内容なのだ。そして新聞の中ほどにはコラム「時流」があって、これまた連動して原発関連の話題を取り上げている。
さらには最後のページにもコラムがある。なんと二つもあるのだ。一つは恒例の食べ物コラムであるが、今回はサンマを取り上げている。超定番ではあるものの、一般人受けすることは確実だ。
それからもう一つのコラムがひじょうにセンセーショナルだ。東アフリカではソマリアを中心に深刻な食糧危機に見舞われているという。掲載されている写真も凄まじい。餓えに泣く子供の姿が痛ましい。また、ざっと数えて数百頭は下らないだろう、大量の家畜が大平原を覆うように斃れているのだ。
最近はエジプトやリビアなど北アフリカの情勢が注目されがちであるが、ソマリアはかなり以前から政情不安による混沌とした状態が続いていた。そこに大旱魃が追い打ちをかける格好となり、周辺諸国を含めて大飢饉に陥っているのだそうだ。

<通知>

平成23年9月8日
顕正新聞社

8月度総幹部会特集号の顕正新聞(9月5日付)につきましては、全国会員より「折伏・配布に活用したい」との声があがり、先生より「特価50円としなさい」との指示がありましたので、9月8日よりこれを実施いたします。


ああ、なるほど、これで合点だ。

これは自由な茶寮掲示板に寄せられた情報である。ひじょうにわかりやすい話だ。文中、全国会員から新聞を活用したい旨の声が上がったとあるが、これについて穿った見方をすれば、本当は話が逆なのではないかと思う。つまり、言いだしっぺは浅井先生なのだ。あらかじめ配布に適した紙面を作って、会員に配らせようと考えたのだ。

わたくしがとっさに思い浮かんだのは新講演集のことだ。古くは諫暁書、近くは講演集、いわゆる訪問折伏のための武器である。実は講演集を持っていないので、またしても叱られることになりかねないが、まあ、構わないだろう。かの書物の目玉は歴史認識の問題だった。たぶん一般人が読んでもそれなりに納得できるというか、いわゆる自虐史観に毒されている人にとっては目から鱗が落ちるような、そういう内容なのだと思われる。活動会員たちが言う、浅井先生のご見識の凄さ、みたいなフレーズから推測して、大きく外れることはないだろう。

つまり、今回の顕正新聞は新講演集の系譜に連なるものだと考えられるのだ。

冒頭にも書いたように、今回の講演の中心テーマは原発問題である。さらに国家破産、そして他国侵逼。今回の講演はこの三つに集約されるが、いわゆる国家破産は経済問題であり、他国侵逼は軍事問題ないし国際問題である。

浅井先生は一般受けを狙って、三つのテーマを論じている。それは疑いようのない事実だろう。その目的は折伏の応援の意味である。先生はハッパを掛けるだけ、号令を下すだけ、これでは活動会員たちもツライだろう。そこで先生としては、彼らの折伏の手助けになることを少しでも・・・と思って、いろいろ考えているわけだ。

以前、どこかに書いたと思うが、折伏が苦手だという人が配布ならば私にも出来ると言って、今まで活動していなかった人が活動するようになったという話がある。

この大前提となるのが、やはり本の内容が面白いことだ。今回の場合は新聞の内容が面白いことが大前提だろう。配布するだけなら私にも出来る、という人を馬鹿にしてはいけない。彼らだって内容に自信が持てなければ躊躇するだろう。ゆえに歴史認識の問題にしても、原発問題にしても、それなりのクオリティが要求されるのだ。

浅井先生としては一般人にも充分に受ける内容だと自負するものがあるのだろう。そこで今回は新聞の価格を五十円に設定し、活動会員たちに配らせようと考えたのだ。これは新講演集の系譜であり、さらにルーツをたどれば諫暁書に戻ることになる。つまりは一国諫暁の一環なのだ。

この災厄は、まさに現代科学がもたらした「疫病」である、と私は思っております。

浅井先生は一般受けを狙って、原発問題だとか国家破産、そして他国侵逼を論じた。一般受けないし世間受けというのはなんともイヤラシイところだが、いちおう評価できる面もある。それが上掲だ。

先生は何も受けばかりを狙って、テーマを三つ取り上げたわけではないのだ。ようは三災を念頭に置いているわけである。いわゆる三災とは、穀貴・兵革・疫病のことだ。

上掲の意味するところは、原発事故による放射能汚染を疫病だと言っているわけである。うまいことを言うものだ。はたしてこれが正解なのかどうか、わたくしには俄かに判断できないが、しかし、斬新かつ魅力的な解釈だと思う。穀貴と兵革は異論がないので、そうすると今回の講演のテーマはまさに三災に則ったものだとわかる。これで浅井先生が単に世間受けばかりを狙って話をしているわけではないことが明らかとなった。

原発は直ちに廃止せよ!!

講演の詳細は次回に譲ることにするが、今日は歴史認識の問題を含めて簡単に触れておく。

顕正会は原発賛成の会員を認めないのか?

これは先日の話にも通じることだが、反原発運動そのものは宗教活動ではないはずだ。別の言い方をすれば、反原発運動と大聖人の仏法を実践することとは別次元のことだ。すると大聖人の仏法を実践することと原発推進とは必ずしも矛盾しないのではないか?

歴史認識だって同じことだ。この歴史認識という言葉が示すとおり、立場によって歴史に対する認識がマチマチなのが実情だ。では、聞こう。顕正会では浅井先生の示した歴史認識以外は認めないのだろうか?

今日の結論を述べたい。

八月度総幹部会の会長講演はひじょうに内容が濃くて面白い。しかも三災に基づいて論じているので、単に世間に迎合することにならず、この点は素晴らしい。問題は原発の賛否である。わたくしは昔から原発反対である。顕正会も原発反対を表明した。しかし、わたくしはそれを手放しでは喜べない。元来がヘソマガリなものだから、会の方針に逆らおうとの気持ちが湧いてきてしまうのだ。少なくとも原発賛成の会員がいてもいいのではないか、というのがわたくしの考え方であり、歴史認識の場合も同様である。そこで結論だが、たぶん顕正会はそれを許さない、たとえ表面上は寛容を装っても実際には許さない、それがある意味では宗教団体の当然の姿なのだろう。早い話が融通が利かない、それが顕正会なのだ。

それから最後に、第1217号の全体的な印象から、余計な心配を一つしておこう。

今号は面白い。たぶん一般人が読んでも面白いだろう。問題は次号だ。編集部がいちばんわかっているはずだが、号によっては明らかに手抜きと思われる時がある。毎号、コンスタントに面白くなければダメなのだ。もし今号をキッカケに入信する人がいたとしても、これ以降の新聞がつまらなければすぐに幻滅して退転することにもなりかねないだろう。

2011/9/15

ノルマ化の実態  
大沢氏には本山での貴重な体験をご報告いただいた。一読して氏の所属する講は大組織なのだと了解した。顕正会で同じことをやるとなると大変だろう。ようは浅井先生のワンマン体制だから、部下はイエスマンというか指示待ち人間ばかりであって、自主的ないし主体的に行動できる人が少ないのだ。それと合宿の件であるが、たぶん顕正会ではもう行なわれないだろうと思う。なぜかと問われても困るけれども、ともかく最後の直線コースに突入したと言っているわけだから、合宿などをやっているヒマはないはずなのだ。

山門入り口氏は相変わらずだ。昨日の拙稿を読めば、わたくしのほうでかなり譲歩していることがわかるはずである。つまり、どちらとも断定できない、ということなのだ。

それでも氏は納得できないらしく、あれこれと書いている。しかし、その内容は以前の主張を反復しただけであり、まったく新鮮味がない。

わたくしの思うに、自分の主張が正しいと言いたいのならば、もっと説得力が増すように工夫ないし努力をしなければいけない。同じことを繰り返し述べたところで、どうにもならない。相手にウンザリ感を与えるだけなのだ。

以上、まだ何か言いたいことがあるならば遠慮する必要はないけれども、少なくとも創意・工夫を凝らした上で書き込んでいただきたいものである。

さて、隊長もどき氏より、貴重なコメントを頂戴した。再掲は控えるが、二つともひじょうに価値のある内容である。まさに本日のタイトルは、氏のコメントを拝見して考え付いたものである。

ノルマ・・・

拙ブログでは、ノルマという言葉をほとんど使ったことがない。意外に思うかもしれないが、本当のことだ。

ちなみに『迷走する顕正会を斬る』にはノルマを云々するくだりがたくさん出てくる。

 なぜ、顕正会には厳しい勧誘ノルマがあるのか。

これは本文に入る前の「はじめに」の一節である。本を開くと、いきなり出てくるのだ。あとは推して知るべしであろう。同書には至るところにノルマの文字が躍っている。

『迷走する顕正会を斬る』を愛読(?)するわたくしであるが、不思議にも自分ではノルマという言葉を使わない。その理由は真面目な顕正会員に対する遠慮からである。

ご存知のごとく顕正会では折伏誓願を立てる。穏当に言えば折伏成果の目標を立てるくらいになるだろうか? ところが批判者たちはそうは言わない。折伏=勧誘であり、誓願=ノルマである。櫻川氏も上掲のごとく、勧誘ノルマという表現を使っている。

わたくしは真面目な顕正会員に対する遠慮から、そうした表現を控えてきた。過去の拙稿を隈なく調べてみるがいい。たぶん一度も使っていないはずである。

しかし、昨日の拙稿で明らかにしたごとく、大法戦開始には欺瞞がある。まさに、ここにはノルマ化の実態が如実にあらわれていると思うのだ。

おそらく隊長もどき氏は思うだろう。今さら何を言っているのか、ノルマ化は今に始まったことではなく、かなり以前から常態化していることではないか、と。

もちろん、おっしゃるとおりなのだろう。しかし、わたくしの言い分は次のごとくだ。

たとえば二月法戦がある。二月の成果は十二月と一月の成果が合算される。事実上の三ヶ月法戦である。しかし、この場合はおおむね次のような表現が使われてきたわけで、隊長もどき氏もよくご存知のことだろう。

自発の折伏

先手の折伏


これは各個人、あるいは隊や区などの各組織が自主的に折伏を行なうことを意味するわけで、十二月であれば広布御供養の推進の合間を縫って、一月であれば教学試験の合間を縫って、折伏を進めていくわけである。

つまり、二月法戦であれば一月末の総幹部会で誓願が打ち出される。同様の意味で、九月の場合は八月末の総幹部会で誓願が打ち出されるのだ。ゆえに、それ以前の折伏は自発の折伏となる。

ところがどっこい、今回は顕正新聞が自ら明らかにしているように、かなり早い時期に誓願が打ち出されていたのだ。

キレイ事を言えば、本来の誓願は上から押し付けられるものではないわけで、常に自発であらねばならない。けれども実態的には、上からの押し付けが当たり前のことになっている。だからわたくしは思うのだ、十二月だとか一月の、あるいは五月の、そして八月の、そうした折伏の月ではない時に行なわれる折伏がどれほど尊いかと。

いわば顕正会の首脳部はそれを奪ったのだ。

たぶん、これは首脳部の苦悩のあらわれでもあるのだろう。百五十万を年内に達成しなければならない。そのための逆算をすると、どうしても時間が足りない。隊長もどき氏が数字を並べて説明してくれたように、顕正会の実力は衰えつつあるのだ。ゆえに心配だったのだろう。確信が持てなかったのだろう。それで表向きは八月二十五日が秋の大法戦開始の日とされたが、実際には前倒ししていたのだ。

折伏法戦を憂鬱に思っている会員が少なくない。

さすがに現役の活動会員からそうした本音を聞き出すことは難しいが、これは元会員たちの証言が存在する。もちろん、マレには心の底から活動が楽しい、折伏が楽しくて仕方がない、という人もいるだろう。活動会員の大半が瞬間的にはそのような時期を経験しているのも事実だ。しかし、あくまで瞬間であって、多くの会員は苦しんでいる時間のほうが長いはずだ。

事実上の四ヶ月法戦・・・

いや、違うかもしれない。六・七月法戦終了後すぐに今回の法戦が始まったのだとすれば、事実上の六ヶ月法戦である。

本年秋、顕正会は百五十万を達成する。数字の上では達成するが、実数はその十分の一にも達しない。一方、活動会員たちは疲弊の極に達する。それが本年の成果である。

2011/9/14

大法戦開始の欺瞞  
トチロ〜氏との対論は昨日でおおむね決着がついたようだ。本稿では詳細を省かせていただくので、あとは読者各自が昨日の拙稿ならびに氏のコメントをよく読んでいただければと思う。

一方、山門入り口氏との対論は決着がついていない。

 豆腐屋の件ですが、家族なら身内で、給料もでないような経営でしょう。
しかし、親戚とかなら、給料がでますので、雇われとも言えませんか?
また、経営者が職場にでられなくて、職場復帰のあいだまで、親類にお店を任せる。これも、雇われですよね。
ま、これ以上豆腐屋の話題もつまらないので。


困った人である。わたくしの昨日の結論を読んでいないのか、あるいは読んでも理解できないのか、もしくは単に自説に固執しているだけなのか、ともかく困った人である。

いかがだろうか、くだんの人物が雇われ店番である可能性はきわめて低い、という結論が見えてきたはずである。

わたくしは記事を読んでいて、ごく素朴に、この人は豆腐屋の主人らしい、と思ったわけである。それに対して山門入り口氏は、主人ではなく雇われ店番である、と言ってきた。しかし、結局のところ、記事の文面からはそれを決定づけるだけの材料が見出せない。当然、これはわたくしのほうにも当てはまるわけで、豆腐屋の主人であると断定することも難しいのだ。そこでわたくしは今の日本の社会状況に鑑み、個人商店の多くは他人を雇う余裕がなくて身内で店を切り盛りしているのが実情である、という意味を書いた。ようはその結論が上掲なのである。

ここで注意すべきは、あくまで可能性の話だということである。実際には雇われ店番かもしれないわけで、その可能性だってゼロではないのだ。ただ、どちらかと言えば、主人の可能性のほうが高いのではないか、ということなのである。

しかし、親戚とかなら、給料がでますので、雇われとも言えませんか?

これはまさに自説に執着しているだけの議論であろう。いったいどこに親戚と書かれているのか、ありもしない材料を並べたところで無意味である。

また、経営者が職場にでられなくて、職場復帰のあいだまで、親類にお店を任せる。これも、雇われですよね。

これもまったく同じことだが、せっかくだから意見を書いておこう。わたくしの親戚に大工がいる。あるいは小さな工場をやっている人もいる。もしもである。何かの事情でわたくしのところに、代わりに大工の仕事をやってくれないか、という話が来たとしても、あるいは工場をやってくれとか、そんな話があったとしても、出来っこないことなのだ。

仮にわたくしがヒマを持て余していたとしても、無理な相談である。

おわかりだろうか、ノウハウがないのだ。大工の経験がなくて大工ができるか、工場しかりである。当然ながら、豆腐屋も同じだろう。豆腐屋なんて簡単だから誰でもできると思ったら大間違いだ。豆腐屋をナメんなよ、というのが結論である。

ただし、繰り返しになるが、雇われ店番の可能性もなくはない。

今の時代、大半の個人商店が細々とやっている。それが実情である。けれども、マレには繁盛していて従業員を何人も雇っているところもあるのだ。こんなことはちょっと冷静になればわかることである。しかるに山門入り口氏は親戚だの親類だのと、もちろんそうした可能性もなくはないが、しかし、議論がどんどんおかしな方向に行ってしまっていることは否めない。まさに自説に固執している姿そのものである。

ま、めんどくさいでお終いとか成りそうですが・・・

口癖というわけではないが、確かにわたくしは「面倒臭い」を多用している。ところがである。その割にはけっこう長い文章を書いているのだ。

面倒臭がりの割には文章が長い。

つい先日も書いたことだが、自分の意見を正しく伝えるためにはそれなりの紙数が必要なのだ。この点は面倒臭がっていてはいけない。もしそれがイヤならば、最初から文章など書かなければいいのだ。ブログなどやらなきゃいい。

ところで、豆腐屋の話でうっかり書き忘れたことがあるので、紹介しておこう。

顕正会の本尊は、池田先生が魂を抜いたから何の力もあらへんのや!

なんと記事中にはカギカッコで上掲のセリフが入っているのだ。豆腐屋の主人(雇われ店番?)に向かって近所の創価学会員が言ったのだそうだ。

凄いことを言うものだ。

さしずめ山門入り口氏ならば、こんなの作文に決まっているじゃないか、と言いそうであるが、わたくしは言わない。断定するだけの材料がないのだから、こういう場合は記事の特異性、あるいは不自然さや矛盾点などをあげつらうだけで充分だと思う。たとえば、もし創価学会でそのように教えているのであれば、現宗門に対してはどうなのかという疑問が生じてくる。宗門の御本尊に対しても、魂を抜いているのだろうか? 一方で開眼の不要を主張しているのが創価学会である。開眼を魂を入れることだと解釈すると、池田氏のやっていることはその逆だから閉眼だろうか? 開眼は不要だけれども閉眼は必要なのか? なんだかよくわからん話だ。

最後に、総幹部会特集号に絡めて、一つ前の新聞記事を紹介しよう。

 原点の月八月を迎え、早々に頂いた九・十・十一月法戦の誓願に、浅井先生の急がれるお心を強く感じて・・・

婦人部三重支区部長の登壇である。八月の何日であるか不明であるが、三重で集会があった。この時に上掲の発言をしているわけである。

早々に頂いた誓願・・・

さて、それでは顕正新聞第1217号をご覧に入れよう。

 八月度総幹部会は二十五日、川口総合文化センターで行われた。いよいよ一五〇万大法城が屹立する大法戦開始のこの日・・・

通常ならば総幹部会で誓願が発表される。ところが今回に限ってはかなり早い段階から誓願が決まっていたらしいのだ。上掲には「大法戦開始のこの日」と書かれているが、実質的には七月度の総幹部会が終了した時点で直ちに戦いが開始されたと見るべきである。

2011/9/13

残暑厳しき折  
トチロ〜氏の黒い巻き返しが始まった・・・というのは冗談だが、まあ、ともかく氏のコメントを掲げておこう。

富士年表を買ってきました。


1970年、1974年に、しっかり妙信講の記載はありましたよ。


隠蔽も抹殺もありませんでした。


ノーサイドへの一歩が踏み出されました?


それとも師匠の浅井先生のごとく、新たなイチャモンを探しはじめますか?


それとも専売特許のスルーでしょうか。


イチャモンつけるなら、資料にあたってからの方がよろしいかと思います。老婆心ながらご忠告申し上げます。


事実の前には額ずかなければいけない。それが鉄則だ。己の誤りを素直に認めることが出来るかどうか、そこがまさに賢愚の分かれ目である。

しかし、まだ議論の余地がある。

まず、率直な感想を書けば、上掲は物凄くイヤミな文章だ。まあ、しかし、それはどうでもよい。わたくしが気になるのは、氏の一方的な物言いである。相当に頭に血が上っているものか、あるいはワザと気がつかないふりをしているものか、そこが気になるところだ。順を追って説明しよう。

わたくしは当該年表を所持しているわけではない・・・

未確認ながら・・・


これはもちろん、わたくしの言い訳である。トチロ〜氏の、イチャモンをつけるなら資料に当たってからにしろ、とのご忠告は甘んじて受けなければいけない。

確かに孫引きではある。原典を確認しなかったのは事実だ。

しかし、『迷走する顕正会を斬る』はれっきとした出版物である。由緒ある出版社から出された立派な本なのだ。

おそらく読者の中には、開き直りのように思う人がいるかもしれない。あるいは、巌虎は出版社ないし著者に責任をなすり付けようとしているのではないか、と思うかもしれない。

それは誤解である。

ここで今一度、当該書籍の問題部分をご覧にいれたい。

そもそも妙信講の名が抹消され、宗史に登場することがない。「日蓮正宗富士年表」(富士年表出版委員会編、富士学林)にも、「日蓮正宗法華講百年史年表」(同編集委員会)にも妙信講に関する記述は皆無である。

冒頭に掲げたトチロ〜氏のコメントによれば、富士年表には妙信講に関する記述が存在する。しかし、櫻川氏は上掲のごとく、皆無であると書いているのだ。トチロ〜氏がわざわざウソを言うことは考えられない。では、櫻川氏がウソを書いているのかと言えば、それも考えにくいだろう。ウソではないが、うっかりミスということか?

わたくしの思うに、櫻川氏ほどの人物がそんな初歩的な見落としをするだろうか? 記載があるかないかという単純な話である。無関係の人が何の気なしに流し読みをしているのとはワケが違うのだ。

これで議論の余地があることがわかっただろう。

可能性として、おそらく櫻川氏の所持する年表には記載されていないのではないか? 幸いトチロ〜氏は著者と面識があるという。ならば、ぜひとも確認作業をお願いしたいと思う。

さて、今度は山門入り口氏のコメントである。

広瀬隆氏の件ですが、浅井会長は、広瀬氏の説を利用して発言しているだけですよ。
原発地震問題に対して、先駆者と言うべき存在でしょう。
YouTudeでインタビューとか出てますが、それを見る限りでは、地震による原発の危険性を、一番最初に声を上げて訴えていた方みたいですね。


もし上掲がわたくしへの反論のつもりならば、無意味であることを自覚すべきである。

浅井先生が広瀬氏の説を利用しているだろうことは想像に難くない。しかし、会長講演には広瀬氏の名前が出てこない。ゆえに「広瀬隆の全部受け売り。大聖人を棚上げして、もはや広瀬信者か」との男子部長氏のコメントは、早とちり・勝手な推断と言わざるを得ないのだ。今の段階では、あくまで「・・・だろう」と書くべきところである。

こんなの作文に決まってるじゃないですか。

同様の意味で、わたくしには「こんなの作文に決まっている」みたいな書き方は出来ない。少なくとも当該人物は妙信講の古参なのだろう。そういう人の話を頭ごなしに否定するわけにはいかない。それがわたくしのスタンスである。

もちろん、山門入り口氏が確信を持って主張するのであれば、それは結構なことである。

学会歴数十年の登壇者て、学会を恣意的に落としめようとしてる作文でしょうね。

文末の「でしょうね」は上述の「・・・だろう」と同じであるから問題はないが、あとは具体的な指摘がほしいところだ。ようするに恣意的に貶めようとしていることの具体的な事例である。残念ながらこの件に関するコメントはそこが不足のようだ。

「大阪市十三にある自営の豆腐屋で店番」て原文ですよね。
自分のお店なら「自営業の豆腐屋」とか書きませんか?
原文だと自営の豆腐屋で雇われ店番とも読むことが出来ますよね。
それに顕正会員の登壇では、自営業だと、自営業を営んでいてとハッキリ書いてるものしか知りません。
 自営業の○○をしていたが、御遺命に背く学会にいて身が持つはずもなく。とか。
自営業を営んでいたが、経営不振で苦しかったが、顕正会に入会して、朝晩の勤行を実践したら、売り上げが伸びて。など、自営業の場合は、とくに、強調しています。
また、家業と言う表現もありますが、この場合は、雇われと見るのが自然ではないかと思います。
それに、常連さんなら、多少の話で避けることも無いでしょう。
ま、顕正新聞なんて、話半分以下の作文が大半ですけどね。


ひじょうに面白い部分なので、丸ごと紹介させていただいた。

こんなことを論争しても仕方がないけれども、わたくしは氏の見解に大反対である。ようするに、くだんの人物は店の主人ではなく雇われ店番である、というのが山門入り口氏の意見である。

はたしてそうだろうか?

自分のお店なら「自営業の豆腐屋」とか書きませんか?

再掲だが、わたくしの言語感覚では「自営の豆腐屋」で問題を感じない。むしろ「自営業の豆腐屋」のほうが違和感がある。

さて、こういう場合、何をどのように議論すべきだろうか?

アホな人はどんどん脱線していくことになる。自営か自営業か、こんなことを議論しても答えは出ないのだ。仮に山門入り口氏の主張する「自営業の豆腐屋」が適切な表現だったとしよう。しかし、それが直ちにくだんの人物を雇われ店番だと断定する材料とはならないのだ。つまり、ここでは単に文章表現が不自然であるということを証明するだけであって、それ以上のことはわからないのだ。そりゃそうだろう、発表者が教養のない人で、おかしな文章を書く人であれば、真実を読み取ることがよりいっそう困難になるだけの話である。

原文だと自営の豆腐屋で雇われ店番とも読むことが出来ますよね。

これはもちろん、おっしゃるとおりである。しかし、どちらとも読める場合、それだけではどちらが正解かわからないのだ。

それに顕正会員の登壇では、自営業だと、自営業を営んでいてとハッキリ書いてるものしか知りません。

これは面倒臭い話だ。本当ならば、具体例を挙げるべきところである。しかし、具体例を挙げたところで、証明にはならない。

一個人の文章傾向を分析して、この人はこういう表現を絶対に使わない、という結論が出たとしよう。しかし、それとて当てにならないのだ。今まで使わなかったが試しに一度使ってみよう、と思うこともあるからだ。ましてや一個人ではなく、団体とは言え別々の人間がそれぞれの人生を語るのであれば、内容はもちろんのこと、その表現にしたって多種多様になって当然である。

山門入り口氏の雇われ店番説の根拠は、おおむね上掲が主要なところであろうか?

であれば、失礼ながら根拠薄弱と言わざるを得ないだろう。では、わたくしはどうかと言うと、別に何の用意もしていない。ごく普通に読んでいて、店の主人であろうと思ったまでのことである。ゆえにこの場合、山門入り口氏が異論を唱えてきたわけだから、氏がちゃんと根拠を述べてわたくしを納得させればいいだけの話なのだ。しかし、残念ながら納得できなかった。

前回、今や個人の豆腐店は全国的に縮小傾向にある、と書いた。さしたる用意はないが、いちおう、これをベースにわたくしの意見を書いておこう。

家業も大手の取り引き先が次々離れて行ったり・・・

実はくだんの記事には上掲のくだりが存在するのだ。前後の脈絡からこれが直ちに豆腐屋に結びつくわけではないが、その可能性は否定できないだろう。

上述の縮小傾向云々については、たぶん資料の提示を求める人はいないだろう。実はわたくし自身、資料を基に書いているわけではなく、生活実感から書いているわけである。すると誰もが実感しているはずである。縮小傾向は何も豆腐屋に限った話ではないのだ。今やあらゆる個人商店が苦しんでいて、店じまいを余儀なくされているのだ。

そろそろ結論を書こう。

これも誰もが目撃しているはずの話であるが、上述の個人商店は経営が苦しく、他人を雇う余裕がない。たいていが身内で細々とやっているのだ。

いかがだろうか、くだんの人物が雇われ店番である可能性はきわめて低い、という結論が見えてきたはずである。

2011/9/11

顕正新聞第1216号を中心に  
尻切れトンボのようで恐縮だが、仕方あるまい。今日は先日来の話題から一変して、顕正新聞第1216号を取り上げたいと思う。

その前に、男子部長を名乗る人物からコメントが寄せられているので、それを全文紹介しよう。

脱原発イエスかノーで国賊あぶりの運動が、これからの顕正会の路線に決定。
もうついていけん、あほらし。
広瀬隆の全部受け売り。大聖人を棚上げして、もはや広瀬信者か。


この人が本当に男子部長だったらオオゴトである。ついていけない、あほらしい、こんなことを思っている人が男子部長だったら、もう顕正会も崩壊前夜だ。

しかし、疑問である。顕正新聞の最新号を読むと、上掲の記述は必ずしも正確ではないように思えるのだ。

国賊あぶりの運動・・・

そうは読めなかった。原発問題は深刻であり、当面は継続的に取り組むべき課題である。何しろ事故の収束がまだだからである。その意味で顕正会としてのスタンスを明確化したわけだろう。さりとて具体的に脱原発運動を展開していくとか、そういう方向性を打ち出したわけではないと思う。もし組織の内部でそのような方針が示されているのならば話が違ってくるが、少なくとも紙面の会長講演からは読み取れなかった。

広瀬隆・・・

わたくしはてっきり会長講演の中に、広瀬隆氏のことが出てくるのかと思った。ところが出てこないのだ。ゆえに、これまた不正確のソシリを免れないだろう。

以上、おおむね上述の二点からして、男子部長氏の言っていることには疑問符を打たざるを得ないのだ。いわば早とちり、勝手な推断、そんなところだろう。

いずれにしても八月度総幹部会の会長講演はひじょうにインパクトのある内容だ。これは次回以降、取り上げたいと思う。今日は一つ前の顕正新聞を取り上げる。

原発の安全神話に騙されていた!

女子部支区長補の活動報告である。この人は原発関連の企業に勤めているらしい。

泊原発が全国で初の再稼動
 原発推進派の黒い巻き返し


こちらは「時流」と題するコラムの見出しである。黒い巻き返し、これはなかなか面白い表現だ。

男子部長氏の気持ちもわからなくない。こうして見ると、震災以降の顕正新聞は初めの頃こそ大津波の衝撃的な写真ばかりを掲載していたものの、後はずっと原発問題ばかりを追い続けているような印象がある。あたかもそれが活動の中心みたいな、ようは反原発運動を目的とした団体のような、そんな感じが否めないのだ。

いちおう本部首脳に提言しておこう。以前には中部電力に勤める顕正会員が登場した。そして今回は社名こそ伏せてあるものの、原子力業界の一員という女子部の幹部が記事を書いているのだ。わたくしは彼らの身の処し方が心配である。顕正会は脱原発を掲げている。彼らは顕正会員であると同時に、電力会社の職員ないし関連企業の職員なのだ。つまりは板挟みである。これについて本部首脳がどのように考えるか、わたくしは問うてみたいのだ。わたくし自身はもとより反原発であるけれども、彼らの立場を考えた時には暗澹たる気持ちにならざるを得ないのだ。もし彼らが職場で反原発を主張すれば、おそらくは職を失うことになるだろう。路頭に迷うことになるのだ。はたしてそれが正しいことなのかどうか、わたくしにはわからない。ようは宗教的信念の上から職場を去る、あるいは職場を追われる場合、それはいわゆる法難であって、名誉なことである。しかし、はたして今の段階で反原発を宗教的信念と言えるのかどうか、そこが必ずしも明確ではないと思うのだ。

顕正会の活動によって、会社をクビになった。たぶん、こんな話は山ほどあるだろう。しかし、今までの場合、それは折伏によって生ずるところの軋轢だった。もちろん、顕正会批判の立場から言えば、顕正会の折伏は折伏にあらず、成果に追いまくられて強引な勧誘をしているだけの法を下げる行為である、ということになるだろう。それは確かに問題だけれども、少なくとも折伏を看板に掲げている以上はいちおう純粋な宗教活動と言えるはずである。ところが反原発ないし脱原発となると、これは宗教活動ではなく社会活動となるのだ。もしこれで職を失い、路頭に迷うことになったらどうするのか、わたくしはそれが心配でならないのだ。

男子部長氏のコメントを振り返っていただきたい。

わたくしは当初、氏のコメントに疑問を付した。しかし、上述のごとく、氏の考えを敷衍させていただいた。何が言いたいか、つまり、自分の気持ちを正しく伝えるためには、ある程度の紙数が必要だということなのだ。

さて、話題を変えよう。

 私は昭和三十二年四月、当時の職場の社長の折伏により、十五歳で入信しました。

男子部班長の記事である。もちろん旧壮年部の人だろう。七十歳になるらしい。ようは古参会員のお出ましである。こういう人が残っているとは凄いことだが、記事に不審な点がある。

しっかり信心して、講頭先生・浅井先生について行けば、間違いない人生が送れる。

職場の社長から折伏された時に、このように言われたのだそうである。浅井先生は今現在の浅井先生だろう。しかし、当時から浅井先生と呼ばれていたとは思えない。わたくしには物凄く不自然に思えるのだ。当時の先生は二十五歳だった。一方、くだんの社長が何歳であるか不明だが、常識的にはもっと上だろう。講頭先生はそのままでいいとしても、その子息とは言え二十五歳の若造に対して浅井先生と呼ぶのはいかがなものかと思う。

あと当該号で目を惹いたのは「正義にめざめて」であろう。四本あるが、そのうち創価学会歴五十年が二人いる。また、重複するが、いわゆる平会員が二人いて、一人は男性女子部員、もう一人は男性婦人部員だ。テレビのバラエティ番組に出たという男子部組長もいる。

すぐに日顕書写の本尊を返納

これは男性婦人部員の記事だが、創価学会歴五十年の女子部組長の記事には次のくだりがある。

 また、御本尊を返すようにと学会幹部が来たとき、「御本尊を頂いた際に払ったおカネは、レンタル料だから」と言われ、この信心のかけらもない学会幹部の姿には、憤りと悲しみでいっぱいになりました。

二つの記事を比べると、なんだかよくわからない。前者は進んで返したごとくであるが、逆に後者は返し渋っているようにも感じられるのだ。昭和三十五年入信らしいので、以前の日寛上人の御本尊なのだろうか?

話が前後して恐縮だが、次の部分はずいぶん短絡的である。

 しかし次第に国立戒壇のことを聞かなくなり、「何票つかんでいるか」等の選挙の話や阿部日顕の悪口ばかりになり・・・

日顕上人の悪口は少なくとも平成に入ってからの話である。昭和三十五年に入信したのであれば、いくらなんでも話を端折り過ぎだろう。

最後に、またしても話が錯綜して恐縮だが、男性婦人部員の記事を紹介しておきたい。

 この有難い仏法をお客さんにも教えたいと折伏していくと、店の前を通らなくなった常連客もいます。

この人は豆腐屋を営んでいるのだそうだ。今や個人の豆腐店は全国的に縮小傾向にある。ゆえに、この人も遅かれ早かれ廃業を余儀なくされるだろうが、顕正会のお陰でそれが早まっただろうことは疑いないところだ。

2011/9/9

再びトチロ〜氏のコメントを中心に  
引き続きトチロ〜氏よりコメントをたまわっているので、今回もまた氏のコメントを中心に論じていきたい。

隠蔽云々に対する厳虎さんのお答えは苦しいと思います。

顕正会は御遺命破壊ありきが前提になっていますから、私の言動が“隠蔽”の証拠だとなるのでしょうが、そうではないですよね。

御遺命破壊があった事実、ならびにそれを隠そうとした事実が証明出来てこそ、厳虎さんが「隠蔽云々」と批判した根拠になり、万人を納得せしめるものかと思います。


とんだ勘違いである。前々回のタイトルならびに全体の文脈をよく考えてほしいものだ。

トチロ〜氏の言わんとしていることを平易に書き直せば、宗門が隠蔽ないし抹殺をしたという証拠があるならば出してみよ、ということだろう。宗門首脳が謀議を凝らし、実行した。巌虎はその証拠をつかんでいる。だったら証拠を見せよ。こんな感じだろうか?

もしトチロ〜氏の意図が上述のごとくであれば、とんだ勘違いであり、単なる想像に過ぎない。

これはいわゆる自作自演説である。

わたくしはこれに大反対である。

断じて承服し兼ねることをここに表明しておくものとする。


これは前々回の拙稿から抜き出したものであるが、ようするに自作自演説は事実に反するから断じて承服できないということだ。そしてこの後、櫻川氏の文章を引用させていただいた。

 顕正会から離れた元幹部と会ったとき、「御遺命守護は浅井会長の自作自演だ」と語るのを聞いて愕然とした。わたしは、立場が変わったとはいえ史実まで曲げてしまうのはどうか、との感を深くした。

その上でわたくしは次のごとく書いた。

とかく事故には隠蔽が付き物であり、御遺命守護の戦いそのものが抹殺されんとした点も見逃せないところである。

これでおわかりだろう。自作自演説は事実に反するから断じて承服できない、これが第一点。と同時に、自作自演説は顕正会の歴史そのものを抹殺せんとする意図が感じられるので看過できない、ということなのだ。

これらを踏まえて、今一度、トチロ〜氏の文章をご覧に入れたい。

実は“原発事故そのものが無かった。”というのが真実なのであります。

ここから受ける印象は、まさに隠蔽ないし抹殺に他ならない。何も宗門側でそうした裏工作のようなものをしたとか、その証拠をつかんだとか、そんなことを言っているわけではないのだ。

大事なことは公平な立場の人がどのように感じるかである。必ずしも顕正会を贔屓目に見る必要はないわけで、双方の言い分に公平に耳を傾けたらどうなるか、なのだ。繰り返しになるが自作自演説は認められないだろう。であれば、隠蔽ないし抹殺というわたくしの言葉は、おそらく公平な立場の人からも相当の支持を得られるはずである。

さて、話を先に進めよう。引用を端折らせてもらうが、年表不記載の件である。

されば、ことさら浅井氏を英雄視することは無いのです。

ここにも勘違いというか、やや複雑な事情があることを、読者には知っていただく必要がある。

わたくしは必ずしも浅井先生を英雄視しているわけではない。ゆえに、年表に浅井先生の功績を載せろ、などとは言っていないのだ。
もちろん、ここは言葉が足りなかった面も否めないが、よく読んでもらえばわかるはずなのだ。実は浅井先生の功績を認める旨の発言をしたのはトチロ〜氏のほうであって、わたくしではない。しかもである。拙ブログはすでに膨大な投稿数に達しているが、意外にもわたくしは自ら進んで浅井先生の功績を云々したことがないのだ。
つまり、プラスの評価を求めているわけではないのだ。マイナスであってもいい。顕正会の言い分がすべて正しいとは限らないわけだから、年表には宗門側の言い分が載せられて当然である。そうした記述がまったくないことが隠蔽ないし抹殺ではないかと言いたいのだ。

ただし、わたくしは当該年表を所持しているわけではないので、全体的なバランスからして顕正会の記述を加えることが適当かどうか、そこは判断を保留しなければいけないだろう。

猊下は学会を慰撫教導しようとされていたのですから、ギリギリの線でのご発言は存在しても当然です。

さて、今度は慰撫教導の問題である。わたくしもそれを理解しないわけではないが、ここでも公平な立場の人がどのように見るかが問われるところだろう。

失礼ながらその意味で上掲はやや自爆気味である。

ギリギリの線でのご発言・・・

おわかりだろうか、ようはギリギリセーフだと言っているわけだが、それは判定する人によってはアウトにもなるわけである。顕正会に言わせれば完全にアウトだが、まあ、これは当然ながら公平とは言えない。正真正銘の第三者がどのように判断するかが問題だ。それをここでわたくしが推測してもあまり意味はないが、一つだけ言えることがある。宗門側の人間がセーフの判定を下すのは顕正会側がアウトだと言っているのとさして変わらない。いわゆる身贔屓だ。すると第三者であれば直感的に宗門側の判定は相当に甘いと感じる可能性が高くなる。つまり、ギリギリセーフはアウトの可能性が高いのだ。

いかがだろうか、これで自爆の意味がよくわかったはずである。

御隠尊猊下はご自身の過去の発言に対しては一部誤りを認められてはおりますが、日達上人に対しては神経を使われたお言葉しか残されてはいないと思いますが?

神経を使われたお言葉・・・

これも第三者がどのように感ずるか、自問自答すべきだろう。さすがに自爆とまでは言えないだろうけれども、親分を守るために子分が神経を使っているみたいな、譬えは悪いがそんな印象を受けるところである。

御房は山僧の御弟子とうけ給はる。父の罪は子にかゝり、師の罪は弟子にかゝるとうけ給はる。

祈禱抄の一節を引用させていただいた。実はこの御文の意味をわたくしはよく理解できていないのだが、何となく今回の話題に通ずるような気がしてならない。わたくしの思うに、無理な会通は墓穴を掘るだけであり、かえって猊下の御徳を汚すことになる、ということだ。

もちろん御遺命破壊はなかったにせよ、御遺命の戒壇に対する認識が宗内で統制がとれていないのが現状かと思います。

重要な発言だと思う。御遺命破壊があったかなかったかの議論はお互い譲れないところがあって平行線をたどることになりかねないが、前回の拙稿でも明らかにしたように教義上の誤りがいわゆる「汚染」に相当するわけである。いわゆる富士の清流というのは、まさに教義が正しく保たれていることの譬喩に他ならない。その意味からしても上掲の発言はきわめて重要であろう。


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