2011/12/20

バーズ博士のコメントを読んで  
バーズ博士より懇切丁寧なるコメントを頂戴したので、以下に掲げさせていただく。

顕正会員はなぜ広宣流布を目指すのか?それは仏国実現のためです。
巌虎さんは「立正安国論」を勉強したことは多分あると思いますが、“立正安国”の前提に“破邪”があるのはご存知ですよね。つまり「破邪・立正・安国」です。この“破邪”と“立正”によって初めて“安国”つまり仏国実現となります。

ですから、例えば天皇が個人的に帰依しても“破邪”がありませんから仏国は実現しません。

国民投票で過半数の人が「立正・安国」を熱願し、宗教に正邪があることを示せば、国中の謗法を排除(破邪)することが出来ます。そして国家の指導者や天皇も、国民の過半数が賛同するのであれば無視できませんから、「勅宣・御教書」に準じた“国会意思の表明”もなされ、国立戒壇の建立も可能となります。
こう考えれば“下から上へ”は理に叶っていると思います。

では、六千万人もの人が本当に帰依するのか、ということですが、浅井先生が常々指導くださるように“広宣流布は大聖人様の御力で進む”のです。

「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と。

広布前夜には様々な災難が起こります。諫暁書の表紙に書いてあるとおりです。この国家レベルの罰によって、今まで背いていた人達が一気に信心に目覚めます。

巌虎さん、今後浅井先生の指導を拝する時、また顕正会の活動を見るとき、その根底に「立正安国論」の教えがあるのだということを視野に入れて考えてみてください。今まで見えなかった何かが見えてくると思います。

ちなみに学会や宗門は“破邪”でつまずきました。
学会は正本堂の完工式にキリスト教の神父を招き、宗門は大石寺に身延の坊主を招き入れています。
この辺が顕正会と学会・宗門との大きな違いです。


拙ブログ始まって以来の快挙(?)である。

というのは、もはや巌虎は救い難い、と思っているのか、現役会員からのコメントはほとんどないのだ。ごくマレに寄せられることはあるけれども、たいていは感情的な殴り書きというか、真面目に議論をしようとの姿勢がまったく見られない。ところがバーズ博士のコメントは上掲のごとく、実に理路整然としており、また、紳士的でもある。ひじょうに気持ちがいい。

博士は立正安国論の精神を書いておられる。立正安国の前提には破邪がある。破邪なくして立正なし、立正なくして安国なし、ということだろう。もちろん、これに異論はない。

問題は破邪のあり方だ。

国民投票で過半数の人が「立正・安国」を熱願し、宗教に正邪があることを示せば、国中の謗法を排除(破邪)することが出来ます。

ここが疑問である。浅井先生は、国立戒壇は国民投票で過半数を獲得すれば建つ、と言うわけだ。これは現憲法を踏まえての現実的な思考による結論なのだろう。では、信教の自由はどうするのか、それが問題だ。

つまり、過半数を獲得できる段階に至っても、少数の異教徒が残ることは否めない。いわゆる謗法払いの考え方からすると、国立戒壇建立の前には異教徒(=謗法)をすべて排除しなければいけない。しかし、現憲法においては不可能だ。

バーズ博士は、国民の過半数が宗教に正邪があることを示せば国中の謗法を排除できる、と言う。

しかし、上述のごとく、現憲法においては不可能なのだ。国立戒壇はギリギリ建つ、いや、もちろん、違憲だと主張する人もいるはずであるが、いわゆる強行採決で突破することができる。ところが御書に示されているように、身を随えることは出来ても心を随えることは出来ない。つまり、異教に執着する人は、たとえどんなことがあろうとも、異教に執着し続けるのだ。

破邪の難しさをよくよく知るべきだ。

御遺命守護の戦いにおいては、顕正会の言い分が正しい。当然、法華講員や創価学会員には異論があることだろうが、この点においては博士とわたくしに齟齬はない。あるいは浅井先生の新境地(?)であるところの反原発運動においても、わたくしは先生の主張に賛成である。実はこの二つの議論はひじょうに単純で、早い話が白か黒かの二者択一なのである。
ところが宗教の正邪となると、そうは問屋が卸さないのだ。たぶんそれぞれの教団にはそれぞれの言い分があることだろう。まさか自分のところは二番であるとか三番であるとか、そんな謙虚(?)な教団はないはずだ。どこもかしこも自分のところが一番だと言っているはずである。幸か不幸か現憲法ではそれを是認しているわけだ。
すると御遺命守護のように、あるいは反原発のように、そう簡単には答えが出ない。いわゆる宗教批判の原理があるけれども、はたしてこれがどこまで通用するか、わたくしには甚だ疑問である。たとえば五時八教だとか、そうした仏教圏における同じ土俵で勝負をすればいちおうの結論は出るのかもしれないが、現代の宗教はまさに多種多様であって単純には比較できないのだ。
ましてや現憲法において信教の自由が認められている以上、どれほど論破しようが相手が納得しない限りはどうにもならないのだ。

敗戦によってアメリカから与えられた現在の日本国憲法・・・

これは会長講演であるが、例の「主なき国」を論ずる段における浅井流の憲法論である。わたくしは以前、「主なき国」云々は今上天皇に対する冒涜であると書いたことがある。しかし、今日はそれを置くとして、上掲から敷衍して話を破邪の困難さにつなげたいと思う。

アメリカは新しい国である。歴史の浅い国だ。ゆえに皇室のようなものは存在しない。おそらくは今後どれほど歴史を重ねようが、皇室みたいなものは生まれないだろう。
それは歴史の必然というか、社会進化の必然なのだろう。本年も世界各地で民主化の大きなうねりがあった。それらは独裁政権に対する民衆の憤懣が原動力だった。思えば過去に世界各地の王朝が滅びていったのも同様の理由からだろう。
日本の皇室だけがどういうわけか永続してきた。その理由はさまざまあるだろうが、顕正会では本有の王法なるがゆえであるとしている。
しかし、アメリカ人には、天皇がナンボのもんや、という思いがある。歴史的伝統的にアメリカ人には馴染みがないのだ。

それが現憲法に反映されているわけなのだろう。

いちおう日本人はそれを受け入れてきた。わたくしの知る限り、改憲論議の中で天皇の規定が云々されることはほとんどない。浅井先生の口ぶりでは、天皇の規定に関しては明治憲法のほうが優れている、現憲法は後退である、と言っているように聞こえる。しかし、どうも今の日本人の平均的な意識からすると、この件に関しては明治憲法に逆戻りすることを求めているようには思えないのだ。

歴史の必然ないし社会進化の必然と書いたのは、まさにこれである。

ずばり言えば、人間は平等である、人の命は誰もが等しく尊いものなのだ、という考え方が一般である。アメリカ人のみならず、全世界の人たちが同様の考え方を持っている。日本人も例外ではないだろう。

すると、日本の皇室が徐々にではあっても、その存在理由を失っていくことは、必然なのかもしれないのだ。

話が長くなった。

これが破邪の話とどういう脈絡を持つか、まだ見えていない人がいるかもしれないが、ようは科学の進歩・発展によって神話が通用しなくなったということなのだ。ゆえに天皇の存在も、生物学的な意味では同じ人間ではないか、どこが違うんだ、という考え方にならざるを得ないわけである。

当然、宗教においても同様のことが言えるわけで、正邪を科学的にどのように判断するか、そこが問われるわけである。極端な話をすれば、科学者の中にはいわゆる無神論者がいるけれども、彼らにとっては宗教の正邪はナンセンス以外のナニモノでもない。なぜならば宗教そのものが無意味のものだからである。

また、信教の自由はいわば社会科学的な意味での進歩と考えられる。すると、この方向性からしても、破邪には困難が伴なうのだ。

では、六千万人もの人が本当に帰依するのか、ということですが、浅井先生が常々指導くださるように“広宣流布は大聖人様の御力で進む”のです。

破邪に紙数を取り過ぎたので、もう一つの問題は簡潔に書こう。

浅井先生のズルイところは、肝心なところで逃げを打っていることである。百五十万顕正会だとか仏弟子の大集団だとか言いながら、実数はその一割に満たない。すると誰もが、広宣流布なんて本当に出来るの? と疑問に思う。その答えが上掲なのだ。

大聖人の御力を云々するのは信仰者として当然のことだが、意地悪く言えば、逃げを打っているようにしか見えないのだ。

なぜならば、かつては一千万だとか一億の誓願を立てていたからだ。一億はスゴイ。これなら戒壇建立も確実だろう。
ところがご存知のごとく、近年ではそれが三百万に下方修正され、さらに最近ではその三百万すら言わなくなった。
このテイタラクで大聖人の御力を云々してもダメだろう。これでは逃げ道以外のナニモノでもないはずだ。

わたくしは思う。大聖人の御力を信じているのならば、百五十万の大集団などとウソを言っちゃいかん、ということだ。

日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。

この御金言ごとく、顕正会が真の仏弟子であるならば、いかに弱小であったとしても、大事を成ずることができるはずなのである。


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