2012/4/29

独善的思考の発生要因  
前回のコメント欄が凄いことになっている。その発端というか原因を作ったのは、さしずめ週刊ポストとなりそうだ。週刊誌の影響、恐るべし。

現在、宗教法人顕正会の代表役員は浅井城衛だという。

すでに拙ブログにおいても一月だったろうか、この話題を書いた。わたくしの着眼点はただ一つ、なぜ発表しないのか、である。もはや見え透いた言い訳は通用しない。今は情報公開の時代なのだ。会員に黙っていること自体が不誠実である。こんな初歩的なことに気が付かないとしたら、長期のワンマン体制によって完全に感覚が麻痺してしまったとしか言い様がないだろう。

 浅井会長は従来、「顕正会は『宗教法人』を取得しない」と、何度も繰り返し明言していた。邪宗教と同列に見られたくないし、宗教法人格などなくても活動に問題ない、と説明して来たのである。

これは『迷走する顕正会を斬る』からの引用である。著者は顕正会の法人格取得そのものを批判しているわけだが、わたくしはこの際、まあ、これはいいだろうと言っておく。なぜならば、この時は曲がりなりにも会員に対し、報告しているからだ。であれば、今回の役員人事も報告するのが筋であろう。瑣末な改変であればまだしも、代表役員ともなればこれほどの重要事項もなかろうはずなのだ。それを黙っていて言わないのは会員をバカにしているとしか言い様がない。

取り返しがつかない。

いわゆる諫暁書にはこの言葉が出てくる。ようするに、早く大聖人に帰依せよ、さもなくば取り返しのつかぬことになる、ということだ。

わたくしに言わせれば、代表役員のことのほうがよほど取り返しのつかぬことである。

週刊ポストを確認したわけではないが、どうやらそこには顕正会の代表者が浅井城衛であると書かれているようだ。しかもそれは宗教法人の登記簿に記されていることだという。つまり、誤報でもなんでもない、紛うことなき事実なのだ。

犯罪の場合、自首すると罪が軽くなる。上述のことは犯罪とまでは言えないのだろうけれども、いわゆる道義的な問題として相当に深刻である。会員をバカにしている。普通の感覚ならば、フザケンナヨ、ということになるだろう。つまり、週刊誌にスッパ抜かれてからでは遅いのだ。少なくともその前に会員に知らせるべきだった。たとえ事後報告であったとしても遥かにマシなのだ。しかし、今からではもう遅い。バレちゃってからスミマセンと言っても遅いのだ。

これは法華講員や創価学会員による顕正会攻撃の格好の材料となる。

本来ならば教義そのものを論ずるべきが筋である。そこでの真っ向勝負が正邪を決するのだ。しかし、現実にはなかなか決着が付かない。ゆえに、どうしても教義とは違った側面から攻撃し合うことにならざるを得ないのだ。いわば泥仕合である。

こうした時に、代表役員の一件は相当に有力である。何しろ顕正会員は知らないのだから、知らされていないのだから、ここは苦戦を強いられることになる。

何をやっておるものかと思う。本部首脳は会員を二重に苦しめているのだ。

まず、週刊誌を見て苦しむ。あれ、なんで城衛なんだ、昭衛の誤記ではないのか、と。しかし、この疑問に答えられる人は誰もいない。そもそも質問すること自体が怖くてできないことなのだ。
そこに法華講員などから攻撃を受ける。当然、答えられない。事前に週刊誌のことを知っていたとしても、どう答えていいかわからない。ましてや週刊誌のことを知らなければなおさらだ。

もちろん、現場の活動会員たちはそう簡単に怯まない、法華講員たちには弱みを見せない。たとえヤセガマンだったとしてもだ。

しかし、まさにヤセガマンなのであって、やはり内心では思うだろう、なぜ城衛なんだ、と。別に城衛がダメなのではない。ようするに、なぜ先生はそれを発表しなかったのか、ということなのだ。

まあ、いずれは説明せざるを得なくなる。これは間違いない。当然、うまい説明を考えるだろう。

しかし、しょせんは言い訳に過ぎない。どんな巧妙な言い訳をしたところで、全員を納得させることはできないだろう。

まさに取り返しがつかないのだ。

日本で解読したのは、タコが初めてでしょうね。

さて、今度はタコ氏だ。

ヨハネの黙示録を日本で最初に解読した人物・・・これは凄い。しかし、自称だ。いわゆる自画自賛なのだ。

わたくしは思う。拙ブログにコメントを下さるのは結構であるが、むしろ正統派と思しきキリスト教徒に戦いを挑むべきではないかと。そのほうが充実した議論ができるはずである。
以前、拙ブログに日蓮宗の人がやって来た。わたくしはいちおう日蓮正宗である。ゆえに日蓮宗対日蓮正宗の議論となった。これが自分ではいい思い出となっている。
結論的にはどちらが勝ったとか負けたとか、そういうことは言えないけれども、相手が退却したのでそれがいちおうの決着だった。
同様の意味で、わたくしはタコ氏と他のキリスト教徒との一騎打ちを見てみたいのだ。日本で最初に解読したとの自負があれば、他のキリスト教徒など物の数ではなかろう。逆にまた、もし正統派を自負するキリスト教徒がタコ氏の存在を知れば、当然ながら黙ってはいないだろう。

無責任なことを言うようだが、わたくしとしてはそれを観戦したほうが面白い。

いや、もちろん、タコ氏がコメントを下さることは今後も拒まない。その都度、わたくしなりの感想を書きたいと思う。

第一次大戦の始まりは1914年(終了は1918年)
第二次大戦の始まりは1939年(終了は1945年)
この間25年
チェルノブイリ原発事故1986年
福島原発事故2011年
この間も25年


これを解読したのはいつだろうか?

つまり、福島原発事故以前に解読していたとしたら、凄いことだと思うのだ。事故が起こってからでは遅いのだ。

さらに詳しく論じると、

第一次大戦→第二次大戦→チェルノブイリ→フクシマ

これらの間隔が、

二十五年・?年・二十五年

という点をどのように説明するかである。

つまり、四つの事象が見事に等間隔であれば驚く。しかし、二次大戦とチェルノブイリの間隔は二十五年ではない。さらに言えば、スリーマイルをどうするか、だ。

黙示録の記述に符合する点・符合しない点、この両者を厳正に見つめていかないと、しょせんはコジツケだと言われて、それで終わってしまうのが関の山である。今の段階では符合しない点がたくさんあるように思えて仕方がない。

福島事故以前に解読していたかどうか、換言すれば予言していたかどうか、ここが重要である。

もし一次・二次・チェルノブイリが等間隔であれば、なるほど次の二十五年に何かが起こるだろうことは、誰もが察するかもしれない。さすがにフクシマであることまではわからないにしても、多くの人が予感したかもしれない。しかし、それはあくまで最初の三つが等間隔であればのことだ。

以上、今回のタコ氏のコメントは、わたくしには単なるコジツケにしか見えなかった。

2012/4/27

五月病  
ひろ氏のコメントを拝見して、ありがたいと思った。無数の読者がいてこそ、頑張れるのだ。

北面の武士からのコメントは難解だ。ブルータス云々はわりとよく使われるフレーズだと思うが、小早川の人面腹獣云々はわたくしのような不勉強の人間にはさっぱりわからないことである。

なるほど、北面の武士が伝説化する理由がわかった。

あまりにもレベルが高すぎて、他の人たちが付いて行けないのだ。ようするに誰もレスポンスを返さない。だから話が終わってしまうのだ。

ちなみに前回の拙稿における貴様ら云々は、タコ氏への説明を目的としたものだった。信行氏も、のび太氏も、わたくしに対して敵愾心のようなものを懐いている。たぶん古くからの読者ならばよくわかっていることだろう。しかし、タコ氏のような新参の、とりわけ他宗教の人にとってはそこまでわからない。それを手っ取り早く説明するために、一種のドラマ仕立てにしてみたのだ。

それはともかく、現時点でわたくしに課せられた宿題と思しきものについて、整理しておこう。次の二点だ。

盂蘭盆

世の終わりの聖戦

教義上の問題として残っているのは盂蘭盆のことだ。たぶん他の問題は一通り片付いたというか、いちおう、わたくしなりの見解を示したつもりである。しかし、盂蘭盆が残ってしまった。都合の悪いことはオミットする、これも拙ブログの常套手段ではある。しかし、そうすると、やがては都合の悪いことばかりが山積みされてしまい、身動きが取れなくなってしまう。

そこで盂蘭盆についても何らかの見解を示さないといけないとは思っているわけだが、正直に書いておくと、現時点ではまったく用意がない。これが結論だ。

そしてもう一つの、世の終わりの聖戦、であるが、これは準備万端だ。しかし、正直に書くと、面倒臭い、これが本音である。

さて、そこで今日は顕正新聞の話題に入る。

う〜ん、これがまた面倒臭い。何をやるのも面倒だ。文章を書くことはそれなりに高度な作業なのだろう、ただ机に向かっているだけではどうにもならない、構想を練り、資料を揃え、書き始める、その一々が面倒臭いのだ。しかも出来上がってからの作業も疎かにできない。完全主義者のつもりはないが、さすがにおかしな文章は手直しせざるを得ない。だから余計に面倒なのだ。

原発廃絶特集号

顕正新聞第1237号は三月度総幹部会の特集であるが、一面の欄外に太字で上掲のごとく書かれている。一月度は原発全廃特集号だった。

全廃号と廃絶号の違いは何か?

自惚れを言うようであるが、おそらくは拙ブログの指摘を踏まえたのだろう。全廃号は仏法に関する記述が極端に少なかった。ゆえに翌月の会長講演では他の反原発運動との差別化を意識する発言をしている。そして今回の廃絶号は仏法に関する記述に相当の紙数を費やした上で原発問題に言及しているのだ。

顕正会の反原発運動は立派なものである。いちおう、このように敬意を表した上で、今回の会長講演に批判を加えておこう。

 時の貫首・細井日達は、前々から学会の財力と権力にへつらってきた人です。よってこの大悪事に唯唯諾諾として協力し、宗門の公式決定として「訓諭」を以て「正本堂は御遺命の戒壇である」と内外に宣言してしまった。

前にも同じことを指摘したが、これは間違いである。意図的に言っているのならば悪質であるし、意図せず言っているのならば先生もモウロクしたのだろう。上掲のカギカッコは、いわば浅井流の解釈であって、日達上人の御発言そのものではない。この特集号は一般の人にも広く配布するつもりなのだろう。であれば事情を知らない人たちに誤解を生じさせるような書き方をするべきではない。ここがいかにも浅ましいというか、イヤらしいところである。

さて、原発関連の記述についてであるが、こちらはまあいいだろう。強いて余計なことを書いておけば、小出裕章氏とアーニー・ガンダーセン氏の写真が粗い。たぶん週刊誌などから転載したからなのだろう。どうせならば顕正新聞の記者を派遣して、ちゃんとした写真を撮ればいいのにと思う。ガンダーセン氏も来日していたのだから、そのチャンスはあったはずだ。

デタラメ委員長

この辺は口の悪さで有名な広瀬隆氏のネタを借りてきたのだろうが、そこには安全委員長と保安院長の写真が並べて掲載されている。わたくしには先の小出・ガンダーセン両氏の写真と対照的に思える。というのは、小出氏らは善人、安全委員長らは悪人、に見えるのだ。

これはわたくしのヒガメというか先入観なのだろうか?

顕正新聞をお持ちでない人には恐縮だが、わたくしの推測では顕正新聞編集部のほうで恣意的に写真を選んでいる。たとえばデタラメ氏の写真など、目を固くつぶってうつむいているのだ。まさかこんな写真がいいショットだとは誰も思わないだろう。

これを取り上げたのには理由がある。

顕正会で取り扱っている日顕上人の写真がいかにも悪人に見えるのだ。これは悪意で選んでいるからだろう。上人の写真はたくさんある。登座の期間が長かったので、いろいろな場面のいろいろな表情の写真が存在する。すると写りのいいものもあれば、その逆もある。これは一流のモデルだったとしても同様だろう。通常、われわれが目にするのはいい写真ばかりなのだ。ひるがえって顕正会で取り扱っている日顕上人の写真はあまりいいとは思えない。ゆえにこれは悪意で選んでいる、わたくしにはそうとしか思えないのである。

批判はこんなところだろうか、最後に重要な部分を紹介しておく。

全基を廃炉し
 核燃料の厳重保管を


見出しの紹介に止めるが、これが今回の講演における、いわば世間に向けての重要な提言である。先日、小出裕章氏の講演会で顕正会の女子部員が質問した。その時に読み上げたのは、まさにこの部分だった。いずれは彼女の活動報告が顕正新聞に掲載されることだろう。

2012/4/25

積載オーバー  
最初にお断りしておこう。今日たぶん、ダラダラと長いだけで中身のない文章になると思われるので、忙しい人はお読みにならないほうがいいだろう。時間のムダになるからだ。そういうわけで、ヒマな人だけお付き合い願いたい。

先週はキリスト教批判に特化して書いた。しかし、慣れないことはするものではない。結果として、身心ともにボロボロの状態になってしまった。

けれども、それなりの達成感はあった。自分では有終の美を飾ることができたと、内心ではそんな思いもあった。

ところが、どっこいだ。

直後に痛烈な批判が寄せられた。

タコ氏は単身で、拙ブログに乗り込んできた。ゆえに他のコメント投稿者全員が敵に見えたかもしれない。わたくしの周りにはたくさんの護衛がいて、タコ氏の攻撃を防御してくれている。単純化すればそんな構図だろう。ところが突然、左右の護衛がタコ氏ではなく、わたくしに襲い掛かってきたのだ。わたくしはタコ氏に相対している。護衛たちもタコ氏のほうを向いている。そこで信じられない光景が起きた。左右の護衛がいきなりわたくしに向かってズブリと槍を突き刺したのだ。

き、貴様ら・・・

はい、カット。

実にコッケイだ。まるでお笑いコントの世界だ。これでタコ氏にも拙ブログの楽しさ(?)がよくわかっただろう。

異端

わたくしはタコ氏を異端だと思う。しかし、これはたぶん、氏にとっては不本意な表現だろう。異端者本人が自分で自分を異端者だとは言わない。相手が言うのだ。アイツは異端者だと。しかし、当の本人は自分こそが正統だと思っているし、主張もする。これは日蓮正宗を取り巻く状況においても同様であって、正宗が正統を主張するのは当然のことだが、破門された人たちもまた、それぞれが己の正統性ないし正当性を主張してやまないのである。

ここでわたくしが言いたいのは、そうした教義上の正統ないし正当のことではなく、その人のスタイルというか生き方のことだ。

異端児

単に異端ないし異端者と表現する場合、そこには批判の意味が強く感じられるけれども、異端児と表現する場合はやや意味合いが異なるように思う。じゃっかんホメ言葉のようなニュアンスも感じられるのだ。

まさにタコ氏は異端児である。

原発は直ちに全廃です。

氏のブログから拾ってきた言葉だ。これはわたくし個人の意見も同様であって異論はない。顕正会の方向性も同じだ。

そこで面白い話を一つ紹介しておこう。

小出裕章さんの反原発教室「優しく生きることと原子力」

先日、表題のごとくの講演会が行なわれた。ユーチューブにその一部始終が公開されているわけだが、それを視聴して驚いた。小出氏の講演が終わってから、質問の時間が取られた。そこで三人ほど会場の人が質問に立った。なんと、その一人が顕正会員だったのだ。顕正新聞掲載の会長講演を部分的に読み上げ、浅井会長はこのように申しておりますが小出さんはどう思われますか、というような質問だった。

これについての感想はいずれ機会があったら書こう。今は紹介するだけにしておく。興味のある人はご覧になられるとよい。ただし長い講演なので、場合によっては早送りして質問の部分だけ視聴するという手もありかもしれない。

伝説の人物が登場した。北面の武士だ。

タコ氏も思うだろう、日蓮系の層の厚さを。あるいは熱心さを。

北面の武士の来臨は初めてだと思うが、あるいはわたくしの記憶から抜け落ちているだけで、過去にもご来臨をたまわったことがあるかもしれない。この人物は半ば伝説化されている。というのは、各種の掲示板に出没するものの、あまり長くは居ないのだ。ひじょうに濃密な文章を書いて、そして去っていくのだ。そういうわけで拙ブログにも長居はしないだろう。タコ氏のレスポンスにもよるが、いつまでもダラダラと書き続けることはないはずだ。

さて、本論だ。いや、今日は何も論ずるつもりはないのだが、ともかくわたくしの脇腹に刺さった槍をご覧に入れよう。

 全く出鱈目なことである。差別即平等を云わんとするのだろうが、これでは即ではなくイコールとなる。書き方の間違いなどと遁辞を構えぬことよ。
 分かっておれば絶対に犯さぬ誤り、包丁の刃を握って柄で肉を切るようなものである。
 即の捌きが出来ないのは不相伝家の愚かさであろう。


痛たたたたたたたた・・・というのがわたくしの感想だ。

それにしても、包丁の刃を握って柄で肉を切る、とは凄い表現力だ。なかなかマネのできることではない。

何度も言いましたが、インドで仏教が衰亡していったのは何故ですか?
ヒンズー教やイスラムが仏教より優れていたからでしょうか?

お願いです。包丁は正しく使いましょう。(笑)


のび太氏の包丁云々は信行氏のものを踏まえてのことだろう。そりゃそうだ。包丁の使い方を間違えると大変なことになる。

即とイコールの関係がわかっていないと指摘されれば、それはその通りなので返す言葉はない。しかし、信行氏はいつも簡潔に書き過ぎる。ゆえに、こちらとしてはひじょうに困るのだ。どうせならば、もっと詳しく書いてくれればいいのにと思う。いちおう、今の段階で考えていることを書こうと思えば、それで一回分のブログが書けてしまう。わたくし自身はそれくらいの用意はあるのだ。しかし、相手の主張がよく見えていないので、そのままヤミクモに書いても仕方がないというか、ますます議論が複雑化するだけのことだろう。わざわざ面倒を増やすこともあるまい。

のび太氏の質問についても、いちおう回答の用意はある。たぶん一回では書き切れない、そのくらいの分量になるだろう。しかし、むしろこの場合は、のび太氏の意見を聞いてみたいという思いがある。たいてい質問者は自分なりの回答というか、あらかじめ自分の考えを持っていて、他人の意見を参考にしたいがために質問する、というような面があるのだと思う。もしくはイジワルで質問する。たぶん、のび太氏の場合、今回は前者なのだろう。だったら先に答えを教えていただきたいと思う。その上で回答するのもなかなかオツなものだ。

最後にもう一つ書いておこう。

本地久成の円仏は此の世界に在せり。此の土を捨てゝ何れの土を願ふべきや。

日蓮大聖人の御書である。この御文もキリスト教批判の上で有用だと思うが、実はこの続きの御文に不審な点があって、少し悩んでいた。

爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり。

生意気を言うようであるが、たぶん多くの人がわからない、何がどのように不審なのかわからない、と思う。

所現

実はこの御表現が腑に落ちなかったのだ。たぶん、こう書くと、巌虎はずいぶん深く研究しているようだ、と思う人がいるかもしれない。しかし、そうではない。わたくしは感覚的におかしいと感じているだけであって、難しいことはさっぱりわからないのだ。

いちおう、わたくしの感覚では所現ではなく所変、このほうが具合がいいと思う。

この場合、現実に原文がどのようになっているか、そこが重要である。しかし、御真蹟を拝する機会もないし、マレに拝見できても判読できない場合が多い。こういう場合は対校が有効な手段となる。

わたくしが使用しているのは平成新編である。まず、これが所現である。

そして全集、いわゆる創価学会版も所現だった。

ところがである。日蓮宗現代宗教研究所のサイトでは、所言となっているのだ。

う〜ん、これは悩ましい。テキスト入力者が所現を間違えた可能性もある。するとその定本がどうなっているか、確認したいところだ。もしそれが所言であれば、わたくしの感覚もあながち捨てたものではないだろう。ともかく所現ではおかしいと考える専門家がいることになるからだ。

今日は過積載だが、沖浦氏のコメントも忘れずに書いておかねばなるまい。

 この書き込み込は仏法から少し逸脱しているとおもいます。

以下は省略しよう。わたくしの思うに、沖浦氏の言っていることは仏法の話ではなく、いわゆる牧口価値論の話だ。不勉強ゆえにまったく論ずる用意はないが、たぶんそれはそれなりに価値のある理論なのだろう。けれども話はもっと単純で、ようは世間普通の義において、博識はよいことなのだ。ただ戒めるべきは衒学・・・これが結論である。価値論を引っ張り出す必然性はまったくない。

2012/4/21

キリスト教批判の方法論  
沖浦氏の持論は重々承知している。確かに立派なものだ。イヤミで言うのではなく、本当にそう思う。しかし、他の投稿者を挑発するような言動はいただけない。博識は博識として立派なことなのだ。それを無理矢理、修羅の勝他だの菩薩の勝他だのと区分するのはおかしなことで、それこそ修羅根性の発露そのものではないかと言いたくなるところだ。

さて、スペシャルウイーク最終日だ。

大日如来こそ私の説くイエスである。

これはフランシスコ・ザビエルの言葉なのだという。そして次はタコ氏がずいぶん前に貼り付けてくれた文章である。

阿弥陀仏は、キリスト教で言えば受肉(降誕)以前のキリスト、あるいは昇天以後のキリストに、一部似ているところがあります。

よくわからないが、前者と後者では意見が異なるようだ。すなわちザビエル説によれば、大日=イエス、そして後者は阿弥陀=イエスである。

まあ、しかし、細かいところをあげつらってもキリがないので、先に進もう。

それはともかく、仏教はこのように、いつの間にか「宇宙仏」、すなわち宇宙の真理そのものであるような"おかた"の存在を説くようになりました。

この仏は、永遠に存在し、滅びることのない、真理そのものである仏です。
これは名は「仏」でも、聖書の示す「神」(天の父なる神)に、かなり近づいたものと言えるでしょう。


つまり、大日如来=天の父なる神、ということだ。

今回、なぜこれを取り上げたかを説明しよう。日蓮大聖人の御書にはキリスト教批判が載っていない。だから面倒臭いのだ。キリスト教を相手にするのは骨が折れる。そこでわたくしは二つの方法を考えた。まずはその第一弾だ。わたくしは大聖人による大日如来批判がそのままキリスト教批判に相当すると考えた。

次に大日如来の説法と云はゞ、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委しく沙汰し問ふべし。一句一偈も大日の父母なし、説く所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来なり。

解説不要だろう。痛烈な批判だ。

有名無実の大日如来がそっくりそのままキリスト教の神に当てはまるのではないかと思うのだが、いかがだろうか?

わたくしはこれまでの人生でキリスト教徒とほとんど議論したことがない。ゆえにどのように答えるのか定かではないが、やはり神の存在を問われると彼らも困るのではないかと思う。そして今度は逆に、では法華経で説く仏はどうなのか、という反撃が想定されるわけだが、それは簡単な話だ。法華経で説く仏とは釈尊のことである。

悉達太子は人界より仏身を成ず

これがいわば基本中の基本なのだ。久遠実成の仏とは釈尊のことであり、釈尊は実在の人物である。大日如来とはぜんぜん違うのだ。ゆえに大聖人は前掲の御文の続きにおいて次のごとくおっしゃる。

然る間殊に法門せめやすかるべきなり。

「せめやすかるべき」に漢字を入れれば、「責め易かるべき」もしくは「攻め易かるべき」となる。大日如来なんてチョロイもんだ。こんなニュアンスだろう。キリスト教の神も推して知るべしである。

第二弾は大聖人による外道批判がそのままキリスト教批判に相当するのではないかと考えた。

外道仏を難じて云はく、汝は成劫の末、住劫の始めの愚人なり。我等が本師は先代の智者、二天三仙なり・・・

 外道と申すは仏前八百年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり。

遠きを尊び近きを蔑る・・・これも大聖人の言葉であるが、ともかく釈尊と言えば人類史のきわめて初期の人物、これがわれわれの一般的な認識かと思う。ところがどっこい、それよりも先行する連中が存在したわけだ。彼らは釈尊を住劫の始めの愚人だと言って罵った。

さて、これに対しては、どのような反論が有効だろうか?

この外道と申すは先仏の経々を見てよみそこなひて候ひしより事をこれり。

これが大聖人の答えである。

ここで考えたいのは、釈尊の時代には既存の宗教が存在していた、それを凌駕するためには何が必要か、である。これも簡単な話で、たとえば新しく自動車会社を作ったとしよう。この日本では考えられないことだ。なぜなら既存の自動車メーカーがあって、世界的にも優秀である。ゆえに、そこに新規参入することは物凄く困難なことなのだ。早い話、よほどいい車を作らないと商売にならない。つまり、釈尊の場合も同じことが言えるわけで、よほど優れた教えでなければ広まらない。逆に言えば、教えがひじょうに優れていた、既存の宗教を遥かに超えていた、だからこそ広まったわけなのだ。

ゆえに、大聖人の仰せになる、外道は先仏の経々を読み損なった、というのは教えの内容そのものを吟味した上での結論なのである。

もちろん教義そのものを論するのは大変な作業であるが、一例を挙げれば先の大日如来批判の続きに次のごとくある。

若し無始無終の由を云ひていみじき由を立て申さば、必ず大日如来に限らず、我等一切衆生螻蟻蚊虻に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり・・・

相当に難解な概念であるが、はたしてキリスト教がこれに対抗し得るか、興味深いところである。

タコ氏が拙ブログを訪れた当初、爬虫類がどうのこうのというコメントがあったわけだが、わたくしはその時に人間は爬虫類以下なのかそれとも以上なのかを問うた。氏は答えなかった。わたくしの質問の意味がわからなかったのだろうか、それともワナが仕掛けられているとでも思って警戒したのだろうか、ともかく答えはなかった。いちおう、わたくしの考えは上掲の御指南に基づくわけで、本質的には上も下もないというのが結論である。

2012/4/20

ゴールはまだか?  
コメント欄を拝見すると、つくづく博識だなあと思う。

また、バーズ博士においては、先般の貴ブログが面白かった。音楽に造詣が深い。ジャンルに偏りがない。これは顕正会の活動会員のイメージを覆すものだった。わたくしの思うに、活動会員は平均すると無趣味だからである。博士のような人がたくさんいればいいのだが、たぶん、わたくしの観察は間違っていないだろう。やはりどうしても、活動に熱心になればなるほど、他のことが疎かになることは否めない。

昔の曲はよかった、というのはウソで、よい曲だけが残っている。

これは沖浦氏の文章を書き直したものだが、なかなかの名言だと思う。しかし、この人は相変わらずだ。

 なごりり雪は、ショウーヤンですね。

おい、もっと落ち着いて書け、と怒鳴りつけたくなる。

何故キリスト教は広がらないか?

フランシスコ・ザビエルは「日本人はもうすでにキリスト教の教えを聞いているようだ」と手紙に書いています。
そして、大日如来こそ私の説くイエスである。
と説いて沢山の信者を獲得しました。
(ところが、キリシタン大名は火薬と引き替えに女性を海外に売り飛ばし、イエズス会は武士を中国侵略の手兵にしようと企みます。)
つまり、偽キリスト教が世界中を、そして日本を無茶苦茶にする事を予見していたのです。


タコ氏とザビエルでは意見が異なるようだ。アゲアシ取りに近いかもしれないが、大事なところなので指摘したい。

大日如来=イエス

ザビエルはこう言って信者を獲得した。

これはどう読んでも真言宗だった人たちを改宗させたことを意味するだろう。わたくしは同様の意味で、タコ氏に改宗の必要性を尋ねてきた。氏はこれに対して、改宗するに及ばない、今のままでいい、と答えてきた。

なぜ今のままでいいのか、それがわからない。

偽キリスト教

再掲であるが、図らずも重要なキーワードが出てきた。

タコ氏の言う偽キリスト教は、キリシタン大名だったりイエズス会だったりするのだろう。この際、これは別の話題としたい。

わたくしの思うに、仏教こそが偽キリスト教ではないのか、なぜならばキリスト教をパクッたからである。

先日、真言宗はドロボウだ、と書いた。

理同事勝

われわれの世界ではあまりにも有名な言葉だが、タコ氏のために説明すると、真言宗では次のごとく言っているのだ。法華経と大日経は理において同じである。だが、事においては大日経のほうが勝れている。よって、トータルでは法華宗よりも真言宗のほうが勝れているのだ。

ようするに大聖人はこれに猛反発したわけである。盗人猛々しいと。

前回の拙稿を読めば一目瞭然かと思うが、わたくしは仏教とキリスト教を比較して仏教が優れていると言っているわけだ。であれば、これほど盗人猛々しい話もあるまい。タコ氏は猛反発してしかるべきである。なぜなら仏教は偽キリスト教のはずだからだ。本来なら、真実のキリスト教に改宗すべきが筋だろう。ところがタコ氏は改宗しなくていいと言っている。

当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。

日蓮大聖人の言葉だ。

法華経そのものは大聖人の専売特許ではなく、他の宗派の人たちも読んでいた。しかし、大聖人はそれを認めない。そんなの法華経じゃないと。タコ氏の言葉を借りれば、まさに偽法華経なのだ。

慈無くして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり。

彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり。


章安大師の言葉だ。大聖人が何度も引用されていることからして、その重要度がわかる。

他の宗派の人たちが法華経を読んでもダメだと言ってしまう。大聖人の厳しさはかくのごとしであるが、その根拠となるのがまさに章安の言葉なのだ。

では、たとえば念仏宗の人たちは念仏を読んでいればよいのか、真言宗は大日経を読んでいればよいのか、もちろん、そんなわけがない。

天月を識らず、但池月を観ず。

天台大師の言葉であるが、これはやや柔らかい表現かと思う。つまり、念仏宗では阿弥陀如来、真言宗では大日如来、これらは天月ではなく池月なのだと。アナタたちの信じている仏は池に映っている仏であって、本物の仏ではありませんよ、というニュアンスだろうか。

大聖人の御表現の中には次のごとく、凄まじいものがある。

此の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。知んぬ、此の仏は涅槃経に出だす所の滅後の魔仏なり。之を信用すべからず。

魔仏とは凄まじい御表現である。

大聖人によれば、今現在、世界各地にいるだろう神や仏を自称する人たち・・・これらは魔の所変である。

もはや著作権だの特許権の話ではないのだ。ニセモノは人を不幸にする。とりわけ似て非なるもの、これこそが最悪である。世間一般の例で言えば偽札がわかり易い。オモチャのお札ならば罪はない。しかし、本物と見紛うような精巧なものは重大な犯罪である。

今日はこれで終わりにしたい。

2012/4/19

言語感覚の隔たりと思想の隔たりの関係性  
まさにタコ氏の登場は、袖振り合うも多生の縁、ということだろう。拙ブログは独白を看板に掲げている。それが自分の性格に合っているからで、実際、今は掲示板だとか他人のブログにコメントを入れることはほとんどない。ゆえに、もし誰からも相手にされなければ、まさに孤独の世界そのものなのだ。

かぐや姫

いつも前置きが長いので、今日はさっそく話を始めよう。さて、読者は上掲の文字列をどのように理解するだろうか?

年がバレそうだが、わたくしは真っ先に三人組のフォークグループを思い浮かべる。本来ならば竹取物語を想起すべきはずだが、読者の皆さんはいかがだろうか?

いきものがかり

これまた三人組のグループなのだが、こちらは今の若い人たちの間で絶大の人気を誇っている。それにしても凄まじい名前だ。

これらは五綱判の説明に応用できるのではないか・・・

また信行氏からご批判を頂戴することになるかもしれないが、簡単に言えば、かぐや姫がデビューする以前、より厳密に言えば、かぐや姫がヒット曲を連発する以前、かぐや姫はかぐや姫だったのだ。

わかり難いので、書き直そう。

かぐや姫(音楽グループ)が有名になる以前、かぐや姫は竹取物語のことだったのだ。いきものがかりも同様で、彼らが有名になる以前、いきものがかりは生き物係だった。

もっとも流行歌の世界であるから、このイメージがいつまで持続するかはわからない。百年後にはすっかり忘れ去られていると考えるのが妥当だろう。

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。

日出でぬれば星かくる。

音楽グループの出現によって、一つの言葉に対するイメージが塗り変わってしまった。これは上述のごとく、一時の現象だかもしれない。しかし、大聖人の仏法の場合はそれが万年の外未来までも続くのだ。

白状しておこう。今の話は副産物なのだ。本当は別の意図から音楽グループの話を持ち出したのだ。

同じ単語にもかかわらず、人によって捉え方が異なる。実はこのことをずっと考えていたのだ。本来、言語は伝達手段であるから、一つの単語は同じ意味を示しているはずなのだ。ところが現実にはまったく異なる場合がある。

これら、後の世を見越し、且つ、唐・新羅連合軍に白村江の戦いで大敗した為に実施された天智・天武による(四国山中?に隠したアークを守るための)「大秘密政策」の延長ですね。

何を言っているのか、さっぱりわからない。それはもちろん、わたくしの不勉強によるわけだが、ここでいちばん気になる言葉はアークだ。なんだ、それ? 実はもうこの時点でわたくしは思考停止になっている。わたくしにとって、アークは未知の言葉なのだ。強いて言えば、アーク溶接が思い浮かぶけれども、タコ氏が言っているのはそんなことではないだろう。どう考えたって、溶接のことを言っているわけがないのだ。つまり、氏はまったく違うことを言っている。ここまでは誰もがわかるはずだ。

ここで重要なことは、タコ氏はアークという単語を当たり前のごとく使っているけれども、一般の人には理解できない言葉だとは思わないのか、それともそれを承知であえて使っているのか、そこが問題である。これはずいぶん前に書いたことだが、わたくしの家にはエホバの証人がやって来る。そして彼らはいつも機関誌をプレゼントしてくれるのだ。最初の頃、せっかくだからと読んでみた。そこで気がついたことが上述のことなのだ。つまり、自分たちはわかっていて当たり前のように使っている言葉ないし表現が、一般の人にはまったく通用しないという現実である。わたくしの思うに、彼らはそこにどっぷりと浸かっているので、その現実にまったく気がついていないのだろう。もちろん、これは自分にも当てはまることなのだが・・・

見よ、大きな、赤い龍がいた。

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経た蛇は、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。

竜=悪魔の所業。


タコ氏のコメント群から適宜、引用させてもらった。

たぶん、タコ氏は気がついていないのだろう。実はこの部分、物凄く違和感があるのだ。あるいはキリスト教が広まらない理由もここにあるのかもしれない。

上掲はあたかも、竜=悪と読めてしまう。ここは竜が絶対的な悪なのかどうか、まずはタコ氏に確認すべきところだが、まどろっこしいのでどんどん書いてしまおう。

善と悪とは無始よりの左右の法なり。

これが結論だ。

わたくしは最初の頃、タコ氏に上下の概念について質問したことがある。その結論もほぼ上掲に尽きている。仏教の世界ではこれらの概念を物凄くフレキシブルに捉えているのだ。ゆえにキリスト教が竜を絶対的な悪と捉えているのならば、まったくお話にならない。

そもそもなぜに違和感を持ったか、それを言っておかねばならないだろう。竜は諸天善神の一類なのだ。諸天善神とは仏法を守護する働きを担っている存在であり、竜はそこに属しているのだ。しかも中国ではめでたい動物だとされているらしく、日本でも中国料理の店に行けば竜の画だとか置物などがあったりする。

ところが面白いことに大聖人の御書には次のような一節が存在する。

修羅と悪竜と合戦ひまなし。

ここでは竜に悪を冠している。つまり、竜はおおむね善の存在であるが、絶対的に善なのではなく、悪の要素も併せ持っているということだ。

より本質的に言えば、一個の生命には善悪の両方が内包されている。当たり前と言えば当たり前の話だが、それがキリスト教では一方に固定化されているように思える。だとすれば、まったくお話にならない。

仏教キリスト派の彼らは以下のヨハネの黙示録の解読に成功していた・・・

前回も引用させてもらったくだりだが、わたくしはその根拠を求めた。つまり、中国人を含めて、われわれ仏教徒は竜=悪という部分に違和感を持つはずなのだ。ゆえに、解読に成功した人たちがこれをどのように整理しているのか、その痕跡が文献に残っているのかどうか、そこが気になるところである。

具体的に言うと、竜を悪であると固定化して捉えるような、そういう文献があるのかどうか、そこが重要なポイントになると思うのだ。

シツコイようだが、最後にまとめを書いておこう。

わたくしはヨハネの黙示録を読んで、ナンダコリャ、ヘンなの、と思った。それは個人的な偏見ではなく、上述のごとく、広くは東洋人の竜に対する基本的認識とかけ離れているからだ。さらに深く見れば、それは善悪の根本的な捉え方の問題でもあるのだ。


四月二十日追記:一箇所、加筆した。

2012/4/18

鈍刀を振り回すブログ  
今現在の時間を書いておくと、七時四十二分だ。いや、別にこれにはさしたる意味はない。いつもブッツケ本番で書いているだけの話である。

2012/4/18 6:54
投稿者:信行

>巌虎は法門未熟だから
 巌虎殿より数多いコメントに感じるのは余裕綽綽の関取がワンパク相撲に足元を救われている様である。
 折伏でも相手の土俵に上がって失敗する者が少なくない。強い勝負師は決して人の土俵に上がらない鉄則がある。平地に強いものは平地で敵を叩きのめすものだ。海山に敵が逃げたら平地に引きずり出すのであって、自信過剰で追いかけるのは愚の骨頂と言える。
>五綱判の上から言えば、大聖人が出現した後においては他の宗教は広まらない、原理的にそのようになっているわけだ。
 そのような解釈は我が宗派には無い


先ほど、信行氏よりコメントをたまわった。貴重なアドバイスだ。

しかし、いろいろ心配をお掛けすることにはなるが、このまましばらく続けるつもりだ。

タコ氏にもわかるように書いておくと、拙ブログは副題に顕正会員云々と書いてある。日蓮宗と一口に言ってもいろいろあるが、我々が言う宗門は日蓮正宗のことだ。この日蓮正宗のここ半世紀ばかりの歴史を見ると、ひじょうに凄まじい。あの創価学会も元々は日蓮正宗だった。そしてわたくしが所属している顕正会もそうだ。それから正信会という組織もある。これらは今、すべて破門になっている。文字通り四分五裂の状態だ。

そこでネット上では、それぞれが正義の主張を展開しているわけで、それが延々と続いている。早い話が、自分たちが正しいのだ、オマエたちは間違っているのだ、そんなことをお互いに言い合っているわけだ。

わたくしのスタンスは必ずしも顕正会の正義を宣揚するものではなく、むしろ顕正会を批判しているくらいである。いちおう顕正会所属ではあるものの、現状は無所属に等しいだろう。そういうわけで顕正会を批判することに躊躇はない。たぶん、この辺が他の人たちとは違っているところで、そのためか拙ブログにコメントを下さる人たちは顕正会員ではなく、日蓮正宗の法華講員だったり創価学会員だったりと、ちょっと異色の構成になっているのだ。しかし、それにしてもキリスト教の人が来ることはひじょうにめずらしいことだ。

掲示板だのブログだのを見て回ると、いろいろ細かいルールが書いてあったりもする。これは都合の悪いコメントを排除する目的なのだろう。しかし、拙ブログは基本的にそうしたルールを設けていない。門戸開放だ。

相変わらず冗長で恐縮だが、話を戻そう。

今の日蓮正宗系統の人たちは同門同士の論争に明け暮れていて、結果的に他宗他門との論争が疎かになっている。ある意味、勉強するのも大変なので、同門を相手にしていたほうが楽なのかもしれない。もはや、こうなると、キリスト教などはまったくの守備範囲外であって、対応が困難になる。この点、正宗系の人たちは反省すべきだろう。

以上、偉そうなことを書いたが、このような理由から、わたくしは今回の一連の議論をひじょうに貴重であり、ありがたいことだと思っているのだ。たぶん、お話にならないくらいの拙さであり、見ていられない、という人たちも多いだろう。それでもいいのだ。自分の未熟さを自覚することが成長の第一歩だからである。

ところで五綱判のことだが、信行氏より言下に否定されてしまった。これはまた別の機会に考えたいと思う。

巌虎様にお願いですが、もしご質問があれば、回りくどい表現でなく、単刀直入、簡単明瞭でお願い致します。

これは困った。わたくしとしては単刀直入・簡単明瞭のつもりなのだが、どうやらそうでもないらしい。これは確かに反省すべき点もあるだろう。上にも書いたが冗長ということだ。しかし、説明不足よりはマシ、という意味もある。この辺のバランスが難しいところだ。

ここで話が終わればいいのだが、さらに書いてしまうところがわたくしの悪い癖である。

上掲の問題はタコ氏にも原因がある。というか、すでにお互いが自覚しつつあることなのだが、一口に言えば、話が噛み合っていない、それでワケがわからなくなっているのだと思う。正直に書くと、わたくしはタコ氏のコメントを読みはするものの、ほとんど理解していない。さらに正直に告白すると理解する努力すらしていないのだ。実はタコ氏も同じなのではないかと思う。先に書いた正宗系の人たちが他宗他門との論争を疎かにしているという話も、実は同じ意味があると思われるのだ。早い話が頭が固くなっている。思考停止と言ったらオーバーかもしれないが、今まで培ってきた自分の思考の範疇から抜け出せないのだ。

これまた偉そうに書いたが、ようするにわたくし自身がそうだという現実がここにある。今こうして綴っている文章そのものが思考停止状態の発現・・・さすがに自虐的過ぎるが、たぶんそれに近いものがあるだろう。

さて、本題に入ろう。

当ブログの少なくとも「預言」カテゴリーを全て読んで頂ければ…(^_^;)

これがダメなのだ。いや、もちろん、わたくしも読もうとしない時点ですでにダメなのだが、しかし、読めばわかるというのは議論を放棄するに等しいことである。どうやったら巌虎みたいなワカラズヤに理解させることができるか、それを工夫すべきなのだ。少なくとも概略だけでも述べるのが筋というものだ。

ただ、日蓮が空海、最澄、法然、親鸞を批判したという件は勉強になりました。

これはどうしたことか、ちょっと腑に落ちない。

日蓮大聖人が批判したのは、上掲の中では空海・法然である。最澄はいわゆる伝教大師であり、平たく言えば大聖人の先輩格に当たる人物だ。一般的な意味での批判の対象ではない。親鸞については、わたくしの知る限り大聖人の御書に出てこない。たぶん大聖人は親鸞の存在を認識していなかったのだろう。

いやいや、巌虎様の「トマスは何故抗議しないのか?」という発想に対して、「偏屈で独善的だ。」と申しただけで、日蓮聖人を誹謗するつもりはありませんよ。
なんか無理矢理そういう方向に持って行っているとタコは感じていますが (^_^;)
あえて、とぼけていらっしゃるのですか?


無理矢理というのはまったくの誤解だ。

ゆえに、もし大聖人を偏屈で独善的ではないとする場合、残された道は一つしかないとわたくしには思える。

この文章の意味をよく考えてほしい。

また、キリスト教に感化されて仏教が進化することを喜んだと思われます。
そもそも抗議する必要がありません。


だから、なぜなんだ、と問うているのだ。

仏教が進化することを喜んだ? なぜ喜んだのだ?

そもそも抗議する必要がない? それはなぜなのだ?

殉教したのが72年ですから、そんな暇は無かったでしょう。

順番が逆になったが、これはヒドイ話だ。ここはまさにわたくしの文章をまったく読んでいないことが証明された瞬間である。

もし大乗仏教がキリスト教の教義を盗み取って作られたものならば、トマスたちが直ちに抗議してしかるべきである。ズルイじゃないかと。じゃっかんの時差を考慮するとしても、トマスの弟子だとか孫弟子たちが抗議してしかるべきである。

わたくしはトマスの弟子ないし孫弟子まで想定して書いているのだ。そんな暇はなかったという見え透いた言い訳は通用しない。

ここでいちおう簡単に抗議云々のことで法門の上から書いておこう。あたかもわたくしがヘンなこだわりを持っているように誤解されても困るからだ。

五戒

これでわかれば話は早いのだが、もう少し説明がいるだろう。キリスト教の戒律がどういうものか知らないが、仏教における戒律は五戒が基本となる。この五戒の一つが次に掲げるものである。

不偸盗戒

これでおわかりだろう。わたくしは仏教の基本に則って論じているのだ。ゆえに、トマスが抗議しないのはなぜなのか、キリスト教では盗みを認めているのか、と問うているわけである。よって、そもそも抗議する必要がない、とする根拠がどこにあるのか、そこがぜひとも知りたいところである。

》2002年8月2日の『人民日報』……。

これは教会の遺跡が発掘されたのです。


なるほど、これは失礼しました。

しかし、減らぬ口のようだが、批判をしておこう。仏教の世界では付嘱を重んじる。相承もしくは相伝とも言う。あるいは法統相続も類義語の範疇かもしれない。言葉の意味は何となくでも察してもらえばいいだろう。

教会の遺跡が発掘された・・・

なんだ、途絶しちゃったのか、というのがイヤミながらも正直な感想である。これはなぜ広まらなかったかにも関連する話だ。

》1700年頃に記されたとされる中国の文献『神仙綱鑑』の中で、
》著者の道教の僧の徐道が1世紀の頃の中国の記録を紹介しています。

1700年には、その1世紀の資料は現存していたが、今は度重なる戦乱で消失した場合、このような表現になります。


おっしゃる意味はわかる。しかし、これでは積極的な意味での証明とはならないだろう。

開目抄

タコ氏もどこかのサイトでご覧になったらしいが、これは日蓮大聖人の御書の中でもひじょうに重要な位置を占めるものだ。この開目抄は現在、原本が存在しない。明治八年に身延山で火事があって、その時に焼失したのだそうである。原本がないとすると偽書の可能性もある。しかしながら、この開目抄を偽書であると疑う人はほとんどいない。なぜならば、多くの写本が存在するからだ。

さて、これをくだんの中国の文献に当てはめた場合、どうだろうか?

何故、キリスト教の教えを取り入れた大乗仏教僧たちは、キリストの名を隠し、あくまでも仏教徒の仮面を被り続けたのでしょう?
あくまでもタコの仮説ですが、仏教キリスト派の彼らは以下のヨハネの黙示録の解読に成功していたからだと考えられます。


ヨハネの黙示録の解読に成功?

これがまったくわからなかった。ヨハネの黙示録がさっぱりわからない。わたくしの能力では解読できない。しかるに過去には解読に成功した人たちがいるという。もし根拠があればご教示願いたい。

ともかくわたくしの現時点での率直な感想を書いておこう。

ひじょうにマニアックだ。

2012/4/17

切れ味の悪いブログ?  
今朝の沖浦氏のコメントは有意義である。しかし、だからと言って、信行氏のコメントが無意味になるわけではない。五綱判はきわめて重要な御法門であって、もちろん今現在も有効である。ただし、それを定型的に用いても相手には通用しない、時代に即した使い方があるのだと思う。

信行氏のコメントをわたくしなりに意訳するならば、、巌虎は法門未熟だから外道ごときにテコズッている、ということになるだろう。

確かに我々の世界では一刀両断という言葉が持て囃されている。大聖人の御事蹟を拝しても、まさに法論においては利剣で瓜を切るごとくだ。わたくしの場合、斬れない刀でギコギコやっている、もしくは刀を振り回してはいるものの相手に命中しない、そんな感じなのだろう。信行氏はそのハガユサを吐露しているわけだ。

沖浦氏は撰時抄の御文を引いている。たぶん世の終わりの聖戦の根拠となる部分を紹介下さったのだろう。これはタコ氏のコメントを待ってから書きたい。

さて、本題だ。

トマスは抗議したのか? しなかったのか?

この答えがどこにも書かれていないようだ。わたくしの思うに、わからない、これも一つの答えである。相も変わらず本の丸写しをするだけで、肝心なところが欠けている。

あるいは読者の中には、ずいぶん瑣末なことを問うているなあ、と思う人もいるかもしれない。しかし、そうではない。実はここがいちばん重要なのだ。

さて、答えやすい質問から。
》わたくしは今のままの信仰を続けていればよいのか、
》それともキリスト教の改宗すべきなのか、
》そこを単刀直入に回答願いたい。

今のままでよろしいと思います。


なぜ今のままでよいのか、それがわからない。

》つまり、
》これは間接的に大聖人を偏屈で独善的だと言っているわけなのだ。
》キリスト教の寛容の精神から見れば、》いかに大聖人が偏屈で独善的であるか、
》こう言いたいわけなのだろう。

いやいや、ご指摘の通り、日蓮聖人の事は詳しく知りませんので、大聖人が偏屈で独善的であるかないかは、タコにはわかりません。


これはおかしい。

タコ氏が大聖人のことを知らないのは当然だ。ゆえにわたくしは大聖人の文章を紹介しつつ説明しているのだ。

真言宗はドロボウだ

前々回の拙稿である。この延長線上にトマスが抗議をしたか否かの問題がある。タコ氏が偏屈で独善的と書いたのはこれらを踏まえてのことなのだ。

ゆえに、もし大聖人を偏屈で独善的ではないとする場合、残された道は一つしかないとわたくしには思える。

つまり、トマスが抗議をしたとすれば、それは偏屈で独善的であるということなのだ。

話がややこしくて理解不能の人もいるかもしれないが、もう少し続けよう。大聖人が真言宗をドロボウだと言っても、それは偏屈で独善的とはならない。なぜならば大聖人はキリスト教ではないからだ。しかし、トマスはキリスト教である。ゆえにキリスト教の精神に鑑みるならば、他宗に対して抗議することはあり得ない。もし抗議したのならば、キリスト教の精神に反することだ。すなわち偏屈で独善的となる。

わかり易い例を出そう。

毒舌を売りにしているタレントがいる。一方、真面目なタレントがいる。前者はバカだのアホだの、平気で言いまくっている。なぜならば、それが売りだからだ。ある意味、コンセンサスが取れているわけで、彼が言う分には許されるのだろう。もしもである。それを後者がマネをしたらどうなるか、そこが問題である。たぶん総バッシングを受けることになるだろう。

ひじょうに面倒な話になっているが、タコ氏のコメントを解釈すると上述のごとくなるのではないかと思う。わたくしに対し、改宗の必要はない、今のままでよい、と言われるのもキリスト教の精神なのだろう。

ここで話が元に戻るのだ。

トマスが抗議したか否か、これが重要な意味を持つ理由は、まさにキリスト教の精神に由来するからである。ところがいかがだろうか、わたくしはここで繰り返しキリスト教の精神という言葉を使っているわけだが、いったいそれが何なのか、タコ氏は何も説明していないのだ。つまり、今の段階でわかっていることは、キリスト教は偏屈ではない、独善的ではない、ということだけなのだ。しかし、それはこの場でわたくしが論理的整合性の上から出した結論に過ぎないのであって、実際のところはわからない。本当かどうかは別問題なのだ。

キリスト教の精神とは何か、こういう大仰な問いには答えづらいだろうから、わたくしもあえて問おうとは思わない。ただ、タコ氏の一連の投稿を読むと、どうもキリスト教と仏教の共通性ばかりを追い求めているごとくで、しかもその上でキリスト教のほうが先であると言いたいごとくに感じられるので、だったらマネをした・パクッた仏教側に対し、抗議してしかるべき、とわたくしは言いたいわけなのだ。

しかし、どうやら堂々巡りのようなことを書いてしまっているようだ。

そこで少し具体論に入ろう。

1700年頃に記されたとされる中国の文献『神仙綱鑑』の中で、著者の道教の僧の徐道が1世紀の頃の中国の記録を紹介しています。

これはいかがなものかと思う。

一世紀は遥か大昔のことだ。千七百年頃とは十八世紀のことである。そして今は二十一世紀なのだ。この時間的な距離を考えれば、史料としてどこまで信用してよいものか、甚だ疑問であろう。

(また)紀元後すぐに中国に原始キリスト教が伝えられていた事は、2002年8月2日の『人民日報』でも報じられています。

さすがにこれは使えないだろう。人民日報に書かれていれば何でもかんでも真実になるのだろうか? そんなバカな話はあるまい。問題はいったい何を根拠に記事が書かれたかなのだ。何かしらの古文書・古記録を元に書いているのならば、それを紹介すべきだろう。しかし、前掲のごとく、十八世紀の史料を自慢げ(?)に出すくらいだから、あまり期待はできない。

最後に素朴な疑問を書いておく。

原始キリスト教なるものがそれほど早い時期に伝播していたのならば、仏教ではなくキリスト教こそが広く流布してしかるべきだった。ところが日本においてはまったく広まっていない。わたくしの思うに、今さら神道=キリスト教だの、仏教=キリスト教だの、そんな面倒臭いことを言っても仕方がないだろう、ということだ。

いわゆる五綱判の上から言えば、大聖人が出現した後においては他の宗教は広まらない、原理的にそのようになっているわけだ。

この法則は今のところ、辛うじて守られていると思われる。

さて、未来はいかに・・・

2012/4/16

アホウどもの宴  
まず最初に、タコ氏に敬意を表しておきたい。

氏の孤軍奮闘は立派なものである。我々の世界ではこれを、一人立つ精神、と呼んでいる。もちろん尊い振る舞いであり、尊敬に値することだ。

さて、本題だ。

もし大乗仏教がキリスト教の教義を盗み取って作られたものならば、トマスたちが直ちに抗議してしかるべきである。

前回の拙稿であるが、これについてタコ氏より回答を頂戴した。

これは、いけませんな。
偏屈で独善的な思想でしょう。

人々にとっての救いにそもそもパクリだ、著作権侵害だとか抗議するのが宗教者のあるべき姿なのでしょうか?

例えば、医者がその治療法は私が開発したから使ってはいけないなどと、抗議することがあったらどうしますか?
(もっとも最近のアメリカでは医療セットを著作権?登録して特許料をとるようにしているので、医療費がべらぼうに高騰しているようですが)


わたくしの率直な感想を申し上げると、次の二つに集約される。

苦し紛れ・・・これが第一印象だ。

そしてもう一つは、急所を突いてきたな、というものだ。

予想では、何かしら古文献を引いてくるのではないか、とわたくしは思っていた。ようするに、トマスが抗議をしたのかしないのか、それが第一のポイントである。タコ氏の書き振りだと、抗議しなかったことになるだろう。しかし、なぜ抗議しなかったと言えるのか、それが問題である。わたくしの思うに、タコ氏の考察はそこが甘い、ということになる。失礼を承知で言わせて貰えば、氏のやっていることは本の丸写しだから、本に書かれていないことを問われると答えに窮するのではないか、というふうに見えるのだ。

おそらくトマスの事蹟はわかっていないことが多いのだろう。時代が時代だから、記録そのものが少ないわけだし、後の伝承にしても信頼に足るものが少ないのだろうと思われる。そうすると、もしかしたら抗議をしたかもしれないし、その逆かもしれないのだ。ゆえに、その点の史実は不明、とするのが正解ではないかと思うが、どうだろうか?

これで苦し紛れの意味がわかっただろう。タコ氏の回答はタコ氏の私見か、もしくはタコ氏が懐いているキリスト教観を反映したものなのだろう。これ自体はただちによいとも悪いとも断定できないが、ともかく前提となるべきトマスの事蹟についてウヤムヤにしている点がよろしくないのである。

お手本を示そう。

日蓮粗聖教を見候にも、酒肉・五辛・淫事なんどの様に、不浄を分明に月日をさして禁めたる様に、月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり。

これは日蓮大聖人が信徒の質問に答えるくだりである。実はここだけでなく前後の文章もよく読むべきなのだが、今回の件に絡めて言うならば、ここがひじょうに重要である。つまり、大聖人はあらかじめ、経論には質問に対する回答が見当たらない、日本に流布している経文論文をほぼ読み尽くしたけれども月水を云々するものは存在しないと思われる、というふうに断っているわけだ。その上で信徒に対し懇切丁寧な指導をされている。

今回の一連の議論ではトマスがキーマンなのだ。トマスの伝道が仏教に多大の影響をもたらした。であれば、トマスの事蹟をさらに詳しく説明すべきだった。その上でわたくしに対し、偏屈で独善的な思想だと指摘するならばまだしもである、いきなりそのように言われて納得できる人はいないだろう。もし大聖人に手本を求めるならば、トマスの事蹟はよくわかっていない、このことを最初に断るべきだった。その上で、キリスト教の精神に鑑みるならば抗議はあり得ない、と述べるのが理想的だった。

さて、次が問題だ。

急所を突いてきたな・・・これが第二印象というか、もっとも重要な争点となるべきところなのだろうと思う。再掲しよう。

人々にとっての救いにそもそもパクリだ、著作権侵害だとか抗議するのが宗教者のあるべき姿なのでしょうか?

つまり、これは間接的に大聖人を偏屈で独善的だと言っているわけなのだ。キリスト教の寛容の精神から見れば、いかに大聖人が偏屈で独善的であるか、こう言いたいわけなのだろう。

わたくしの意見はすぐにでも書けるが、しかし、事はきわめて重要である。そこで確認をしておきたい。

タコの実家は禅宗の曹洞宗ですが、そこのお坊さんは、宗教というのは、その土地土地の風俗に合わせて、神様が様々な形で無学な人々にも判るように法を説いた、とおっしゃっていました。

法華経の教えそのものからいけば、悪人、女人なども含め底辺の民衆をも対象とする(実はキリスト教の)教えですから・・・

すでに神道の話の時に質問したことだが、ここで同様の質問をしたいと思う。タコ氏によれば、法華経=キリスト教、とのことだ。であれば、わたくしは今のままの信仰を続けていればよいのか、それともキリスト教の改宗すべきなのか、そこを単刀直入に回答願いたい。わたくしの意見はその後に書きたい。

日蓮の教えの中にある「世の終わりの聖戦」についてはどうお考えですか?

これもひじょうに回りくどいこと言わせて貰うが、はたして大聖人の教えのどこの部分を指して言っているのか、そこを明示されたいと思う。タコ氏は勉強家であり、本もたくさん読んでいるし、ネット上の情報にも敏感なようだ。しかし、すでに書いたけれども、単なる本の丸写しであれば、こちらとしては落胆せざるを得ない。大聖人の御書はネット上にもほぼ全編が出ているので、まずは原典を読むべきである。その上でタコ氏の見解が「世の終わりの聖戦」なのであれば、それはそれで大いに結構であろうと思う。

今日はこれで終わりにしよう。

2012/4/11

仏教はパクリ宗教か?  
早朝、近所のご婦人がよく掃除をしているのを見掛ける。たとえば、自分の家の前ならば話はわかる。あるいは少し範囲を拡げて、向こう三軒両隣くらいならばめずらしくないことだ。ところがそのご婦人はかなり遠いところまで掃除しているのだ。わたくしは不思議に思って、聞いてみたことがある。町内会の当番ですか、と。しかし、そうではないらしい。ハッキリとは教えてくれなかったが、どうやらどこかの宗教団体に属しているらしく、そこの教えというか修行の一環なのだろう、ということがわかってきた。

ああ、こういう人たちばかりならば、町はきれいになるだろう、と思った。

わたくしは散歩が好きだ。しかし、気まぐれなので、時間とかコースだとか、まったく決めていない。早朝、歩いていると、そちこちで目撃するシーンがある。いや、厳密にはそれほど多くない。けれども、おそらくは全国各地で同様の光景を見ることができるだろう。特に年輩のご婦人が多いように感じられるが、早朝、太陽に向かって礼拝合掌しているのだ。

これは先ほどの掃除の話とは違って、たぶん、特定の宗教団体がやっているわけではないだろう。委細に見れば、それぞれ礼拝の作法が違うのだ。神道系もいれば、仏教系もいる。あるいは宗教ではなく、慣習的にやっている場合もあるだろう。広義には自然崇拝の一種に括られるのだろうか?

前置きが長くなった。

タコ氏のコメントは膨大を極める。リンク先まですべてを把握するのは相当な労力を要する。例によって、ちゃんと読み切ったわけではないが、ともかく話を進めたいと思う。

そこで"西方の聖人"イエス・キリストのことを伝え聞いたとき、折衷思想を好むインド人が、"西方の仏"として取り入れたのでしょう。

タコ氏の書いた、というか貼り付けた、この文章が興味深かった。

日本人の意識からすると、インドそのものが西方に位置するので、阿弥陀仏がいるとされている西方浄土について、あまり深く考えることはないのではないかと思う。なるほど、インドからさらに西という発想は、言われてみれば当然のことなのだが、わたくしはまったく考えもしなかった。その意味で上掲はけっこう新鮮な驚きを覚えるところだ。

さりとて、まったくの無批判で首肯するというものではない。わたくしなりの疑問をぶつけてみよう。

実際、多くの学者が、阿弥陀仏信仰の成立にはキリスト教の影響が大であった、と考えています。
たとえば「アミダ」は「無量寿・無量光」を意味するサンスクリット語(アミターユース・アミターバー)から来ています。
これは、無限の生命・無限の光という意味です。

この語について、浄土真宗の僧侶をやめてキリスト教の牧師になった経歴をもつ道籏泰誠(みちはたたいせい)師は、これは聖書のヨハネの福音書にある次の言葉を、借用したものに違いない、と述べています。
「この方(キリスト)に命があった。この命は人の光であった」(ヨハネの福音書一・四)
この「いのち」と「光」が、「無量寿・無量光」に転化したのです。


これはいかがなものかと思う。

わたくしは前置きの部分で太陽信仰のことを書いた。これはキリスト教の専売特許ではないはずだ。古代人にとって、日光・月光は自然の尊い恵みだった。もちろん、現代においても同様のはずだが、いかんせん現代人は電気を自由自在に使いこなす知恵を持っているので、その有り難味が感じられなくなっている。しかし、今でもなお太陽に向かって礼拝合掌している人はいる。キリスト教は関係ないのだ。

この意味で、無量光がヨハネの福音書からの借用とはまったく言い切れない。無量寿も同様だ。

人間は必ず死ぬわけだが、昔から不老不死願望があった。これもキリスト教の専売特許ではなく、おそらくは世界中で自然発生的に同様の思想が起きたと考えていいだろう。宗教が人間の願望から生じたものだと解するならば、命だとか光というキーワードは極めて原初的であって、誰かのマネをせずとも同様ないし近似の思想が生まれるのは理の当然と言うべきことなのだ。

紀元一世紀と言えば、キリストの十二弟子の一人であったトマスが、インド方面に伝道し、インドにキリスト教の影響が及んでいった時代と、期を一にしています。

実際、インドの高名な宗教学者アーマンド・シャー博士は、キリストの使徒トマスの福音に対抗して、シャカを聖人から救い主に昇格させたのが大乗仏教である、と言っています。

インドの高名な宗教学者がどれほどのものか知らない。よって彼を批判することは出来ない。そこで矛先をトマスに向けてみよう。使徒トマスがインドに伝道した。大乗仏教はその影響下にあると。

では、問いたい。トマスはそれに抗議したのか、トマスが無理であればその弟子だとか孫弟子が抗議したのか、である。

このように、大乗仏教の大ビルシャナ仏(大日如来)等の「永遠の仏」の思想は、キリスト教やゾロアスター教をはじめとする他宗教との混合、あるいはそれらに対抗するものとして生まれたものであることは確実です。

大乗仏教は他宗教との混合か、もしくはそれらに対抗するために生まれたことが確実・・・

つまり、大乗仏教は他の宗教の教義を盗み取って頬かむりをしている、とんでもない宗教だと、こう言いたいわけなのだろう。わたくしの思うに、今言っても仕方がないことだ、言うのならばその時代の人が言わないといけない、ということになる。ゆえに、トマスが抗議したか否かを問うたのだ。

なぜならばを説明しよう。

摧邪輪

浄土決疑集

弾選択

日蓮大聖人が念仏宗を強く批判したことはつとに有名なことだ。日本における念仏宗の開祖は法然だが、時代的には大聖人よりも五十年ほど早い。つまり、大聖人の時代にはすでに念仏宗が定着しており、上下万民が篤く信仰していたのだ。

そこに大聖人は斬り込んでいった。

まあ、ここまでは一般の人もよく知っていることだろう。しかし、委細に見ると、ちょっと事情が違う。念仏宗批判は大聖人が最初ではなく、先達がいたのだ。

上掲の三書はそれぞれ明慧房・実胤大僧正・仏頂房隆真法橋が書いた念仏批判の書である。

一念三千

さて、今度は真言宗の話である。例の空海すなわち弘法大師の宗派だ。

一念三千を説明するのは困難だ。少なくともわたくしには出来ない話である。あえて言うならば、仏教上の極めて高度な概念、まあ、ぜんぜん説明になっていないけれども、とりあえずこれでご勘弁願いたい。

この一念三千は天台大師の己証と言われるものである。つまり、先の太陽信仰のように自然発生的に各所で起こり得ることではないのだ。

真言宗は天竺よりは之無し。開元の始めに善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等天台大師の己証の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、之を立て真言宗と号す。

ようするに真言宗はドロボウだと、大聖人はおっしゃっているわけだ。

これで材料が揃った。

もし大乗仏教がキリスト教の教義を盗み取って作られたものならば、トマスたちが直ちに抗議してしかるべきである。ズルイじゃないかと。じゃっかんの時差を考慮するとしても、トマスの弟子だとか孫弟子たちが抗議してしかるべきである。近現代の学者が何を言ったところで遅いのだ。不勉強のわたくしはまったく知らないけれども、たぶん諸説紛々のはずであって、タコ氏の支持する学説だけがすべてではないはずだ。そうした学者間の論争がどうであれ、わたくしの考えは今述べたごとくである。これはそう簡単に変わるものではない。


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