2012/5/30

第1241号の記事を中心に  
まずは沖浦氏のコメントから紹介しよう。

 『而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時よりのちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうてさどの国より弟子どもに内内申す法門あり、』
 (三沢抄)

 内々の法門は、開目抄、観心の本尊抄です。
 観心本尊抄は富木常忍へ、開目抄は四条金吾へ与えられておられます。

 当然、在家信者を通じて門下一同、一切衆生へのご遺言です。
 何故出家の弟子ではなく、在家門下に預けられたのか?

 大聖人は僧形ですが、教えは徹底した在家仏法だからです。

 更に、これらの御書は、命が何時断たれるか知れない、佐渡の地で、書ける間に著作なさいました。

 『さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし』
 (種種御振舞御書)

 本当は改めて弟子たちに内々に示したかったが、命がある間に書いておく。

 こうお述べです。
 
 私共は大聖人から戸田先生です。
 興師などが入る隙間がございません。


開目抄・本尊抄が在家信徒に託されたことは事実であるが、さりとて、それが徹底した在家仏法ということにはならない。佐渡以前の御書を調べると、富木殿や四条殿へ宛てた御書はそれほど多くない。その理由は簡単だ。ようするに大聖人から直接、御指南をたまわっていたからである。佐渡以降、御書の数が加速度的に増える。身延期の御書は膨大だ。その理由は遠隔地だからだろう。もし大聖人が身延に入らず鎌倉に居続ければ、おそらく御書の数は相当に少なかったはずである。

つまり、直接的に相対していれば、御書を送る必要性はない。その意味で出家の弟子たち、とりわけ側近の弟子への御書は少なくて当たり前なのだ。

沖浦氏は御義口伝をよく引用する。それは結構なことだが、しかし、ここに矛盾がある。

御義口伝は御書じゃない・・・と書くと、いろいろと問題が起こりそうだが、ご存知のごとく、これは大聖人の御説法を日興上人が筆記されたものである。当然ながら、もし日興上人がましまさなかったならば、御義口伝はない。

それにもかかわらず沖浦氏は、日興上人の入る余地はない、などと言うのだ。まったく支離滅裂もいいところだ。

さて、以下は顕正新聞第1241号の話題である。

撰時抄の大感動をみなで語り合うなか、大聖人様が撰時あそばされた順縁広布のときに生まれ合わせた大確信・・・

第八婦人部長の文章であるが、これは物凄い表現力だ。

それにしても一般人には理解不能であり、かつまた顕正会員であっても教学が未熟の人には理解できない文章だ。たぶん、こういうことなのだろう。撰時抄の御指南によれば今が順縁広布の時であると。
撰時というのは、時を撰ぶ、という意味である。
しかし、撰時抄そのものにはこの平成の世を撰ぶという意味は見出せない。これはまさに解釈論であって、顕正会では社会情勢だとか天変地異すなわち諸天の働きなどを見て、今こそが順縁広布の時であると主張しているわけである。

はたして顕正会の主張は正しいのだろうか?

これはけっこう厄介な議論だ。タコ氏からわたくしへの宿題であるところの、世の終わりの聖戦、ということにつながる重要な議論なのだ。

今回はシンプルに答えておこう。凡夫には絶対にわからない、それが未来である。ゆえに今が順縁広布の時であるかどうか、これは後世の人にしかわからない。五十年後だとか百年後に、顕正会は大法螺吹きだった、となるかもしれないし、もしかしたらその逆かもしれないのだ。わたくしの予想では前者だが、これとてしょせんは凡夫の不確かな予測に過ぎない。

ゆえに、ここでの最大の問題は浅井先生の立場だろう。いわゆる会長本仏論が問題なのだ。ようするに先生の言っていることは絶対であると会員たちが思っているとすれば、その根拠というか源泉がどこに存するかが問題になる。たぶん御書の解釈を議論しても埒が明かないので、そうすると最後は先生が言っているから絶対だと言い張ることになるだろう。では、なぜ先生の言っていることは絶対なのか、先生は仏様だからだ、と。

さすがにここまでハッキリ言う人はいないだろうが、さしあたって他には根拠が見当たらないので、結局はそれが会員たちの本音というか深層心理なのだろうと考えざるを得ないのだ。

繰り返しになるが、われわれには未来のことはわからない。ゆえにわかったようなことを言う人には用心しないといけない。

なお、この件で補足しておくと、広宣流布実現のために情熱を燃やすこと自体はよいことだ。

鬼神が帝釈に変ずるあまりの不思議さ有難さ・・・

雪山童子の故事を言っているのだろうが、ここでの文脈上の意味がよくわからなかった。

「沼津市民の会」で特集号の一節 朗読
 「断じて汚染させてなるものか」に大拍手が


今度は婦人部富士支区部長の記事だ。百名くらいの集会だったそうである。たぶん全国各地でこれくらいの規模の集まりが行なわれているのだろう。

何度も書いてきたが、繰り返そう。今は上掲のごとく拍手喝采を受けているが、いずれは軋轢が生じるのではないかと思う。ゆえに本部首脳のほうで今のうちに指針を示す必要がある。たとえば以前からある街頭折伏の禁止みたいな、そうしたガイドラインを示すべきなのだ。トラブルが起こってからでは遅い。

次は婦人部鎌倉支区総班長の記事だ。

 またこの大聖人様の御尊容が、御遺命違背を諫め続け顕正会が解散処分になるとも絶対に屈せず、さらに一国を相手にお命かけて戦われている浅井先生のお姿と重なり・・・

前述の会長本仏論を思わせる文章である。大聖人の尊容と先生の姿が重なると言ってしまっている。ただし、いちおう続きの文章も紹介しておこう。

先生こそ、大聖人様の御心をそのまま拝し実践なさっている仏弟子の中の仏弟子・・・

ここで仏弟子と言っている以上、会長本仏論はいちおう否定される。しかし、誤解を招き易い文章であることは免れないと思う。

「水のノーベル賞」の受賞かけ日本代表に
 被災農地の復旧に応用可能な技術


女子部班長だ。これはいい記事だった。将来が有望な高校生である。

「真空低温調理法」は優れもの

記事の内容もさることながら、副製造管理部長・管理栄養士という肩書きが凄い。

2012/5/26

全能感はいずこへ  
今日は顕正新聞第1241号に載る、女子部班長会における会長講演を取り上げる。

浅井先生が班長会に出席するのはめずらしい。これは直前の総幹部会で女子部の首脳人事を刷新したことから、いわば説明責任を果たす目的を兼ねているわけなのだろう。総合女子部長の交代はまさに大人事である。女子部員のみならず、男子部だって婦人部だって、なぜ交代が必要だったのか、その理由を知りたいはずである。裏事情は別にしても、ごくごく素朴な疑問として、なぜなのかを知りたいと思うのが人情のはずだ。

先生の説明は無難をきわめる。前総合女子部長を悪くは言わない。在任三年五ヶ月間の奮闘を労う意味のことを言っている。そして当然ながら新総合女子部長については、女子部の新しいリーダーとして相応しいことを、過去の実績を紹介することによって聴衆に印象づけている。

いちおう、これで活動会員全般に対する説明責任を果たしたことになる。ごく一部の疑り深い人たちを除けば、さして不審に感じるところは見当たらない。

私の悩みは区長の名前が覚えられないこと(大爆笑)であります。

受けネライというか、先生は聴衆から笑いを取るのがうまい。もっともこれは浅井先生に限ったことではなく、政治経済などの比較的にお堅い方面の評論家たちでも人気のある人は同じく笑いを取るのがうまい。ようするに聴衆を飽きさせない一つのテクニックなのだろう。歌手なんかでもそうだ。今は歌がうまいだけでは通用しない。いわゆるトークがうまいかどうかが物を言うのだ。

話を戻そう。

現在の女子部は、第二十二女子部まであって、区の数は百二十五区ある。これに男子部や婦人部も加えると、このクラスの幹部は三百名以上にも達するのだそうだ。だから名前が覚えられない。覚えようと努力したが途中で諦めたと。

こういう話を聞けば、ああ、顕正会はどんどん大きくなっているのだ、と誰もが思うことだろう。確かに昔に比べれば大きくなったことは間違いない。

ただ、ここでイヤミを書いておきたい。

先生が幹部を覚えられないのは、入れ替わりが激しいからではないのか、と。三百数十人を覚えるのは確かに大変だが、努力すればギリギリなんとかなる人数だと思う。特に浅井先生の場合、外部との交渉をほとんどせず、純粋に顕正会の中だけで生きているのだ。ゆえに覚える気があれば覚えられるはずなのだ。しかし、年がら年中、人事をいじくり回しているものだから、いわばトランプをかき回し続けているような状態なのだろう。これじゃ、覚えられなくて当然だ。

さて、今度は真面目な批判だ。

 指導とは指さし導くということ。

あっ、これはヤバイぞ。きっとアレを言うに違いない。

何を指さすのかといえば、御本尊様です。

案の定である。

たぶん、多くの読者はお忘れというか、ご存じないかもしれないが、わたくしはずいぶん昔、これを論じたことがあるのだ。余裕のある人は次のリンクをご覧になられたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/152.html

慈覚大師は日輪を射る夢を見たそうだが、大聖人はこれを痛烈に批判あそばしている。そんな夢が吉夢のわけがないと。太陽は仏様を意味する。つまり、慈覚の夢は仏様に弓を引くに等しい悪夢なのだ。

これと御本尊を指さすことが直ちにイコールとはならないにしても、表現としてはかなり危険だと思う。なぜならば世間一般の常識からしても、人を指さすのはあまりいいことではないからだ。

浅井先生が拙ブログを参考にしたかどうか、それは定かではないが、少なくともこれ以降は指導=指さし導く云々の発言を見なかった。しかし、ここに来て、復活してしまった。先生もモウロクしたのだろうか?

そもそもお笑いタレントの論法で言えば、指導とは指さし導くこと? おい、オマエ、そのまんまじゃないか、とのツッコミが入るところである。何のヒネリもない、ツマラナイ話ということだ。

太陽が異変、地球寒冷化か

これがまた問題なのである。

寒冷化か・・・

ここに「か」と入れてあるのが工夫なのかもしれないが、いずれにしても過去の発言との自語相違が気になるところだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1062.html

あと五年で北極海の氷が解けてなくなるほどの異常気象のテンポの速さには言葉を失い、

これは女子部幹部の発言である。先生の発言じゃないじゃないか、などと言ってはいけない。これは当然ながら会長講演をなぞったものだ。先生の発言はリンク先に載っているので確認されたい。

北極海の氷解を云々していたのは四年前だ。すると今はその大半が解けて、いよいよ来年あたりには完全に氷がなくなってしまうことになりそうだ。

さて、現実はどうだろうか?

わたくしには現地に行って確認するだけの余裕はないが、どうやら今も北極海には氷がたくさんあるらしい。すると、またしても浅井先生は予言を外してしまったことになりそうだ。

いや、違う。そんなレベルの話ではない。予言を外してしまった、などという生易しい話ではないのだ。

なぜならば今度は地球寒冷化を唱えているからである。

もはや終わっている。

わたくしの思うに、これは世法上の過誤である。ゆえに大した罪ではない。いちおうはそう思う。しかし、それで済む話ではない。何しろ会員たちは先生のご見識なるものを大絶賛して憚らないのだ。先生は世間の学者の説を借りて論じているわけだが、最終的には仏法の眼から論じている、さまざまの学説の中から一つの説を選び出すことは容易なことではない、それが可能なのは仏法の眼を持っているからだ・・・と、このように会員たちは理解しているわけだ。それがわずか数年でコロコロと変わっていく。まるで正反対のことを言っている。これではお話にならない。こんなテイタラクでは、もはや終わっているも同然である。

浅井昭衛顕正会会長へ公開詰問状及び公開対論申込み書

別件であるが、樋田氏のサイトから拾ってきた。すでに書面を送付したのかどうか、文面より察するにまだこれからのように思えるが、いずれにしても、こうしてネット上に公開している以上、本気なのだろう。百戦錬磨の樋田氏がこれを撤回するとは思えない。いよいよ顕正会も終わりが近づいてきたようだ。上述のごとく、すでに終わっているとも言えるわけだが、いよいよ事実においても終わりを迎えることになりそうである。

2012/5/25

ゲリラ戦術  
ユタ氏がたびたび来て下さるのは不思議なことだ。氏は正宗を去った。であれば、拙ブログなどには顔を出さないほうが無難だろう。なぜならば拙ブログは正宗関係者が多数閲覧しているからだ。まあ、しかし、逆に捉えれば、間接的ながら拙ブログがユタ氏と正宗を結び付けているとも言えるだろう。もし、そうであれば、わたくしも多少は功徳を積んでいることになるだろうか?

2012/5/24 15:10
投稿者:タコ

まぁ、細々とした事はほっといて、
総論として、なにひとつまともに、論理的に反論出来ないので、タコへの人格攻撃に論旨を切り替えたというところですね。
爆発( ̄▽ ̄)/

正に典型的な詐欺師の反応です。
さすが詐欺師集団の親玉、厳虎さん。

日蓮の著作を引用して見せても、現代読み下し文で書けないところが、ローマ・カトリックとまるで同じ。
日蓮を神様、または釈迦以上に、奉りあげなければ成り立たないない、邪教カルト詐欺師教団という事は、部外者から見れば一目瞭然です。
だからこそ、くだらない理論で聖書の預言を必死で否定しなければならないのですね。
よく判りますよ。

立成安国論と蒙古襲来は、何年の開きがあるんですかね。(プゲラ
鎌倉時代の難しい言葉で煙にまくしか能が無いのですね。
いや、脳が無いというのが適当でしょう。
悔しかったら現代読み下し文で書いて見ろよ。
詐欺師さん。


これからも、ねちねちと、タコのペースで書き込みさせていただきますよ。



とうとう詐欺師集団の親玉に祭り上げられてしまったが、さして痛痒を感じない。それでタコ氏の気が済むのであれば、大いに結構なことだ。

ただ気をつけていただきたいのは、道を誤るな、ということである。

わたくしの承知している範囲で言えば、沖浦氏はたいてい早朝にコメントを下さる。わりと規則正しい生活をしているのだろう。大沢氏の場合、早朝ないし深夜、あるいはお昼時分に下さることもある。この人は真面目な勤め人らしく、当然、勤務中はコメントしない。他の人たちは投稿頻度そのものが低いのでさして問題ない。そしてわたくし自身は数日に一回の投稿頻度だ。かつて毎日更新していたこともあるが、たとえどんなにヒマであっても、一日一回の更新にとどめていた。つまり、ネットに四六時中しがみ付いているわけではないのだ。

ネチネチと・・・

こういう表現が相手にどのような印象を与えるか、計算して書いているのかもしれないが、わたくし的にはいかがなものかと思う。こんな文章を衆目に晒して恥ずかしくないのかと言いたいのだ。

いずれにしても、こちらにはさしたる気負いはない。常連のコメント投稿者たちも同様であって、それぞれの生活を営みながら、それぞれの自由意志で投稿しているのだ。

ゆえにタコ氏一人が気張ったところで、どうなるものでもない。

ハタから見れば、この人はいったい何をしたいのだろう、こんなことに血道を上げてどうするのか、他にもっとすることがあるのではないか、というふうに見えるのではないかと思う。

悔しかったら・・・

これもハタから見れば、この人のほうがよっぽど悔しいのだろう、と思えてしまうことに気がつかないといけない。

あと、いろいろ質問のようなことが書かれているが、これはシツモンというよりはイチャモンみたいなものだろう。わたくしとしては回答するにヤブサカではないが、その前にもう少し自分で調べてみたらどうかと言っておきたい。安国論と蒙古襲来のことなど、ネットで調べればすぐにわかりそうなものだ。現代語訳も探せば見つかるだろう。

大沼さんになってから女子部の折伏成果が前年比でほとんど落ちてますので、それが彼女が副総合女子部長におさまっている原因だと思います!

セロリ氏のコメントだ。

なるほど、これが答えであれば単純明快だ。まさに成果主義そのものと言えるだろう。前総合女子部長は結果を出せなかったことになる。

しかし、この論理が婦人部や男子部にも適用されるのか、そこが気になるところである。言いたくないが、城衛などは隊長時代にそれほど結果を残していない。いわば親の七光りで今の地位にいるようなものだ。しかも先年、壮年部併合があった。これで単純には従来の成果と比較が出来なくなったので、それで誤魔化されている面も否めない。つまり、今の男子部だって、決して芳しくはないのだ。婦人部も然りだ。たぶん顕正会全体での伸び率そのものが、かなり苦しくなっているのではないかと思う。

具体的な数字については、またの機会にしたい。

2012/5/24

タコ氏再臨  
今朝方、タコ氏が久々に登場した。しかし、現時点では大したことを書いていない。わざわざ何をしに来たものか、そこが疑問だ。

ということで、タコ氏関係の話題はしばらく置くことにしよう。

転勤・・・

落下傘・・・



阿呆氏が三連続でコメントを下さった。しかし、いずれもよくわからない文章だった。そうした中で、三つ目の投稿は何となく理解できた。

ようするに、くだんの副総男子部長はいわゆる転勤族なのだろう。九州方面を転々としていたが、今回はどういうわけか新潟に転勤となった。それで顕正会のほうでも新潟担当の第十男子部長に任命した。わたくしが書いたごとく、原則的には地元の人が部長をすべきところ、まさに落下傘のごとく九州の人がいきなり新潟男子部のトップに任ぜられた。

ま、以前から新潟は生え抜きの隊長・部長ばかりだったから、みんな「落下傘」のいうことなんか聞かないだろう。

これが阿呆氏の結論だ。

転勤族だろうことは知っていた。書かなかったが、わりと最近だろうか、くだんの人物は九州の中で移動しているのだ。ゆえに転勤はしばらくないと睨んでいた。三年後とか五年後とか、そういうスパンではないかと思っていたのだ。ゆえに、顕正新聞を読む限り、どこにも転勤云々の記述が見当たらなかったので、前回のような書き方をしたわけである。

もし新潟への転勤が事実だとすれば、確かに阿呆氏の言っているとおりだろう。ようするに、生え抜きの幹部たちは言うことを聞かない、まあ、露骨ではないにせよ、そういう傾向に陥るだろうことは目に見えている。

理由を書こう。

わたくしの思うに、顕正会の活動に熱心な人は仕事が疎かになり、仕事に熱心な人は顕正会の活動が疎かになる。両立は難しい。実際、顕正新聞を読んでいると、職場でこれこれこのような実証を示すことが出来た、というような体験発表をする人は平均すると顕正会での役職が低い。逆に活動報告などで勇ましいことを書いている人たちは、仕事の上での実証を云々する頻度が低い。

そうした中で言えば、くだんの人物はかなり異例の存在のように思えるのだ。

もっとも彼がどのような職業に就いているのか、わたくしはまったく知らないので、もしかしたらトンチンカンなことを書いている可能性もなくはない。あるいは過去の顕正新聞を調べれば彼の職業が載っているかもしれないが、そこまで調べる元気はない。

いちおう結論を書こう。

顕正会の活動会員の多くは、何がしかの犠牲を払っている。熱心になればなるほど、それは何かの犠牲の上に成り立っているのだ。そのわかり易い例が仕事だろう。仕事を犠牲に活動している。そういう人は職場での出世を諦めている。たぶん、その人にとっては職場ではなく顕正会での栄達、これこそがすべてなのだ。

ところがくだんの人物はその両方を得ているのだ。これは妬み嫉みの対象となってもおかしくないだろう。今後の新潟男子部がどうなるか、注目したいと思う。

演説力

もう少し続けよう。ここに演説力と書いたのは、大幹部に必要な能力の一つが演説力である。もしかしたらこれが最も重要かもしれないと思う。

現場で折伏・指導を実践している人たちに必要なのは対話力だろう。しかし、大幹部ともなると、大勢の前でしゃべる技術が必要になってくる。これをわたくしは演説力と書いた。
折伏の名手がいる。一人でたくさんの人を入信に導いている。通算すれば百名を超える。顕正会にはそんなツワモノがたくさんいる。しかし、こういう人は案外に出世しない場合が多い。なぜかいつまでも班長だったりするのだ。

つまり、一対一の折伏と、大勢の前で演説することは、別次元のことなのだ。そういうわけで、最終的には演説力のある人、そういう資質を持った人が大幹部になるのだ。

今回、新たに副総男子部長に任命された人は、その点に優れているのかもしれない。これは集会の場で力を発揮することなので、顕正新聞を読んでいるだけでは確認しようがない。もし確認したいのであれば、自らが集会に参加して自分の肌で雰囲気を感じ取るしかないだろう。新総合女子部長の場合もしかりである。

フクイチ4号機の危機を世界が注目!!

前回、書き漏らしたというか、翌号の班長会の記事を読んでいて気がついたことがある。

わたくしの思うに、顕正会による反原発運動はけっこう注目されている。日本人すべてが注目しているわけではないが、原発関係者にはけっこう知られている。推進派も反対派もそれなりに注目しているのだと思う。

その理由は前にも書いたが、風化がキーワードだ。昨年は反原発のデモ行進が全国各地で巻き起こった。延べ人数は相当なものだろう。では、一年経って、どうなったか?

これは厳密なデータがあるわけではないので当てずっぽうを書くことになるが、やはりどうしても風化は免れないと思う。昨年は熱心にデモに参加していた人も、今年は面倒臭いから行かないとか、あるいは関心が薄れてデモがいつどこで行なわれるかも承知していないような人も多いに違いないのだ。

ところが顕正会は意気軒昂である。これは関心のある人にとっては驚異的なことなのだ。いったいコイツら(=顕正会)は何が目的でこれほど熱心に活動しているのだろうと。

そこで気がついた。

フクイチ四号機の危機を世界が注目→顕正会を世界が注目

顕正会の中ではこうした雰囲気のことを言っているのだ。ここに雰囲気と書いたのは具体的な文言を引用するのが困難だからだ。強いて挙げれば、会長講演の次のくだりだろうか?

日蓮大聖人に背く日本が受けた放射能禍が、世界の破局にもつながる・・・

この続きには、やがて全世界が気がつく、という意味が書かれている。

この構図はあながち間違っているわけではないだろう。顕正会の反原発運動が力を発揮しているとすれば、世界の人たちもそこに気がつくことは何ら不思議なことではない。

ただし、一つだけ短絡がある。

フクイチ四号機に世界が注目するのはあくまで技術的な意味なのだ。つまり、ここには推進派も反対派もなく、四号機崩壊の危機だけがある。反対派の人が、だから言わんこっちゃない、などと言っても仕方がないのだ。今は眼前の危機をどのように乗り越えるか、その方法論が必要なのである。

結局、顕正会はその答えを出していない。再稼働反対だとか全基廃炉は四号機の危機とは別次元のことである。

まさか諸天善神の力で放射能を除去できるとか、そんなことを主張するのだろうか?

2012/5/23

四号機問題に対する私見  
顕正新聞第1240号は四月度総幹部会特集だ。今回の会長講演も原発問題に相当の紙数を費やしている。大したものだ。これをいつまで続けるか、それが注目だ。

福島原発4号機の崩壊を世界が危惧

これはまさにそのとおりだ。燃料プールは文字通りのプールであって、核燃料が水に浸かっている状態で保管されている。もしプールの水がなくなると大変なことになるのだ。

一年前を思い出すがいい。当初は航空機で空から海水を入れようとした。あるいは消防車による放水もあった。その後、工事用のポンプ車がいちばん効率がいいことに気付いて、それが使われていた。たぶん今は循環式の冷却システムが作動しているのだと思う。

馬鹿馬鹿しい機械だ。四号機は停止中だった。つまり、稼動中だろうが停止中だろうが冷却し続けないといけない、そういう面倒臭い機械なのだ。

わたくしはまったくの素人なので、あくまで当てずっぽうを書くことになるが、たぶん四号機はそう簡単には崩壊しないだろう。まずは一安心だ。しかし、燃料を取り出さない限り、リスクは消えない。原子炉建屋が健全であれば、既設の天上クレーンを用いて簡単に取り出すことができる。ところが建屋は爆発でぶっ壊れてしまった。当然、クレーンも壊れてしまったし、プールの中にも瓦礫が降り積もっていると思われるので、まずはそれを除去しないと燃料が取り出せないのだ。つまり、燃料の取り出しに何年掛かるか、わからない。その間に大きな地震が来たら危ないかもしれない。

次は会長講演からの孫引きであるが、週刊朝日の記事である。アメリカのガンダーセン氏の言葉だ。

 「まさに『格納されていない炉心』です。今は水で冷やされていますが、プールにヒビが入るなどして水位が下がり冷却できなくなると、温度が上がって、燃料棒の鞘であるジルコニウム合金が発火するのです。こうなると、もはや水では消火できない。核燃料が大気中で燃えるという、人類の誰も経験したことがない、恐ろしい状況になるのであります」

手っ取り早く言えば、四号機が崩壊したらオシマイ、ということだ。

しかし、素人ながら、わたくしの描いているシナリオは上掲と異なる。たぶん一年前の状況が再現されるのだと思う。すなわち航空機で水を撒く、あるいは消防車で、もしくはポンプ車で、という状況である。

一年前はぶっ壊れたとは言え、辛うじて骨組みを残した四号機の、その中にあるプールに目掛けて放水していた。今度はグズグズに崩れ落ちて瓦礫と化した四号機全体に放水するのだ。

とにかく水を掛け続ける。それしかない。その膨大な水はすべて海に流れていく。回収する余裕はない。

それを永遠に続けるのだ。

通常の火事であれば鎮火すればそれで済む。放水を止めても再発火することはない。原発の場合はそれで済まないから厄介なのだ。

会長講演ないしガンダーセン氏の言っていることは最悪のシナリオなのだろう。そうなれば、たぶん東日本は壊滅、他の地域にしても深刻な放射能汚染に見舞われる。そして海外にも多大の迷惑を掛けることになる。一方、わたくしの言っていることは楽観的なのかもしれないが、しかし、現場で放水を続ける人たちは高線量の被曝を覚悟しなければいけない。いわば決死隊である。彼らが水を掛け続けてくれる限りはギリギリ大丈夫、まあ、しかし、汚染水の流失は不可避であり、そうすると放射能汚染の深刻さの意味では同じなのかもしれない。

以上、会長講演については終わりにしたい。

女子部 首脳人事刷新

今回の最大の目玉は総合女子部長の交代だろう。ご存知のごとく、初代の総合女子部長は事実上の引退である。健康上の理由と思われる。実際、その後は表舞台にまったく出ていない。では、今度の交代劇はどういう理由があるのだろうか?

ともかく前総合女子部長には副総合女子部長のポストが与えられた。穏当な人事だ。何しろ相当の幹部であっても消えてしまうことがあるからだ。

しかし、なぜ交代する必要があったのか、それがアイマイというか傍目にはよくわからないというのが正直な感想である。上述のごとく、消えてしまう幹部もいるのだ。そちらのほうがわかり易いと言えば、わかり易い。ああ、何かあったらしい、何かはわからないが、何か問題があったのは間違いない、ということだ。ところが今回の場合は、前職が副総合という形で残っている。しかも、彼女は理事なのだ。それがなぜに副総合に退いたのか、その理由がわからない。わたくしは何も今度の新総合女子部長に不満があるわけではない。そうではなくて、たとえば総合婦人部長にしても、あるいは男子部のそれにしても、そう簡単には交代しそうもない。だったら女子部も同じではないか、ということなのだ。

まあ、これは女子部のそれなりの地位にいる人でなければ、知り得ないことなのだろう。期待は薄いが、そうした人たちからのコメントを待つことにしたい。

副総男子部長第十男子部長に石田氏

これもじゃっかん不可解だ。

もし今も壮年部があれば、この人はさしずめ壮年部長であろう。それはいいのだ。問題は第十男子部長である。

第十男子部は新潟の組織なのだ。しかし、彼は九州の人ではなかったか、九州と新潟を掛け持ちするのは不自然ではないか、と思うのだ。原則を言えば、地元から選出すべきが筋であろう。

国内最大級の竜巻の猛威

これはいい記事だ。写真は朝日新聞社から提供を受けたものらしいが、これもなかなかいい写真だ。記事の締め括りも顕正会員的には好ましく感じるはずである。

原発関連に戻って、三つ紹介したい。

 「社員の子供が最近生まれたが、指が六本あり、こんど手術する」

女子部総班長の記事だ。上掲の奇形児の話は会津地方でのことらしい。

目の溶けた遺体写真が「東電福島レポート」に

男子部班長である。この人は東電の社員なのか、それとも関連企業の人なのか、そこが判然としなかったが、けっこう衝撃的な内容である。ただ、こうした内部資料を総幹部会で発表してしまって大丈夫なのだろうかと心配になる。

アウターライズ地震の発生確率が高いことを知りながら、軟弱な地盤に数本の支柱で支えるだけという、大きな余震に耐えられるはずもない「付け焼き刃」的な応急処置を施すに止どまり・・・

これは第六男子部の集会で、七十九隊長が発表したものであるが、わたくしには少し違和感がある。これは例の四号機問題を言っているわけだが、それにアウターライズ地震を持ち出したところが問題だ。浅井先生は原発全廃特集号で次のごとく言っている。

これはマグニチュード9クラスであるが、震源が遠いので震度は大したことはないが大津波が来るという。

おいおい、先生の指導をちゃんと読みなさい。

そうだ、思い出した。四月度総幹部会の会長講演では次のくだりが刺激的だ。

 そのとき腹を切っても遅い。絞首刑になっても取り返しはつかない。

これは野田首相ら政府首脳に対するメッセージである。ようするに四号機が崩壊したら取り返しがつかないと言っているわけだ。

それにしても相変わらず過激なことを言う人である。

2012/5/21

坊主丸儲け式経済原理の終焉  
わたくしは以前、正本堂解体は日顕上人の大英断、と書いた。しかし、これは創価学会員には不評で、何やら反論めいたコメントを頂戴したような記憶がある。

もし客観的に書くならば、日顕上人による正本堂解体は、よほどの信念と覚悟の上での行動、このように申し上げる以外にないだろう。なぜならば、日顕上人のあそばしたことは坊主丸儲け式経済原理に反することだからである。

正本堂の解体費用+奉安堂建設費用はベラボウな出費である。

通常、寺院というのは長く持たせるものだ。何百年の古刹などと言いながら、それが鉄筋コンクリートのビルだったら格好がつかない。いや、本当は時代に即して建て替えても一向に差し支えないのだが、実は古刹と称してオンボロのままでいることのほうが儲かるのだ。これが坊主丸儲け式の経済原理である。

つまり、日顕上人が金儲け主義を貫徹するつもりであれば、正本堂をそのまま使い続けるべきだった。それならば批判を浴びることもなかったし、余計な出費もせずに済んだのだ。ゆえに、よほどの信念・覚悟がなければ正本堂の解体などはあり得ない。これが客観的な見方だろうと思う。

原発再稼働問題もまた、坊主丸儲け主義的な臭いが感じられてならない。

今、再稼働を云々しているのは、これがいわば最後のワルアガキなのだろう。
なぜならば、このままボヤボヤしていれば、あっと言う間に夏を迎えてしまう。そして大した問題も起こらずに夏を終わることになる。なんだ、原発がなくても大丈夫じゃないか、というのが結論だ。
ゆえに、今の段階で再稼働しなければ、日本の原発はこのまま永遠に稼働せず、自ずと廃炉の道を辿らざるを得なくなるのだ。

わたくしは原発反対の立場だが、原発推進の人が存在しても一向に構わない。ただ、現在の推進派はその多くが惰性で動いているだけであって、信念・覚悟を持って推進している人はほとんど見当たらないのだ。

これはどういう意味か?

ようするに二世三世ばかりであって、一世がいないということだ。ここで言う二世云々は創価学会で使っている意味と同じである。彼ら二世三世は自ら進んで信仰を始めたわけではないので、そこが弱点とされている。これは創価学会員たちも認めていることだから間違いないだろう。
実は原発推進派の人たちも同様であって、彼らの多くはただ単に先輩たちが築き上げてきたレールに乗っかっているだけであって、自らがそのレールを敷いたわけではないのだ。たとえば、電力会社で原発関係の部署にいるとしよう。その人は別に原発がやりたくてそこにいるのではなく、会社の命令でそこに配属されただけなのだ。では、なぜにその会社に入ったか、それは単に給料がいいからに他ならない。
黎明期ないし草創期の人たちは給料云々ではなく、技術そのものに魅力を感じて、その道に入った。いわば新しいものを築くというフロンティア精神が行動原理としてあった。しかし、その後輩たちは単に収入を得る場として、その職場を選んだという場合が少なくないのだ。

学者の場合は少し違う。いわゆる御用学者と言えども、学問として何を志すか、それは自分の意志で選択したはずなのだ。しかし、わたくしの知る限り、推進派には魅力的な人物がいない。

その理由は再稼働の是非にある。

わたくしの思うに、再稼働すべしという学者はアホである。これは真の推進派ではない。本当の推進派ならば、既存の原発をすべて廃炉にし、新規の原発を作るべし、と主張すべきなのだ。もし、これを言っている人がいれば、わたくしは反対の立場ではあるけれども、その人は立派な人物だと思う。まさに信念の人・覚悟の人である。

ようするに既存の欠陥原発ないし老朽原発を動かそうと考えるのがどうかしているのだ。これはまさに坊主丸儲け式経済原理である。

すでに書いたように、今の技術者たちは二世三世なのだ。自分の力で築き上げたわけではない。先輩たちが築き上げたのだ。別の言い方をすると、そこに最初から金儲けの装置があるわけだ。その装置を動かせばお金が儲かる。だから動かしたくて仕方がないのだ。

こういう人たちは装置の動かし方は知っていてもその仕組みを理解していない。ぜんぜん知らないわけではないだろうけれども、一知半解の場合が少なくないのだ。何しろレールに乗っているだけなのだから、深く知る必要もないわけだ。

結果、福島で歴史的な大事故を起こしてしまった。

再稼働問題は電力不足とセットで論じられている。しかし、これはまったく筋違いの議論だ。たとえば飛行機でも船でも、天候不順で欠航になることがある。これはロケットでも同様だが、早い話が理論上百パーセントの安全が確保できなければゴーサインは出ない。欠航は結構だが停電は困るなどと言ってはいけない。まったく同じことなのだ。

今、日本列島は本州を中心として北海道・四国・九州が橋ないしトンネルですべてつながっている。それ以前の時代は、渡し舟だった。これは物凄く不安定で、それこそ天候不順が続けば、完全に交通が遮断されてしまう。しかし、それが当たり前の時代はそれでよかったのだ。電気も同じようなもので、昔はけっこう停電があった。しかし、それが当たり前の時代はそれでさしたる問題は生じなかったのだ。そう思えば今夏の電力不足もそれほど怖くない。

データを検討したわけではないが、基本的には電力は足りていると考えてよいだろう。

物凄く簡単な話である。実は原発が危険であることは推進者たちがいちばんよくわかっている。ゆえに何かトラブルがあるとすぐに止めてしまう。そりゃそうだ。おっかないからだ。当然、再稼働するにしても万全を期して運転に入る。だから原発は昔から稼働率が低いのだ。定期点検で止まる。何かトラブルがあれば止まる。止まってから再稼働までのスパンが長い。その最たるものが「もんじゅ」だ。こんな不安定な発電方法が主力たり得るわけがないし、電力会社もそれは百も承知のことなのだ。

つまり、もともと発電の主力は火力であり、それに水力を足せば、電力供給はほぼ足りる。電力会社も原発が当てにならないことを知っているので、火力・水力ですべてが賄えるように計算しているのだ。

ゆえに、もし推進派で信念を持っている人がいるのならば、ここは仕切り直しをするべきところだと思う。再稼働などとセコイことを言うのではなく、従来の原発を凌駕する新規の原発を開発すべきなのだ。それが技術者の矜持である。

経済問題を盾に再稼働を主張する人がいる。今のままでは日本経済が完全に疲弊してしまうと。これは確かに悩ましい。

安全が最優先、これが再稼働反対派の主張するところではあるが、わたくしの思うに、そう簡単には福島のような事故は起こらない、というのが現実的な思考であろう。安全が最優先とは言え、このまま原発が止まったままだと潰れてしまう会社も少なくないはずなのだ。ようするに地元にとっては死活問題なのだ。事故で福島のようになるのも困るが、今のままでも困る。これが最大のジレンマである。

ただこの答えもおそらくは坊主丸儲け式経済原理にあるのだろう。つまり、既存の金儲け装置に縋り付いていたい、それがいちばん楽だ、という安易な選択なのだ。

今まで原発の恩恵に与ることが出来た。しかし、それはあくまで運が良かっただけの話なのだ。そのように観念するしかない。

わたくしも含めて、時代の大きなウネリの中でどうやって生きるか、それが問われているのだと思う。

2012/5/18

通常営業再開  
気がつけば一ヶ月以上も経つ。ほとんど浦島状態だ。そろそろ顕正会問題に戻ろうと思っているのだが、はたして元通りに戻れるかどうか、甚だ疑問である。

あと、たまには信心とは全く関係の無い趣味100%の話題を取り入れるとか……。

確かにユタ氏のブログは面白かった。なるほど、顕正会問題に固執するのではなく、自分の書きたいことを書けばいいのだろう。氏はそれを実践していた。まあ、しかし、自分には自分の道がある。やはり顕正会問題を取り扱うブログ・・・それが自分の進むべき道だろう。

平会員

これは拙ブログでよく用いる表記である。ようするに顕正新聞の記事には必ず役職が記される。ところが役職がない人もいる。それをわたくしは平会員と呼んでいるわけだ。

ところが第1239号からだろうか、顕正新聞における平会員の取り扱いが少し変わったのだ。平会員の多くは男性女子部員ないし男性婦人部員である。わたくしの言い方が気に障ったのか、記事にはわざわざカッコ書きで(婦人部の紹介で入信・・・)とか(女子部の紹介で入信・・・)と書いてあるのだ。

まあ、これはただそれだけの話であって、これがどうということではない。

 次いで先生は、今後日本列島を襲う巨大地震が、数千年に一度という大規模な大地動乱となることを・・・

同号の男子部第四十二隊長の記事だ。こちらはけっこう問題かもしれない。

数千年に一度の巨大地震・・・

彼は三月度総幹部会の会長講演を言っているのだが、当該講演が載る第1237号すなわち原発廃絶特集号を読んでも数千年に一度云々の記述は見当たらない。たぶん、その答えは一年前の会長講演にある。

正嘉の大地震に次ぐ今回の大地震

昨年の三月度総幹部会では上掲のごとく言っているのだ。わたくしはこれを徹底的に破折したので、興味のある人は昨年の五月初旬の拙ブログを読み返すといいだろう。それはともかく、なぜに数千年に一度云々の記述がないのか? 早い話が浅井先生は己の自語相違に気付いて新聞掲載時に削除してしまったのだ。確認したわけではないが、たぶん、講演の音源を聴けば数千年に一度云々の発言があるはずで、四十二隊長はそれを忠実に再現しているわけである。頭隠して尻隠さずだ。

 振り返れば、昨年の九月五日号の特集号出来よりわずか半年で日本中に「原発反対」の機運が高まってきたことは・・・

第1238号に載る副総合婦人部長の記事であるが、拙ブログの熱烈な読者ならばわたくしが何を言いたいか、すでにおわかりだろうと思う。原発廃絶特集号の前に原発全廃特集号がある。なんとこの時に、顕正会ではとんでもないことを言っていたのだ。全廃特集号の配布によって、あっと言う間に反原発の気運が高まった・・・という意味のことである。わたくしはさすがにそれは言い過ぎだろうと思って、拙ブログにおいてその旨指摘した。たぶん、副総合婦人部長の記事は、いわばそのアンサーなのだろう。

わたくしの思うに、上掲の記事はまだ臭味が残っているものの、大筋において是認できる。現実的にはどれほどのウエイトを占めているのかわからないが、ともかく顕正会の活動が大なり小なり社会に影響を与えていることは事実だと思う。以前、小出氏の講演会のことに触れたが、わたくしはあの時の質問のやりとりを聞いて、なるほど小出氏も顕正会の活動に一分の理解を示しているように思えた。

広瀬氏が特集号を「これは凄い!」

これは第1237号に載る女子部総班長の活動報告だが、広瀬隆氏も顕正会の活動に肯定的のようだ。

わたくしは以前、顕正会の反原発運動は既存の運動家にとってはいい迷惑なのではないか、と書いた。しかし、反原発の代表的人物である二氏の対応を見る限り、今のところは歓迎しているように思える。たぶん既存の反原発運動家の間で、顕正会のことが話題になっているのではないか、その上で今のところは歓迎というか、ともかく今は原発廃絶のために大同団結すべしという結論に至っているのではないか、とわたくしには思えるのだ。

広瀬氏の講演を動画サイトで視聴したことがある。たくさんあるのでいつの講演か忘れてしまったが、大阪市長のことを云々するくだりがあった。いわく、オレはアイツ嫌いなんだけど、今はそんなことを言っている場合ではない、と。さながら呉越同舟と言ったところだろう。同様のことが顕正会にも当てはまるのではないかと思う。

もう一つ、風化という問題がある。

実は原発事故から一年が経過して、風化しつつあるという一面も否めないのだ。関係者すなわち原発避難民だとか農業・漁業などで痛手を受けている人などにとっては深刻な問題だが、それ以外の人たちは時間と共に忘れていく。本当は無関係の人はいないのだが、何しろ政府が収束宣言を出すくらいだから、多くの人がそれを鵜呑みにしてしまっても仕方がないのだ。ここに反原発運動家の悲哀がある。小出氏が無力を歎くのもムベナルカナなのだ。

ところが顕正会は違った。むしろ事故当初よりも今のほうが熱心なくらいである。なぜかはわからないが、これは凄いことだ。たぶん、広瀬氏も小出氏も、この点では驚嘆していることだろう。

唯一の問題は、顕正会の目的は広宣流布である。つまり、最終的には人々を顕正会に取り込むことが目的なのだ。ゆえに、必ずいつかは軋轢が生じることになる。

さて、それが今後どのような形で顕在化するか、わたくしは今から注目しておきたいと思う。

2012/5/15

腹が減ってはブログが書けぬ?  
コメント欄が静けさを取り戻したようだ。前回などは大沢氏や沖浦氏という、拙ブログにおける常連の人たちが、これまた相も変わらずのやりとりをしている。微笑ましいと書いたら失礼かもしれないが、いつもオチが決まっているので安心感がある。

さて、前回の拙稿はタコ氏の人物像にスポットを当てて書いた。これは見ようによっては人格攻撃のようにも受け取れる。ゆえにわたくし自身はあまり好ましいことではないと思いつつ書いた。

そこで今回はもう少し教義的に突っ込んで書いてみようと思う。

 去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘へたりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。

前々回のコメント欄で大沢氏もこれに関連する御書をいくつか引用されているが、日蓮大聖人の御予言が当たったことは一般的にもよく知られていることである。モンゴル帝国の勃興は世界史的にも特異の事象であり、そのモンゴルが日本を襲った、いわゆる蒙古襲来は日本史において必須の項目である。立正安国論には蒙古の名こそ挙げておられないが、他国侵逼難が起こることを断言あそばしている。ゆえに大聖人は蒙古から日本を襲うべき由の牒状が寄せられたことをもって、白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず、と仰せられるのだ。

何事も起こらなければいいのだが・・・

タコ氏の言っていることは当たり前のことである。そんなことを言うのならば、預言解読などやめてしまえ、とわたくしは書いた。

ここが仏と凡夫との差なのだ。聖人と申すは委細に三世を知る。三世とは過去現在未来のことだが、凡夫には過去も未来もわからない。辛うじて現在のことがわかるだけなのだ。それも仏から見ればひじょうに浅はかな見識でしかない。

蒙古襲来は当時の日本を震撼とさせる大事件だった。これを適中させた大聖人に文句を言える人は一人もいない。ところがそうでもないのだ。ああ言えばこう言う、これはいつの時代も変わらぬことなのだろう。日蓮房は予言が当たって威張っている、この危急存亡の時にケシカランではないか、というようなアンバイだ。なるほど、何事も起こらなければいいのだが・・・とのタコ氏の物言いがいかに無難であるか、よくわかるであろう。では、大聖人はどのように仰せられているか、次の御文をしかと拝したい。

蒙古の事、すでに近づきて候か。我が国の亡びん事は浅ましけれども、これだにも虚事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて万人無間地獄に堕つべし。

原文を適宜、読み易く直した。亡びなかったではないか、というのは別の話題である。ここで重要なことは、予言が外れたら人々は法華経を信用しなくなる、という点である。いかがだろうか、これでタコ氏の言っていることがどれほどデタラメか、より鮮明になったと思う。ここで氏のコメントを再掲しよう。

神様的には、「どうせ警告しても誰も聞きはしない」というわけです。

タコ氏の言う神様なるものと、日蓮大聖人と、比べること自体がナンセンスであるが、まさにご覧のごとくである。まるでヘソを曲げちゃったみたいな、子供が拗ねちゃったみたいな、そんな神様の姿が浮かんで来る。実に修行の足りない神様だ。

さて、今度は予言から少し離れるが、タコ氏の関心に近いと思われる事案を一つ紹介しよう。

 八幡大菩薩をば世間の智者・愚者、大体は阿弥陀仏の化身と申し候ぞ。・・・其れ実には釈迦仏にておはしまし候ぞ。

誕生日にこだわりを持っている人が多くいる。自分は有名人の誰々と一緒の誕生日だとか、そういう話題である。いや、もちろん、話のタネとしては面白いし、それをことさら批判するつもりはないのだが、わたくし個人は、それがどうしたの、別に自分の人生とは関係ないからどうでもいいよ、という考え方である。

単に誕生日が同じだけでは大した符合ではない。けれども、他にも符合する点がたくさんあるとしたら、凄いことだ。

仮に四月八日に生まれた人がいるとしよう。そんな人は世の中にたくさんいるから驚くに値しない。
では、四月八日に生まれて、亡くなった日が二月十五日という人がいるとしよう。どうだろう、この両方が一致する人となると、これは確率的にかなり下がるはずだ。
そして、さらに享年が同じ、たとえば八十歳で亡くなった人がいて、上述のごとく誕生日以下すべての条件が一致する人となると、これは大変にマレなことだろう。
驚くなかれ、さらにもう一つの条件がある。干支が同じという条件だ。

わたくしは小学生レベルの計算しか出来ないので具体的な数字はわからないが、この四条件をクリアすることは極めて低確率である。今まで有名人の誰々と誕生日が一緒などと喜んでいた人もこの条件を満たすことはほぼ不可能であろうと思う。

釈尊と八幡大菩薩はこの四条件をクリアしている。釈尊は甲寅の四月八日に生まれ、八十年後の二月十五日壬申に亡くなった。八幡大菩薩もまったく同じなのだそうだ。

さて、これが教義上、どのような意味を持つか、それが問題だ。しかし、さしあたって、ここでは論じない。
当時、八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身とする説が流行っていたことについて、大聖人は異議を唱えた。いわく、阿弥陀ではなく釈尊だろう、その根拠はかくのごとしである、と。
わたくしは八幡を阿弥陀の化身とする根拠がどのようなものか知らないが、大聖人の示されるように八幡と釈尊はくだんの四条件が一致する。ゆえに八幡=阿弥陀に何かしらの根拠があったとしても、八幡=釈尊を上回ることは難しいと思うのだ。

これでわたくしがタコ氏の預言解読に異議を唱える理由も明らかだろう。失礼ながら単なる数字遊びにしか映らないのだ。数字をこねくり回してあれこれ述べても説得力がない。一方、大聖人のおっしゃることはシンプルであり、誰が読んでも紛れがない。

「私が去った後、狂暴な狼が、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、私は知っている。
また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。
だから、目をさましていなさい。
そして、私が三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。」(使徒行伝20:29〜31)

“狂暴な狼が、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、私は知っている。”
とあるように、中世のキリスト教会=ローマ教皇を頂点とするカトリックは暴虐の限りを尽くしました。


これで最後にする。

凶暴な狼・・・

タコ氏によれば、凶暴な狼=カトリックとのことだ。なぜカトリックなのか、その根拠が気になるところである。なぜならば、カトリックの人たちはこれを認めないはずだからである。まさか自分で自分を凶暴な狼であると言うわけがないので、これは反対勢力による解釈ということになる。タコ氏はすでにカトリックとプロテスタントの論争を決着済みと言っているが、そんなはずはないだろうというのがわたくしの感想である。

この話は以前の竜の話に似ている。わたくしはタコ氏の解釈そのものに違和感を持つというよりも、聖書の記述そのものに違和感を拭えないのだ。

一方の仏典は単純明快だ。

智者は応に怨家・蛇火毒・因陀羅・霹靂・刀杖・諸の悪獣・虎・狼・師子等を畏るべからず。彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能はず。応に畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識なり。

よくわからない単語がたくさん出てくるものの、文意に紛れはない。

諸の悪獣・虎・狼・師子等・・・

おわかりいただけるだろう、ここでの狼に解釈の余地はない。狼は狼なのだ。これらは単純に人間に危害を加える動物たちを意味するわけで、そんなものは畏れるに足らず、という意味である。仏弟子にとって恐るべきは悪知識なのだ。悪知識とは弘法ないし法然、これが大聖人の御主張である。

以上、仏典と聖書の違いがよくわかる事例として、狼をキーワードとして取り上げた。聖書を重んずる人たちは凶暴な狼という表現にさまざまの思いを馳せるのかもしれないが、わたくしにはワケがわからんとしか言い様がない。文字通り、ご苦労様だ。

2012/5/11

タコ氏の人物像を中心に  
相手の欠点ばかりをあげつらうのはわたくしの趣味ではないが、しかし、これは本人のためにも必要なことだろうし、読者もそれなりに期待するところだろうと思うので、今日もタコ氏の話題を書く。

ここは公開の場である。誰もが閲覧可能であり、またコメントを寄せることもできる。ただ、当然ながら閲覧者全員がコメントを書くわけではなく、大雑把に言えば投稿者は閲覧者の一割未満だ。

なぜ投稿者が少ないかはさまざまの角度から説明が可能であるが、一つには責任が伴うということだろう。拙ブログの場合、今まで一度もコメントを削除したことがない。実はこれが投稿者にとっては物凄く負担なのだ。何しろ消せないのだから、ウッカリしたことを書けば取り返しがつかないのだ。その意味で拙ブログのコメント欄はひじょうに敷居が高い。それを承知で投稿している常連の人たちはよほどの自信家なのだろう。また、わたくしを信頼して下さっているという側面もあるのだろうと思う。一度も会ったことがないにもかかわらず、何となく信頼関係のようなものが生まれつつある。不思議なことだ。

そこにタコ氏が登場した。

既存の投稿者たちは氏に違和感を持った。当初はそこそこ理性的ないし紳士的なやりとりをしていたが、とうとう均衡が破れた。前回のコメント欄がまさにその姿である。

こういう場合、喧嘩両成敗であって、どちらが正しいとか間違っているとか、そういうことを論じても意味がないというか埒が明かない。ゆえにわたくしはどちらにも肩入れしないつもりだが、そもそもがわたくしとタコ氏との論争という意味からして、どうしても書いておきたいことがある。

他人のフンドシで相撲を取る・・・

大沢氏の言葉だが、先を越されたというのが正直な感想だ。わたくしもそれを言おうと思っていた。タコ氏のやっていることはまさに他人のフンドシで相撲を取る行為だ。本人にその自覚があるのかどうかアヤシイところだが、これは一般に悪い意味で使われていることを知るべきである。

ネットは便利だ。情報を簡単に得られる。しかもそれをそのままコピーして使えるのだ。

これはこれで大いに結構なことだ。しかし、拙ブログを見ればわかるように、引用は最小限である。自分の文章よりも引用文のほうが長いとすれば、それはもはや自分の文章ではなく、資料の紹介に過ぎない。ましてやリンクの紹介ともなれば、まったくの論外である。自分の言葉で伝えられなくてどうするのか、と思う。わたくしの経験から言えば、資料そのものはすっ飛ばして読む、リンク先は面倒臭そうならばすぐに閉じてしまう、もしくは開きもしない、ということが少なくないのだ。

タコ氏のブログを拝見していると、ほとんどが資料の貼り付けに終始している。なるほど、これでは誰も魅力を感じないだろう。自分の言葉で語るべきなのだ。

2012/5/7 17:39
投稿者:タコ

信行さま

一生懸命、ながながとコメント頂きましたか、
「はて、仏教は不殺生でなかったのでは」の一言で全て論破出来ますね。
もう少しお勉強してからいらっしゃい。


信行氏の肩を持つわけではないが、ひじょうにわかり易いので取り上げさせていただいた。何がわかり易いのか、それは次をご覧になられると一目瞭然のはずだ。

2012/5/7 18:43
投稿者:タコ

信行さん。

なめてますね。
ネットでこれぐらいの情報はすぐに拾えます。
(以下省略)

もし仮に、この二つのコメントの間に信行氏のコメントがあれば、いわば丁々発止のやりとりとなる。ところが事実は違うのだ。信行氏はこの日の早朝に一回投稿しただけなのである。

つまり、タコ氏は当初、もう少しお勉強してからいらっしゃい、などと言って軽く受け流すつもりだった。ところが腹の虫が治まらなかった。それどころか怒りが増幅していった。そうして一時間後には上掲のごとく、なめてますね、と書いているわけだ。

これほどわかり易い話もあるまい。もちろん、他人の心の内のことだ。本人が違うと言えばそれまでだが、ようするにハタから見ればそのように見えるのだ。たぶん、これはわたくしのヒガメではなく、誰もが同じような感想を持つことだろう。

最初のほうで、閲覧者に比して投稿者の少ない理由を述べたが、ここで別の理由が見えたと思う。ようするに投稿することは恥を晒すことなのだ。

泥仕合

タコ氏はヤブヘビという言葉を使っているが、わたくしの思うにこれ以降は泥仕合と呼ぶのが相応しいだろう。まさに喧嘩両成敗であって、どっちもどっち、というのが結論だ。

〉今年の十二月に何かが起こる・・・
〉というのがタコ氏の予言ないし預言ということらしい。

タコは預言者ではありません。
預言解読オタクであってくまでもタコの解釈です。
そして、マヤ暦の終わりに何かが起こるというのは、タコの専売特許ではありませんね。
もう、だいぶ前から広く言われている事です。
まぁ、何事もなければ良いのですが。


氏は預言者ではないと言っている。そして何事もなければ良いとも言っている。これもわかり易い話だ。

いわゆる予防線である。

これにはガッカリした。預言解読オタクというのはやや自虐的にも感じられるが、ともかく預言を解読したのだろう。であれば、予防線を張ってはいけない。そんなことでは預言の意味がないではないか。

わたくしの言いたいことは一つだ。凡夫には未来のことはわからない。絶対にわからない。

ゆえに正直な人であれば、わからないと答えるべきである。何事もなければ良い、そんなことは当たり前のことだ。しかし、そんな中途半端なことを言うのであれば、預言解読などやめてしまったほうがいいだろう。迷惑以外のナニモノでもない。

ちなみに、今日のニュースでマヤ暦のことが取り上げられている。何やら新しい学説が発表されたらしい。わたくしの思うに、他人のフンドシで相撲を取っていると、こういう時に困る。学説が塗り換わるたびに右往左往することになりかねないからだ。

〉それはあくまで最初の三つが等間隔であればのことだ。

さて、世界大戦の間隔が25年なら、原発事故の間隔も25年で何がおかしいのでしょう。
等間隔でなければならないというのは、人間の勝手な都合ですね。

例えば、ある地方で3月上旬にある方角から来る熱い(又は寒い)強風が吹いたら、その年の8月は干魃だという、言い伝えがあったと仮定しましょう。
厳虎さん流にいくと、昔はほぼ10年おきぐらいにあった現象だが、今回60年ぶりにやってきたから、等間隔でないので、干魃は起きない。

と言っているのと同じです。


ここで振り出しに戻ることになる。タコ氏はいったい何を解読したのだろうか、ということだ。

わたくしの知る範囲では、二十五年という数字が二つ並んだ以外には何も符合する点が見当たらない。つまり、上掲は単に三つが等間隔でなければならないというわたくしの主張を覆すためだけに紙数を費やしてはいるものの、タコ氏の解読そのものの蓋然性を補強するためにはあまり効果を発揮しているとは言えないのだ。

たぶん、読者の中には何を言っているのか理解できない人もいるかもしれないので、もう少し書いておこう。

一次大戦と二次大戦の間隔が二十五年、チェルノブイリとフクシマが二十五年。

タコ氏はこれに特別の意味を持たせている。では、仮に前者が二十年で、後者が三十年だったらどうするのか、とわたくしは言いたいのだ。等間隔でなければならないというのは人間の勝手な都合である、とタコ氏は言っている。ならば二十五年も同じことだろう。仮に数字がバラバラだったとしても、一向に構わないはずなのだ。

まさに振り出しである。タコ氏は何を解読したのか、わたくしには謎のままである。

核武装は必要だが原発は不必要

これまた謎だ。単に変わり者と言えばそれまでだが、しかし、いかがなものかと思う。わたくしも変わり者だが、ここまで極端ではない。反原発の人たちは、その大半が反核である。さすがにタコ氏の意見は受け入れられない。失礼ながらタコ氏が敬遠されるとしたら、こうした点にも原因があるのだろう。

変態市民活動家

これには落胆させられた。

以前、わたくしはタコ氏を異端であると評した。しかし、異端というのは他人の評価であって、本人は我こそが正統であると思っているのが普通のはずである。それがタコ氏の場合はまったく当てはまらない。

もはや結論が出たようなものだ。自分で変態と言っているようではオシマイだ。普通の人は思うだろう、この人と関わるのはよそう、と。

いろいろ書いたが、ともかく前回分のコメントは膨大を極める。よって、すべてに対応することは困難なので、いちおう今回はこれで終わりにしたい。

2012/5/5

タコ氏の非論理性を斬る  
表題の通りである。

わたくしはタコ氏と他のキリスト教徒との論争を期待した。ところがそれは起こり得ないらしい。タコ氏によれば、すでにカトリックとプロテスタントの間においては決着がついている、だから議論が起こらないのだそうである。

はたしてそうだろうか?

創価学会>日蓮正宗>顕正会>正信会

これには二つの意味がある。まずは人数の多寡をあらわしていること。それからもう一つは、これがそのままネット上にも反映されるということだ。

ここに日蓮宗を入れなかったのは、上掲はいわゆる富士門流の括りだからであるが、もし仮に入れるとしたら、日蓮正宗よりも上位に来るかもしれない。ただし、それは単に寺院数だとか檀家数の話であって、熱心な信徒の数ではない。日蓮宗の信徒はその大半がいわゆる墓檀家であって、本当の意味での信仰者は少ないのだ。

ネットは現実社会の縮図である。実際の信者数がネット上にも反映される。ゆえにキリスト教においても、熱心な人が多くいればそれがネットにも反映されるはずなのだ。

結論として、日本のキリスト教徒はその絶対数が少ない、もしくは仏教よりも形骸化が著しい、熱心な人がいない、だから議論が巻き起こらないのだ。

もう一つ、別の角度から書こう。

わたくしはタコ氏のブログを欠かさず拝見している。過去のものをすべて読み返すのは大変である。ゆえに、それらはほとんど読んでいない。そこで、せめて新しく更新された文章だけは読むよう、いちおうは心掛けているわけだ。

失礼を省みず言わせて貰えば、コメント投稿者がいない。これはある意味では立派なことであって、独白を看板に掲げているわたくしにとっては目標とすべき姿である。しかし、なぜ誰もコメントを投稿しないのか、そこが気になるところである。

二つの可能性を考えた。

タコ氏はキリスト教の世界ではそれなりに有名な人なのだそうだ。もちろん、これは自己申告であって、どこまでが本当かそれはわからない。まあ、しかし、いちおう信用すると、なるほど恐れ多くてコメントしづらいのかもしれない。タコ氏のレベルが高すぎるのでついていけないのかもしれない。これならば氏の言うごとく、すでに決着済み、ということになりそうだ。

しかし、もう一つの可能性も有力だ。

ぶっちゃけ、誰からも相手にされない、相手にして貰えない、なぜならば荒唐無稽だからである。

以上、大きく言えば、日本におけるキリスト教徒の絶対数が少ない、これが議論の起こらない理由の一つである。そしてタコ氏個人に由来する問題、これが議論の障壁となっている可能性もあるわけだ。

まぁ、キリスト教を拒んでいる(?)方にとっては、なおさら「ヨハネの黙示録」の預言を受け入れる事はできないのは当然ですね。
( ̄▽ ̄)/


次の問題に移ろう。上掲は半分正解・半分不正解である。

わたくしの頭が固くなっているのは事実だ。ゆえにハナッから受け入れまいとの意識が働いていることは否めない。だが、しかし、それだけでは片付かないのだ。

戦争と原発事故は違うという一言で済む問題だと思われますが、

ぜんぜん済まない話である。

繰り返しになるが、いちおう説明が必要だろう。第一次大戦と第二次大戦の間隔が二十五年なのだという。そしてチェルノブイリとフクシマの間隔も二十五年である。タコ氏はこれで黙示録の解読に成功したかのように錯覚している。ゆえにわたくしは疑問を呈した。

AB間が二十五年、CD間が二十五年、では、BC間はどうか?

この答えが上掲である。戦争と原発事故は別次元のことなので、二十五年でなくてもよいのだそうだ。

しかし、そうだろうか?

AB間が二十五年、BC間が?年、CD間が?年。この二つの?に数字を入れよという問題が出されたとして、誰が正解を書けるだろうか、誰もわからない、数学者であってもわからないことだ。

では、次の問題はどうか?

AB間が二十五年、BC間が二十五年、CD間が?年。この四つの地点はある一定の法則に貫かれている。では、CD間は何年だろうか?

これならば小学生でも答えることができるだろう。

タコ氏は、BC間を別の話と捉えている。いったい、なぜ、そんな自分勝手な解釈が可能なのか、わたくしにはまったく理解できない。この場合、少なくとも黙示録にその答えが出ていなくてはいけないだろう。しかるにタコ氏のコメント群にはその答えが見当たらない。

なるほど、こんな恣意的な解釈をしているようでは、誰からも相手にされなくて当然だろう。

そもそも二十五年という数字に何の意味があるのか、それが不明である。語弊を承知で言えば、たまたま数字が同じだったという可能性もあるわけで、もうそうなると、たったこれだけでタコ氏の論理は破綻する。氏の解読なるものがデタラメだったという結論にならざるを得ないのだ。

ここで面白い文章を紹介しておく。

あと二十五年で広宣流布できなければ、核戦争によって人類は絶滅する

顕正会会長・浅井昭衛の言葉だ。すでに三十年ほど経つ。つまり、二十五年後に人類は絶滅しなかったし、広宣流布もできていない、いわゆる浅井の予言が外れたという有名な話である。

ここでの二十五年には確たる根拠がない。単なる願望だったのだ。

タコ氏の場合はどうか?

実は逆の意味での願望なのだ。

たまたま二十五という数字が出た。この結果を逆に当てはめて、あたかも預言が的中したかのように錯覚しているだけなのだ。

これは、「ダニエル70週の預言」を勉強してくださいね(^O^)

まったくお話にならない。これは前にも書いたことだが、すでにわたくしの頭は相当に固くなっている。このワカラズヤにどうやって教えるかがタコ氏の仕事なのだ。○○を読めというのは完全な手抜きである。少なくともわたくしは可能な限り、こうして説明の努力を続けている。大聖人の御書を引用するにしても、簡潔を心掛けている。開目抄を読め、本尊抄を読め、こんなことは一度も言っていない。そうした御書の中から、理解し易いと思われる文章を選んで紹介しているのだ。

簡単過ぎたら全然面白く無いじゃないですか ( ̄▽ ̄)/

何を言っておるものかと思う。むしろ難解なものをどうやって平易に説明するか、それが求められているのだ。

ごく単純な話をしよう。朝になると日が昇る。日が昇るから朝なのだが、それはともかく、十二時間後には日が沈む。すると夜になる。また十二時間経つと朝になる。この繰り返しが行なわれている。見事な法則性だ。

しかし、十二時間というのは正確ではない。季節によって変動する。夏冬では日の出日の入りが大きく異なる。

つまり、法則性といえども単純明快なものから複雑なものまで、さまざまあるわけだ。

ちなみに、これは小学生レベルの話なのだ。わたくしが書いていることは小学生が理科で習うことなのだ。つまり、わたくしの知能レベルは小学生並みである。

ここで二つの可能性を書いておこう。

タコ氏の書いていることは複雑であり、小学生レベルには理解できない。これが一つ目だ。

二つ目の可能性を書こう。ズバリ、タコ氏の書いていることは小学生レベルの知識・知能でも充分に検証可能なくらい、お粗末なものである。

さて、どちらが本当だろうか?

神様的には、「どうせ警告しても誰も聞きはしない」というわけです。

何となく破綻が見えてきた気がする。タコ氏は上掲のごとく言いつつ、預言の解読を続けているのだ。

》事故が起こってからでは遅いのだ。

これはその通りかもしれませんが、さて、誰が耳を貸したんですか?
ここで厳しい事を言わせて頂きますが、厳虎さんも、どうせその一人でしょう?


順番が逆だが、タコ氏は次のようにも言っている。

》つまり、
》福島原発事故以前に解読していたとしたら、
》凄いことだと思うのだ。

これは無理ですね。封印が施されているのですから。


誰が耳を貸したか、こう書いている以上は事故が起こることを知っていたことになる。ところが一方では封印が施されているから無理だと言っている。支離滅裂もいいところだ。

タコ自身は核武装論者でしたが、20代の頃から原発は危ないと言ってました。
しかし、誰も耳を貸しませんでしたがね。


意味がわからない。核武装は必要だが原発は不必要、とも読めるし、核武装から反核に転向した、こうも読める。

誰も耳を貸さなかったという意味では前者なのだろう。前者はちょっと変わり者の気味が感じられなくもないからだ。

》厳虎さんも、どうせその一人でしょう?

と書きましたが、今は宗派を超えて脱原発を唱えなければいけないんじゃないんですか?


これもよくわからない話だ。いや、もちろん、言っている意味はわかる。しかし、いったい何の脈絡があって、このような話になるのかがわからない。少なくともわたくし自身はとうの昔に脱原発(反原発)を表明しているからだ。

仏教の歴史もそうですが、まずは歴史認識を正すとこから始めないと、聖書の預言もただのコジツケにしか見えないでしょう。

これは部分的な意味で正しい。しかし、わたくしがコジツケであると主張している理由は、この部分に限った話ではない。原発事故の深刻度の意味からすれば、スリーマイルを例に挙げたのは失策だったかもしれない。しかし、今回の拙稿でそれなりに詳しく述べたように、ABCDの四つの事象を前半後半に分ける必然性がどこにあるのか、二十五という数字にどれほどの意味があるのか、これらの合理的な説明がまったくなされていない。現時点では単に二十五という数字が二つ出たというだけの話に過ぎないのだ。

最後に書いておこう。

今年の十二月に何かが起こる・・・というのがタコ氏の予言ないし預言ということらしい。これはいちおう評価してよいと思う。結果を見て論ずるのは誰にでも可能だ。しかし、未来のことを予測するのは困難である。少なくとも顕正会の会長は失敗の連続だった。はたしてタコ氏はどうだろうか?


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